>
>
>

第2回 BL小説アワード

魔法使いの約束

エロなし

 しかしその時、僕の心臓は、一人だけばかみたいにうるさく鳴り続けていた。 その鼓動と、見つめられた目以外に、今日まで覚えていることなんて、一つもない。

レトラ
グッジョブ

 その頃幼稚園では「結婚ごっこ」という遊びがはやっていた。女の子たちがぞくぞくと「○○くんと結婚とっぴ」と言って、好きな男の子の結婚相手に立候補するのだ。今考えると、ませているというか、ただ無邪気だと言おうか。
 立候補は早い者勝ちだったけれど、宣言しかけたとたんに「だってゆうちゃんはキョウくんのほうが仲いいじゃん! マッくんはダメだよ!」みたいな牽制が働くこともしばしばだった。幼いながらに知恵をしぼらせ、あれやこれや「だいすきな○○くん」を「とっぴ」するために女の子たちが奮闘する向こうで、しかし男の子たちはひたすらヒーローごっこと陣取り合戦に夢中なのだった。男より女のほうが精神面の発達が早い、というのは経験則からして正しい。

「ナミくんは、だれとっぴするの?」
「ぼく?」
 七海(ななみ)というのが僕の名前で、「な」が重なるのが言いにくかったのか単に面倒くさかったのか、女の子たちは僕のことをナミくんと呼んでいた。
「ナミくん男の子じゃん。結婚とっぴできないよー!」
「男の子だったら、女の子とっぴすればいいんじゃない?」
「えー! ナミくんはみんなのものだよー!」
「……でもさ、ナミくんが誰とっぴするのか気になる」
「うんきになる。ねえナミくん、だれとっぴするの?」
 当時の僕は、どう控えめに表現しても「モテ」ていて、人生に三回訪れるとかいうモテ期の初回まっさかりだった。クラスの女の子の少なくとも三分の二は僕のことが好きで、中でも積極的な面々が常に僕の周りにハーレムを形成していた。
 年の近い姉や従姉妹がいたせいかその状況に疑問を抱かず日々を過ごしていた僕だが、今なら分かる。あの年ごろの女の子たちは、「かわいくて」「小さくて」「大人しい」ものなら、なんでもよいのだ。
 小柄で睫毛が長く声の小さかった僕は、シマリスや子猫と同じように彼女たちに愛された。あの結婚ごっこだって、初めは僕が雪崩のようにとっぴされたのだ。「ナミくんとっぴ」の禁止ルールができると、しかたなくみんなは「その次に好きな○○くん」に鞍替えしていった。
 だから、次の僕の発言は、ちょっとした嵐を巻き起こすこととなった。
「ぼく、虹(こう)くんとっぴする」

 それはいつも姉に「なんて言ったの? 聞こえない!」と言われるよりもさらに小さな声だったはずなのに、彼女たちの耳にはしっかり届いてしまったようだった。
「え、ナミくんだめだよ! コウくん、男の子じゃん!」
「男の子と男の子は結婚できないんだよー!」
「ナミくんやりなおしだよ! 女の子とっぴしてよー」
 当然予想できた反応か?……いや違った。
 なにを言われても、虹くん以外にとっぴしたい人なんていなかった僕は、想像以上の非難に黙って唇をかんでうつむいてしまった。
 だめ。
 男の子と男の子は結婚できない。
 ――やりなおし。

 女の子たちが僕を取り囲んでわあわあと騒ぎ立てる。その輪がクラスいっぱい広がってしまうと、ついにユカ先生が登場した。
 ……ちょうどほつれたスモックを直してもらっていた虹くんを、引き連れて。
「こらー! 七海くんいじめちゃダメでしょー!」
 僕が囲まれるのはいつものことなので、ユカ先生は笑いながら言った。
「いじめてないもん!」
「だってナミくん、コウくんとっぴするっていうんだよ!」
「ね、せんせい。男の子は男の子と結婚できないよね?」
 ユカ先生はほんの一瞬だけ、困ったような考えるようなそぶりを見せた。
「みんな、男の子は女の子としか結婚できないとおもう?」
 口々に高い声が響く。
「うん」
「ママ言ってたもん」
「ママとパパも女の子と男の子だもん」
「ちがうよー! 子どもじゃないよ、女のひとと男のひとだよー!」
「はいはい、わかったわかった」
 先生は女の子たちをドウドウと制した。
「じゃあ、みんな『結婚』ってなんだとおもう?」
 今度は小さな彼女たちも少し考え込む。
「けっこんしき、すること?」
「いっしょに住むことじゃない?」
「いっぱいケンカすることー」
「子どもがうまれる、こと?」
 ユカ先生はみんなと視線をあわせるようにしゃがみこむと、にっこり笑って一人一人の顔を見渡した。
「どれも、正解。でもね、大事なことが抜けてるよー」
 僕は、うつむいていた顔をそこで初めて上げた。

「結婚はね、その人が誰より一番大切だと、お互いに思っていること。『おたがい』っていうのが大事なんです。みんな『誰々くんとっぴー!』ってやってるけど、誰々くんの気持ち、聞いてみたことある? 嬉しいかな? 勝手にとっぴされてちょっと困っちゃうかな? 考えてみたことある?」
 女の子たちは静かになって、考えているようだった。
「誰かのこと大切だ、だいすきだって思う気持ちに、男の子も女の子も関係ないよね。今は、男の人と女の人でないと結婚できない決まりになってるんだけど、そういう気持ちをみんなが大事にしたら、いつか決まりも変わるかもしれないね」
 そこで、少し大きめの声が聞こえた。
「ユカせんせい」
 斜め後ろに立っていた、虹くんだった。

「はい虹くん。なんでしょう?」
「せんせいが言ったの、もし七海がオレのこととっぴしたかったら、オレの気持ちもだいじだよってこと?」
「すばらしい! そういうことです」
 ユカ先生は、両手で円を描きながら答えた。
「じゃあ、オレ」
 虹くんは、三歳上の格好いいお兄さんがいたせいか、誰より早く自分のことを「オレ」と呼んでいた。僕は密かにそれに憧れ、でも他の友達とは違ってその呼び方を真似することなんて出来なかった。
 虹くんは、僕に視線をうつし、目と目をしっかり合わせながら続ける。
 ……「好き」が「恋心」に変わる瞬間があったなら、それはきっとこの時だった。
「オレ、七海、いいよ。だって、七海好きだもん。それで、オレ大きくなったらまほうつかいになるんだ」

「魔法使い? どうして?」
 脈絡なく聞こえた虹くんの宣言に、ユカ先生は不思議そうに問いかけた。僕は雷に打たれたように固まっていた。
「みんながダメっておもってることでも、まほうかけたら大丈夫だもん。けっこんとかは難しいからよくわかんない。でもオレ、七海やみんなにまほうかけれるようなまほうつかいになって、ダメなこと大丈夫にかえるんだ」
 周りの女の子たちは、虹くんのその台詞を全くのファンタジーとしてとらえたようだった。今度は「人間はまほうつかいになれないんだよ」なんて口にする子もいた。「虹くん、意外とロマンチックなとこあるのねえ」とユカ先生も口にした。
 しかしその時、僕の心臓は、一人だけばかみたいにうるさく鳴り続けていた。
 その鼓動と、見つめられた目以外に、今日まで覚えていることなんて、一つもない。

 ※

 空港にいると外の時間など忘れてしまう。行き交う人々、華やかな免税店、ひっきりなしのアナウンス。
 それでも、夜のとばりのすっかり降りた空に虹が輝くことはない。かわりに僕は、手荷物のリュックサックからハードカバーを一冊取り出した。……この本がなければ、今この場にいることはなかっただろう。
 あの後、虹くんとは話をしなかった。
 日中は女の子に囲まれる僕に、男の子たちと園庭の隅から隅まで探検している虹くん。けれど、幼稚園からの帰りはいつも一緒だった。
 横断歩道の白線だけ踏んで渡ったり、歩道の縁石で平均台をしてみたり。たまには鳩を追いかけたり、オオバコ相撲をとったり、蟻の隊列を眺めて夕飯までの時間を過ごした。どれだけ二人でいても、飽きなかった。
 しかし、あの日は一緒に帰れなかったのだ。
 迎えにきた母に、「七海、お母さん先生と話があるからちょっと待ってて」と言われた。
「虹くんは?」
「虹くんのママに、今日は一緒に帰れませんって言ってあるから大丈夫。大切な話だから、待っててね」
「うん……」
 園庭の隅から持ってきた土を、砂場で泥団子にして遊ぶ。虹くんとだと時間を忘れるほど楽しいことが、一人だとほんの少しも楽しくなかった。
 そして、その晩に母から聞かされた話は、楽しくないどころの騒ぎではなかった。
「七海。今度うちはお引っ越しするの」
「おひっこし? おうちが変わるの?」
「そうよ。お母さんのほうのおばあちゃんと一緒のおうちに住みます」
「でもさ、おばあちゃんち、遠いよ? 幼稚園どうやっていくの?」
 家が変わるより、通い慣れた幼稚園が変わるほうが想像できなかった。
「新しいおうちから近い幼稚園に変わるのよ」
「え、虹くんは?」
「虹くんには、さようならしなきゃね。さみしくなるね」
「やだ。さよなら、しない!」

 いくら泣いたところで、子どもの我がままがどうにかなるわけなかった。僕は、先生たちと女の子たちに惜しまれながら幼稚園を去った。
 虹くんはその時何をしていたんだろう? 言われたんだろう?
 ……さよならなんてしなかったことだけは確実だ。後から新しい住所に、手紙が一通だけ届いたからだ。

 七海へ
 げんきですか。ぼくはげんきです。あたらしいよちえんはどうですか。たのしいですか。おれは七海がいないとたのしくないです。
 まほうつかいになるからまててください。大きくなったらまほうつかいになて、あいにいきます。
 またあそぼうね。
 虹より



 取り出した本は、真新しいのにすでに開き癖がつくほど手に馴染んでいる。
 こんなに長く家を離れるのは初めてだった。日本を出たことだって、今まで一度しかない。何を準備すればいいかわからず膨れ上がってしまった荷物を整理しながら、これだけは抜くことができなかった。
 自分と同じ、大学生の書いた小説だ。史上最年少で有名な賞を取り、注目されている。
 しかし、そうでなくても僕はいずれこの本に出会ったのではないかという気がする。変わらない年で、これほどの世界を表現している。未来へ羽ばたこうとしている。
 僕も、立ち上がらなければならないと思った。

 思えば、まだ長くもない人生だけれど、虹くんへの未練ばかり抱えて生きてきた。
 引っ越した後の僕は、新しい幼稚園など行きたくないとだだをこねて家で毎日を過ごした。父母も祖母も許してくれたがそのせいで友達ができずに、小学校では最初から馴染めなかった。
 相変わらず女の子には囲まれたような気もするが、誰も知っている人がいない……いや、「どこにも虹くんがいない」というさびしさと恐怖で、僕はしだいに人前で声が出せなくなった。
 ささやくようなか細い声で、最低限のことを先生に伝えることしかできない。その様子があまりに暗かったんだろう。周りは構うことをやめ、僕は孤立した。
 大学にあがる頃にはようやく事務的な用件でなら他人とも会話できるようになったが、僕には友達と呼べる人が一人もいなかった。僕の人生は、まともではなかった。

 そんな中で、支えてくれたものが二つだけあった。
 一つは、読書だ。本の世界の中では僕は自由だった。山ほどの友人に囲まれ、星ほど広がる世界を旅することができた。
 虹くんともよく本の話をしたなと思い出す。図鑑しか眺めたことがないという虹くんに、僕は物語の面白さを教えた。母に許可してもらって何冊か貸すうちに、虹くんも魅力に気づいてくれた。
 一緒にはまった小学生向けのシリーズ本があって、二人で順番に買ってもらったりもした。家にないほうはもちろん貸し合って読んだ。
 引っ越した後には「七海が読みたかったら、今度から毎回買ってあげるわよ?」と母に言われたが、僕は「いい」とそれを拒否した。偶数巻を虹くんに借りずに読む気がせずに、今も部屋には一冊飛ばしの単行本が並んでいる。

 もう一つは、あえて言うまでもないかもしれないが、虹くんそのものだった。
 思えば人生で唯一できた友達だったと言ってよい。一緒にいると楽しくて、憧れて……そして、好きな人。
 虹くんは、手紙の中で大きくなったら会いにくると言ってくれた。いつかその日がくるのなら、たとえ今日辛くても、明日も一人ぼっちでも、僕は耐えきれると思っていた。今度会ったら何を話そう。今はアルバムの中で幼く笑っている虹くん。いったい、どんな顔に、姿に成長したんだろうか。
 しかし、ある日僕は気づいてしまった。
 ……いまさら虹くんが会いに来る保証なんて、どこにもないことに。

 その事実に気がついたとき、驚くことに僕はもう大学生になっていた。実に十年以上も、子どもの無邪気な口約束に実効性があるだなんて思い込んでいたのだ。
 虹くんは当時から友達が多かった。僕がいなくなったところですぐに新しい友達ができて、僕のことなんて忘れてしまったかもしれない。
 仮に覚えてくれていたとして、僕なんて「幼稚園の頃の仲良しの一人」に過ぎず、また会いたいなんて思いも寄らないかもしれない。
 万が一あの台詞を覚えていたとしても、いったいどうやって会いにくる?……祖母は五年も前に亡くなった。僕たち一家はまた引っ越したのだ。
 がく然とした僕は、逆に、自分のほうから虹くんに会いにいく手段はないだろうかと考えた。
 元住んでいた街に探しにいく?……虹くんの家はうろ覚えだ。マンションだったから賃貸で、引っ越してしまった可能性も大きいだろう。
 何か新しいツールで探してみる? 本名で登録するようなコミュニティサイトとか。
 ……実を言うと、僕はもうそれらを試していた。友達がいなくたって人並みに使い方は知っていたからだ。
 しかし、フルネームで検索しても、年齢と推定出身校で探ってみても、虹くんにつながる情報は一つもなかった。同じ方法で幼稚園時代の幾人かには行き当たったから、やり方が悪かったわけではないんだろう。
 ああ、無理なんだ。
 ……もう、会えないんだ。
 心が空っぽになった気がして、自分はなんておめでたいやつだったんだ、と空虚な笑いがわいてきた。支えにしていた足の一本がもぎ取られて、僕は、そのまま立っていることができなくなった。

 そんな絶望のさなかだった、この本に出会ったのは。ぼうっとしながら入った本屋でなぜかすうっと引き寄せられた。
 粗筋はありがちと言ってもよかった。自分を見失った主人公が、旅をきっかけに、新たな一歩を踏み出すのだ。
 すんなり飲み込むには前向きすぎるストーリーに、それでも惹きつけられたのは、中に織り込まれたエピソードの一つだったかもしれない。あの頃の虹くんと僕と同じように、かつてマンガ雑誌を交互に買い合った少年たちが主人公だったのだ。とうに読まなくなった年齢になっても、捨てられずに本棚にしまってあるところまでそっくりだった。
 影響をうけた僕はふらりと、短い旅に出た。
 ……そして変わった。
 本の中にしかないと思っていた世界が、現実の自分の外側にも広がっていることを知った。もっともっと知りたいと思った。虹くんの周りをぐるぐる回るだけだったどん底から、ようやく這い上がれるかもしれないと感じた。
 学業に精を出した。バイトを始めてお金を貯めた。親に留学させてほしいと頭を下げた。常に傍らに、きっかけとなったこの本があった。
 そして今日、出発するのだ。



 電光掲示板に目をやる。僕のフライトの搭乗手続きが始まっていた。ついに、来た。本をしまい立ち上がって、軽く息をつく。
 カウンターの位置を確認し巨大なスーツケースを引っ張ろうと手をかけた。……ふと、どこからか視線を感じた。
 何だろう?
 小さな疑問符を灯しながら、まだ遠いカウンターへと一歩進む。このまま歩くとちょうどぶつかるところに、一人の男性が立っている。ここが空港であるにもかかわらず手ぶらである。少し、奇妙だ。
 ……奇妙?
 違う、変なのは、彼が僕のほうを見ていること。若い、背の高い男性だ。
 まだ遠くだが、すっきりとした輪郭が見てとれる。意志のこもった眉、一重なのに明確な瞳、緩く結ばれた口元、懐かしさを憶えるその表情。
 懐かしい。
 ……懐かしい?
 嘘だ、違う、そんなはずない。……でも。
 懐かしい、間違いない、嘘かもしれない、でも、だって、――約束したじゃないか!
「七海!」
 彼は、虹くんは。
 大きな声で、僕の名を呼んだ。

「虹くん」
 声は自然に出た。小さい声に慣れすぎて、びっくりするほど自分の声がうるさく聞こえた。
「七海。会いに来た」
「虹くん……なんで、どうやって」
「言っただろ。魔法使いになったら会いに行くって。予定より遅れたけど、やっとだよ」
「うそだ……本当になんで、魔法みたいな」
 十五年のブランク。
 こんな顔だ、こんな声なんだって、虹くんが目の前に立っている時間が一秒経過するたびに、虹くんが一つずつ僕に入り込むみたいだった。
「ほんとは高校生で鮮烈デビューする予定だったんだけどな。そしたら絶対、ニュースとかでも俺の顔流れるだろ。七海もすぐ気づくはずだ! って思ってさ。まあちょっと遅れちゃったけど、いちおう予定どおり、かな」
 はにかむように虹くんが笑う。どうしよう、あの頃から何も変わらない、好きだ、好きだ。
 ……でも。
 虹くんの言っていることがさっぱり……わからない?
「デビュー? って、なにが……?」
「え?」
 虹くんは怪訝そうな顔をする。

「だって七海、手紙くれたじゃん。あれ分かりにくくてけっこう調べるのに苦労したんだぞ」
「へ?」
「住所も連絡先も書いてないし。名前と内容で絶対七海だ、とはわかったんだけど『七日の深夜、パリに発ちます』って曖昧すぎ! とりあえず直行便だろうと検討つけて、夜の便は成田のこの回しかなかったんだけど、もし一日ずれてたらどうしようとか、うまくつかまえられなかったらどうしようとか、本当気が気じゃなかったよ」
「手紙って……もしかして」
 僕は、ようやく思い至った。
 リュックサックを前に担ぎなおして、一番上に詰めたそれを取り出した。
「この本……。虹くんが書いた、ってこと?」

 たしかに僕は最近一通の手紙を書いた。しかし、手紙としてではない。「ファンレター」としてだ。
 きっかけをくれた著者に、どうしても気持ちを伝えたかった。虹くんとの思い出をあれやこれや自分勝手に綴ったあとで、勇気をくれたことへのお礼を書いて締めたのだ。そういえば、何の気なしに自分の出発予定を添えた気がしないでもない。
「そうだよ。だって『魔法使いになった』って、言っただろ」
「魔法使いって、小説家って意味だったの? で、虹くんがこの本を」
 勢いこんで喋りかけると、ゲホゲホとむせこんでしまう。
「おい、大丈夫か!」
 虹くんが駆け寄って、背中をさすってくれる。その手は大きくて温かかった。
 日頃の喋らなさが祟ってむせるだなんて、恥ずかしいことこの上ない。けれど、虹くんの優しさが変わっていないことを実感し、少しだけ嬉しくもあった。
「ごほ、ごめん、大丈夫……久しぶりにたくさん喋ったから」
「無理すんなよ。そういや、昔も身体弱かったもんな。七海が幼稚園休むと俺すごいさびしかったんだ」
 さりげない、告白。
「おさまったか?」
「うん」
 胸の奥がうずく。しかし、虹くんの声はとたんに不満げになる。
「というか、七海が言ったんだろ」
「何を?」
「『お話をかく』って『魔法をかける』みたいだね、って」


 初めて貸した本を虹くんが返してくれたのは、その一週間後だった。
「とってくる。まってて」
 幼稚園に私物は持参しない決まりでもあったのだろう。白いタイル張りのマンションの、出っ張った外階段の下で虹くんがくるのを待っていた。
 虹くんは本の入った紙袋を提げて、急いでぐるぐる駆けおりてきた。
「おもしろかった?」
「とっても」
 その言葉を聞くとほっとした。同時に、胸がどきどきし始めた。
「本、おもしろいよね」
「うん。ずかんもいいけど、お話の本もおもしろかった。ページめくるの、わくわくする。すごい」
 虹くんは真剣な顔で言う。
 ……僕はその時、思っていることを、虹くんになら伝えられるんじゃないか、と感じた。
「ねえ、虹くん」
「なに?」
 僕はその場にしゃがんだ。午後の日差しはもうじきひんやり落ちていく。
 虹くんも、僕と目線を同じくするようにしゃがみこんだ。
「お話って、ぜんぶ最初は、だれかの頭のなかにあるんだって。だれかが、じぶんで考えたことを、いっしょうけんめい書いてるんだって」
 虹くんは折り曲げた膝の上で、驚くような表情をみせた。
「そっか。書いたひとがどこかにいるんだよな。すごいな」
「ママが言ってた。で、ぼく思ったんだけど」
「うん」
 とたんに真面目な顔に変わって、うながしてくれる。

「虹くんは……、本よんだとき、わーってならなかった?」
「わー? どんなふうに?」
「あのね、もじをよんでるだけなのに、あたまの中にワーって、でてくる人とかけしきとかが広がって……」
 喋りながら自信がなくなり、言葉が尻すぼみになる。膝の間に頭を隠してしまいたくなる。
「なった! ワーってなった!」
 しかし、虹くんは興奮したように頷いた。
 僕の顔も、ぱっと輝いた。
「ほんと!」
「うん! だからオレ、すごいっておもったもん」
「ね、すごいんだよ。あのさ、『まほう』みたいじゃない?」
「まほう?」
 虹くんはきょとんと聞き返す。
「そう。お話をかく人はきっと、よむ人のあたまにお絵かきするまほうを、かけてるんだ」
「そっか。まほう、か」
 そう言うと虹くんは、手についた砂をはらいながら立ち上がった。僕もつられてその場に立った。
「まほう、だ。すごいな。じゃあ、お話をかくひとはきっと『まほうつかい』なんだな」
「うん、そうだよ、絶対」
 また真剣な表情に変わったので、僕は神妙に相づちを打った。しかし虹くんの中をうごめき始めた未来への萌芽になんて、これっぽっちも気づいてはいなかった。
 上の廊下から、虹くんの母親が顔を出した。
「コウ、そろそろご飯よ! 七海くんも暗くならないうち帰りなさいね」
「わかったー!」
 ついでに郵便取ってきて、と言われて「はーい!」と大声で返す。
「じゃ、またな」
「ばいばい」
 袋を胸に抱えて、駆け出しそうにどきどきしていた。次は何の本を貸そう。どんな話を二人でしよう。
 虹くんは僕の気持ちをわかってくれた。きっと、虹くんも、どきどきしていた。
 胸がうずいて、その夜はなかなか寝付かれなかった。ようやく見た夢の中では、目が覚めるのがもったいないほど、頭の中が虹くんでいっぱいだった。


 ……どうして忘れていられたんだろう。
 あんなに強く虹くんの言葉を握りしめながら、どうやって思い出さずにいられたんだろう……気づかなかったんだろう。
「虹くん、ごめん」
 僕はそう口にした。
「謝る必要ないって」
 虹くんは言うが、僕は小さくかぶりを振った。
 ――信じていられなくてごめん。虹くんが頑張ってる間、一歩も進めていなくてごめん。……でも。
「じゃ追加する。虹くん、ありがとう」
「いや、それはこっちだ。七海がいなかったら、こんなところにこれてないよ。魔法みたいだ、って教えてもらって、そしたら頭の中の世界がわーってまた一つ広がって……」
 虹くんの口が新しい魔法を紡ぐ。
「あのシリーズ本、俺もまだ一冊飛ばしで持ってるんだ。あの時に、始まったんだ。七海のおかげだよ」
 虹くんは、今までの記憶を全部上書きしてしまうくらいの優しい顔で笑った。
「そろそろ時間だろ」
「うん。行かなきゃ」

 見送られながら、ゲートに向かった。虹くんがつないでくれた約束が、現実の扉を今ここに作っている。
 ずいぶん予想を超えた展開になったような気もするけれど、僕は今とてもわくわくしている。後ろに残してきたものに未練なんてひとかけらもない。
 だって、虹くんは魔法使いだからだ。きっとまたすぐに、僕には思いもつかないような魔法で、世界中のどこへでも会いにきてくれる。
 長い年月がかかったけれど……僕たちはようやく、「おたがい」の方向を向いて、歩き出したのだ。

レトラ
グッジョブ
3
ハタケカカシ 16/02/15 22:43

子供の頃のお話がほのぼのしていてかわいらしかったです。
ラストもオチがきいていてよかったのですが、ふたりが別れてからの主人公のあれこれは省略して、ふたりが交流を持つところから空港で出会うまでをリアルタイムで書いたほうが臨場感とリアリティがでたような気がします。

センチミリ 16/02/21 21:35

前半の話では、無理に「魔法使い」というキーワードを使わなかった方が良かったのではないかと感じました。
もちろん最初の話の「魔法使い」と後半の「魔法使い」の間にはしっかりと繋がりがあることは読み取れますし
ある意味そこが肝なのは分かるのですが、
張られる伏線が最初の話に組み込まれておらず
中盤に主人公の回想という形で後出しされるのもあり、
ストンと来ないというか、「え…?」となってしまう人も多いのではないのかな……と。

なんて書いてしまいましたが、
一万字という限られた文字数で十年以上に渡る物語をこれだけ違和感なく纏め上げ、
驚きも用意させられる作者さんは素直にすごいと思いました。
勿論萌えと爽やかな読後感も。

YUKINOYU 16/02/25 19:01

すてきなお話でした。
ベスト・脇役賞があるとしたら、きっとユカ先生です☆⌒d(*^ー゚)
読ませて頂きありがとうございました!

コメントを書く

コメントを書き込むにはログインが必要です。