>
>
>

第2回 BL小説アワード

もしおれが魔法使いだったならば

童話作家×担当編集者/ちょっとSMちっくアリ

 体にむずがゆさを感じた。見ると、一の瀬の舌が縄の跡をなぞっている。首から肩甲骨を通って背中へ。背中から腰へ。腰からパンツラインを辿って前へ。ぬめぬめと生暖かい感触の舌が体中の跡をゆっくり丁寧にたどる。

椿 有海
グッジョブ


「はっ……あ、ああっ……」
 使い込まれて変色した麻縄が容赦なく肌に食い込む。靴下だけをまとった足は、痙攣をおこしそうなくらい広げられM字開脚で縛られ、両腕は後ろで一つに縛られている。
「どうです、渋沢さん。縄の味はきついですか」
「んん……んっ」
「強がらないで無理な時は言ってください。こんなに縄がくい込んでしまって。しようがないですね」
「んっ、んんっ……」
 身動きの取れない渋沢の額が汗でうっすらと艶を増し、苦悶からか眉間に縦筋が走る。それを見て無表情で責めていた男の表情に、あかりが灯るように輝き、夢を見るようにつぶやいた。
「ああ、いい。いい、これだ。この顔です。この表情が見たかった」
 と、次の瞬間。縄の端を持った男、黒鮫銀二は急いで縄をほどいて渋沢を解放し、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、渋沢さん。いつもすみません。おかげで肌に食い込む縄の雰囲気と、被虐者の萌え感が描けそうです」
 (月刊SM倶楽部)の編集者、渋沢慶介は学生っぽさの残るあどけない笑顔で恥ずかしそうに答えた。
「こんなぼくでよければ……いくらでもモデルになります。この前の鞭打ちはちょっと痛かったですけど、すごくいい作品の仕上がりだと編集長も褒めてくれました。それに読者からの反響もよかったんですよ。ぼくでも作品のお役に立てるなら嬉しいです」
縄の跡が熱い。火照る体を冷ますかのように急いでシャツに袖をとおしスーツを着た。
黒鮫は麻縄を手元で巻きなおしながら片づけの手を止めて、しみじみと渋沢を眺めた。
「渋沢さんはおいくつなのですか? スーツを着ると就活中の学生に見えますね」
 黒鮫の遠慮のない視線に渋沢は顔を赤らめ戸惑いを見せた。
「やだなあ、これでも二十五になります。入社三年目ですけど、どこへ行っても大学生に見られて……はやく仕事のできる大人の男に見られたいです」
 仕事をしている男なら誰でもそう思う。若くみえるということは頼りなく見られることでもある。営業部所属の同期の八木は老けて見られると悩んでいたが、取引先からは仕事のできるベテランに見られ、大きな仕事を任されていて羨ましい。
 見た目でベテランだの新人だのと判断されて仕事に障りがあるのは辛い。好きでこの顔に生まれたわけではない。そんな心の内を読み取ったのか、黒鮫は温かい眼差しを向けて微笑んだ。
「渋沢さんには仕事魂がある。ここまで体を張ってくれた出版社の人はいない。自信を持ってください」
励まされて、ポッと心に灯りがついたように気持ちが明るくなり、また明日来ますと玄関のドアを閉めた。
 黒鮫銀二はもちろん筆名だ。年齢不詳だが多分四十手前くらい。同性のパートナーと暮らしているが書斎へ姿を見せることはない。一度だけ紹介されて挨拶したが、黒鮫よりもひと回りくらい年上の人のよさそうな会社員だった。何の変哲もない一軒家の表札には、全く別の本名が書いてある。
バイオレンスとエロスの交錯、というキャッチフレーズどおり黒鮫の作品には独特な世界があって人気が高い。その作品のリアリティを支えるために編集担当として、渋沢は縄で縛られたり、鞭で打たれたりすることを提案した。
 初めは担当者にそんなことお願いできない、と躊躇していた黒鮫だったが縄の加減や鞭の感触など、実際に人間相手にしてみると、机上での産物はとても稚拙であることに気づいたようで、以後プレイすれすれの行為を渋沢にしている。
 けれど渋沢は自分で提案したことなのに、いつまでもプレイに慣れることができない。仕事とはいえ倒錯の世界は自分の恋愛観とは大きく離れていて、恥ずかしくて辛くなるときもある。縛られて打たれる愛情なんて理解できない。
けれどある時、黒鮫の瞳の奥にある赤々とした陰惨な情欲を見た。それは作品を愛し没頭する芸術家の狂気の色だった。  それを見た瞬間、渋沢はこの黒鮫とのプレイは体育の授業と似ていると悟った。する者とされる者、教える者と教えられる者。授業にも似ていて、そこに羞恥の感情はない。
 だから仕事として被虐のモデルを演じることに徹する。一人前の編集者となる手腕として。
 歩きながら少し長く伸びた前髪を手櫛で整える。小春日和でシャツ一枚でも十分だが、手首の縄の跡が消えないのでスーツを羽織って隠した。次の訪問は童話作家の、一の瀬純だ。

「どうですか、プロットまで出来たのですよね。ええと、失礼します」
 一の瀬から受け取ったノートを見る。
「気の弱い男の子が、空から生まれた魔法使いと出会って勇気をもらう話ですね。……うん、うん」
 頷きながら読んでいると、一の瀬は壁に背をつけてしゃがみ、こちらをじっと見ている。視線が痛いくらいに突き刺さる。まるで大きな番犬のようだ。
 一の瀬は、書いている作品とはそぐわないタイプの男だ。年は渋沢とあまり変わらないが、体が大きいうえに表情に乏しく、黙っていると凄みがある。街で会ったら避けたくなるような怖いお兄さんタイプだ、職業は童話作家。
「流れはいいですね。けれど魔法を使いたくなる激しい気持ちが弱いですね。そこをもっと書き込むといい」
 一の瀬は大きな体を丸めて、ポリポリと頭を掻いた。
「すみません、なかなかつかめなくて。次回までに何とか書きますので」
「大丈夫ですよ。いつも、(月刊童話のブーケ)には一の瀬先生の繊細で夢のあるお話に感動したと、ファンレターがたくさん来ます。どうか自信を持ってください」
 すると、しゃがんで堅い表情で待機していた顔に安心と照れが浮かんだ。控えめだけど、これが一の瀬の精一杯の喜びの表現なのだ、と渋沢は思った。
「渋沢さんが担当でよかった。おれ、がんばります。ところで渋沢さん風邪ひきました? こんな暖かい日なのにスーツなんて着て……」
 ハッと渋沢の顔色がかわった。担当者というのは何人もの作家を同時に担当しているが、目の前の作家に別の担当作家を匂わせるのはプロ意識に欠けていそうで避けたい。あわててスーツの袖を引っ張った。
「そ、そうです。バカは風邪ひかないっていいますけど、ははっ。それより行き詰ったら相談してください。ぼくでよければ一緒に考えますから」
 そう言うと一の瀬は小さくうなずいて口の端を曲げた。笑っているのだと思った。では、と本日訪問の次の作家との打ち合わせに向かうため、いとまを告げようとすると大きな掌で肩をつかまれてソファに座らされた。
「忙しいでしょうけど待ってください。風邪は怖いですから」
 と言いながら台所から透明なティーポットとカップを運んできた。ポットにはリーフとともに何かフルーツも入っているようだ。カップに並々と注ぐとハチミツを落として渋沢に差し出した。
「自家製ハーブティーですけど風邪と喉に効きます。これを飲んで暖まってから行ってください」
 スプーンでかき混ぜるとハチミツがふわりと溶けて、柑橘の香がした。甘く喉に広がり、体の中からポカポカしてくる。本当は風邪など引いていなかったが、体に優しく浸みこむ飲み物がうれしい。
「ごちそうさまでした。すごくおいしかったです。体も暖まりました」
 一の瀬は空になったカップを受け取り満足そうにうなずいた。
 担当になったばかりの頃の一の瀬は、こんなタイプではなかった。玄関先に訪ねた渋沢を見て無表情のまま立ちすくんでいたので、
「すみませんが、上がらせていただいてもいいでしょうか」
 と声をかけると、「あ、ああ……はい」と返事をした。
 夏の暑い日だったが、打ち合わせの間中、渋沢が何を言っても「あ、ああ……はい」を繰りかえすだけ。沈黙のすき間を扇風機の首を振る音がギギッとうめていく。
 それがいつのまにか座布団が出され、お茶が出て、手作りの昼ごはんやお手製のハーブティーをご馳走になるようになっていった。あまりにも手際よく料理をつくるので、
「一の瀬くんの料理はどれもすごくおいしいです」
 出来立てをスプーンで口の運びながら言うと、急にうつむいて顔を赤らめてボソリと言った。
「……嫁に……行けます、かね」
 新種のジョークかと思って「はい大丈夫です」と答えてしまった。それ以来、今では「ちゃんとメシを食べてますか」「寝不足の顔ですね」と本当に嫁のようなことを言う。
 一の瀬の言葉や表情で、渋沢は好意を持たれていると気づいた。その好意が心地よかった。けれど恋愛に発展することだけは避けたかった。

 二年前。
 出版社に入社して初めての担当は、少女漫画家だった。高校生デビューをしていた彼女にとって、学校と机の前が人生の全てで。学校が終われば宿題と原稿の待つ机で過ごす。同級生が寄り道するパフェの美味しい店も流行りの映画も、行くことはなく、合コンや憧れの先輩とも無縁だった。
 これでは作品に幅が出ない、と感じた渋沢は暇を見つけては街中に連れ出し、カフェや映画などに誘った。
 感受性豊かな彼女はすぐに作品に反映していき発行部数も伸びた。そしてそれが渋沢への恋愛感情にすり替わることに時間はかからなかった。
 彼女にとっては恋人としてたいせつな存在になっていたのだが、渋沢にとっては担当の漫画家以上として恋愛感情はもてなかった。
 失恋して傷ついた彼女は、描けなくなってしまった。才能があるからぜひ続けて欲しいと、何度も話したが描けないと泣くばかりだった。
 他の担当作家の原稿が落ちそうでそちらに詰めて、一週間ほどして彼女の家を訪ねると一家で引っ越した後だった。
 家族の名前が抜かれたポストを見ているうちに、ひどい後悔に襲われた。
 軽はずみな行動で人を傷つけたあげく才能の芽を摘んでしまったのだ。担当として一人の作家を殺したようなものだと。そう自分を責めながら涙が止まらなかった。
「最低だ……ぼくは……人として、担当として……」
 空き家となってしまった家を前に誓った。(もう担当の作家に筆を折らせるような恋をしない)と。
 一の瀬は男だ。好意ではなく親切なだけかもしれない。けれどこれ以上、踏み込みたくない。
 なによりも一の瀬には才能がある。編集会議でも一押しの期待の作家だ。「絶対、この才能をつぶさない。一の瀬の筆を折らせない」渋沢はそうつぶやいた。 

「今日の縛りは……あっ、ああ」
「すみません、ちょっときついですね。縄を五ミリの細縄にしたのでいつもよりくい込んでいると思います。苦しかったら言ってください、すぐやめますから」
「い、……や、かまわないです。それにして……も。んんっ」
「逆海老責めで両手両足を拘束しています。すごい……ああキレイだ、なんて縄化粧とはすばらしいのだ」
 目を大きく見開いて恍惚と見惚れている。
「主人公の女が拘束されて反り返ると……そうか、体のラインはこういうふうに……、ふん、ふん」
 理科の実験の観察するように、かがんで覗きこんでは手足の様子を確認している。
 黒鮫はクールで冷静で慣れあってくることはない。作品の中の人物像には愛情こまやかだが、同性のパートナー以外には現実の人間には関心がないように感じるときがある。心底、小説の世界を愛しているのだ。
「渋沢さん、電話が鳴っていますが。これじゃ手が使えません、どうしますか」
 渋沢は床に転がったまま、電話を持ってきてもらい、通話ボタンを押してもらった。逆海老縛りで反り返っていて苦しいが、一の瀬からの電話なので出る。
「は……い。もしもし」
「すいません、こんな時間に。魔法使いのことですが、ちょっと浮かんだので」
「いえ、かまいません。それで……ええ。いいアイデアですね、それ。ええ……あっ、ああぁ」
 通話に夢中になりバランスを崩してしまい、縄がひときわグイッと食いこみ声を上げてしまった。下腹部に走った鋭い感覚が甘いしびれに変わってくる。
「だ、大丈夫ですか。具合が悪そうですけど。やっぱり風邪ですか」
「いえ、だ、大丈夫です。ん、んん……ん」
「無理をしないでください。見てもらうのは明日でもいいですから」
 一の瀬は遠慮するが、そうはいかない。締め切りが迫っている、締め切りは絶対だ。もう少ししたらそっちに行くからと電話を切った。電話をテーブルに片づけながら黒鮫は珍しく明るい表情で、
「今のも、もらいます。縛られて監禁されているところに恋人から電話。犯されているのを悟られないように声を殺して話す女−−−−いいですよね、このシチュエーション。いただきました」
 どんな出来事も貪欲に作品の糧にする黒鮫は、高揚した様子で机に向かった。
 黒鮫の家を出るといつのまにか雨が降っていた。にわか雨だからと走り、電車を乗り継いで駅から一の瀬のアパートに着くころには、ひどい土砂降りに変わっていた。

 アパートの玄関の小さなスペースは、ポタポタと渋沢の体から垂れた雫で水浸しになる。
「うわ……待ってください」
「すみません濡らしてしまって。今日はここで打ち合わせをさせて下さい。こんなになってしまったので、お部屋に上がることができません。ご迷惑をおかけします」
 渋沢の言葉を聞いてないのか、バタバタと狭い部屋を大きな体が行き来する。そして、プラスチックのランドリーケースとバスタオルを持ってきて差し出した。
「シャワーの支度ができました。すこし暖まって乾かしていってください」
 仕事中だからと断っても、一の瀬は聞き入れない。怒ったような表情で、「風邪をひいたらどうします、さあ。さあ」と風呂場へ追い立てる。たしかに背中がゾクッ、とする。風邪の前兆だ。思いなおしてシャワーを借りることにした。
 しばらくしてシャワーを浴びていると、ノックをして一の瀬の姿がバスルームのガラス戸に映った。「開けますよ」と声をかけながら、戸が少し開いた。
「タオル入れときますよ。あとドライヤーは……あっ!」
 タオルを湯船のふちにかけた後、一の瀬の視線が湯けむりの中の渋沢の体をとらえ、言葉が止まった。
「な……んです? この縄の跡……、一体……」
 はっ。思わず息をのんだ。やましいことは一切していないが、体中に残っている縄の跡をどう説明したらいいのか。さっきまでSM作家の家で縄の実演をしていただけ、仕事だといえば済むことなのに。誤解を避ける言葉を探しているうちに、言葉が見つからず黙りこんでしまった。
「言えないんですか。こんなに体中に縄の跡が……」
一の瀬は大きな肩をがっくりと落とし、強面の顔はまるで泣いた赤鬼のような形相をしている。
「渋沢さんは、こういう趣味があったんですか。さっきおれが電話をした時は、プレイの真っ最中だったってことですか。だから……だから、あんな喘ぎ声を……っ」
 あんな声をやはり聞かれたのだと知り、体がカッと熱くなる。恥ずかしい。
「あ……いや。違います。これは仕事で……」
 趣味であんなプレイをしているなんて、一の瀬に誤解をされてはたまらない。素直に本当のことを言いかけると、最後まで言う前に一の瀬が言葉を奪った。 
「仕事? まさか、そっち系のバイトですか」
 普段はゆっくりとした低音で話す一の瀬が、こんなに早口で責めたてるようにまくしたてるのは初めてだ。そっち系のバイトと、勝手に解釈をした一の瀬は、いきなりバスルームに入ってきて渋沢の細い肩をつかみ揺さぶった。
体を這うような縄の跡を、一の瀬の目が妖しくなぞる。視線が痛いほど刺さる。
見ないでほしいと体をねじると、バランスを崩してしまい、逆に体の前面をさらけ出すことになってしまった。まずいことに中心は角度をつけている。
 突然、ぎゅっと抱きしめられ声が出る。
「あっ……や、ん」
 一の瀬の服のごわつきが縄の跡に当たってくすぐったい。
「ば、バイトはやめて下さい。少ないけど原稿料があるから差し上げます。だからこんなバイトはやめて下さい」
 どうもSMのバイトだと決めつけているようだ。
「バイトでこんなになるまで縛られて……感じたんですか、そうですよね。電話でずいぶん色っぽい声を聞かせてくれましたよね」
「ち……ちが、う」
「そうですか? 一度縛られると癖になるって聞いたことがあります。身動きできないで弄られると快感が体内にこもって、たまらなくなるって。渋沢さんもそうなんですか?」
「どっ、どうしてそんなに意地悪なことを!」
 体にむずがゆさを感じた。見ると、一の瀬の舌が縄の跡をなぞっている。首から肩甲骨を通って背中へ。背中から腰へ。腰からパンツラインを辿って前へ。ぬめぬめと生暖かい感触の舌が体中の跡をゆっくり丁寧にたどる。
 軽い眩暈を感じながら、渋沢はされるがまま立っているのがやっとで、シャワーフックにつかまった。
「だ……め。や、や……めて」
 だめだ、体の奥にひそむ熱がこみ上げてくる。自分の体の奥に潜む、開けてはいけない箱が開いてしまう。この感覚はいけない、背筋がゾクリと怖くなった。
 前々から一の瀬の自分に対する好意には気がついていた。作家と担当として、本来なら作家の一の瀬を守り育てることが仕事なのに、気がつくといつも一の瀬に世話を焼かれていた。そして作家には特別な感情を持たないと誓ったのに世話をされる心地よさ、幸福感に甘えていたのだ。
 一体いつから一の瀬にこういう感情を持ち始めていたのか、わからない。魔法にかかったように「一の瀬が好きだ」という想いがくり返し、胸に広がる。
 一の瀬の口から時おりくぐもった声がする。泣いているようだった。渋沢は金のためにSMまがいのバイトをしている情けない男だと勘違いしたままだ。ふと、小さな言葉が聞こえた。
「……りたい」
 空耳かと耳を澄ますと、今度ははっきり聞こえた。
「守りたい。渋沢慶介という男を守りたい。あんなバイトをさせない! もしおれが魔法使いだったら、渋沢さんを遠い国に逃がして王子様として幸せに暮らさせます。そう、おれが魔法使いなら……」
 一の瀬はそう言って騎士のようにひざまずいた。渋沢は下腹部に押し付けられた短く刈り込まれて黒々とした頭を、そっと撫でつけた。びくんっ、と大きな体が揺れた。
 大きく息を吸いこんだ。作家と恋愛感情を持たない、持たせないと改めて自分に言い聞かせる。そして気持ちの昂りを抑えて抑揚なく答えた。
「ありがとうございます。一の瀬さんならきっといい魔法使いになれると思います」

 一の瀬のアパートを出ると、雨はすっかり上がっていていた。風が変わったのだろう。満天の空には冬の星座が洗いたての空に瞬いている。
 電車を待つ駅のホームでベンチに座りシャツをまくると、縄の跡がまだ残っていた。好きな男に打ち明けられない想いを抱えているのに、恋に踏み出せなくて苦しい。作家と担当でなければよかった。あのまま腕の中に飛び込めたらどんなに幸せのことだろう。
 バイトと勘違いした、先ほどの一の瀬の言葉がうかぶ。
「もし魔法使いだったら……」
そんなのラストシーンは決まっている。
「二人はいつまでも幸せに暮らしましたと、さ」
 そうつぶやくと赤い舌を出し、さっきまで一の瀬が舐めていた縄の跡をペロッと舐めた。

南むきの木枠の窓から桜の花びらが舞いこんだ。
「……と、いうわけでこちら献本をお届けに来ました。すごくいい出来で書店の反応もいいです。挿絵もあの売れっ子の瑛二さんが、一の瀬さんの作品ならぜひ描かせてくれ、と言ってきたくらいで美しく描いてくれました。このたびはありがとうございました」
 机の上に置かれたできたての絵本。「青の魔法使い」の上に、またもハラリと桜の花びらが着地した。青のグラデーションが効いた表紙絵にふわりと舞う、うす桃色の花びらを見て、一の瀬の顔がほころんだ。
「うん、きれいだな」
 そう言って、まっすぐ渋沢に向けられる目は相変わらず穏やかだ。シャワールームで縄の跡を見られた日から、その後の進展はないものの、一の瀬の渋沢に対する態度は相変わらず変わりがない。
 渋沢の方が、一の瀬の大きな愛情に飲みこまれまいと、一生懸命に他人行儀に線をひいているのが滑稽にも見える。

 一の瀬の部屋を出て駅前の本屋へ足を向けた。駅前の本屋は県内でも有数な大型書店だ。入口の自動ドアが開くと、新入学フェアのコーナーがあって可愛らしい文房具や辞書が並べられている。そのすぐ隣に、推薦図書のコーナーがあって、一の瀬純の(青の魔法使い)が平積みになっていた。瑛二の描いたブルーでできた表紙が、そこだけ青い水たまりのように輝いて美しい。
 渋沢は絵本(青の魔法使い)を、陳列を崩さないように一番上のをそっと取り上げ、両手で抱えてレジに向かった。
 四月とはいえ夕方近くの公園は風が冷たい。
 時おり犬の散歩をする人が通るだけの淋しい公園のベンチに座って、書店の紙袋から絵本をとりだした。
 タイトル下の名前−−一の瀬純−−を指でなぞった。本を抱きしめ、本にキスをした。言えない想い。伝えることのない想い。「はあっ……」ため息をついたら涙が出た。
「っ!」
 ふいに渋沢の頬にパイル地のタオルがあてがわれた。柔らかく優しい感触に思わずふり向くと、一の瀬が困った顔をしていた。
「渋沢さん、青の魔法使いは泣く話じゃありません」
「っ、っ!……いっ、いつからそこにいたんですか?」
 びっくりしすぎて言葉が上手くでない。
「たまたま用があって本屋に行ったら渋沢さんがいました。大切そうにぼくの本を取り上げて、お金を出して買ってくれました。なぜです? 読みたければ渋沢さんのもとには献本の予備があるはずです」
 先ほど差し出された一の瀬のタオルで顔を覆ったまま答えた。声が震える。
「別にいいだろう。自分のお金で何を買おうと……」
 とん。軽い振動があった。ベンチの隣に一の瀬が座ったのだ。男が二人で腰掛けているというのに、ぴったりと隙間なく体を寄せて座っている。渋沢は「近すぎる」という言葉を呑みこんだ。
「おれは確信しています。渋沢さんはおれのことが好きだ。けどその想いを殺している。なかったことにしようとしている。ちがいますか?」
 そういって一の瀬は、渋沢の顔を覆っているタオルをそっと取り上げた。渋沢の目は赤く腫れて、鼻水が垂れていた。そうして子どもにするように、タオルを鼻にあてて、
「ふーん、ってしてください」
「い、嫌だ。タオルが汚れる」
「渋沢さんのなら汚いなんて思いませんよ、ほら、ふーんっ、って」
 仕方なく、言われたようにタオルで鼻を噛んでしまうと少しすっきりしてきた。一の瀬は渋沢の答えを待つかのように、穏やかに沈黙している。
「入社して間もなく担当になった漫画家に、作品の糧になればと親切にした。彼女はそれを愛だと思いこんだがぼくはそうではなかった。そして……傷ついた彼女は漫画家をやめてどこかへいってしまった。担当として最低だ」
 話し出したらだんだん気持ちが落ち着いてくる。言えなかった想いもこの際言って伝えてしまいたくなった。夕方の空気が冷たいが、ピッタリと体をつけているので、一の瀬の体温が伝わってきて、そこだけ暖かい。
「文章でも絵でも漫画でも、作家の才能をぼくなんかの恋愛感情で筆を折ることになってはいけないんだ。才能はもっと伸ばして、世の中に発表すべきだ」
 ちゅ。頬に柔らかい感触と音がした。なんだ、と戸惑っていると、何度も、ちゅ、ちゅ、ちゅっ……。やがて柔らかい感触は渋沢の唇をふさいだ。
「よく聞いて。おれは大丈夫。恋愛でこわれません。もし、おれがあんたに嫌われて捨てられたら、……きっとひどく落ち込むけど、それでも負のエネルギーを作品に変えて見せます。おれは作家ですよ。人生の酸甘を言葉に変換していく、そういう人間なんです」
 一呼吸おいて、
「縄の跡も理解しました。あくまでも黒鮫先生との仕事だと。けど、縄の味に溺れるようなことになったら、おれがこの体に上書きしますからね」
 渋沢は思いもよらない展開に、顔を赤くしている。
「ぼ、ぼくは一の瀬くんのことを捨てないし、縄は体育の授業みたいなものです」
 ふっ、と一の瀬の口元が笑った。スッと立ちあがり、渋沢の手を引っ張った。
「寒くなってきました。おれの部屋へ帰りますよ。今夜は覚悟しておいたほうがいい、なんといっても青の魔法使いの生みの親、大魔法使いだから。今夜はおれから離れられなくなる魔法をいっぱいかけてやる」
 大きな手が渋沢の手を包んで歩く。夕闇のおかげで男と男が手を繋いでいても気づかれないけど、ちょっと恥ずかしい。
そんな気持ちを見抜いたのか、渋沢の指を広げさせ、指と指の間に一の瀬の指と指を入れて、恋人繋ぎでがっちりと繋がれた。その力強さが渋沢の心を熱くする。
「そうして、二人は幸せに暮らしました……ですね」
 手をつないだ二つの影が、通りがかりの車のヘッドライトに照らされていびつに形を変えていく。その姿はまるで−−。
「一の瀬くん、魔法使いを見ぃつけた」
 もう一度、恋愛をしようと自分を変えた男と歩く道。渋沢の足取りに迷いはなかった。





椿 有海
グッジョブ
コメントを書く

コメントを書き込むにはログインが必要です。