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第3回 BL小説アワード「怪談」

赤い痕

エロあり/ホテル/キスマーク

 この現象がどういうことなのか分からない。そして夢であろうと思っていたあの時間を思い返す。

雪彩きれい
グッジョブ

 猛暑日が続く八月。仕事の関係で初めて東京へやって来た。空港を出た途端、肌をジリジリと焼くような太陽光線を浴び、恐ろしい湿度にゲンナリして深いため息を吐く。

「暑いですね、先輩」
「まあ、夏だから……なんて当たり前のことだけど。北海道育ちの俺たちには厳しいな」

 北海道に本社のある道中リース株式会社は、今年ようやく一部上場した。この不景気の中、業績を徐々に上げてきている。
 その会社に勤める結城忠臣は三十歳になったばかりだ。今日は五歳年下の後輩、山岸隆二と二人で得意先の会社を回ることになっている。出張日程は一週間だったが、スケジュールはかなりタイトだった。
 空港から予約したホテルまではタクシーで向かう。車内では「暑いですね」という常套句で始まった。エアコンを強めに効かせてくれた運転手さんに感謝しつつ、荒川区にある古めかしいホテルへと到着した。
 外観はそれほどでもなかったが、部屋に入ってみてその古さを実感する。清潔ではない、というわけではないが、全てにおいて年代を感じるのだ。

(まあ、出張費ケチったし、こんなもんか)

 結城はスーツケースを部屋の脇へ寄せ、すぐにエアコンのスイッチを入れた。ブゥン……と、これまた起動してますよ、と言わんばかりの低音が響く。最初だけかと思えば、耳障りな低いモーター音は継続する。

(ま、慣れれば平気か)

 そう思いながら腕時計を外し洗面台の脇へ置き、汗に濡れたシャツを脱ぐ。今はとりあえずシャワーを浴びてベトつく汗を流したかった。
 洗面所の鏡の前で髭を当たるかどうしようかと、顎を撫でながら考える。色白で体毛は濃くない方だが、肌が白い分、少しでも髭が伸びると目立ってしまう。だから小まめにチェックは欠かせない。永久脱毛してもいいかな、と思ったこともあるくらいだ。
 そうして鏡の中の自分と睨めっこしていると、その鏡の隅に剥がれかけて色褪せた、子供っぽいシールが貼ってあることに気付いた。清掃係が取り忘れたのかな、と思い、ピッと剥がしてゴミ箱へと捨てる。
 時間的に今日は夕飯以外に出かける予定はない。隣の部屋の山岸にも、汗を流してから外で夕飯にしようと言ってある。だから三十分もすれば部屋のチャイムを鳴らすだろう。

(さっさと入ってしまおう)

 シャツの類いを多めに持って来てよかったな、と思いながらバスルームへ入り、熱い湯を頭から被ったのだった。




 さっぱりして部屋へ戻ると、いい感じに空気が冷えていて気持ちがいい。テレビを付けると夕方のニュースが流れている。都内のどこかのマンションで火事があった、とかそんな内容だった。
 冷蔵庫からビールを取り出し、それを喉に流し込みながら気まぐれにチャンネルを変え、ゆっくりとベッドへ腰を下ろす。
 酒が弱いはずでもないのに、ふわふわと急速にアルコールが回る。ビールの一口くらいで酔うなんてどうかしている、と結城は苦く笑いながら体を横たえ、肘を立てた状態で頭を支える。
 冷えたシーツの感触が肌に心地よくて、気が緩んだ結城はブワッと襲ってきた睡魔に目を閉じた。それは瞬きをするような一瞬で、意識が途切れたのはほんの数秒だった。

「あれ……?」

 ゆっくり瞼を上げると、一瞬、夢かな……と錯覚するほど目の前が不鮮明に見える。自分はベッドの上で仰向けに寝転がっていて、手に持っていたビールの缶はなくなっていた。周囲に零れた形跡もない。明るかった部屋の中もなんだか薄暗く、テレビを付けたはずなのに消えている。エアコンのブゥン……という重低音だけが聞こえていた。
 そして一番の違和感は、アイボリーの天井を背にして見慣れた顔がこちらを覗き込んでいるのだ。

「結城先輩」
「山……岸? お前、なんで……」

 自分は寝惚けているのか、と何度も瞬きをして彼を見上げる。なぜか起き上がろうという気持ちにならなかった。覗き込んでいる山岸の、少しはにかんだような笑みを見つめる。
 年下のくせに結城よりも体格が大きく、柔道をやっていた割りにはガチムチな筋肉の付き方をしていない。まるで大型の犬のような人なつっこく、微笑むとかわいらしい男がなぜか結城の部屋にいる。

「先輩が呼んだんじゃないですか」

(俺が?)

 山岸がベッドサイドへ腰を下ろすと、結城の細身の体が揺れる。意識ははっきりしているのに、なんだか霞が掛かったように思考がぼやけている気がした。

(なんか変だな)

 起き上がろうとして体に力を入れると、それは重くて持ち上がらない。おかしいな、と思いながら懸命に足掻いてみるが、微塵も動かなかった。

「や、山岸……俺、動けないんだけど」

 はっきりしゃべれるし、声は自分にも聞こえている。金縛りは声も出ないと言うから、きっとそれではないのだろう。目の前にいる山岸とも会話が出来ているのだ。
 そんなことを考えていると、途端に心臓がドクドクと重苦しく打ち始めた。度数の高いアルコールを流し込んだ直後のような熱さもある。

(どうなってるんだ)

 軽くパニックになりつつも、笑みを浮かべて微動だにしない山岸を見ると、自然と落ち着いてくるから不思議だ。

「動けない? 空きっ腹にビールなんて飲むからですよ。それにこの部屋、熱くないですか? 先輩、額に汗かいてますよ」

 エアコンの音は聞こえているのに、山岸の言う通り、なんだか湿度が高くてジットリしている気がした。空調も古そうだったから、もしかしたら動いている音だけで本来の機能を果たしていない可能性もある。

「暑かったら脱げばいいんですよ」

 そう言いながら山岸が結城のバスローブの紐を解き、前を開き始めた。ローブの下はなにも着けていない。別に見られるのがどうとかではなく、この異様な雰囲気が結城を困惑させた。

「おい、なにしてる」
「暑そうだから、脱がせてるんですよ。ほら……ここも汗かいてますね」

 山岸の太い指が脇腹をなぞる。下半身をかろうじて隠しているバスローブを、愛撫するその指先でハラリと開かれた。
 動揺しながら男の顔を見るも、最初に見たときからその表情は寸分違わず微笑んでいて、それが不気味に思えて来る。

(なんだこいつ。どうしたんだ?)

 慌てるように瞬きを繰り返し、山岸を静止しようと口を開くが、今度は声が出なくなっている。

(え? ええっ!? 声が出ない! やっぱそうなの!?)

 動揺したおかげで全身から血の気が引いて戦慄が走る。その間、山岸の指先は結城の肌の上を滑り、今度は際どい部分を撫で始めた。

「先輩と仕事するようになって、ずっと思ってたんですよ。いつかこうして、先輩の肌を触って感触を確かめたいって。きっとすべすべで女子みたいなんじゃないかって想像して。……そしたら、俺の思った通り、まるで……」

 途端に山岸の声が聞こえなくなった。彼の口は動いているのに、声が聞き取れない。好意的な笑みを浮かべてなにかをしゃべっている。そして首を傾げるようにしてから、結城と揃いのバスローブを脱ぎ始めた。

(嘘だろ……? これってどう考えてもおかしいだろ)

 もしかしてビールになにか混入されたのか。そう考えてみたが、ホテルに入ったのは同時だったし、先になにかを仕掛けるなんて出来ないだろう。だったら他に考えられるのは、自分は眠っていてかなりリアルな夢を見ているとしか思えない。

「ああ、これですよ、これ。この肌の感触。たまらないですよ」

 気付けば山岸が自分の上へ覆い被さっている。男の肌の感触はなんとなくあるものの、明らかに結城より体大きいはずの山岸の重さを感じない。それなのに……彼が与える愛撫や唇で首筋を吸い上げる淫靡な感覚は鮮明だった。

「んっ……」

 声が出た、と思ったがほとんど空気だ。やめろ、と懸命に口を動かすと、目の前に笑みを浮かべた山岸の顔がドアップになる。驚いて目を見開いた瞬間、結城の口は彼の唇に塞がれた。生暖かい舌が渇いた唇を舐め、それが咥内へ入ってくる。山岸が男もいけるなんて知らなかった。知りたくもなかった。こんな感情を自分に向けてくるなど、予想もしていない。
 仕事では従順でスポンジのように色々吸収していき、少し不器用な部分もあったがそれは努力で補填できるような人間だった。
 いつも結城の後ろを着いて回り、大型犬だな、と思ったのは数知れない。彼女に振られたから慰めて欲しい、と一晩中、山岸の愚痴酒に付き合ったことだってある。
 そんな彼との過去が一気に蘇ってきた。男くさい山岸は、器用で官能的に結城の咥内を舐め回すような、そんな人間じゃなかったはずだ。

(やめろよ。俺はそういうのじゃない!)

 結城の心が抵抗する。なのに体は反比例していった。気付けば山岸のキスに答えている。互いの舌を擦り合わせ絡ませ合い、吸っては舐めて、まるでセックスのようなキスを繰り返す。
 抵抗していた心を徐々に融かすような快楽を口から吹き込まれたような気がして、心臓の辺りがじわりと熱くなった。

「ふっ……、んんっ……」

 くちゅくちゅと淫靡な音が部屋に響く。休むことなく山岸の両手は結城の体のあちこちを愛撫し、自慰でも意識しない胸の突起へと辿り着いた。

「んっ!」

 両方を同時に摘まんで引っ張られ、未知の痛みと刺激に体が強ばった。この男が上半身をどうやって支えているのかなんて、気にも留められないほど、酩酊感に似た心地よさを味わわされる。

(舌が……疲れてきた)

 意識がボンヤリしてくると、予兆なく山岸が離れていく。いつの間にか目を閉じていた結城は、ゆっくり瞼を開いた。そこには最初からずっと変わらずに笑みを浮かべた山岸が見える。

「明日から仕事頑張りましょうね。俺、結城先輩の足を引っ張らないようにしますから」

 自ら動かせない下半身を彼は悠然と持ち上げている。視界には自分の足首が見えていて、このままではまずい状況になることは明白だ。

(もしかして、俺、ヤバイのか?)

 冷静にそんなことを考えている自分に驚きもせず、山岸の顔の両端で揺れる見慣れた足をただ見つめる。
 そして瞬間的に襲ってきた睡魔に目を閉じると、意識がグッと深く沈む。エアコンの騒音も聞こえなくなり、体が下へ落ちていくような感覚だった。

(気持ち、いい……)

 体の芯がじんわりと熱い。脊髄を走る微量の電流が、快楽と共に結城の意識を覚醒させた。スッと開いた瞼の向こうには見慣れた顔。

「先輩……先輩……、俺、先輩のこと……なん……で……から……」

 自分の目の前で山岸の姿が上下にゆっくり揺れている。まるで水の中で山岸の声を聞いているような感じだ。歪んで遠く、肝心な部分が水に吸い込まれたように途切れている。
 そしてゆるゆると戻ってきた感覚に驚きを隠せなかった。腹から下がおかしいのだ。

(あれ……? なに? なんか、変だ……)

 両足を開いたその間に、山岸の裸の腰がピッタリと押し付けられていて、彼が動くと電気が走ったように愉悦が這い上がった。

「はっ……ぁ、んんっ……はぁっ、はぁっ!」

 未だ声は出ない。だから喘ぐ呼吸で必死に快楽を逃がす。体の中に熱塊を感じ、それが動くと得も言われぬ昂奮と気持ちよさが、体を駆け巡っていった。

「先輩……すごく……ですね。俺、もう……う……です。いいですか? 中、いい、ですか」

 山岸に犯されていると頭のどこかで分かっている。おかしいことも、怒らなければいけないことも分かっている。なのにその感情が頭の隅っこに追いやられて、ちっとも機能しなかった。
 山岸が荒い呼吸で首筋に唇を寄せてくる。きつく吸い上げられて跡を付けられたのだと分かった。そしてそのまま結城を抱きしめるようにして体を預けて来たので、仕返しに首元にきつく噛み付く。痛いだろうに、彼はビクリとも反応しない。口の中には鉄臭い匂いが広がり、山岸の血なのだと気付いた。

(きつく噛みすぎた……)

 その疵痕に舌を這わせ、ツツ……と流れ出るそれを舐め取る。体の奥で膨れ上がる快楽に思考が流され、なにがなんだか分からなくなってきた。夢精するときってこんな感じなのかも、と夢うつつの中で考える。雁字搦めにされていたように動かない体が、フワッと解放されていく気がした。

(ああ……気持ちいい。すごい……飛んでるみたいだ)

 目を閉じた結城は、その心地よさに酔いながら暗闇に意識を手放して行った。





 突然、ドッと大勢の人の笑い声が聞こえて、体がビクッとなって目が覚める。テレビ番組の芸人がスタジオで食材の紹介をしていて、観客の笑いと取っているところだった。

「あれ……? なんだ?」

 ビールはぬるくなった状態で手に握られている。もちろん電気もテレビも付いているし、うるさいエアコンが部屋をキンキンに冷やしていた。

「やっぱ、夢……か」

 それにしても奇妙で生々しく卑猥な夢だった。後輩の山岸にあんなことをされる夢を見るなんて、よほど欲求不満なのだろうかと頭を抱える。しかし下半身に激しい違和感を覚え、勢いよくバスローブをまくって覗き込む。

「……嘘だろ」

 結城のペニスは完全に勃起していて、バスローブもベッドシーツもぐっしょりと濡らすほど射精していた。あんな夢を見たからこうなったのか、と理解はするものの、相手が男でしかも後輩で、あの山岸というところに些か割り切れない複雑な気持ちが広がる。
 もう一度シャワーで流すしかない、と立ち上がって洗面所へ向かった。腕時計で時間を確認すると、風呂から上がってまだ十分も経っていないことに不思議な気持ちになった。

(十分? もっと長い時間寝てた気がするけど)

 相変わらず頭はスッキリしていないが、シャワーを浴びれば少しはましになるだろう。
 なんとか息子を治めた結城は、ジーンズとTシャツに着替え、スマホと財布をポケットへ突っ込んだ。
 山岸はまだ部屋で一息吐いてるだろうか、と思いながらもルームキーを手に廊下へ出る。隣屋の扉前に立ちインターフォンを押すと、中から元気のいい声が聞こえた。ドタドタと騒がしい足音と共に施錠が外される。

「結城先輩……すみません」

 扉を少しだけ開けた山岸は、どこかしょげかえったような表情で結城を見つめていて、一体何ごとかと困惑する。
 ドアの隙間から見える限り、彼は腰にバスタオルしか巻いておらず全裸に近い。濡れた髪をタオルで拭いていたのか、頭からバスタオルを被っている。どうやらさっきまでシャワーを浴びていたらしい。

「あ、まだ早かったか? シャワーの最中?」
「いや……そうじゃなくて、ですね……。あの、入って下さい。あ、でも引かないで下さいね?」
「は?」

 山岸のおかしな忠告に首を傾げながら、開かれた扉から中へ入る。結城の部屋と同じレイアウトは寸分違わず違和感もない。エアコンの音まで同じなのには笑いそうになった。

「ゆっくりしてていいぞ。俺はテレビでも見てる」

 そう言いながらソファへ腰を下ろす。テレビが付いていて、さっきまで結城が見ていた番組が流れていた。

(同じの見てたのか)

 あまり興味のない番組をしばらく見ていたが、洗面所に入った山岸がなかなか出て来なくて気になった。一体どうしたのかと様子を見に行くと、まだ腰にバスタオルを巻いた格好で鏡に顔を近づけて真剣な眼差しでなにかを見ている。

「どうした?」
「なんか変なんですよ。シャワーあがってマッパで寝転がって涼んでたんですけど、一瞬落ちたなと思ってその後、こんなになってるってどう思います? この部屋、ダニとかいるんじゃないっすかねぇ」

 山岸が首を押さえているタオルを外して見せてきた。そこにはくっきりと人の歯形が付いていたのだ。首の傷は真っ赤になって出血していて、あまりにも見覚えのあるそれにゾクッとする。

「おま……これ……」
「ね? ひどいっしょ? フロントに文句言ってやりてぇ」
「なあ、お前……俺の部屋、入った?」
「はい? ルームキーもないのに入れるはずないじゃないっすか。それに、俺が先輩の部屋に入ったのと、この傷とどう関係してるんです?」
「あ……まあ、そうだよな」

 イテテ……と彼は傷口をタオルで押さえながら、シャツから見えそうだな、と呟いていた。この現象がどういうことなのか分からない。そして夢であろうと思っていたあの時間を思い返す。

(俺、こいつに……いっぱい……付けられた?)

 首筋に胸元に、しつこく何度も吸い付かれたことを思い出した。もしもそれが自分の体にあったら、と考えて背筋がゾクリとする。二度目にシャワーへ入ったとき、そんなことを気にも留めていなかった。もっとちゃんと見ればよかったと後悔する。

「俺、ちょっと、部屋に忘れ物……」
「え? 先輩?」

 慌てて部屋を出ていく結城を、山岸が不思議そうな顔で見ていた。
 自分の部屋へ戻りすぐにTシャツを脱ぎ捨てる。洗面所の電気を付け、怖々鏡の前に立った。

「あ……そんな、そんなのって……」

 体中には、無数に付けられた赤い跡があった。想像以上の数に結城は驚愕する。まさかと思い、鏡に映った背中を見ようと体を捻って後ろを振り返った。そこには同じ赤い跡がたくさん付けられている。あのとき確かに結城は体を動かせなかったはずだ。

「どういうことだよ……。なんでこんなことになってるんだ?」

 何度確かめてもそれは変わらない。指で擦ってみても消えなくて、急に怖くなってくる。

「なん、なんだ……これ」

 必死に鏡に映した自分の姿を確認する。そうしているうちに、付けた覚えのないエアコンのあの重低音が響き、ビクッと肩が震える。ベッドのある方をそっと覗くと、薄闇に人影が見えてドクンと心臓が跳ね上がった。

(誰? 誰かいる?)

 背筋がゾクッと泡立った。身震いにも似たようなそれに戦慄しつつ、だが結城は目の前にそれを確認しようと近づく。

「結城先輩、どうしたんですか?」

 そこに立っているのは山岸だった。あのときと同じ、笑みを浮かべた山岸だ。驚いて目を見開いた結城はその場に固まった。

(いつ部屋に入ったんだ? これは……本当に山岸なのか?)

 不自然な程、取って付けたような笑みは不気味だった。その山岸のようなものが、一歩こちらへ近づいてくる。距離が縮むごとにゾク、ゾク、と悪寒が背筋を駆け抜けた。本能的になにかおかしいと気付いて、洗面所に戻った結城は扉を閉めて鍵を掛ける。
 怖い、と思った瞬間から、心臓が体の中で暴れている回るように早くなり、ドクドクと結城を煽るように大きな音が響き渡った。

(なんだよ、なんだよ、なんだよ! あれはなんなんだよ!)

 怖くてどうしようもなくて、扉から一番離れた場所で壁に背中を押し付け、荒くなる呼吸を抑えられずに肩が上下する。
 そして、ドン、と扉を叩く音が聞こえて、結城はビクッと全身で震え上がった。

「先輩、どうしたんですか? 結城先輩」

 扉の向こうにあの山岸がいる。不気味な笑顔の山岸がいる。
 ドン、ドン、ドン、ドン、と規則的に扉が叩かれ続け、先輩、先輩、と繰り返し呼ばれた。このままどうすればいいのか分からずパニックになっていると、ジーンズの尻ポケットにある携帯が振動する。驚いた拍子にゴミ箱を蹴飛ばした。

「うわっ、はっ、ふっ……あ、電、電話っ」

 慌てふためいてそれを取り出し、震える指でタップする。

『あ、結城先輩。忘れ物、見つかりました? 俺、もう廊下に出て待ってますけど』

 それはいつも聞く山岸の声だった。だったらあの扉の向こうにいるあいつは一体なんなのか。

「山……山岸……お前、どこにいるんだ? お前っ!」
『え? だから廊下にいるって言ってるじゃないですか。飯、行くんですよね?』
「結城先輩。ここ開けて下さいよ。先輩、先輩、先輩」

 洗面所の扉の向こうにも山岸がいる。

(どうなってるんだ。あれは夢じゃなかったのかよ! どうなってんだよ! 誰か……助けてくれ!)

 震える手でスマホを耳に当てながら、結城は必死に助けてくれと叫んでいた。その緊迫感が伝わったのか、電話越しの山岸が焦ったような声で、フロントへスペアキーを取りに行く、と言い残して切ってしまった。

(くそっ! あいつなんだよ! 切るなよ!)

 ずっと扉を叩き続けていた扉向こうの山岸が、フッと急に静かになった。そうなると、今度は違った恐怖が結城を包む。
 目の前にはさっき蹴飛ばしたゴミ箱が転がっていて、中身が足元に散らかっている。その中に、鏡に貼ってあった子供用のシールが目に付いた。

(まさか……これじゃないだろうな。そんな古典的な、そんなことってあるのかよ)

 結城は半信半疑でそのシールを拾い上げ、元々貼ってあった鏡の左下に押し付ける。しかし粘着力が弱っているのか、シールの端がまくれ上がってきた。

「なん……なんだよもう!」

 何度も何度も上からそのシールを擦った。指は摩擦で熱くなる。

「センパイ……ココアケテクダサイヨ」
「ひっ!」

 聞いたことのない男の声だった。音声変換器を通したような、幾重にも重なった薄気味悪い声だ。

「センパイ、センパイ、センパイ……ココ、アケテクダサイヨ」

 ガチャ、と洗面所の扉のノブが回される。鍵が掛かっているので開かないが、それでも恐怖と不安に結城は押しつぶされそうだった。

「もうやめてくれ! もう勘弁してくれよ!」

 そう叫びながら何度もシールを貼り直す。親指にはシールの赤い色が焼き付くように転写されている。そしてシールの色はどんどん薄くなっていった。この色褪せは年月のせいではないと、このとき初めて気がついた。この部屋の宿泊客が、結城と同じように擦ったのだ。

(気付けばよかった! こんなシングルで地味な部屋に子供のシールなんて、貼ってあるわけないんだ!)

 ガチャ、ガチャ、ガチャ、ガチャ、と激しくノブを回され、押込式のドアロックが徐々に緩んできているのが目に入った。

「お願いだ! もうやめてくれ! いやだ! いやだあああああ!」

 カチンとロックが外れた音が聞こえ、結城は慌てたように扉に手を伸ばす。自分の動きがまるでスローモーションのように見え、ゆっくりと扉が開いて細い隙間が広がった先は、まるで暗黒に繋がっているような気がする。
 結城の手はドアノブに触れることなく洗面所の床の上へ倒れていき、そこで意識はフツリと途切れたのだった。


◇    ◇    ◇


「先輩、これでよかったんですよね」
「おお、サンキュ」

 山岸からカロリーゼロのコカコーラを受け取った。
 今日も相変わらず猛暑だ。コーラの炭酸を喉に流し込んでしばしの清涼感を味わう。
 結城と山岸は東京駅のホームで新幹線を待っていた。
 今日、全ての得意先を回り終え、手荷物には土産の袋が増えている。あとは新幹線に飛び乗って帰るだけ、という状態だ。

「しかし、初日に先輩がぶっ倒れたのにも驚きましたけど、まさかホテルを変更することになるとは思いませんでしたよ」
「それ、誰にも言うなよ? いい歳したおっさんが貧血でぶっ倒れたなんて、恥さらしもいいところだ」
「言いませんって。結城先輩の名誉にかけて!」

 調子のいい山岸の口調と、にこやかに微笑む顔を見れば、未だに悪寒が走るのはもうどうしようもない。彼が首の汗を拭く度に、シャツの襟元からは痛々しい歯形の跡が見えて、イヤでもあのことを思い出させた。

「ねえ、先輩。ホテルに泊まったらこういうのって見たりしません?」

 俺って見ちゃうんですよね、と山岸がスマホの画面をこちらへ傾けてくる。そこには『心霊現象の起こるホテル一覧』というタイトルが、黒い背景に赤文字で浮かび上がっていた。

「お前、バカじゃないのか? そんな子供みたいなことするなよ」
「だって見て下さいよ。俺らが最初に泊まったホテル。ここに名前出てるんですよ」

 ゾクゾクと這い上がる悪寒に結城は奥歯を噛みしめた。

「そんなの、本当かどうか分からないだろう? ほら、新幹線が来たぞ。荷物持てよ」
「あ、はい!」

 結城は親指の腹を人差し指で何度か擦り合わせ、必死にあの日のことを頭から追い出す。
 あの日、体験したことのどこまでが現実で、どこまでが夢なのか未だに分からない。しかし山岸のあの傷が消えない限り、これからも現実であることを何度も思い知らされるのだろう。

END

雪彩きれい
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