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第3回 BL小説アワード「怪談」

残酷な飛沫

R18/性描写あり

 奇妙だった。彼の存在自体に違和感を覚える。そう思った瞬間、目の前の男の姿が、フッと消えた。

ミルクオオメ
グッジョブ

どこかから、懐かしい太鼓の音がする。
お祭りのお囃子の音だ。

7月の半ば。
夕方になると、昼間の蒸し暑さが嘘のように消えた。
とは言っても、四六時中、空調の効いた病院の中に居る自分には、今が何月なのかさえ忘れそうになる。
今晩、当直医の吾妻は、シンと静まり返った病院の窓から風に大きく揺れる木の枝を見つめていた。

その日、吾妻は看護師からの連絡に一重の目を顰めた。
これから救急車で運ばれて来るのは、50段もある神社の階段を落ちたという、まだ24歳の青年だった。
夏祭りの夜に、階段から落ち掛けた子供を助けようとして、一緒に落ちたという。
何段目から落ちたのかはわからないが、頭部もかなり打っているようで、無意識の重体。
その代わり、子供の方は意識もあり、検査は必要だが見た所の外傷は足の骨折程度らしい。

何も祭りの夜に、そんな事故を起こさなくてもいいのに・・。

神社の境内で起きた事故に、神様に文句も言いたくなる。

救急車が到着するまで、あと10分。
煙草を1本吸うのに十分な時間だ。
寝ぐせのついた髪を掻きむしり、青い術着の上に白衣を羽織ると、吾妻はサンダルで外来の非常口へと大股で向かった。
元々薄い体が、白衣に包まれると余計に細く見える。
切れ長で薄闇掛かった瞳に高い鼻梁、特に目立つ顔立ちでは無いがバランスが程良く整っていて、シルバーフレームの眼鏡を掛けると、吾妻の雰囲気は美人秘書顔負けだ。

検査の結果次第では、緊急の手術になるかも知れない。
外科は苦手だ・・・。

小さなメスと溶ける糸で縫合するのは慣れたものだが、整形外科手術を長時間行うと感覚がおかしくなる。
人間の体にドリルとノコギリとトンカチ。
折れた骨をプレートを使って繋げるために、無事な骨にドリルで螺子止めして固定する。
もちろん傷の大きさにもよるが、プレートに螺子を入れるため、それなりに大きな視野が必要となる。つまり、実際の作業をするためには皮膚を大きく切るという事。
その行程を思うと、まるで、自分が大工にでもなった気分になる。

大きな怪我じゃなきゃいいんだが・・。

白衣のポケットから出した煙草を1本口に咥え、火を点ける。
2、3度軽く吸い込み、しっかり火を燃やしてから深く肺に煙を吸い込んだ。
煙草を咥えながら見るともなしに、搬入口を急ぎ足で行き来するスタッフを見ていると、遠くからサイレンの音が聞こえて来た。
徐々に近づいて来るサイレンの音に急かされ、吾妻はまだ半分もいかない煙草を灰皿の中へ放り捨てた。

男の怪我は想像以上に重かった。
頭骸に何カ所か陥没骨折が起きていて、術後2日経った今でも意識不明の重体だ。
折れていたのは、肋骨2本、大腿骨に、尺骨、手の中手骨の計5本。
特に酷かったのは、左足の股関節の脱臼骨折。
皮膚を突き破りかけていた骨折で、本人に意識が無かったのは不幸中の幸いと言える。
自己呼吸は行えているが、頭部に受けた損傷は予断を許さない。
いつ急変してもおかしくないため、集中治療室の横の個室で24時間ケアが必要だった。
脳が受けた損傷によっては、このまま意識を取り戻さない可能性もある。
これを家族に伝えるのが一番辛い。
まだ若いから余計だ。
それも、自分の過失では無く、子供を助けようとした善行によって負った怪我だ。
誰しもが、彼の早い回復を祈っていた。
それは、手術をした吾妻も一緒だ。
神様が本当にいるなら、子供をかばって怪我をした男の目を覚ましてやって欲しい。
本当に、神様がいるならば・・。

吾妻は青年の様子を見るため、集中治療室の隣の部屋のスライドドアを開けた。
「三木さん、入りますよ」
患者の名前を呼びながら、部屋に入る。
隣の集中治療室がやたら明るいため、間接照明だけの部屋の中に入ると、一瞬、目眩に似た感覚に襲われた。
瞬きを繰り返しながら、ベッドの回りを取り囲むカーテンをパッと開けると、そこに青白い顔の男が立っていた。
誰も居ないと思っていたから、吾妻はびっくりして、一歩後ろによろけた。
「こんにちは・・」
咄嗟に挨拶を口にしたが、よく考えたら、面会時間は既に終っている。
それに、この病室は家族以外、面会謝絶の筈だ。
男の見た目は20代から30代くらい。
前髪を目の下まで伸ばしていて、髪の隙間からじっとりとした目がこっちを見ている。
顔は、面長で、頬がこけてげっそりとしていた。
唇は細く、真一文字に閉じているが青紫で、まるで病人のように色が悪い。
そして、着ているスーツが透けるように薄い。擦り切れ、所々にシミがある。
これは、ボロと言ってもいいくらいだった。

奇妙だった。

彼の存在自体に違和感を覚える。
そう思った瞬間、目の前の男の姿が、フッと消えた。
それは、まるで砂が崩れ落ちるように、フッと消えたのだ。
吾妻は、慌てて辺りを見回したが、誰もいない。
もしかして、出て行ったのかとドアを振り返ったが、ゆっくりとしか動かないスライドドアはピッタリと閉じていて、誰かが出て行った様子は微塵もなかった。
小さな部屋だ。
くるりとベッドの周りを一回りすれば、人が隠れられる場所など何処にも無い。
もう一度、カーテンを閉じて、開けて、見る。
そこには、点滴に繋がれ、頭を包帯で巻かれた青年がベッドの上に寝ているだけだった。
混乱しながら、自分は白昼夢でも見たのか、それとも、何かの見間違いだろうかと、吾妻は首を捻った。
患者の左足の傷を見るために布団を腰の辺りまで捲り、吾妻は虚を突かれた。
今探していた男の青白い顔が、そこにある。
吾妻は「うワッ」と、悲鳴を上げ、後ろに尻餅を突き、ベッドのすぐ横の壁に激突しながら後退った。
ベッドの中から男の顔がコロリと横を向き、こっちを見る。
白い顔だった。
生気の無い灰色の目だけがギョロギョロと動き、口は固まったように動かない。
何が目の前で起きているのかわからず、吾妻は藻掻くように慌てて病室から飛び出した。

布団の中に首があった。
それもこっちを見て、眼球がギョロギョロと動いていた。

そんな事がある訳がない・・!

病院に務めて、もう8年になるが、幽霊などの類いには一度もお目に掛かった試しはない。
しかも、布団の中に、生首?
そんな非科学的な事が起こる筈がない。
どうかしてるんだ。
自分は疲れているんだ。
そう自分で自分を説得し、何とか呼吸を整える。
気のせいだ。
見間違いだ。
こんな事ある訳がない。
そう思い込もうとしても、今飛び出て来た病室へ、すぐに戻る気にはなれず、手の空いた看護師に彼の包帯の交換を頼んでしまった。

気のせいだ。
気のせい。
そう思い込もうとするが、青白い男の顔が脳裏に焼き付いて離れない。
自分の妄想が見せた顔なら、誰かに似ていたり、あやふやだったりする筈なのに、くっきりはっきりと男の顔の造作を思い出せてしまう。
それこそ、目の前で実物を見たように。

こんな事、ある筈がない。
絶対にない。
バカバカしい・・っ
あれが、幽霊だって?

一度芽生えた恐怖心を抑えるため、吾妻は自分自身に強くそう言い聞かせた。
担当医である自分が彼を診察するためには、こんなバカな事が二度と起こっていい訳がない。
これが自分自身気付かなかった日々のストレスの現れなのか、自分の弱気が見せた目の錯覚なのか。
とにかく、自分の患者から逃出すような、こんな無様な真似はもう二度としたくない。
自分は医者だ。
患者を診るのが仕事なのだ。
例え、あれが幽霊だったとしても、自分には自分の責任がある。
吾妻は、しっかりと深呼吸をすると、三木の部屋へと向かった。
ドアを開ける。
今度はカーテンが開いていて、看護師が三木の足のガーゼを外している所だった。
「あ、お疲れさまです」
看護師の声に吾妻はホッと息を吐き、「悪いね、頼んじゃって」と詫びを入れた。
けれど、吾妻が男の首を見たのは、それが最後では無かった。

依然、三木の容態は、一週間しても変わらず、このままいくと集中治療室の隣から一般病棟へ移動になりそうだった。
あの日以来、三木の横に立っていた男の姿は見ておらず、吾妻は自分の目の錯覚だったと納得している。
いや、納得しようとしている。
あんなにはっきりと、幽霊を見た事など無い。
だから、あれが幽霊かどうかはわからない。
あんなにはっきりと見えるものが幽霊と言えるのだろうか。
幽霊があんなにギョロギョロと目を動かせるのかも疑問だ。
この事を考え始めると、とにかく疑問点ばかりが頭の中を占領し、吾妻は自分の事とは言え、うんざりした。
そろそろ気分転換が必要な時期なのかも知れない。
親しい友人を誘って、酒でも飲みに行くべきだ。
そう自分に言い聞かせ、募る愚痴でも聞いて貰おうと、その週末、何度か寝た事のある友人を誘った。

「吾妻さん、久しぶり」
バーでオレを待っていたのは、大学の5歳年下の後輩の藤木だ。
精悍な顔立ちと、撓る様な筋肉質な体躯は相変わらずで、少し気怠気に背を丸めて頬杖を突いている姿がよく似合う。
このやる気のなさそうな雰囲気が気に入って、研修医時代はよくつるんだ。
つるんだと言っても、学生だった藤木を、こっちが連れ回していたようなものだが。
「急に誘って、悪かったな」
「全然。うちは大きい病院じゃないから、夜は暇だしね」
「そんな事言って、親父さんに怒られるぞ」
「まさか、親父の方がオレよりサボってるよ」
言いながら、ウェイターを呼び、手慣れた仕草で煙草に火を点け、酒とつまみを注文する。
濃紺のジャケットにVネックの白いニットとタイトなブラウンベージュのチノパン。
大学の頃もそうだったがどんなに地味な服装でも、背が高く手足が長い藤木が着るとカッコ良く見える。

やっぱりいい男だな・・。

眼福だと目を細めて見つめると、藤木も吾妻へ笑顔を返してくれた。
数年前、この男を独占したいと思った事もある。
けれど、自分も藤木も忙しい状態にあり、逢う事もままならない生活だった。
多分、お互いに好きだと想っていたと思う。
一度キスをしたら、すぐ、抱き合う関係になった。
けれど、恋人と呼ぶには遠過ぎて、友人と言うには好き過ぎた。
だから、歯車が狂った。
変な嫉妬を1人で繰り返し、最後は自棄になって勝手に諦めた。
独りよがりな恋だった。
愛してると言った事はないけれど、好きだと言った事はある。
男同士の壁か、好きから上にいけなかった。
本当に好きだとは、変な意地が邪魔して告白出来なかった。
何となく離れて行くオレを、藤木も止めなかった。
何にでも淡白な男だったから、そういうものだと受け止めていたのかも知れない。
けれど、それで良かったんだと思う。
今も、こうして、何ヶ月かに一度会う事が出来るのだから。

「吾妻さん、変わんないね」
尻を高く上げさせられ、バックから藤木に責め立てられる。
腰を強く掴んだ藤木の手が熱い。
一度、中で藤木が達すると抽挿がゆっくりとなる。
肉襞の中を、藤木の熱がねっとりと抜き差しされる。
その動きで、藤木の視線がふたりの繋がりに注がれている事に気付き、吾妻は肩越しに藤木を振り返った。
「早く、動いて・・藤、木っ」
「ん・・これ?気持ちよくない?」
「いいけど・・だって・・、見るなよっ・・!」
「やだ。見たい。吾妻さんのエロいとこ、一杯、見たい」
「何だよ、ソレ・・っ」
「だって、吾妻さん、全然、連絡くれないし・・。ただ待つ身のオレが、アンタと会える日をどれだけ楽しみにしてるか、わかってないでしょ?」
そこで、オレは笑ってしまった。
「いいよ・・気を持たせるような事言わなくて・・オレは時々、会えたらそれで・・」
こんないい男が、自分に本気になる筈がない。
「ほーら、そう言って逃げちゃう」
言うと同時に、藤木の硬熱にズンッと奥まで貫かれ、背筋がぶるりと粟立った。
「う・・っ藤木・・っ」
「もっと奥まで入れさせて?ね?こっからオレを出さないで」
甘えるような藤木の声音に翻弄され、不本意ながら藤木の昂りを締め付けてしまう。
「あぁ・・、すげえイイ・・、吾妻さん、好きだ。好きだよ。ねえ、好きだよ?吾妻さんは?ねえ?」
言いながら藤木が、再び硬くなった男根で、強く腰を穿って来る。
襞の中を、勢い良く硬い肉塊で突き上げられれば、答えになるような言葉など口に出来ない。
それがわかっていて言っているのか、藤木は一方的に、好きだ、好きだ、と訴えてくる。
まるで、吾妻の答えなど関係無いと言ってるようで、それは嬉しい気もするが、やっぱり悲しくもなる。
一方的に与えられる快感も悪くないが、愛し合うなら自分も藤木を愛したい。
闇雲に抱かれるなら、相手は誰でもいい筈だ。
藤木に女の代わりに抱かれているような気分になって、そんな気持ちのズレからか、同時に絶頂を迎える事は出来なかった。
体の中に出された後、藤木の口淫と、尻の中を指で愛撫されて射精した。
自分が吐き出した物をゴクリと喉を鳴らして藤木が飲み込む。
それがまるで懺悔しているみたいで、吾妻はまた傷ついた。
丁寧に全て舐め取られる事で、辱めを受けている気持ちになる。

好きなんだ・・オレ、まだ藤木が好きなんだ・・
だから、こんな事で傷ついたりするんだ。

鬱陶しい気持ちを頭の隅に追いやり、気怠さに身を委ねる。
眠りに落ちる瞬間、藤木の顔が見たくて、薄らと瞼を開けると、部屋の奥に白い顔の男の姿を見た気がした。
まさか、と思うが、視界を塞ぐように藤木の顔が寄り、唇に甘いキスを受けて恍惚となる。

男同士のなんか見て、楽しいか・・?

男の姿に怯える気持ちを抑え、吾妻は胸の中で、そう毒突くしか出来なかった。

休日明け、いつものように診察室に入り、吾妻は息を飲み込んだ。
朝8時。
白い壁に沿うように、足の無い男が立っている。
目の周りは窪んで真っ黒に見え、唇はチアノーゼのように紫色だった。
着ている物は、黒い擦り切れたスーツ。
幽霊が出る時間ではない。
白昼夢にしては度を超えている鮮明度だ。
思わず、後から入って来た看護師を振り返ったが、彼女は「何ですか?」と小首を傾げている。
見えていない。
彼女には、見えていないのだ。
なら、これは、気のせいだ・・。
そう自分の心に言い聞かせ、そっと顔を前に戻すと、男の顔が目の前にあった。
鼻息すら感じられそうなくらい近い位置。
けれど、男からは呼吸どころか、体温も、生気も、何も感じられない。
その男の唇が動いた。
『子供の、代わりを、寄越せ』
ボソボソとざらついた声が、吾妻の鼓膜を直に揺らした。
体が硬直して、目の前の男を押しのける事も振り払う事も出来ない。

なんのことだ?
子供?
誰の子供?

「子供なんていない」
声に出すと、看護師が「え」と振り返った。
「先生、どうしたんですか?外来開けますよ?」
彼女の声をきっかけに手を動かすと、凍り付いていた体から力が抜け、男の姿はもうそこには無かった。
どっと冷や汗が脇の下や掌から噴き出す。
額を擦り、汗を手の甲で拭って、深呼吸した。
すぐに診察室に「おはようございます」と患者が入って来る。
頭の中を何とか切り替え、患者のカルテに目を通したが、どうにも集中出来ない。その日、吾妻は診察中、凡ミスを繰り返した。

次の日、三木の体は、病態が小康状態にあると判断され、一般病棟に移る事になった。
ただ、いつ三木の目が覚めるかは、誰にもわからない。
毎日訪れていた家族も徐々に数が減り、最近では母親の姿ばかり。
家族にもそれぞれの生活があるのだから、仕方がない事だが、見舞客の少なくなった病室は寂しいものだ。

病室を移動して2日後、三木の目が奇跡的に覚めた。
顔中あざだらけの顔で、三木はオレを見た途端、言葉を失った。
「三木さん?どうしました?」
愕然としている三木に手を伸ばすと、三木はオレの手を嫌がって払い除ける。
「や、やめろ・・!触るなっオレに触るな・・!」
「ちょっと、待って、三木さんっ私は医者です!三木さんの怪我を診に来ただけで・・」
説明するが、興奮状態の三木をこれ以上刺激するのは良くない。
「わかった、触らない、触らないから!」
両手を上げ、吾妻は降参のポーズを取ってベッドから離れた。
三木は青褪め、体を萎縮させて「いやだ、いやだ」と首を小刻みに振る。
何かの発作か、看護師を呼ぶと、自分は病室を出た。
スライドドアを横に開くと、ドアの前に、青白い顔の男が立っていた。
目元まである長い前髪の隙間から昏い目が吾妻を見つめている。
『アイツの代わりを、寄越せ』
男の口元がいびつに引き上がるのを見て、吾妻の体は頭から冷水を被ったようにガクガクと震えた。
『お前を寄越せ』
ザラザラした男の声が、自分の耳の中で聞こえた。
それと同時に、男の体が自分の中に吸い込まれるのを見た。
自分の体の中に男の影が入った。
「わああああッ」
吾妻は急いで自分の体中を手で叩いて、払って、掻きむしった。

嫌だ、嫌だ・・!!
今、何が、起こった・・!?
やめろ・・!!
イヤだ・・!!

居ても立っても居られず、逃げるように吾妻は廊下を走り出す。
『逃げたい』という強迫観念に迫られ、吾妻は階段を駆け下りた。
踊り場で折り返し、再び階段を駆け下りようとした瞬間、目の前の階段を、下からあの男が這うように上がって来る。
ズルズルと階段の上を舐めるように四つん這いに這い上がって来る男の姿を見て、吾妻はその場で失神し、膝から頽れた。
幸いにも、上半身が踊り場側に倒れ、膝から下の足が階段を2段滑ったが、三木のように階段から体が転がり落ちる惨事にはならなかった。

その後。
階段から落ちなかった吾妻を待っていたものは、更なる恐怖だった。

それから一週間もしない内に、藤木から連絡があった。
あまり乗り気はしない。
なぜなら、あの男の気配がずっと消えないからだ。
だからと言って、後ろを振り返れば、必ずしも姿が見える訳ではなかった。
どこかにいる・・。
自分を、どこかからか見つめている。
そんな気がしてならない。
神経質になっている事は確かだった。
あれだけ怖い思いをしたのだから、仕方ない。
藤木にさえ打ち明けられず、仕事中も集中力を欠いた。
いつもはしない、処方箋を間違えるなんて失敗に落ち込み、すっかり気持ちが塞ぎ込んでいた。
こんな気分で藤木に会っても、抱き合う気分になどなれそうもない。
それでも、惚れた弱みで誘いを断れず、吾妻は幽霊の影を気にしながらも待ち合わせ場所へと出掛けた。

「元気ないって聞いてさ」
二人でよく行くバーで、藤木が人目を避けるように、奥の席に座る。
藤木の言葉に、吾妻が視線を上げると藤木は困ったような顔でテーブルに頬杖を突いた。
「誰に・・?」
「誰だと思う?オレね、自分でもここまでするつもりなかったんだけど・・。吾妻さんの勤め先の病院で、以前、研修先で一緒だった看護師見つけて、時々、吾妻さんの様子教えて貰ってたんだよ」
それを聞いた吾妻の気分が暗くなり掛けたのを察し、藤木が慌てて誤解を説く。
「チガウからなっその看護師と付き合ってる訳じゃないから。アンタの事聞きたくて、メールしてるだけだ。今回のも、アンタが元気ないって教えて貰ったし。っていうか男の看護師だし・・」
そう拗ねるように藤木が言い訳するのを、吾妻は「男だったら、尚更悪いよ」と、笑った。
「あのね・・吾妻さん、オレ、前から言ってるけど・・オレ、アンタの事が、・・あー・・部屋行こう。こんなとこで、言う事じゃない」
照れて髪を掻き上げる藤木に、自然と口元に笑みが零れる。
「行こう。オレの部屋」
囁くように耳元で誘われ、胸の奥がじんわりと熱くなる。
もう一度、やり直せるんだろうか。
諦めていた関係を、藤木から望まれる。
そんな夢のような期待に胸を膨らませて、吾妻は藤木の背中を眩しそうに見つめた。

最近は、悪い事ばかりだった。

もし、この世に神様がいて、人生の中のいい事と悪い事の帳尻を合わせてくれるとしたなら、その『お返し』が、もしかしたら、今、来たのかも知れない。
そんな都合のいい話は無いかも知れないけれど、目の前の男が少し恥ずかしそうな顔で、はにかんでいるのを見れただけでも、吾妻は満足だった。
「藤木、好きだよ・・」
藤木にだけ聞こえる声で囁くと、吾妻の手が藤木の手の中に包まれた。

藤木の部屋に入るなり、お互いの服を脱がせ合い、ベッドに転がり込んた。
熱い抱擁と甘い口付けの後、ゆっくりと体を繋げる。
何度も抱き合った事のある体なのに、気持ちを知った上で抱き合うと堪らなく恥ずかしくなる。
気持ちが昂るせいか、絶頂は駆け足のように早かった。
代わりに二度目は、大事そうに丹念に抱かれる。
自分もその気持ちは一緒で、出来るだけ沢山、藤木を愛そうと動いた。
「吾妻さん・・もうっ」
二度目の絶頂に向けて、藤木が悔しそうに音を上げる。
その表情が愛しくて、吾妻は藤木の腰に手を伸ばして、もっと、と引き寄せた。
自分の要求に応えるように、藤木の充溢に内奥を穿たれ、糸で引き絞られるように吾妻の快感が鋭くなる。
「吾妻さん・・っ吾妻さん、好きだっ好きだ・・っ」
乞うように名前を呼ばれ、吾妻は爪先でシーツを掻き、身を捩った。
心臓が破裂しそうな速さで鳴り、身体の中心で藤木の鼓動と自分の鼓動がぶつかり合う。
「あ、あ・・藤木、好き・・好きだ・・っ愛してる・・っ」
一際、強く抱き締め合った身体が痙攣する。
放出の瞬間、二人は噛み付くように口付け合った。

これ以上幸せな瞬間は無かった。

けれど次の瞬間、吾妻は言葉を失う。
頭を上げた藤木の顔が、あの青白い男の顔に変わっていた。
「ヒッ・・!!」
一気に全身が凍り付き、吾妻は息が出来なくなる。
「これからは、ずっと一緒だ」
耳に届いたそれが、藤木の声だったのか、男の声だったのか分からない。
もう一度男の顔が寄り、金縛りで動けない自分の唇に紫色の唇が押し付けられた。
冷たい、唇だった。
さっきまで感じていた藤木の熱は、どこにも感じられない。

これは・・何?
何が、起こって・・?
藤木は、どこ?
オレが抱き合っていたのは、誰?
どこから・・!?
どこから、オレは夢を見ていた・・!?

『もう離さない』

耳の中で、ざらりとした男の声が響き、身体の中にあるものが、ゆっくりと動き出した。

イヤだ・・!!

叫びたくても声が出ない。
指1本、身体が動かない。
なのに、身体の奥を激しく突かれ、甘く蕩けた身体は絶頂へと駆け上っていってしまう。

イヤだ・・イヤだ・・どうして、こんな・・・

自分を穿つ体は藤木のものでも、男の動きは何もかもが違った。
男の激しい抽挿に、ベッドがギシギシと軋み、肉が肌を打つ音が、手拍子のように壁に反響する。

絶対イキたくない・・!
嫌だーーーーーッ!!

その瞬間は、あっけなく訪れた。
男の動きが唐突に止まり、男の凶器が根元まで押し込まれる。
荒い呼吸が耳元で聞こえ、腹の中に叩き付けられる何かを感じ、吾妻は堪え切れずに飛沫を噴き上げていた。
目の前が真っ白になる。
強烈な快感に意識が朦朧として、今、憎いと思った相手を両腕の中に抱き締めていた。

絶望の飛沫だ。

『イキたくない』と思えば思う程、吾妻の身体は感じていた。
こんな事、間違ってる。
けれど、身体はこの男をより深く受け入れようと蠢き出す。
「ヤダ・・ヤダ・・」
身体の欲望に抗えず、吾妻は泣きながら男の腰に足を絡めた。


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