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第3回 BL小説アワード「怪談」

温室のまぼろし

エロなし

 自分の本当に大切なものがいつまでもその手の中に在ると思うのは奢りだ。いつ、何時失われるか、誰にもわからない。

はるのまひる
グッジョブ

「おはよう。」温室を開けて植物たちに掛ける言葉が結のその日初めて発する言葉になって三週間。一緒に住んでいる恋人の爽輔は先週の調査旅行で新種の蝶を発見したらしく、旅先からそのまま研究室に入り浸りで帰ってこない。同じ敷地内に職場があるので、偶然姿を見かけることはあるが、声を掛けあうほどの距離で逢うことはなかった。
「そろそろ梅雨に入るのかな。今日は少しじめっとしているね。」など、そこに保護されている植物たちに語りかけながら風を通したり、シェードを下ろしたり、室内の環境を整えていく。高山植物を研究対象としたその日から大学に来る日はほぼ毎日繰り返してきたその動きを無意識にこなしていると、
「こんにちは。」と、後ろから声を掛けられた。この時間誰かに逢うことは滅多になかったので、驚いて振り向くと、そこには黒いシャツに黒いパンツの細身の男性が立っていた。初めて見たその人は、結が普段関わる学生たちよりもほんの少し年上、自分と同じような年代に見える。誰だろう?ほかの学部の人?と思いながら、
「こんにちは。あの…何か?」と返答をすると、その人はふわりと近づいてきた。
「驚かせてすみません。今こちらの大学に縁あって来ています。理学部の生物科に。」と静かに答えるその人の言葉に、結はドキッとした。それは爽輔が研究室を置く学部だった。
「理学の生物科というと、あなたもあの蝶の事で?」と聞くと、
「ああ、はやりご存知でしたか。」と、傍の葉に手を触れつつ、答えた。
「いや、新種かも、と言う話を聞いただけで、詳しいことは何も…。あ、つがいで見つかったということも聞きました。」と結が言うと、その人は一瞬息を詰めて目を閉じ、ふっと息を吐き出してから
「一羽は死にました。」と告げた。
結の研究対象は植物だが、生き物を対象にするということでは昆虫も同じ。その生命が絶えてしまうという事に心の痛みを覚え、
「かわいそうに…。」と、自然と言葉がこぼれた。
つがいの片方が亡くなったのなら、生き残った一羽は寂しい思いをしているだろうな…と思いを馳せつつ、
「では、もう一羽の研究を?」と聞くと、
「それが、もう一羽は逃げてしまったようですよ。」と、相変わらず植物に触れながらその人は答えた。
「なので、今は逃げた一羽を捜索しながら亡くなった蝶を使って研究が出来ないか、模索中、と言うところです。」
 研究対象を逃がしてしまうなんて、爽輔らしくないな、と、眉を顰めながら思っていると、
「ところで、あなたは何の研究を?」と、室内を見まわしながら訪問者は聞いた。
「あ、僕の専門は植物です。高山植物から始まって、今は絶滅危惧種の研究を…。」と答える結の言葉に被せるように、
「人間のせいで環境が破壊され、失われていく種を、また違う人間が守ろうとする…あ、いや、皮肉に聞こえたらすみません。常々感じている事なので、つい。」と、今度は小さな花に触れながら彼は言った。
「いえ、まさに、おっしゃる通りだと思います。」と、結はその涼やかな立ち姿に答えると同時に、この人も研究生活においてそう感じることがあるんだな、と、仲間意識のような親近感も覚えた。
「それにしても、この温室は気持ちいいですね。」と、花に触れていた手を外し、結の方に向き直って、彼はニコリと笑った。
「ええ、ここは高山系の温室なので、温度、湿度がその環境に近いように設定されています。でも、これからの時期は日によって日差しが強くなったり、急に気温が下がったりするので、こまめにチェックするようにしています。微妙な調整は肌で感じないと出来ない気がして。ここに居る植物たちは暑いからといって、自分では移動できませんからね。せっかくここに来てくれたんだから、ちゃんとお世話しないと、と思っています。」そう言いながらも、小窓を開けたり、シェードを下げたりする結を、じっと見つめていた彼が
「しばらくここに滞在する予定です。またお話を聞かせていただいても良いでしょうか?」と尋ねて来た。
自分の作るこの環境が気持ちいいと言ってもらえて、うれしくなった結は、
「もちろんです。毎日この時間には来ているので、どうぞ。」と、答えつつ、ふと気になって、
「でも、蝶の方はいいんですか?」と、聞いた。すると彼は、花に触れていたその手を引いて、ゆっくりと結の方に向き直りながら、
「大丈夫です。僕にできることはもう何もありませんから。」と、告げた。

 結が爽輔と近い関係になったのも、その絶滅危惧種の研究からだった。
 学部が違ったので、直接話をすることはなかったものの、その大きな身体と、ポーカーフェイスが賑やかなキャンパスライフを満喫する学生たちから浮いていて、ある意味目立つ存在だった。   その孤高な雰囲気を見るたびに、いいな、と思っていた結は、たまたま同じ講義になると、その姿を目で追うようになっていた。そんな生活が続いた後、思いがけなくその人と初めて話す機会が出来た。三回生になった研究課程で爽輔が結の師事する教授のところに話を聞きに来たのだ。そして、たまたまその時研究室に居た結が、その資料を集めることになり、以後、爽輔との接触が増えたのだ。研究対象が違うけれど、テーマが同じ、と言うことも有って、日に日にその存在が身近になり、やがて、とあることがきっかけで密かに募らせていた結の恋心が爽輔の知るところとなり、お互いの小さな誤解が解けた後、晴れて恋人同士になったのだ。
 その後、大学院卒業後もお互い学生時代から師事していた教授の研究室に残って研究を続ける事ことになった。通う場所も学生時代と変わらないし、環境もそんなに変わらないか、と思っていたのに、学生と違って、本格的な研究生活に入ると、テーマ上、フィールドワークに出る事や、教授の供で学会に出ることが多くなり、二人で逢う機会が激減してしまった。
 爽輔に逢えないストレスと、新しい自分の生活のペースが掴めないことが重なり、結のストレスが極限に達しようとしていたところに、爽輔の結婚話を聞き、結は自暴自棄になりかけた。結局、それは噂から派生した誤解であることが解かったものの、離れて居るからこそ起こってしまった思い違いを根本から解消すべく、一緒に住もう、と爽輔に提案された。
「もう二度と結をこんな状態に追い込みたくない。帰る場所が同じならば顔を合わせない日が続いてもお互いの存在を近くで感じられる。」と、爽輔から言われた時は、自分の願望が見せる夢かと思った。もともとゲイで、生涯家庭を持つことを諦めていた自分と違って、結と逢うまで普通に生きて来た彼の将来を憂いて自分から言い出せなかったことを切り出され、結は喜んでその提案を受け入れた。
爽輔の揺るがない気持ちを示されて以来、その時に貰った言葉を胸に、以前と同じく一緒に過ごせる日がほとんどなくても、二人の空間に住んでいるというだけで、伸ばしても伸ばしても掴みきれない、手探りだった爽輔への距離感が無くなり、いつも爽輔を腕の中に感じることが出来た。
一緒に住んでからも海外のフィールドワークに出て一か月ほど留守にする事も今までにはあったし、今度もまたか、と、最初は思っていたものの、遠くに居て帰ってこない時とは感じが違うようで、姿を見てしまう分、いつもよりもやもやする気持ちを持て余しかけていた。

その言葉通り、羽根田と名乗るその男はあれ以来、毎日結のところにやって来た。それも結が温室に入ってすぐやって来るので、今では植物たちへの挨拶の次に羽根田に挨拶をするのが日課になっていた。
蝶の件で来たのだから昆虫が専門だと思い込んでいたけれど、彼は植物に関しても造詣が深く、結が教えられることも多かった。彼のアドバイスで位置を替えた植物が生き生きと葉を茂らせ始めたり、水のやり方を少し変えただけで生長を早めたり、机上の学問ではない、生きた学びを与えられる興奮に、いつしか結も羽根田と逢うことが楽しみに温室に向かうようになっていた。

羽根田と逢うようになって一週間ほどが過ぎた。
その日も羽根田と逢った後、結は研究室に戻ろうとして温室を出た途端、日差しの強さに眩暈を覚え、貧血を起こしたように倒れ込んでしまった。あぁ、久しぶりにやってしまったな、とその場にうずくまってやり過ごそうとしているのを、たまたま通りかかった学生が見つけて、医務室まで運んだ。
涼しい部屋の清潔なシーツの上で点滴を受けたおかげか、少し楽になって呼吸も落ち着いて来た結の様子を見た校医の岡田が、
「どう?あぁ、さっきより顔色も戻って来ているね、」と声を掛けて来た。
「すみません、僕…。」という結から点滴を外しながら、
「貧血。久しぶりじゃない?それを起こした元だと思うんだけど、ちゃんと食べてる?栄養が足りていない気がするよ。益々細くなってる。」と言われた。
 そういえば、爽輔が戻らなくなってから一人分の食事を作るのが億劫で、だんだんおろそかになっていたなぁ、と思いながら、礼を言って医務室を出た。
 倒れた後、意識的にきちんと食事をしたのに、次の日も少し身体がふわふわする感覚が残っていた。でも、もともと暑さに強いほうじゃないから、気候の変化にまだ身体が順応できていないだけだ、と思い、結はいつのもの時間より少し遅れて自宅を出た。が、バスを降りてから大学の門まで歩くのにも少し息が切れ、追い越して行く学生たちに心配されながら、さすがにこんなに体力無かったっけ?と考えつつ、なんとか門をくぐると、 
「結!」と、上の方から声がした。この声は…間違うはずがない。
「爽輔…。」と、声のする方を振り仰いで呟いた途端、また眩暈を感じ、結は傍の木の幹に手をついた。暫くそのまま木陰で息を整えていると、いきなり腕を掴まれ、ふっと目を開けると、そこには久しぶり身近に見る恋人の姿が在った。ほぼ一か月ぶりに触れられたその腕から、爽輔の温かさが伝わって来て、結は自然と微笑みを浮かべた。
 しかし、爽輔の方は眉間にしわを寄せたまま、
「おまえ、大丈夫か?昨日岡田先生から倒れたって聞いて。電話したんだぞ。何度も」と、心配げに結を覗き込んで聞いた。
「あ、ごめん。温室に置いたまま医務室に行くことになっちゃって。そのまま帰ったから…。」
と、囁くよう、だが、しっかりと爽輔の瞳を見て答える結の、その細い腕を掴んだまま、
「こんなに痩せて…ちゃんと食べろよ。一人でも。」そこまで言って、爽輔は、はっと気づき、
「いや、その、ごめん。ずっと帰れなくて…。」と、ばつが悪そうに眼を逸らした。
 それを聞いて、結は、
そう思うならちょっとでも帰ってきなよ、
と言いたいところだったが、
「仕方ないよ。大丈夫だ、僕は。そっちこそ忙しいんだろ?大丈夫?」と、聞いた。
 その言葉を受けて、不満もあるはずなのに、こうやって自分を労わって、研究にも理解を示してくれる恋人の優しさにいつも甘えてばかりだ、と、自分自身を苦々しく思った爽輔は、
「結…。」そう言って言葉を続けようとした途端、
「館川、電話。」と、さっき爽輔が結に言葉を掛けた窓から違う声が爽輔を呼んだ。ちっ、と舌打ちをした爽輔に、結は、
「ほら、呼んでる。僕も温室に行く時間だから。」と言って、掴まれた手をそっとほどく様に離した。
 今度は結に捕まれた手首から、爽輔が結のそのぬくもりを感じながら、
「つがいで見つけた蝶の片方が大学に着くころには死んでいて、残ったもう一羽もその2日後に逃げてしまったんだ。時々校内で見た、っていう奴がいるからまだここに残っていると思うから連日その捜索と、死んでしまった蝶から得られるデータの模索でずっとバタバタしているんだ。」と、珍しく焦燥感のある顔をして呟いた。
「そっか。見つかるといいね。僕も植物の世話をする時、気を付けて見ておくよ。」と、答える結の言葉に被せる様に、再び、館川!と呼ばれた爽輔は、じゃあ行くわ、おまえ、本当に気をつけろよと、言い残して研究棟に入って行った。
 久しぶりにちゃんと話した、やっぱり疲れていたな、と思いながら温室の方に向かおうとした時、すっと横から人影が近づいてきた。ふと見上げると、羽根田が今日も涼やかな立ち姿でこちらを見ていた。
「大丈夫ですか?昨日倒れたと聞きました。無理しない方が良いのでは?」と尋ねる言葉に、
「いえ。温室の中に居た方がリラックス出来るので。それに、昨日伺った話の続きも教えていただきたいし。」と、結はふわりと答えた。
 その答えを聞いた羽根田は、ゆらりと微笑み、
「そうですね。あそこは本当に心地いい。では、向かいましょう。」と、結の背中に手を回し、支える様にして、温室の方に向かった。
 
 いつもなら、羽根田が近くに居ると空気が澄み渡るようでとても心地が良いのだけれど、今日は随分ふらふらするな、外だからかな、など、考えながら温室のカギを開けた結は、室内に入った途端、ぐらりと世界が回り、崩れ落ちてしまった。
 その結の身体をしっかり支えながら、室内の木陰が作る場所にそっと座らせ、その壁面にもたれ掛けさせた羽根田は、暫く無言でその姿を見降ろした後、すっと右手を持ち上げ、結の額にその指をそっと当てた。
「この一週間楽しませてもらったよ。今日君が恋人に会った時は少し焦ったけれど、今思えば最後に一度逢わせておいた方が失ったものの大きさを更に実感できるかもしれないね。」と、ふっと妖しく微笑み、額に当てていた指を、今度はぐっと力を込めて結の額に押し当てた。
 すると、結の額からほのかに輝く光が湧き出て、羽根田の指を通り、彼の身体に吸い込まれるように消えていくと同時に、ぐったり目を閉じて壁にもたれ掛る結の顔がだんだん白く、生気が抜ける様になって行く。
「ああ、本当に君のエネルギーは澄んでいてとても気持ちがいいね。ここの植物たちも君の様にきれいな魂の元で世話されて 健やかに育っている。元居た場所から無理やり連れてこられてとても悲しいけれど、君の元に来れて少しはその悲しみも安らぐ、と言っていたよ。君が館川の恋人でなければ命を奪う事も無かったのだけれど。本当に残念だ。」と、感情のこもらない声で羽根田が続ける。
「これで最後だ。君はこのお気に入りの場所で植物に囲まれながら逝くんだ。大丈夫、君に苦しい思いはさせないよ。苦しい思いをするのは君の恋人だ。」その言葉が、意識を遠のかせつつも聞こえる様で、結は弱々しく首を振った。妖しく笑いながら結の額から生気を吸い取り続ける羽根田。そして、とうとう、結の首ががくりと横に倒れたその時、
「結!」と、入口の方から声がした。
 羽根田がふわりとそちらに目を向けると、息を切らせた爽輔がそこに立っていた。猛然とこちらに向かってくる爽輔の姿を見て、羽根田は結から指を剥がし、ふわりと身をかわした。
「結!おい、結!」羽根田から手を離されて、横向きに倒れ込んだ結を起しながら、爽輔はその身体を抱き起した。幸い微かに呼吸はしているようだ。
「おまえ、誰だ!結に何をした!」と、強い視線を向けてそう叫ぶ爽輔に、
「君が僕の恋人にした事と同じ事をしただけだよ。」と、目を眇め、妖しい笑みも消した羽根田が答えた。
「は?お前の恋人?」何言ってんだ?と、眉間にしわを寄せる爽輔を、羽根田の青みが掛った瞳がじっと見つめる。
 その瞳を見返しているうちに、彼の立ち姿と、そのゆらめく気に、まさか、と爽輔は息をのんだ。
「…おまえ、もしかして…。」そう言って、衝撃を受け、目を見開く爽輔に向かって、
「大切なものを失う悲しみ、今ならお前にもわかるだろ?」と、怒りに満ちた視線と共に、悲しみをたたえた声を、羽根田はぶつけて来た。
 その強さに押されながらも、
「違う、あの蝶は俺が見つけた時にはもう命が尽きかけていたんだ。」そう叫ぶ爽輔の声に被せるように、
「わかっているよ。あいつはもともと弱い個体で、だから僕はいつも側に居てあいつを守って来たんだ。ずっと見て来たんだ。だから、そんなことは言われなくても解かっている。でも、お前たちが来たことがあいつの命を縮めたのは事実だ。僕はあのまま、僕たちのあの場所であいつの命を終わらせてやりたかったんだ。それなのに…。」そういって、羽根田はきらめく涙を落とし、くちびるをかんだ。
 その叫びと、涙を目の当たりにした爽輔は強い衝撃を受けて息をのんだ。
「…すまない。確かにそうだ。俺のしたことがあの蝶の命が尽きるのを早めてしまったかもしれない…本当にすまない…。」と、爽輔は絞り出すように声を出した。自分の目の前で悲しみに包まれている羽根田を見て、何ということをしてしまったのか、と、後悔の念に包まれながらも、腕の中のぬくもりを逃さないようにぐっと抱きしめ直し、
「取り返しのつかないことをしてしまった。どんなに謝っても許される事じゃないことは解かっている。俺はどんな咎を受けても構わない。でも、結は…こいつには何の罪もない。」
「解かっているさ、そんなこと。彼の魂は本当にきれいで、ここに居た一週間、僕の悲しみも少しは癒される気がしたよ。でも、おまえに大切なものを失くす悲しみを味合わすためにはこうするしかないんだよ。」そう言って、羽根田は悲しみに満ちた瞳で結を見た。
「頼む、俺の命はいいんだ。だからこいつだけは…。」結の命は離すものか、と、しっかりとその身体を囲い込みながらそう叫ぶ爽輔の腕の中で、ふと、結が目を開けた。
「結!大丈夫か、結!」そう言いながら額に掛った髪を梳いてやるが、その顔は相変わらず真っ白で、焦点も定まっていなかった。結!と、その意識をこちらに戻すべく、強く抱きしめながら声を掛けたが、
「爽…。」と、吐息と共にその名前を呼び、一瞬弱々しい笑みを浮かべた後、再びがくりと意識を遠のかせた。
「頼む、結を…自分勝手だと思う。無理な頼みをしていると思う。でも、頼むから結だけは…。」悲しみに暮れる羽根田の気持ちが我がことのように解かりながらも、自分はいい、だけど、結を失うわけにはいかない、その一心で、爽輔は力の抜けたその身体に自分のエネルギーを分け与えようとするかのように抱きしめ、懸命にその名前を呼んだ。
 その時、ふと宙を舞う影が三人の真ん中に落とされた。そのゆらゆらと舞う影に気づいて、天井を見上げた羽根田が、息をのんだ。
「まさか…!」
 その言葉に、結を抱き込んでいた爽輔もふと視線を上に移し、それを見た。そして、
「そうだ!俺はこの姿を追ってここに来たんだ。てっきり逃がした方の蝶だと思って、追いかけて来たけれど…そうか、こいつが俺を結とお前の所に行くように導いてくれたのか…。」そう言って再び、結の方に視線を落とし、その頬に手を添わせた。
 強い衝撃を受けて、目を見開いたまま、羽根田は暫くその姿を見上げ、何かを交わすように瞳を揺らしていたが、ふっとその姿が消えた瞬間、瞳を閉じ、一筋の涙を落として、立ち尽くしていた。そして、ゆっくり、瞳を開けて、ゆらりと二人の方に近づいた。頼むから!と、悲壮感いっぱいに、縋り付く様に羽根田の腕をつかんだ爽輔の手を払いのけ、ゆらりと結の額に指を乗せた。その動きに、
「おまえっ!」と、慄然とした爽輔に向かって、
「だまれ!」と静かに言い放ち、羽根田は再び瞳を閉じた。
 すると、今度は羽根田の腕からゆらゆらと光がにじみ出て、その指を通り、結の額を明るい光が包んだ。暫くして、羽根田が触れた時と同様にそっとその指を外したと同時に、ふっと息を一つついた結が、ゆるゆると目を開けた。
「結!」と、その眼に向かって呼びかけるその声を聞いて、
「…爽…?爽輔…。」と、ふわりと笑い掛けながら、
「何?僕どうしてた?また貧血か…てか、何?なんでここに居るの?」と、自分に起こったことを全く認識していない結が紡ぐその声に、結が戻ってきたことを実感した爽輔は、その身をぎゅっと抱きしめた。抱きしめられた結は、久しぶりの爽輔の身体のぬくもりと、その匂いに、深く安堵の息を漏らし、その背中をぽんぽんと叩いた。
 その結の温かさを実感した爽輔は、羽根田を見上げて、
「ありがとう。結を…結を戻してくれて…。感謝しても感謝しきれない。本当にありがとう。」と、初めてその頬に涙を伝わせた。
「…彼はとても綺麗だった。ここの植物にも、僕にも、いつも真っ直ぐ誠実に対応してくれた。自分が恋人に逢えず、沈んだ日々を送っていたにもかかわらず。」と、二人の姿を見ていた羽根田が、今度は爽輔の目をしっかり見据えて、
「自分の本当に大切なものがいつまでもその手の中に在ると思うのは奢りだ。いつ、何時失われるか、誰にもわからない。だからこそ、毎日その存在を大切にしなくちゃいけないんじゃないか。僕はそうしてきたつもりだ。あいつの命がいつ消えても後悔しないように、精一杯あいつを大切にしてきた。だけど、それももう戻らない…。僕はもう、何もしてやれない。」と、瞳を閉じて、何かに耐える様に息をついた後、
「だからと言って自分の悲しみを人に押し付ける様な事はするな、と、あいつに言われた。あいつは今でもしあわせだと言っていた。今でも僕の傍に居ると…。」そう語る羽根田の姿は今にも消えそうで、はかなげに見えた。
「君の悲しみは本当によく解かる。本当に申し訳ないことをした。」と、再び頭を下げて謝る爽輔と、ゆらりと立ち尽くして涙ぐんでいる羽根田を交互に見て、何があったのか解からず、とまどう結に向かって、
「この一週間ありがとう。世話になったね。」と、悲しげな微笑みを浮かべ羽根田が言った。
「いいえ、迷惑なんて何も。僕こそ、たくさん教えていただいて、それに…その、よく解からないけれど、寂しいって気持ちも和らいだし、こちらこそ、ありがとうございました。」と、頭を下げた。
 そんな結を見た羽根田が、今度はふわりと微笑んで、
「僕はもう行くよ。何の未練もなくなった…。」と、切なげな瞳で空を見つめたその様子に、
「待ってくれ。その前に礼がしたい。何か今の俺にできること、あるか?」と、爽輔が聞いた。
「いや、いいんだ。もう僕には何も…。」そう言いかけた羽根田が、ふと、瞳を見開き、暫く空を見つめた後、一つ瞬きをして、
「あいつと一緒に僕たちの場所に戻りたい。」と、ぽつりとこぼした。
 その言葉の哀しく、でも、何かを懐かしむような響きに息をのんだ爽輔は、暫く目を閉じて考えた後、
「わかった。すぐになんとかする。」と、答えた。
こぼれた自分の言葉を実現しよう、と答えてくれたその返答に、驚いた羽根田は、本当か?と言うような表情で爽輔を見た。
「大丈夫だ。お前は俺の一番大切なものを返してくれた。今度は俺がお前の大切なものを返す番だ。」と、力強く約束するその言葉を聞いて、羽根田はふと、安堵の笑みを漏らし、
「ありがとう。」と言って、ふわりと二人の傍を離れた。
 二人のやり取りを訳が分からず聞いていた結が、
「やっぱり爽輔も羽根田さんと知り合いだったの?」と聞いた。その、いつもと変わらない、真っ直ぐな瞳と、今は生気の戻ったその顔を見つめ、もう一度結が戻ったことを実感した爽輔は、再び結をぎゅっと抱きしめた。
「何?爽輔?んん?」と、戸惑いながら抱きしめられていた結が、ふと、爽輔の肩越しに、ふわりと舞うものを見つけた。
「あ!蝶!あれ、爽輔が探していた蝶じゃない?」と、叫んだ。
 その言葉に、ふっと抱擁を解き、振り向いた爽輔が、
「そうだ。あれだ。」と言った。
「やっぱり!良かったじゃん見つかって。補虫網、補虫網…。」と、立ち上がって探しに行こうとする結の腕を引いた爽輔は、
「いや、いいんだ。」と、静かに言った。
「え?いいって、どうすんのさ!逃げちゃったら大変じゃん!」と、爽輔よりも慌てたふためく結に、
「あーうん。後でゆっくり話してやるけど、とにかく、今は捕まえないで。大丈夫、逃げたりしないから。それから、俺、今から長野に行くんだけど。」
「長野?ん?」
「一緒に行ってくれないか。身体、きついか?」と、心配げに聞きつつ、結の手をぎゅっと握りしめた。その言葉に、自分が倒れていたことを思い出し、軽く身体を動かした後、
「んー貧血もないっぽい。逆になんだかすっきりしているし。今日は講義もないから行けるけど?」と、相変わらず、事情が解からず、首をひねりながら答える結に向かって、ふっと笑い掛けた後、その唇に軽くキスを落とした爽輔が、
「じゃあ、支度してくるから。そうだな、1時間後にここにまた来るわ。」そう言って、温室を飛び出して行った。ぽつんと温室に残された結は、自分の上をひらひらと舞う蝶に向かって、
「なんなんだろうね。」と、話しかけた。

はるのまひる
グッジョブ
4
山瀬みょん 16/07/13 17:04

シーン配分のバランスが良く、
サスペンス的な怪談として、自然と人間の関係について、恋愛小説として
全てが綺麗に纏まっていた所に構成力を感じる

ただ、テーマ、心情等の全てをキャラクターに語らせ過ぎな面が否めないので、
「直接的にキャラクターに語らせる部分」と
「匂わせることで読者に感じさせる部分」
の取捨選択をすると更に深みが出るのではと感じた
WEB小説なので小説としての体裁を遵守することに拘るのが最善とは限らないが、
"そして
「」と言ったAに、Bは、
「」と言った。"
といった文章の使用は演出意図がある場合に限った方がメリハリが出るのでは

はるのまひる 16/07/22 19:42

山瀬みょんさま
コメントありがとうございます 初オリジナル初電子で 掲載して頂いてからたくさん反省点があるな と感じていました そのあたりをとてもわかりやすくご指摘頂いてとてもありがたい気持ちでいっぱです 最後になりましたが お読み頂いてありがとうございました

ひかこ 16/07/25 14:52

途中ビクビクしましたが、ハッピーエンドで良かったです。
でも、失われた物は帰ってこないし、これから彼は思い出と一緒に、
一人(?)で生きて行くことになるんですよね・・・・。
そんな、少し切ないところもあるのが、素敵でした。

はるのまひる 16/07/28 07:59

ひかこさま
コメントありがとうございます 果ててしまった蝶も実体はないけれど羽根田(仮)にしか見えない気配として過ごして行く と思いたいです 彼らが昇華する場面も構想としては出来上がっているのですが 今回収まりきらず でした

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