>
>
>

第4回 BL小説アワード「再会」

セカンド・ドロップス

キスまで

「でも、お前がいない。思っていた以上に、そのことが耐えられなかった」

花乃
グッジョブ

 嫌いで別れたわけじゃないかつての男と、偶然に会えたらどんなにいいだろうと、何度も妄想した。
 混みあった駅でばったりとか、あいつの好きだったワインの試飲会でとか、とにかく、もう一度会えたらあいつはどんな顔をするだろうと、考えてきた。
 だけどこのシチュエーションだけは何百回妄想しても出てこなかったはずだ。

「椎那(しいな)、飛べ!」
 絶対に大丈夫だからと、自分の身に火の粉が降りかかるのにも構わず、蒼一郎(そういちろう)が声を張り上げる。消防車のサイレンはすぐそこまで迫ってきていた。けれど、この辺りは道幅が狭く、路駐している車も多いため、なかなか辿り着けないでいる。
 蒼一郎よりも五メートルほど下がったあたりで通行人や、近所の人らしき人達が俺の一挙手一投足を、固唾を飲んで見守っていた。
 ここは三階だ。飛び降りて無事でいられるはずもない。よく植え込みをクッションにしてなんて話を聞いたりするが、俺の部屋のベランダの下には、コンクリートで固められた駐車場と、コンクリートブロックを積み上げた塀があるだけだ。
 飛ぶにしたって塀を超えた先まで行かなければならない。運動から遠ざかって何年だろう。高校時代ならともかく、今の自分にそれだけのポテンシャルがあるとは思えない。
「あちっ……」
 一つ下のフロアから舞い上がった火の粉が肌を焼いた。真下の部屋からの出火ではなかったため、火の粉混じりの煙は風向きが変わった時にしか上がってこない。けれど、玄関側はもうダメだった。隙間から入り込んでくる煙が部屋中に籠っているのが、ガラス越しに見える。逃げるようにしてベランダに出たものの、そこで途方に暮れている。
 どうやら、逃げ遅れたのは俺だけのようだ。月曜の昼間というだけあって、殆どの人が仕事に行っているのだろう。俺が家にいるのは、勤め先の美容院の定休日だからだ。
 特に用事も入れず、夕方くらいまでだらだらと過ごす予定でいたから、部屋着のままだった。服の裾で口元を抑えてベランダで手を振ると、火事を見ていた人が俺に気づく。心配そうな顔や、悲鳴、向けられた携帯のカメラ。そんな群衆の中から一人の男が建物に向かって走り出た。
 それが蒼一郎だった。
「俺を信じろ!」
 踏み出せないでいる俺に蒼一郎は声を上げるが、そんな戯言に乗せられて身を投げ出せるもんじゃない。しかも相手は蒼一郎だ。
「椎那!」
 少しずつではあるが、いぶされていく身体。消防車はまだだろうか。視線を巡らせてもまだ、駐車場に入って来る様子はない。もっと他に選択肢は無いのか。考えないといけないのに、目に入る蒼一郎が邪魔で到底集中できなかった。
 なんでお前がいるんだ――と、今がこの状況でなければ、そう叫びたかった。
 お前がここにいるはずないだろう。最初はパニックを起こした自分が見た幻影かと思ったほどだ。しかし、何度瞬きをしても消えず、蒼一郎の声で、俺を呼んだ。大丈夫だからと、凛々しい眉で言った。
「くそ……なんでこんななんだよ……」



 一時間後、煙で燻され、あちこちに黒い煤が張り付いたマンションをぼんやりと見上げていた。顔に垂れ落ちる髪は燻されて臭いし、指にギシギシと絡みついて不快だった。そのうえ朝食代わりにコーヒーを飲んだ以外、食事をしていないから腹が減っている。
 明日も仕事だというのに、これから自分が何をすればいいかも分からない。
 俺は、隣で佇んでいる蒼一郎をちらりと見上げた。
 あの時――蒼一郎にいくら大丈夫だと呼ばれたところで、怪我をすることは目に見えていた。最終手段としてその腕に飛び降りることも覚悟はしていたが、なるべくなら助けを待ちたいとぎりぎりまで粘った。
 お陰で到着した救急隊に助けられ、小さな水ぶくれはいくつか作ったものの、大きな怪我をせずに済んだのだ。
 その後、アパートの火は消し止められ、救急隊に処置をして貰った俺は、駐車場の隅で毛布に包まっていた。まだ昼過ぎの、遠慮のない日差しが照らすなか。突然に日常から切り取られて、途方に暮れてることしか出来ない。
 蒼一郎がジャケットを手に持ったまま羽織らないのは、俺の前に飛び出してきた時に脱ぎ捨てて汚れたからだろうか。足元は相変わらず綺麗に磨かれた革靴。見上げれば、幾筋か乱れはあったけれど、後ろに流すようにして固められた髪の間に形のいい額があった。
 俺が知る頃よりも少し扱けた頬に、三十路男の妙な艶めかしさを感じ、目を逸らす。
「部屋……入れるのかな?」
「……今日は無理だろう。椎那の部屋まで水がいってるだろうし、煙なんかで汚れてるから」
「そっか……そっか」
 学生時代から住んでいるアパートは、築年数も経っている1DKの狭い部屋だ。ユニットバスにも慣れたが、もっとゆったりと風呂に入りたいと思っていた。更新時期が来たら引っ越すのもいいかなと考えていたが、時期を早めてもいいかもしれない。ところで、保険なんかは効くんだろうか。
「椎那。とりあえず、今日はうちに来るか?」
「あー……うん…………ん? お前なに……」
 なにを言ってるんだ?
「……他に、頼れる相手がいるなら余計なお世話かもしれないけど」
 いやいやいや、余計なお世話とかそういう問題じゃないだろ?
「なに、言ってんだよ。俺たち、一年前に別れたよな?」
「……ああ。だから今、椎那に付き合ってる相手がいるなら……」
「いや、待て。そうじゃねーだろ? お前が、俺を振ったんだろ? 転勤で飛行機の距離になるからって。遠恋なんか出来るかっつって!」
 別れを切り出された時、やってみなきゃ分からないだろとか、それくらいの気持ちで付き合ってたのかよとか、言いたいことはたくさんあったけど、もう決めたことだからと言わんばかりの蒼一郎の態度に、何も言えなかった。
 俺が言えたのはたったひと言、「分かった」だった。元気でとかそんな社交辞令も言えないまま離れて、それっきりだったはずだ。
「……さっきから全っ然、意味わかんないんだけど。お前、本物?」
 初め、今際の際に見た幻なんじゃないかって思った。一年前にあっさりと別れを告げた蒼一郎とは、互いの部屋にあった荷物を宅急便で送りつけたくらい、きっぱりとした終わり方だった。距離は気持ちでは埋められない。肌を重ねられないお前にどんな価値がある? と突きつけられたように感じた。
 今夜呼べるほどの場所に家を構えているというのなら、その前提さえも覆る。
「まさか……あれ、嘘だったのかよ。俺と別れたいからって転勤だとか引っ越しだとかそういう……」
「違う」
「はは……そういうことか。いや、別にいいんだよ。本当だろうと嘘だろうと、別れたいって思った気持ちは確かだったんだろうし、蒼一郎が終わりって決めた以上、俺が何を言っても一緒だっただろうし……いいんだけど」
「椎那、違う……」
「そういうことならさ! 俺が火に巻かれてたってなんだって、顔を見せんなよ! それくらい礼儀だろうが!」
 しかも、「俺を信じろ」とか、そういうこと言うんじゃねーよ。あれで……そのせいで、絶対死ねるかって思ったんだろうが。
「椎那、違うんだ……ちゃんと、鹿児島には行った。けど……耐えられなくなって帰って来たんだ」
「…………はあ?」
 眉に力を入れると、頭がギリと痛んだ。
 なんだよ、それ。仕事のためにあっさりと俺を切り捨てたくせに。
 いい加減腹に据えかねて、蒼一郎を睨みつけるが、俺を見る悲しげな表情を見て、眼光を緩める。どちらかといえば自信家な蒼一郎がこれまで一度だって見せたことのない、気弱い顔だった。
「何のつもりか知らないが、俺の面倒を見る気があるって、本当か?」
「ああ……お前に、特別な相手が居ないなら……」
「それは、とりあえずいい。疲れた。フロ、メシ、睡眠。それから考える」
「ああ……分かった。表通りに出て、タクシーを拾おう」
 付き合っていた頃、蒼一郎は実家暮らしだった……はずだ。いい歳をしてと思ったものだが、出張が多い仕事で家へは着替えを取りに戻る程度だと聞いて、素直に信じていた。
 それだから会うのは専ら外か、俺の家だったが、気軽に「来るか?」と誘ったってことは、今は違うのかまるっきり嘘だったか、どちらかだ。
 別れから一年経った今でも胸をじくじくと痛ませていた目の前の男に、罵声を浴びせればいいのか、縋りつけばいいのか、まるで分らない。
 俺は部屋着にしていたTシャツとジャージ、ベランダ用のつっかけ、唯一持ち出した携帯という軽装備で蒼一郎の家へと向かうことになった。



 タクシーに乗らなくても歩けたんじゃないか? というほど、車は短い距離を走って停まった。千円を出して釣りを受け取った蒼一郎に続いてマンションのエントランスに入る。俺のマンションとは違い、鉄筋のしっかりとした作りだ。エレベーターで最上階のボタンを押すと、小さな箱は上昇を始めた。
「……いつから?」
「十二月から」
 蒼一郎はあっさりと答えたが、俺の頭の中には今日いくつめとなるか分からないハテナマークが浮かぶ。蒼一郎が俺に別れを告げたのは昨年の八月の終わり。九月から鹿児島の事務所に行くことになったと聞いたその日に別れた。
 十二月というと、別れた三か月ほど後ということになる。何に耐えられなかったのかは知らないが、あまりにも短い時間で決断を下したということだ。俺とはあっさり別れられても、向こうには居続けられない何らかの理由によって。
 一年近く、最寄り駅こそ違うものの、同じ沿線に住んでいたなんて思いもしなかった。
「狭いけど」
 付き合っていた時に蒼一郎の実家を訪れたことが無かった俺にとって、初めて蒼一郎のプライベートな空間へ足を踏み入れることになる。
 1LDKだろうか。リビングには大きな家具が並んでいるが、細々としたものは殆どない、シンプルな部屋だった。右側に視線を送ると開かれたままの扉の向こうに、少し大きめのベッドが見え、思わずドキリと胸が震えた。
「お前……俺にばっかり相手がいるか聞いてきたけど、そっちこそ誰か家に呼ぶような相手とか……」
「居ない。家族も友達も誰も来ない。人を入れたのは椎那が初めてだ」
 部屋に誰かの存在を感じたわけではなかった。むしろ、初めて足を踏み入れるのに蒼一郎らしいと考えたくらいだ。質問にも深い意味があったわけではなく、昔関係があった者同士の礼儀として、だった。
 それなのに、蒼一郎が生真面目に返してきて、話を続けられなくなる。
「風呂……用意する」
「あ、シャワーでいいから。着替えだけ……適当に」
 煙臭い体をなんとかしたいだけだと訴えると、蒼一郎がクローゼットから着替えになりそうなものを取り出してくる。
「あ……パンツ」
「食べるもの買ってくるからついでに買ってくる」
「ああ……じゃあ適当に。メシも弁当なら何でもいいから」
「分かった」
 俺が洗面所に入って服を脱いでいると、玄関扉が開閉する音が響いた。そこでやっと強ばっていた体から力を抜く。
 今更だ。胸の奥に甘い疼きを感じている自分に言い聞かせる。
 別れこそ突然だったが、付き合っていた一年半は、そう悪いものではなかった。蒼一郎の自信家なところに腹を立てることもあったし、蒼一郎は蒼一郎で、俺のいい加減さを疎んじたりもした。それでも一週間も長引くようなことはなくて、仲直りすると酒を飲んで、それから激しく体を重ね合わせた。
 そっちの相性も悪くなかったし、初めて……ちゃんと付き合った相手だった。同じ店に通っていた蒼一郎は、切れ込みの深い瞳が印象的な容貌に強気な態度が相まって、よくモテていたが、上手に遊んでいるのか、悪い話は聞こえてこなかった。
 そうなったのは、本当にたまたまだった。お互い一人でいる時に目が合って、すっと隣に腰かけてきた蒼一郎と話をした。そのままホテルに移動し、初めて寝た後に「付き合おう」と言ってくれた。そういう潔さが好きだったし、上からものを言われたり強引な態度を取られたりするのも嫌いじゃなかった。
 別れたくて別れた相手じゃない。けれど、今更再会したところで……どうにもならないだろ。
 洗っても洗っても、髪の毛から煙臭さが抜けない気がする。けれど、眠さが限界にきて風呂から上がった。リビングに戻ると、テーブルに弁当がふたつ用意されていた。
「パンツ、ありがと」
 俺の知らない間に借りた着替えの上にビニールに包まれた下着が置かれていた。シンプルなものだったが、コンビニの商品ではないようだ。
「ああ……弁当、どっちにする?」
 蒼一郎の言葉に導かれるようにして歩み寄り、蒼一郎の向かいへと腰を下ろす。幕の内ではなく、ハンバーグ弁当を引き寄せると「いただきます」と言って箸を割った。
「費用とか……全部、ちゃんと返すから」
 俺が弁当を食べ始めても蒼一郎は弁当には手をつけなかった。俺の食事する様子をじっと見ているような気がして、居心地が悪い。
「食わねーの?」
「今はいい」
「あ、そう。てゆーか、仕事いいのか?」
「事情を話して、休み取ったから」
 接客業のため平日が休みの俺とは違い、今もスーツ姿の蒼一郎は勤務中だっただろう。何も言わないから当たり前のようについて来たが、いつの間にか会社に連絡を入れていたらしい。
「布団、余分にないからとりあえずベッドで寝てくれ。その間に買い物に出るから」
「買い物に……って?」
「布団とか、服とか靴とか……外に出るのに必要なものを買ってくる。明日、部屋の様子を見に行って使えるものと使えないものを選り分けるだろう?」
「ああ……あ、でも布団はいい。一晩のことだからソファーを貸して貰えればそれで……」
「お前がベッドだ。シーツも替えておいたから」
 俺が食べ終わるのを待ってベッドに案内すると、蒼一郎は出かけて行った。



 蒼一郎から好きだとか、そういう言葉を言われたことはなかった。唯一、付き合って欲しいと言われたあれが告白といえば、告白なのかもしれない。飲んだ流れで誘い誘われて体の関係を持って、なあなあに済ますことも出来たのに、蒼一郎はふたりの関係に名前を付けた。
 いつだって引く手あまたの蒼一郎だったが、決まった相手を持つことが久しぶりだったようだったし、俺は初めてだった。だから蒼一郎から乞われて付き合っていることは、俺の……よすがだった。
 好きだと言われなくても、勝手に話を進められることがあっても、正式に付き合っている関係だから、許せた。それなのに、あっさりと別れを告げられて、俺の心はパキンと折れた。追いすがることも、問い詰めることも出来ず、全てを飲み込んだ。
 蒼一郎に気持ちのすべてを預けきっていた俺には、身を引きちぎられるような別れだった。もう一度会いたいと思う反面、会ったところで素直な顔なんか見せられないことは明らかだった。
 気持ちを立て直し、仕事に打ち込んで過ごしてきたけれど、未だに他の男とは抱き合う気にもなれないでいた。黙っているとキツそうに見えるけど、笑うと八重歯が可愛いと言われる俺は、蒼一郎ほどじゃないにしろ、モテるんだけどな。
「起きていたのか……」
 鍵の回る音で蒼一郎が返って来たのに気付いていたけれど、寝た振りも出来ずにベッドに腰を下ろしていた。
「アパートを通って来た。大家さんが明日、部屋の状況を見せて欲しいと言っていたから、九時で約束してきた」
「ああ……」
 蒼一郎は布団の大きな包みを置くと、紙袋を俺に手渡した。
「服のサイズ、確認してくれるか」
 手渡された紙袋は、俺がよく行くショップのもので、サイズも問題なかった。上下二着ずつと下着、ダウンベストまで入っている。靴は白のスニーカー。雑誌で紹介されていて密かに欲しいと思っていた品だった。
 俺のこと忘れてなかったんだな……胸の奥をくすぐられるようなもどかしさを感じ、肩を寄せて背中を丸めた。うっかりすると一年前に気持ちが戻されそうになる。
「なあ、行く店変えた? 十二月からこっちにいたのに一度も会わなかった」
 会わないつもりでいたんだろう? と問いかける。ひとりでに盛り上がりそうになる自分を諫めるための質問だった。
「……あの辺にはもう行ってない。というか、遊んだりする気になれなかった」
「ああ……仕事変わって忙しかったのか」
「まあ、そういうのも色々」
「そう」
 今更ノーマルな恋愛など出来る男じゃないと思うが、環境の変化で考えることもあるのかもしれない。会えそうな距離で会わなかったのだから、やはり蒼一郎は俺のところに戻る気など更々なかったのだろう。
 今すぐこの部屋を出てもいいが、布団や着替えまで用意して貰った後で今更だ。一晩だけ世話になって、明日にはすっぱりとまた縁を切ろう。
「新しい仕事ってどんな?」
「……前と同じだ。待遇が良くなった」
 蒼一郎は布団に真新しいシーツを掛ける手を一瞬止める。それを見て俺はベッドの上にころりと横になった。
「へえ、良かったじゃん。鹿児島って……行ったことないけど、そんな短期間で逃げ出したくなるようなところなの?」
「いや、別に……こっちと比べると小さな町だけど、目新しい食べ物も多かったし」
「だったら……」
 なんでと訊く前にはもう、蒼一郎の声が割り込んだ。
「でも、お前がいない」
 決して大きくはないのに張り詰めた声のせいで、ぐっと首根っこを手で掴まれたみたいに息が出来なくなった。金縛りにあったように身体が動かせなくなり、目だけがくるくると部屋の天井を這う。
「思っていた以上に、そのことが耐えられなかった」
 ギシとベッドが鳴る。視界の隅に蒼一郎が映り、ベッドの端に腰かけているのが分かった。見下ろすようにしていた蒼一郎が俺の顔に手を伸ばす。
 触られたらダメだ。そう思ったら動けなかったはずの体が動いて、蒼一郎に背を向けるように横になった。
「い……言ってることと、やってることが違う……だろ」
 遠恋は出来ないとあっさりと振ったくせに、戻って来たからといって一度も顔を見せなかったくせに……俺がどれほどの思いで、蒼一郎のことを過去のことにしようとしたかも知らないで、偶然顔を合わせたからと、焼け木杭に火が付いたみたいなそんな戯言を言うのか。
「会いたかったんだ……会いたかったけど、勇気が出なかった」
「なに、言って……」
 蒼一郎はそんな男じゃない。顔もスタイルも良くて、いい会社に勤めていて、持ち物のセンスも悪くない。遊び慣れていて、セックスも上手くて、当然のように自信家だった。
 会いたいと思えばすぐさま行動に移す、そんな男だったはずだ。
「こっちに戻って少しして……クリスマスの一週間前くらいだったか、あの店に行った。いや、行くところだった。通りの向こうから、お前が男と話しながら店から出てくるのが見えて……もう、遅いんだって頭を殴られたみたいな衝撃に襲われて、それからあそこには行けなくなった。お前が誰かと一緒にいるところを見たくなくて……」
 一年近く前のことを持ち出されても、そんなことがあっただろうかと考え込まざるを得ない。それくらい前のことだ。
 確かに夏に蒼一郎に捨てられて、立ち直りかけてたころ、あちこちの店でクリスマスパーティやってるからって、誘われて出歩いた。ふたりで抜けようかと誘いかけてくる男もいて、別の店で飲み直したこともあったが、そこからホテルに行ったことなんて一度もない。
 友達にも、うじうじしすぎだ、さっさとナンパについて行けと嗾けられたこともあったが、どうやったってその気になれなかった。
「会いたいのに会いたくない……ずっとそんな風に矛盾したまんま、どこかで偶然会えないかと思ってた。近くに家を探したのも、そういう下心からだ」
 嘘だと反論したいのに、乾ききった喉はそれを声にしてくれない。俺と同じことを蒼一郎も考えていただなんて、そんなのは嘘だ。
「お前は……俺に怒ってるんだよ、な……?」
 遠恋が無理と言って振ったのは蒼一郎だ、とか、顔を見せるな、とか言って怒鳴りつけたことを言っているのだろう。それは俺の本心からの言葉だ。けれど同時に、あの時別れたくなかった、今でも会いたいと思っていた、それも本心だった。
「あっさり……捨てた…………俺がいないと無理、なんて……一言も聞いてない」
 声を出すと、喉の奥がツンと痛くなった。涙をこらえている時特有のあの痛みだ。
 ギシとまたベッドが大きく音を立てた。
「離れたら無理だっていうのは、分かってた……電話の声だけで耐えられるはずもなかった。だからってキャリアを積み始めたお前を連れていけるわけもない。中途半端な関係を続けて疲弊していくくらいなら、お互いを嫌う前にいっそ別れたほうがいいと……」
 蒼一郎の身勝手な言い分を聞くうちに、どんどんと喉の痛みは増していく。遠距離は出来ない、中途半端にしないで別れようとか、なにひとりで決めてるんだよ。俺の意思はどうなんだ。キャリアを積み始めたと言っても、やっと一通りの研修を終えたってだけで、即仕事を貰えるって段階でもなかった。
 俺の仕事なんてどうにかしようと思えば、どうにでもなったし、蒼一郎にそれだけの気持ちがあるなら無理だって言われたってなんだって遠距離しようって説き伏せていただろう。
「俺は……もう一度会えたら……」
 幾度となく想像した再会の瞬間。蒼一郎の見せる表情は日によって様々だった。迷惑そうに眉をしかめたり、ぱっとその目に驚きが浮かんで、その後で……喜んだり、目を逸らされたり、とにかく何パターンにもその反応は分かれていて、心理テストのフローチャートのようだった。
 どの道を選べばまた蒼一郎と付き合えるだろう。どうすればまた……と、俺が望んでいたのは必ずハッピーエンドだった。いつだって戻りたかった。
「もう絶対に離さない。だからもう一度俺と付き合って欲しい」
 俺の妄想フローチャートの一番辿り着きたい答えみたいなことを、蒼一郎が言った。妄想なら激しいキスを交わす場面だけど、どうしても俺の心は高揚しない。信じきるのが怖いんだ。
 これ以上甘言に惑わされないようにと体を起こし、蒼一郎と横並びになった。
「……電話だって、メールだってしてくりゃー良かったじゃん。やっぱりひとりで鹿児島来て寂しいとか、仕事辞めて帰るからとか、そういうの。本当は……今日会うまで俺のことなんか忘れてただろ?」
 直接会えなくても、言葉を交わす方法なんていくらでもある。俺がいないのに耐えられなくて帰って来たのなら、その足で訪ねてくれば良かっただけのことだ。それを……一年以上も経って、そんな気があったと言われても俄かには信じがたい。
 これ以上傷を抉るのはごめんだった。再会したところで、一度壊れたものが全く同じに戻るなんてことはないのだ。頭で分かっていても、心臓のあたりがズキズキと痛むのは、みれんだろう。
 断ち切りたい。そう思って立ち上がった体を、蒼一郎が後ろから抱いた。
「忘れてない。一日だって……俺にだって、酷い別れ方をしたって自覚はあった。一方的だった」
 一回り大きな体に羽交い絞めにされ、縋りつくように指が俺の腕を掴んでいる。耳の後ろで聞こえる声が震えているように感じるのは、都合のいい思い込みだろうか。
「それに……別れるって言ったの、引っ越しの前日だったっけ。話し合う余地もないってこっちも諦める以外になかっただろ……」
「そうしなければ決心が鈍ると思った。内示を受けてから一か月、ずっと考えて……」
「キャリアを捨てたくなくて、俺を捨てたんだろうが」
 もう嫌だと身を捩るけれど、蒼一郎の抱擁は僅かも緩むことはなかった。
 もしあの時、本心を告げられていたところで、俺は仕事を辞めろなんて言いはしなかっただろう。俺が仕事を辞めると即断もしなかったはずだ。だけど、簡単に別れを受け入れるようなことはしなかった。それは断言出来る。
「すまなかった。何が大事か、分かっていなかったんだ……」
 肩から回った蒼一郎の手に触れてみる。一年前と何も変わらない。
「椎那……」
 お願いだ……と、蒼一郎が腕に力を込めてくる。女の子と違って、それくらいで抱き潰される体ではないけれど、苦しい。ぎゅうぎゅうと締め付けられているのは身体だけではなく、その奥の胸までも締め付けられる。
 自信を失った蒼一郎の力のない声が、俺の胸を絞めて息も出来なかった。
 頷けば一年前に戻れるのだろうか。
「俺が一方的に別れを切り出したことは、一生忘れなくていい。恨み言を言ってくれていい。無かったことにはしないから……もう一度、新しく始めてくれないか」
 ああもうダメだと思った。死ぬ。全身から力が抜けて膝を立てていられなくなり、意思を持たなくなった体を蒼一郎が支えようとする。けれど、バランスを失った体を抱きとめるのは容易ではなかった。
 庇い合うようにして、ふたりで床に倒れ込んだ。蒼一郎に守られた俺の体は、腕の中に優しく閉じ込められている。
「忘れなくていいんだ……」
「ああ。椎那が思いだす度、俺は謝る。傷つけたことは忘れない、絶対に」
「そっか……」
 くったりとした体を蒼一郎に預けきっていると、恐る恐るといった手つきで髪を撫でられる。そのままでじっとしていると、指先が髪を割るようにしてゆっくりと滑る。
 懐かしい。蒼一郎の愛情に何の疑問も抱いていなかった頃のように、その温もりに身を委ねた。
 休みが重なることは滅多になくて、夜から朝まで、睡眠を削ってしか蒼一郎との時間を持つ方法がなかった。大抵はベッドで時にはソファーで、肌を重ね、まどろみの中でたわいない話をしていた。
 もう一度裏切られるようなことになれば、欠片を拾い集められないくらい粉々に、俺の心は散るだろう。
 だけど、傷つけたことを忘れないと言った蒼一郎を……信じたい。
 それに、今度もし同じことになったとして、その時、俺は絶対に引いたりしない。何故勝手に決めてしまうのだと詰るだろうし、納得できないと言って、蒼一郎が本心を語るまでは絶対に諦めない。
 そうするだけの権利を貰ったのだ。
「改めて付き合って欲しいっていうのなら、過去のことは踏襲しなくてもいいんだ?」
「ああ……」
「だったら、きちんと言葉で告白してくれ。俺が疑う余地もないほどに、ちゃんと」
 そういう男だからと、俺が諦めてきた身悶えするほどに甘い言葉で縛って欲しい――。
「椎那」
 俺の体ごと強引に起こした蒼一郎が、投げ出した足の間に閉じ込めた俺に向かい合う。少しくたびれた表情の奥から熱情がもれてきて、俺の頬をチリと焼く。
「初めて名乗り合って一緒に飲んだ日からずっと、椎那の優しさと強さが俺を引き付けて止まない。溺れすぎていると怖くなって、距離を保とうといつも気をつけていた。月に数回しか会えない関係では、渇望で仕事が手につかなくなることが目に見えていたが、共に行こうと言えば距離が縮みすぎてしまう。俺は臆病さから君と別れるという解決をしてしまった。だけど――どうやったって、俺は君から……椎那から離れてはいられないのだと分かった。自分がしたことの卑劣さが分かるから、再会のきっかけを掴めずにいたんだ。別れたいと言ったのは、気持ちが無くなったからじゃない。俺が弱かったからだ。君を思う気持ちはずっと変わらない……愛している」
 内臓がねじ切れそうなほどに腹の中がぐちゃぐちゃにかき乱れている。せり上がって来るものが苦しくて、喉が締まる。細い呼吸でなんとか酸素を取り込んでいると、堪えきれなくなったものは瞼から溢れた。
「椎那……愛してる、愛してるんだ……」
 ぽろぽろと制御不能になった涙が零れ落ちて、頬に触れた蒼一郎の手を濡らした。
 バカだ。
 こんな大切なことを俺に伝えないで、一人で抱えていたなんて……なんてバカなんだろう。
「蒼……いち、ろ……」
「うん……」
「蒼一郎……!」
 ようやくその胸に引き寄せられて、どろどろに濡れた頬を蒼一郎のシャツで拭った。顔を振ってすりすりと肩口に涙を擦りつけていると、大きな手のひらが俺の後頭部をゆっくりと撫でる。
「忘れないから……今、言ったこと絶対に忘れないから、気が変わったとか、絶対に許さないからな……」
「それはない。そんなこと、どうやったって無理だった」
 背中に回した腕に力を込めれば、同じように蒼一郎も力を入れて返す。ぎゅうと更に力を込めて蒼一郎にも返されると、息が出来なくなって慌てて手を放した。
「椎那……」
 解けて出来た隙間から、蒼一郎の吐息とキスが降りてくる。俺の唇を掬い上げるようにしてすぐに離れた唇は、角度を変えてしっとりと絡みつく。軽く食んでは離れていくキスは、俺の反応を窺うように優しい。
「横になりたい……」
 そう漏らした俺の体を、シーツを掛けたばかりの布団にそっと横たえる。その間もずっと唇は短い間隔でキスを繰り返していた。
 深くなったキスに目を閉じると、後はもう、かつてのふたりに戻るばかりだ。絡み合い、悶えて、また涙を流した。
 この人しかいない。同じ轍を踏まぬよう、俺も「愛してる」と、素直に湧き出た思いを告げた。



 俺の部屋は、思っていたほど悲惨な状況ではなく、貴重品なんかは無事に回収することができた。けれど、家具や電化製品なんかは、潔く諦めて、全て廃棄する。
 衣類なんかの最低限の荷物だけ運び出し、そのまま蒼一郎の部屋へと運び込んだ。一時的な避難としてではなく、これから一緒に暮らしていくために。
 同じ部屋で暮らして、「行ってきます」と「いってらっしゃい」の挨拶をする。会う約束なんかしなくても、いつでも顔を合わせる生活は窮屈なんて感じなくて、ただただ幸せだった。
 俺の大雑把な片付けに文句を言われるのは相変わらずだけど、「愛されてるんだな」と思えば、嬉しくなる。
 こういうの、「雨降って地固まる」って言うんだろうけど、俺の場合は「煙に巻かれて愛を得た」ってことでいいんだろうな。きっと。
 ピンポーン。
「おかえり」
 自分の家なのに律儀にチャイムを鳴らして帰ってくる。リビングで呟いた「おかえり」は届かなかっただろうから、扉を開けてもう一度伝える。
「おかえり」
「ただいま」

花乃
グッジョブ
コメントを書く

コメントを書き込むにはログインが必要です。