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【優秀賞】闇の小説部門『はぜてきえる』

2024/10/25 16:00

2024/11/22 18:00

耽美で切ない一夜の記憶!犯した不義の結末は……

 

『はぜてきえる』

 

 

あらすじ
41歳の坂巻には、高校生の頃に同性を好きになった思い出があった。あれから25年。息子の連れてきた友人尚弥に、あらぬ思いを抱き、それを否定し続ける。大学に入学したらふたりで会ってください──そんな尚弥の思いに嘘で答える坂巻。終わったかのように思えた思いは、ちりちりとまだ種火を残していた。

※こちらの作品は性描写がございます※ 

 

 手元の花火がパチパチと爆ぜただけなのに、年相応いやそれよりも子どもらしい笑い声を上げている。彼らにとっては今年の夏は無邪気に楽しめる最後の夏なのだからまあ良いかと思いながら、坂巻賢一はエアコンの効いた涼しい部屋から庭の様子を眺めていた。
来年の夏は受験の天王山。手持ち花火を振り回している坂巻の息子翔平は、志望校のしの字も決まっていない。
「何を学びたいかは、来年の俺が決めるから大丈夫」
 格好つけてないで、どこの大学に行きたいかくらい考えなさい、あなたもちゃんと見てくれないと困るのよそれが条件でしょ――とは、離婚した妻の言葉であり、まさしくその通りなので、たしかにのんびりと彼らを見ているだけではいけないなと、坂巻はソファーから立ち上がった。

「翔平、尚弥君、そろそろ終わりにして部屋に入ってくれないか。監督責任が私にもあるんでね」
 翔平の連れてきた友人は谷本尚弥と言って、調子良く喋る翔平とは正反対に、物静かな性格のようだ。翔平とどこらへんで気が合っているのかは分からないが、今年に入ってこうして坂巻と翔平の住む家へ来ては、一緒に勉強をしたり遊んだりしている。尚弥は成績優秀だと聞いているので、主に、翔平が尚弥から勉強を教わっているのだろう。兎にも角にも尚弥が翔平と友人でいてくれるのは、ありがたいことだと坂巻は思う。
 何より礼儀正しい彼のたたずまいが好ましい。
「最後あと一本! これだけやったら勉強するからさ」
 と騒々しい翔平の横で、「すみません」と頭を下げる尚弥の姿は、坂巻が二十五年前に経験したある思い出を呼び起こさせた。

 あの時も夏の花火大会だった。夜の闇に爆ぜて消える花火の少し胸が熱くなるような切なくなるような気持ちは、思春期ならではのむず痒い感情だったのだと、翔平と尚弥の手元から花火の熱が消えてゆくのを見ながら、坂巻は思った。
 同性に対する仄かな恋心。それが、坂巻の思い出した感情だ。
「すみません」
 フィナーレのナイアガラの滝に思わずガッツポーズを上げてしまい、背後の客から咳払いをされた十六歳の頃の坂巻に代わって頭を下げた同級生は、責めることなく笑って坂巻の肩をポンと叩いた。
「坂巻、誘ってくれてありがとう。楽しかった」
 本当のところを言うと、もともとその同級生と来るはずではなかったのだが、約束していた親友が来られなくなって、急遽彼を誘ったのだった。
「急に誘ってごめん。だけど俺も楽しかった。また一緒に遊ぼう」
 目立たない物静かな男子生徒という印象しかなかった彼の「うん」という返事と共に向けられた笑顔と大ラスのスターマインが、四十一歳の坂巻の脳裏に蘇る。花火大会から卒業の日まで、坂巻はその同級生を視線の隅で追い続け、だが何を伝えるでもなく、友人関係は終わった。
 思春期の男子というのは、そうやって感情が拗れるものなのだ。

 翔平と尚弥から水の入ったバケツを受け取る。火の消えた花火は、黒く焦げた棒でしかなかった。

「部屋に飲み物を持って行くから、きちんと勉強するんだぞ」
「分かってるよ」
「ありがとうございます」
 トントントンと階段を上り自分の部屋に入ってしまった翔平のあとから、尚弥がついて行く。足音が止まり、尚弥が振り返った。
「……花火」
「うん?」
「楽しかったです」
 坂巻は軽く息を飲んだ。リフレイン。ただのリフレインだ。息子の友人に思うことなど何もない。
「……そうだね」
「……はい」
 曖昧に小さく頭を下げると、尚弥は階段を上っていった。坂巻の心にわずかな痒みを残して。

「PTA広報部として、文化祭の成功を願うものであります。では今日はこれで解散します。保護者の皆様お疲れ様でした」
 坂巻の声にほっとしたような声があちこちから上がり、広報部協議会の会場である学校の視聴覚室では、一斉に保護者が動き始めた。ちらほらと父親もいるが、大体は母親が参加している家庭が多い。ママ友同士、この協議会を理由にこれからランチ会をするのだろう。坂巻もたまに声を掛けられて顔を出すことはあるが、同じようなテンションで盛り上がることは難しい。愛想笑いを浮かべながら味気ない食事を口に運ぶよりはと、広報部の雑用を引き受けて学校に居残ることが多かった。
 坂巻はフリーランスで企業コンサルタントをしている。元妻よりも何かと自由の利く坂巻が翔平の親権と自宅の所有権を引き受けた。条件としては、翔平の学業にきちんと関わること。特にPTA活動は大学の進路決定にも役に立つので、必ず参加すること。
 アプリやソフトを駆使して保護者の意見を吸い上げ、システム化したのは坂巻の提案だ。イベントの開催が分かりやすくなったと保護者に喜ばれていて、何かと頼りにされている坂巻の顔は、どのクラスの保護者も見知っていた。
「坂巻さん、坂巻さん!」
 学校から借りているノートパソコンの電源を切り、忘れ物がないか確かめて視聴覚室を出ようとした時、坂巻は背後から声を掛けられた。
「先日はうちの息子がお世話になりました。谷本です」
 坂巻の肩下ほどもない小柄な女性が深々とお辞儀をするので、坂巻も慌てて頭を下げる。全体的に疲れたような表情の女性で、広報部評議会に参加しているのを見た覚えは一度もない。
「谷本さん、ああ尚弥君のお母様ですか。こちらこそうちの翔平がいつも尚弥君に勉強を見てもらっているようで、助かっています」
「本当はもっと早くにご挨拶すべきだったんですけど、私が夜勤で仕事をしているものですから、なかなかこういった場にも顔を出せなくて。坂巻さんにもご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした」
「いいえ、くれぐれもご無理のないようにして下さい」
 坂巻の言葉に、尚弥の母は何か言いたそうな表情を浮かべた。
「どうしました?」
「あの、あつかましいお願いなんですが。うちは尚弥と私の二人暮らしなんですが、私が夜勤で家を空けるものですから、尚弥はあの性格なのであまり心配はしていないんですけど、念の為に尚弥の連絡先を共有してもらえないでしょうか」
「連絡先ですか」
「翔平君とはLINEで連絡を取っているようなので、坂巻さんにも入っていただけたらと。母親の私よりはと、尚弥も承知していますので、あとは坂巻さんと翔平君が良ければの話なんですが」
「尚弥君が良ければ構いませんよ。翔平の監視にもなりますし、私も助かります」
「思春期ということもあって、そんなものかとも思っていたのですけど、口数がますます少なくなって、ちょっと何を考えているのか分からないところもあったものですから、助かります。不躾なお願いですみません」
「同じです。翔平もそろそろ受験のことを本気で考えなければいけない時期に、まだふらふらと遊んでいますからね」
「悩みは尽きないものですね」
 「よろしくお願いします」ともう一度深々とお辞儀をして去っていく尚弥の母親の後ろ姿を見ながら、坂巻は少々面食らっていた。
 尚弥はたしかに翔平より口数は少ない方だが、年相応の笑い方もするし元気に挨拶もしてくれる。何を考えているか分からないというような様子は見られなかった。
 家では違うのだろうか。友人の父親には愛想良くしているだけなのだろうか。
 尚弥があの時坂巻の方を振り向いて、「楽しかった」と言った。ただそれだけのことなのに、坂巻の心に生まれたむず痒さは、掻いても掻いても痒みが治まらなくなっていた。
 あの夜から、坂巻は尚弥のことを思い出してばかりいる。

『明日部活が終わったら、期末テストの勉強にお邪魔します。少し長引くかもしれませんけどすみません』
『こちらこそ助かるよ。翔平に聞いてもテストの範囲が曖昧なんだけど、大丈夫?』
『大丈夫です。明日僕が伝えます』
『頼りになるな、尚弥君は』
『それほどでもないです』

坂巻と翔平、そして尚弥のグループLINEは、特に話すことはないからと翔平が抜け、坂巻の家へ行く時の挨拶だけに使われるようになった。尚弥は律儀に、坂巻の家へ行くたびに日時を連絡してくれている。
 絵文字や略語の入っていないLINEの文章は、おそらく尚弥が坂巻に気を使ってくれているのだろうと思わせる。そういった配慮の出来る良い子なのだと坂巻は息子の友人を評価した。
 やり取りが終わったと思ってLINEアプリを閉じようとしたその時、尚弥からメッセージが届いた。アプリが立ち上がっていたところだったので、坂巻の既読は尚弥に伝わっている。
『坂巻さんは、明日お家にいらっしゃいますか?』
 どきっとした。
 いや、どきっとした自分に驚いた。何の変哲もない一文なのに、何をどきっとしているのだ。もちろん坂巻は明日も家にいる。クライアントからの訪問要望がない限りは自宅で仕事をしているからだ。そして、それを尚弥が聞いてきたところで、友人の父親が家にいるのは気が散るなくらいか、まあ尚弥だったら「お世話になっているから何かお土産でも買っていこうか」という意味での一文だろう。
 普通に返信すればいいのだ。坂巻は、だれも見ていないし聞いてもいないスマホに向かって、軽く咳払いをした。
『私は部屋に籠もりっきりなので気にしないで下さい。翔平と何か食べるようなら、勝手に台所使ってくれていいからね』
 尚弥が気にしなくてもいいよう、坂巻は初めてそこでサムズアップの絵文字を使った。おじさん構文だと言われているようだが、むしろおじさんであることをアピールした方が尚弥も気が楽だろうと思ったのだ。
 すぐに既読がついたが、しばらく返信はなかった。いったんスマホをオフにして、頭をクリアにする。落ち着け自分。坂巻の心にあるのは二十五年前の青い思い出であって、尚弥ではない。
 
 マナーモードにしていたスマホが、通知を知らせた。LINEアプリにバッジがついている。タイミングなんて気にする必要もないのだが、坂巻は数回呼吸をして間を取ってからアプリを立ち上げた。
『坂巻さんに、会いたいです』
 尚弥の丁寧な文章が、坂巻の目に飛び込んで来た。

翔平と尚弥の友人関係は、高三になっても変わらず続いており、おそらく尚弥は坂巻のことを恋愛対象に見ているのではないかと思わせるようなメッセージが時折届いていた。
坂巻はそれに、あくまでも友人の息子の父親としての返信を返す。
『もし、僕が大学に入学出来たら、ふたりで会ってもらえませんか』
『尚弥君なら志望校に必ず入れるだろうから、そうしたらぜひご馳走させてもらうよ。翔平にも言われているんだ、なんか奢ってくれって』
 きっと父親のいない尚弥は、坂巻のことを父親のように感じているだけなのだ。それを恋愛対象だと勘違いをしている。思春期というものはそういうものだ。
 心のむず痒さを恋愛だと思ってしまう。坂巻自身も高校生の時に経験したから分かる。

 坂巻の家へ来て何事もないような顔で挨拶をする尚弥に、坂巻は平常心を取り戻す。ほら見ろ、別に何があるわけじゃない。尚弥はただの勘違いだし、坂巻も昔の思い出につい浮き立ってしまっただけだ。
 しかし、そのあとに来る尚弥からのLINEのメッセージは、坂巻の思いとは裏腹に、熱が冷めることはないままだった。
 だが坂巻には「友人の父親」という硬い仮面がある。それを嵌めて、のらりくらりと返信を交わす日々が続いた。仮面の下で、本心を掻きむしりたいと思っていることなどだれにも言えない。坂巻と尚弥の年の差は二十五歳。息子の友人。守るべき秩序がある。

高三の夏、尚弥が一緒にオープンキャンパスへ行ってくれたおかげもあって、翔平の志望校は何とか決まった。
 オープンキャンパスには元妻の助言で坂巻もついて行った。子どもだけでは、カフェテリアだの施設の新しさだのばかりに目が行ってしまうから、翔平に合った大学なのか、きちんと見てきて欲しいというのは尤もな話で、高二の時点から行きたい大学が決まっている尚弥に比べて、うわっ面だけを見てしまう翔平が不安だというのは坂巻も同意見だったからだ。
「うわ、めっちゃ豪華な学食! おれ、あっち見てきていい?」
「あ、おい翔平。午後から酒井教授の特別講座があるぞ。見なくていいのか?」
「それまでには戻って来るから。うちの父さんとウロウロしてて」
「翔平ってば」
 案の定、翔平は大学の表面だけに目が行ってしまっているようだ。坂巻は苦笑するとともに、隣で同じように笑っている尚弥の顔を横目でちらりと盗み見た。
 高校三年生。十七歳。翻って坂巻は四十二歳のバツイチ男。息子たちは友人同士で、彼らには大学という未来がある。たとえ本人が好きだと言おうが、それはいっときの迷いであって、大の大人の感傷といっしょくたにしてはいけないのだ。
 そう、たとえ坂巻も尚弥のことを好きだとしても。
 二十五年前に好きになった同級生と尚弥は似て非なる存在だ。尚弥の静かに燃える青い炎はとても綺麗で強い。静かに凪いだ海のような尚弥に坂巻は惹かれ続け、熱が冷めることはいまだになかった。

「坂巻さん、僕、酒井教授の講座の整理券取ってきますね」
「悪いね。翔平があんなんだけど、尚弥君のおかげで何とかやる気が出たみたいだ」
「翔平もきっともがいているんですよ。やりたいことを見つけたいと思ってる。僕もそうです」
「尚弥君も?」
「本当の気持ちを見つけたいと思っています」
「尚弥君」
 たくさんの来場者が訪れている中で、坂巻と尚弥のいる木陰のベンチだけが静かに木漏れ日を落としている。
「僕が大学に入ったら、ふたりで会ってくれるって約束してもらえませんか? 翔平と三人じゃなくて」
 尚弥の真剣な表情に、坂巻は視線を一瞬落とした。
「分かった。大学に入ったら、ふたりで食事をしよう。約束だ」
 坂巻の言葉に尚弥は珍しく笑顔を顔いっぱいに浮かべた。
「ありがとうございます」
 坂巻の嘘は、きっと尚弥の励みになるだろう。

 それから卒業式の日まで、もう坂巻の家で勉強をすることはなかった。それぞれの志望校対策が変わり、授業や塾のスケジュールが重なることはなくなったからだ。それに合わせて、尚弥からのLINEもなくなった。
 坂巻はPTA広報部を引退して学校へ顔を出す機会はめっきり減ったが、教室では相変わらず翔平と尚弥は仲良くしているようで、高校生活で良い友人が出来て良かったと坂巻は思う。

「あなた、じゃあ私、いったん会社に戻って、あとでレストランに向かうわね」
「お前も今日くらい学校の様子とか見ておけばいいのに」
「やまやまだけど、今日もいろんな仕事を蹴って来たから、そうもいかないのよ。じゃああとで」
「ああ」
 体育館での卒業式典が終わり、元妻は慌ただしく学校を出て行った。忙しいのは分かるが子どもと写真くらい撮ればいいのにという言葉は飲み込む。
 翔平と尚弥が坂巻のいる方へ駆けて来た。卒業証書の入った筒と制服の胸ポケットに着けられた花リボンが、卒業の証だ。ふたりとも(特に翔平は)志望校へ向けてよく努力したのではないかと思う。高校生活の思い出と共に、坂巻はぐっと胸にこみ上げるものを感じた。
「父さん、あっちでしばらく記念写真とか撮るんだ。ちょっと待っててくれる?」
「もちろん。PTAの先生や保護者の人とも話がしたいからちょうど良かった。あ、おい、せっかくだから私もふたりを撮らせてくれよ」
「坂巻さん、僕撮りますよ」
 尚弥が手を出すのを坂巻は制した。
「主役は君たちなんだから、私が撮るよ」
 教室の前で、派手なポーズをつける翔平としっかり両手で卒業証書を抱える尚弥、対照的なふたりを画像に収めた。
「あとで、LINEに送るよ」
「分かった。じゃあね」

 翔平が校舎へ続く渡り廊下を走り出し、尚弥も小さくお辞儀をして――肩のあたりまで小さく振り向いた。
「ありがとうございます。坂巻さんが励ましてくれたから頑張れました」
横顔に見えた顎骨の線が男らしくなっていて、坂巻の目には眩しく映った。嘘を吐いて尚弥の気持ちを躱した自分の汚さに胸が痛む。仮面の下では、尚弥に惹かれている自分がいるというのに。二十五年前のそれとは違う、息子と同じ歳の青年に対する気持ち。
「また会ってもらえますよね」
「息子の大事な友だちだ。いつでも遊びにおいで」
「違います、僕があなたとふたりで会いたいと言ったあの返事です」
「ああ、うん。食事は奢るよもちろん。大学入学のお祝いだからね」
「はぐらかさないで下さい、あなただって僕に対して何かを感じている」
 息を吐くと、尚弥は「すみません、行きます」と坂巻に頭を下げ、翔平のあとを追うように走って行った。

 見抜かれていた。尚弥に、坂巻の嘘を。坂巻の食事の意図がそういう意味を含んでいることに、坂巻自身が分かっていながらそうじゃないふりをしていることも、坂巻が息子の友人からの視線に良心の呵責を感じるのと同じくらいときめきを感じていることも。
 
 それから尚弥からのLINEの通知は一切来なくなった。翔平と元妻が時々連絡に使うくらいに過疎化したLINEを、坂巻はホーム画面の後ろの方へ移動させた。
 仕事は相変わらず在宅ワークが中心だ。決して行き来出来ない距離ではないのだが、一人暮らしという言葉に魅力を感じたのか、翔平は大学からほど近いアパートへ引っ越している。
 翔平のいなくなった家は思ったより広くなり、坂巻は仕事で使うミーティングルームを作ることにした。今まで企業へ出向いたり喫茶店などで打ち合わせしていたこともこのミーティングルームでこなすことが出来るため、ますます外に出歩く機会が減ったのが悩みと言えば悩みではある。
 そんな坂巻に、久しぶりに企業に出向いての仕事が入ってきた。主に中間管理職の社員を相手にしたセミナーで、思ったより参加者が多いので会場をひとつ取ったとのことだ。

 久しぶりのスーツ姿に、窮屈な思いをしながら外出をする。うだるような暑さに坂巻は軽く目眩を覚えた。季節は夏になっていた。
「こんなに暑かったっけ」
 思わずひとりごちる。坂巻の若い頃は、夏でもここまで暑くはなかった。夕方にはだいぶ気温も下がっていたはずだが、セミナーの帰り道でも歩道のアスファルトからは、まるで湯気が立ち上っているようだ。
 家に帰っても晩飯になりそうなものはなかったように思う。坂巻は、チェーンの居酒屋へ入ることにした。すべてが半個室なので、ひとりでも気楽に注文が出来そうだったからだ。
 上着を脱いでネクタイを緩め、シャツの腕を捲っておしぼりで顔を拭き、ジョッキの生ビールをごくごくと煽る。おじさんと言われようが、この瞬間には思わずため息が出るというものだ。
「はぁ……美味いな」

 坂巻は四十五歳になっていた。スターマインは約三十年前の思い出に、尚弥たちの手持ち花火は四年前の思い出になろうとしている。そうやって、人は何かを忘れ、諦め、けりをつけながら、新しいものを手に入れていくのだ。坂巻の嘘で傷つけたかもしれないが、きっとそれも糧にして、尚弥は今頃大学で頑張っていることだろう。
 いくつかのつまみと酒のおかわりで、すっかり腹のくちくなった坂巻は、ふと向かいの半個室の盛り上がりに耳を澄ませた。
 酒を飲み始めたばかりの頃だろうか、若い男女の笑い声が飛び交っている。うるさいと言えばうるさいが、こういう場ではつい盛り上がってしまうものだ。坂巻は苦笑して、席を立つことにした。
 伝票を持って半個室の仕切りを出る。男女グループの中に、ひとり青白い顔の青年がいることに気が付いた。尚弥だった。
 尚弥の前に置かれたビールのジョッキは減っているように見えない。数口飲んで気分でも悪くなったのだろうか。声を掛けて家へ送り届けて――いやいや、大学の友人がいるのだから何とかなるだろう。尚弥も坂巻には会いたくないに違いない。
 そんな風に自分の気持ちにケリをつけて、坂巻はレジへ向かった。すべては坂巻のエゴでしかない。一度嘘を吐いたのだから、その嘘は守り通さないと尚弥に失礼だ。
 後ろ髪を引かれるような思いを店に残して、坂巻は会計を済ませた。

 駅のコンコースで、さっきの男女グループに遭遇した。これから二次会に行く組と帰る組で分かれた様子で、尚弥は相変わらず青白い顔をしている。じゃあな、気を付けて帰れよ、そんな挨拶を見届けて坂巻は自分の乗る五番線のホームへ向かった。
 来た電車にどうしても乗れなかった。坂巻はホームの中央にある階段を急いで駆け下りる。コンコースの柱にもたれるようにして、尚弥はまだそこにいた。
「尚弥君!」
 思わず坂巻は声を掛けた。尚弥の回りにはだれもいない。大学の友人は尚弥を置いて帰ってしまったらしい。
「坂巻……さん」
「具合でも悪いのかい? 顔色が悪いみたいだけど」
 今日初めて見たような台詞が白々しいが、坂巻の言葉に少し安堵の表情を浮かべた尚弥は、やはり少し心細かったのだろう。
「酔っ払ってしまって……。成人したからと言って急に酒が飲めるものじゃないんですね」
「そりゃあそうさ。ちょっと待ってて。水を買ってくるから」
「すみません」
 駅のコンビニで水を買い、柱に寄りかかったままの尚弥に手渡す。半分ほど水を飲むと、尚弥はふうと肺の中の空気を入れ替えるように深呼吸をした。
「生き返りました。ありがとうございます」
「二十歳になったばかりの頃は、つい飲みすぎてしまうのはよく分かるよ」
「あまりこういう場に出たことがなかったので、自分がどれくらい飲めるのかよく分からないんですよね」
「そうか。今は無理に飲まなきゃいけないということもないから、そんなに気にしなくても良いと思うよ」
「はい」
「尚弥君は三番線ホームだったかな。帰れそう?」
「はい、大丈夫そうです」
「それじゃあ、気をつけてね」
「はい。ありがとうございました」
 ゆっくりと三番線ホームのある方へ歩き出した尚弥の背中を見送り、坂巻も早足でその場を離れた。
 痒みの治まった心が再び動き出してしまわないうちに、坂巻は尚弥と距離を取りたかった。本当は家まで送り届けるのが大人の務めだろうが、何か予感が蠢いて仕方がない。
 自分の帰るべき電車は五番線。三番線とは逆の方向だ。

 坂巻は立ち止まり、振り返った。
 三番線へ向かったはずの尚弥が、そこにいた。
「……まだ気分が悪い?」
「坂巻さんが振り向いてくれるような気がして」
 坂巻は自分の吐いた嘘に負けたと思った。ふたりで会いたいと言った尚弥の言葉をはぐらかし、嘘を吐いてここまで逃げ続けた。だが、今夜足を止めて振り向いたのは、自分の方だ。
「ずるい大人ですまない」
「それも含めて好きなので」
 五番線に到着した電車に、ふたりは乗った。

先に全裸になったのは尚弥の方だった。坂巻はこの期に及んで肉のついた腹を見せることに躊躇いを覚える。
「僕が脱がせましょうか?」
「い、いや。自分で脱ぐよ」
「男の経験は?」
「好きになったことはあるが、経験はない」
「僕はあります」
 坂巻は驚いて白い肌の尚弥を思わず眺め、そしてそのエロティックな佇まいに目を伏せた。男の経験がある、とは。
「抱かれたことがあります、坂巻さんを想像しながら。だから今日は嬉しいんです」
「……尚弥君」
「普通に、女性にするみたいに、抱いてくれて大丈夫です。萎えますか?」
「いや、その……興奮している」
「みたいですね、良かった」
 実際、坂巻の兆しは痛いほどに立ち上がっていた。尚弥の身体、肌、眼差し。心の底から抱き潰してしまいたいと願っている自分がいる。尚弥の身体を喰らい尽くしてしまいたいと思っている自分が怖い。
「めちゃくちゃに、してほしいです」
 その一言に、坂巻の理性が飛んだ。
 噛みつくように尚弥の唇を奪う。小さな舌を吸い上げて口腔を己の舌でかき回せば、ふたり分の唾液が顎を伝って裸の肌を流れ落ちていく。
 大学生になりたての尚弥の身体は、坂巻に比べて身軽さを残している。腰に片手を回せば抱えられるほどの尚弥を抱きしめて、女性の身体にあって男性の身体にないものを探る。膨らみはない代わりに、胸の先はしこりを感じるほど尖っていた。
「ここ、こういう風にしたのはだれだい?」
「……風俗の……そういうお店の人に頼んで……一晩中いじられて……」
「ここもか」
 片手はこりこりと尚弥の胸の先を摘み続けながら、坂巻はもう片方の手を肉の少ない臀部へ下げた。双丘に中指を差し込んでいけば、硬い蕾が一瞬きゅっと坂巻の指を締めつけ、そのあとゆるゆると拡がっていった。
「本当に大丈夫ですか?」
「それは私の台詞だよ。尚弥君こそ大丈夫かい? 痛くない?」
「痛くないです……それより嬉しくて……坂巻さん、ああ……っ」
 坂巻の中指を深めに差し込んでいくと、男性である共通点が見つかった。優しくほぐしていくと、硬くなっていた身体がどんどん開いていくのが分かる。尚弥の反った腰やキスを強請る仕草が、坂巻は愛おしくて堪らなかった。
「入れるよ」
「はい」
 首に巻き付いた尚弥の両手が離れなかったので、正常位のまま坂巻は己の屹立を尚弥の後孔に差し当て、ゆっくりと腰を沈めた。
「ああ、坂巻さん、好きです。好き、大好き」
 坂巻の形が奥を突くたびに、尚弥の口から好きが溢れてくるようだ。坂巻は思った。尚弥の身体は坂巻への思いで形になっていたのかもしれない。
 坂巻も同じ質量で尚弥を好きだと言いたい。だがそれは出来ない。歳の差、息子の友人、守るべき秩序を捨てるくらい、尚弥のためなら何ともないと思えた。だが坂巻が一番恐れるもの何より一番怖いもの、それは愛の破綻だ。
 一度この愛を認めてしまったら、あとはひたすら尚弥に嫌われることを恐れ続けなければいけない。そして、四十五歳の坂巻にそれは酷だ。
 最初で最後のセックスだと、どうか分かってほしい。坂巻は祈った。

「坂巻さん、わがままを聞いてくれてありがとうございます」
察しの良い尚弥は、坂巻の本心を聞かずとも分かってくれたようだった。
「坂巻さんは憧れで、恋にはならなかったみたいです」
「そうか」
「今度は翔平と三人で飲みましょう。それまでに僕、お酒に強くなっておきます」
「ははは、酒は無理をするもんじゃないよ。ご馳走をたくさん作っておくから。あとあれだね、花火が出来たらいいね」
「そうですね。楽しみにしています」
 翌朝、尚弥は変わらぬ礼儀正しさで、坂巻に会釈をして去って行った。

 それから四年だったか五年だったか、坂巻が五十の声を聞く頃、翔平から尚弥が結婚したと聞いた。花火の季節だ。
「それがさ、LINEで連絡が来ただけで、相手がだれかも分からないんだよ。あいつ失礼だよな、親友の俺にも言わないで」
 
終わり

 
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