11/07 【ハピエン・メリバ創作BLコンテスト】審査通過作品投票開始!
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2025/11/07 16:00

あらすじ
本屋勤めの高良悠太は28歳の今まで恋をしたことがない。
恋ができない人間なんだと諦めながら、彩りのない人生を過ごすのだろうと思っている。
ある時、20歳のアルバイト丹羽亮介から「オススメの本を教えて欲しい」と言われて話すようになり、丹羽は付き合っても必ずフラれると知る。
「高良さんは恋ができないのに憧れててオレは恋ができるけど向いてないんで、似た者同士ですね」
そんな丹羽と過ごす時間は楽しくて――。
※こちらの作品は性描写がございます※
『好きだと言う言葉が喉でつかえている。これを吐き出せば濁流のように想いがあふれて止れなくなる。喉のつかえは「今」を守る最後の砦だ。分かっているのに、その砦はぎしぎしと音をたて光のない未来へとわたしを誘っている。それでもわたしは、進みたいのだ。砦を壊して。』
ページをめくりながら考える。
わからん。
いや、意味は分かる。
つまり、好きと言ったら壊す今があって、それは怖いけど、やっぱ壊すってこと、だと思う。
だが、その心境が分からん。
この小説の主人公は奥さんがいる男に惚れていて、気持ちを伝えたって未来に光はなくて、でも気持ちを伝えたいと思っている。
いや、やめとけ。自分で先はないと言っているのに、なぜ進みたいと思うのだ。まるで理解できない。恋愛ってそんなに状況把握もできなくなるものなのだろうか。
わからん。なぜなら俺は恋をしたことがないからだ。女の子をカワイイと思う感情はあるが、それはどちらかというとキャラクターをカワイイと思う気持ちに似ていて、それ以上に発展することはない。というか、無かった、ずっと、これまで。そして、きっと、これからも。
二十八歳にもなると、もう気づいている。
きっと、俺には恋愛感情を抱く心が欠落しているのだ。この先もずっと恋を知らないままで、一人で生きていくのだろう。本屋勤めの俺は自分の生活で精いっぱいで家族を作る余裕もないんだし、それを不満とも不安とも思わないが、小説の主人公に感情移入できないのはまあまあ残念だ。
それでも「そういうものなんだろう」と思えば読み進められるし、それで本の面白さが損なわれることもない。例えば、今読んでいるミステリーにおいて、恋愛は彩りであって本筋ではない。
俺の人生には、その彩りが少し足りないだけで、本筋は変わらないんだ。ちょっと寂しさを抱えながら生きていく。
それでいい。それが、俺なんだから。
◇
「高良さん、片倉さんが来てます」
「あー、分かった」
事務所兼バックヤード兼休憩室でパソコンから手を離して呼ばれた方を向くと、バイトの丹羽君が顔をしかめている。
「忙しいんでしょ、オレ相手しましょうか」
「いやいい、ちょっと難しい人だから俺がいく。丹羽君は引き続きフロアメンテよろしく」
はい、と少し不満げな丹羽君をおいてフロアに出ると片倉さんが片手を上げた。
「こんばんわー、姿が見えなかったから忙しいのかなと思ったけどせっかく来たからやっぱ高良さんと話したくて。最近の新刊でいいのある?」
片倉さんは近所の常連主婦さんで毎週金曜の夜に俺のオススメ本を聞きに来る。勧めた本はちゃんと買ってくれるし、話が長いことと、立つときの距離が近いことをのぞけばいいお客様だ。今日もいつも通り文庫の新刊とその作家の既刊をオススメして、三十分で解放された。
「じゃあ、また感想を言いにくるわね」
ひらひらとアイドルのように手を振って片倉さんが帰っていく。閉店の九時まであと三十分、店内の人影もまばらだ。売上の確認にレジカウンターに入ると、レジバイトの関口さんが大げさに溜め息をつく。
「副店長、お疲れ様ですー」
「まだ仕事中だけどな」
「でも、ひと仕事終えたって感じでしょ、片倉さんのパワーすごいから。旦那さんがもう少し構ってくれたらおとなしくなるかもなのにー」
「関口さん」
「はーい、すみませーん。でも気を付けてくださいよ、痴情のもつれとか、バイト先でイヤイヤ」
関口さんはからからと明るく笑って俺の腕をたたく。痛い。もう少し手加減してくれないだろうか。
「ちじょうのもつれ?」
そこにフロアメンテから戻った丹羽君まで合流してきた。
「そう、痴情のもつれよ、つまり、片倉さん夫妻と副店長で三角関係」
「そうなんですか⁉」
「違う!」
「違わないですよ、片倉さん、副店長狙いだし」
「そんなことないだろう」
「そんなことあります」
「そんなことあるでしょ」
関口丹羽が口をそろえてそう言うから、思わずその迫力に後ずさってしまった。だって片倉さんは確か干支が一緒だから十二歳年上だし旦那さんも子供もいて幸せそうなのに、そんなはずがない。
「副店長は鈍すぎですよ、あれ分からない人いるんだ?」
「分からないよ」
「ピュアが過ぎる。まあ、そんな感じですよね、文学青年中学二年生って感じで素敵です」
まったく褒められていないことくらい分かる。確かに俺はひょろっとした筋肉つかないモヤシ体形だし美容院苦手だから髪も長めだし眼鏡だし本ばっか読んでるし。いや、だからこそ、片倉さんから好意を寄せられる理由がないだろう。
「ん? 中学二年生って何」
「前の飲み会で、小説みたいな恋に憧れるって言ってたじゃないですか、あれ、よかったですよ、恋に恋焦がれてるんですよね」
か、帰りたい。そんなこと言った覚えなんてない、そんなに酔っていただろうか。この前の飲み会って確か半年前に本社から吉良崎さんが来たときで、まだ寒くて、だめだ、今は詳しく思いだせない。
「飲み会ってなんですか、オレ呼ばれてない」
「丹羽君は三か月前に入ったばかりでしょ、またそのうちね。あ、副店長に期待してもだめだよ、お金ないから」
ちょっと失礼だなとは思うが本当のことなので黙るしかない。関口さんは俺と同年代の主婦だけど同年代故にか、まったく遠慮がない。その明るさは男率の高い夜勤務の中にあって貴重だが、時々その遠慮なさに閉口してしまう。
「と、にかく、レジに固まってるんじゃない、閉店準備」
「はーい、フロアモップかけます」
閉店の九時はもう目の前だ。
朝九時から夜九時まで、それがこの店「ウサギ堂書店ハッピータウン店」の開店時間だ。ハッピータウンという小さなショッピングセンターのテナント店なので、ハッピータウンと同じ開店時間だ。少し離れた郊外に巨大ショッピングモールができたので、「お出かけ」のお客さんはそちらにいき、こちらは毎日の生活と密着型ってところだ。ちょっと大きめのスーパー、とでも言ったらいいか。その中にある、小さな本屋が俺の職場だ。
本が好きだから、本屋に就職した、というバカみたいに単純な俺は、けれど、この生活に満足している。たとえいつでも金欠に嘆いているとしても。
「あの、高良さん」
レジ締めの準備をしながら丹羽君が声をひそめた。
「なんだ?」
「やっぱ、オレもっと仕事できるようになりたいし、オススメの本とか教えてくださいよ」
「ん? あー、片倉さんの事なら本当に構わないぞ。あの人の好みはだいたい把握したし、長い話も相づち打つくらいだし」
「それとは別に、シンプルに、オススメの本教えて欲しいです」
丹羽君は俺よりちょっと高い視線から見下ろしてくる。165センチの俺は平均よりはちょっと小さいかもしれないけど、丹羽君がデカすぎるのだ。182センチって言ってたか。そのうえ、顔がいい。丹羽亮介、って名前まで格好いい。イケメンの定義はよくわからないが、それでも顔がいいのは分かるし、入ったばかりの頃は関口さんなんか騒いで大変だった。薄茶色の髪は無造作なのに寝ぐせに見えないし、綺麗な二重とかすっと高い鼻とか薄い唇とか、いちいち「こいつ顔がいいな」って思わされる。大学生で今年二十歳になったばかりで、輝かしい未来しか見えない。本屋のバイトより、しゃれた服屋とかにいそうだ。
じっと見すぎたのか、丹羽君は小さく首を傾げて
「高良さん?」
小さく笑う。こんなん、女の子はきゃーきゃー言うんじゃないだろうか。そうだ、片倉さんを丹羽君に任せようものなら、それこそ痴情のもつれになりかねない、だめだ、だめ。
そのとき、スマホのアラームが鳴って我にかえる。九時、閉店時間だ。フロアのモップをかけていた関口さんが、テナントの区切りであるカーテンを引いて戻ってくる。
「今日はチンで上がれますね」
「お客さん、少なかったからな。雨のせいか?」
九時閉店と言っても、案外、お客さんはぎりぎりまで、というか過ぎてもいる人もいる。今日は本当に珍しい方だった。
「じゃあ、二人とも上がって。お疲れ様でした」
「はーい。丹羽君、あがろー。副店長お疲れ様ですー。お先に失礼しますー」
「あ、オレは、まだ高良さんに」
丹羽君は俺を見て何か言おうと口を開いたが、関口さんに腕を引かれてバックヤードに戻っていく。
「バイトはチンで帰さなきゃ副店長が怒られるの。いい加減覚えなさい」
「分かった、分かりましたから、腕離してくださいよ」
にぎやかに二人が去っていって、俺はこれからレジ締め作業だ。何も問題なければ九時半には帰れる。帰って風呂入って本読んで寝る。朝は十時に起きてぼんやりして十二時から出勤。平和で平凡な毎日は物語の舞台にもならないだろうが、俺は十分に満足している。
――恋に恋焦がれているんですよね。
「そんなこと、ない」
手に入らないものに焦がれても時間を無駄にするだけだ。こんなにも読みたい本があふれていて時間と金が足りないというのに。
フロアを見回って、照明を消す。薄暗い世界にひっそりと存在する本屋はまるで知らない場所のようで、俺はそこに向かって呟くのが日課になっている。
「おやすみ、また明日」
◇
今日も金曜恒例の片倉さんが来た。先週勧めた本はもう読んでしまったらしい。本当に読書が好きな人だと感心してしまうし悪い人じゃない。が、やたらテンションが高くて、体力を消耗してしまった。明日が休みでよかった。ぐったりしながら店を閉め、自転車小屋に向かうと、俺の白い自転車の横になぜか丹羽君が立っていた。
「あれ、丹羽君、まだ帰らないの?」
「あっ、お疲れ様です、あの、オレ、高良さんと話したくて」
あー。丹羽君が入って三か月と少し。きたかーって感じだ。時給安いし。若いスタッフの女の子も夜はいないし。飽きるには頃合いだろう。正直、この展開には慣れている、きっとこのあとには「辞めたいんですけど」って続くに違いない。小さく息を吐いて、口を開く。
「はいはい、話ね。なんでしょう」
「あの、この前も言ったと思うけど、オレ、本当に面白い本読んでみたくて、高良さんのオススメ教えてほしいです」
――……。
「ん?」
「オレ活字ほとんど読まないんで、さすがにちょっと読んだ方がお客さんと話もできるし。高良さんのオススメってはずれなさそうだし」
「ちょっと、待て、話ってそれ?」
「そうです」
丹羽君は、にこにこしている。
よかった、辞める話じゃなかったのかと安堵の息をこぼしてから、いや、これはこれでやっかいかも、と思う。簡単に言うが「オススメの本教えて」なんて、結構やっかいなのだ。本が好きならなおさらに、だと思う。
でも、同時に嬉しくもある。確かに丹羽君は漫画しか読まないと言っていたから、少しでも活字に興味が沸いたのなら、その興味を損なわないように手助けをしてやりたい。解除しかけていた仕事モードが戻ってきた。
「いいけど、じゃあ、ちょっと丹羽君の好みも知らないとな」
「え? 高良さんの好きな本教えてくれるんじゃないんですか?」
「オススメってのは読む人に合わせるもんなんだよ、俺の好み押し付けても仕方ないだろう。あー、ちょっと話せるか?」
九月の夜は立ち話にも都合よく快適だ。自転車小屋は虫が多いのが難点だけど。目の前を横切る小さい虫に嫌な顔をした丹羽君が口を開く。
「じゃあ、オレ晩飯まだなんで、そこのファミレスでも行きます? あ、でも高良さんは休憩時間で食べてるんでしたね」
「別にいいぞ、秋限定スイーツのクーポン貰ってるから試したかったし」
「限定スイーツ……乙女みたいなこと言うじゃん」
小さな呟きだったけど、しっかり聞こえてるからな! そこのファミレスには雑誌の定期購読してもらってるから、店長さんとよく会うし、クーポンも時々貰えるし、別に甘いもの好きでもいいだろ! 文句を言いたかったが、丹羽君は長い足ですたすた歩きだして、俺はそれを追うのに必死になった。
ファミレスはこんな時間でもそこそこ賑わっている。通された二人席は距離が近くて、妙に居心地が悪い。そもそも丹羽君と二人きりで話すことが珍しすぎて、いや、もしかしたら面接以来かもしれない、なので、ちょっと緊張している。俺はコミュ力というものが、あまり高くないからだ。
「あ、サンマ定食あるじゃん、オレそれにします。高良さんは限定スイーツって、栗のやつ?」
「うーん、せっかくクーポンあるからスイートポテトとモンブラン両方のやつにする」
「豪華ですね」
「普段はめったに外食しないんだから、こんなときくらいいだろ」
「あ、オレの為ですよね、ありがとうございます」
まっすぐに嬉しそうに笑う丹羽君はなんか、きらきらしている。若いからか、顔がいいからか、なんとなく直視できないで、俺はテーブルに置かれたテイクアウトメニューの表記を目で追ってしまう。注文を終えた丹羽君が、不意に声を上げて笑った。
「それ、元カノもやってました」
「それ?」
「あー、近くにあるものの文字読むの。本すげえ読む子だったから。癖なんだって」
うん、それはよくわかるが、俺のはコミュ障が原因なのもある。だって、もう、何を話せばいいか分からなくなっている。だいたい、丹羽君と俺に共通項がみつからない。いや大丈夫だ、今は話題があるのだった。
「その、元カノ本好きなら、なんか一緒に読んだりしたんじゃないのか?」
「あー、勧められたんですけど、難しくて無理でした。なんか教科書に載っているみたいな昔の人が書いたやつ」
いわゆる文豪ってやつだろうか。読みやすいものもあるが、ものによっては言葉遣いが難しかったりとハードルが高いから、普段読まない人間にはきつかったのかもしれない。
「丹羽君は漫画どんなの読んでいるんだっけ」
「んー、売れてるのをちょこちょこって感じですかね。バトルものが好きかな。高良さんは漫画も読むんですか?」
「話題作は一通り」
そこからはしばらく漫画の話になった。丹羽君はかなりしっかりストーリーを解釈しながら読むようで、広く浅くの俺が知らない情報なんかも教えてくれて、ちょっと面白い。コミックの担当は昼のスタッフだけれど、一度一緒にフェア台をやってもらっても面白いものになるかもしれない、なんてつい仕事モードになった。
そのうち頼んだものが来て、丹羽君はそれはもう美味しそうにサンマを食べている。
「意外だな、和食派なのか」
「っていうか、サンマ嫌いな日本人いないでしょ」
「それは暴論だ」
「意外っていうなら、高良さんも意外。甘いもの好きとか。休憩中もコーヒーばっか飲んでるイメージだし。っていうか、まあ、お互いのことなんてほとんど知らないですよね、週二回、三時間しか顔合わせないし」
「バイト先のスタッフなんてそんなものだろう」
「そうですね、だからオレはもっと――」
「そうだ、ハードカバーと文庫だったらどっちがいい?」
「え」
「だから本読みたいんだろ、丹羽君にはまりそうなもの探すから。活字苦手なのは、なんで?」
「なんでって、なんでだろ」
丹羽君は眠くなるんです、と笑った。
慣れていないから、かなと思う。これだけ漫画読み込める丹羽君に想像力が乏しいとは思えないし、キャラクターに感情移入もしている。漫画のノベライズなら読んだこともあるってことだし、最初は目的が分かりやすいミステリーとかがいいか。キャラクター性が強くて読みやすいミステリーがいくつか頭に浮かぶ。
「じゃあ、何冊か貸すよ」
「え、ちゃんと買いますよ?」
「最初から買ったら、イマイチでも最後まで読まなきゃってしんどくなるかもしれないから、最初は貸すよ、気に入ったら、同じ作者のもの買ってみればいいんじゃないかな」
「なるほど。あ、じゃあ、お願いします」
「合わないなと思ったら、すぐ読むのやめていいからな。無理に読むとますます活字好きじゃなくなるだろ」
丹羽君は嬉しそうに頷いた。サンマも美味そうに食べている。感情を現すのが自然な感じで、好感が持てる。それに、もっと仕事できるようになりたいから活字読みたいなんて勉強熱心で偉い。週四回、一日三時間のバイトでそんな風に思えるなんてきっと真面目でいいやつなんだろう。これまであまり話したことなかったら、初めて知って、ちょっと嬉しい。
清算のとき、また新しいクーポンを貰ってしまって固まっていると、丹羽君は俺の顔を覗き込んで笑った。
「あ、来月はカボチャスイーツなんですね、また来るしかないですね」
しまった、クーポンスパイラルの罠にかかってしまいそうだ。
◇
丹羽君は勉強熱心だった。俺が貸した文庫本を一週間で読んで、感想を熱心に話してくれた。仕事中に。
「いや、それは後で聞くから」
「あ、すみません、なんか我慢できなくて」
「まあ、面白い本読んだら話したいよな。それは分かる」
「そう、面白かったんですよ、特にあのトリックの」
まだ、事務仕事が残っているから、俺はレジから出なければならない。話に付き合ってやりたいが、やっぱり仕事中は無理だ。結局、仕事のあと、丹羽君が待つと言い張るので、自転車小屋で待ち合わせた。
本当に待ってるのか? と半信半疑だったけれど丹羽君はにこにこ顔で俺を待っていた、缶コーヒーを手にして。
「お疲れ様です。あの、すみません、仕事の後に」
「明日休みだからいいよ。っていうか、丹羽君、晩飯は?」
この前はファミレスに行ったけれど、そうそう外食なんてできないし、新しいクーポンの期限もまだだ。だから缶コーヒーをくれたのか。
「メシは帰ってから食います。あー、それでー」
丹羽君は俺が貸したミステリーの一冊一冊の感想をそれはもう楽しそうに話す。貸したのは三冊なのだけれど、どれも面白かったらしくて、ちょっと安心した。本をオススメしたときに、一番嬉しい瞬間でもある。
それにしても活字が苦手だと言っていたのに、一週間で三冊は脅威だ。それも、全部、最後まで読んでいる。活字、向いているのかもしれない。だったら、俺も嬉しい。
一通り感想を話し終えた丹羽君は
「高良さんのオススメ本当に面白かった、凄いですね。またオススメ教えてください」
とにこにこ笑顔だ。それからスマホを見て急にしょんぼりした。
「すみません、もう一時間もたってる……高良さん疲れているのに」
「え、もうそんな時間か。丹羽君の話が面白かったから感じなかったな」
「高良さんが聞き上手だから」
そんなこと初めて言われた。丹羽君がお世辞を言っているとしても、素直に嬉しい。本当に楽しく会話した気分だから、本当は丹羽君が話し上手なんだろうけど。
こんなに楽しいの、吉良崎さんと飲みに行ったとき以来だな。吉良崎さんとはラインでやりとりはするけど、やっぱり直に話をする方が楽しい。あんなに本の話できる人、他にいないから。
もう、半年は会ってないのか。
「高良さん、やっぱ疲れてますよね、すみません。気持ちよく喋らせてくれるから、つい長くなってしまって」
「ん、あ、いや、ちょっと考え事を。まあ、また丹羽君にはまりそうなやつ探しておくよ」
「ありがとうございます。俺も、今回貸してもらった作家の新作買おう」
「無理するなよ」
「あの、オレのせいで遅くなったし、送っていきます。家、近いんでしたっけ?」
「いや俺自転車だし、それに丹羽君の家はそこのアパートでしょ」
この前行ったファミレスのすぐ隣、ここからもう茶色の壁が見えている。確か、面接のとき、近くて便利だからバイトしたいって言ってたんだよな。
「じゃあな、気を付けて」
「オレんちそこですって。高良さんこそ気を付けて――そうだ、今度はこんな立ち話じゃなくて、うちに来てくださいよ。掃除しとくんで」
それはどうだろう、仮にもバイトの家に上がり込むなんて、公私混同がすぎるんじゃないだろうか。
悩んでいるうちに丹羽君は駆け足で消えていく。一日の終わりに走れるなんて、やっぱ若いんだなあと、しみじみ実感しながら、なんとなく楽しい気分を引きずったままで家路についた。
そんなことを数回続けているうちに年末が近づいてきた。丹羽君は俺の貸す本に、毎回感心するほどしっかり感想をくれて、勧めた俺もべた褒めしてくれる。俺の手柄じゃないのに、なんだか気分がよくて長々と話し込むようになった。
結局寒さに負けて自転車小屋での立ち話は難しくなり、ファミレスか丹羽君の部屋で一時間ほど話すというのが水曜の日課になっている。ファミレスクーポンの罠はまだ続いていて、今度は干支にちなんでウサギの大福が半額――行くしかない。
とはいえ、今日は丹羽君の部屋でコンビニおでんだ。ファミレス行かなくても浪費している俺は欲望に弱いのかもしれない。
最初は「バイトの部屋に上がるなんて」と抵抗があったが、数回重ねると、慣れた。一応、彼女に悪いし、と断ったら、彼女はいないってことだったし、べつに職場で特別扱いしているわけでもないし、基本、本の話をしているだけだし――楽しいし……。
やっぱり欲望に弱いんだな、俺。
丹羽君とおでんをつつきながら、人気作家の新刊感想会になる。これは俺がオススメしたわけじゃなく、丹羽君が自分の意思で買った初めての新刊だ。この作家が気に入ったらしく、新刊も面白かったとにこにこで話してくれる。俺も楽しめたし、嬉しい。それにしても丹羽君は表情豊かだ。黙って真剣な顔をしているときは男性雑誌のモデルみたいに綺麗な顔をしているのに、楽しそうなにこにこ笑顔は子供みたいだし、仕事でミスしたときのしょんぼりした顔は叱られた犬みたいだ。感情を表にだすのが得意なんだろう。簡単なようで、俺には難しい。感情が表情になるまでのタイムラグが、人より長いという自覚はある。だから無表情で可愛げがないということはずっと言われてきた。せめて接客のときくらいはと、無理に笑顔を作れるようにはなったが、仕事を離れるともう無理だ。
だから丹羽君の表情豊かな顔を見ているのは結構、好きかもしれなかった。
「そういえば、ウサギ堂大賞の応募、しました?」
「まだ。締め切り来週だったな」
ウサギ堂大賞は、ウサギ堂全店舗内で、今年一番オススメ本を決める、いわゆる私設賞なのだが、アルバイト、パートも含め、全スタッフが参加するので、丹羽君は参加できるのを楽しみにしているようだった。
「何に入れるんですか?」
「んー、うちで一番売れてる老後のライフスタイル本かな」
「えー、一番好きな本に投票するんじゃないですか? それに、あの本読んだんですか?」
「一番好きな本なんて正直に書かないよ。それに老後本も面白いぞ、色々参考にもなるし」
「老後のこと、もう考えてるんだ? まだ二十八でしょ?」
「でも、どうせこの先も独りだし、早く考えておくのもいいだろ」
あ。いらないことを言った。この頃、丹羽君と話していると、気安い空気を作ってくれるから、つい、気がゆるむ。スルーして欲しいけれど、無理だった。丹羽君は食いついてくる。
「この先も独りって、結婚とかするでしょ。そういえば高良さんって、そういう話しませんね。恋愛物も読まないみたいだし」
ひやりとしたのは、あまりにナチュラルに内面まで入り込まれそうだからだ。丹羽君は気安いし、可愛いバイトだし、話をするのは楽しいし、距離感を詰められても不愉快に思わない空気を持っているから、油断しすぎた。
「あー、モテないんだよ、言わせるな」
なんとか、笑いにできないだろうか。さらっと流して、スマートに、かわしたいのに。
こんなときに限って丹羽君が、笑わない。まっすぐに見つめられて、勝手にあせりが募っていく。
「モテてるじゃないですか、お客さんとかにも」
「あれはノーカウントだろ、とにかく、苦手なんだよ、恋愛」
「でも彼女とか」
丹羽君はごまかされてくれない。もう、無理。
「いないし、いたことないし、できない。分からないんだよ、恋愛。心冷たい人間なんだろうな」
こんなこと、バイトに言うことじゃないだろう。分かっているのに、他にかわし方も分からないし、いい言葉も思いつかなかった。どれだけ本を読んでも「上手く喋る」ことは苦手のままだ。丹羽君は聞き上手だと褒めてくれるけれど、話すより聞いている方が楽だというだけなのだ。ただ単にコミニュケーション能力が低くて、怖がりだというだけの俺を、丹羽君は過大評価している。丹羽君を見るのが怖い。感情をうまく表情に乗せる人間から見た俺は、どう見えるんだろうか。
おそるおそる丹羽君の反応を待ったが
「そうなんですね、まあ、そういう人もいますよね」
おそろしく、ニュートラルだった。
「あー……結構、重いことを言ったつもりなんだけど」
「あっ、そうなんですか、すみません、もっと深刻に受け取らなきゃいけないんですか、えっと、え、何言ったらいいんだ? え、そんなおかしいことですか?」
「だ、って、ひとを、好きになれないなんて、欠陥だろう」
「他に好きなものあるってだけでしょ? あれ? 違うの?」
「違わない、けど、でも、やっぱり恋愛って、人生の核なんだろ、普通」
「極端ですよ、まあ、一部ではあるけど、他に大事なものあればそれでいいじゃないんですか? あっ、でも、高良さんは恋に焦がれているんでしたっけ」
そ、う、なんだろうか。
酔ったとき言ってたってことは、それが俺の本心で、手に届かないものを諦めた、と格好良く自分に言い聞かせていても、やっぱり諦めきれてなんかいなくて、このままずっと、焦がれたことを心の奥にしまい込んで、生きるしかなくて。
「そっか、欲しいけど手に入らない、ってことなんですね、すみません、無神経でした。オレも欲しくても手に入らないものあるし、しんどいですよね」
丹羽君はしょんぼりしている。こんな俺の言葉を真剣に受け止めて考えて、やっぱ、いいやつなんだろう。
「丹羽君でも手に入らないものなんてあるんだ?」
「ひとを何だと思ってるんですか、ありますよ。いつもフラれるし」
「丹羽君が!?」
「うん、向こうから付き合ってって言ってくるけど、最後はフラれる。なんか違うらしいです。ちゃんと好きになってほしかったとか言われて、ちゃんと好きなんですけど、なんか伝わらないんですよね」
こんな完璧に見える丹羽君でもままならないなんて、やっぱり恋愛って分からないものだ。
「恋愛に向いてないのかもって、ずっと思ってきて。高良さんは恋愛が分からないけど欲しいひとで、オレは恋愛できるけど向いてないひとで、結構、似ているのかもしれないですね」
そうなのか? 全然違うとは思うが、丹羽君が懸命に話してくれるから、きっと俺を慰めてくれているのだろうと思った。そう思うと、ちょっと気分が軽くなる。小説にだって、色々な人間が出てくるんだから、現実にも色々な人間がいていいのだ。だって丹羽君はもう、他の話題に進んでいる。
「高良さん、忖度とか店の売り上げとかじゃなくて、今年読んで一番好きな本教えてくださいよ」
「いや、それは、結構ハードル高いんだって。一番好きな本なんて、裸見せるより恥ずかしい」
「そんなもの?」
「俺は、ね。まあ、そのうち」
いや本当に「一番好きな本」なんて、心の内の内を晒す行為だから、俺には難しいのだ。こんなとき、表面的に躱す用にベストセラーの名前を言えばいいんだが、丹羽君にはなぜか言えなかった。
そのあとも過去のウサギ堂賞の話なんかをしているうちに、日付が変わってしまう。気づいたのは丹羽君だった。
「あー! もうこんな時間か、いつもありがとうございます、高良さん、寒いし、泊まってくださいよ?」
「さすがにそれは遠慮するよ、明日は用事もあるし、帰るな」
「こんな時間まで付き合わせてすみません、あー、車あったら送れるのにー、そうだ買おう」
「何言ってんだ、仕送り貰ってる学生だろ、勉強がんばりなさい」
「――はい。ガンバリマス」
十二月の夜中は悲鳴が出るくらい寒かったけど、でも、なんか、体が軽い。
初めてだった。恋愛したことないのも、できないのも、諦めているのも、初めて、人に話した。一生、一人で抱えていく重いものだと思っていたのに。それほど特別なことじゃないのかもしれない。自分をごまかすためじゃなく、言い聞かせるためじゃなく、本当にそう思える気がする。それは他人からもたらされた言葉だったからだ。
「丹羽くん、か」
きっと、この夜こと、ずっと忘れないのだろうと、思った。
◇
十二月は繁忙期だ。クリスマスプレゼントに本を選んでくれる人たちはまだたくさんいて、嬉しい悲鳴の日々が続く。とくに、ラッピングにおいての悲鳴なんだが。
「苦手なんですよ、ラッピング」
嘆くのは関口さんだ。
「慣れたら簡単なんで慣れてください」
さらっとそんなことを言って怒りを向けられているのはロングパートの山元君だ。基本無口で本が好きで俺と似たタイプだ。俺は休みの日は山元君が締めをする、しっかりした二十五歳。この店は彼らの支えられていると言っても過言ではない。
そんな悲鳴の中、本部視察が来た。この繁忙期の真っただ中に。抜き打ちで。
「この忙しいのに!」
「高良君、声に出ているよ」
「すみませんね、で、次はどこのお叱りですか」
「そんなに叱ってないだろ、よくやってるよ。あ、でも返品率なんだけど」
「副店長ヘルプー、ラッピングが三人待ちですー」
「あーもー、本部様は勝手に視察しててくださいよ、せめて店長いる昼間に来てくださいよ!」
「昼間は忙しいだろ」
「夜も忙しいです!」
うちの担当は吉良崎さんだ。正直「アタリ」だと、他の店からは言われるくらい、話が分かるひとだ。歳は俺より五つ上で感覚も近いし、相談も乗ってくれるし、現場も知っているからこっちの事情も分かってくれる。俺も二年だけ一緒に働いたけど、優しくていい店長だった。本社勤めになってから、合わない書類仕事とか会議とか営業とかで疲れる、とは言っているけど、持ち前のコミュ力で上手くやっているように見える。俺も今日の視察、吉良崎さんじゃなきゃ、もっと冷たく当たっている所だ。
「お、ラッピング、俺も手伝う。得意だったんだぞ」
「知ってますよ、けど、本部様にそんなことさせるわけには」
「いいじゃんか、ちょっとくらい。お。変形絵本か、腕がなるねえ」
吉良崎さんはラッピング台でそれはもう楽しそうに商品を包んでいる。絵本はとくにただの長方形じゃなく、かわいいキャラクターの形だったりと変形なものが多くて、俺は苦手だが、吉良崎さんはそれを綺麗に、かわいく包んでいる。
「開けるの楽しいだろうなあ。はい、お待たせ」
「すごいー、めちゃ綺麗ですね」
関口さんも嬉しそうにそれを受け取ってお客様に渡している。そうだよな、本当は嬉しい作業のはずなのだ。本離れと言われて久しいけど、まだ贈り物としての価値を見出してもらえるのは、本当に嬉しい。忙しいからって腐ってる場合じゃないのだ。
「で、副店長、ストック在庫なんだけど、多すぎ。販売数見ています? これ初週の売り上げ低いんだけど、どこにどう展開したの?」
せっかくいい気分になりかけたんだから、容赦してほしい。
結局、閉店後少し過ぎるまでお客様がいて、へとへとになったのに、本部様のチェックはまだ終わらない。丁寧に隅から隅までぐちぐちと言われた。まあ、改善点があるのは本当のことで、手が回っていないのはこちらの落ち度だ。粛々と受け止めて改善するしか
「って、そういうのは店長に言ってくださいよ!」
「今回は高良に言えってお達しがね。そろそろ店長になる準備ってことよ」
「まだまだ店長には頑張ってもらいますから」
「ほら、お前もうすぐ三十だろ、その前にって思ってるんだよ、人生設計とかもあるだろうし、嫁さんとか子供とか」
「大きな世話です」
もう他のスタッフは帰ってしまったあとだからか、吉良崎さんは気安い感じになっている。付き合いもそこそこ長いし、唯一、本部で気楽にしゃべれる人だから担当が吉良崎さんで、助かっているのは本当だ。
「なあ、店閉めたら飲み行こうぜ」
「おごりなら」
「分かってるって。その代わり、今夜は返さないぜ」
語尾にハートマークでもつけそうな勢いで、って言うか、本当に指でハートを作っているんだけど、三十過ぎてそんなんことするな。でも、ちょっとわくわくしている。吉良崎さんとは本の趣味が合うから、話が楽しいのだ。
「あっ!」
「なに、急に」
今日は丹羽君が「待っている」日だった。ラインを確認すると、自転車小屋にいますというメッセージが五分前に来ている。丹羽君には悪いが、本部様を無下にすることはできない。慌てて自転車小屋まで走って事情を説明すると、丹羽君は快くドタキャンを赦してくれた。
「仕事なら仕方ないですもんね」
「すまん、今度埋め合わせする」
「じゃあクリスマススイーツ奢ってください」
ファミレスを指して笑った丹羽君にほっとしながら店に戻ると、吉良崎さんがにやにやして待っていた。
「なんだよ待ち合わせしてたのか、すまんな、抜き打ちで来て」
「いや、マジで、本当に迷惑なので、本部会議で言ってください、まじで」
「そうだな、彼女にも謝っといて」
「彼女じゃないです、別に」
「なんだ違うのか、つまらん、ようやくお前のノロケとか愚痴が聞けると思ったのに」
吉良崎さんがそう言うのは、この後の飲みで、吉良崎さん自身がノロケとか愚痴を言うからだ。本の話半分、恋人の話半分、というところだ。それでも楽しいのは人柄なんだろう。
と、思った通り、今日も本の話で盛り上がったところで恋人のノロケと愚痴とノロケを聞かされた。毎度毎度、よくそんなにネタがあるな、と感心する。本当はそれくらい仲が良いのだ。いつか紹介してくれるということだけど、それはまだ叶っていない。
べろべろの吉良崎さんをホテルまで送ってから、ようやく解放される。もう日付はとっくに変わっていて、吉良崎さんじゃなきゃ、許さない所業だ。早く帰って寝たいところだが、自転車を店に置いている。酔っているから乗れないし、ついて帰るしかないが、酔い覚ましにはいいかもしれない。吉良崎さんと飲むと、つい飲みすぎてしまう。今日も、楽しかった。鼻歌を歌いながら薄暗い自転車小屋についたとき、
「高良さん」
急に後ろから声を掛けられて、
「ぎゃあああ」
ギャグみたいな声が出た。飛び跳ねながら振り向くと、目を丸くした丹羽君が立っている。
「お、おま、お、まえ、な、に、」
「ちょ、凄い声、すみません、びっくりさせて」
「笑ってんな! 死ぬかと思った! なに!」
「あー、ちょっと、たまたま見かけたから」
「コンビニに買い物でもしにきたのか?」
「そうですけど、それとは別に――オレもさっきまで飲みに行ってて」
丹羽君はすっと笑顔を消して目を細めた。
「高良さんって、あんな風に笑うんですね」
「あ?」
「見かけたんです、本部の人、と一緒だったでしょ、見たことない顔で笑って、楽しそうだった」
「そうか? まあ、結構飲んだから」
「オレの前ではあんな顔しない。店でも、あんな顔しない。――……あの人の前だけなの?」
「何言ってんだ?」
「あの人が好きなんでしょ? 恋愛分からないなんて言って、ちゃんと好きな人いるんじゃん」
丹羽君はまっすぐに俺を見つめてくる。頭がふわふわして、何を言われているか分からない。丹羽君がいう「あの人」ってのは、吉良崎さんのことで、そんで、俺が、あの人を、なんだって?
急に酔いがさめてきて、歯がかちかちと鳴った。手が震えている。
「いみが、わからない」
「本気で言ってる? マジか……無自覚? あの人が好きなんですよ、高良さんは」
「なんでおまえにそんなこと」
「オレ、そういうの分かる性質なんです。少なくとも、高良さんよりは分かるよ。たぶん、自覚なく、あんたはあの人好きなんだよ。よかったね、ひとを好きになれないわけじゃなくて、気づかなかっただけなんだよ」
「だって、あの人は男で!」
「そうですね、あ、もしかして、もともと男が好きなんじゃないですか? だから女の子に恋できなくて、恋愛分からないって思い込んでたとか」
いやもう、頭が、まわらない。男が好き? そんなこと――。だって、男は女を好きになるもので、俺は男だから――。
「ちがう! とおもう」
「じゃあ、あの人だけが好きなんだよ、性別とか関係なく」
わからない、そんなことわからない。
「ど、うしたら、いいんだ」
「どうって。恋がしたかったんでしょ、それでいいじゃん」
「よくない」
だって、こんなのおかしい。そんなはずない、吉良崎さんと話すのは楽しいけど、それだけだ、一緒にいて嬉しいけど、それだけだ。これが恋愛感情? 確かに、他の誰にも抱かない感情かもしれないけど――
「でも、おまえと話すときも楽しい!」
「――は? なに言っ」
「あのひとと話すの楽しい、だから、一緒にいてうれしい、そんで、おまえがいうように、よくわらっているかもしれない、でも、おまえといるのも、たのしいって、おもってる。それは、また、べつなのか?」
もう、だめだ、本当に頭がぐるぐるして、むり。
そのまま自転車小屋の柱にもたれかかって、ずるずると崩れ落ちた。丹羽君のあせったような声が聞こえる。お前でもそんな声出すんだな、と思いながら、ゆっくりと意識が閉じた。
◇
目が覚めたら知らない天井。
なんて、本の中の出来事だと思っていたのに、まさに今、その状況にある。
明らかに自分の家とは違う白い天井。黒い掛布団。眼鏡、スマホ、どこ?そっと身を起こして、思わず叫びそうになった。
同じベッドで、イケメンが寝ている。
「丹羽っ」
そしてすばらしい勢いで寝る前のことが蘇ってくる。自転車小屋での会話と、丹羽の表情まで。あのまま崩れた俺を部屋まで運んで泊めてくれたのだろう。なんたる醜態、なんたる失態。よし、酒、やめよう。そっと布団から抜け出すと、急に手首を掴まれた。
「ぎゃああああ」
「ちょ、声、でかい」
「いや、だって、急に掴まれたら叫ぶだろ! じゃないな、あの昨夜は本当に、迷惑をおかけしてすみません」
「びっくりしましたよ、急に寝るから。酒弱いの?」
「いや、こんなこと、初めてだ」
「強制シャットダウンって感じだったもんね。頭が考えるの拒んだんじゃない?」
当然だが丹羽は昨夜のことを全部覚えている。俺が、吉良崎さんを好きかも、とか、いうことまで。自分でもまだわからない。でも、一つだけ、本当は分かっていることがある。
うっすらと。
本当にうっすらと。
考えなかったわけじゃない。
でも、目をそらし続けてきたこと。
女の子をキャラクターのようにしか好きになれないと気づいたとき、本当は頭に浮かんだこと。
本当は、男が好きなのかもしれない、って、こと。
違うと思いたかった。「普通」でいたかったから。
「ちょ、なに、泣いてんの?」
「ないて、ない」
「泣いてるって。はいティッシュ」
「だって、俺、男がすきかもとか、そんなんこと、本当は、うっすら、考えたことあって。でも、そんなはずないって、ずっと、とじこめてて」
「で、恋愛自体できないって、思い込もうとしてたんだ?」
「だって、こわいから」
「まあ少数派だからね。でも、恋愛感情ない人も本当にいるけど、その方がもっと少数派じゃないの? ゲイなんて、結構いるでしょ」
「そう、なのか」
「わかんないけど、オレの周り的にはそういう統計。高良さんは恋したかったんだから、ゲイのほうでよかったじゃん」
丹羽はそう言ってへらりと笑う。つられて笑いそうになって、また涙がこぼれた。
「よかったのか」
「よかったでしょ」
「もしかしたら、おまえ、底なしの能天気なのか」
「そんなことないと思うけど。悩みとかもあるし、いつもフラれるし」
なんだろう。なんか、泣いている自分が恥ずかしい気がしてきた。じめじめ泣いている俺より、恋愛したかったんでしょ、できてハッピーだねっていう丹羽の方が正しい気がしてきた。
そうか、俺、誰かを好きになること、できたんだな。
「丹羽」
「いつの間にか呼び捨てだ、何?」
「失恋した」
「え? あの人のこと?」
「あの人は恋人いる。話の半分はノロケだ」
「あ、そうなんだ。あー、……残念だね、――次行ってみよ?」
「次?」
「新しい恋が傷を癒してくれるんだよ。ほら、めでたく男が好きかもって道筋ができたんだからさ、いい出会いもあるかもよ」
「いつのまにかタメ口だな」
「あんたもオレのことオマエとか言ったでしょ」
「新しい恋って、どうするんだ?」
「んー、そうだな、とりあえず、好みのタイプでも自覚することから始めます? 男の」
丹羽がまたにっこりと笑う。その明るさは、立ちすくむ俺の背中を押すには、十分な、光だった。
◇
年が明けて、俺の生活は少しだけ変わった。水曜の丹羽読了感想会の時間が少し伸びたのだ。最初はこれまで通り本の話をして、楽しく過ごす。最近では丹羽自身が選んだ本の感想を聞くことが増えたから、俺がまだ読んでいない本のときもある。その時は「プレゼンします」と熱量を持って本の紹介をしてくれるから、今のところ、プレゼンされた本は全部買ってしまっている。どれもはずれなく面白い。丹羽はすっかり読書趣味になってくれて、それは本当に嬉しい。
それから、一通り本の話が終わったら、俺の「好みのタイプ」を探る時間になった。最初はこんなこと丹羽に頼れないと、自分でなんとかするつもりだった。けれど、何をすればいいのか、何を考えればいいのか分からなくて、結局「いろんなタイプ見てみますか」という丹羽に頼っている。最初はネットでイケメン画像を漁っていたが、なんにもぴんとこなかった。
「あの本部の人はどうなんですか、顔とか」
「とくに」
「じゃあ、何がいいんですか」
「俺も分からん。たのしいから、かも」
「見た目あんま気にしないタイプなんですかね、高良さんは。あ、オレもそうなんでわかりますよ。オレはオレのこと好きになってくれた子がタイプなんで」
「意外と、受け身なんだな」
「好きって言われないと好きになれなくて。まあ、最後は結局フラれるけど。高良さんも、なんか性格とか所作とか、そういうのに惹かれるタイプなのかも。とはいえ、傾向はあるでしょうから、写真より動画がいいかもですね。映画でもみましょうか。気になってる映画あります?」
ってことで、小説原作のミステリーを丹羽と見ている。映画ってことは二時間はかかるってことで、そのまま泊めてもらうことも増えた。こんなことでいいのか、と頭の中で良識人ぶる俺と、せっかく付き合ってくれてるんだし、楽しいからいいじゃないか、と露悪的な俺が戦うけど、だいたい悪が勝つ。やっぱり欲望に弱い。
「ミステリー映画って見終わったあと、探偵気分になるよな」
「アクションとかは強くなった気になりますしね」
「本読んだあとも、ある」
「まじで? どんだけ本に没頭するんですか、高良さんは」
「なんだよ、お前はないのか?」
「まだ振り回されて終わるってかんじかな。犯人捜しに必死。そういや、この映画は原作とラストが違うらしいですね」
「らしいな。気になる」
だって、こんな風に感想を言いながら映画を見るとか、したことなかったから、楽しいのだ。原作を知っている者同士だから、余計に話が弾む。丹羽といつでも感想が一致するわけじゃなくて、時々対立もするけど、丹羽の意見を聞くのも、楽しい。丹羽も楽しいと言ってくれるから、それに甘えている自覚はある。
肝心の「好みのタイプ」はなかなか見つからないけれど。丹羽は「ゆっくり探せば」と言ってくれるけど、いつまでも付き合わせるわけにもいかないことも分かっている。それでも甘えているのは、新しくできた「友人」に浮かれているのだ。本の話ができる友人なんて、今までいなかったから――。
だから、浮かれすぎている俺に、バツが降りかかったのかもしれない。
それは丹羽が休みの日曜日だった。普段は平日しか来ない片倉さんが閉店間際にやってきたのだ。オススメ本の話は金曜日にしたばかりだ、どうしたんだろうと思っている俺に片倉さんはにこやかに話しかけてくる。
「いつもお世話になっているから、何かお礼がしたくて。高良さん自転車通勤でしょう、マフラーもせず寒そうだからこれとかどうかと思って」
片倉さんは薄ベージュにチェック柄のマフラーを差し出してくれるけれど、俺はちょっと息を飲んだ。
なぜ、自転車通勤とか、マフラーしてないことを知っているのか。どこかで見られたのかと思ったら、ちょっと憂鬱になる。それに、むき出しのマフラーを差し出されているのもちょっと怖い。
「あの、お心遣いは嬉しいのですが、社内規定でお客様から物を受け取るのは禁止されているので」
「そんなの、黙っていたらばれないでしょう、どうってことないわよ」
「いえ、規則なので」
片倉さんはそれでも引いてくれない。半ば強引にマフラーを首に巻かれて、思わず勢いではぎ取って突き返してしまった。ちょっと乱暴だったか、と後悔したとき、レジから関口さんが叫ぶ。
「副店長ー、どうしても偉い人だせって電話でクレームが」
「あ、わかった。片倉さん、本当にお気持ちだけで十分ですから。お気をつけてお帰りくださいね」
とても顔を見れずにレジに駆け込む。片倉さんの視線から逃れるように電話に出ると、不通話音が聞こえた。切れてる。関口さんが軽い咳払いをして、もともと電話なんてかかっていなかったのか、とようやく気付いた。関口さんが助け船を出してくれたんだろう。しばらくクレーム対応のふりをしていると、関口さんが小さく呟いた。
「帰りましたよ」
店内に閉店時間の案内が流れだしたから諦めたのだろう。いつもぎりぎりまでカーテンを閉めない山元君がさっとカーテンをしめて、小さく頷いた。
「いません、帰ったと思います」
「なんか、ありがとう。上手く対応できなくて。本当に助かった」
「でも、今だけの対応ですからねえ、本格的にどうするか考えないとですね。さっきのマフラーカシミヤですか? ブランドっぽかったから、結構お高いと思いますよ」
「う、確かに肌触りは良かったけど、そうなのか」
「片倉さん、本気で攻めてくるかもですね、行きかえり気を付けてください。ボディーガードつけます? あ、最近、丹羽君と仲よさそうだし、頼んだらどうですか」
「べ、つに、仲良くとか、そんなんじゃないぞ、オススメの本教えてって言うからそれで」
仕事中は今まで通り普通にしていたつもりなのに、なんでばれているんだ。これは良くない傾向だぞ、特定のバイトと仲が良いなんて、ひいきを疑われたりして仕事に支障がでたら――
「一応、丹羽には連絡しました」
「山元君? なんでそんな」
「そろそろヤバいかもって話は丹羽ともしてました。丹羽は合気道やってたから、いざというときには呼んでって言ってたんで」
「なに、君たちは何を心配しているんだ?」
「そりゃ、いきなり刺されたりしないように、ですよ」
さされる!? そんな物騒なことになっているのか? ただプレゼントを返しただけだろう?
「好意を無下にされた恋する人間は怖いですよー」
そうなのか? 好意を持っているなら、傷つけたりできないんじゃないのか? 分からん、やっぱり恋愛なんてわからない。
俺が帰るまで待っていると言い張った二人を何とか先に帰して店を出たが、あんな話を聞いたあとだから、ちょっと警戒してしまう。丹羽にはあのあとすぐに「なんでもない」とメッセージを送ったが、既読になっただけで返事はなかった。ナイフを防げるかは分からないが、厚めの月刊誌を買ったので、それを抱きしめて自転車小屋に向かう。と、
「高良さん、遅くまで店にいるんですね、お疲れ様」
「な、んで」
片倉さんが待っていた。先にでた山元君からは「辺りにいる様子はない」と連絡があったから、その時は別の所にいたんだろうか。まさか隠れていたんだろうかと思うと、背筋が寒くなる。なんで、俺に、そんな執着するんだ。
「あの、本当、お構いなく」
「なによ、もう仕事終わったんだし、ちょっとくらいいいでしょう。マフラー、気に入らなかったなら、別のにするわね。手袋にしましょうか」
「いえ、本当に何もいただけないです」
「私、ずっと、何かお礼をしたいと思ってて、だって高良さん、いっつも私の話を真剣にちゃんと聞いてくれるじゃない? 子供もまじめに聞いてくれないし、旦那なんて三分も聞いてくれないのに。高良さんだけなの、私の話聞いてくれるのは」
「いや、仕事なんで」
「仕事でも、他の人とは私みたいに話さないじゃない?」
それは、あんたが、面倒な客だからだ。最初の頃、そこそこで切り上げようとしたら大きな声で文句を言われた。だから「面倒な客」として丁寧に接していただけだ。なんて、怖くて言えない。
刺される、ってことはなさそうだけど、怖い。これは好意のはすなのに、どうしてこんなに怖さを感じてしまうんだろうか。
「ねえ、高良さん、今度、食事でも行かない?」
「行きません」
即答したからか、片倉さんの顔から笑みが消える。やばい気がする、どうすればいんだ、どうすれば――。そのとき、
「恵っ!」
知らない第三者の声が響いた。同時に、渋い無精ひげの男が駆けてくる。
「あなたっ」
片倉さんの声で、それが旦那さんだと知ったが、驚きはそれだけじゃない。なぜか、丹羽も一緒に現れたのだ。
「な、んで、丹羽」
「なんか、旦那さんと利害が一致しちゃって、様子見てたんです」
丹羽は俺の隣にくると、そっと腕を掴んでくれた。二人きりじゃなくなったことに安堵の息が漏れる。場は、修羅場、だけど。
片倉さんの旦那さんが静かに片倉さんを問い詰めている。
「おかしいと思ってたんだ。こそこそ夜に出かけて、そんな若い男に入れあげてたなんて情けない」
「ただ本を買っていただけです。何もやましいことはないわ、ねえ、高良君」
夫婦喧嘩に巻き込まないで欲しい。二人して俺を見ないで欲しい。
「あの、本当に俺は普通にお客様として」
「こんな人気のない場所で、仕事外で、二人で会っといてお客様として、ってのはおかしいだろ」
旦那さんの声がきつい。確かに事実だけ見たらそうだ。どうすれば、どう言えばいいんだ。ふと丹羽を見ると、丹羽は深い息を吐いてから、いきなり、抱きしめてきた。
え。
なに、これ。
「高良さん、なんでこんな、年増がいいんだよ! 絶対オレの方がいいだろ、いい加減、観念してよ」
え、まじで、なに、これ。
「ちょ、丹羽っ」
「どんだけ言ったらオレのこと受け入れてくれるの」
「丹羽っ、ほんと、なに、言って」
抱きしめてくる腕の力が強くて、逃げられない。あったかいな、と一瞬思ったけど、それよりパニックが強くてまともに言葉も出てこない。
「え、なにこれ、まじで? そういうことなの?」
なんか、遠くで嬉しそうな片倉さんの声がする。
「なんだ、お前のそっちの趣味か。浮気かと思った。まあ、そいつ受けっぽいしな」
旦那さんの声がさっきと打って変わって落ち着いている。
「ちょっと、分かってるじゃない。いつもそれくらいちゃんと話聞いてくれたら私だって夜に本買いに出たりしないわよ」
「お前の話長いんだよ、まあ、けど、近所の本屋店員を妄想のネタにするくらい暇だったんだな、悪かった。もう少し構うよ」
「……馬鹿。最初からそうしてくれたらよかったのよ」
なんか、俺そっちのけで話進んでないか。しかし、何言ってるんだ、分からん。そして、未だ、丹羽に抱きしめられているのも意味が分からん。
「丹羽」
「ん、もうそろそろいいかも」
丹羽はようやく俺を解放してくれた。なんか、酸欠で頭がくらくらする。そんで、俺を見る片倉さんの眼がやたら優しいんだが。さっきまでの怖さはどこへ行ったんだ。
「あの、高良君、いつも話してくれて楽しかったのは本当なの。お礼したくて、踏み込みすぎたのは反省します。まさかバイトの子とそういう関係だったなんて」
「違います!」
「そうですよ片倉さん。オレの片思いなんで」
丹羽は何を言っているんだ。
「そうなのね。応援するわ!」
片倉さんも何言ってるんだ。なんだこのコントみたいな状況。
「すみませんね、こいつ暇があふれると暴走しがちで。ちゃんと見ておくんで、本当、すみません」
なんで旦那さんが頭下げているんだ。
俺だけがぼんやりしていて、他の三人は和やかに笑っている。
今日、一番怖い光景だった。
しばらく和んでいた片倉夫妻はもう一度頭を下げてくれて、帰っていった。残された俺はまだよくわからないままで丹羽を見つめるしかできない。
「なにこれ」
「よかったです、怖い展開にならなくて。実は大学近くの本屋で片倉さん見かけたことあって。BL大量に買ってたから、こういうの好きかなと思ったんですけど、うまくいってよかったー」
「BL? 今俺、BLと思われたのか?」
「オレの片思いってことにしたから、大丈夫でしょ、とにかく刺されなくてよかったです。凄い顔した旦那さん見たときはさすがに焦りましたよ。ちょっと話したらちゃんと奥さん好きっぽかったから、うまく収まってくれてよかった」
状況はよくわからないけれど、丹羽に助けられたという事実だけは間違いなくわかる。今、俺は、心底安堵している。
「あ、ありがとう、来てくれて。情けないとこ、見せたな」
「かっこよかったですよ、きっぱり断ったとことか」
八つも下のバイトにフォローさせていることも、あまりにふがいなくて、なんだか泣けてくる。安心したのもあってか、涙がこぼれた。
「高良さん」
丹羽がまた抱きしめてくる。
やっぱり、暖かい。
もっと、ちゃんといろいろ上手くできるようになりたい。片倉さんのことだって、もっと事前に俺がうまくあしらえてたら、丹羽を煩わせることもなかったのだ。情けなくて崩れそうな俺に丹羽の暖かさは心地よくて、しばらくその熱に溺れた。
その後も片倉さんは来店している。が、旦那さんと一緒にくるようになった。あと、丹羽に優しい。俺には厳しくなった。納得いかない。
◇
年度末は図書カード注文がたくさん来る。卒業入学祝い等々、数十枚から百枚単位で個包装で準備する。指定金額のカードを指定通りにケースに入れて、包装紙でせっせと包む。
昼は図書カードで時間を取られるので夜は事務仕事に追われる。
結局、今日もほとんど店頭に出れずに終わった。こういう日は本当にぐったりする。明日が休みでよかった。明日は一日、一歩も外に出ずに積んでいる文庫を崩そう。
自転車小屋には、まるで当たり前のように丹羽がいて、ひらひら手を振ってくる。今日は丹羽の部屋に行く約束なんだから、わざわざ迎えに来なくていいと言っているが、コンビニいくついでだからと言いながら、いつもここで待っている。三月の夜なんて、まだまだ寒いのに、耳と鼻を赤くして待っている。
「お疲れ様です。あ、なんか、疲れてますね」
「図書カード図書カードラッピング書類書類――」
「ははっ、そこのコンビニで限定ガトーショコラ買ったんで、映画見ながら食いましょ」
コンビニ袋を掲げた丹羽がにこにこしている。この顔を見ていると、なんだかほっとして気が抜けることが増えた。だいたい毎週、本の話して、映画見て、好みのタイプとか内面の話をして、まるで年下の友人ができたようで、楽しい。
丹羽の部屋には座椅子が一つ増えた。俺の分だ。丹羽はもともと買うつもりだったと言っていたが本当かな。おかげでゆっくり映画が見れるようになった。あまりにも、この部屋が居心地よくなっていく。今日は疲れてもいた。つまり、うたた寝してしまった。気づけば映画も佳境に差し掛かり、白髪探偵が犯人を追い詰めている場面だ。
「あ、起きた」
「すまん、寝てた」
「疲れてるのに、付き合わせてすみません」
「つき合わせているのは俺の方だろ」
「楽しんでいるのはオレですよ。高良さんの好みも知りたいし」
「それだけどな、つき合わせておいてなんだが、まったく自分で分からないんだけど」
「そうかな、オレは薄々――今日の、話はイマイチだけど、俳優さんがいいですね」
「ああ、探偵役の芳川さん、何やっても上手いよなあ。ちょい役で出てきても存在感あるっていうか。弟もいい味だしてるし。でもあんま似てないよな」
「弟いるんですか?」
「先週見ただろ、猫探し刑事の事件簿、あれの上司」
「あの人と兄弟なんだ? 初めて知った。あの人も高良さん褒めてたよね」
「まあ」
「高良さん、年上好きでしょ」
「上手い俳優さんが多いからな」
「じゃなくて。かっこいいと思うの、だいたい年上でしょ? 無意識だと思うけど、今まで高良さんが反応したの全部、渋い年上男性」
そんなこと、考えたことなかった。やっぱり上手いと感じる俳優さんはある程度歳を重ねていることが多いというだけで……。
「特典映像の舞台挨拶とかでも、おじさんが出てくるときだけ集中してみてるし」
「そうなのか?」
「そうなの。無意識なんだろうけど」
そう、なんだろうか。そう、なのか? かっこいいと思うのは確かに年上かもしれないけど、若い子だって顔がいいなとはちゃんと思うし。
「高良さん、ちゃんと考えてみて」
そうだ、もともと俺が新しい恋をするのに、好みの傾向をみつけるのが目的で始めたイケメン鑑賞会なんだ。いつのまにか俺は丹羽と映画を見るのが楽しくなってしまっていたけど、丹羽はずっとちゃんと俺のことを考えてみてくれていたんだな。浮かれて楽しんでいた自分が恥ずかしくなる。ちゃんと考えないと。
好みってことは、性的に、ってこと、だよな。
つまり、寝る、ってことも考えたりとかだよな、俺が? 男と?例えば今テレビの中で犯人に自供させてニヒルに笑っている俳優の芳川さんと? 俺の上に芳川さんが乗ってきて?
「うわっ」
「どうしたの」
「いや、なんかイメトレしたら、生々しいことに」
「……今まで一人でするとき、何おかずにしてたんですか」
「ななな何、なに言って」
「大事でしょ」
「……あんま、そんな、しない、し――活字が、多い」
「そのとき、どの立場で妄想してたの?」
「セクハラが酷いぞっ」
「すみません」
けど、ちゃんとよく考えたら、可愛い女の子の裸を、想像しては、いなかった、かも、しれない。どっちかって言うと、男側の――。
うっすらと気づきながら、目をそらし続けてきたこと。
「あーーー」
やっぱりそうなのか、そうなんだろうな。
無意識に、考えないようにしてきたことと、ちゃんと向き合うと、こうやって答えがでていくのか。
「高良さん?」
「あー、まあ、お前が言うように……年上が、好きかも」
きっと、そうだ。かっこいいって思うのも、見とれるのも、きっと、渋い年上のひとだ。
自覚するとなんだか叫びたくなる。そりゃ今まで誰も好きにならないと思っていたはずだ。そんな知り合いが少ないんだし。吉良崎さんは見た目でどうこう思ったことないけど、一応、年上ではある。ただ「好み」と「好き」が必ずしも一致することはないと、丹羽は教えてくれたから、好みはあくまで目安だと。
やっと「好み」を見つけたけど、それも丹羽のアドバイスがなきゃたどり着けなかった。
丹羽は何か言うかと思ったが、黙って画面を見続けていて、その目がちょっと怖い。こんなことに時間を費やしたこと、後悔しているんだろうか。それとも、渋い男が好きなやつが隣にいるという事実に、しんどくなったんだろうか。
「あの、――俺、たぶん、年上すきで、気持ち、悪い、よな、ごめん」
これまで丹羽はずっとニュートラルだった。それに甘えすぎたのかもしれない。友達にゲイがいるとはいえ、「友達」と「バイト先のおじさん」では訳が違う。
「ごめん」
もう一度、謝罪を口にしたとき、だった。
「気持ち悪くなんてないよ」
丹羽はゆっくりと俺を見て、すっと長い腕を伸ばしてくる。思わず身をすくめた俺に、丹羽は目を細めてから、ゆっくりと俺の頭に触った。髪を撫でられている、と思ったときには、その手が耳を伝って頬に触れた。
「な、な、に」
「じゃあ、オレは気持ち悪い?」
「え?」
丹羽の手が首にまで落ちてくる。慣れない感覚に何かが背中を駆けあがってくるようで、思わず叫んだ。
「ひぁ!」
「――っ、気持ち悪い?」
「ち、がう、けど、なんか、へんな」
「ためしてみる?」
なにを、と言いかけた言葉が音になる前に、丹羽が距離を詰めてくる。もともと隣に座っていたのだから、近かったけど、もっと、近く。腕が当たって、まるで体が重なりそうに、近く。まだ俺の喉を触ったまま、息が届きそうなほど間近で顔を覗き込まれて息が止まるかと思った。くっきり二重の大きな、綺麗な眼が、すごく近くから見つめてくる。こんな、誰かと、近づいたことなんてない。
「気持ち悪い?」
丹羽が細い声で聞いてくる。いつも元気な丹羽なのに、妙に心細そうで、まるで子供のようで。
誤魔化したり、逃げたり、それは、してはいけないことのような気がする。この状況の何も分からないけど、それだけは分かる。丹羽が、まっすぐに見つめてくるから。
「き、もち、わるく、ない」
「これは?」
丹羽の手がシャツのボタンを二つ弾いて喉元から忍んできた指が鎖骨に触れた。ひとに、こんな場所を触られたことなんてない、肌と肌が触れる、ただそれだけなのに、心臓が跳ねあがった。
「高良さん、いや?」
「いや、じゃ、な、い」
丹羽の指は熱くて、まるで俺を溶かしてしまいそうに熱くて、何度も鎖骨を擦られて息が苦しくなる。いつの間にか、座椅子に押し付けられて半分、のしかかられているけど、気持ち悪くなんて、ない。でも、なんで今、こうなっているのかなんて、わからない。
ただ、いやじゃない、気持ち悪くない。
俺は、気持ち悪くなんて、ない。
「丹羽っ」
「ん、やめようか」
「きもち、わるく、ない」
「っ、――そうだよ、高良さんは、気持ち悪くない」
丹羽の息が頬にかかる。勝手に身体が跳ね上がって、腕が、小さく震えた。
ずっと、不思議だったことがある。
性交が気持ちいいのは理解できる。生殖器を刺激すると快楽が生まれることは分かるし実体験で知っている。でも、キスって、ただ肌の触れあいで、なぜ、恋愛しているひとは皆キスをするのだろうか。小説でも、まるで性交のようにつづられている。ただ、肌が触れあっているだけなのに、どうして、恋人たちはキスをするのだろう。
その訳はまだわからないけど、きっと、肌が触れあっただけ、なんかじゃないなにかがあるんだろう。ただ息が頬に触れるだけで、こんなに熱いんだから。
「――っ、たかよし、さん、止めないと、だめですよ」
「ぁっ、なに?」
「だから……っ、こんなん、怒って、突飛ばして、ののしらないと、だめだよ」
俺の頬を触ったままで丹羽は怒ったみたいに、そう言った。
「慣れてないからって、されるがままなのは、だめ、で」
「お前が言うのかよっ」
「っ、そうだよ、そう、すみません、本当、こんなことするつもりじゃ」
丹羽はのしかかっていた俺から離れると正座のままで頭を下げた。
「すみません、気持ち悪かったでしょ」
丹羽のつむじを見ているうちに、段々と落ち着いてくる。
たぶん、結構なこと、された、んだよな。
怒らないと、ののしらないと、だめなんだろうけど、何も言葉がでない。
だって、気持ちよかった、から。
ひとの熱って、気持ちいいんだって、知ってしまった。だから恋人同士ってよくくっついているんだな。
「あ、丹羽、あの、気持ち、悪くなかった、から、頭、あげて」
「本当? 許してくれますか?」
おそるおそる、という風に顔を上げた丹羽のイケメンが気弱に佇んでいる。なんとかいつも通りになってほしくて、必死に言葉を紡ぐ。
「あ、本当に、気持ち悪くなくて、俺、やっぱ、男が、すきなんだなって。そうじゃなきゃ、きっと、気持ち悪いよな、今更か。そういやなんでこんな――」
こんなことになったんだっけ。確か俺が年上好きかもってなって、そうしたら急に丹羽の顔が怖くなって
「高良さん、オレが言うのもなんだけど、嫌ならちゃんと拒まないとだめだよ、男だったら誰でもいいってわけじゃないでしょ」
「そうだけど、別に、嫌じゃなかったし」
「っ、――、勘弁して」
丹羽の顔色が悪い。俺はなにかまたやらかしてしまったんだろうか。丹羽の機嫌が悪くなるのは嫌だ、せっかく仲良くなったのに。なにか、話題を――
「そ、そうだ、前から疑問だったんだけど、キスって肌が触れあっているだけなのに、なんで気持ちよさそうなのかなって思っててきっと一生その謎はとけないと思ってたんだけどなんか丹羽の顔が近いだけですごいドキドキしたからそういうことなのかなってって言うかお前の顔がいいから余計になのかなハハお前の顔が好みなのかも」
「な、――も、無理、かも……たかよしさん、もう、かえって」
「帰れ」って、初めて人から言われた、そんなこと。本当に丹羽を怒らせてしまったのだろうか。どれがいけなかったのだろう、変な空気にならないようにべらべら喋ったの、気持ち悪かっただろうか。
いや、考えてみれば、もともと、八歳も年上の男が友達面して家に上がり込んでいるのがオカシイんだ。それどころか性癖の相談までして、どうかしている。俺はずっと舞い上がっていたんだ、だから、丹羽の限界に気づかなかったんだろう。情けない、恥ずかしい、もう、一刻も早く、消えたい。
鞄を掴んで立ち上がると、玄関さきで腕を掴まれた。帰れと言ったのに、なんだ、と振り返ると、丹羽はまるで傷ついたような顔をしている。なんでお前がそんな顔してるんだよ。
「高良さん、違う、たぶん、誤解、してる」
「俺が悪かった、帰るから、すぐ帰るから」
「ちがう、ごめ、言い方悪かった、でも、違うんだ」
もう俺を見ないで欲しい。首を振って腕を振り払、えない。痛いほど強く腕を掴まれている。文句の一つくらい言ってもいいかな、と思ったとき、ふと丹羽の顔が近いことに気づいた。
え。
とか
あ。
とか、言うよりはやく、唇が重なった。
え、
なに、なんで、これ。
キス。
自覚した瞬間、背中が粟立つ。
俺は今、丹羽の誰より近くにいる。何にも邪魔されないで、ゼロ距離で丹羽の側に。
そう思うと、勝手に背中がびくりと震えた。
キス、してる。丹羽と。
「んっ!」
息、できない。
なにこれ、なんだこれ。
熱い、くるしい、くらくらする。
すぐに解放されたけど、唇を離された瞬間に、俺は床に崩れ落ちてしまった。視界がぼやけているのは眼鏡が曇っているせいと、涙がにじんでいるせいだ。
「高良さ」
俺を引き起こそうとか、伸ばしてきた丹羽の手をはらいのけてよろよろと丹羽の部屋を出た。身を切る寒さの空気にさらされて、少しずつ頭に酸素が戻ってくる。ほとんど無意識で自転車をかっ飛ばして家に帰って、ようやく、息ができる気がした。
なんだ、なんだったんだ、あれは。
誰だよ、キスなんて肌が触れあっただけだ、みたいなこと言ったやつ。
俺か。
全然違うじゃないか。また涙がにじんでくる。瞼の裏に浮かんでくる男の顔を振り払ってそのまま布団にくるまった。
もう、許容量オーバーだった。
◇
『なんでキスなんてしたのよ!』
『そんなの、言わなきゃわかんねえのかよ』
『だって、わたし』
「副店長――この客注ですけど」
「はいっ!? あ、なに?」
「何熱心に読んでるんですか。あれ、少女漫画?」
やばい見られた、よく喋る関口さんに見られたら何を突っ込まれるかわからん。悩んだとき、俺はつい本に答えを探してしまう。恋心の機微を描きつくす少女漫画なら、今の俺の悩みを晴らしてくれる答えがある気がして。つい休憩中に名作を買って読み込んでしまった。
「それより、客注がなんだって?」
「あっ、そうそう、こだま薬局の山田さんから電話あって、頼んでた本を帰りに取りに行くからって言うんですけど、探してもないんですよね、その本」
「え? 確か昨日入荷していただろう?」
入荷は確認している。慌ててレジカウンターまで走ると、丹羽が青ざめている。
「あの、オレ、もしかして、間違えたかも。さっき田山さん来てて、棚から本、売りました。一応、この本で間違いないですかって聞いたんだけど、そうだって言うから、そのまま、全部で五冊です」
田山さんは常連の年配男性で、何冊も取り置きを貯めて買うお客様だ。お話好きなお客様で、受け取るときにも話に集中していたら渡された本をよく確認しないで買うことはありえるかもしれない。
販売記録で田山さんに売ったのは間違いないから、急いで電話すると、まだ他のテナントで買い物中だった田山さんが戻ってきてくれた。気のいいおじいさんだから、豪快に笑いながら本を出してくれた。
「いやあ、ちゃんと確認せずに買っちゃたわ」
「本当に申し訳ございません」
「でもその本、面白そうだから俺も欲しいな、注文しといて」
田山さんは笑いながら帰っていって、それからすぐに山田さんが来た。
無事になんとか丸く収まったら、もう閉店時間だ。その間、丹羽はずっと青い顔をしている。
「でもさ、山田さんなのにタ行の棚に入ってたんでしょ? 誰か間違っていれちゃったんだよ。丹羽君のせいじゃないよ」
「けど、本についてた注文票にはちゃんと山田さんって書いてたんで、それ見ても田山さんだと思い込んだオレが」
「山田。田山。もう、紛らわしいねえ。でも、どっちもいい人で助かったよね」
関口さんが大きく笑ってくれて、重い空気が少し和らいだ。ミスが重なったのは改善の余地があるが、今は俺も何かフォローの言葉をかけてやるべきで、なにか言葉を探したけれど、丹羽の顔を見ていると心臓が跳ねあがって、言葉が詰まる。今日はずっとこの体たらくだ。キスされてから二日目、まだ、全然、心の整理がつかない。
なんで、キスしたんだ?
なんて、聞いてしまいそうだ。
仕事中なのに。
本当は、今日のミスも、俺が客注棚の確認をしていれば事前に防げたはずだった。今日は丹羽と顔を合わせづらくて、レジカウンターに近寄らなかった、オレの責任だ。いつもは必ず確認するのに。
仕事に、プライベートを持ち込んでしまった。
落ち込む丹羽に声をかけてやるのも俺の仕事なのに、結局、関口さんに任せてしまった。情けない。丹羽のことばかり考えすぎている。
レジ締めの作業も何回かミスして、心底自己嫌悪しながら店を出る。
「寒」
もうすぐ四月だというのに、まだ身を包む夜風は寒くて知らず震えた。熱が恋しい。
丹羽の唇は、熱かった。
また、丹羽のことを考えてしまう。
「あー! もう、こんなんだからダメなんだ」
ガシガシと髪をかき乱して自転車小屋に向かうと
「お疲れさん」
「丹羽っ?」
振り返ったさき、立っていたのは丹羽ではなく
「え、吉良崎さん?」
吉良崎さんが驚いたように目を丸めて半端な位置に掲げたままの手をひらと振った。
「にわ?」
「いや、それより吉良崎さん、なんでいるんですか」
「あー、ちょっとプライベートで近くまで来たからさ。いいものあげようと思って」
吉良崎さんの声が高い。ご機嫌なのは恋人絡みでいいことでもあったからなのかもしれない。
丹羽は俺が吉良崎さんを好きなんだろうと言ったけれど、その割に俺は吉良崎さんと恋人のことを考えても苦しみはない。仲良くやってほしいな、とすら思う。小説での恋は嫉妬がつきものだけれど、案外、穏やかな恋もあるんだな。
「いいものって何ですか、ってかわいい反応くらいしろよ」
「あ、すみません。イイモノッテナンデスカ」
「なんか感情こもって無くない? 本当にいいものなんだけどな」
吉良崎さんは肩にかけていた黒い鞄からチラと青いものを見せた。自転車小屋の心細い照明の下でも、その鮮やかな青が何かすぐ分かった。個人的に去年一番好きだった本「青のさき」だ。作家さんが好きなのもあるけど、それを抜きにしても、装丁の綺麗な青も含めていい一冊だった。
「青のさき、じゃないですか。なんですか、今頃?」
「それがね、ただの一冊じゃないんだな、はい」
吉良崎さんは青いカバーの本を俺に渡してくれる。俺も持っている大事な本だ。にやにやする吉良崎さんが表紙を開けと促してくるから、おとなしく開くと、そこには作者サインが書かれていた。いわゆるサイン本で、大型店なら販促として仕入れることもある。うちのような小さな店では店頭に並ぶことなんてめったにないけれど。
俺個人としてはサインにあまり興味はないけれど、この作家は別だ。デビュー作で好きになって、それから全部追ってきた。メディア化もしてヒット作もでたけれど、ここ四年新作は出てなくて、この「青のさき」が久しぶりの新作だった。
「出張先でたまたまサイン会あってさ、お前好きだったろ、この作家さん。並んじゃった」
「わざわざ? ありがとうございます!」
「まあ、いつも愚痴とノロケ聞いてもらってるからな」
肉筆のサインは、記号のように見ている作家名を一人の人物として浮かび上がらせてくれる。この世界を作り上げてくれたことへの感謝と尊敬とよろこびを持ってサインをなでると、吉良崎さんも嬉しそうに笑った。
「そんな喜んでくれたら俺も並んだかいあったよ」
普通にしているつもりだったけれど、珍しく喜びの感情が顔にでたんだろうか、恥ずかしい。
「なんか落ち込んでたみたいだけど、元気でたか?」
「え、あ、はい、ありがとうございます」
「悩み事、聞こうか? どうせ待ち合わせまで暇なんだよ、寒いしさ、そこのファミレス入ろうや」
悩み事、それは丹羽のことだけど、自分で解決しなきゃいけない悩みの気がする。ファミレスには入ったけれど、丹羽の事を相談するのはやめておいた。かわりに本の話をたくさんして、少しすっきりした。
一時間くらいで、吉良崎さんは待ち合わせ相手に呼ばれて帰っていった。少しスッキリした頭で帰路につきながら、何度も頭をよぎったことが、また浮かんでくる。
なんで、キスしたんだ?
キスって、誰にだってするもんじゃないだろう?
まさか、俺のこと、好き、とか?
いやいやいやいやそんなわけない。
じゃあ、そういう空気だったんだろうか。
慣れていない俺には察することができなかっただけで、そんな深い意味もなくて、こんな風にぐだぐだ悩んでいることさえ、丹羽にとっては面倒なことかもしれない。
でも、俺は丹羽のことをたくさん知っているわけじゃないけど、そんなこと思うタイプには思えない。
じゃあ、やっぱり、俺を好き、とか?
いやいやいやそんなわけないだろ。
すっきりしたはずの頭はまた丹羽でいっぱいになり、結局その夜もぐるぐるしたままだった。
次の日は丹羽が休みの日だから、いつも通り普通に過ごせた。ほっとしているはずなのに、何か物足りなさを感じている自分にも気づいていて、意味が分からない。もう、しんどい、丹羽のことばかり考えるの、しんどい、そう思いながら参考書コーナーの整頓をしているときだった。
「にわくーん、早く早く」
「おまえ、声デカイよ、静かにしろって」
「ごめーん、ねえねえ早くいい絵本選んでよ」
「何度も言うけどオレに聞くの間違ってるって」
「だってにわくん、本屋さんじゃん」
声が近づいてくる。「にわくん」は俺の知っている「丹羽」だった。可愛いポニーテールの子と腕を組んで参考書コーナーの隣にある絵本コーナーに歩いてくる。美人とイケメンで、お似合いの二人だ。丹羽は俺の顔を見て、ぺこりと頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
声をかけると、女性がにこりと笑う。
「にわくんの友達?」
「副店長だよ」
「あ、偉い人か。にわくんがいつもお世話になってまーす」
可愛い声で女性はぺこりと俺に頭を下げ、丹羽が慌てたように俺と女性の間に立った。
「マジおまえ、いらんこと言うなよ」
「言ってないじゃんっ、姪っ子に絵本を買いにきただけでしょ」
「オレは絵本なんてわかんないって」
「じゃあ、副店長さん」
丹羽の向こう側から女性がひょこりと顔を出す。ああ、かわいいなあ、とほほえましい。こういう仕草って、女性は自然に身に着けるものなんだろうか。せっかくなので、彼女の話を聞きながら、何冊か絵本を見繕った。丹羽は始終、居心地悪そうにしていたが、帰りがけに小さく「ありがとうございました」と頭を下げてくれた。いつもより元気ないように見えるのは、女の子といる照れくささ故だろうか。
「にわくーん、お礼に奢るから行くよー」
「だから声デカイってば」
女性は丹羽の腕につかまって二人は出て行った。明るくて元気でかわいい。俺にも何度もお礼言ってくれたし、きっといい子だ。
「はあ、丹羽君の彼女ですかね、可愛かったですね、これだからイケメンは」
山元君がどこか悔しそうにつぶやいて、その珍しさに噴き出しながら、ちょっと、苦しい。
彼女はいないと言っていたから、まだ「そう」じゃないのかな、好きって言われたら好きになるって言ってた丹羽だから彼女に好きだと言われたら好きになるんだろうか。それとも、もう言われたんだろうか。いくら鈍い俺だって、彼女が丹羽に好意を持っていることくらいなら分かる。
なにが、丹羽、俺のこと好きなのかな、だよ。自惚れが過ぎるだろうが、俺は。そんなことあるはずがないじゃないか。俺が丹羽に選ばれるなんて、そんなことあるわけがない。だって、丹羽は「好き」と言われなければ好きにならないんだ、そして俺は丹羽に好きなんて言っていない。だって俺は年上が好みで、好きなのは吉良崎さんで――丹羽より八歳も年上でモヤシみたいなガリ男だし眼鏡だし元気でも明るくもないし可愛い仕草だってできない。釣り合うわけもないのだ。想像だけだっておこがましい。
きっと、あのキスに意味も理由もない。期待なんてするものじゃない。
……期待?
俺は何を期待していたって言うんだろう。
丹羽に好意を寄せられていたかった、とでも?
『高良さんが好きだからキスしたんです』
と、言われたかった、とでも?
瞬間、どっかから飛んできた重くて固い球にでも頭を弾かれたような衝撃に襲われる。めまいがして、ひゅと息を飲みながら、思わず売り場の床に座り込んだ。閉店時間が近くてお客さんが少なくてよかった。
監視カメラで見えていました、と山元君が駆け寄ってきてくれて、休憩室まで肩をかしてくれる。
「貧血めずらしいですね。酷いなら、あがってください、締めは俺がしますから」
「ありがとう」
そういうわけにはいかない、という理性は働くものの、仕事に戻る冷静さが働かない。だって、俺、気づいてしまった。
期待、していた。
言われたかった。
『高良さんが好きだからキスしたんです』
そう、丹羽が言ってくれることを、望んでいたんだ。
なんで?
初めてのキスだったから、事故みたいに終わるのが嫌だった? そこには俺が納得する理由が欲しかった?
「ちがうだろ……」
ただ、丹羽に、好きだと言われたかったんだ。
いくら経験がなくたって、それくらいは自分で分からないとだめだ。
きっと。
いつの間にか、俺は、丹羽が好きだったんだ。
一緒にいると楽しかった、たぶん、そんな些細な理由で、好きになってしまったんだろう。年上の渋い男じゃないのに。吉良崎さんを好きだってこの前自覚したばかりなのに、とんだ尻軽だ。何が恋ができない、だ。そして、また失恋するんだろう。今度はしっかりと自覚を持ったままで。
「しんど――」
こんなにきついなら、やっぱり恋なんてできないままで良かったんだ。彩りを諦めていた世界で静かに生きていけばよかった。一度、色を知ってしまった世界はもう、その色なしでは寂しすぎる。
俺は次に丹羽と会ったとき、今までと同じ顔をしていられるのだろうか。そんな高度なこと、とても、無理な気がする。
なんとか冷静さを装って仕事に戻り、無事閉店業務も終わらせてよろよろと自転車小屋に向かう。山元君がタクシーを勧めてくれたけど、そんな金はもったいない。せめて、と自転車小屋まではついてきてくれた。
「気を付けてください」
「わかった、ありがとう、お疲れさま」
ぺこりと頭を下げて山元君が帰るのを見送ってから、嫌になるくらい大きなため息がこぼれた。この場所はどうしたって丹羽を思い出してしまう。一週間前がもうずっと過去の事みたいだ。最初の、ただ本の話だけしてた頃が懐かしい。楽しいだけだった時間に、きっと俺は無意識に、丹羽に惹かれていたんだろう。
「俺、チョロいな」
だって、丹羽が――。
「高良さん」
「ぎゃああああ」
急に後ろから肩を掴まれて、いつかみたいな馬鹿っぽい叫びが響く。案の定、丹羽が困った顔で俺を見ていた。
「な、おま、後ろから現れるな!」
「え、理不尽。いや、すみません、あの、話したくて」
何のだろう。
昨日のミスか、あのキスか、それとも、今日の礼か。どれも、聞かなくていい。
「悪い、具合良くないから、今日は帰る」
「え、大丈夫ですか、泊まっていき――嫌ですよね、オレの部屋なんて。あの、急にあんなこと、すみませんでした」
謝られた。丹羽にとってあのキスは、やっぱり謝らないといけないような、そんなものだったんだ。
はずみで? 流れで? 空気で? なんとなく?
どんな言葉も聞きたくないと思った。だって俺は、きっと、嬉しかったから。自覚したら、余計にあの熱を乞うてしまう。たぶん、これが恋しいということなんだろう。
でもそれは丹羽にとって、謝罪の対象だ。これ以上、困らせたくない。
「気にしてない。それより、もう帰るから」
「えっ、ちょっと、待、あの、昨日のミスも」
「気にするな。じゃあな」
「あの、今日も」
丹羽の腕につかまっていた可愛いポニーテールを思い出して、苦しくなる。お似合いだった、もう好きだと言われたんだろうか。丹羽も好きだって、思ったんだろうか。そこに俺なんて異物は介在しない。苦しい、なんだこれ。あまりの息苦しさに、のどに詰まっているものを吐き出す用に言葉がこぼれた。
「可愛い子だったな、彼女か?」
「違います、ユキはただの友達で」
「それにしちゃ距離が近かったな。いいじゃないか、付き合えば。ユキちゃんっていうのか。可愛いし、きっとお前のこと好きだろう? 好きって言われたら、好きになるんだもんな」
「――なんか棘ありません?」
「知らん。帰る」
「あんただって、昨日、デレデレしてたじゃんか、本部の人に。青い本貰って嬉しそうにしてさ、恋人いるやつ相手に愛想ふりまいてさ」
「は? そんなんじゃない。……っていうか。なんで知ってるんだ?」
「そう見えましたけど。……あの青い本、高良さんの一番好きなやつでしょ。オレには教えてもくれなかったのに、あいつはちゃんと知ってたんですね。そりゃそうか、オレなんかより長い付き合いだし? 好きなんですもんね、絶望的な片思いなのに、いじらしいね、ばかみたいだ」
丹羽が目を細めてさらさらの前髪をかきあげながら、鼻で笑った。こんな悪意をぶつけられたことなんてない。なんで、好きなやつに、こんなこと言われないといけないんだろう。
「お前も早く帰れよっ、俺なんて構ってないで、好きだって言ってくれる子のとこいけばいいだろっ」
自分で言いながら、自分を傷つけている。ほんとうに馬鹿みたいだな。やっぱり恋愛って判断能力とか思考能力を低下させるもんなんだ、初めて実感する。もういやだ、こんな自分。
丹羽に背を向けて自転車の籠に荷物を乗せたら、腕を掴まれた。指先、冷たい。のに、握られている場所が服越しなのに熱くなる。丹羽に触れられている、それは、心臓のあたりがぎゅうと締め付けられるくらいの、喜びだった。
あさましい。醜い。こんな俺、見られたくない。
でも、丹羽は離してくれない。それどころか、もう片方の手で、もう一方の手も掴まれた。否応なしに向かい合わせにさせられて、丹羽の不機嫌な視線から逃れられない。
「高良さんっ、なんで、そんな妬いてるの?」
「やいてる?」
「嫉妬してるでしょ、ユキに。なんで?」
嫉妬、してたのか俺は。しかもそれを気づかれて問い詰められてるなんて、無様にもほどがある。もう本当に嫌だ。
「知らん、妬いてない、離せ!」
「うそ、妬いてる、お願い、言って」
「うるさい、そんなん言うなら、お前だって吉良崎さんに嫉妬してるみたいに見える! なんでだよ⁉」
それは俺の願望かもしれないけれど。何にしろ、こんな言い争い、不毛だ。丹羽の手から力が抜けたから、掴まれていた手を振りほどいた。丹羽はもう何も言わない。
「もういやだ、帰る、お前と話すことなんてない」
自転車の鍵を解いてまたがろうとする俺の耳に、さざ波より微かな声が、届いた。
「ま、って」
あまりに頼りない声に、思わず丹羽の顔をまじまじと見ると、さっきまでの露悪的な態度はなりをひそめ、ただひたすらに、心細そうな表情が広がっている。軽く小突くだけで倒れてしまいそうな、これは、誰だ?
初めて見る丹羽の顔に息を飲む。これは、恐怖だろうか。丹羽は怖がっているように思えた。俺と言い争ったから、だろうか。ちょっと大人気なかったと、反省するくらいの冷静さが戻ってくる。
「あー、まあ、帰るから、お前も気をつけて帰れよ」
こいつの家、そこなんだけどな。
なんとなく軽く肩を叩いてから、苦いものを噛んだときみたいな気分になった。明日から、何事もなかったみたいに接することができるかな。でも、頑張るしかないか。
風が通り抜けていく。もう春が近いというのに、冷たい風に包まれながら自転車にまたがって、小さく息をつく。丹羽は何か言いたがっているようにも思えたけど、それさえ、俺の都合いい妄想かもしれない。好きだって自覚なんかしなければ、ずっと楽しい時間が続いたのかな。だったら俺が悪いんだ。
「あの!」
肩を掴まれた。振り返ったさき、丹羽は、見たことがないくらい苦しそうな顔をしている。
「あの、あ、オレ、あの、す、あなたが」
やっぱり、何か言いたがっているのは俺の妄想じゃない。
「あ、おれ、すげえ、あんたが」
丹羽は、言いたがっている。俺に、伝えたがっている。その必死な眼に息がとまった。聞いてやらないといけない、と思った。待ってあげないといけない、と思った。
「オレ、高良さんが」
丹羽の顔色が悪い。唇は震えているし、指先も震えている。綺麗なイケメンの頬を、ぽろりと一滴、丹羽が、泣いている。思わずそれを指でぬぐい取る。
「丹羽っ、大丈夫か。どうして泣いてるんだ」
「泣いてる?」
丹羽は泣いていること、自分で気づいていなかったみたいだった。
「オレ、言えなくて――」
何かしてやりたくて、広い背中を撫でる。まるで小さい子供のようで、放っておけない。しばらくそうしていると、丹羽は苦いものを吐き出すようにつぶやいた。
「昔、好きだって言った人に、大嫌いだ、消えろって言われたことあって」
は、なんだ、それ?
大嫌いだ、消えろ、って、とんでもない鋭い刃だ。そんなもの、人に向けるものじゃないだろう。
「――なにそれ、酷いな」
「まだ物事よくわかってなかったら、ばあちゃんの事情とか知らなかったから、嫁姑で仲悪かったみたいだけど、オレはそれも分かってないガキで」
「待て、子供の頃そんな酷いこと言われたのか? ばあちゃんに? そんなん、忘れられるわけないだろ。トラウマもんだろ!」
「でも、あれから十五年も経ってるし、もうそんなこと言われないのに、オレだけがこんなんで」
家族に言われたのか?
十五年前? 五歳じゃないか。
信じられない。そんなの小説の世界だけの話じゃないのか。最近、その手の話が出てくる小説も多くて、そのたびに苦しい思いで飲み込んできた。でも、小説だから、フィクションだから、呑み込めてきただけだ。そんなの、こんな、目の前の男が、好きな男が
「帰ります、引き留めてすみません」
泣きながら去っていく背中を見つめるだけで、何もできない。
ぼんやりと帰りながら、何度も丹羽のこと、考える。
「丹羽、にわ」
大嫌いだ、消えろって、言われた、って。
「っ、――、苦し」
こんな刃、知らない人間に言われたとしても傷つくだろう。それを、好きだと思っている人から言われたら、俺は、どうなるんだろう。それを、まだ無邪気な子供の頃に向けられたら、幼い心は死んでしまうんじゃないだろうか。
「丹羽っ」
それでも、丹羽は笑っている。表情豊かで、ニュートラルで、話してると楽しくて。
好きだって言ってくれる人しか好きになれない、って、そりゃそうだろ、怖いに決まっている、そんなもん。
経験の有無とかじゃない、ちゃんとまっすぐ向き合えば、丹羽が何を言いたがっているのか、本当は分かるんじゃないか。丹羽は俺に、伝えたがっていた。
丹羽、泣いてた。
ようやく家についてベッドに倒れこみながら、ざわざわと、背中から総毛だつ。泣かせたの、誰だよ、俺の丹羽を泣かせたの、誰だ。許せない。
こんな感情、初めてだ。さっきまで会ってたけど、帰ってきてすぐだけど、もう夜中だけど、すぐにでも丹羽に会いたくなった。なんてめちゃめちゃな感情なんだろう。これを恋だというなら、本当に判断力も何もかも鈍ってしまうものなんだな。
明日、丹羽に会いに行って、ちゃんと話をしよう。
とても眠れなくて、積んでいる本の山からランダムに抜き出したそれを手にしながら、俺は夜明けを待った。選んだ本が、ハードボイルドアクションだったことを後から後悔することになるのだけれど――。
『丹羽のこと』
昔から怖がりだったんだと思う。親からもよく泣く子供だったと何度も言われた。まあ、でも許してほしい。小さい頃は特に怖いものが見えたんだから。霊感的なアレなのか分からないが、とにかく「こわいもの」が見えた。今にして思えば、あれは人の悪意みたいなものが見えていたんだと思う。形としてはっきり「見える」ようなことではなく、気配を察知していたんだと思う。そのせいか、人混みが苦手だった。知らない人も苦手で、笑顔なのにこわいものが見えたりして、今ならそんな二面性にも納得できるんだけど、子供のときはひたすら怖かった。
でも、親とか友達とか、近しい人の間にいると怖いものが見えないから大好きだった。あの頃はそれが嬉しくて、近しいひとにはいつも大好きだと伝えていた。皆、嬉しそうに聞いてくれたし、大好きだと伝えることは嬉しいことなんだと、そう思っていたけど――。
初めて父方のばあちゃんに会ったときだった。母方のばあちゃんとは何度も会って、優しくしてくれて大好きだったし、もう一人ばあちゃんがいる、と教えられてわくわくして会いに行った。親父と会ってばあちゃんは嬉しそうだったし、オレにも優しく声をかけてくれたし、オレも大好きな人が増えたなあ、と嬉しかった。けど、親父が席をはずした瞬間に、ばあちゃんは「こわいもの」になった。ばあちゃんが好きだと伝えたら、わたしは嫌いだと返されて、小さかったオレは生まれて初めて、好意を向けた人から嫌われるというタスクをクリアしてしまったのだ。
それ以来、誰かに好きだと伝えるのは怖くなった。
小学校卒業くらいから、怖いものは見えなくなっていって今では全然見えない。大人になれば便利そうな能力だったのに、小さいころでは「怖い」と感じただけで、トラウマだけ残しやがっただけだ。
それを引きずって、二十歳になっても「好きと言ってくれる人しか好きと言えない」という、超絶受け身男になってしまっている。
それが顕著に出るのが恋愛に関してで、自分から告白なんてオレには縁のない話になってしまい、自分から好きになれることもない。好きって言ってもらって好きになって恋人になって、それから、振られる。「ちゃんと好きになってほしかった」と。そんなことが何回か続いたら、オレって恋愛に向いていないんだなあと思わずにはいられない。もう、誰かを好きになることもないのかな、とか、そんなことを思っていたとき、あの人を見つけた。
その日は友達との待ち合わせでコーヒースタンドにいた。早くついたから暇だなとぼんやりしていて、斜め前の一人席に座っている男の人に目が止った。黒髪に黒縁眼鏡の草食系代表みたいな、なんてことない二十代くらいの普通の男だったけど、目が止ったのは、その人が笑っていたからだ。一人掛けの席で、青い表紙の本を読みながら、それはもう、幸せそうに微笑んでいる。こんなに幸せそうに本を読むひとなんて、見たことない。元カノで本好きの子もいたけど、無表情で読んでたし、オレだってギャグマンガで笑うくらいで、本読みながらそんなに感情を出すことってない。
この人、すごく素直な人なんだろうなあ、となんとなく、それかしばらく見つめていた。
その人は読み進めるほどに、微笑みが悲しそうな顔に変わったり、驚きに変わったりと、表情が忙しい。そのうち、本を閉じたその人は肘をついた両手に額をのせ、下を向いて、目を閉じた。細かい表情は見えなかったけど、きっとかみしめているんだろうなあ、と思った。顔を上げたその人は、今度は柔らかく微笑んでいて、目が離せなくなった。
その人はそのまま店を出て行ったけど、オレはしばらくその姿が頭から離れなくなった。
あんなに幸せそうに笑えるなんて、あの本、そんなに面白いのかな。
興味の初めはそれだった。その日は結局友達にドタキャンされ、暇になって、そういや家の近くに本屋あったなーって、ふらっと寄った。青い表紙の本、そんなのたくさんあって、あの本がどれだったかは分からない。まあ、そうか、と思ったときだった。店の後ろから、エプロン姿のあの人が歩いてきたのだ。
息が止まった。
運命。
そんな馬鹿なことが頭をよぎって、慌てて振り払う。それでも、すぐ隣を通り過ぎるその人に、思わず声をかけてしまった。
「あの!」
「はい」
顔を上げたその人は微笑んでくれたけど、さっき本を読んでたときとは全然ちがう、きっと営業用の笑顔なんだろう。
もっと、さっきみたいな顔、見たい――。
「何かお探しですか?」
「あ、あの」
あなたがさっき読んでいた本、なんて、聞けるわけないよな、キモすぎる。どうしようどうしよう、目を泳がせたさき、「アルバイト募集」の張り紙が見えて、思わずオレはそれを勢いよく指した。
「バイト、募集してるんですよね⁉」
♦
勢いで入ったバイトだっただけに、最初は大変だった。あわあわしているオレの横から副店長……あの人が対応を変わってくれる。あの青い本を読んでた人は高良悠太さんといって、この店の副店長だった。一つ一つの問い合わせに丁寧で、細切れみたいなお客さんの記憶から、探しているものを検索するの、本当にすごいし、時には全然違うタイトルから本物にたどり着くの、ほんとかっこいい。たった一冊、数百円の時もあるのに、いつも丁寧なのは、お客さんが欲しがっている本を、どうしてもその人に届けたいって、思っているんだってすぐに分かった。本気で本が好きな人なんだ。
高良さんはいつも静かで、感情があんまり分からないし、接客以外ではあんまり笑わない。本を読んでるときは、あんなに表情豊かだったのになあ。よほどあの本は面白いんだろうな、と思うと余計に興味がわいてくる。その本のこと、聞いてみたいけど、なかなかそんな話をする機会がないまま、三か月が過ぎた。
だから、片倉さんにオススメ本を紹介していると知ったとき、チャンスだと思った。これをきっかけにあの本を教えてもらえるかも。「あの時読んでた青い本、どれですか」って聞くのは、あまりにキモイと思ったから、オススメの本教えてくださいって聞いたけど、高良さんはしっかり店員モードで、オレに合う本を教えてくれた。
好きな本、なんてそうそう人には言えないらしい。なんでだよ、とは思ったけど、静かで繊細そうだから、あんま踏み込んでくるなってことなんだろうと気づく。だったら、少しづつ距離詰めて、仲良くなれば、いずれ教えてくれるかもしれない。
勧められた感想を喋ったら、聞いてくれてる高良さんは、あの時みたいに嬉しそうだったり、驚いたり、悲しそうだったり、表情豊かで、ああ、この人、本の話の時は表情豊かなんだなって知る。
もっともっと、そんな顔、見ていたい。
ファミレス誘ったり家に招いたりとか、なかなか、強引だったと思う。それでも、高良さんは楽しそうだったから、オレも嬉しかった。
人を好きになれない、って告白を聞いて、オレにだけそんな大事な話してくれたんだなって、嬉しかった。ちょっと、オレと似ているのかもしれない、と思って、嬉しかった。
もっと、いっぱい、高良さんの事、知りたい。もっと、内部まで入って、高良さんが「内面晒すみたいで裸見せるより恥ずかしい」と思っている、一番好きな本のこと、教えて欲しい。そこまで特別になりたい、高良さんの、特別になりたい。会いたい、毎日だって会いたい。バイト、もっと長く入りたい、高良さんが働いてるとこ、もっとずっと見ていたい。休みの日も、会いたいな。そんなことばっか考えるようになって。こんなこと初めてで、オレ、どうしたんだって思ってて。
その感情の正体に気づいたのは、高良さんが、本部のひとを好きなんだって知ったとき、だった。
オレの事を好きじゃない人なのに、好きになってしまった。こんなこと、初めてで、どうしたらいいか分からなくなる。同性だってのは全然気にならなくて、まあそんなこともあるかって思った。友達にゲイもバイもいるし、オレがそうでも別にいいだろって感じ。
でも高良さんは、初めて自分が男好きだと知って、どうしたらいいか分からなくなっていた。
その一番側に、オレがいた。
特別な距離が嬉しくて力になりたかった。
同時に下心もあった。
同性好きなんだって自覚したついでに、オレのこと好きになってくれないかな。
本部の人は恋人がいるから失恋だって言ってた。新しい恋を探そうって言ったのは、オレを見て欲しかったから。好みのタイプ探すなんてのは口実で、高良さんと過ごす時間が少しでも欲しかったから。
高良さんがオレを好きになってくれたら、オレも好きだって、言えるのにな。オレのこと、好きって、言って欲しい。
こんな感情、初めてで、持て余して、茫然としてたとき、ありがたいことに、味方が近くに現れた。最初に声をかけてきたのは、向こうからだった。
「丹羽君は、副店長が好きなのか?」
閉店のあと、休憩室でのんびりしていたら、締めを済ませた山元さんが、そう言ってきた。山元さんと高良さんとオレの勤務なんて週一しかない。それで見抜かれたんだろうか、だとしたら、この人怖すぎ。
「それにしても、副店長ね。言っちゃなんだけど、普通の男だろ? なんで副店長?」
理由なんて、一言で言えない。
本読んでる顔が可愛かったから?
運命って思ったから?
仕事してるとき、かっこいいから?
オレだけに見せてくれる特別感が嬉しいから?
たぶん、そういう全部ひっくるめて。
「うまく、言えないです」
「――案外、本気なんだな」
山元さんはちょっと優し気に笑った。
それからちょこちょこ山元さんに相談して、なりふり構わず押せという、たぶん楽しんでいるだろうアドバイスによって、結構押したと思う。
キスまで、するつもりはなかったけど。
♦
さすがにやりすぎた、こんなん犯罪じゃん、落ち込んでも落ち込んでも終わらない自己嫌悪。
あのとき、年上が好きって言われてへこんで、けど、嫌じゃない、気持ち悪くないって、可愛い顔で言ってくれるから、理性が飛んでしまった。あんなに表情豊かなの、本の話をしているとき以外で見たことなかったから、その特別感が嬉しくて、浮かれて、もっと近くに行きたくて。キス、してた。
でも、急にキスしてくる犯罪者なんて、だめに決まってる。
そんで、トドメの一撃。
ミスを謝ろうと思って待っていたとき、見てしまった。
高良さんの好きな本部の人が、「青い本」を高良さんに渡してた。本社の人には「内面の内面、裸より恥ずかしい一番好きな本」の話ができるんだ? オレには未だ教えてくれなかったのに。
そりゃそうか。オレは年下だし、仕事だってミスするし、急にキスしてくる犯罪者だし――。
もうだめだと弱音を吐いたさき、
『いや、副店長は揺れているぞ。あの人は嫌なら嫌って言うタイプだ。いまこそ最後の押しだ』
山元さんはそんな風に言ってくれて、心が揺れる。もし、まだ望みがあるなら――。山元さんの作戦はやきもち妬かせて気持ちを自覚させよう作戦だった。姑息だし、上手くいかなかったらダメージデカイ気がするけど、もう、引けない。
友達のユキに頼んで、一緒に買い物してもらって、のりのりのユキはえらいべたべたしてきたけど、それでも高良さんは顔色一つ変えずに、丁寧に接客してくれた。なんだよ、全然だめじゃんか。
山元さんからは、高良さんがあのあと貧血起こしたと連絡がきて、苦しくなった。オレのせい、だよな。やっぱ、急にキスなんてしてくる犯罪者と顔を合わせるの、嫌なんだろう。それなのにオレは自分の気持ちばっか考えて、まだ謝ってもいない。
姑息なことしてる場合じゃない。ちゃんと話して、謝らないとだめだと、仕事帰りの高良さんを自転車小屋で待つ。山元さんと一緒にでてきた高良さんは、やっぱり顔色が悪かった。ののしられる覚悟を決めて声をかける。話しているうちになんか、高良さんが嫉妬してくれている気がして、心臓が高鳴る。我慢できなくなった。
妬いてないと言いながら、高良さんの耳は赤くて、その赤さに心臓が跳ねあがった。
あんたが好きなんです。
ただそれだけの言葉が喉につかえて、出てこない。
『あたしはアンタが大嫌いだよ、存在が嫌いなんだ、消えて欲しいね』
ばあちゃんの声が頭をぐるぐる回っている。
好きだと伝えて、嫌いだと返される怖さが、どうしても、オレを立ち止まらせる。
好きだから、どうしようもなく、怖いんだ。
あんたが好きって言ってくれたら、きっと、オレも言えるから、言って欲しい、お願いだ、オレの事、すきだって、言って。
なにも言葉が出てこない。
苦しくて息ができない。
風が通り過ぎる。
高良さんと過ごすの、楽しかったな。もっと本の話、したかったな。ファミレスのスイーツクーポン、まだ残ってる。今は桜もちだっけ。今度行こう、って言ってくれたの、いつだっけ。
そんな時間の全部、失うのかな。
体中が震える。
『お前なんか好きじゃない』
そういわれるかもしれない。
それにも体が震える。
怖い、こわい、けど、このまま失うのは、もっと、こわい。だって、はじめて、自分から好きになったひとなんだ。
「あの!」
自転車にまたがる高良さんの肩を掴んで、高良さんがゆっくり振り返る。
「あの、あ、オレ、あの、す、あなたが」
「丹羽」
「あ、おれ、すげえ、あんたが」
もっとかっこよくスマートに、伝えたいのに、高良さんがあんまりまっすぐ見つめてくるから、息も上がってくる。高良さんはずっと静かにオレを見ている。待っているんだと、思った。オレが待っているみたいに、高良さんも、言って欲しい、と思っているんだと、思った。言葉じゃなくても、伝わることって、本当にあるんだな。
「オレ、高良さんが」
『あたしはアンタが大嫌いだよ、存在が嫌いなんだ、消えて欲しいね。あんたが生まれたせいで息子は帰ってこなくなったんだ、あんたのせいだよ、好きになれることなんて一生ないね』
ただ、好きだと伝えたいだけなのに、声に、ならない。高良さんは、ばあちゃんみたいなこと、絶対言わないのに、悔しくて情けなくて、体が震える。
「何で泣いてるんだよ」
自分でも気づかなかった。高良さんが頬に触れてくれたのは、オレの涙を拭くためだったのか。ますます情けなくて泣けてくる。
「オレ、言えなくて――」
いつの間にか、背中を撫でられている。年上好きの高良さんから見たら、ガキみたいなんだろう。実際、ガキだ。子供の頃から、ちっとも成長していない。あんなこと、忘れてしまえばいいだけなのに。
「昔、好きだって言った人に、大嫌いだ、消えろって言われたことあって」
好きなひとに、好きだとも言えないなんて。
傷つくのが怖くて。怖いのは、一番自分が可愛いからだ。情けない。誰にも見せたことないのに。よりによってこんな姿、高良さんに見せてしまった。もう、だめだ。
もう、高良さんの前にいるのは無理だった。
好きだとも言えないのに、いっちょ前に恋をしているなんて、どうしようもない。年上好きの高良さんは、きっと頼れる人が好きなんだ。こんな情けないやつ、高良さんに好かれるわけないんだ。
オレはきっとこれからもずっと、好きなひとに好きとも言えず、生きていくんだろう。
今まで、「ちゃんと好きになって」って振られ続けてきたのも、オレの臆病さを見抜かれていたんだと思う。オレは与えられたものに応えることしかしてこなくて、受け身だったこと、元カノたちを不安にさせたんだろう。
「どうしようもねえなあ」
部屋まで走ったせいで苦しい。
もう、高良さんと、まともに顔を合わせられる気がしない。明日はバイト休みでよかった。ベッドに身を投げて丸くなると、逃避のように眠った。
♦
目が覚めたのは、インターホンの音で、だった。外は明るくて、スマホを見ると、十一時前だ。今日は休講で大学もないし、ずっと部屋にこもっていようと思ったのに、なんだよ。こんな時間のインターホンなんてどうせ勧誘だ。ムシムシ。
でも、インターホンはしつこく鳴る。
合わせて、ラインの着信もうるさい。
誰だよ、と画面をみて、息が止まった。
高良さんからのスタンプが山のように届いている。「おきろ」から始まって「居留守か」「早くでろ」「おはよう」「朝食は和食派?」「お前の大事なものを預かっている」可愛いのから、髭のおっさんイラストのまで、さまざまで。
「こんなスタンプ、どこで売ってんだよ……」
インターホンもうるさい。諦めてドアを開けると、スマホ片手の高良さんが立っていた。
「ほら、やっぱいるじゃないか」
「寝てたんです。何ですか」
昨日の今日なんだから、空気読んで欲しい。でも、高良さんはオレのことなんてお構いなしって感じで部屋に入ってくると、おもむろに言った。
「いまから、お前のばあちゃんち、行こう」
「なにいってんの?」
「一晩考えたんだけど、あんなこと言われたままなの我慢できない。お前は違うのか? 泣くほど、トラウマなんだろうが」
「もうオレのことはほっといてくださいよ」
「放っておかない。お前だって俺の中にずんずん入り込んできたんだから、俺だってお前の中に入り込んでいいはずだ」
なんだその理屈。と思ったけど、今日の高良さんはやけに行動的で、強くて、もしかして、休みの高良さんって、こういう感じなんだろうか。キャラが違いすぎる。思わず、その勢いに負けて、あれよあれよという間に、タクシーに押し込まれた。
「お前のばあちゃんちまで」
「行かないですって」
「じゃあ、俺だけ行く。文句言ってやるから、早く教えろ、タクシーの運転手さんも困ってるだろ」
そりゃ、あんたのせいだよ。まだ半分寝ぼけているせいもあって、まともに反抗もできないオレは仕方なく、近くにある銀行を指定した。タクシーは静かに動き出す。
「なんなの、あんた」
「うるさい」
あんな勢いできたくせに、車の中で、高良さんはずっと静かだった。途中で降りてもよかったけど、高良さんがオレの手を握ってきたから、思わずその暖かさが惜しくて、振り払うこともできずにいる。諦めようと思ったはずなのに、手を握ってくれるのは嬉しい。最近、本をたくさん読んだせいか、こういうのなんて呼ぶか、分かる気がする。あさましい、だ。そう思うけど、その手を離せなくて、オレはそっとその手を握り返した。
オレが指定した銀行でタクシーを降り、ようやく頭がしっかりしてきた。
そういや、オレ、言ってなかったような。
「あの、高良さん」
「なんだ」
「ばあちゃん、もう、死んでるんです」
「はああ?」
やっぱ、言ってなかったな。一応、この近くの霊園に墓はあるけど、さすがに墓に行けなんて
「じゃあ墓に行く」
「行くのかよ」
「行くだろ、ここまできたのに」
ばあちゃんの墓に行くのは、葬式以来だから、五年ぶりだ。
ばあちゃんは資産家で、父ちゃんはそこの長男だった。結婚相手も決まってたらしいけど、父ちゃんはそれを無視してオレを妊娠した母さんと結婚した。それで、仲が悪かったらしい。オレがばあちゃんと会ったあの時は、孫をみせろとうるさいばあちゃんに、ただ一度、父さんがオレを連れて実家帰りしたときだと、母さんから聞いた。
まあ、そりゃ、憎らしいかっただろう、オレのこと。オレのせいで可愛い息子が、知らない女に取られた、んだもんな。事情がわかれば、その気持ちも分からなくない。
「いいや俺には理解できない、どんな事情があっても、そんな言葉の暴力、子供にぶつけるべきじゃない」
ばあちゃんの墓の前で、高良さんはきっぱりとそう言った。
「ばあさんの罪は死んでも消えない。今の丹羽が赦してても、俺は許せない」
「まあまあ、高良さん、落ち着いて。墓の前だよ」
「俺は信心深くないんでな。この十五年、子供時代の丹羽はずっと泣いてきたんだろう、許すわけないだろうが。だから、俺は決めたんだ、これからは泣いてる子供時代の丹羽ごと、俺が可愛がってやる、ばあさんの暴言なんて忘れるくらい、俺が嫌いじゃない、消えないで、側に居て、ってずっと言ってやる」
高良さんはばあちゃんの墓に向かって叫んでいるけど、自分が今、何を言っているのか分かっているんだろうか。
オレを可愛がってくれるって?
側に居てって?
高良さんが、ずっと、これからそう言ってくれるの?
そんなん、もう――告白だよ、高良さん。
「あー……かっこいいですね、高良さん」
「あ?」
「自分が何言ってるか分かってる?」
もう、死にそう。幸せすぎて。
「なんか、今日はキャラが濃いですね」
「だって、俺は、お前が、過去でも、誰にでも、そんなこと言われたなんて、許せなくて――それで、その……」
あ、なんか、急にバースト切れたって感じ。
高良さんはしゅるしゅると座り込んで、小さく呟いた。
「今朝、読んだ本がな、ハードボイルドアクションもので……勢いつけようと思って――ちょっと、テンション、上がりすぎたな」
映画館で臨場感たっぷりでアクションを見た後、なんか自分も強くなっているきがするときあるだろ、あれの読書バージョンで、と高良さんはぼそぼそ喋りつづける。
「リーダーズハイ? とでも言うのかな」
「めちゃ影響受けて、ってことですよね。そういや、前言ってましたね。本当だったんだな」
大声で笑いながら、頭の中も、心の中もからっぽになっていく。いいこともいやなことも、全部、抜けきって、たった一つ、残った言葉は、すごくシンプルだ。
ただ、伝えたい、オレにとって、この言葉は、そんな気持ちだったんだ。
そうか、返事なんて、どうでもよかったんだ。
「オレ、高良さんが、好きです」
嬉しくて、恋しくて、伝えたくて、だから、心から、体から飛び出した言葉は、空気を伝ってオレの身体中にも広がっていく。
瞬間、高良さんは今まで見たこともないくらい、嬉しそうに笑った。
「俺も、好きだよ」
あの、青い本のときより、本の話をしているときより、もっともっと嬉しそうで、やっぱり、この人って、表情豊かなんだなあ、とぼんやり思った。
『それから』
墓からの帰り道、丹羽は何度も俺を見て笑った。もうやめて欲しい。自分でもどうかしていたと思う。
「高良さん、かっこよかったよ」
「だからやめろって。そんなつもりなかったんだよ、こう、勢いで」
「惚れなおしたんだし、いいじゃないですか」
「お前、昨日とテンション違いすぎるんだよ」
「うん、別世界みたい。高良さんのおかげだな」
丹羽が俺を見てわらう。それを見ているだけで、まあ、なんでもいいかって思えてきて、これもまた恋愛感情のなせるわざなんだろうか、怖いな。
「あー、お前、学校――」
「今更言います? 今日は休講です。高良さんは予定とか」
「無い」
「じゃあ、お昼食べに行きます?」
「なんか、楽しそうだな」
「だってデートだし」
デート。これはデートなのか。分からん、混乱してきた。丹羽に好きって言われて、俺も好きって言って、これて、いわゆる、両想いってやつで、いわゆる――
「つ、つ、付き合うって、ことに、なるのか」
「初めて、なんですよね」
「う、ん」
「か、っわいいな、オレ加減わかんなくなるかもだから、嫌なときはちゃんと言ってくださいね」
丹羽は俺の手を握って、笑う。いくら人目がない裏路地とはいえ、急にそんなことされたらびっくりする。
「いや?」
「びっくり、した」
「ゆっくり、大事に、する」
丹羽の指は俺の手から離れていく。なんか、ちょっと、惜しい。もうすこし、触れていたい、かも。離れていく丹羽の手を追いかけて触れると、丹羽は目を丸くしてから、すぐ細めた。
「ゆっくり、って決めたのにっ」
唸るような丹羽の声が印象的だった。
「も、帰ろう」
なにか追い詰められたような声も。
◇
丹羽の部屋に戻ると、すぐに抱きしめられた。
「丹羽?」
「好きです」
「う、ん」
「すき」
「うん」
背中に腕を回して抱きしめ返すと、もっと強く抱きしめられた。服越しなのに心臓が重なっているみたいに丹羽の鼓動が伝わってくる。俺のも、伝わっているんだろうか。
「すき、だ、丹羽が」
「っ、高良さん、イヤってところで、言ってね」
丹羽の声、と思った瞬間に唇が重なった。熱いと思った瞬間、舌先で唇を割られて熱の塊が入り込んできた。あつい、あつい。
「んっ」
丹羽の舌が俺の咥内を暴いていく。苦しいけど熱くて、体のぜんぶ、痺れるみたいだ。唇がふれただけのキスと、全然ちがう。こんなの、もう、体を重ねるのと、何が違うんだ。
「ん、ぁ、っ」
体から力が抜けて縋りつた丹羽はもっと強く抱きしめてくる。この腕がなければ倒れそうだ。
口腔中、全部丹羽に暴かれたかと思うくらいかき乱されて、もう足から力が抜けて、がくりと崩れ落ちる。そのまま床に押し倒されて、丹羽の唇が耳に触れた。
「高良さん、かわいい、っ」
「あ、あっ、にわっ」
「い、やじゃない?」
「いや、じゃない、」
耳を這っていた丹羽の舌が首筋を伝って喉を這う。
「あっ! や、ぁ」
他人の熱で自分の存在を確かめるなんて経験、そんなの初めてで軽くパニックだ。変な声が出るのも恥ずかしくて、懸命に唇を噛むけれど、丹羽が指で、唇で、俺に触れるたび、声が殺せなくなる。
「たかよしさん、かわいい」
丹羽にそう褒められるたび、恥ずかしさで体が熱くなって、もっと声が殺せなくなる。自分で自分をコントロールできないなんて、そんなこと、こんなに怖いと思わなかった。
「あ、ああ、っ」
「も、やだ?」
「こ、わい」
怖いけど、でも、お前だって、怖いって泣いたのに、俺に好きって、言ってくれたんだ。俺だけ怖がってどうする。
「やめようか?」
「いや、やめる、な」
「っ、たかよしさ、ん、オレ、調子、のるよ」
俺の上から俺を見下ろしてくる丹羽の顔が、怖い。本能で「食われる」と思ってしまうのは、弱者の性質だろうか。
いつの間にかコートもシャツも脱がされて、Tシャツの裾から入り込んできた丹羽の指が、素肌の上を這いまわっている。その手はするり、とズボンの上から忍び込んできて、
「あっ⁉ お、まえ、それ、は」
「ちょっと、だけ」
ちょっとってなんだ、あれか、先っぽだけ理論か、そんなもの
「ああっ! やめ、そんな、とこ、触」
「よかった、勃ってる」
しぬ、はずかしくて、しぬ。
でも、他人からもたらされる刺激は、味わったこともないくらいに、快楽だった。
「ぁ、っ、に、わっ、にわ、っ」
「は、声、も、かわい」
激しく擦られて、もう、耐えきることなんて、出来るわけもない。
「にわぁ――……っ!」
「っ! いく?」
「も、や、ぁ」
「いって」
耳元で囁かれて、もう限界だった。
「あっ! あ、あぁ、んっ」
丹羽の手に吐き出している。こんな、こと、とんでもなく、気持ちよかった――。息を整えながら、じんわりと熱が下がっていく。今気が付いたけれど、俺はずっと丹羽のシャツを握り締めていたみたいだ。しわしわになったシャツの裾を見ていると、また恥ずかしさで熱が上がってくる。
「あー、想像以上に可愛い」
「丹羽っ、そういうの、言うなっ」
「だって、高良さんを手に入れるなんて、嘘みたいで」
「ひとをモノみたいに言うなよ――」
「あ、すみません。あの、いいんですよね? オレのこと、好きって、言ってくれたよね? 高良さんのこと、彼氏って、言っていいんですよね」
「かれっ、い、言うなよ」
「なんで?」
「だって、そりゃ、恥ずかしい、だろ。だいたい、誰に言うんだよ」
「山元さんと、関口さんかな」
「山元君と関口さん? なんで?」
「あ、だって、オレが高良さんを狙ってたの、知ってるから」
「知っ?」
「山元さんには相談してたし、関口さんは気づいてたみたいで」
そうなのか? それを、全く気づかなかったのって、俺だけってそういう話か?
そんなの、
「丹羽ああ!」
「だって! 気づいてなかったの、本当に高良さんだけじゃない?」
考えなきゃいけないことも、感じることもたくさんあるはずなのに、頭がまわらない。でも、丹羽がわらうから。嬉しそうに、優しく。
じゃあ、もう、それでいいのかもしれない。丹羽が笑ってくれるなら、それで、いい。もう、あんな痛そうに泣いている顔なんて見たくない。
ああ、歌とか本でみかける「君を守る」って、何からどう守るんだろう、とは思っていたけれど、俺はいま、そう言いたくなっている。丹羽を守りたい。丹羽を傷つけるものから守りたい。
これって、恋愛感情なんだろうか。
初めてで、分からないことばかりだ。怖い、が先にたつけれど、新しい本を読み始めるときみたいに、少しわくわくもしている。
この彩りは、俺を変えていくんだろうか。
「あー……高良さん、もう、ちょっと、触っても、いい?」
「触る? ……っ、いや、待」
「シャワー、いく?」
そんな急に、まだ、軽く落とされるキスだけでも心臓が跳ねあがるっていうのに。
「待っ、もうちょっと、ゆっくり」
「あ、そうですね、オレがそう言ったんだ、くっそ、待ちます」
「そうしてくれ」
「じゃあ、代わりに、あの青い本、教えてくださいよ」
「それ、お前ずっと言ってるな、あの青い本って?」
そこで俺は、「青のさきを読んでにやついているところを見られていた」うえに、丹羽が勢いでバイトを始めたことを知ったわけだが、うん、丹羽って、怖いな。
◇
「高良さん、あれ読みました」
「うん、分かった、今仕事中だから、あとでな」
丹羽がカウンターで明日の入荷を確認している俺に声をかけてくる。丹羽と恋人になっても、職場では、普通に接している、つもりだ、と思う。
「ちょっとくらい、いいでしょ、本の話なんだし。で、なんで青い本じゃなくて、文庫からなんですか」
「あの作者は、デビューから追うのが正しい読み方なんだよ、青い本「青のさき」はな、十六夜時雨の四年ぶりの新作なんだぞ、スターシステムで今までの作品に出ていた人物がちらほら出てくるから、そのバックボーンを知っていると知らないでは深みが違うんだよ。それに」
「あー、分かりました、あとで聞きます」
丹羽はそそくさとハンディモップを持ってフロアメンテに出ていく。だから言っただろうが。本好きに「一番好きな本教えて」なんて気楽に聞くものじゃない。
そういえば、読み返した本がある。
奥さんのいる男に告白しようとしている主人公の気持ちを理解できなかったミステリーだ。
まだ、全部分かる、とは言えない。けれど、自分で自分を止めることができない衝動のようなものだけは分かってきた、気がする。
丹羽がこちらを見て微笑んだ。
慌てて目をそらす。今日は仕事のあとに丹羽の部屋に泊まることになっている。明日は休みで、丹羽の誕生日だ。ずっと「待ってくれ」と逃げ込んでいた砦。もう、いいかもしれない。
『その砦はぎしぎしと音をたて光のない未来へとわたしを誘っている。それでもわたしは、進みたいのだ。砦を壊して。』
俺達は男同士で、俺は八つも年上で、丹羽はまだ大学生で。未来に光なんてないのかもしれない。
それでも。
その未来には、丹羽が笑っているといい。
だったら、きっと俺も笑っている。
終
