12/19 「魂炸裂♥ハピエン・メリバ創作BLコンテスト」結果発表!
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2025/11/07 16:00
あらすじ
恋人だった洸平の死のストレスで右耳が聞こえなくなった保科朋は、自宅で目眩を起こし倒れていたところ、フードデリバリーで来た大山陽太に助けてもらった。大山は朋のデビュー小説「24時間恋物語」を気に入ってくれている若手新人声優だ。
その後もなにかと気にかけられ、弁当を作ってくれるようになる。
次第に大山から好意を向けられるようになり、朋は怖気づいてしまう。誰かを好きになることはすなわち、洸平を否定することになってしまう。
ブックインフルエンサーのお陰で再び注目を浴びた「24時間恋物語」がアニメ映画化することになり、大山がオーディションを受けた。そのときの演技に衝撃を受け、大山と向き合うことを決意する。
お互いの想いを確認し、二人で洸平の墓に行き、大山と未来へ歩くことを誓う。
※こちらの作品は性描写がございます※
1
頰に当たるフローリングが冷たい。
保科朋は唯一動かせる視線を上に向け、インターホンの液晶画面から漏れる光を見上げた。
ポケットのスマホは来客を知らせる通知で振動している。そのせいで太腿がじんじんしていた。
だが朋はなに一つ、身体を動かすことができない。
コーヒーを飲もうと立ち上がったとき、目眩が起きた。いつものことだ、と油断したのがいけなかったのだろう。床に積んでいた資料用の本に足をぶつけバランスを崩し、フローリングに倒れてしまった。
眩暈が治まるまで待てばいい。そう思ってじっとしていたら、来客を知らせるチャイムが鳴った。
この家に来る人物は二人。
担当編集者の森とフードデリバリーだ。森は予告なく来ることはまずない。時間的にみてデリバリーだろう。
身体を起こそうと力を入れても、全身が鉛でできたように重い。視界が安定せず、ぐらりと揺れてしまう。
耳の奥で壊れたトライアングルのような音が響いている。何重にも重なって不協和音をつくり、頭痛まで呼び寄せた。
朋は起き上がることを諦め、フローリングと一体化した。
デリバリーの料金は事前決済をしてある。置き配も可能にしているから、そのうち諦めて、昨日のように置いて行ってくれるだろう。
あとはこの目眩がおさまるのを待てばいい。
朋は瞼を閉じて、眩暈が治まるのを待つことにした。
だがしばらくするとフローリングから振動するのを肌で感じた。地震か。天井から下がっているペンダントライトを見上げるが、揺れている様子はない。
(気のせいか?)
ぼんやりしていると視界の隅に白いソックスの爪先が見えた。どくりと心臓が跳ね、全身の血が爪先に落ちていく。
「だい……ぶ……か?」
ゆっくりと視線を上げる。フードデリバリーの制服である蛍光黄色のジャンパーと帽子をかぶった男が、朋の顔を覗き込んでいた。
どうやって部屋に入ったのだ。答えは簡単。鍵を閉め忘れていたのだ。
昨晩、酒を飲みたくなってコンビニに出かけたが、我慢できずに飲みながら帰ったのだ。
ほろ酔い気分だったので鍵を閉め忘れていたのだろう。
だがそんなことはどうでもいい。
これは立派な犯罪である。
刑法第一三〇条の不法侵入で、三年以下の懲役、または十万円以下の罰金だ。
最近買った刑法の資料を思い出し、朋は男を睨みつけた。身体は動かないが、目だけは動かせる。
男のキャップの隙間から覗くミルクティー色の短い髪と色素の薄い瞳はゴールデンレトリバーを彷彿とさせた。大きな垂れ間には、愛嬌がある。
一見、いい人そうにも見えた。
(いやいや、騙されるな)
もしかしてフードデリバリーと見せかけた強盗かもしれない。だが朋は戦うどころか、起き上がることすらできない。襲われたら終わりだ。
「大丈夫ですか?」
二度目の声は、一語一句大きく言ってくれたのでようやく聞き取れた。よく通る低い声は、朋でも聞き取れる音域にピタリとはまる。
役目を取り戻した補聴器は男の声を拾おうとしてくれる。
朋は文句を言うため口を開くが、乾燥した喉は粘膜に貼りついて動かない。そういえばここ三日ほど誰とも話してなかった。かすれた吐息がひゅうと空っ風のように漏れただけで、言葉にならない。
朋の様子に男の顔が青くなり、スマホを出した。どこかに電話をかけるらしい。
男は捲し立てるような早口だが、部屋は静かなのでよく聞こえる。
「男性が部屋で倒れています。救急車をお願いします。はい、二十代後半くらいで……」
どうやら男は救急車を呼んでいるらしい。
朋の様子に命に危険があると判断されたようだ。
(そんな騒ぎを起こさないでくれ。放っておけばじきに治まる)
けれど朋の想いは言葉にならず、再びひゅうという空気音を繰り返した。
男は顔面蒼白なくせに、背中を撫でてくれる手は酷くやさしい。
「すぐ救急車が来ますからね。頑張ってください」
男は懸命に励まし続けてくれ、朋がストレッチャーに乗せられるのを心配そうに見守っていた。
「いつもの後遺症だね」
分厚い眼鏡を押し上げた老齢の医師は、大きく口を広げながら話してくれた。説明されるほどでもない。朋もわかりきっていたことだったので、医師の言葉に頷いた。
朋に伝わったと判断した医師は、慣れた様子でキーボードを叩いた。
救急車で運ばれたのが、かかりつけ病院だったのが幸いした。しかも運よく担当医もおり、朋の症状をよく理解してくれているため、事情を説明するまでもない。
病院に着く頃には眩暈も治り、ストレッチャーを降りて診察室まで歩けていたほどだ。救急隊員に迷惑をかけてしまったことを詫びれる余裕すらある。
三年前、恋人を失ったストレスから、突発性難聴になり、治療が遅かったため右耳の聴覚はほとんど失った。左耳は辛うじて聞こえる。
突発性難聴は吐き気、頭痛などの弊害を残した。
眩暈もその一つだ。大人しくしていればすぐに治まるのであまり気にしていなかったが、今回はタイミングが悪い。
医師はパソコンに打ち込み終わると再び朋に向き合った。人好きのするやさしい笑顔は、荒んだ心を癒してくれる。
「救急車で来たからビックリしたよ」
「ご心配かけてすいません」
「それに若い男の子が通報したって聞いたよ。兄弟いたっけ?」
「不法侵入者です」
「やさしい不法侵入者だな」
朋の訴えを本気と受け取っていない医師はケタケタと笑った。大方、友人だと思っているのだろう。
ついでだから、といつもの薬を処方してもらい朋は病院を後にした。
(あいつのせいで災難な日だ)
蛍光黄色のキャップをかぶった男を思い出し、ぎりっと奥歯を噛んだ。
慣れた道を歩く朋の足取りは重い。なにが起きてもいいように常に財布と保険証、携帯がポケットに入っていたのが、まさか役立つ日がくるとは思わなかった。
だが余計な外出を余儀なくされたことが、なによりも不服だ。
外の世界は朋にとって、異世界に召喚された転生者のように脅威に迫られている。
後ろから来る車に気付けず、道を塞いで歩いてしまうし、角から曲がってきた自転車を避けられない。道を聞かれても無視したと思われ怒鳴りつけられることもあった。
外の世界は常にアンテナを張り詰め、前後左右に神経を尖らせなければならない。
難聴の朋にとって、出かけるのは命がけである。
タクシーに乗ろうかと思ったが、メモでやりとりするのも面倒だ。歩いてでも十分程度で家に着く。平日の昼時ということもあってか人通りが少ないのが幸いだ。
春の気配を感じさせる風には、まだひんやりと冷たい。シャツ一枚とスラックスだけなので肌寒く、忙しなく歩くと温かくなってきた。
ようやく自宅のアパートが見え、ほっと肩の荷が降りる。真っ黒くて四角い建物は、コースターのように無駄を一切省いている。
朋は結構気に入っていたが、恋人はそうでもなかったなと余計な記憶まで思い出してしまい、どっと疲労が増す。
エレベーターを五階で降りると廊下の突き当りに蛍光黄色の男が蹲っていた。膝の間に顔を入れ、長い足を小さく折りたたんでいる。
(不法侵入者)
もしかして朋が救急車に運ばれてから、ずっと待っていたのだろうか。
男とは面識がなく、いつも置き配を利用しているので、配達員の顔と名前もわからない。
だから心配される筋合いもないのだ。それともストーカーだろうか。
どちらにせよ、朋は誰かと馴れ合うつもりはない。
顔も合わせるのも面倒だ。回れ右をして近くのコンビニに行こうとすると補聴器からガガっと音が響いた。
朋に気がついた男はぱっと顔を輝かせている。
「し……ぱ、ん……よ」
男は立ち上がって朋の前に立った。かなり上背がある。
(洸平と同じくらいだな)
亡くなった恋人のことを思い出し、古傷が鈍く痛む。その痛みにほっと息が漏れた。
「き……ます?」
男の大きな手のひらを目の前で左右に振られ、はっと顔を上げた。
男の垂れ下がった目はパンダのような愛嬌があった。大学生くらいだろうか。ミルクティーの髪色と程よく日焼けした肌が健康的に映る。
朋は自分の右耳を差す。
「耳が聞こえない」
「あ」
男は補聴器に気付き、ポケットからスマホを取り出し、光りの速さで指をタップさせた。
《体調は大丈夫ですか? 耳が聞こえない人だと知らなくてすいません》
猫が手を合わせて謝罪している絵文字に面食らった。人懐っこい性格なのかもしれない。
朋は喉の力加減に神経を尖らせながら口を開いた。
「倒れてたのは持病みたいなものだから気にするな。それより部屋に勝手に入るなよ」
アパートの前は車通りが多く、雑音が響いて聞こえにくい。自分の声量すら操るのに不便する。
案の定、男は瞼をわずかに開いた。少し声が大きかったのかもしれない。
本来なら静かな部屋に招いて謝罪の一つでも要求したいところだが、こいつは不法侵入者だ。おいそれと招けない。
男は深々と頭を下げた。そのあとにまだ画面を見せてくれる。
《すいません。地元が勝手に人の家に入るのが当たり前なところで》
「どんだけ田舎だよ」
いまどき鍵もかけない家なんてあるのか。と言いかけて、自分も鍵をかけ忘れていたことを思い出した。
二の句が続けられないでいると、スマホの画面を向けられた。
《俺は大山陽太って言います。大学四年生です。保科さんって小説家さんですか?》
よく知っているな、と感心しながら頷いた。
朋は小説家だ。ベストセラーを何作も出すような売れっ子作家ではなく、デビュー作がたまたま当たり、たまたま映画化しただけの三流作家だ。
ここ最近はほとんど話題にもならず、首の皮一枚繋がっているだけである。
大山の顔がぱっと明るくなった。
《映画観に行きました! そのときまだ地元だったので電車で二時間かけて映画館まで行って。横島洸平の演技がよかったです》
洸平の名前をじっと見つめた。久しぶりに他人から出てくる恋人の名前は、歴史上の人物のような威光を放っている。
洸平は朋のデビュー作「24時間恋物語」で主演を演じた俳優だ。彼もまだデビューしたばかりの新人で、朋と同い年。そして性的マイノリティがかち合い、トントン拍子で付き合った。
すぐに同棲を始めたが、洸平は次第に体調を崩すようになった。仕事のオファーが絶えずあった彼はなかなか休みが取れず、ようやく病院へ行ったときには末期の癌だと診断された。
売れっ子俳優への道が見え始めたところで、洸平は永遠の眠りについたのだ。
懐かしい記憶は色鮮やかに朋の中に残っている。洸平の匂いも体温も憶えているのに、もうこの耳では彼の声を思い出すこともできない。
肩をちょんと叩かれ、揺らいでいた視線が大山に向いた。
《帰ってきたばかりなのに長々と話してすいません。無事だったようで安心しました。帰ります》
大山の文に頷いた。一応心配してくれた恩もあり「ありがとう」と言ったが、聞こえているかわからない。
エレベーターに乗るとき、大山は扉が閉まるまで手を振ってくれた。洸平と同じ動作につい身体が反応する。上げそうになった右手を抑え、大山の姿が見えなくなるまでじっとしていた。
ブブッとポケットが振動し、朋は仕事部屋からリビングへと移動した。インターホンの液晶画面には大山の笑顔が映っている。
(まるで昨日と同じだな)
なにか話しているようだが、電子を通すと雑音が混じって聞こえづらい。朋は通話ボタンを押し、「置いといてくれ」と告げて通話を切った。
フードデリバリーは年間契約しており、ピックする店も時間も指定してある。不摂生で出不精の朋のために、洸平が契約してくれたのだ。
死んでも生き続ける約束のように朋はフードデリバリーを解約できないでいる。
リビングは洸平がいたときのままにしていた。椅子やテーブル、室内灯、カーテンまで洸平と選んだものを三年経ったいまも、大切に使っている。
家具すべてに再生ボタンがあれば洸平との思い出が蘇るだろう。
もちろん洸平の部屋も服やベッドはそのままにしている。
仏壇は洸平の実家にあるが、リビングの棚に写真と花を飾っていた。
写真は二人で海に出かけたときに朋が撮ったものだ。青い海をバックにし、白いアロハシャツを着た洸平が、前髪を掻き上げている瞬間だ。
作り物ではない笑顔の先に朋がいる。
『朋』
キャラメルでコーティングされているように甘ったるい声で、いつも自分を呼んでくれていた。写真はまさに朋の名前を呼んでいた瞬間だ。
(この後、なにを話したっけ)
掬った砂が指の隙間から落ちていくように、ポロポロと洸平との思い出を失ってしまう。呼吸の回数すら覚えておきたいのに、朋の脳のキャパでは足りない。
人間の記憶の容量は決められている。新しいことを記憶するたび、古いものは削除される。パソコンのようにアップデートすると昔のOSが使えなくなるのと同じだ。
ずっとこのままがいい。
けれど朋の願いは虚しく、時間は残酷に過ぎる。記憶や思い出はどんどん上書き保存され、再現することが不可能になっていく。
でも洸平を失った痛みだけは変わらない。
自傷行為のように洸平を思い出しては痛みに苦しむ。それでいい。洸平との記憶は苦痛を伴わなければ、朋の手の届かないところへ飛んで行ってしまう。
またスマホが振動し、朋は我に返った。インターホンは点滅を繰り返している。画面には大山の大きな目がこちらを覗くように向けられていた。
口を大きく開きながらなにか喚いているようだ。このまま放置して、ご近所さんから通報されたら困る。
面倒だ、と足を引きずりながら朋は玄関の施錠を開けた。
「おまえ、うるさいよ」
大山はきょとんと首を傾げている。聞こえなかったのだろうか。もう一度口を開きかけると、大山はぱっと顔を輝かせた。
「元気そうで安心しました!」
屈託のない笑顔にズッコケそうになった。
どうやら朋の体調気にかけてくれていたらしい。昨日の今日でまた倒れていると思ったのだろう。
誰かに心配されるなんて久しぶりだ。かなり押しつけ感があるけど。
説明する義務はないが、答えないと大山はしつこく追及するのが目に見える。
「あれはいつものことだから平気だと言っただろ。それに頻繁に起こるわけじゃない」
「耳のせい?」
「そうだ」
「生まれたときから聞こえないんですか?」
まだこの質問は続くのか、とげんなりした。
大山は亜麻色の瞳を爛々と輝かせて、朋の答えを律儀に待っている。
早くタッパーを受け取り、食べながら映画が観たい。
朋ははぁ、と盛大に溜息を吐いた。
「おまえ、仕事は?」
「あぁ、そうでした! 次のピックに行かないと。ではまた明日」
「え、明日って」
タッパーを押しつけられ、大山はさっさとエレバーターに乗り込んでしまった。残された朋は呆然とエレバーターを見送る。
(もしかして毎日あいつが来るのか)
住所も知られているし、顔と名前、職業もバレている。個人情報という一番大切な機密情報を握られている。漏らされたら困るのは朋の方だ。
「最悪だ」
冷えてしまったタッパーを強く握るとデミグラスソースが指についた。
宣言通り、大山は毎日デリバリーを持ってやって来る。
年間契約しているとはいえ、配達員が固定になってしまうものだろうか。
朋の住んでいる地域は駅から遠いが、家賃が安いためファミリーやカップルで住んでいる人が多い。近くにスーパーはないためデリバリーバイクがよく行きかっている。
デリバリー会社にしてみれば宝島のような地域だろう。それ故に固定の配達員ができてしまうとは考えにくい。
大山が意図的に朋のところに来ようとしているのではないかと疑ってしまう。
(本部に問い合わせメールを送ってみるか)
それとも配達員を変えてもらおうかとも考えたが、その労力すら面倒に感じた。
インターホンが鳴ったことを示すスマホが振動し、朋は作業を切り上げて玄関扉を開けた。
「こん……は! フードデリ……す」
「入れよ」
朋は大きく扉を開け、大山は「お邪魔します」と人が入れそうな大きなリュックをぎゅうと押し込んだ。
一週間が経ち、朋はとうとう大山を玄関まで入室を許可した。外で話していたら隣人に迷惑そうな顔を向けられてしまったからだ。
いくら関係が希薄な都会でも、隣人とのトラブルは避けたい。このまま大家や不動産会社に連絡され、追い出されてしまうのも嫌だ。
だが絶対に中に入れないよう上がり框で仁王立ちしている。
「お届けにあがりました!」
「おまえも懲りないな」
タッパーを受け取り、いつもと変わらない匂いにほっと息を吐いた。まだじんわりと温かい。
「朋さん、いつもそこのハンバーグを指定しますよね? お気に入りなんですか?」
朋は歩いて二十分ほどの距離にある肉料理専門店のハンバーグランチを固定で契約していた。その店は洸平が選んだのだ。
だがそんなことを大山に言うつもりはない。
「まぁ嫌いじゃないな」
「他に好きな食べ物は?」
「別に、特にねぇけど」
「俺は辛い物が大好物です! 麻婆豆腐とか辛口カレーとか」
訊いてもいないのにポンポンと話す大山をじっと見つめた。「スパイスが~」とか「香辛料の発祥地は~」とまた一人でずっと話している。
自分の世界に浸り、悦に入りながらも語り続けている大山の姿におさげの女の子が重なる。
(赤毛のアン、好きだったな)
アンもなかなかの饒舌だったが大山も負けていない。見開き半ページは独和独演ではないだろうか。
でも聞いていて嫌じゃないのは内容がちゃんと理解できるからだ。ただの雑音ではないBGMは、赤ちゃんに語りかける母親と思えば悪くない。
適当に相槌を打っていると大山は突然きゅっと眉を寄せた。
「俺の話、つまらないですか?」
「急にどうした」
「朋さん、全然笑ってくれないから」
しゅんと肩を落とす大山は見えない尻尾が垂れているほど落ち込んでいた。
そうやって全身で感情を表す大山は本当に犬のようだ。嬉しいときには笑って、悲しいときには泣く。
そんな人間としての当たり前の表現が、自分の中でごっそりと抜け落ちていたのだと気づいた。
「……別につまんなくねぇよ。ただ、言葉が聞こえにくいから黙ってるだけ」
「そっか。俺ぱっぱって話過ぎちゃってますよね」
「おまえの声は聞き取りやすいよ」
声の高さがちょうどいいのもあるが、大山は口を大きく開けて、一語一句丁寧に話してくれるので聞き取りやすい。
「そう言ってもらえると嬉しいです!」
画面が切り替わるように大山に笑顔が戻る。その方が大山しいな、と思い、大山らしいってなんだよと自分に突っ込む。
(よく顔合わせるからって親しくなるなよ)
解れ始めた自分を戒める。誰かと繋がろうとする心に待ったをかけた。
恋人の顔を思い出し、胸の痛みに安堵を憶えた。大丈夫、まだ忘れていない。
「――ということなので、俺が毎日ご飯作りますね」
「はぁ? どっからそういう話になった」
「ハンバーグばっかりじゃ栄養偏るから作りますよ、って言ったら頷いてくれましたよね?」
「……知らねぇ」
ただでさえ音を拾うときに神経を使う。少しぼんやりしていただけで、揚げ足を取られてしまったらしい。
大山は口角をさらに上げる。
「俺、実家が定食屋なんで料理得意ですよ。リクエストがあればなんでも作れます」
「いらねぇ。俺にはこれで充分だ」
受け取ったままのパックは温かかった底が冷たくなってしまっている。長い間話し過ぎた。
「でも身体細いしフラフラしてるじゃないですか。ちゃんと三食食べてます?」
「一食でも死なねぇよ」
「え、まさか本当にこれしか食べてないんですか?」
「コーヒーと酒があれば問題ない」
「また倒れちゃいますよ」
「あれは持病だ」
「一人だと不便でしょ」
「……勝手に決めつけるな」
耳が聞こえづらくても人並みに生活できる。美容院も役所もレストランだって筆談でどうにかなる。
洸平のいないこの世になんの思い入れもない。でもだからといって彼が残してくれたものを置いていくこともできず、地縛霊のように縋っているだけだ。
はっとしたように大山は頭を下げた。
「すいません。よく知りもしないで」
「もういい。帰ってくれ」
くるりと背を向けてリビングへと向かった。もうあいつとは顔を見合わせたくない。
バタンと扉が閉まる音を聞いて、どこか胸が痛む自分に気がつかないふりをした。
2
「珍しいこともあるもんですね」
ウェリントン型の眼鏡フレームを持ち上げた森は、小粒な目を僅かに開いた。
次回作の打ち合わせと朋の様子見を兼ねて、森は定期的に部屋に来てくれる。外では騒音が酷すぎて会話にならないからだ。
打ち合わせの合間に「最近どう?」と話題を振られ、ここ数日の出来事を話したら大袈裟に驚かれた。
担当編集者としてデビューから九年。ずっと二人三脚で走っている相棒でもあるので、朋の性格を熟知している。
ただほんの出来心で、ついポロっとこぼしてしまったことを悔いた。
目尻に深い皺を刻ませた森は、眼鏡を外して目頭を押さえている。
「あ~面白かった」
「そんなに笑うとは思いませんでした」
「そりゃ笑うでしょ。担当の僕ですら保科くんと仲良くなるのに二年はかかったっていうのに、その子はすごいな」
人見知りということもあり、デビュー当時の朋はなかなか大山に心を開けなかった。それでも根気強く声をかけ続けてくれたので、いまではこうしてなんでも話せる。
「保科くんが横澤くん以外に肩入れするなんて初めてじゃない?」
「肩入れなんてしてません。勝手に来るんです」
「ならフードデリバリーを解約すれば?」
「……それができないから困ってるんですよ」
洸平が朋のために残してくれたものを、なくすことなんてできるはずもない。
洸平と付き合っていたことを知っている森は「それもそうか」とあっさりと頷いた。
「でも担当変えとかできるんじゃない? 本部に問い合わせた?」
「具合い悪いところを助けてもらって、その後も心配してくれる配達員を変えたいと言って通りますか?」
「ん~これだけ聞けばいい子そうだよね」
朋は曖昧に頷いた。
大山は最初の不法侵入こそあれど、心から朋のことを心配してくれている。だからこそスパっと切ると良心が痛むのだ。
だから大山と会ったあとはもう二度と顔も見たくないと思うのに、次の日も平然とやって来るので朋は受け入れてしまう。
まるで切りたくても切れない納豆の糸のようにしつこくまとわりついてくる。嫌だと思っても、美味しいからつい食べてしまう心理とどこか似ている、と思う。
大山はもう一度フレームを持ち上げた。
「もしかしてどこかで会ったことある、とか」
「ないですよ。あんな犬っころ」
「じゃあ保科くんのファンとか?」
「デビュー作の映画は観てくれたそうですよ」
映画は洸平の力もあり、そこそこいい線をいった。けれどアカデミー賞を獲ったりなどの華々しい経歴はない。DVDの売り上げもそこそこだ。
ポケットのスマホが震え、インターホンの画面を見るまでもなく頭に浮かぶ人物に舌打ちをした。
『こん‥…はー! フード……です!』
「お~きたきた」
森は待ってました、とばかりに画面を覗き、「なかなかいい男じゃない」と嬉しそうにしている。
「ここは担当編集者として挨拶しなきゃ」
「森さんは保護者ですか? 俺もう二十八ですよ」
「いいね、父親のふりしちゃおうかな」
「ちょっと!」
朋が止める暇もなく、森は太っているとは思えないほど俊敏な動きで玄関ドアを開けた。
「あれ? と……さ、は?」
案の定、大山は驚いているようだ。もう知らないと朋はパソコン画面を見るふりをして、二人への意識をシャットダウンした。
どうせこれだけ離れてしまえば朋には聞こえない。
だが、どうしても集中できない。打ち合わせの内容を頭にいれたいのに、朋のアンテナは玄関へと向けられてしまっている。
時折聞こえる笑い声にイライラした。一体なにを話しているのだ。
「クソっ」
朋はパソコンを閉じた。リビングから短い廊下を歩いていると二人の話し声がようやく聞こえる。
「森さんって編集さんですか!」
「そう。保科くんがデビューしたときからずっと。なにせ僕が彼の作品を推したんだから」
「先見の目がありますね」
「そうでしょ。もっと褒めてくれてもいいよ」
「父親って言われたときは驚いたけど、森さんって愉快な人なんですね」
二人は波長が合うのか談笑している。親子ほど年が離れているはずなのに、まるで旧友に会ったような親し気な様子だ。
朋に気づいた森がくるりと振り返る。
「この子、保科くんが言ってたよりずっといい子じゃないか」
「知りませんよ」
「大学に通いながらアルバイトをして声優の卵としてオーディションも受けてるんだって。苦労してるね」
「まだまだひよっこですけど」
「立派だよ!」
森に褒められて嬉しそうに大山は眉尻を下げている。
だが朋は反対に目を見開いた。
「おまえ、声優なのか」
「言いませんでしたっけ?」
「だから声がよく通るのか」
朋が聞ける範囲はだいたい一二〇ヘルツで女性の高い声の方が聞き取りやすい。だが成人男性である大山はもっと低いはずだが、静かな場所であれば一語一句聞き取れた。声優と訊いて納得する。
声優は喉だけでなく腹の底から声を出すと聞いたことがある。まるで楽器のように芯のある音を奏でるのだ。
大山はきょとんと首を傾げた。
「俺の声ってそんなに聞き取りやすいんですか?」
「まぁそうだな」
「やった。声優になってよかった」
よかったね、と森とハイタッチまでしてなにがそんなに嬉しいのかさっぱり理解できない。
ひとしきり悦びを分かち合ったあと、森は「あっ!」と声をあげた。
「大山くんって料理できるんでしょ?」
「実家が定食屋で、子どものときから仕込まれてます」
「じゃあ保科くんのご飯、本当に作ってあげてよ。この子、放っておくとハンバーグしか食べないからさ」
「必要ないですってば」
森の提案に朋は待ったをかけた。
一日一食でも腹は空かない。
いままで大きな病気をしたことがないから、これが朋にとって普通なのだろう。
だが森に頼まれた大山はボールを投げられた犬のように亜麻色の瞳を輝かせた。
「もちろんやりたいです!」
「じゃあ決まり。材料費は保科くんに領収書渡してくれればいいから」
「勝手に決めないでくださいよ」
朋の抗議を無視して、森と大山は話を進めてしまっている。森の巨体が邪魔で二人の間に入れない朋は後ろからやんややんや言うことしかできない。
(そんなことされたら困る。これ以上誰かと繋がる必要なんてない)
朋は憎々しげに森を睨みつけると「まぁ冗談だよ」と笑った。まったくすぐ手のひらを返しまくって一貫性がない男である。
「でも体調は心配だよ。また倒れられたら困るし」
「いつものですから平気です」
「あ、じゃあ俺が毎日弁当を作るのはどうですか?」
大山の新提案に森はぱっと目を輝かせた。
「いいね。それ」
「……勘弁してくださいよ」
大山と森で段々と話を進めてしまい、朋のことなのに決定権はこちらにはない。頭が痛くなる思いに目眩を起こしそうになった。
森との約束の通り、大山はデリバリーを運ぶついでに弁当を持って来てくれるようになった。
今日も玄関先で紺色のランチバックを当然のように受け取り、はっとする。当然のように受け取る自分が怖い。
「今日は煮つけに挑戦したんです」
「煮つけって弁当に向かなくね?」
「下にお麩を入れておくと余分な水分は吸ってくれるんですよ」
「なにその豆知識」
「うちのばあちゃん直伝です」
目が焼かれてしまいそうな眩しい笑顔に朋はぐっと喉を鳴らした。あまりに神々しい。
大山は決まって一品、初挑戦のおかずをいれてくれる。まるで朋に挑むかのような姿勢だ。
さすが定食屋の息子ということもあり、品数のレパートリーが多く、毎日違うおかずを楽しめる。それに冷凍食品は一切使わない強いこだわりもあり、健康を気遣われているのが腹が立つ。
塩加減も絶妙だ。薄味で素材本来の味が楽しめるものを好む朋の舌に合う。
料理の好みが合うと身体の相性もいいのだという森の言葉を思い出し、頭を振った。
(いらんこと吹き込みやがって)
脳内の森にチョップを食らわし、大山に向き直った。
つぶらな瞳は、人を疑うことを知らない子どものように澄んでいて、好意を惜しげもなく向けてくれる。
倒れそうになる身体を後ろから支えてもらっているような安心感があった。
寄りかかってしまいたくなる。
でもそれはだめだ、とこぶしを強く握った。
「いままでどれが一番美味しかったですか?」
「……鶏肉と梅」
「あ〜梅つくねですか」
梅つくねを思い出し、朋の口の中にじゅわりと涎が溢れてくる。
鶏ひき肉を大判型にし、梅と大葉で包んで焼いたものだ。梅の酸っぱさと大葉の爽やかさが絶妙にマッチして美味しい。
食べ終わるのが嫌で、最後まで残していたくらいだ。
「じゃあ明日作ってきますね」
「無理しなくていい」
「だめ。森さんにも頼まれてるんですから」
きゅっと口角を上げる大山はどこかいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
小悪魔のような笑顔は胸の奥に音を鳴らせる。キンと金属バットでボールを打ち返したような心地よい音色だ。
朋の中でなにか弾けた。ずっと引っ張っていた糸が切れたように自然と口が動く。
「……なにが欲しい?」
「お金なら充分もらってますよ」
「そうじゃなくて……」
言い淀むと、大山は不思議そうに首を傾げている。
(あぁ、じれったい!)
朋は一度頭を掻きむしり、ぎりっと大山を睨みつけた。
「お礼してやるって言ってるんだよ」
「え、あ……うわ~そういうことか」
やっと意味を理解したらしい大山は首まで真っ赤にさせている。照れるな。こっちまで変な気分になるだろう。
「じゃ、じゃあ映画! 映画一緒に行きたいです」
「映画……」
「はい! いまやってるアメコミの実写がずっと観たかったんです」
目の奥にキラキラとした星を詰め込んだ大山の瞳に魅せられて、「わかった」と頷いた。
「じゃあ日にちとか決めるために連絡先交換してもいいですか?」
「あぁ」
登録を済ませると森と出版社と病院しかない電話帳に「大山陽太」が加わる。まるで太陽の周りにある光の輪のようにその文字だけが輝いて見えた。
待ち合わせの新宿駅に着くと懐かしさで朋の胸がじんわりと温まった。
洸平が生きていたときは、毎週のように二人で新宿に来ていた。
映画を観たり、ショッピングをしたり、新宿御苑を散歩したりと楽しかった思い出が蘇ってくる。
三年という月日を感じさせないほど、街の喧騒は変わっていない。
人の多さやクラクションの音。広告を流しながら走るトラック。
きっとすべては同じではない。広告もビルに映し出される映像もきっと違う。
でも朋の耳には同じような雑音にしか聞こえなくなっている。
「と……さん!」
後ろから肩を叩かれて朋は叫び出しそうになった。耳が聞こえづらいと知っているはずなのに、後ろから声をかけるのは正気の沙汰じゃない。
ぎろりと振り返ると大山はにっこりと白い歯を覗かせている。
白いだぼっとしたトレーナーと黒のブルゾン、緩めのデニムは大山らしいカジュアルさだ。ビジュアルを気にする声優業界にいるからオシャレに気を使うのだろう。
(そういえばフードデリバリーの制服以外、初めて見るな)
蛍光黄色のジャンバーとキャップも大山に合っていた。ようは顔が整っていればなんでも似合うということだろう。
「おま……し、た」
またなにか言っているが外は騒がしすぎるので当然聞こえない。
朋はトレンチコートの胸ポケットからスマホを取り出した。
《外じゃ聞こえないからこっちで話してくれ》
そこでようやく気づいたらしい大山は手を合わせて深く詫びてくれた。
でもこのくらいの距離感の方が心地よい。
気を使われすぎるとこっちも疲れてしまう。
大山は驚くほどのスピードで指をタップしている。
《じゃあ行きましょう。映画は十一時から取ってあるんです》
《金は後で払う》
《デートなので奢らせてください》
デート、という単語に朋はスマホを投げ出したくなった。どこがどうなってデートになるんだよ。
これは毎日弁当を作ってくれる礼だ。
隣の大山を睨みつけると茶目っ気のある笑顔を向けられ、確信犯だと頭が痛くなる。
映画館の方へ歩きながら、スマホでメッセージのやり取りを続けた。
普通なら声で話せる距離が一度電波を介さなければならない。その煩わしさもなぜか嫌ではなかった。
トーク画面の吹き出しが増えるたびに大山のことを知れる。
横断歩道で待っていると朋のスマホが振動した。
《そういえばこの前、24時間物語が紹介されてましたよ》
大山から送られたリンクをタップするとブックインフルエンサーを名乗る男が、お気に入りの本を紹介するショート動画だった。
そこで泣ける本として「24時間恋物語」をプレゼンしてくれている。
ブックインフルエンサーはかなり熱が入り、暑苦しいほどの愛を叫んでくれていた。字幕が弾丸のように速い。
視聴者からのコメントには「懐かしい!」「横島くん好きだったな」と溢れていた。
(もうオワコンだと思ってたのに)
こうして再び注目してもらえるのは変な気分だ。何年も前に書き終え、主人公たちの恋は終着している。朋の中では一区切りついた作品だった。
でもこうして再び人の目に触れる機会があると嬉しい。
植えたことを忘れていた種が芽吹いて驚いた感覚に似ている。思いの外、きれいな花を咲かせてくれ、嬉しさが何倍にも膨れ上がるようだ。
席に着くとようやく人心地ついた。映画館特有のふんわりとした絨毯の感触に朋の胸は躍る。ポップコーンの匂いも、少しだけ暗い照明もなにもかもが興奮を煽った。
(そういえば洸平が死んでから初めて映画館に来たな)
観たい映画は、配信やレンタルで事足りる。
着替えて、出かける準備をして電車に乗り映画館まで来る、という行為自体が朋にとって苦痛の連続だ。そのせいで自然と足が遠退いていた。
でもその面倒な工程をすべてやり切り、いま映画館の座椅子に腰掛けている。
あれほど煩わしいはずなのに、不思議な気分だ。
隣の大山はポップコーンを頬張りながら、スマホ画面を軽快にタップしている。ものの数秒で朋のスマホが震えた。
《この映画、続編なんですけど大丈夫ですか?》
《聞いてねぇぞ》
《言い忘れてました》
てへっと舌を出す大山にデコピンを食らわせた。続編なら最初から言っておけ。話がまったくわからないじゃないか。
《確か洋画だよな。もちろん字幕だろ?》
《あ……》
《おまえなぁ》
また悪びれもせず笑う大山に呆れてしまう。
チケットを用意してくれたのも、時間指定したのもなにもかも大山だ。朋はなにもしていないのに文句だけ言うのは、大人の対応ではない。
《いまから変更しますか?》
《いい。爆音と被らなきゃ聞こえると思う》
映画館という限られた音しか鳴らないなら、それなりに聞こえるだろう。それに映像も加われば大まかなストーリーは追えるはずだ。
《すいません》
しおらしく肩を下げる大山に面食らった。いつもの猪突猛進ワンコはどうしたんだ。こっちの気持ちなど考えず、我を突き通すくせに。
気まずい空気になってしまい、会話が終わるとちょうど映画が始まった。
爆発音や叫び声は朋の補聴器では音が割れて酷いものだが、会話は聞こえる。
それにアクション映画はストーリー重視ではない。敵が攻めてきて、爆発が起き、いかにヒーローがヒロインをかっこよく救えるかが重要なのだ。
それされきちんと理解できれば面白く、朋の意識は自然と映画の中に溶けていった。
映画のあとは近くのゲーセンの格闘ゲームに付き合わされ、最後はカラオケに行った。
テレビの音を消してしまえば静かになるので会話ができる。
最後の最後で大山は知恵を絞ったのかもしれない。
「映画面白かったですか?」
「まぁまぁかな。アクションはあんまり観ないし」
「いつもはどういうの観るんですか?」
「恋愛とかサスペンスとかかな」
「さすが小説家だ」
いつもの調子に戻った大山は、サッカーボールほどありそうなハニートーストを一人でばくばく食べている。ドリンクバーの飲み物は炭酸飲料だし、随分と子ども舌らしい。
そういえば大山と一緒に食事をするのは初めてだ。
イメージ通り、犬のようにハニートーストを食べているのが面白い。フォークでサイコロみたいなトーストを刺し、そのままかぶりついている。どこまでも期待を裏切らない男だ。
口についたメープルシロップを舐め取った大山は続ける。
「声、聞こえてました?」
「ぼちぼちだな。あ、でもあのモブはすごく聞きやすかったよ。序盤で出番終わったけど」
主人公の友人の一人である男の声は、やけにはっきりと耳に残った。セリフもそう多くないし、物語の重要なキャラクターでもなかったが、すっと耳に馴染んだ。
大山はフォークを持つ手を止めて、両目を大きく見開いている。
「それ、俺が演じたんです」
「あ〜だからか。おまえの声、聞き取りやすいからな」
雲の隙間から太陽が差し込むように大山の表情が明るくなる。カラオケルームの薄暗い室内を照らすような笑顔だ。
「あのモブ……友人Bって言うんですけど、初めてオーディションで受かった役なんです。どうしても朋さんに聞いてもらいたくて」
「だから吹き替えだったのか」
「相談なしにすいません」
「いいよ。じゃあゲーセンも?」
「はい」
大山がへたくそなのに何度も格闘ゲームをしているのを横で見ていた。いかにもイケメンでキザなキャラクターをずっと使っているのが不思議だった。
さすがにゲーセンはうるさすぎるので音は聞こえない。
帰ったら調べる、と言うと大山は口元を綻ばせた。
映画にアーケードゲームと大山の出演作はかなり多い。無名の新人がこんなに出演作品があるものだろうか。
「おまえ、結構人気じゃん」
「全然ですよ。声優だけじゃ食っていけないからフードデリバリーをしてるんです。時間の融通効くし」
「でもうちには毎回来るだろ」
「そこは固定してます」
「なんでだよ」
くすぐったそうに笑う大山は年相応に幼く見えた。二十歳という年齢を鑑みると、若葉マークが外れない新米だ。
だから自分が成功したものは、ジタバタしたくなるほど嬉しいはずである。
朋もそうだった。
『24時間恋物語』が発売された日は、開店と同時に書店に出向いて、買ってくれる人はいるのか一時間ほど滞在していた。
目の前で本を立ち読みしている人がいると、「買ってくれ」と念を送ったこともある。
だから大山がさりげなさを装うのが、どこか大人っぽさがあった。朋がデビューした年よりも若いはずなのに、その余裕さはなんとなく面白くない。
ハニートーストはばくばくと食べる子どもっぽいくせに。
(いや、それはあくまで俺のイメージか)
大山のことをよく知らない。大学に通いながら声優の卵としてオーディションに受けている、ことだけだ。
どこ出身でどこの大学に通っているのか知らない。
でも大山にも抱えているものがあって、葛藤したり悦んだり、泣いたりしている。その場面を見たことがないからピンとこないだけで、今日まで歩んできた大山の歴史があるのだ。
その歴史に触れてみたい。
朋はアイスコーヒーのグラスを置いた。
「どうして声優になろうと思ったんだ?」
「昔からアニメが好きで自然と、って感じですね」
「どんなアニメ?」
「ロボットアニメです。ヒロインが宇宙人で水色の髪の女の子」
「あ~確かにあったな」
大山とは八歳離れているので、幼少期に触れていた作品は違う。でも大山が影響を受けた作品は社会現象を起こすほどムーブメントだったのでよく憶えている。
「ヒーローの男の子がカッコ良かったんですよ。普段は女の子の尻を追いかけてるようなチャラ男なのに、好きな子がピンチになると誰よりも先に駆けつけてきたり」
「ギャップ萌えってやつだな」
「萌えは古いですよ」
「古いのか」
「古いですね」
どうやら朋の認識は更新できていないらしい。そりゃ最近の流行りはチェックしているつもりだったが、甘いのだろう。
「そのヒーローみたいになりたくて、声優を目指すようになったんです。こんな動機の奴、掃いて捨てるほどいますけどね」
大山は自嘲気味に笑うので、そうなのだろう。
声優業界は詳しく知らないが、人気職種だと聞く。なりたくてもなれない人の方が多く、人気声優ともなると一握りしかなれない。
そんな厳しい世界に身を置いているとは思えないほど、大山は苦悩している姿を見せないのだ。
大山にとって努力は当たり前のことなのかもしれない。
(よく考えれば上京して大学通いながらバイトをして、オーディションも受けてと大変だよな)
大山という人間の核に触れることを許された気がした。
「頑張ってんじゃん」
「このくらい、当たり前ですけどね」
「いいことを教えてやる。五感の中で一番最初に忘れるものってなんだかわかるか?」
「なんですか急に」
「いいから答えろ」
「う~ん……味覚?」
「聴覚だ」
大山は目を大きく見開いて、フォークを動かす手を止めた。朋は続ける。
「でも死ぬ間際まで残るのは聴覚だ」
「なんか矛盾してません? 最初に忘れるのに最後まで残るのって」
どこか不満そうな大山の言い分はわからなくもない。朋も看護師に言われるまで知らなかった。
たくさんの管に繋がれた洸平の姿をいまでも鮮明に思い出せる。消毒液のする部屋も、ベッドの色も、洸平の手の温もりも、なに一つ取りこぼしていない。そう断言できる。
『意識がなくても声だけは聞こえるんですよ。だから最期まで声をかけてあげてください』
看護師はなんて残酷なことを言うのだろうと思った。段々と冷たくなっていく洸平の手を握り、朋は泣かないようにするのに必死だった。そんな状態で声をかけろ? 洸平は意識もないのに?
でも朋は言われた通り声をかけ続けた。
ありがとう、大好きだ、また一緒に仕事しような。
そんなありふれた言葉だったと思う。当然洸平から返して貰えない。
閉じられた目尻に涙が浮かんでいる洸平を見て、胸を刺してこのまま死のうかと思った。
返事もできないのに声をかけ続けるなんて相手にしてみれば酷だろう。言われっぱなしで死んでしまう。なにも返せないまま。無念を残して。
洸平の気持ちを考えれば考えるほど、朋は残酷なことをしたのだなと気づく。そのせいで洸平の声を忘れてしまった。
どんな高さで、どうやって鼓膜を震わせてくれていたのだろう。思い描いている音程ははたして洸平のものなのか、もう判別できない。
心電図のピーっという断末魔にかき消されてしまった。
朋は水滴の浮かんだグラスを人差し指で掬った。冷たい水が爪の上で半円になる。落とさないように慎重な手つきで目の高さまで上げた。
「危篤状態の人間でもな、声は届くんだよ」
「それは実体験ですか?」
「そうだ」
大山が唾を飲み込む音がやけにはっきりと聞こえる。
それきり大山は考えるように黙り込んでしまった。せっかくの楽しい空気を壊した自覚はある。でも必要なことだ。
(これ以上、俺に踏み込まないでくれ)
大山といると楽しい。楽しいは毒だ。もっと欲しいと欲が出て、我を忘れて求めてしまう。
いまいる場所を捨て、新たな場所にいくことは朋にとって許されない行為だ。
断罪してくれる人はいないから、自分の心で歯止めをかける。
洸平を置いていくことなんて、できないのだから。
すうと大山は深く息を吸い込んだ。
「じゃあ俺は忘れられない声優になります」
亜麻色の瞳に闘志が燃えるのが見えた。メラメラと火花を散らし、ぐっとこぶしを握った大山の顔は、決意を固めたように凛としている。
「たくさんの作品に出て、たくさんのキャラを演じます。そして一生声が残る声優になります」
「……なんだよ、それ」
「例え俺が死んでも作品は残ります。生き続けるんですよ」
物語には寿命がない。昔のアニメや漫画が何十年と経ってリメイクをし、新しい世代に繋いでいる。
そうして、永遠の命を繋いでいた。
「俺の声は一生消えない。朋さんが聞きやすいと言ってくれたこの声を、ずっと残します」
手を握られ、あまりの熱さに驚いた。発熱しているのかと思うほど、大山自身から生命エネルギーを発している。
「俺の声は死なない」
目を見てはっきりと告げられた言葉が朋の胸を刺した。その痛みで涙が込み上げそうになる。
喉に力を込めて、どうにか耐えた。ここで泣いたら違う意味に捉えかねられない。
朋はぷいと顔を横に向けた。
「そういうのはいい。俺には必要ない」
洸平の思い出を丁寧に磨き続けたい。自分にはそれしか許されていないのだ。
一体、誰に?
「でも、俺の声が助けになるかもしれませんよ」
すんなりと耳に馴染む大山の声は、朋の細胞を活性化させてしまう。
あの部屋で生きながら死を待つような生活に慣れているつもりだった。
大山が怖い。
どうして自分をあの部屋から引きずり出そうとするのか。寄り添おうとしてくれるのか。
この痛みを誰かと共有して減らしたくない。洸平の残滓を誰にも受け渡したくない。
そう思っているはずなのに大山の顔を見ると、一時でも痛みを忘れてしまう。
「いや、違うな。俺がそうしたいんです。朋さんのそばにいたいんです」
あどけなく笑う姿に固まったままの砂時計が落ちる気配を感じてしまった。
3
「これじゃあ前作と同じだよ」
「……はい」
「いいところまできてるから、あともう少し詰めてみて」
「わかりました」
森に企画書を返されてしまい、朋は肩を落とした。
雑誌に載せる新作のプロットが思うように進まない。何度企画書を提出しても赤ペンを入れられてしまうので、自分の才能の限界を感じていた。
(小説家になりたくてなったわけじゃないから厳しいな)
小説家は学生でも手っ取り早く金を稼げる手段として選んだ。
朋は物心ついたときから母親と二人暮らしだった。父親は名前どころか、生きているのか、死んでいるのかも知らない。
母は男に見境がなく、季節が移ろうたびに男を変えるような人だった。
そのときの彼氏によっては暴力を振られることがあったので、朋はよく図書館に避難していた。
夏は涼しく、冬は温かい。おまけに暇つぶしの本がごまんとある。作者名のあ行から順番に読み耽っても、日々新しく本を増えていく。
時間を潰すには最適な環境だった。
だが高校生になると母親は酒に溺れ、仕事を辞めてしまい生活が苦しかった。バイトをしても大した金にならない。
そこでとある文芸雑誌で新人賞を募集していることを知り、賞金に目が眩んで投稿した。
処女作「24時間恋物語」は奇跡的に大賞を受賞し、とんとん拍子で映画化までした。印税が驚くほど入り、お陰で生活は随分と楽になった。
母親の借金を返し、奨学金を借りずに大学を卒業もできた。母には何度か金をたかられたが、大金を渡して連絡先を消している。もちろん住所も教えていない。
だがそのあとは鳴かず飛ばずのまま低空飛行中だ。
あれほど本を読んできたのに、自分は想像力がない。実体験を元にしたものしか書けず、特に恋愛小説になると洸平との思い出を書き綴っている。
だが洸平亡きいま、恋愛面において新しい一面が描けない。だからといって新作のために恋人を作る気もない。
同じような企画書ばかり出しているから、森も呆れているだろう。
「最近、大山くんと会ってる?」
「嫌でも毎日来ますよ」
「それはよかった」
コーヒーを飲んだ森はクツクツと笑った。この中年男は朋と大山のことをどこか楽しんでいる節がある。
じとりと睨み返すと森は目尻の皺を深くさせた。
「ちょっと調べたんだけど、大山くん、これからブレイクしそうなんだってね。ほら」
話を逸らそうという魂胆は見えていたが、朋は乗ってやることにした。これ以上追及されて分が悪いのは朋だ。
スマホで見せられた画面には、人気少年漫画原作の主人公に大山の名前が書いてあった。その横に事務所の宣材写真らしい、眉を顰めてクールぶった大山の顔が掲載されている。
どうやら声優界ではクールキャラ路線らしい。
「すごいですね」
「それ以上の感想はないの?」
「写真もっといい顔のやつなかったんですかね」
「そっちじゃないよ」
森は朋の肩を叩いた。
「毎日弁当作ってもらってるんだから、もうちょっと情が湧くでしょ」
「金払ってるのは俺なんでね。下請けに特別な感情は持ちません」
「薄情だな」
森は眉間に皺を寄せつつも、立ち上がってキッチンに向かった。コーヒーのおかわりを淹れるのだろう。まるで我が家のように遠慮がない。
シンク横に大山から借りた弁当箱が目につき、朋は顎に皺を寄せた。いまにでも大山の声で喋りだしそうな気配を感じる。
熱々のコーヒーを淹れ、森は戻って来た。
「でもそろそろそれも難しいかもね。声優の仕事が波に乗れば、デリバリーも辞めるんじゃない?」
「清々しますよ」
「寂しいくせに」
「寂しくなんてありません」
「横澤くん。あなたの恋人はこんなにへそ曲がりなんですよ」
「死人に悪口を吹き込まないでください」
棚に飾ってある洸平の写真に手を合わせ、森はぶつぶつと文句を垂れている。
「もう亡くなって三年でしょ。新しい恋をしてもいいじゃない」
「するつもりはありません」
「でも保科くんは実体験を元にして書く作家なんだから、このままだとジリ貧になるよ」
「……なんとかします」
担当編集者に言われるとさすがに堪える。自分でも薄々気づいていたことだが、他人からはっきり口にされるとより自分の立場の悪さが明確化されてしまう。
それとも最終通告をされているのだろうか。
コーヒーを啜る森は、七福神の恵比寿様のように朗らかな笑顔を浮かべている。分厚い仮面のせいで、心情が読み取りづらい。
「でも大山くんも可哀想だな。これだけアピールしてるのに報われないなんて」
「なんのことですか」
「とぼけちゃって。悪い癖だよ」
十年近い付き合いがある森は朋の性格を熟知している。そのありがたい助言は聞こえないふりをして、朋も新しいコーヒーを淹れるために立ち上がった。
香ばしい豆の匂いにささくれだった心が少しだけ和らぐ。猫のイラストが描かれた洸平のマグカップを写真の横に置いて、手を合わせる。
その様子を見た森はふうと息を吐いた。
「健気だね」
「歯磨きと同じですよ。毎日やれば習慣になります。いきなり変えると気持ち悪くなるんですよ」
「あるねぇ。僕は靴下を右から履きたいけど、たまに左から履くと変な感じする」
「靴下と同系列で語られてるぞ」
写真の洸平に語りかけた。「なんだよ、それ」とくすぐったそうに笑う声が脳内に返ってくる。
果たしてこの声は自分が聞いていたあのままの声なのだろうか。それとも想像上のものだろうか。
もう確認できない。
「まぁ真面目な話、そろそろ企画通さないと印刷間に合わないし、最悪他の子に回すよ」
「……わかってます」
「仕事のためにも新しい恋は、いいと思うんだけどね」
都合が悪い話は聞こえないふりをして朋はコーヒーを啜った。森もしつこく言ってはくるが、無理強いはしてこない。
朋が頑固だというのをよく知っているのだ。
森が帰ったあと、久々に洸平が出演している作品が観たくなった。彼が出演したものはCMからバラエティまですべて残している。
どれを観ようか、とラックを探していると「24時間恋物語」が目に飛び込んできた。
冴えない男子大学生の伊勢が痴漢されていた同じサークルの女子、花菱を助けたところからストーリーが始まる。それをきっかけに二人は付き合うが、花菱が突然姿を消す。
必死で探すと花菱は伊勢のことを憶えていない。おかしいと思って調べると彼女の記憶は一日しかもたず、毎日リセットされてしまう、という悲しい恋の話だ。
DVDをセットすると懐かしい音楽が流れた。電車の音。洸平の横顔が朝陽に反射して、美しい輪郭を浮き彫りにさせている。
『次の駅で降りてください』
低く棘のある声は普段の洸平とは違う。これは役なのだから仕方がない。そんなことわかっている。
でもスピーカーと補聴器で二重にろ過された洸平の声は、自分を呼んでくれていた声ときっと違う。
ふと大山の言葉が浮かんだ。
『俺の声は死なない』
大山が死んでも作品は残り続ける。洸平のように。
映画は進み、クライマックスにまできていた。
雨の中、洸平の慟哭が響く。どれだけ想っても奇跡は起きない。花菱の記憶は戻ることなく、一日でリセットされ続ける。
『こんなにも好きなのに……』
悲痛な叫び声はかさぶたで塞いだはずの胸の痛みを再び呼び起こした。
いつもの時間に来た大山は、どこか浮かない顔をしている。玄関先でも構わずマシンガンのように話しかけてくるくせに、今日は上の空のままぼんやりしていた。
「調子でも悪いのか?」
朋が声をかけると虚空をみつめていた視線がこちらに向く。白目の部分が赤く血走っていて、ちょっと怖い。
「……オーディションに落ちました」
「おまえレベルでも落ちるんだな」
「俺くらいの人なんてザラですからね。子どものときから好きな作品のリメイクだったからショックです」
よほど気合いが入っていたのだろう。しゅんと肩を落とす大山があまりにも惨めに映る。
なんとかして立ち直らせようと朋は頭を働かせた。
「この前、なんとかって漫画の主人公に抜擢されたとネットで見たけど」
「調べてくれたんですか?」
目をまんまるにさせた大山の顔にみるみる赤みが戻ってくる。
「森さんが調べてたからな」
「嬉しい」
大山の背後に犬の尻尾が見える。ぶんぶんと激しく左右に振っていた。
新人が有名作品の主人公に抜擢されたら、世間からの注目度も上がる。人気声優の階段を一気に駆けのぼれるチャンスだから喜ぶのは当たり前だ。
自分もそうだったな、と懐かしい気持ちで大山を眺めた。
朋も大賞に選ばれたと連絡がきたとき、天にも昇るような気持ちだったのをよく憶えている。
重版がかかるたびに、居酒屋をはしごして明け方まで飲んだことは、一度や二度ではない。
セピア色のフィルムが色づき始め、自分の胸に懐かしい甘酸っぱいものが広がってくる。
だが、雲に隠れてしまった太陽のように大山の表情はまた暗くなった。
「でも絶対受かりたいやつはダメでした」
「人生、山あり谷ありって言うだろ」
「もう五回連続です。さすがにへこみます」
いまにでも泣き出してしまいそうな大山はらしくない。そのせいで朋の調子も狂ってしまう。
でも同時に共感できることもあった。
何度新作の企画書を出しても森に突っ返されてばかりだ。
いま、大山の気持ちと一番近いところにいる。
「俺も似たような感じだな」
「人気作家の朋さんにも落ちることがあるんですか?」
「おまえの中の俺ってそんなイメージなのかよ」
処女作がたまたま当たっただの運がよかっただけだ。ビギナーズラックとでもいえようか。
朋は壁に背中を預けた。
「人気じゃねぇよ。かなりジリ貧。次の新作、当たらなかったら廃業だろうな」
森ははっきりと口にしないが、クビ直前なのだろう。
小説家に未練があるわけではない。
だが耳が聞こえづらいハンデを抱え、サラリーマンの経験もないのに一般企業に就職できるのだろうか。
自分がこの部屋から出て、社会の歯車の一つになれるという想像ができない。
この部屋は朋の砦だ。
洸平の思い出が溢れる部屋は、自我を保つのに必要な籠だ。ここを奪われたら自分はどうなってしまうのだろうか。
だから働いて、お金を稼いで、この部屋に居続けている。
朋が小説家をやっている理由はそれだけだ。
「残念会しましょうよ」
「俺はまだ落としてねぇぞ」
「じゃあ決起会は? 次のステップに上がるために英気を養うの」
「そんなの勝手に一人でやれ」
「なにしましょうか。いまの時期ならお花見もいいですよね。もうすぐ満開じゃないですか」
大山は聞こえないふりをして近場の花見スポットを検索し始めた。さっきまで暗い顔をしていたくせに。
あまりにもテンションの変わりようでこっちがついていけない。まるでジェットコースターのように忙しない男だ。
(でもそうやって振り回されるのは楽だな)
向日葵が太陽の方を向くように大山と行く先は楽しいものが待っているような、そんな気にさせられる。
井之頭公園には満開の桜が咲き誇っていた。川面には桜の絨毯が広がり、風が吹くたびにちらちらと待っている。
目を奪われるような光景を前に、朋はマフラーをかき集めガタガタと歯を鳴らせていた。
気温は冬に戻ったように寒く、予報ではもうすぐ雨が降る。どんよりとした鼠色の雲が空を覆っていた。
本来ならボートを漕ぐカップルで溢れていそうなものだが、人どころかあひるやカモの姿すらない。
誰も好き好んでこんな悪条件の中、花見をしようと思う奴はいない。
そのお陰で他の花見客と場所を取り合うこともなく、満開の桜の下は朋と大山の貸し切りだ。喜んでいいのか、嘆けばいいのか。
レジャーシートに座るだけで、土の冷たさがダイレクトに尻に伝わる。固いし冷たい。時折吹く風は氷を含んでいるような寒さで、身体の芯まで冷える。正直花見を楽しむ余裕はない。
唯一の利点は、他に人がいないので声が聞こえやすいところだろう。
それ以外は地獄だ。
「雨が降る前にさっさと食べちゃいましょう」
大山が重箱を開けると中は唐揚げや梅のささみ揚げなど朋の好物がぎっしりと詰まっていた。桜でんぷんの乗った春らしいおにぎりもある。温かい緑茶も用意してくれて、至れり尽くせりだ。
大山から紙皿と割り箸を受け取った。
「遠慮しないでたくさん食べてください」
「……いただきます」
かじかむ手でどうにか梅のささみ揚げを摘まむ。時間が経ってもパサパサせず、口の中に肉汁が広がった。梅の酸味とよく合っている。
沈んでいた気持ちが少しだけ浮上した。
「ん。美味い」
「朋さんは本当に酸っぱいものが好きなんですね」
「酢の物とかもずくとか、わりと好き」
「どっちも弁当には向かないですね」
くすぐったそうに笑いながら、大山も唐揚げにかぶりついている。
しばらく食べているとぽつりと鼻先に雨粒が落ちた。次第にさぁさぁと降り出し、わずかにいた花見客は蜘蛛の子を散らすように避難している。
「やばい、振ってきた」
大山は手早く重箱をリュックに詰め込み、レジャーシートを小脇に抱え、折り畳み傘をさした。
「やっぱ……ふ……した、ね」
雨音と重なってしまい、大山の声が聞こえづらい。雨という見えないパネルが大山との間を隔てている。
「い……ましょ」
大山は大きく口を開いてくれているがなにを話しているのかわからない。両手が塞がっているからスマホを操作できないのだろう。
曖昧に頷くと大山は歩き出した。とりあえず彼の後に続く。
雨はどんどん強くなり、傘を弾くパラパラという音が響いた。公園を出ると車が多くなり、モーター音があちこちから反響しているように感じる。
一つの傘に二人で入っているから、お互いのコートは濡れていた。
肩に触れるか触れないかの距離に大山の存在がある。身体から熱を発しているようにコート越しでも大山の存在を強く感じ、そう思う自分に動揺した。
朋の鞄にも折り畳み傘は入っている。午後から雨が降ると予報が出ていたのだから、持っていない方が少数派だろう。
大山が当然のように傘にいれてくれるせいで、出すタイミングを逃してしまった。
予期せぬ相合傘に動揺がさらに加速する。
「うち……ど……すか?」
大山に顔を覗き込まれ、どきりと心臓が跳ねる。やめろ、急にイケメンが近づくな。
そう言おうと思ったが、口を噤んだ。大山は心配そうに眉根を寄せていたからだ。
聞こえない、という意味で首を傾げると、耳元に顔を寄せられた。
「うち、ここから近いんです。そこで仕切り直しませんか?」
にっと口角を上げる大山に心臓を撫でられたようにぞわぞわする。その確信的な笑顔はなんだ。朋が行くことを決定されているような顔に、ぶすりと唇を尖らせて抵抗をした。
でもそんなこともお見通しなのだろう。
大山は笑うだけで、サクサクと駅とは反対側の方へと歩き出した。
人通りの多い駅近くとは違い、住宅が密集している地域らしい。スーパーやドラックストアがあり、古びた商店街もある。初めての場所なのにどこか懐かしさがあった。
(実家の方と似ているな)
もう何年も帰っていない実家のことを思い出し、母親の顔が浮かんだ。高校を卒業してから一度も会っていない。
ぼんやりと過去に思いを馳せているとガガっと補聴器が音を拾う。
隣を見上げると大山はじっとこちらを見下ろしていた。
「好きです」
声は聞こえないのに大山の唇の動きでわかってしまった。好き、ともう一度繰り返され、朋は聞こえないふりをして前を向いた。耳が熱い。
(こいつ、俺が聞こえないと思ってるな)
でもそうだ。他の会話はよく聞き取れていない。それなのに「好き」だけは色を塗られたようにはっきりと存在を主張していた。
朋の胸が痛み、祈るように洸平の顔を思い浮かべた。洸平、洸平と何度も名前を呼ぶ。問いかけても答えてくれないのに、恋人の残像を引き寄せる。
そうでないと自分を取り囲んでいる砦が壊れてしまいそうで怖いのだ。
大山が足を止めたので、朋もならった。指をさした先に築三十年はありそうな古びたアパートが出迎えてくれた。
外壁は長年の雨で黒ずみ、周りを囲うブロック塀はかけている箇所もある。お世辞でも綺麗とは言えない。
いまにでも崩れそうな錆びた外階段をのぼり、二階の突き当りが大山の部屋のようだ。
「汚いですけど、遠慮なくどうぞ」
「お邪魔します」
「服濡れたでしょ? 乾かさないと風邪引いちゃいますね」
大山はさっさと中に入り、荷物を置くと洗面所からバスタオルを持って来てくれた。
告白したとは思えないほど平然とした態度に、こちらが動揺してしまう。
普通告白したあと、普通でいられるだろうか。もしかして、大山は伝わっていないと思っているのだろう。なら合わせる。それが一番いいはずだ。
室内は八畳一間の狭い部屋だ。ローテーブルにノートパソコン、敷きっぱなしの布団と生活感が漂っている。
台所のシンクにはカップラーメンや缶ビールが整頓されていて、大雑把っぽい大山の印象と違う新たな一面を見せられた。
「風呂入ります?」
「いい。ドライヤーだけ貸して」
「じゃあコートはハンガーに掛けましょうか」
朋は濡れたトレンチコートを大山に渡し、ドライヤーで髪を乾かした。あっという間に終わって振り返ると、寝起きのまま片付けられていない布団の存在が気になってしまう。
まるで抜け殻のように大山の形になっているのだろう。
(もしいま押し倒されたらどうする)
初めて彼氏の家に来た女のような気持ちでそわそわした。どこに座ればいいのかわからずローテーブルの周りをウロウロしていると大山は笑った。
「適当に座ってください」
「……うん」
「なに緊張してるんですか」
「あんまり人の家って行ったことがなくて」
それだけじゃないけど、と内心付け加えておく。
大山は「でも気持ちわかります」と重箱の蓋を取った。
「人のテリトリーに入るのって緊張しますよね」
「そう。なんか勝手に腹の底覗いちゃったようで気になる」
「俺のはどうですか?」
こてんと可愛らしく首を傾げるくせに大山の瞳は冗談を許さないほど真剣さがある。下手なことを言ったら噛みつかれそうだ。
朋は部屋をじっくりと見回した。
ラックにかけられているのは漫画雑誌とアニメ雑誌。本棚には漫画と文庫が几帳面に並べられる。
そこに「24時間恋物語」を見つけた。他の作品もある。本当に読んでくれていたのだと鼻の奥がむずむずした。
雑然としているようで整然とした室内は、丁寧に暮らしているのがわかる。
「結構几帳面なんだな」
「そうですね。よく大雑把ぽいって言われますけど」
「確かに。もっととっ散らかってると思ってたよ」
「それってゴミ屋敷ってことですか?」
頬を膨らませる大山に笑ってしまった。よく言われることなのだろう。あまり気にした様子もなく、喋りながらもテーブルに紙皿や割り箸を並べてくれた。
どうやら本当に花見の続きらしい。
拍子抜けしてしまうような、安心したような変な気分だ。朋はようやく壁側に腰を落ち着ける。
弁当を広げ終わると大山はパソコンを開いた。
「うちじゃ桜見れないんで、動画でも流します?」
「いいよ、このままで」
朋が首を振ると大山は意外そうに目を見開いた。そんなに花見に執着しているように見えたのだろうか。そもそも提案したのは大山のくせに。
弁当の残りを食べ終わると大山が冷蔵庫からビールを出した。外では飲まないつもりだったが、まぁいいかとありがたく受け取りプルタブを開ける。
一気に煽るとビールの苦味が喉を通り抜けてすっきりした。このまま一緒にモヤモヤも流れてくれればいいのに、と思っていたら飲み干してしまったらしい。
あまりの飲みっぷりに大山があんぐりと口を開けている。
「結構飲みますね」
「毎日飲んでるからな」
「意外です。あまり飲んでなさそうなイメージ」
「おまえの中の俺ってどんな印象?」
「植物みたいです。太陽と水さえあれば生きていけそう」
「あながち間違ってないな」
一日一食の食事とコーヒーと酒があれば生命を維持できる。
規則正しく生活しなくても誰の迷惑にもならないという甘えから、随分と堕落した暮らしになってしまっている。
でも大山が弁当を作ってきてくれるお陰で、だいぶ人間らしくなったと思う。
「恋人はいないんですか?」
「ノーコメント」
「これだけ毎日ご飯作ってるんですから知る権利を主張します」
「それに関してはちゃんと金払ってるだろ」
大山とは友人でも、ましてや恋人でもない。この歪な関係はなんだろう。
名前を付けるにはまだ踏ん切りがつかない。
大山がまだ問い詰めようとしている気配を察し、朋は横にあるラックに手を伸ばした。
「これって台本?」
小さなラックにはアニメ作品のタイトルが書かれたA4サイズの冊子が入っている。表面はおうとつがあるエンボス紙が使われているようだ。
「そうです。この前の映画がこれです」
「結構読み込んでるじゃん」
台本の端は折れ曲がり、痕がついていた。赤いボールペンで「感情的に」「ゆっくりと」と曲がりくねった文字で書いてある。
何度も繰り返し読んだのだろう。
大山の努力を可視化したら、この台本のようになるに違いない。
「セリフは少ないですけどね。だからといって手は抜けません」
たった一言でも魂を込めるものらしい。それがキャラクターと命を繋げる声優という仕事なのだと、大山は珍しく熱弁していた。酒に酔っているのかもしれない。
ほろ酔い気分で二本目の缶を開け、朋は一気に煽った。
「じゃあ主人公ともなると大変だな」
「そうですよ。無名のペーペーが抜擢されたんですから、もう毎日パニックです」
有名作品の主人公ともなると大勢の人が注目する。好意だけではない、妬みや怒りなども全部背負わなければならない。
その重圧に耐え続ける忍耐力も必要なのだろう。
先日、落ち込んでいた大山が過る。決起会だと騒いで、こうして花見までしているのだから、なにか励ました方がいいのだろうか。
朋はしばらく考えを巡らせた。
「おまえならできるよ」
「え」
「おまえの声、すごくいいよ。演技とかそういうのはよくわかんねぇけど……声はまっすぐに届く」
大山の声は朋と波長が合うのだ。砂山に混ざってしまったダイヤモンドのように埋もれてもすぐ見つけられる。
演技は努力でどうにかなるだろう。でも声質は持って生まれた才能だ。大山は声優になるべくしてなったのだと思う。
大山は箸をぽろりと落とした。
「朋さんにそう言われると自信がつきます」
「やっすい奴だな」
「だって朋さんですよ。24時間恋物語を書いたあの天才の」
「それ以降ぱっとしねぇけどな」
自虐的に笑うと大山は「そんなことありません」と立ち上がった。
「二作品目の『アゼウスの泉』もよかったです。神から人間に転生した二人が、人間界に揉まれながらもひたむきに努力する姿に胸を打たれました。あと三作品目の 」
大山が鼻の穴を膨らませながら、朋の本を熱弁しだした。作者より必死になって訴えかける姿がおかしい。
才能に溢れ、周りからも期待されている大山の存在が眩しい。でも不思議と嫉妬しないのはなぜだろう。
(洸平には嫉妬しまくりだったのに)
畑は違うが同時期にデビューした洸平とは恋人以前にライバルでもあった。どちらが先に注目されるか競っていた時期がある。
傍から見れば切磋琢磨できるいい関係だっただろう。でも実際は己の武器で相手を殴り続け、痛みに苦しんでいる部分もあった。
恋人として愛していたのは事実だ。けれど身を削るように作品を作る朋と、天性の才能があった洸平とはどうしても差がついてしまう。
距離があけばあくほど朋は藻掻き続け、その想いを力にしてがむしゃらに書き続けた。
心を削り過ぎて、いまの朋にはなにも残っていない。
だからなにも書けないのだろう。
大山は腕を伸ばし、「24時間恋物語」の本を手に取った。何度も読んでくれたのか表紙の端が折れている。
大山は愛おしそうに表紙を撫でた。
「俺はこの作品に出会って救われました」
亜麻色の瞳と目が合う。からっとした笑顔はやはり大山らしく、まっすぐだ。
寄り道を知らない真面目な子どものように純粋でひたむきな視線は、朋を温かく照らしてくれる。
「あ、雨止みましたね」
窓の外を見ると雲間から日差しが降り注いでいる。まるで新しい道を示すように朋の上に降り注いでいた。
朋はなにも言えず、三本目のプルタブを開けた。
昼食を食べ終わり、朋は散歩に出かけた。夏の気配を感じさせる生温かい風が頰を撫でていく。
桜は葉桜に姿を変え、半袖一枚でちょうどいいくらいの気候だ。
(季節を感じるのはいつぶりだろう)
外出は最低限の買い物か通院のみで、周りの景色に目もくれず目的を達したらそそくさと帰っていた。
それなのにいまは目的もなく、川沿いの道を歩いている。
川の水面の眩しさに目を細めた。眼球の裏がちくちくと刺激される。
風の柔らかさや日差しの温かさと、すれ違う人の表情を見ているだけで自分の中からなにか湧き出てきそうな気配があった。
ぼんやりと川を眺めていると正面から柴犬を連れた高齢の女性が来た。邪魔にならないよう端に寄る。
だがそれがお気に召さなかったらしい。柴犬は鼻をしわくちゃにさせ、朋に牙を見せた。
「ワン!」
「こら、やめ……さい。すい……ん」
飼い主の女性は慌ててリードを引っ張ったが、柴犬も負けてない。四つ足をアスファルトに埋まりそうなくらい踏ん張って、朋に向かって吠え続けている。
朋のなにが癇に障ったのだろうか。匂い? それとも年甲斐もなくレモンイエローのシャツなんて着てしまったから、ダサいと怒っているのだろうか。
飼い主が宥めても吠え続けるので、とうとう柴犬を抱きかかえた。
女性は足早に走って行ってしまい、犬の鳴き声がどんどん小さくなっていく。
「なんだったんだろ、いまの」
朋は苦笑を堪えながら、メッセージアプリを開いた。
《散歩してたら犬に吠えられた》
ほとんど無意識に大山にメッセージを送ってしまった。送信ボタンを押すと同時に冷静さが戻ってくる。
(なんでこんなどうでもいいこと送ってんだ)
慌てて消そうとするとすぐに既読がついてしまった。
《その様子、見たかったな》
画面越しに大山が笑っている顔が浮かぶ。文字しかないのに大山の声と笑顔が鮮明に思い描けた。
(こんなどうでもいい話にも真面目に付き合ってくれるのか)
胸の奥がくすぐったい。言葉が次々と溢れてくる。
なにかが生まれそうな息吹きの音がした。
あれほど苦しかった日々が、雨上がりの濡れた空のように清々しい。
透き通る青空を眺めているとブブッとスマホが震えた。
《夜ご飯、食べに行きませんか》
《酸っぱいものがあるところがいい》
《探しておきます》
柴犬が丸を作っているスタンプがあまりにも大山らしく、そっと画面を撫でつけた。
「いいんじゃない」
眼鏡の奥の瞳を大きく開かせた森は朋の書いた企画書から顔を上げた。数年ぶりに見る期待に満ちた顔に、朋は内心でガッツポーズを掲げた。
「随分雰囲気ガラっと変わるね。保科くんっぽくないと言うか」
「そうでしょうか」
「主人公が底抜けに明るいワンコタイプなのが珍しい」
朋の書くキャラクターは、陰湿で根暗で日陰にいるナメクジよりジメジメしている人が多かった。自分がそういう性格をしているから書きやすいのだ。
でも今回はまったく違うキャラクターに仕立てた。ヒロインも健気な子でなく、強気キャラにしている。
殴り合って愛情を深めていくような、そんな話だ。
もう一度企画書に目を通しながら森はコーヒーを口に運び、ほっと息を吐いた。
「大山くんに似てるね」
「……違いますよ」
「またまたぁ〜僕はずっと見てるからわかるよ」
森は目を細めてニヤリと笑う。一番そばで支えてくれた担当編集者にはさすがに隠し通せないようだ。
でも認めるのも癪なので絶対に頷かない。
そんな意地っ張りな朋の性格を見越しているのだろう。森は追撃の手を休めるつもりはないらしい。
「保科くんが新しい恋に前向きになってくれてよかったよ」
「だからそういうのじゃないです」
いくら朋が否定しても暖簾に腕押しだ。まったく手応えを感じないのは、朋の性格を的確に把握し、なおかつ奥底にしまった心情まで読み取れるからだろう。
森は編集者じゃなくて作家の方が向いているのではないか。
だがふと森の表情が和らぐ。雛鳥の成長を悦ばしいと思う親鳥のようにやさしいもに変わる。
「時間は誰にでも平等に流れるものだからね」
そう言って飾ってある洸平の写真を見上げる森の横顔は、年月の長さを感じさせた。
洸平が死んでから三年が経った。
でもこの部屋だけはなにも変わっていない。ドールハウスのように時間が止まったまま、外の季節だけ移ろっている。
だがそんな朋の日常に大山は彗星の如く現れた。部屋に土足で入り、自分を外に連れ出して、世界の美しさを教えてくれた。
止まったままの秒針が右に動き出そうとしている。
それを受け入れるべきか、拒否するべきか。
朋の中の答えはいまだ振り子のように定まっていない。
ブブッとスマホが鳴り、インターホン画面を見ると大山の姿があった。
それに気づいた森は腕時計に視線を落とし、「もうこんな時間か」と零した。
「じゃあそのまま原稿進めてね。邪魔者は退散します」
「だから違いますよ」
「はいはい。やぁ、大山くん」
「打ち合わせですか?」
「そう、でももう帰るから」
玄関先で二人のやり取りを聞きながら、なんだかこそばゆいような気持ちだ。
森がそそくさと退散し、代わりに大山が部屋に入って来た。
玄関まで行くのが面倒なり、先日リビングまで入る許可を出したのだ。
大山は相変わらず眩い蛍光黄色の帽子とジャンバーを着て、向日葵のような光を放っている。
「打ち合わせどうでした?」
「ゴーサインでたよ」
「ということは保科朋の新作ですか?」
「そうなるかな」
「やった!」
大山はまるで自分のことのように両腕をあげて万歳をした。どうしておまえが悦ぶんだよ。
「じゃあ食事面は俺がサポートします!」
「おまえも大学に声優と忙しいだろ」
「フードデリバリーを今月いっぱいで辞めるつもりなので、そしたら時間に融通が効きますよ」
「……辞めるのか」
「これも出世したということになるんですかね。結構好きだったんですけど」
大山は名残惜しそうに笑った。コミュニケーション能力が高い大山は、行く先々で色んな人と話すのが楽しいだろう。
「でも、もうそんな理由なくても会ってくれるんですか?」
一歩、大山は朋に近づいた。まるで朋の心を試すように慎重な足音にとくりと胸が鳴る。
大山の手が伸びてきて、左耳に触れられた。指の腹が耳殻を辿り、くすぐったくて身を捩る。
亜麻色の瞳に自分の顔が映った。きっと赤い顔をしているのだろう。どんどん体温が上がっていく。
朋は視線を左右に振ったあと、諦めてフローリングを睨みつけた。
「……勝手にしろ」
「はい。勝手にします」
きゅっと耳朶をつねられて、「ん」と声が漏れてしまった。
はっとして口を押えると大山は目を点にさせている。
「い、いいいいまのは忘れろ!」
「無理です。録音しました」
「はぁ!?」
いつのまにスマホを持っていたんだと腕を突っぱねると、大山は自分の胸に手を置いた。
「もう俺の中に録音したので消せません。今日からオカズにしますね」
「ばっかじゃねぇの!!」
きんと補聴器が響くほどの怒声なんて久しぶりだ。喉奥がヒリヒリする。
肩をいからせていると大山は新しい玩具を見つけた子どものように笑った。
「耳、弱いんですね」
「知らねぇ、もう触るな!!」
自室に入り、鍵を閉めた。大山は何度もノックをしていたが全部無視した。
4
胸の痛みを残した朝の目覚めになって三年が過ぎた。
毎晩夢に洸平が出て、楽しかった時間を繰り返し流され、毒のように朋の身体を蝕む。
更新されない思い出をテープが擦りきれるまで何度も流され、痛みに叩き起こされるのだ。
瞼を開けた朋の目の前には見慣れた天井が映った。視線を横に映すとタンスや照明、仕事用のデスクがあの頃のまま存在している。
なのに胸に引っかかりがあった。
愛するものに溢れる城は朋を守ってくれる要塞となっていた、はずなのに。
腕を伸ばして隣に触れる。冷たいシーツは朋が一人だと示していた。
そのことに少しほっとしてしまう。
「あいつは……起きたかな」
洸平の愛が詰まった部屋で、最初に思い浮かべるのは大山の顔だ。
はにかんだ顔とよく通る声は、朋を心地よい温もりで包んでくれる。傷ついて血だらけの心は癒しを求め始めていた。
そのことが怖い。
ポケットに入ったままのスマホが震えた。メッセージアプリを立ち上げると、いままさに思い描いていた人物だ。
《おはよう。今日は朝から収録。終わったら行くね》
道中に出会っただろう野良ねこの写真付きでふっと笑った。撫でようとしたのか大山の手が映っている。だが警戒されていて、シャーと威嚇されている瞬間だった。
「莫迦だな」
甘いニュアンスが鼓膜を震わせてしまった。これはやばい。思ったよりも重症なのかもしれない。
もう一度画面に視線を落としても、やっぱり笑ってしまうのだ。
出版社からの段ボールが家に届いた。朋が中身を確認するとファンレターやお菓子などのプレゼントがぎゅうぎゅうに詰まっている。
細々と活動できているのは、こうして支えてくれているファンのお陰である。
異物が入っていないか、アンチや殺人予告は書かれていないか、と出版社が前もって中身を検閲してあるので封は切られている。
だいたい固定のファンが手紙を書いてくれ、見慣れた名前に心がやさしく包まれる。
もらったファンレターを一枚ずつ丁寧に読み、お菓子の缶にしまった。そろそろいっぱいになってしまうので、新しい缶を用意しないと。
棚にしまっていると大山からのメッセージがきた。
《駅につきました》
律儀だなとメッセージを返す。
《仕事してるから勝手に入れ》
《不用心ですよ》
確かに、と思ったが大山以外誰も訪ねてくる予定はない。
朋は仕事部屋に向かい、パソコンを立ち上げた。
頭の中でキャラクターたちを動かし、会話をさせていく。まるでカメラマンになったような気分で朋の脳内では目まぐるしく情景が流れる。
置いていかれないようにキーボードを叩いた。そのたびに、自分の命の欠片が一つずつ失っていくような疲労感が指先から伝わってくる。
それでも止められない。止めたくない。
しばらく没頭していると美味しそうな匂いが鼻をついた。
ちょうど一区切りしたこともあり、朋は一度背伸びをしてからリビングへ向かった。
言われた通りインターホンを鳴らさずに入ってきたのだろう。キッチンで料理をしている大山の後ろ姿があった。持ち込んだオレンジ色のエプロンまでしている。
じっと観察していると、大山は鍋の中を覗いたり、手早く包丁で野菜を切っていた。
その姿が洸平と重なる。
洸平は料理担当だった。朋の味覚はほとんど洸平でできている。
でも自分の舌に大山の料理はよく合うのだ。
時折、真剣な横顔がちらりと覗く。まるで小さじ一つでも間違えてはいけない宮廷料理人のように切羽詰まったものに見える。
けれど口元はにっと笑っていた。なにか思い出したのだろうか。
大山は一人でも楽しそうだ。
洸平の残滓が残る部屋で、違う男が台所に立っている。それは聖域を犯す悪魔だと洸平は思うのだろうか。
ふと大山の動きが止まる。肩越しで振り返った彼はくしゃっと笑った。
「気づいたんなら声かけてくださいよ」
「別にいいだろ」
「俺の料理姿に見惚れた?」
「はいはい、飯にしてくれ」
「つれないな~」
文句を言いながらも大山は出来上がった料理をテーブルに並べてくれた。
鮭の塩焼き、きゅうりの酢の物、肉じゃがになめこの味噌汁。今夜は和風らしい。くんと鼻を鳴らせると連動するように腹が鳴る。
洸平も作ってくれた料理ばかりだ。それなのになぜか匂いが違う気がする。
この差はなんだろうか。調味料はそう変わらないはずなのに。
朋が首を傾げていると正面に座った大山は身を乗り出した。
「焦げ臭い?」
「いや、作る人が違うと、同じ料理でもなんで匂いが違うんだろうな」
「なんだそのことですか」
大山は割り箸をぱんと割った。
「隠し味は、愛情ですよ」
「まさか毒でもいれてるのか?」
「俺がそんなことするわけないじゃないですか」
「じゃあふざけたこと、言うなよ」
高く鳴り始めた心音には気づかないように箸を手に持った。
「はーい。早く食べないと冷めちゃいますよね」
「……いただきます」
まずは肉じゃ科から手を伸ばした。ほろりと口の中を溶けるじゃがいもが、甘じょっぱくて美味しい。炊きたての白米にも随分慣れてしまった。
一日一食で酒とコーヒーさえあれば事足りたのに、いつしか自分の胃は贅沢を憶えてしまったらしい。
せっつくように空腹を訴えてくる腹のためにご飯をかきこんだ。
そんな朋を嬉しそうに大山が見ている。
「だいぶ顔色がよくなってきましたね」
「そうか?」
「俺のお陰ですね。感謝してください」
「はいはい」
口ではそういいながらも大山のお節介に救われていた。バランスのいい食事のお陰か後遺症の眩暈がここのところきていない。
でもそれを認めてしまえば、大山の好意も受け取っていると思われてしまう。
まだ朋の心は大山を受け入れる準備ができていない。
大山は鮭の骨を丁寧に取り除き、身の部分だけの皿を朋に渡した。それをなんとなしに受け取ると大山はにっと白い歯を覗かせた。
「俺が作ったご飯を二人で食べる……なんか家族っぽいですね」
「そうか?」
「こういう日常がずっと続いて欲しいです」
大山は自分で作ったくせに「美味しい」と笑みをこぼした。その裏表のない表情に心臓がらしくない音をたてる。
こうして大山と食卓を囲う未来を容易く想像できてしまった。
でもそれは洸平への裏切りになる。
それは果たしていいことなのか。
その日の食事がなかなか喉を通らず、飲み込むのに苦労した。
作ったストーリーを壊して、道を新たに作り直す推敲は集中力が求められる。
朋は器用な作家ではない分、かなり遠回りをしながら作品と向き合っていた。そのせいで作業が大幅に遅れてしまい、納期の期限が過ぎてしまっている。
時間はない。けれど妥協はしたくない。
焦燥感が背中に引っ付いているのを感じているが、指はキーボードの上に乗ったまま三十分が過ぎている。
脳内では物語がいまもなお動き続けていた。
けれどなぜか筆が乗らない。
穏やかな森もさすがに焦っており、目覚ましのスヌーズ機能のように何度も着信がきているが、全部無視している。
(あと一歩、なにかが足りない)
朋は再びパソコン画面を睨みつけたが、やはり指は動きそうもなかった。
そのまま地蔵のように固まっていると、デスクに置いた電子時計が点滅し始めた。どうやら時間がきたらしい。
朋はラジオ番組のアプリを立ち上げた。
主役が決まった大山は、その作品のラジオパーソナリティに選ばれ、毎週金曜日の夜九時に生放送番組に出演している。
アーカイブも配信されるが、リアルタイムで聞きたい。
時報が鳴ると流れていた音楽が小さくなっていく。
『みなさん、こんばんは。「転生した中年の俺が勇者になって美少女に囲まれますが、そんなことよりパチンコがしたいです」通称「俺パチ」パーソナリティの出雲モカです。みなさんに残念なお知らせです。今日は大 山くん、体調不良でお休みなので私一人で進行します』
「え」
女性のあまったらしい声にそぐわない言葉にひやりと背筋が冷えた。
大山は毎日食事を作り来てくれていたが、金曜日はラジオの生放送があるから昼に弁当を作って持って来てくれていた。
(変わった様子はなかったよな)
顔色もいつも通りだった気がする。だが締め切りに追われ、ちゃんと大山の顔を見ていないので自信がない。
なにを話して、どういう反応が返ってきただろうか。
大山が来るのが日常風景になってしまい、その一つ一つを雑に扱ってしまっていた。
背中を弱火でジリジリと焼かれるような焦燥感に、朋はごくりと唾を飲み込んだ。
すぐにラジオを切り、メッセージアプリを立ち上げる。
《体調不良ってどういうこと》
送ってからこれでは責めているみたいではないかと後悔した。
風邪だろうか。それとも途中で事故に遭ったのだろうか。
じっと画面を見つめていたが、一向に既読がつかない。仕事のとき以外はすぐに既読がつくはずなのに。
心臓が嫌な鳴り方をする。この気配には憶えがあった。
洸平が仕事先で倒れたと連絡をもらったときの、突然綱渡りをさせられたような不安感と一緒だ。
居てもたってもいられず、スマホをポケットに突っ込み外に飛び出した。
花見の帰りに大山の家に寄ったので場所は把握している。タクシーを呼んで、大山の家へと向かった。
車内で流れる交通情報のラジオに耳をすませたいのに、こういうときに限って運転手が雑談を持ちかけてくるので聞こえない。静かにしてください、と言うとあからさまに運転が荒くなった。
どうにか目的で降りると夏の気配が濃いじっとりとした熱風が全身にまとわりつく。少し歩いただけでじんわりと汗が浮かんだ。
暗闇の中で見るボロアパートがお化け屋敷のような怖さがある。
朋はブロック塀に寄りかかり、再びメッセージアプリを立ち上げた。まだ既読はついていない。
(メッセージに気がつかないほど具合いが悪いのか。それとも )
最悪な事態が頭を過り、追い出すように頭を振った。いまは考えても仕方がない。
「じゃ……な、よ」
甲高い女の声が聞こえて、顔を上げた。アパートの一室から出たらしい女が誰かに声をかけているようだ。
「いい……ね……さい」
小さくてよく聞こえない。朋はブロック塀から身を乗り出した。
女は二階の角部屋の前に立って誰かと話している。髪が長いスレンダーな女だ。
ドアノブを押したまま女の言うことを赤べこのように頷く男が見える。
よく目を凝らすとおでこに冷却シートを貼った大山だ。
話終わると女は大山に手を振り、慣れた様子で部屋の鍵を閉めて階段を降りてきた。
カンカンとヒールの音が嫌でも響く。
女はそのまま朋の前を通り過ぎ、駅の方へと向かって行った。
(あそこは大山の部屋だよな。てことはあの女は……彼女か)
彼女がいてもおかしくない。声優として脂がのってきた大山に誘いの声は多いだろう。
女がいなくなった道には花のような甘ったるい香水が残っている。体調の悪い大山を心配して見舞いに来たのだろう。
ふっと足の力が抜けてその場に座り込んだ。
大山に食事の世話をさせ、愛想のない朋でも忠犬の如く懐いてくれていた。大山は自分のことが好きなのだとその好意の上に胡坐をかいて、いい気になっていた。
洸平が忘れられないから、と自分で線を引き、それ以上踏み込まないようにさせていたくせに。与えられるやさしさを享受して自分だけ気持ちよくなっていたのだ。
(俺って最低な男じゃん)
大山の好意に気づきながら見ないふりをして利用している。
洸平を忘れることは自分の存在そのものを否定するような気がして怖い。彼の存在は自分の手足と同じ、身体の一部になっている。いまさら手足をもぎ取れないように、替えのパーツに代えられない。
過去と未来の両方から手を引かれ、朋は途方に暮れている。
どちらを選んでも後悔するだろうし、どちらを選ばなくても後悔するだろう。
ならどっちの地獄に落ちるべきなのか。そんな答えはとうに自分の中にある。ただ認める強さがないのだ。
「なにやってんですか?」
水面に浮いた花びらをすくうような声に朋は顔を上げた。
「大山……」
「ちらっと朋さんが見えた気がして。ごっほ……こっちに仕事?」
マスクをした大山は街灯の僅かな明かりでも顔色が悪い。それでもへらっと力の抜けた笑顔を向けてくれた。
そのやさしさにどれだけ救われただろうか。
じんわりと涙が込みあげる気配を感じ、朋は奥歯を噛んで追いやった。
「具合い悪いのに出歩いていいのかよ」
「なんで知って……あ、ラジオ聞いてくれたんですか。ありがとうございます」
「そんなのはどうでもいい。体調は?」
「熱と咳ですね」
「……昼から調子悪かったのか?」
「いや、夕方になってガクンときちゃって。仕事一本飛んじゃいましたよ。さっきもマネさんに怒られちゃったし」
「マネージャーって女の人?」
「あ、見ました? 元モデル出身らしくて美人なんですけど、香水がちょっとキツイんですよね」
秘密ですよ、といつも通りな大山に胸がざわざわして落ち着かない。
なにか話していないの感情のダムが決壊してしまいそうだ。
「病院は行ったのか?」
「いや、そこまで酷いわけでもないし」
「ちゃんと診てもらえ」
「平気ですよ」
「だめだ。ちゃんと診てもらえ」
洸平は体調が悪くても無理して仕事を続けていた。そのせいで病気の発見が遅れ、亡くなってしまったのだ。
(もうあんな喪失感は味わいたくない)
大山のシャツをぎゅっと握った。この体温が氷のように冷たくなってしまうことを知っている。魂の入っていないただの入れ物になるのだ。
シャツを握る手を大山がやんわりと包んでくれた。驚くほど熱い。
「わかりました。明日の朝一に病院行きます」
「付き添う」
「これくらい平気ですよ。てか締め切り過ぎてるんじゃないですか。こんなところで油売ってていいんですか」
「……よくないけど」
「結果がわかったらちゃんと連絡します」
「うん」
不安は拭えないけれど、病院に行ってくれるなら一先ず安心だろう。
「てか悪い。熱あるのに外にいるのは辛いよな。部屋まで送る」
「平気ですよ。でももう少し一緒にいたいから送ってもらおうかな」
当然のように手を握られて驚いた。
隙間がないほどぎゅっと手を握られる。でも嫌じゃない。
朋が抵抗しないでいると大山はさらに力を込めてくる。朋の心を繋ぎとめようと縋っているみたいだ。
「家まで送ってあげられないけど、気をつけて帰ってくださいね」
「タクシー呼ぶから平気だ」
「着いたら連絡ください」
「おまえもな。結果、絶対報告しろよ」
「はい。じゃあおやすみなさい」
「ん。またな」
朋が扉を閉めようとすると隙間からにゅっと腕が伸びてきた。シャツを掴まれ、身体が前につんのめる。
「おい、なにすんだよ!」
「……心配してくれて嬉しかった。おやすみなさい」
そう小さく零すと大山はようやく扉を閉めた。
施錠したのを確認してから朋は歩き出す。
掴まれたシャツは変な皺がついていた。
5
「これ、見てください!」
「近くて見えねぇよ」
「あ、すいません。つい興奮しちゃって」
大山は恥ずかしそうに頭の後ろを掻いてから距離を取ってくれた。ようやく目の前の物体が台本だとわかる。
「おまえのとこにもきたのか」
「はい」
差し出された台本の表紙には「24時間恋物語」の文字が書かれていた。
一年ほど前、ブックインフルエンサーが「24時間恋物語」を紹介してくれ、またたくまに再ブームが起きた。そして偶然にもテレビで映画が放送され、一気に話題の中心になっている。
あれよあれよという間に、アニメ映画を制作する運びになったのだ。
そのオーディションの話が大山のところにもきたらしい。
「俺、絶対受かりたいんです」
大山の真剣な表情にふっと笑ってしまった。
(こいつの熱意はすごいよな)
大山がパーソナリティを務めていた「俺パチ」は昨年の覇権アニメと呼ばれ、声優アカデミー賞で最優秀作品に選ばれた。そして新人賞に大山が選ばれ、いまや誰もが知る有名人になっている。
それでも大山は人気に鼻をかけることなく、ひたすら演技を磨いていた。
触発されるように朋も作品を生みだしている。
切磋琢磨し合う関係は友人という立場に落ち着き、一年が経過していた。
自分好みの環境は心地よい。大山との関係はこれがベストなのだろう。
付き合ったらいずれ別れがくる。けれど友人という枠組みが壊れる可能性は低い。
それに自分有利な予防線を貼っておけるから、いざというときの心の準備ができる。
(いつの間にかこんな小賢しい男になっちゃったもんだな)
朋は苦笑を漏らしそうになり、仕事部屋から台本を持って来てテーブルに置いた。
「そのオーディション、俺も原作者として立ち会うことになってるんだ」
「ますますやる気になってきました」
こぶしをぎゅっと作る大山の背後には燃え上がる炎が見える。
コーヒーがなくなり、キッチンに立つとすかさず大山があとをついてきた。
なにをするわけでもないのだが、朋がコーヒー淹れる姿を見るのが好きらしい。
ちらりと隣に視線を向けると大山はじっとこちらを見ていた。その視線の鋭さにたじろいてしまい、手元が狂いお湯が指にかかった。
「あっつ!」
「早く冷やしてください!」
「これくらい放っておいても平気だろ」
「俺にはすぐ病院行けという癖に、朋さんは自分のこと適当すぎます。ほら、袖まくってあげるから」
大山にシャツの袖をまくってもらい、シンクの蛇口を捻ると冷たい水が流れた。湯がかかった人差し指はわずかに赤いが、その程度で水膨れにもなっていない。
「てかこの状況はなんだよ」
「介護です」
「……意味わからん」
後ろから抱きしめられる形にされ、背中に大山の胸が当たる。耳のすぐ上に温かい吐息がかかり、朋の心臓はどくりと脈打った。
たまにこうした大山との触れ合いは落ち着かなくさせられる。友人という心地よい枠組みから一脱していないか。自分はちゃんと取り繕えているだろうか。
ざわざわと神経の裏側を舐められているような気持ちに、体温が勝手に上がってしまう。
「そんな怖がらなくてもなにもしませんよ」
「なにもって」
「ねぇ、もうずっと俺の気持ちに気づいてますよね?」
確信に触れてこようとする大山に驚いた。いまはまだこの関係のままでいたい。
でも振り返ることも反論することもできず、朋はただじっと流れる水をみつめていた。
「オーディション見てて。俺、頑張るから」
「仕事だからおまえだけを特別にはできない」
「わかってる。でも絶対驚かせます」
「すげえ自信だな」
蛇口を捻った大山はきゅっと口角を上げた。
オーディションの日。
森と一緒に来た撮影スタジオには総監督や音響監督、広報、それからオーディションを受ける声優たちで溢れていた。
収録ブースを見れるようにガラスで隔てられた控室があり、朋はそこでオーディションの様子を見学することになっている。
「こ……は、監督……です」
アニメ制作会社のお偉いさんが続々と朋のところにやって来る。森がサポートしてくれるのでどうにかなっていたが、やはり人が多いところは聞こえづらい。
でもアニメ化のお陰で本は増刷され、小説家を廃業しないので済んだのだ。できるだけ愛想よく振りまき、森の言葉にうんうん頷いていた。
収録ブースでは「24時間恋物語」の登場人物の年齢に近い子たちが多い。
事情を知らなければ大学の集まりのようにも見えた。
だが台本を読んでいる表情は、真剣そのものだ。
輪の中に一際目立つ大山の姿が見えた。背筋は凛と伸び、視線は台本に向けられている。もう何度も読んでいるのか台本の端は折れ、セロハンテープで補強していた。
朋が控室にいるのは知っているはずなのに、大山は一度もこちらに視線を向けない。甘えない、という強い意志があるのだろう。
時間通りにオーディションが始まった。一人ずつマイクの前に立って演技を見られるので、朋でも聞き取りやすい。
オーディションが始まると部屋のすみずみまでに緊張感が広がっていくようで、手のひらに汗が浮かんだ。
最初に黒いシャツの男がマイクの前に立った。
『違う。そうじゃないよ!』
「そこもっとニュアンス弱くして。やさしく」
『違う。そうじゃないよ!』
「続けて」
音響監督の指示に従いながら男は演技を直す。監督の指示通り、声のニュアンスがわずかに変わる。
一回喋ったら終わり、というわけではないらしい。
音響監督の指示通りに演技ができるか、それも見ているのだと森は教えてくれた。
人によって声が違うように、いろんな伊勢を見られた。
大雑把な伊勢、繊細な伊勢、大らかな伊勢。
自分が書いた印象とは少し違った伊勢という姿に、これだけ人の解釈はあるのかと驚いた。
洸平は朋が描いていた通り完璧に演じてくれていた。暗くて、ちょっと卑屈な伊勢を洸平が丁寧に演じ切り、それが朋のイメージとピタリとはまっている。
だがいろんな声を聞いて、これもいいな、こういう解釈もあるのかとわくわくした。
『ワンプロダクションの大山陽太です。お願いします』
ブースに立った大山に注目が集まる。朋もじっと耳を澄ませた。
『違う。そうじゃないよ!』
ぱっとその情景が浮かぶ。一日で記憶がなくなってしまう花菱が伊勢を突っぱねるシーンだ。
何度記憶がなくなっても花菱は伊勢を好きになる。でもそれでは伊勢を縛りつけるのと同じだと気づき、花菱は彼から逃げようとする。
それを伊勢が止めているのだ。
『俺はね、何度だって言うよ。花菱が好きだ』
大山の声に風が吹きつけるような錯覚を覚えた。
ここは別れのシーンだ。二人の運命は交わらないのだと誰もが絶望する。
でも大山は違う。心から好きだと叫び、二人の間に繋がれた細い糸をどうにか手繰り寄せようとしている。
まさに命をかけた告白に朋の鼓膜は震えた。
だが当然演技は止められ、音響監督からリテイクを要求された。
「そこはちょっと切なくして」
『できません』
だが大山は首を振って固辞した。
新人がそんなことするのは許されないのだろう。監督やスタッフ、オーディションを受けに来た子たちが騒然としている。
音響監督は眉間に皺を寄せ、声に棘を忍ばせた。
「理由は?」
『好きな気持ちに悲しさは必要ありません。好きはいつだって幸せにしてくれる』
大山の言葉に朋の目尻に涙が浮かんだ。
そうだな。そうだよ。好きな気持ちはいつだって人を幸せにしてくれる。
例えその先に永遠の別れがあろうと、一度宝箱に入れた気持ちは何年経っても色褪せない。
伊勢の気持ちを大山は的確に見抜いてくれたのだ。
音響監督は一度唸り、朋の方に振り返った。
「先生はどう思いますか?」
「はい。彼の解釈は間違っていません」
「わかりました。じゃあそのまま続けて」
『はい!』
大山の演技を聞きながら朋はこぶしを握って耐えた。
「ではオーディション合格を祝って乾杯!」
「かんぱーい!」
缶ビールをこんと合わせると大山と森は一気に煽り、ぷはっと気持ちよさそうな笑顔を浮かべた。
伊勢役を射止めた大山のために、朋の自宅で森戸三人で祝賀会をしている。
朋はちびちびとビールを舐め、骨付きチキンにかぶりつく森を睨みつけた。
「なんで俺の家でやるんすか」
「だって居酒屋だと保科くん、聞こえないでしょ? ここは広いし、静かだし」
「後片付けするこっちの身になってください」
「いいじゃん。減るもんじゃないし」
森はビールっ腹が似合う中年のくせに、一昔前のアイドルみたいなアヒル口をさせた。気持ち悪い。
その様子を見て大山はがははっと豪快に笑った。
それに不満はまだまだある。
「てかこいつの祝いの席なのに、なんで作らせてるんですか」
「だって総菜より大山くんの料理の方が美味しいし」
「ありがとうございます!」
「おまえ、それでいいのかよ」
「料理は好きなので」
余裕そうな笑みの大山にどぎまぎしてしまった。一皮剥けた大山は日に日に大人びていく。
酒好きな森は缶ビールだけでなく、ワインやウイスキーをどんどんと開けてしまう。弱いくせによく飲むのだ。
案の定、森はすぐに潰れてしまいスライムのようにフローリングの上で寝てしまった。
いつものことなので朋は手早くタクシーを手配していると大山が森の肩を叩いた。
「森さん、タクシー来るから帰りますよ」
「ん……まだ、飲める」
「無理ですよ。ほら行きますよ」
ふくよかな森を軽々と背負った大山はタイミングよく来たタクシーに押し込んだ。運転手には森の住所を伝え、彼の鞄も一緒に放り投げる。
森の奥さんに連絡をすると、「わかりました」とだけ返ってきた。余程ご立腹なのだろう。森は出版社主催のパーティーでも潰れてしまい、よく奥さんに怒られるらしい。
朋は心の中で合掌して、タクシーのテールランプを見届けた。
日付が変わろうとしている。森も帰ったことだし、お開きにしてもいいだろう。
「おまえも帰るだろ?」
「後片付けしますよ。一人じゃ大変でしょ?」
「別にいいよ」
「させてください」
大山の小指が朋の指に絡まる。まるで蔓草のような触れ合いでも心臓は早鐘を打ち始めた。
部屋に戻るとアルコールの匂いに二人で顔を顰めた。一度外の空気を吸ったから、嗅覚が戻ってきたらしい。
朋が窓を開けて換気をすると秋の涼しい風が入ってくる。
大通りの車の音や終電の音が遠慮がちに聞こえる。見慣れた街がどこかよそよそしい。
窓枠に手をついて大山が身を乗り出した。
「なにか面白いものありましたか?」
「いつもここで洸平と晩酌してた」
初めて口にした名前に大山が構えたのがわかった。
洸平の写真は棚の上にずっと飾られている。大山が来ても片付けようとは思わなかった。
一人にしては広い部屋と二人分の食器を見て、大山は朋と洸平が恋人だったと気づいているだろう。
でも大山は一度も尋ねてこなかった。
遠くのスカイツリーを見て、洸平は「ソフトクリームみたいだね」と笑っていたことを思い出す。
その横顔が好きだな、と思った。
でもいまは大山になっている。
「ずっと好きだ。いまも好きだ。たぶん洸平とのことは一生消えない」
どれだけ季節が移ろっても洸平への想いが薄らいでいくことはなかった。それだけ全力で愛し、愛されてきた重みが朋の一部になっている。
だから、自分だけ時計が進むことの劣等感はずっとなくならない。
「そんな俺の中に新しい伊吹が芽生えたんだ……おまえだよ」
じっと見上げると大山は睫毛の際が見えるほど目を開いた。
「おまえの伊勢を見て気づいた。失ってしまった好きでも、俺はずっと幸せだったんだよ」
――好きはいつだって幸せを運んできてくれる
大山の言葉が心の一番柔らかいところに刺さった。
洸平がいない毎日は辛かった。彼との思い出が残る部屋に必死に縋っていた。
でも大山が新しい風を吹かせてくれ、固まったままの砂時計を動かしてくれたのだ。
好きなままでいいと背中を押してくれた。
朋は大山を正面からみつめた。
「気づかせてくれてありがとう。大山が好きだ」
きんと耳の奥で鼓膜が震える。もう二度と洸平の声を思い出せないけれど、新しく聞き続けたい人ができた。
大山はいまにでも泣き出しそうにくしゃりと笑っている。
「俺も朋さんが大好きです」
腕が伸びてきて、迷わず大山の胸に飛び込んだ。がっしりとした体躯に受け止められるとその力強さにほっとしてしまう。
めいいっぱい大山の匂いを嗅いだ。陽だまりのようにやさしい匂いに、心が解れていく。洸平という名の鳥籠に籠もっていた自分に春がきたのだ。
大山に顎を掴まれて上を向かせられる。吸い込まれそうな亜麻色の瞳に魅入られ、首を伸ばした。
唇同士が軽く触れる。柔らかくて甘い。すぐに離れてもまた欲しくなる。
大山の唇を追いかけるようにさらに背筋を伸ばすと意図を察して腰を曲げてくれた。
食べられるようなキスは大山の幼さを表していて可愛い。全身で枇呂を求めてくれている。
舌を差し出すと堪らないといった様子で絡まってきた。いやらしい水音をたてさせながらキスに没頭する。
顎に添えられた手がするすると降りていく。耳殻を撫でられただけでぞくりと背筋が震えた。
弾かれたように顔を上げると大山の濡れた唇がきゅっとしている。
「ベッド行きます? それともここで?」
「……寝室がいい」
「ですね」
手を繋がれて寝室へと向かった。ダブルベットと本棚しかない簡素な部屋だ。
いざ目の前にするといかにもヤるぞという雰囲気にはっと我に返る。
「なぁやっぱり 」
何度目かのキスをされて、ベッドに押し倒された。ぎしりと不満を訴えるようにスプリングが鳴る。大山のはっはっと犬みたいな荒い呼吸だけが聞こえた。
服を性急に脱がされて、あっという間に裸にさせられた。大山も荒っぽく服を脱ぎ捨てる。朋の上にのしかかるとその瞳が飢えに喘いでいる肉食獣に見えた。
「すいません、やさしくできません」
「なんだよその宣告」
「無理。だってもう……理性がもたない」
大山は白い歯を覗かせて朋の首を噛んだ。ぴりっとした痛みに捕食される動物ってこんな気持ちなのかと思った。
朋は大山の背中に腕を回して、最初より強く噛ませた。首、肩、二の腕にあますところなく大山の歯型がつく。噛まれた箇所はじくじくと熱を孕んでいる。
乳首に到達した大山はまた大きく口を開いた。嚙みちぎられるのかと背筋が震えたが、長い舌が顔を出しそのままぐるりと輪郭を舐められる。
「はぁ……んん」
性感帯を舐められると快楽が腰に響いた。吸ったり舐めたりを繰り返されると、先端が尖ってしまう。ぴんと張りつめた乳首を見て、大山はうっとりと目尻を下げた。
「気持ちいいですか?」
「見りゃわかるだろ」
「そうですね。ふふっ」
大山は新しいおもちゃをみつけたとばかりに何度も乳首に吸いついた。たまに甘噛みをされると背中が大きくしなる。
乳首が腫れ、乳輪が肥大しているような感覚になった。「もうやめろ」と髪を引っ張ると代わりにと言わんばかりに性器を一飲みされてしまう。
「あぁ! あっあ、んぅ」
舌の先を鈴口の中に入れられ、溢れる先走りを啜られた。じゅっじゅといやらしい音をたて、鼓膜までも犯そうとしてくる。
腰ががくがくと震えてしまう。射精感が一気に駆け上り、あっという間に果ててしまった。
「あっあ――」
意識が一瞬飛ぶ。無意識に腰を揺すり最後の一滴まで大山の咥内に射精した。彼は一切の戸惑いも見せずに受け入れてくれる。
性器から口が離れると大山は自分の手のひらに精液を吐き出した。それを指に丹念に広げ、朋の蕾を撫でつける。
硬く閉ざされたそこを大山の指先が入ってくる。中に精液を塗り込め、滑りをよくしながらどんどん奥へと進入してきた。
「はぁ、は……ふっ」
息を吐きながらなんとか指一本を受け入れる。すぐに二本目、三本目と遠慮なくはいってきて、痛みと圧迫感で涙が目尻を伝った。
大山の瞳は鋭さを増している。荒い呼吸も熱いくらいの体温も全身で朋を欲してくれている。
朋は自分の手で双丘を広げた。
「もう、いい……から。挿入れろ」
「っ……どうなっても知りませんよ」
腰を掴まれると一気に挿入された。肉壁を無理やりこじ開けられ、大山の性器に最奥まで貫かれる。
ひゅっと呼吸を止めてしまうとまたがんと突かれた。それを何度か繰り返されると身体が順応していく。
力を抜き、大山の性器を受け入れた。
「あ、大山っ……ああ、あっ!」
「気持ちいい。朋さん……やばい」
大山が自分の上で一心不乱に腰を振っている。発情した犬のように無我夢中な様は狂暴なのにどこか愛くるしい。
自分の快楽だけを求めている姿にありもしない母性が溢れるようだ。もっと気持ちよくしたい、と朋もぎこちなく腰を揺らした。
結合部分が激しい水音を立てる。塗り込められた朋の精液が泡立っているかもしれない。
性器が一際大きくなり、中に熱いものが注がれた。それでも大山は律動を止めようとはせず、どんどん結合を深くさせていく。
「はっ……おまえ、どんだけ……んん!」
文句の一つでも言おうものなら肩を強く噛まれた。その痛みで朋も達してしまった。
「まだ……まだ足りない」
(俺、死ぬんじゃないか)
獰猛な野獣の性欲は終わりがないらしい。律動は激しさを増し、朋は振り落とされないように大山の背中に爪を立てた。
「久しぶり」
一年ぶりの墓石を前にこんな穏やかな気持ちでいられたのは初めてだ。
墓石にはファンからの花や手紙が供えてあった。見慣れた差出人の名前に今年もまた会えたな、とそっと撫でる。
「掃除するかと思って張り切ってきたのにきれいですね」
「向こうの事務所とか親とかがマメに来てくれてるみたいだから」
「そうですか。じゃあお花の水だけ変えましょうか」
手桶とひしゃくを持って大山は水道へと行ってしまった。たぶん気を使ってくれたのだろう。
朋はその場でしゃがんで手を合わせた。
「好きな人ができた。そいつと生きていこうと思う」
さぁと冬の風が吹く。日差しがやさしく朋の背中を温めてくれる。
(洸平が死んだ日はとても寒い日だったな)
思い出すたびに胸を締めつけられるような痛みがある。
洸平がいなくなった世界は悲しい。
でもそれを一緒に抱えてくれる人ができた。
「最期まで生きるよ」
未来を見いだせなかった朋はもういない。
手桶の水を零さないようにヨタヨタと大山が戻ってきた。
「水道遠いんですね。探しちゃいました」
「ありがと」
「ん」
大山はふわりと笑ってくれ、花に水をやったあと手を合わせた。
「俺が生涯かけて朋さんを大切にします。どうか見守っててください」
「なんだそれ」
「決意表明ですよ」
「大山らしいな」
朋が笑うと大山はくしゃっと笑った。
白い蝶がどこからかゆらゆらと飛んできて朋の肩に止まった。
洸平の匂いが風に乗ってきたような気がする。
大山に手を握られ、強い力で返した。そのまま背を向けて歩き出すと白い蝶はふわりと浮く。
最後にもう一度振り返る。
蝶が青空に溶け込むように飛んで行った。
