11/07 【ハピエン・メリバ創作BLコンテスト】審査通過作品投票開始!
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2025/11/07 16:00

あらすじ
時は江戸。三月を過ぎても冬の昏さを残すさる藩で、兄家族と暮らしながら道場の師範代を務める橘伊織。ある日、かつての道場仲間で親友の有馬房之介と七年ぶりの再会を果たす。伊織は長年抱いていた有馬への恋心を再認識するが、有馬には既に由乃という許嫁がいた。有馬への恋心を封印し、笑顔で祝いの言葉を述べる伊織。だが有馬と別れ、家路につくと、兄から有馬の婚儀が取りやめになったと聞かされる。そのうえ有馬は明日、独りで江戸に発つと知った伊織は、自らも有馬と共に江戸へ行こうと決意する。だが当の有馬は追いかけてきた伊織を前にして、それを激しく拒絶した。
微禄の武家の三男×部屋住み次男 全てを捨てて恋に生きる男達の物語
※こちらの作品は性描写がございます※
低く垂れ込める分厚い雲の下、梅の花が赤々と冴えていた。
空に向かって伸びた細枝に、満開の花を咲かせている。珍しくここ二、三日おだやかな日が続いていた。梅はその時に咲き急いだのかもしれなかった。
三月を過ぎても冬の昏さを残すこの土地に、梅はささやかな彩(いろどり)を添えていた。
あいにく今日は朝から底冷えがして、今にも雪が降りそうな、寒の戻りをみせていた。そんな中、梅が活き活きと咲き誇る姿が,却って伊織の眼には悲しく映った。寒空のもと、気丈に花を咲かせる姿が、何処となく自身の姿と重なった。
橘伊織(たちばないおり)は木肌に手をついて、足駄(あしだ)にくっついた雪泥を払うと、慎重に歩を進めた。
『坂の上の道場』といわれる柳田道場は、その名の通り急こう配の坂の頂にある。伊織は十二からそこの門弟だった。それから十年。三番目に席次が来る高弟となった今では、師範代にかわって後輩に稽古を付ける日も多くなった。
今日は午后からの稽古だったが、門弟たちの間で谷風邪が流行して、稽古は急遽取り止めになった。伊織はその旨を道場の隣に屋敷を構える道場主—柳田甚左衛門(やなぎだじんざえもん)に聞かされ、来た道をまた戻るところである。
伊織は歩きながら、坂の下に広がる家並を見つめた。
町ぜんたいを厚い雲が覆っていたが、所々白っぽく見えるのは、ひかりの筋のようだった。もう少し天気が持つかな、と伊織は思い、不意に今日は兄が非番だった事を思い出した。
―うむ。まだ時刻も早いから、帰って兄上の畑の手伝いでもしよう
そう思い立った伊織は、少し歩を早めた。いつも骨が折れると兄がいう、畑の土をおこす作業を買って出るつもりでいた。
伊織の八つ上の兄、橘馨織(たちばなかおり)は三十石取りの作事方(さじかた)で、伊織は兄の家の部屋住みだった。坂を下りて西へ十七間ほど行った先の末穂町(まつぼちょう)に組屋敷があり、そこで兄と嫂(あによめ)、今年六つになる兄夫婦の一人娘千絵と四人で暮らしている。
微禄ゆえ生活は厳しく、兄は城勤めの傍ら屋敷の前の畑で野菜を作り食費を浮かせた。
後は僅かな伊織の剣術指南料、嫂の針仕事で、橘の生計はどうにか成り立っている。
伊織は、先を急ぐために懸命に坂を下りた。
しかし足駄で雪をいくら踏みしめても、足は容赦なく雪面を滑った。―根雪で滑るのである。道場ではきびきびと動ける伊織でも、根雪の残る坂を下るのは不得手だった。道場通いを始めた最初の冬は、稽古中より帰り道の怪我の方が多かったほどだ。
―幾つになっても進歩がないな、俺は
伊織が深い息を一つ吐くと、白い靄に変わって直ぐ消えた。
身を斬るような寒さが、いつも見て見ぬ振りをしている心細さを呼び起こす。
かつての親友、有馬房之介(ありまふさのすけ)の不在を強く感じるのはこんな時だ。
『案ずるな、側には俺が付いている。思うように歩け』
低くよく通る声と共に、背中に感じた男の温かみが胸の裡(うち)に蘇る。
有馬は柳田道場の同門で、伊織と同じ微禄の武家の四男だった。同じころ道場へ入門し、ひと時は二人揃って龍虎と呼ばれ、互いに好敵手と意識する中で友情が芽生えていった。
高い上背に、野生獣を思わせるしなやかな体躯。何より端正な顔立ちだった有馬は、何処へ行っても人目を引いた。しかし中身は愛想笑い一つ出来ぬ堅物で、周囲から冷淡だと嫌厭される事も多かった。
けれど伊織は、有馬の無愛想な面差しの内に隠された優しさを知っていた。道場終わりに有馬と帰った三年間。
その間だけは、伊織がこの根雪の坂で転んだことは一度も無かった。
「あ……ッ!」
心の揺らめきと共に、伊織の足駄の前の歯が固雪を滑った。上体が大きく傾き、踏みとどまる間もなく後方へ倒れ込む。だがその刹那、上向いた身体は背後から現れた両の腕(かいな)で強く抱きしめられていた。
身に覚えのある、まるで春の木漏れ日の中に居るようなあたたかさ。
あの頃も転びそうになると、こうやっていつも伊織を支えてくれた。
有馬――……
伊織が弾かれたように振り向くと、つい先ほどまで頭に思い描いていた男の顔が間近にあった。
「相変わらずだな、橘」
白い息を吐きながら、掠れた声で男は言った。
実に、七年ぶりの有馬との再会。
伊織は逸る胸と驚きのあまり、唇を戦慄かせる。
「今日は、急遽稽古が休みになったそうだな。さっき柳田先生に聞いてきた」
「……」
「—……あぁ、もしかして覚えていないか。有馬だ、有馬房之介」
有馬は頭一つ低い伊織を見下ろすと、眩しそうに目を眇めた。
あの頃より顎が削げ、精悍さの増した面差し。
いつも真一文字に結ばれていた口は口角が僅かに上がり、成熟した男の甘さが浮かんだ。
なぜ有馬がここに居る?
有馬はもう、俺の様な軽輩とは縁を切ったのでは無かったのか?
……心に思うことは沢山あった。
しかし、それ以上に名状しがたい熱いものが込み上げてきて、伊織は言葉を失った。
「……ッ」
伊織の青ずんだ白目に膜が張り、それを眼にした有馬がハッとしたように目を瞠る。
互いにみつめ合ったまま押し黙り、二人の間を束の間の静寂が訪れた。
急に周りの音が遠くなる。
まるで絵巻物を後ろから読み解くように、伊織の記憶がゆっくりと蘇る。
『お前には迷惑な話かもしれないが、俺はこの根雪の坂を下るのが好きだった。お前を助ける口実に、存分に抱きしめられるから――』
『えっ…』
『橘、この三年間そんな邪(よこしま)な事ばかり考えていた俺を、お前は軽蔑するか?』
有馬が道場を去る前の日の、最後の稽古の帰りだった。
坂の途中で転びそうになった伊織を、背後から抱きしめながら有馬は言った。
あの時軽口を叩いてはぐらかしてしまった事を、伊織は今日まで幾度となく後悔した。
くり返しあの日の事を思いだしては、胸を熱くしたあと酷く落ち込んで。
そうしながらもあの時はこうする他無かったのだ、と、自分を納得させる日々を重ねた。
その男が——-七年ものあいだ伊織の脳裏に留まり続けていた男が、いま目の前に居る。
伊織を見つめる、どこまでも黒い眸。
揺るがない、まっすぐな眼差し。
容姿は確かに大人びたが、有馬のこの眸の美しさだけはあの頃と寸分も変わっていない。
「なっ、七年前のあの時はッ……!」
伊織が大きく息を吸ったとたん、不意に有馬の着物袷から女の鬢付け油の匂いが鼻を突いた。
引き戻らされる、残酷な現実。
伊織は目を見開いたまま、頭を強く殴られたような衝撃を受ける。
―馬鹿。俺は今更、何を言うつもりだったのだ
伊織は自身を後ろから支える有馬の腕から素早く逃れ、目尻に溜まった涙を振り払う。
「たわけ。この俺がかつての親友の顔を忘れるはずが無かろう。有馬……いや今は佐々木か。七年ぶりの再会がこんな無様な格好で、相すまん」
ぎこちなく伊織がいうと、有馬は眼の前で手を叩かれたように目を瞬かせた。
「――いや、それは別に構わん。……俺を覚えていてくれたのなら、良かった」
だが有馬が狼狽したように見えたのも、ほんの一瞬だった。
もしかして、伊織の見当違いだったのかもしれない。
気つけば凪いだ顔つきに戻っていた有馬は、伊織を見て微かに笑った。
そんな大人びたように笑う有馬を見て、伊織は急激に胸がしめつけられる。まるで知らない男と話しているようだった。
「そう言えば聞いたぞ。……おめでとう。この春やっと、佐々木様の娘御(むすめご)と祝言を上げるそうだな」
伊織は自身の袴を握りしめながら、これまでの自分だったら絶対に言えなかった言葉を口にした。
自分はいま有馬から見て、上手く笑えているだろうか?
小刻みに震える伊織の肩に、赤い梅の花弁が一枚ひらりと舞い降りた。
有馬房之介が御勘定下役で三十五石取りの有馬家から、同じ家中で代々供頭を務める三百石の佐々木家へ養子入りしたのは、房之介が十五の春だった。
事の始まりは、有馬が佐々木の一人娘由乃(よしの)を拐(かどわ)かしから守ったからである。
父の使いでご城下近くへ赴いた際、有馬は悪漢に追われる由乃に出くわし、その者達を一掃した。そこで有馬を見初めた由乃の父佐々木主膳(ささきしゅぜん)が、自ら有馬家へ赴き、養子縁組を申し出たのだ。
この名誉ある破格の縁組を有馬の父幸之介(こうのすけ)は、一も二も無く承諾した。
有馬家は貧乏子沢山だったので、口減らしの意味もあったのかもしれない。
縁組がある程度ととのうと、佐々木が房之介に対して提示した、『有馬家及び、百石以下の軽輩との付き合いを今後一切認めない』という条件までも飲み、それ以降房之介は親子の縁も伊織たち朋輩との縁も全て絶っていた。
***
どうにか坂を一人で降りた伊織は、やっと有馬の隣を歩けることに少しだけ安堵した。だがまだ油断はならない。根雪は凍った地面が雪で覆われているため、気を抜けばさっきの坂道のように難なく転んでしまう。
伊織は後ろを歩く有馬へ二度と倒れないように、注意して歩いた。
有馬はもうすぐ、嫁を娶るのだ。
その現実が、おぼつかない伊織の身体と心を律した。
娶るのはもちろん佐々木の一人娘由乃で、有馬は佐々木家の跡目を継ぐべく養子入りしたと言っても過言ではない。
「聞いたぞ。由乃さまは、随分綺麗になったそうじゃないか。全く羨ましい限りだ」
当時有馬が佐々木へ養子に入った際、由乃はまだ十歳だった。ゆえに二人の祝言は由乃が年頃になるまで引き延ばされていて、この春やっと執り行われるのだと聞いている。
やっと歩くのに慣れて有馬と肩を並べた伊織は、俗っぽく有馬の肩を強く押した。
有馬に許嫁の話を振ることで、自分が更に傷つくことは分かっている。
だが伊織はこの時、自分で自分を懲らしめてやりたい衝動に駆られていた。直接有馬から許嫁の話を聞く事で、自身の邪な心にとどめを刺してやりたくなったのだ。伊織は先ほど有馬との出会いがしらに、妙な事を口走りそうになった自分をひどく恥じていた。
だが有馬はというと、密かに身構える伊織をよそにあからさまに目を逸らす。
「ずいぶん俺の内情に詳しいな。もしや、城勤めの兄御からの受け売りか」
急に兄の話になったので不思議に思わなくもなかったが、伊織はそのまま素直にうなずいた。
「俺の兄上は、城務めという名の閑職だからな。みな愚痴と噂話をするのが主な仕事なのだそうだ」
伊織が兄に聞いたままそう答えると、有馬は口元を掌で覆って笑いを噛み殺した。
「なるほど。兄御らしい物の言いようだ。変わらんなぁ」
「ああ、昔と何ら変わっとらん。相変わらず、よく掴めぬ兄上だ」
なんとなく話をはぐらかされた様な気もしたが。呑気な兄の面差しを思い浮かべた伊織と有馬は、顔を見合わせフッと笑った。
橘の家は確かに貧しかったが、そのつましい生活を物ともしない兄のお陰で、皆おおらかで仲睦まじい。
そして有馬は、そんなどこか肩の力が抜けた伊織の兄を、昔からとても慕っていた。
兄のお陰で七年の時の隔たりが一気に縮むと、二人の足はどちらともなく神頭川(じんずうがわ)へ向かっていた。神頭川は伊織の住む組屋敷の側を南北に流れる、幅五十尺ほどの小さな川である。
神頭川は藩随一の標高を誇る似鳥山(にとりやま)の山裾に繋がる飛竜川(ひりゅうがわ)の支流で、今の時分、山の雪解け水をたっぷり含んで勢いを増していた。
「懐かしいな。この川も昔と全く変わっとらん」
有馬は感慨深げにそう言うと、ここへ来ると昔必ずそうしていた様に、川に向かって小石を投げた。石は勢いよく川面を滑り、五回ほど鋭く跳ねると濁流の中に消え去った。
幼い時分、伊織たちは必ず道場帰りにここへ立ち寄った。そして鮒を捕まえたり、相撲を取ったり、時には辺りが真っ暗になるまで話し込んで―心配して探しに来た嫂に、二人して叱られる事も度々あった。
有馬の家は子が多く、完全な放任主義だったので、有馬は嫂に叱られると少し嬉しそうだった。嫂もそれを分かっているから、わざと早いうちに自分達を探しに来た。そして格好ばかりの灸を据えた後、よく有馬を誘って晩飯を振舞った。
「あの時、お前の家でよばれた湯豆腐は、絶品だったな。俺はあれ以上の御馳走を未だ食ったことは無い」
伊織と同じことを思い出していたのか、眩しそうに川面を眺めながら有馬が言った。
御馳走といっても橘家の湯豆腐は、庭でとれた野菜と豆腐を昆布で煮て醤油を垂らした、何の変哲の無いものだ。
だが有馬はその湯豆腐を、昔から好んでよく食べた。
今思うと、あれは家族みんなで鍋を囲むこと自体が楽しかったのだろう。
初めて声をたてて笑った有馬を見たのは、あの時が最初で最後だった。
「……そう言えば、さっき柳田先生に聞いたぞ。今は師範代に代わって稽古を付ける日もあるそうだな。すごいじゃないか」
有馬は、再び川に向かって石を投げた。
まるで童心に戻ったように、有馬が少しはしゃいでいる様に見える。
「おれは部屋住みだからな。他の者と違ってそれしかする事が無いんだよ」
「相変わらず謙遜が過ぎるな。そういう時は、笑って『ありがとう』と言えばいいんだ」
有馬は何の気なしに発した言葉だったが、伊織は内心ひどく驚いた。
有馬らしくない言葉だと思った。
その場限りの『ありがとう』を言うなど、昔の有馬が一番苦手だったはずだ。
伊織は眼を見開いて有馬を見たが、その横顔は何も気づいていない様だった。
きっと入婿さきで、教え込まれた事なのだろう。何を褒められても愛想笑い一つできなかった有馬が、急に大人びて見えた。
―なんだ、許嫁の話などして貰わなくても、俺は十分傷つけるじゃないか……
伊織は七年ぶりに会った有馬の姿を、もう一度思い返していた。
昔は滅多に見せなかった笑顔。
饒舌になった口。
こちらを覗き込む様な喋り方。
ここに来るまで有馬はまるで女にする様に、隣を歩く伊織を気遣って歩いた。
由乃と過ごした七年が、有馬の中に沁みついている。
有馬との再会は、伊織にその事を強烈に知らしめた。
有馬———……
道場を去る日、同門に見送られながら、怒っているように前を見据え続けていた有馬。
とたん、堪らなくなった伊織は、目の前の有馬の中に、あの日の有馬の姿を探した。
…だが伊織が幾ら目を凝らしても、あの日の面影はもう何処にも残っていなかった。
有馬と由乃が積み重ねてきた、幾年月。
その長さは、伊織が有馬と過ごした年月を優に超えていた。
「おお、コハクチョウか」
不意に有馬が呟いたので、伊織もその視線の先を追った。
対岸で羽を休めていたコハクチョウの番が、連れ立って大空へ舞い上がる。
遠いな、と伊織は思った。
どんどん遠のく二匹の後ろ姿は、地上に留まる伊織からは果てしなく遠い。
伊織は視線を俯かせると、未だ空を見上げている有馬に言った。
「……有馬、幸せになれよ」
だが伊織の声が小さすぎて聞こえなかったのか、有馬は黙ったままだった。
暫しの間、二人は川と同じ鈍色をした空を見続けた。
そしてそのまま一言も交わさずに、二人は若かりし日の想いでの地を後にした。
すぐ橘の家へ戻る気になれなかった伊織は、有馬と別れたあと市中をふらつき、帰ったのは七つ半(17時)を過ぎた頃だった。
家の三和土へ入ると、ぷんと昆布の炊いた匂いがする。伊織が「ただいま帰りました」と声をあげると、姪の千絵が普段通りに伊織の帰りを出迎えた。
「叔父上、お帰りなさい!見て見て、今日の夕餉は湯豆腐なの。美味しそうでしょ?」
千絵はそういうと、椀に入った型崩れの湯豆腐を伊織の前に差し出した。
「ああ、いいね。湯豆腐か」
伊織は苦笑いしながら千絵の頭を撫でてやる。湯豆腐と聞いて少し心が波立ったが、千絵の可愛さが、どうにか伊織の心を鎮めてくれた。
「お帰りなさい!さ、さ、伊織さんも早く食べてしまって!丁度野菜が煮えた所よ」
囲炉裏のある居間から、嫂の呼ぶ声がした。
伊織は千絵と連れだって、ほかほかと湯気のたつ居間へと向かう。
見ると何時もの野良着ではなく継裃姿の兄が、囲炉裏に置かれた鍋の前で先に一杯やっていた。
「ただいま帰りました、兄上。あれ、今日は非番では無かったのですか?」
囲炉裏を挟んで兄の向かいに座った伊織が問うと、兄は下がり気味の眦を更に下げた。
「いやはや、そうだったのだが。ちと野暮用が出来てなぁ」
「野暮用?」
伊織が首を傾けると、鍋の灰汁を取っていた嫂がすかさず話に入ってくる。
「そうなんですよ。この方今日は非番だとご自分で仰ってたくせに、急に継裃姿になって、何処かへお出かけになってね。そのまま行ったきり雀で、お帰りになったのはさっきですよ、さっき。『お仕事でしたの?』と伺っても、違うと言うし。なんだかお召し物は汚れているし。まったく、また何処で何していたのやら……」
勝手きままな兄に長年振り回されている嫂は、すかさず伊織に言い付けた。
伊織は嫂の言うままに兄の姿を見てみると、確かに兄の着物の両袖が泥で汚れている。胡坐をかいた兄の両膝にも、茶色の染みが出来ていた。
「何、根雪の道で転んだのだ。どうも儂は、この時期の雪が苦手でなぁ」
兄が酒を煽りながらそう言うと、側に居た嫂はクスクスと笑い出した。
「だからって、そんなに派手に転んだんですか?全く、いい大人がみっともない」
「いやあ、参った。参った」
結局兄の失態話で嫂が思わず笑ってしまい、毎回嫂の小言はそれきりお流れになってしまう。
いつもと変わらぬ、二人のやりとり。
常ならば嫂と一緒に兄の話を笑う伊織だが、今の話は流石に笑う気になれなかった。
伊織も今日根雪の坂で転んだが、あんな風に着物は汚れなかった。
有馬が後ろから伊織を抱きかかえて、助けてくれたお陰で。
「さ、さ、気ままなお兄様の事は放っといて、伊織さんも温かいうちに食べちゃいなさい」
嫂に促されて、ハッと我に返った伊織は、野菜と豆腐がくたくたに煮えた椀を受け取った。
女々しい奴だ。
あいつは既に、幸せにやっている。
それでもう、いいじゃないか。
心の裡(うち)でそう叱咤しながら、伊織は椀に浮かんだ豆腐を一口掬う。
鼻に抜ける熱さと、豆腐の優しい甘み。
だがいくら伊織が拒絶しようと、湯豆腐の味はそれを許さなかった。
とたん、味の記憶が伊織の記憶を呼び起こし、再び瞼にあの日の有馬が現れた。
『いやあ、熱い!熱い!熱くてかなわん。なぁ橘』
『当たり前だ、湯豆腐をそんな風に掻っ込む奴があるか!』
初めて皆で鍋を囲んだあの日、有馬は熱々の湯豆腐を冷ましもせずに口の中へ掻っ込んで、『熱い、熱い』と言って泣いた。
それを見た兄や嫂も噴き出して、伊織も珍しくはしゃぐ有馬の姿が嬉しくて、あの日は皆で一斉に笑ったものだ。
だが本当はあの時、有馬は豆腐が熱くて泣いたわけでは無かった。
それに気づいたのは、風邪で寝込んだ有馬の見舞いで家をたずねた、その後だ。
カビや煤で黒光りした天井の梁。
部屋の襖は穴だらけで、隙間風が寒かった。
有馬の家には誰一人おらず、有馬は咳込みながら自分で七輪を起こして、見舞いに来た伊織に白湯を御馳走してくれた。
「叔父上どう?美味しい?美味しい?」
千絵がわくわくとした面持ちで、椀を持ち上げたまま動かない伊織に聞いてくる。
伊織は込み上げる何かを一度嚥下してから、一気に熱々の豆腐を口の中へ掻っ込んだ。
「熱い!熱い!いやぁ熱くてかなわん!でも美味いぞ、千絵」
伊織は湯豆腐を口一杯に頬張りながら、驚いて目を瞬かせる千絵に言った。
どうして自分は昔から、何でも気づくのが遅いのだろう。
あの日からずっと、自分が有馬を幸せにしてやりたいと願っていた。
実は淋しさを抱えるこの男の側に、自分がずっと寄り添っていてやりたいと―――
鼻がツンとして、耳の中がぼうっとしてくる。
……だがそれは全て豆腐の熱さのせいだと、今だけ伊織はそう思うことにした。
暗闇を覆う雲が、今にも泣き出しそうな色をしていた。
雪が降り出す前の、しんと静まり返った|瞬間《とき》。
風は止み、外の草木は息を詰め、これから訪れる雪の寒さに身構えているようだ。
伊織は建付けの悪い雨戸を閉めると、自室の隅に据え置かれた火鉢の灰を掻き廻した。
埋火が一瞬激しく燃え上がり、伊織は掌を摺合せ、両の手を火鉢へかざす。
火鉢の火だけが頼りの薄暗い部屋では、ぱちぱちと炭が弾ける音だけが響いた。
伊織はその燻った色の炭を見詰めながら、神通川で別れた有馬の姿を再び想う。
その姿は、決して昔と同じものでは無かったけれど。
有馬がそこに居るだけで、伊織が七年間見てきた鈍色の世界は、一瞬で鮮やかに色づいた。
好きだった。
本当に有馬が好きだった。
共に過ごした三年も、それから離れて過ごした七年も。
伊織の中には、いつも有馬が居た。
そしてこれからもずっと――春になっても消えない根雪の如く、伊織の胸の裡に有馬は留まり続けるだろう。
伊織は今になってやっと、その気持ちを素直に認める事ができたのだった。
「伊織、儂だ。少しいいか」
不意に部屋の襖が軽く叩かれ、外から己の名を呼ぶ兄の声がした。
ハッとした伊織は目元を拭き、慌てて部屋の行燈に灯をつける。
こんな時間に、兄が伊織の部屋を訪ねて来ることは珍しい。
伊織は小首を傾げながら襖を開けたが、同時に、灯りも付けずに部屋で何をしていたと、兄に問われるのを恐れてもいた。
だが伊織が兄を自室に招き入れると、不意に兄はへらっと笑って、顔横で徳利を左右に振った。
「どうだ、たまには一杯やらんか」
居間で随分飲んできたのか、兄は既に赤ら顔だった。
ホッと安堵した伊織は、側にあった座布団を兄に手渡すと、自らも兄の前に座って胡坐をかいた。
「いいですね。私も丁度飲みたかった所です」
兄に伊織の状況がバレていないと悟り、気が大きくなっていた自覚はある。
だが、このまま有馬を想って一人ジメジメして過ごすより、兄と酒を飲んで憂さを晴らす方がいいようにも思えていた。
明るく穏やかな兄の側に居ると、不思議と昔から心が安らぐ。
十の時両親が早世して、それからずっと兄に面倒になっている伊織だが。その日から今日に至るまで、伊織は兄を疎いと思った事は一度も無かった。
早速差し向かいで互いに酌をし合った兄弟は、共に盃の酒を一気に煽った。
喉元がカッと熱くなり、さっきまで寒さで凍えていた身体がほかほかと温まる。
思わず「美味いな」と伊織が呟くと、兄が眩しそうに眼を細めた。
その眼差しが何時も以上に慈愛に溢れていている気がして――伊織は思わず目を伏せる。
昔から兄は伊織に対して幼子を愛でるような眼差しを向けてくるが、今日は酔っているせいか随分と明け透けだ。しかし当の本人はそんな事は構いもせず、暫し押し黙ったまま伊織を見続ける。
とうとう気恥ずかしくなった伊織が、兄を咎めようと面を上げた時だった。
先ほどとは打って変わって沈痛な面持ちになっていた兄は、伊織の顔を見るなり囁くように言った。
「お前の親友有馬房之介、もとい佐々木房乃介だが……昨日、佐々木を勘当されて家を出たようだ。今晩は緋川町にある『だるま屋』と言う木賃宿に泊っているらしい。…そして明日、房之介は江戸へ発つ」
「はい?……」
伊織は目を剥いたまま、いっとき喉を塞がれたように言葉を失った。
兄の言葉が、まるで異国の言葉のように耳からはじき出されて、全く要領を得なかった。
あの有馬が勘当された?
明日江戸へ発つ?
一体ぜんたい、どういう事だ。
蒼白したまま口を戦慄かせる伊織を兄は一瞥すると、再び口を開く。
「房之介はこ度執り行われる予定であった、由乃様との婚儀を白紙に戻して欲しいと自ら申し出たそうだ。一時はそれで腹切り沙汰にまで発展したようであったが——最終的には主膳様の温情で房之介を勘当する、という形でお手打ちにされたらしい。しかし微禄の武家の出の義息子が、佐々木の家に泥を塗った罪は重い。実質は国払いだ。あ奴もう二度とこの地へは戻って来れんだろう」
兄は一気呵成にそう言うと憐れみを含んだ眼で伊織を見た。この話はきっと真実だろう。兄の眼差しがそう語っている。
けれど……
「しかし、でもあいつは———」
伊織には今日会った有馬の姿と、今の兄の話がどうしても上手く結びつかなかった。
有馬は佐々木の家に、ひいては由乃との生活に十分馴染んでいる様に思えた。
けれど今の兄の話だと、それではまるで正反対だ。今日自分が感じたことは、単なる思い過ごしだったのだろうか。それとも有馬はずっと佐々木家の生活が我慢ならなくて、それでこ度の婚儀を蹴ったのだろうか。
伊織が一人思案していると、兄はその心中を読み取ったように伊織に加えた。
「案ずるな。房之介は佐々木の家で十分可愛がられていたそうだ。由乃様も、幼い時分から房之介によく懐いていたらしい」
「ならば……ならば一体どうして……」
有馬は余程の事が無い限り、一度交わした約束を簡単に違えるような男ではない。
伊織が縋るような眼で兄を見ると、兄はおもむろに首を振り、深い息を一つ吐いた。
「房之介は婚儀を辞退した理由を、最後まで口にしなかったそうだ。儂はこの話を聞いた時、あんなに真面目一辺倒で義理堅い男がどうしてこんな大それた事をしたのかを考えた。考えて、考えて、ひたすら考えて、ふと、あいつと最後に会った七年前の夜の事を思い出した」
「七年前の夜、ですか?」
「そうだ。七年前、房之介が佐々木の家へ養子入りする前日、最後に会ったのはこの儂だ。夜半の静寂の中で、あいつは寝間着姿でな。うちの庭の前で一人立ち尽くしていた。どうしたと聞いても、あいつは答えん。ただ両の拳を握り締め、肩を震わせたまま俯いて——……どの位そうしていただろう。不意に面を上げた房之介は、『橘と離れたくない』と儂に一言そう言った」
兄は伊織を見据えると、唇を噛みしめた。
「————伊織。儂はあの時見た房之介の顔が、未だに忘れられんのだ」
唸る様に言った兄は、どこか痛みに耐えているような顔をした。
「無論、これは七年も前の話だ。今でもお前を懸想するがゆえに、房之介が婚儀を蹴ったか否かは儂にも分からん。だが、くだんの件で房之介が全てを失ったのは紛れもない真実だ。国を離れ、江戸へ出たところで、あ奴はこれより浪々の身。有馬の家に居た時分より更に貧しい、それこそ爪に火を灯す様な生活があ奴には待っている」
兄はそう言うと、痛ましさに顔を歪めて視線を逸らした。ずっと呆けた面持ちで兄の話を聞いていた伊織の頬に、一筋の涙が流れる。伊織はそれを慌てて拭うと、濡れた瞼をそっと閉じた。
眼裏(まなうら)に蘇る、あの頃の有馬の姿。
誰も居ない屋敷で咳込みながら湯を沸かす有馬の姿が、再び伊織の胸を突いた。
無論、親の配下にあったあの頃と今は当然違う。
自らがまいた種ゆえ、有馬がこれから苦労を強いられるのも伊織は重々承知している。
だがそれでも伊織は、有馬を不憫に思った。
有馬の胸の裡にずっとあり続けていた悲しみの深淵を、伊織は今再び見た気がした。
昼間神頭川で目にした、コハクチョウの番はもう居ない。
それを自ら捨て去った男は、これから辛く険しい嵐の空へ一人旅立つ。
誰も知られず、ただひっそりと、都会の片隅で死んでいくために……
伊織は有馬のその姿を頭に思い描いただけで、今にも身を切られる思いがした。
―飛べるか
伊織は鈍色の空を飛び去った二匹の番を思い浮かべながら、自身に問うた。
次はお前が空を飛べるか、と。
伊織は口元に笑みを浮かべると、まぶたを開け、兄の姿をまっすぐ見つめた。
「——兄上、どうか私をこれから有馬の所へ行かせてください。どうしてもあいつを一人、江戸へ行かせるわけにはいかない。兄上、どうかお願いです。私もあいつと共に江戸へ発つ事をお許しください」
畳に手を付き平伏する伊織の頭上で、兄は暫し押し黙った。
張りつめた空気の中、火鉢の灰の跳ねる音だけが辺りに響く。
それがどの位続いただろうか。ふと兄が「苦労するぞ」と溜息交じりで呟くと、再び伊織に言って聞かせた。
「伊織よ。儂がここで言う『苦労』とは、何も生活の事だけを差している訳ではない。伊織、お前がこれから房之介と生活を共にするならば、それは房之介の罪の片棒を、お前も担ぐという意味だ。お前は何か勘違いをしている様だが、こ度房之介の犯した最大の罪は、佐々木の家名を汚した所には無い。房之介が土段場になって、由乃様を裏切った所にある。由乃様は実に七年もの間、房之介と夫婦となると信じてた。それが急に、それも房之介自らの手で打ち砕かれたのだ。――もし、お前がその立場であったらどうする?日々涙で打ちひしがれて、生きているのさえ億劫になるだろう。もう全てが嫌になり、自ら腹を召そうとするかもしれない。いいか、伊織。そこまで考えを及ばせられなかったあ奴の未熟さが、こ度の最大の罪なのだ。お前はそれでも行くつもりか?一人の女子(おなご)の人生を台無しにした男と本気で、生涯を共にする覚悟があるのか……?」
兄にそう言い切られ、伊織の畳に付いた指先は小刻みに震えた。
由乃の事が、伊織の頭に全く無かった訳ではない。だが伊織は有馬の身を案ずるばかりで、由乃の心中(しんちゅう)まで考えが及んでいなかった。
己も有馬と同じ未熟者だと、伊織は今痛感した。
いかなる時も己を貫こうとするならば、その際必ずどこかで歪が生じる。わかっている。わかってはいるが、ずっと同じ男を想い続けていた由乃の心根が、伊織には痛いほど身に染みた。
「あっ、兄上、私は……私は……」
伊織は喘ぐように言うと、グッと唇を噛み締めた。
きっと今は、何を言っても言葉がうわ滑る。
伊織が逡巡したまま顔を上げられないでいると、不意に兄は伊織の手を取り、その手をぎゅっと握りしめた。
掌に、何か固い物を掴まされた感覚があった。
そろそろと顔をあげた伊織は手元を見やると、そこには二枚の小判が握らされていた。
伊織は唇を戦慄かせ、弾かれたように兄を見た。
その刹那、伊織から手を離した兄の両の指先に、泥がこびりついているのが眼に入った。
「二人分の路銀にしては少々心許ないが、無いよりはマシだろう」
「あっ、兄上……ッ!こ、こんな大金一体どうやって―」
伊織はそう言った矢先、何かを気づいたようにハッと眼を瞠った。
確か兄は夕餉の際、雪で転んだと言っていた。だがよく考えてみろ。たかが数回雪で転んだくらいでは、こんな爪の間に泥が入りこむほど指が汚れることはない。
―そう、兄は自ら雪の上に手を付いたのだ。繰り返し繰り返し。……それこそ指先が泥で真っ黒になるくらいに
夕餉の際目にした兄の汚れた着物袖。
両膝にできた茶色い染み。
手渡された二枚の薄汚れた小判。
兄は今日丸一日、この金を借りる為に方々を走り回っていたのではないか。
雪の上に何度も手を付き、縁戚知人に頭を下げてー―
小判を握りしめ咽び泣く伊織の背を、兄はそっと抱き起した。
泣き濡れる伊織を見詰める、兄の眼差し。
その眼差しはいつもと変わらぬ慈愛に満ち溢れていた。
「——分かればいい。分かればいいのだ。自分達が共にあるという現実は、誰かの不幸の上に成り立っている。その事を必ず肝に銘じでおきなさい」
兄はそう言うと、伊織の背をそっと抱いた。
「済まなかったな。七年前の話を今日までお前にしなかったのも、今まで房之介の婚礼話を敢えてお前に話して聞かせたのも、全て儂の私利私欲によるものだ。儂は、お前達の秘めたる胸の裡を知っていた。知っていながら儂はお前達を引き離そうとした。房之介は既に許嫁のある身。そんな男をいつまでも想うお前が、不憫で辛かった。だが本音は、お前をずっと儂の手元へ置いておきたかっただけなのかもしれん。家族四人のこの生活を、儂はただ守りたかっただけなのかもしれん」
「兄上……」
言葉にならない伊織は眼をつむり、兄の胸に額を付けた。
いつも気ままで穏やかで、嫂に叱られてばかりいた兄。
だが今初めてその胸の裡を聞かされ、伊織は兄の長きに渡る葛藤を知った。
守られていたのだ。
ずっとずっと伊織は、兄の懐でこうやって守られていた。
今も違わず兄の懐は温かく、伊織の脳裏には両親が相次いで亡くなった日に兄と見た夕映えの景色が映し出された。
荒涼とした田畑の広がりに人影はなく、音もなく、燃えるような夕映えは血の色をしていた。伊織はその世界に身を置きながら、あの頃、繋いでいた兄の手の温もりだけが頼りだった。
しかし、たった今からこのぬくもりを、伊織は自ら手放さねばならなぬ。
伊織に初めて、迷いが生じた。伊織が有馬の元へ行くという事は、家族とはこれが今生の別れになる。
千絵はきっと声を上げて泣くだろう。
嫂はそれをたしなめながら、水臭いと怒りながらも、やっぱり人知れず泣くだろうと思った。
兄が今まで命がけで守ってきた家族が、自分の為に悲しむ姿が辛かった。
これまであり余るほど注がれてきた家族の情愛が、伊織の足を重くしていた。
「伊織、もう行くのだ。これ以上の長居は禁物だ」
しかし伊織の逡巡を断ち切った兄は、伊織の肩を軽く押すと、その手を着物袖の中に仕舞った。
急に外の雪の気配が、部屋の中に入り込んだ気がした。
これからはもう、伊織を守ってくれる家族はいない。
伊織はうつむいたまま涙をぬぐい、その場に立ち上がると、兄むかってもう一度を頭を下げた。
「あっ、兄上……今までッ、本当に……本当に――」
「もう行きなさい。今晩はいつも以上に冷えるぞ。身体だけには気を付けろ」
兄は伊織の言葉を遮るようにそう言うと、凪いだ面持ちで伊織を見上げた。
その深い眼差しは、あの日夕映えを見ていた兄の姿と重なった。似鳥山の向こうへ消えゆく夕日を、あの日も兄は静かに受け入れていた。
「……はい。では兄上もどうかお達者で」
伊織はそれだけ言うと、自身の部屋から出て襖を閉めた。
しんと静まり返った渡り廊下に出ると、雪の気配は更に濃くなった。
刹那、襖の向こうから微かに聞こえる、兄の忍び泣く声。思わず伊織はその場にずるずるとしゃがみ込むと、両の手で口元を塞ぎ、流れる涙を必死に耐えた。
自分達が共にあるという現実は、誰かの不幸の上に成り立っている―
先ほど聞いた兄の言葉を、伊織は今強く噛み締めた。
渡り廊下の向こうに見える、すっかり雪化粧を施した屋敷の庭。
そこに淡々と降り積もる牡丹雪が、伊織の目には哀しく映った。
緋川町(ひかわちょう)はこの辺りで言う色町で、神頭川沿いをひたすら市中へ向かって東へ進むと、橋の掛かった対岸に妓楼の灯が見えて来る。常ならば掛け行燈の灯が等間隔に見える所が、妓楼や茶店が軒を連ねる大通りだ。しかし今は雪のため店の灯は少なく、客引きの女郎の姿も殆ど無いが、それでも店を探して練り歩く男達の姿はちらほらあった。
半合羽に番傘という出で立ちの伊織は、人通りの少ない大通りを慎重な足取りて歩いていた。足駄は既に雪で埋まって、底の方から冷えが来る。だがそれに相反するように、伊織の心は今、燃え盛る火柱の如き情熱で有馬の元へ向かっていた。
先刻の兄との別れがいまだ尾を引いている。
後ろ髪引かれる気持ちを必死に払い、伊織は一刻でも早く有馬に会いたかった。有馬に会って互いの胸の裡を全てさらけ出したなら、この凍えそうな淋しさも、胸に重くのしかかる罪悪感も、少しは軽くなるのではないかと思った。
自分が今、有馬を逃げ場にしていることは重々承知している。
しかし最愛の家族を捨て、ここまで来た伊織にはもう有馬しか居ない。そして今の有馬にも自分しか居ないと―……伊織はこの瞬間、信じて疑っていなかった。
それゆえ大通りを抜け、ひどく入り組んだ路地裏の、場末の女郎屋や鄙びた木賃宿が集まる中に「だるま屋」を見つけた時、伊織の胸はひどく高揚していた。
この宿の中に今、有馬が居る。
それだけで、だるま屋の障子戸を叩く伊織の手が僅かに震えた。
「はいはい今出るから、そんなに強く叩かないでくんな。ただでさえガタきてンだから」
眼の前で「だるま屋」の建付けの悪い障子戸が開けられると、番頭らしき男が出てきた。
男は鬢の薄い小太りの親爺で、一人晩酌をしていたのか吐いた息が酒臭い。
「ここに昨日から、有馬房之介という者が泊っているはずなのだが。すまんが、その男を今ここへ呼び出しては貰えないだろうか」
逸る気持ちを押さえられず、伊織が早口で申し付けると、番頭は伊織を値踏みをするように見回し、急に居丈高な物言いをした。
「なんなんですか、夜中突然訪ねて来たと思ったら藪から棒に。悪いけど泊まりのお客でないなら帰ってくんな。そもそも例えそのお侍がウチに泊まっていたとしても、今から呼び出せるわけ無ぇでしょ?みんな早々に寝ついちまってンだから」
「そんな……ッ」
伊織が番頭に詰め寄った刹那、畳敷きの間の奥の方で男達の沸く声が聞こえた。もしや中で客同士集まって、賭場の真似事でもしているのかもしれない。
三和土の向こうは土間の通りを挟んだ両側に、鰻の寝床の様な畳敷きの間が続き、間仕切りは一切置かれていない。中は薄暗く、泊り客の夜具が寿司詰め状態で敷かれているまでは辛うじて見えるが、人の顔を判別できるほどの明かりは取れていなかった。
ここに居ても中から漂ってくる、数多の人間の垢と埃まみれのすえた匂い。
柄の悪そうな男の啖呵や舌打ちが聞こえ、伊織は思案するように口元に手をあてた。
これでは益々有馬をここに呼び出さねばならない。普段有馬は物静かだが、人一倍正義感が強い男だ。それゆえ今は黙っていても、いずれ有馬はこの他の客を顧みない騒々しい男達を、必ず諫めようとするだろうと思った。
……だがあいつは今、実質国払いに近い身の上。ここで騒ぎを起こしでもしたら、確実に有馬の手が後ろに回る。
焦りを感じた伊織が躍起になって奥を覗こうとしていると、それを眼にした番頭が、不意に下卑た笑い声をあげた。
「旦那ぁ、そんなにそのお侍が気になりますかい?ならば今回は特別に、旦那の願いを聞いてあげられねぇ事もねぇ。けど旦那。人に物を頼むってぇ時は、それ相応の物を寄越さねぇと。人はタダじゃぁ、動きませんて」
番頭のねっとりとした視線が、伊織の懐辺りで動きを止めた。
伊織はハッと目を開き、震える手で懐に手を入れた。
「かっ、金なら……ある」
「おっ、流石は旦那。話が早い」
「本当に——……本当に今お前に金を渡したら、有馬をすぐここへ呼んでもらえるか」
「へぇ、そら勿論。合点承知の助でございます」
急に猫なで声を出した番頭が揉み手をしながら、伊織が金を出すのを待ち構えている。
不意に兄が雪の上に手を付いて金を借りている姿が、頭を過ぎった。
この金は、こんな男にあげていい金ではない。
分かっている。
分かってはいるが。
有馬―――……
伊織は今朝見た有馬の横顔を思い出しながら、懐に手を入れる。
「ではこれで‥‥…」
「待て。有馬というのは拙者だが」
薄暗がりの中から背の高い男が、番頭を遮るように現れた。
伊織が大きく眼を見開くと、男はそれ以上に驚いた様子で目を剥いた。
「橘……どうして……」
顔を見たら沢山言いたいことがあったのに、伊織は何も言葉が出なかった。有馬の顔を眼にした途端、急に胸が詰まり、有馬を好きだという気持ちだけが溢れ出る。
濡れた眼で有馬を見つめる伊織を眼にして、有馬が一瞬大きく肩を震わせた。
戸惑うように伸ばされた、有馬の手。だがその手は伊織の眼の前で押しとどまり、再び引き戻されていった。
「親爺、俺は暫し外へ出る。そしてこれは忠告では無く命令だが――俺がここへ戻るまでにあ奴らを黙らせろ。もし俺が戻っても未だ騒いでいる様なら、あ奴らの身の保証は無い。人には何事も、我慢の限界というものがある」
有馬が後ろに構える番頭を振りむくと、途端、番頭の顔が蒼白したのが見て取れた。
「橘、行くぞ」
伊織を一瞥した有馬は先立って宿を出ると、伊織が来た道を逆から辿るように歩き始める。
「有馬……ッ!待て!おれは……ッ!」
先を行く有馬を伊織がいくら呼び止めても、有馬は歩を緩めなかった。雪上を歩くのが不得手な伊織と有馬との距離が、面白いようにひらいてゆく。
伊織は持っていた傘をかなぐり捨て、足早に行く有馬の後を懸命に追った。有馬は路地裏を縫うように渡り切り、大通りを抜け、緋川町の出入り口に掛かる橋の所まで赴いた。そして橋の中央に差し掛かった所で不意に足を止めると、有馬はやっとの思いで追いついた伊織を初めて振り返った。
「———橘。ここは、お前が来るような場所じゃない。今すぐ橘の家に戻れ」
「あ、有馬。ちょ、ちょっと待て。今、今話を……」
伊織が無理やり話しだそうとすると、有馬は「駄目だ」と言って伊織の言葉をぴしゃりと制した。
「おおかた兄御に話を聞いて、俺を訪ねて来たのだろう?だが俺はこの通り、お前の心配には全く及ばん。それにこ度の件は、俺が佐々木の家を出た時点で既に落着している。もう全て終わったことだ。それゆえ兄御にも、改めてお前の口からそう伝えておいてくれ」
有馬はきっぱりとそういうと、真直ぐに伊織を見た。
その眼はよく見ると落ちくぼみ、頬は削げ、隠しきれない疲労の色が濃く映る。
昼間には、ひた隠しにされていた有馬の心根。皮肉なものだ。それが今この妓楼の灯も届かぬ暗闇の中で、はっきりと浮き彫りになっている。
俺は今まで何を勘違いしていたのだろう。
有馬は最初から、己の番など必要としていなかったのだ。
終わりのない辛く険しい嵐の空へ、有馬は明日一人で旅立つ。
伊織を見詰める有馬の眸が、その揺るがぬ意思を物語っている。
有馬はきっと承知しているのだ。伊織の心が誰に在るかを。伊織がなぜ再び有馬の前に現れたのかを。
―俺はまた、大きな思い違いをしていた。有馬は七年前と何一つ変ってなどいなかった。
有馬は昔から優しい男だった。こちらのほうが痛々しくなるくらい、優しくて健気な男だった。それゆえ敢えて番を自身から遠ざけることが、この男の最大の愛情表現であったとしたら。この男に自分は今も愛されているのだと伊織は思った。
割れるような川音が伊織の耳をつんざき、黙ったまま立ち尽くす伊織の肩に、雪だけが静かに降り積もる。
だがそれと同時にその有馬の深い情愛が、今の二人の間に大きな隔たりとなって横たわっているのだとも、伊織は強く感じていた。
有馬のすげない態度が、却って伊織の心を強く揺さぶった。だかそれを上手く言葉に出来ず、伊織は唯々途方に暮れる。
眼を見開いたまま立ち尽くす伊織から、有馬は直視できぬかのように眼を逸らした。
有馬の肩にも雪は容赦なく降り注ぎ、有馬もそれを手で払う事なくその場に呆然と立ち尽くしている。
早く、早く有馬に何か言わなければならない。
しかしこの期に及んで、自分は何を言えばいいのだろう。
伊織が今何を口にしても、それは全て有馬を苦しめることになる。
「……もう行け。このままでは風邪を引く」
暫しの間を置いた後、有馬は絞り出すような声で伊織に言った。
ここで伊織が今この場を後にしたら、もう二度とこの先有馬に会う事は叶わない。けれど今の有馬は、それを自ら望んでいる。
青白い顔をして、今にも倒れそうな痩せた身体を己の足だけで支えながら。
―有馬、有馬、有馬……ッ!
伊織は大きくかぶりを振ると、縋るような眼で有馬を見た。
有馬はその眼を一瞬捉えたが、もう眸を揺らめかせることなく、そのまま視線を大きく逸らした。
ーお前は本気で、このまま俺との別離を選ぶつもりか
そう感じた途端、伊織の胸の裡に悲しみが波紋の様に広がり、しかしそれと同等に―いやそれ以上の強い憤りが、伊織の中で突如沸き起こった。
それは決して有馬に対してのものでは無い。それはこれまでの自分自身に対する、強い憤りだった。
―俺は今日に至るまで、有馬に何一つ本音を伝えていなかった
七年前、根雪の坂で言われた告白の答えも。
昼間神頭川で伊織が伝えた「幸せになれ」の言葉の、本当の意味も。
全て有馬の為だと勝手に心に蓋をして、俺はその場を笑って誤魔化してきた。
そして今もまさにあの時と同じように、有馬の気持ちばかり慮って、身動きの取れない自分が居る。
だが俺は今日、何の為にここへ来たのだ。
佐々木の人間を傷つけ、橘の人間を傷つけ、それでも俺は有馬と一緒に居たいと思った。
有馬に強い意思があるように、俺だって強い意思を持って今日ここへ来たはずだ。
懸想する相手の幸せを願う為に、身を引くだけが愛じゃない。
力ずくでも自分の元へ相手を引き寄せて、己の手で相手を幸せにしてやるのもまた愛だ。
俺にはその意思がある。
覚悟がある。
それを有馬に伝える為に、俺は今日ここまでやって来たんじゃないのか……?
伊織は口を引き結び、衝動のまま有馬の側まで駆け寄ると、渾身の力を持って自ら有馬の懐へ飛び込んだ。
有馬は一瞬伊織の勢いに圧されて後退ったが、有馬は思いの外力強い腕で伊織の身体をしっかりと支えた。
初めて自ら飛び込んだ有馬の胸の中は、芯まで冷え切って冷たかった。
伊織はそれでも両の手を伸ばし、有馬の痩せた身体を掻き抱くと、有馬が一瞬身を強張らせた。
「橘、離せ――」
「嫌だ……ッ!」
伊織は頭一つ大きい有馬を見上げると、有馬がその顔を見て眼を瞠ったのが分かった。
「好きなんだッ!好きなんだ有馬ッ!ずっとずっと、俺はお前が好きだったんだッ!俺はこの先お前と一緒なら、どんな苦労でも厭わない。お前が今己の罪に苦しんでいるのなら、俺がその罪の半分を担う。今度は俺がお前の支えになるから。……だから、だから俺も一緒に江戸へ連れて行ってくれ!一緒に居たいんだよ!俺はもう二度とお前と離れるのは嫌なんだッ!」
涙ながらに伊織が何度も訴えると、初めて有馬の顔が激しく歪んだ。
伊織は溢れ出る感情のまま有馬の胸で泣き崩れたが、有馬の手は最後まで伊織の背に回ることは無かった。
「……そうやって由乃様も、今朝ここに俺を訪ねて来て泣いた。佐々木の家に入るのが嫌ならば、自分が佐々木を捨てると。だから共に江戸へ連れて行って欲しいと、俺に縋って身も世も無く泣き崩れて。だが結局俺は―――」
有馬は込み上げるものを嚥下するように眉を寄せると、「最後まで由乃様の肩を抱く事は出来なかった」と静かに言った。
「由乃様は悪漢に襲われて以来、俺と以外はほとんど屋敷の外へは出られなかった。それなのに由乃様は朝早くに佐々木の家を抜け出し、女子一人でこんな所までやって来て……。俺は浅はかだった。由乃様を未だ子どもだと思っていたのだ。――だが、今日初めて俺は由乃様の想いを知った」
「……」
「悪いが、お前を江戸へ連れて行くことはできない。己の罪は己で償う。……もう既に決めた事だ」
有馬はそう言うと、力の無くなった伊織の手をそっと解いた。
とたん、脱力した伊織は眸を揺らめかせると、有馬の肩に積もった雪を虚ろな眼でみつめた。
先ほど聞いた兄の言葉が蘇り、伊織の耳元で何ども繰り返されている。
『そこまで考えを及ばせられなかったあ奴の未熟さが、此度最大の罪なのだ』
しかし有馬は気付いていた。
自身の罪の重さを、由乃自らの手によって、その身に教えられたのだ。
由乃の泣き声が激しい川音に混じって、今にも聞こえてくるようだった。
伊織は今日初めて、自身の足場がぐらついたのを感じた。
由乃の有馬への一途な想いが自身の積年の想いと重なって、伊織は再び身動きが取れなくなる。
有馬の罪の片棒を担ぐとは、こんなにも自責の念に駆られるという事なのか。
兄の言う『苦労』の本当の意味が、伊織は今初めて分かった様な気がした。
仮にこの先、二人で過ごせる日が訪れようとも――自分達の眼裏には、常に由乃の幻影が映り込む事だろう。
そんな毎日にお前達は耐え得るのかと、あの時兄は問うたのだ。
ー由乃様と直接関わりの無い俺なら、まだこの痛みを凌ぐ術はあるかもしれない。だが当事者である有馬はどうだ。その幻影を目にする度に、有馬は嫌という程思い知らされるのではないか。
己が犯した罪の重さを。
今も何処かで泣いているだろう、由乃の深い悲しみを。
伊織はハッと目を見開くと、かじかんで動かない掌を無理やり開いた。
俺はこの手で、有馬を幸せにしてやりたいと思った。
だが俺が手をさしのべる事で、この先有馬が少しでもでも幸福を感じる瞬間があるのならば。実はその瞬間こそが、有馬が最も由乃への罪悪感で苦しむ瞬間ではないのだろうか……?
伊織はふらりと有馬から離れると、泣き濡れた顔を両の掌で何度も拭った。
―ひとの不幸の上に成り立つ生活とは、この表裏一体の感情に常に折り合いをつけて生きてゆく事なのだ
それは何と辛く苦しい旅だろう。
そしてその苦しみが、互いが近くに居る事で更に拍車がかかるのであれば―自分は有馬の傍には居られない。
伊織は朱く染まった眼の縁(ふち)から涙を振り払い、作り笑いを浮かべた。
ー俺はお前を決して苦しめたかった訳じゃない。ただ他愛の無い日々を、一緒に過ごしたかっただけなのだ。若かりし日に共に過ごした、あの頃と同じように……
最後の別れくらいは、笑顔でありたいと伊織は思った。 伊織はおもむろに有馬の前に手を差し出すと、再び笑って頷いてみせた。
「お前の気持ちはよく分かった。――有馬、今までありがとう。向こうへ行っても、身体だけは気を付けろ」
「……ああ」
戸惑いがちに差し出した有馬の手を摑まえ、伊織はその手にぎゅっと力を込めた。
やっと伊織の言葉に有馬が答えてくれた事が、この上なく嬉しかった。
冷え切った有馬の手。
この手を取ることが、自分には叶わなかったけれど。それでも自分は有馬にこれまでの想いを、ちゃんと伝える事だけは出来た。
伊織は名残惜しい気持ちを見透かされぬよう自ら手を離し、橋の対岸に向かって歩き出す。
半合羽は雪で濡れそぼって中まで重かったが、伊織は姿勢を正し、前を向き、颯爽と雪の上を歩いた。
己が今出来ることは、有馬の罪悪感を少しでも軽くしてやる事だけだ。
由乃の事で手一杯の有馬に、この件で自分に対してまでも罪の意識を感じては欲しくない。
有馬、俺との事は気にするな。俺は大丈夫だ。俺は全然大丈夫だから。
だからこれしきの事で、絶対に気に病むなどしてくれるな――
有馬に背を向けて歩く伊織は、気づくと再び泣いていた。
だが今は足下を激しく流れる川音が、伊織の泣き声を全て消し去ってくれている。
がんばれ。
がんばれ、有馬。
罪悪感で押し潰されそうな夜を幾つ重ねても、したたかに、必ず己の命尽きるまで長く生き抜ぬいてくれ。
今の俺には、それを願ってやることしかできないから……。
早足に橋を渡り切った伊織が、対岸の橋の石階段に足を掛けた時だった。
雪で嵩を増した段差に足を掬われ、伊織の上体は大きく前方へ傾いた。
「あ……ッ」
伊織は咄嗟の衝撃に身構えたが、後ろから腕を掴まれその身を橋の上に引き戻される。
背中に感じる人の気配。背後から有馬の声がした。
「――馬鹿。雪上を歩くのが不得手な癖に、そんなに早足で行く奴があるか」
両の腕(かいな)で後ろから抱きすくめられ、伊織の心の臓が早鐘を打ち鳴らす。
伊織が恐る恐る顔を上げると、白い息を小刻みに吐く有馬がこちらを見ていた。
「有馬…どうして……」
「どうしてって……」
有馬はそこで一息止め、逡巡するように眸を揺らめかたあと、絞り出す様な声で伊織に言った。
「お前が橋を降りる時転ぶと思って――……気づいたら、身体が勝手に動いていた」
伊織はその言葉に目を瞠り、唇を強く噛み締めた。
せっかく顔をみられないよう有馬から背をむけて泣いていたのに。再び堰を切ったように溢れ出す涙は、どんなに伊織の意識が拒んでも止まらなかった。
―泣くな。泣くな。こんな風に俺が泣いたら、きっと有馬の負担になる
「すっ、すまん、有馬。これは違うんだ。本当に違うんだ。きっ、気にするな。俺は大丈夫、大丈夫、だから……」
焦って顔を拭おうとした手首を、掴まれる。
その刹那、上向いた伊織の髷を強く引かれ、有馬が覗き込む様にこちらを見て来た。有馬の切れ長な眼が眇められ、徐々に距離が近づいてくる。その眸を無意識に伊織が追うと――有馬の唇が伊織の唇にしっとりと重なった。
それはほんの一瞬であったような気もするし、長い間そうしていた様な気もする。伊織の唇から離れた有馬は、再び伊織を後ろから掻き抱き、唸る様に言った。
「違う。謝るのは俺の方だ。……すまない、すまない橘。どうしてもお前が、忘れられない」
突如激しい川音が止み、二人の間に静寂が訪れたようだった。
耳がぼうっとして辺りの音が遠くなったのを感じ、有馬の息遣いだけが伊織の鼓膜を震わせる。驚きと共に甘い陶酔が、伊織の身を貫いていた。背中に有馬の重みを感じるも、伊織の身体は痺れたように固まって動けない。
「この想いは許されない。そう己を律すれば、律するほど、俺はお前への想いを募らせた。何度も諦めようと思ったのだ。佐々木に入った事で、幸せだと思う時も確かにあった。だがいくら思い出を重ねてもーー…お前と過ごしたあの三年間には、結局及ばなかった」
喘ぐように言った有馬の唇が、伊織の耳元を掠めた。伊織が咄嗟にその身を震わせると、有馬は伊織を抱く腕に更に力を込めた。
「昼間お前と坂で会ったのだって、偶然じゃない。俺はお前に最後に一目会いたくて、自ら道場へ赴いたのだ。あの時俺は、内心ひどく驚いていた。お前とは七年ぶりの再会であったのに、お前はあの頃と何一つ変らん。それはお前が長きに渡って、家族に守られてきた事の証だ」
「有馬……」
「なのに俺は、根雪の坂でお前をこの手で抱き留めた時、お前をこのまま掻っ攫ってやりたい衝動に駆られた。お前の家族の事も、佐々木への贖罪もすっかり忘れて。――俺は今朝、由乃様が泣いて俺に縋る姿を、この眼で見ていた筈なのに。俺は……俺は……」
そのまま言葉を詰まらせた有馬の手が、伊織の身体から力なく離れた。
「――俺は冷たい人間だ。俺はお前以外、誰も必要としていない」
背中から有馬の重みが取り払われて、伊織の身体が途端に冷え込んだ。
後ろから再び雪が降り注ぎ、伊織の胸の裡に焦りに似た気持ちが広がってゆく。有馬がまた、遠くなった気がした。
伊織は慌てて失った熱を追い求めるように、後ろを振り返った。
その様を見て有馬はハッと目を瞠り、バツが悪そうに伊織から眼を逸らす。そこには、さっきまで毅然としていた有馬の姿は見受けられなかった。むしろ自身の本音を曝け出した事で、有馬は臆病になっているように見えた。
有馬が戸惑うように、黒い眸を揺らめかせる。
そして両の手に拳をつくると、「これで分かっただろう」と低く呟いた。
「本当の俺は、お前が思うような男ではないのだ。俺は愚かで冷たい人間だ。そんな男と一緒に居たって、お前はこの先———」
有馬が言い終わらぬうちに、伊織は有馬の手を咄嗟に掴んだ。有馬をそうさせているのは全て自分だという真実だけが、頼りだった。
伊織は力任せに有馬の手を引き寄せた。有馬は面白いぐらいによろめいて、伊織はその身体を捕まえ、再び有馬を抱きしめた。
「……俺も、いらない。俺もお前以外は、誰もいらない。二人が、いい。俺もこの先ずっと、二人だけが、いい」
途切れ途切れ伝えた言葉に、有馬の身体が震えたのがはっきりと分かった。伊織は切なる願いを込めて、もう一度有馬をきつく抱きしめる。すると暫しの間を置いて、有馬の手がおずおずと、だが力強く伊織の背中に初めて回った。
「お前は馬鹿だ。本当に馬鹿だ」
有馬が声を震わせながら、骨が軋むほど伊織を掻き抱く。
伊織は溢れ出る涙をそのままに、有馬の広い胸に顔を埋めた。
もう俺は二度と迷わない。
もう俺は二度とお前を掴んだこの手を離さない。
もしこの先お前が罪の意識で眠れぬ夜があったなら、俺が夜通しお前を抱きしめてやる。もしこの先お前が辛くて逃げ出したい夜があったなら、俺が逃げたお前を必ず見つけ出してやる。
誰かの不幸の上に成り立つこの恋の苦しみを、俺は甘受しよう。
それは確かに、辛く険しい日々になるかもしれない。
だがそれ以上に二人が共に居られるという現実が、俺には一番の歓びだから―
伊織の眼裏には走馬灯のように、今まで自分を取り巻いていた人達の姿が浮かび上がった。
もう二度と会えない、大切な人達。
最後に兄の泣き声が聞こえた気がしたが、伊織は眼を瞑り有馬の身体を強く引き寄せた。
「——愛してる。出会った時からずっと、お前だけを愛していた」
有馬の言葉が、最後の兄の泣き声を打ち消した。
不意に耳をつんざく激しい川音。
だが伊織の耳にはもう、その音に混じって誰の声も聞こえてはこなかった。
不意に有馬が伊織の身体から離れたとき、伊織はまだ夢見心地であった。
それゆえ向かいから野太い放歌が流れてくるのを、伊織は漠然と聞いていた。
武家風の男衆が五人、酔ってもつれるように歩いている。有馬に促され、伊織は橋の欄干に腹を押し付ける形で背を向けた。だか酔いのふかい男衆は、こちらには気づかぬようだった。
伊織達の前を、団子状にまとまった男衆が通り過ぎてゆく。やがて男たちの姿が見えなくなると、有馬は安堵の吐息を一つ吐いた。
「——そろそろ行くか」
呆然と男衆を見送っていた伊織に、有馬が声を掛けた。伊織が咄嗟にうなずくと、有馬は先立って橋の対岸に向かって歩き出した。
有馬は武家の男達を眼にして、現実に引き戻されたようだった。現に今の有馬は、既に普段と違わぬ空気を身に纏っている。
伊織はそれに一抹の淋しさを感じたが、伊織が後に続くと、歩みを緩めた有馬は伊織の少し後ろを歩き出した。
「これから、だるま屋へ戻るのか」
再び緋川町の大通りを行く有馬に伊織は問うた。多分そうだろうとは思ったが、有馬が当然のように伊織の後ろについてくれた事が嬉しかった。何か話しかけたい気分だった。
「そのつもりだが。しかしこの濡れ鼠だと、あの親爺がただでは済まさんかもしれんな」
有馬はそう言ったが、このまま戻ってもあの番頭は何も言わないだろうと伊織は思った。宿を出る際、有馬を見て青ざめた番頭の姿が頭を過ぎる。客同士の賭場の真似事も、多分あの後すぐ治まったはずだ。
ごろつきの客をも手玉に取っていそうなあの番頭は、鋭い嗅覚を持っていた。相手が如何なる男かを一瞬で嗅ぎ取り、食える男かそうでないかを見極める力があの番頭には備わっていたように思えたのだ。
「なに、もしだるま屋が駄目でもこの辺の宿を取ればいいさ。今日は雪でどこも空いているだろうし、俺はお前と二人だけの方が却って気兼ねが無くていい」
伊織はだるま屋で見たすし詰め状態に敷かれた夜具を思い出し、自身の率直な意見を述べたまでだった。
しかし有馬はそのままむっつりと黙り込み、それからは伊織がいくら話しかけても「ああ」だとか「うん」だとか生返事しか返して寄越さなくなった。
有馬の急な変わり身を不可解に思ったが、元来口の重い男である為、伊織はそこまで気に留めていなかった。それよりも有馬と再び連れ立って歩ける歓びの方が、幾重にも勝っていた。
まるであの頃に戻ったようだと、伊織は思った。やっとあの頃の二人に自分達は戻れたのだと——そのことが、伊織は何よりも嬉しかった。
大通りは夜が更けても綿々と降り積もる雪のせいで、通りを行くものは誰一人として居なかった。だが通りを挟んで左右に軒を連ねる料理茶屋の幾つかは、店内の灯と共にささやかな客の声が外へ漏れていた。
伊織はその小さな喧騒のひかりを振り返る振りをして、すぐ後ろを行く有馬を垣間見た。
まだ心ここにあらずと言った有馬は、雪で濡れそぼった瞼を細め、遠い眼をしている。
憂いを含んだ端正な面差し。
昔から有馬の風采のよさは解っていたつもりだが、改めて見ると、今の有馬は一段とその男振りに磨きがかかっているように見える。
―水も滴るいい男か。あながち、間違ってないかもしれん
様々な苦境に立たされたあとが見える有馬の顔は、若いながらも円熟味を帯びていた。その痛ましい顔つきが、却って男の幅のようなものを感じさせ、伊織は同じ男として憧憬の念に駆られながらも、その深みのある美しさに思わず見惚れた。
「お前はさっきから何なんだ。俺を弄んでいるのか」
不意に黒い眸がこちらを見下ろしたので、伊織は驚倒した。こっそり有馬の顔を見ていたつもりが当人にばれていた。伊織が慌てて向き直ろうとすると、その肩を強く掴まれ阻まれる。
「弄んでいるのかと、聞いている」
有馬の眼差しに怒気が含まれているのを感じ、伊織は慌てた。
「もっ、弄ぶとは……ッ!一体なんのことだ!?」
心外だった。何故有馬が怒っているのか分からないし、これまでの自身の行いに、思い当たる節が何一つとして見当たらない。
「……分からないなら考えろ。俺達はもう、あの頃のような子どもじゃない。何の為に俺がわざわざだるま屋へ戻ろうとしていたか分かるか?―お前と二人きりにならないよう、配慮したからだ」
「?何故だ?それは一体どういう……」
伊織が言うや否や、有馬は伊織の腕を捉えて足早に歩き出し、すぐ手前の道を右に折れた。
その途端、町の景色がガラリと変わる。路地裏には妓楼や置屋が所狭しに立ち並び、雪明かりに浮かぶ掛け行燈の灯さえ妖しく見えた。
伊織はとっさに眼をそらした。
昔からそうであったように、見てはいけないものを見てしまった—そんな居心地の悪さを伊織は感じた。
「橘」
有馬に名を呼ばれ伊織は面をあげると、有馬の後ろに古いがこざっぱりした二階家が建っていた。
背の低い桂垣(かつらがき)を周りに巡らせたその店は、屋号も紋様も何も染め抜かれていない海老茶色の暖簾が、間口ぜんたいを覆うように掛けてある。
出合い茶屋だった。その簡素で閉鎖的なつくりが、却って淫靡な空気を醸し出しているように見える。
「橘」
再び名を呼ぶ有馬の眸は静かだったが、その奥に燃えさかる焔(ほむら)を伊織は見た。
「いいか。俺はお前と二人きりになったら、必ずその場でお前を抱くぞ。お前が泣いても喚いても止めてやれん。お前はそれでもいいのか?お前は——」
一瞬言葉を詰まらせた有馬は、再び伊織を見据えて言った。
「この七年……そんな邪(よこしま)な事ばかり考えていた俺を、お前は軽蔑するか?」
有馬のその言葉を、伊織は七年前の根雪の坂でも一度聞いていた。有馬が道場を去る前の、最後の稽古の帰りだった。有馬は坂の途中で伊織を後ろから抱きしめ、同じ科白を口にした。
その際伊織は、笑ってその場をはぐらかした。しかしあの時、今のように真っ向から有馬の顔を見ていたら……果たして同じことが出来ただろうか。
有馬の眼差しに射抜かれて、伊織の躰は串刺しにされたように動けない。有馬の眸の奥に見える情念の炎は、伊織を捉えて離さぬ獰猛さが宿っている。
伊織はこの時、初めて知った。
今まで有馬が己に抱いてきた、狂おしいほどの劣情を。
「俺が怖いか、橘」
その場に居竦められた伊織を眼にして、有馬が言った。
伊織が大きく首を横に振ると、有馬は笑った。今まで目にしたことのない淋しげな笑顔だった。
「ならばそんなに怯えた顔をするな。安心しろ。お前があんまり無邪気なものだから、少し脅かしたまでだ」
その場を取りなすように有馬は言うと、伊織の肩に積もった雪を優しく払った。
嘘だとおもった。
有馬が嘘を言っていると、痛いほどわかるのに。それでも何処かで二の足を踏む自分が居る。
有馬を好きだというこの気持ちは嘘じゃない。有馬が長きに渡り、心の底から伊織を欲していたのは驚いたが嬉しかった。だが色恋に疎い伊織には、この先を想像することが難かった。もし有馬を受け入れてしまったら、自分はこの先どうなってしまうのだろう。
今まで男として生きてきた自分が、全て覆されてしまうのではないか――
それは過去の二人に戻りたいと願って生きて来た伊織にとって、受け入れ難い現実であった。
有馬とは昔と違わず、これからも対等でありたかった。伊織は一人の男として、これから有馬を守ると決めていた。それゆえ伊織は、男の後ろを下がって歩く女になりたいとはつゆほども思わない。そもそも自分が男に組敷かれるなど、例え有馬相手であっても、今まで一度として考えたことがなかった。
「有馬、すまん俺は……」
はっきりと喋ったつもりが、声が僅かに上ずった。ん?と伊織の顔を覗き込んだ有馬の顔が、突如間近に現れる。
若いくせに円熟味を帯びた有馬の面差し。
早く早く、有馬に断らねばならない。
だがその深みのある美しさに、伊織は再び抗うことが出来なかった。
有馬を見つめる己の眸が、急激に熱を帯びたのが自分でも分かる。陶然と有馬を見上げる伊織の唇は、男を誘うようにぽっかりと開いていた。
「あの、」
そのあとの言葉は、不意に寒空にかき消された。有馬は腰を強く抱き寄せ、伊織の首の後ろを支えると、上から体重をかけるようにして伊織の唇をふかく奪った。
「あ……ッ、んう――」
抵抗する間もなく有馬の舌が伊織の歯列を割って滑り込み、食らいつくす勢いで口腔内を暴れ回る。伊織が驚きで腰を引いても、有馬は一切動じなかった。先ほどとは比べものにならない程の、激しい接吻。
有馬に舌を絡められ、したたかに唾を啜られると、まるでその場に縫い留められたように、伊織の身体は思うように動かない。
「ん……あ……あ……」
伊織が苦しげに身じろぐと、有馬の唇が大きくずれて伊織の頬を滑った。その唇が伊織の耳朶を食み、首筋を辿り、有馬は伊織の首元に顔を埋る。
そこをきつく吸われる感触に、伊織の唇が戦慄いた。まるで雷(いかずち)に打たれたような衝撃がその身を貫き、伊織の下肢が分かりやすく熱を帯びた。
「いっ、いやだ……ッ。いやだ、有馬……ッ」
自身の異変を即座に察した伊織は、なけなしの理性を搔き集め、圧し掛かる有馬を渾身の力で押し返す。
有馬がハッと目を瞠った。そのあと弾かれたように伊織から遠のくと、戸惑いを隠せぬ様子で自身の鬢を幾度もなぞった。
「……悪い。我を見失った……」
有馬はそこまで口にしたあと言い淀み、結局そのまま何の弁明もしなかった。
益々激しくなる雪は互いの頬をうったが、二人はその場に立ち尽くしている。
全身がずきずきと火照り、痛いほどだった。有馬によってもたらされた身体の熱が、こんな雪空の下に身を置いても、一向に冷めやまない。
この腹の底から湧きあがるような、どうしようもない息苦しさは一体何だろう。伊織は、目の前がふらつくのを感じた。
早くこの熱をどこかに追いやってしまいたいのに。自分の力ではどうにも出来ず只々呆然と途方くれる。
有馬の次の言葉を待たずして、突如伊織はその場にくずおれた。慌てて伊織に駆け寄った有馬が、間一髪でその身を支える。
大丈夫か、と伊織を案じて顔を覗き込んだ有馬は、思わずそのさまに息を呑んだ。
伊織の肌が、内から光をあてたように輝いている。濡れた唇を噛み締め、官能で目元を赤らめた伊織には、匂い立つような色香があった。
「橘。おまえ―――」
有馬の言葉は、伊織の悩ましい吐息に掻き消される。耐えきれず有馬の腕に縋りついた伊織は、喘ぐように言葉を紡いだ。
「いっ……いや、だ。こっ、ここでは、いやだ。こんな……他人が居るような所では」
「……」
「ふっ、二人が、いい。お前と俺だけ、二人きりになれる所が、いい」
無意識に身体を擦付け、伊織か訴えると、有馬の眼差しが再び強い熱を帯びた。
どうしてこんな事を口走ってしまったのか、自分でもよく分からない。
ただ有馬の顔を間近に見た瞬間、今まで考えていた、秩序だとか常識だとか理想だとか―そういう雑多な思考が、全て吹き飛んでしまったのは事実だった。
有馬が力の入らぬ伊織の躰を、しっかりと支えた。そして伊織を抱きかかえるように目の前の店へ赴くと、海老茶色の暖簾を二人寄り添うように潜っていった。
二人が入った茶屋の土間はひっそりとしていたが、声を掛けると人が出てきた。
有馬がこの吹雪で足止めを食らったから泊めてほしいと伝えると、年増の女将は特に訝しがる様子もなく、二人を二階の部屋へ通した。
二階は細い廊下を挟んで左右に部屋が三つあり、伊織たちは梯子を上がってすぐの部屋に案内される。年若い小柄な下男が行燈の灯を入れて立ち去ると、伊織は改めて有馬を見た。
有馬は濡れそぼった着物を脱いで、それらを衣桁(いこう)に掛けている。むきだしになった有馬の背中が、思いのほか広いのが見えて、伊織はどきりとした。
「そっ、そういえば少し腹が減らんか。何なら腹ごしらえをして、それからでもーー」
「俺はいい」
かぶせ気味に断られて、伊織は自身の袴を握りしめた。水を吸った袴が今更のように冷たく重い。この期に及んて、自分が空気の読めぬことを口走っているのは理解していた。伊織も慌てて自身の袴帯に手を掛ける。しかし部屋の傍らに敷かれた夜具に気づくと、不意に帯を解く手を止めた。
「……そうか。ならば俺はちょっと下へ行って、何か食うものでも頼んで来るかな」
ひとつの夜具に並べられた、二つの枕が生々しかった。この先のことが急に現実味を帯びた気がして、伊織はとたん、及び腰になる。
有馬によって促された火照った躰は、今もこんなに燻っているのに。
それ以上に、さっきのように自分が自分でなくなるのが怖い。男である自分が男に抱かれるという羞恥が、再び伊織の心を支配する。
気づくと有馬が振り向いていた。褌一つになった有馬が、その裸体を惜しげもなく晒し、静かに伊織を見つめている。だがそこに獲物を喰らうまえの獣の動きをみた気がして、伊織は飛びのくように襖に手を掛けた。しかしその手は後ろから伸びた掌に握り込まれ、有馬によって強く引かれた。伊織の躰は無理やり反転させられ、襖に背中が押し付けられる。今まで行燈の灯の色をしていた視界が、とつぜん陰った。顔をあげると、襖に手を付き、こちらにかぶさるように身を屈めた有馬が見下ろしていた。
「残念だが、何ごとも全部あとだ」
穏やかな声とは裏腹に、耳元で吐いた有馬の息は熱かった。有馬は伊織の襟足に指を差し込むと、顔を寄せ、伊織の耳を戒めるように甘く噛む。
その身がそそけ立つような感触に、思わず息の上がった伊織の顎を有馬が捉えた。微かに笑みを湛えた眼が伊織を覗き込み、羞恥で戦慄く唇を素早く奪った。
「う……んっ……」
「怖くない。もっと口を開け。……そうだ」
顎を引かれて無理やり口を開けさせられると、生きものの様な舌が口腔内に入り込む。怯えて逃げまどう舌を引きずり出され、触れ合わされた。じゅうっときつく舌の根を吸われ、自分の物だと確かめるように舌の形をなぞられる。とたん、唇から全身に爛れたような痺れが広がって、伊織はたまらなくなって浅く喘いた。
口の端から唾がこぼれ、襖に押し付けられた背がずるずると下がってゆく。それでも舌の動きを止めない有馬は、尻もちをついた伊織を膝に抱き上げるようにして、今度は伊織の躰を仰向けに抱いた。
「ん……、ん――……ッ!」
口づけがさらに深くなり、半開きのまま閉じれない唇の狭間を、有馬の舌が味わうように出入りを繰り返す。不意に小刻みに震えていた脚が大きく跳ね、めくれ上がった袴の間から伊織の白い膝がのぞいた。眼の前で有馬の喉元が激しく動く。それに突き動かされる様に幅広の手がその膝を撫であげ、さらにその奥のふとももへ手を伸ばした。
初めて素肌に触れられた伊織は、首を振って再び喘いだ。口吸いが解け、こちらを見下ろす有馬と眼が合う。その眸が、肌が、唇が、伊織のすべてを知りたいと狂おしいほど訴えかけてくる。
まるで全身全霊をつかって、有馬に愛を囁かれているようだった。今まで積み重ねられた言葉にできぬ想いが、有馬の熱を通して痛いほど伝わってくる。
優しい兄に守られながら、自分はずっと変化を求めぬ生き方を好んできた。それゆえ親友の有馬とも変わらず、昔のように側に居られればそれでよかった。
だがそれは、知らなかったからだ。
こんなふうに相手を自分の中へ取り込みたいと思うほどの狂おしい愛情を、伊織は今まで知らなかった。
伊織は今この時、有馬と同じ情熱が己のこの身体にも流れているのを確かに感じた。一緒に居た日々も、会えなかった日々も、これまで積み重ねてきた想いは何一つ変わらなかった訳ではない。その想いは気づかぬうちに色を変えかたちを変え、伊織の心のうちに密かに息づいていたのだ。
そのことを有馬自らによって、教えられたことが嬉しかった。
有馬と再び出会っていなければ、こんな風に誰かに愛される喜びを知らずに自分は一生を終えただろう。
ー有馬お前だけだ。
俺が心の底から愛したお前だけが――……俺の身も心も全部変えることができるんだ
急激に有馬への愛しさが溢れだし、狂おしいほど目の前の男が欲しくなる。
伊織は本能のまま有馬の首に自身の腕を巻き付けると、顔をあげて有馬の唇に吸い付いた。
「抱いてくれ有馬。欲しい……おまえが……」
恥ずかしくて恥ずかしくて、顔から火が噴きそうだった。伊織は有馬にその顔を見られたくなくて、有馬の肩口に顔を埋める。早くこのまま夜具へ連れていって欲しかった。出来ればその足で行燈の灯を消して、部屋を真っ暗にして貰えれば更にありがたいと切に願う。しかしいくら待てど暮らせど、有馬からは何の動きも言葉もなかった。流石に不安になった伊織は、恐る恐る有馬の顔をのぞき込む。伊織はそれを見て思わず目を瞠った。
今まで見たこともないほど顔を赤らめ、口元に手を当てた有馬が眸を揺らめかせている。こんな風に照れた有馬を見るのは初めてだった。伊織が珍しさのあまり不躾な視線を送っていると、有馬は我に返ったように伊織を見た。
「お前……ッ、そういう所だぞ」
「なんだ、お前も照れることがあるんだなぁ。なんだか子どもみたいで可愛らしいな」
うん、じつに可愛らしい。
急に昔の有馬を垣間見た気がして、伊織は嬉しくてクスクスと笑った。自分達は確かに大人になって変わったけど、昔の自分達が決して居なくなった訳じゃない。これまで出会った全ての人達や有馬との思い出が、今の自分達を作り上げているに違いなかった。
「くそ、笑い過ぎだ」
有馬は不貞腐れたように呟くと、伊織を抱き寄せ、その生意気な唇を優しく奪った。
大小の牡丹が描かれた掻巻のうえ。
横たえた伊織の裸体が行燈に照らされ、仄青く浮かびあがる。有馬はその白い肌に唇を寄せ、執着の赤い花をたくさん散らした。
「あっ、有馬……あかり、を‥‥…頼む。あ、あかりを消し……」
鎖骨の辺りに顔を埋める有馬の鬢に指を差し入れ、伊織は耐えた声で訴える。
濡れた着物を剥かれ、夜具に押し倒されてからも全身を這い回る有馬の唇。そのあいだに何度も羞恥に襲われ、せめて灯りくらいは消して欲しい――そう願った伊織だが。有馬はそれに吐息だけで答えると、頭を大きく下へずらした。
不意に胸の先を口に含まれ、ちゅっと音をたてて強く吸われた。驚きで眼を瞠った伊織が、圧し掛かる背を激しく叩く。しかし有馬は伊織の胸元から顔を離さず、吸って立ち上げた粒を口に頬張り、舌先で飴玉のように転がしてくる。
「やぁ……ッ、あ、あ」
同時に反対がわを指の腹で嬲られて、伊織は有馬の腕の中で躰を大きくそり返らせた。甲高い声をあげ、ふりあげた拳は気づくと有馬の首に巻きついている。胸を舐られるたびに、砂糖をまぶせられたような甘い疼きが止まらない。伊織は未知の感覚に戸惑いながらも、やがて無意識にその身をくねらせ始めた。
「……んっ、だ、だめ、だ。も、やめ……」
噛んて吸って啄ばまれ。散々舐めしゃぶられた伊織の粒は、今やふっくらと芽吹いていた。艷やかに色づいたふたつの実が、行灯の灯に照らされキラキラと瞬いている。いたたまれず、とうとう口から漏れた伊織の泣き言。そのひしゃげた声を聞いた途端、胸の愛撫がふと止まった。
口元を拭い、上体を起こした有馬がこちらを見ている。
唇で全身に散らした執着の赤い花。
舌で育てあげた胸元の赤いふたつの実。
有馬はそれらを前にして目を眇め、フッと口元をほころばせた。
「綺麗だな」
「やり過ぎだ。ばかぁ……」
身を捩ろうと伊織は躰を翻したが、力が抜けて動けない。そのうえ舌ったらずに響いた自分の声音が、妙に甘えているようで。顔を赤くして伊織が顔をそむけると、有馬がその頬にそっと唇を押しあてた。
「逸らすなよ。俺の橘をもっとよく見せてくれ」
弾かれたように顔をあげた伊織の目が、優しげな眸とぶつかった。嬉しそうに微笑まれ、伊織はそれ以上恨み言一ついえなくなる。男だし、こんな甘ったれで女々しい自分の、一体何処がそんなにいいのか。だが有馬は乱れた伊織の鬢を優しく梳くと、再び伊織の頬に口づけてきた。
唐突に泣きたいような気持ちに駆られ、伊織は有馬に向かって手を伸ばす。差し出された有馬の身体は暖かかった。二人はそのまま無言で抱き合い、やがて有馬の手がゆっくりと足の間に伸びていった。
「ん……ッ」
既に立ち上がっていたものを握り込まれ、緩急をつけて扱かれる。普段めったに自慰をしない伊織のそこは、それだけで歓喜の涙をこぼした。しかも初めて他人(ひと)に、それも長年恋焦がれていた男に触れられて――とめどなく溢れる涙が有馬の指に絡みつき、ちゅくちゅくと粘ついた声をあげ啜り泣く。
気がふれるんじゃないかと思うほど、気持ちがいい。今まで散々愛撫を施された伊織の躰は、そこが涙をこぼす度にぐずぐずにとけてゆく。
「あ、あり、ま。でる……でる……ッ!」
「出していい」
有馬の親指が伊織の先端をくじり、伊織は引き攣った声をあげて前を爆ぜさせた。どうしようもない程の強い悦楽。伊織は放心したまま胸をあえがせていると、不意に有馬の指が、伊織の奥まった所に触れた。
「…ここでお前と繋がりたい。だめか?」
有馬は熱の籠った目で伊織を見たが、初めてその面差しに遠慮がみえた。察しのいい有馬のことだ。伊織の葛藤にずっと気づいていたのかもしれない。伊織の放ったもので濡れた指は、入り口だけなぞってすぐに離れた。しかしその仕草とは裏腹に、太腿をかすめる有馬自身が、伊織を欲しいと切ないほど訴えかけてくる。
―ばかだな。ここまできてどうしてそんな事を聞く?
最後まで強引に奪いきれないこの男の優しさを、伊織は残酷とも愛おしいとも思った。
今までこの優しさに救われた者もいる。傷ついた者もいる。けれど伊織はそんな不器用な男が好きだった。自分の人生まるごと全部、この男に捧げてもいいと思えるほどに。
どうしたらこの気持ちが伝えられるのだろう。伊織だって有馬が欲しいと。お前とこうして抱き合えることが心の底から嬉しいと。どうしたら――
伊織はハッと目を見開き、おずおずと足をあげた。そして自ら両足を持ち上げると有馬に見せつけるようにそこを割り広げる。
有馬が息を飲んだのがわかった。
伊織が顔を赤くしながら耐えていると、獣のように唸った有馬がそこに顔を近づけてきた。
「あ……ッ、うんッ……」
腿の裏を両手でグッと押さえられ、股のあいだに居る有馬の頭が激しく動く。分厚い舌が驚くほど深い場所に這わされるのを感じ、伊織は言葉を失った。
違う違う。思っていたのと違う。
繋がりたいという位だから、普通違うものをあてがわられると思うだろう。なのに、こんな所まで舐めまわされるなんて聞いてない。しかも自分が知り得ない所すまで有馬の舌が入り込んできて、羞恥でどうにかなりそうになる。これは全力で阻止するべきだと判断した伊織は、掲げた足をバタつかせた。しかし有馬は股の間から寸分も動かず、伊織の脚を更に持ち上げ、更に奥まで舌先で暴いてこようとする。
さっきから薄々……というか、ずっと考えないようにしていたが。有馬は少し、頭がどうかしてしまったのではなかろうか。これまでも散々伊織の躰に跡を付けたり、胸の先に吸い付いて離れなかったり。その上あらぬところまで舐め始め、もはやここまでくると正気の沙汰とは思えなくなってくる。
「もうそれはいい!それはいいから、お前のをさっさと入れろ!」
「お前がしていいと言ったんだ。それにここをちゃんと解しておかないと、後で傷つきでもしたら大変だ」
「だがそこまでしろとは言ってない……!おっ、おまえ!さっきからちょっとおかしいぞ!そんな所まで舐めて汚な……あ……あ……」
ふかい口吸いをされるような巧みな動きに、持ち上がった伊織の足がガクガク揺れた。じわじわと解されている感覚が、腹の奥で熾火のように疼きだす。
こんなことされて嫌なのに。もうやめさせたいと思うのに。伊織の意思とは裏腹に、伊織のそこは柔らかく綻び、有馬の舌に懐いてゆくのを肌で感じる。
「――汚くない。お前はどんな所でも、ぜんぶ綺麗だ」
上擦った有馬の声と共に、しっかりした質感のものが潜り込んでくる。指だった。舌先で散々舐め溶かされたそこは更に綻び、嬉々として有馬の指を受け始める。
「く……うぁ……」
そこが待ちわびていたように顫動(せんどう)し、有馬の指を食みしめた。有馬がゆっくり慎重に探るような手つきで擦り上げてくる。伊織は中をくすぐられる度に躰を震わせたが、痛くはなかった。それほど念入りに溶かされていたのだ。むしろ下肢から沸き上がるような熱の方が苦しくて、伊織は大きく首を振った。ふたつみっつと増やされる指。その度に湧き上がる熱は膨らんで、伊織は首を振りながら激しく喘いだ。
「あ……!?」
有馬の指がある一点を掠めたとき、それは唐突にやってきた。一瞬頭の先まで身を焦がすような痺れが広がって、目の前で火花が弾け飛ぶ。凄まじい悦楽の波飲み込まれ、伊織の躰は勝手に跳ねた。
未だかつて経験した事の無い浮遊感。伊織は驚きのまま眼を見開き、はくはくと打ち上げられた魚の如き息を吐く。
刹那、顔に何か滴るものを感じ、伊織は思わず目を瞠った。持ち上げられた足の間、眼前に飛び込んできた伊織のものは泣いていた。さっきまで萎えていたそこは今や大きく反り返り、口から糸のような涙を流して溢れさせている。
「な……に……」
驚きで呆然としていると、圧し掛かってきた有馬に口を吸われた。まるで獲物に噛みつくような、激しい口づけ。頭を丸ごと抱え込まれ、意識が遠のくほど唇を貪られる。敏感になっている伊織の躰は、それだけで軽く達した。
有馬は荒い息を吐きながら震える伊織の膝を開かせると、熱く滾った自身を伊織のそこにあてがった。
「あぁ……ッ」
閉じた所を圧される感触に、伊織は瞬間息を詰めた。しかし既に有馬に懐いているそこは、濡れた口を目一杯あけ、有馬のものを飲み込み始める。
「きつく、ないか……?」
額に玉のような汗を浮かべ、有馬が問うてくる。伊織が首を横に振ると、有馬は更に腰を進めた。そろそろと腰を引かれ、ゆっくりと入ってくる。そのじわじわと慣らされていく感触がたまらない。有馬が奥に進む度に、下肢が蜜を含まされたようにもったりと重くなる。伊織は有馬に身を委ねながら、自身の躰が徐々に開いてゆくのが分かった。
「橘……」
有馬が感慨深げに呟くと、伊織の下肢にふかく響いた。ざり、と互いの叢(くさむら)がこすれて、二人の躰がしっかりと繋がっているのを肌で感じる。
ゆったりと腰を使われ、伊織の口から思わず甘ったるい喘ぎがこぼれた。
「……やぁ…ッ……ん……ん……」
腹の奥の方でどくどくと脈打つ有馬を感じ、伊織は湧き上がる多幸感にその身を震わせた。
これまで伊織は、男に抱かれて自分が自分でなくなるのが怖かった。有馬を受け入れて、二人の関係が対等でなくなるのではないかと不安だった。
しかし今この瞬間、伊織が感じたのは歓びだった。
ただただ、心底惚れた男に抱かれて嬉しい。その得も言われぬ歓びが、伊織の胸の裡に波紋のように広がっただけだった。
伊織が手を伸ばすと有馬が頬を寄せてきた。
息を弾ませ「大丈夫か?」と、こちらを慮(おもんばか)る眼差しに、それはこちらの科白だと伊織は思う。
快楽に耐える有馬のこめかみはぴくぴくと動き、今すぐ突き上げたい衝動を抑える背中が小刻みに震えている。
馬鹿みたいに優しくて一途な男。
この世で一番愛しい男と今、自分は確かに繋がっている。
「……嬉しい。おまえに抱かれて、おれ……」
うわごとのように呟く伊織を掻き抱き、有馬が腰を揺さぶってくる。
伊織は差し出された広い背中に縋りつきながら、二人の躰が一体になるのを感じていた。
二人ひとつに纏まって、欲望の海にただよい流される。それが江戸であろうと最果ての地であろうとかまわない。この先二人で共に居られるならば、どんな場所でも生きて行けるような気がした。
終わりを見据えた有馬の動きが早くなり、伊織のものが男の腹にこすれて泣き濡れる。震えるそこを、有馬の手が優しく包み込んだ。そしてなだめるように上下に摺り上げ、伊織は心地よさのあまり自身の奥に頬張ったものをきつく締めつけた。
「あッ、あ……、あぁ……」
伊織が熱を放ったのと同時に有馬が唸り、伊織の一番ふかい所で動きを止める。躰の奥に熱い迸しりを感じ、有馬も自分の中で果てたのを知った。
幸せ過ぎて胸が苦しい。
胸がひき絞られるような幸せに、溢れ出る涙が止まらない。
伊織が一人さめざめと泣いていると、有馬が上体を起こしてきた。
長い指が伸びてきて、伊織の目元の涙をすくう。だがその指先が、小刻みに震えていることに伊織は気づいた。
薄目を開けると有馬と目が合う。唇を引き結び、目元を赤くした有馬は、怒っているようにも泣いているようにも見えた。
「有馬……」
「俺はあの時……主膳様に切腹を申し付けられた時、内心死んでも構わないと思っていた。お前への想いを貫き通せるのならば、それもまた本望だと。幼稚で傲慢な俺は、そんな自分をどこか誇らしいとさえ思っていた。だけど――」
強張っていた有馬の顔はぐしゃりと崩れ、唇が戦慄いた。
綺麗な青ずんだ白目に膜がはり、有馬の眸は宝石のように瞬いて見える。
「……生きててよかった。俺、今日まで生きていて本当によかった……」
鼻を啜って笑う有馬に、伊織の胸が甘く捩れた。上体を起こし、伊織が堪らなくなって抱きつくと、逞しい腕に骨が軋むほど強く抱き返される。
互いに重ねた頬は濡れていた。どちらのものとも分からない涙は塩辛く、それでいて幸福の味がした。
「橘……ありがとう……ありがとう……」
涙混じりで呟く有馬が愛おしくて、伊織は少しだけ笑った。
そして友人のように、母のように、父のように、恋人のように、伊織は目の前の男の背中を再びきつく抱きしめた。
明くる朝茶屋を出ると、辺りは一面の銀世界だった。
東の空がしらじらと明るくなり始め、緋川町の店の家並(やなみ)を薄ぼんやりと映し出す。辺りには誰もいなかった。伊織はその白く凝った世界で眠る町を眼にしながら、深く積もった雪を踏みしめる。
「行こう」
初めに声をかけたのは有馬だった。
伊織は後ろに居る有馬に振り向くと、有馬が一瞬はにかんだ笑顔を見せた。その笑顔が思いのほか可愛らしくて、伊織の頬もほんのりと赤くなる。
妙なくすぐったさが二人を取り巻き、だけどその空気は今までに無いほど心地がいい。浮足立っていた伊織は、途中何度も雪で足を掬われた。だがその都度後ろを行く有馬に助けられ、伊織は再び神通川に架かる橋に辿り着く。
川は薄く靄が張っていて、勢いを増した川音だけが響いていた。伊織は引き寄せられるように橋の欄干に身を寄せると、川の水筋を眼でたどる。蛇行して流れるこの川は橘の家の前を通り、似鳥山の麓に続いていた。
もう二度と目にする事のないこの川を、伊織はただぼんやりと見ていた。浮足立っていた心は凪ぎ、かといってもうこれ以上悲しみも沸いてこなかった。伊織の人生は未だこの川のように続いている。その人生の中の節目の一つに、今自分が立っているような気がした。
「おお、コハクチョウか」
不意に有馬が呟いたので、伊織もその視線の先を追った。
川縁で羽を休めていたコハクチョウの番が、連れ立って大空へ舞い上がる。
伊織は以前見たコハクチョウの番を思い出していた。
あの時見た有馬の姿は、遠かった。
大空を羽ばたく有馬は果てしなく遠くて、地上に残された自分はただ見上げるだけだった。
しかし今は違う。
伊織は有馬と一緒にこれから飛び立つ。
あの二匹の番のように、これからを二人きりで生きてゆく。
空を仰ぎ、伊織は決意表明の如く胸元を強く握りしめる。すると着物の袷から小判が二枚、足元へ転がった。
雪上に、泥の指紋がついた二枚の小判が落ちている。
伊織は唐突に込み上げてくる涙に戸惑い、言葉を失った。それを無言で拾い上げた有馬も、じっと小判を見据えて涙を浮かべる。
ー早く行きなさい。身体だけには気をつけろ
東の空には燃えるような朝焼け。
そのひかりが、男泣きする二人の背中を、暫しのあいだ赤々と照らしていた。
