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【大賞】ハピエン小説部門『焦点距離はゼロのままで』

2025/11/07 16:00

美形執着×ダメンズホイホイの胸キュンラブ

 

『焦点距離はゼロのままで』作:紬木莉音

 

 

あらすじ
クズ彼氏にばかり引っかかって心をすり減らし、友人から「ダメンズホイホイ」と揶揄される、大学二年の永木惟央。小遣い稼ぎで続けていた男性専用アダルト撮影会で、学内でも有名な美形ヤリチン・伊崎瑛心に下着姿の写真を撮られてしまう。写真を消す代償として瑛心に迫られたのは、予想外にも「交際」だった。てっきり執拗に身体を求められると思いきや、一切手を出してこない彼に拍子抜けする。そればかりかやたらと自分を甘やかしてくる瑛心に、惟央は戸惑いながらも次第に心をほどかれていき──?

 ※こちらの作品は性描写がございます※





「えっ、市川と別れたんだ?」
 昼時の小教室には次の講義を待つ学生達がちらほらといて、まったりとした空気が流れている。そんなに広くない室内だ。割と大きめの声で、たった今隣の友人が発した言葉が響き渡ってしまうのも無理はない。
 そのうちの数人がこちらを振り返るのが見えて慌てた惟央(いお)は、隣で呆けた顔をする松野の口を咄嗟に片手で塞ぐ。
「まっちゃん声でかい……アイツも同じ講義とってるから」
「ごめんごめん。だって先月付き合ったばっかじゃん、あまりに早くない?」
「はぁ……それがさ」
 自分の中でもまだ昇華しきれないその出来事を、誰かに話すことで心が軽くなったりしないだろうか。惟央はそんな淡い期待を胸に、できれば思い出したくもないようなその人のことをぽつぽつと語り始める。
「その、一見爽やかに見えるだろ。イイやつだし懐深そうだなーって思ってたよ、俺も。でも付き合った途端人が変わったように俺に対する当たりが強くてさ。口でしてとかも一日に何回も強要されるし、一番キツいのは人格否定されることっていうか……」
「うわ……情報量多すぎて何から突っ込んでいいかわかんねえ。とりあえずその、人格否定ってのは?」
「え、なんか……『おまえみたいなぼーっとしててトロいヤツと付き合えるの俺ぐらいだわ』みたいなのを、ピロートークで延々と聞かされる……」
 数ある元カレの情報の中から一番まともな台詞を選んでみたはずなのだが、松野は気付けば頭を抱えてしまっている。
「……まじか、お気の毒すぎる。つか学友のそんな一面知りたくなかったわ」
「ごめんて……ってなんで俺が謝るんだよ」
 一番の被害者は俺なのに、とため息交じりに呟く惟央の肩を、松野は無言でぽん、と叩いてくれた。きっと上っ面だけの慰めの言葉を送る代わりに、彼なりの励ましのつもりなのだろう。
「それにしても、またクズな元カレシリーズに新たな歴史を刻んだわけじゃん」
「やめてそれ。言霊ってあるから、おまえらがそうやって面白がるからどんどんヤバい男が引き寄せられてくるんだって」
「いやーおまえが見る目ないだけだろ。高校ん時も初めて付き合った人に白昼堂々浮気されたんだろ?」
「うあー思い出させるな……」
 今度は惟央の方が頭を抱えてしまった。忘れもしない、あれは人生で初めて芽生えた淡い気持ち──そう、いわば初恋だった。
 高校二年、同じクラスのサッカー少年。自分の恋愛対象が男に限定されるということに気付いたのも、彼を好きになって初めて知ったことだった。
 彼の家に初めて遊びに行った際にぽろっと口を滑らせ、何の奇跡か付き合うことになった。初めての恋に初めての交際──浮かれまくる己は一瞬で現実という名の地獄に突き落とされることになる。
 その日は放課後に用事があると言われていたので、惟央は一人で先に帰路を辿っていた。忘れ物をしたと気付いたのは駅で改札をくぐる直前で、慌てて引き返して教室までやってきた。
 それがいけなかった。いつもは無造作に開け放たれているのに、自分のクラスだけ窓も扉も全て閉まっていることに違和感を覚えた。何かの勘が働いて扉をそっと、少しだけ開けて、中を覗き込んだ。
 人間は衝撃を受けると本当に頭が真っ白になるんだっていうことを、そのとき初めて知ったのだ。
 夕暮れ時の教室で、わざわざご丁寧に惟央の机の上で──交じり合う男女を見た。冷や汗が滲み、何度も唾を呑み、叫び出しそうな声を必死に口を両手で覆って堪えた。
 
 今思うと、あれは始まりに過ぎなかった。その男とはすぐに別れたけど、その後もどういうわけか付き合った男とは、そうはならんだろ、みたいな展開になることが多かった。
 そして付いた二つ名が──。 
「永木(ながき)惟央、またの名をダメンズホイホイ」
「さいあく……全っ然かっこよくないし俺は永遠に幸せになれなくてこの世の終わり……」
「もういっそ女と付き合ってみたら?」
「ゲイにそんなこと言うの酷すぎるだろ」
 まあでも、もし自分がバイだったら選択肢が二倍に広がって、もっとまともな人選ができたのだろうか。
 ……いや、そんな未来は全く見えない。きっと例に漏れず残念な人間を引き寄せて、残念な恋人に作り替えてしまう体質に違いない。今まで付き合ってきた四人の男がそれの証明だ。
「ねえーっ、瑛心(えいしん)。隣座ろうよぉ〜」
 昼休み特有の湯舟に浸かったような空気を切り裂くのは、やたら大きな女子学生の声。まったりとした平穏な時間は終わりを告げたことを知る。
 陽キャの襲来だ。教室の後方の扉からぞろぞろと入ってきた派手な集団に気付いた惟央は、しかし前を向いたまま彼らに気付かないふりをする。目を合わせるとなんとなく気まずいからだ。
「出た、うちの学部のダメンズ代表──伊崎(いざき)瑛心。相変わらずの侍らせっぷりで」
 しかし陽キャに片足を突っ込んでいる隣の松野は、堂々と後ろを振り返り物珍しそうにその中心人物を見物している。振り向かないようにしようと決めていたはずの惟央も、ついつられて後ろに視線を送ってしまった。
 教室の一番後ろの列を陣取る複数の男女。その真ん中で気怠そうに欠伸を漏らす人物こそが、この学年の中でもカースト最上位に君臨する伊崎瑛心。
 ホワイトカラーのウルフヘアはどこにいてもよく目立つし、耳に付いているたくさんのピアスは周りを威嚇しているようで、近付こうという気を一瞬で削いでくれる。
 これで平凡な顔だったらまだ可愛げがあったのに、当の本人は派手な見た目に負けないぐらいの美形なのだから腹立たしい。小さな顔に綺麗なパーツが芸術作品のように完璧に配置されている。
 まさに陽キャの中の陽キャ。そりゃあんなに容姿が整っていたら、両隣から擦り寄ってくる女の子達をあんな風に適当にあしらったって、文句の一つも言われやしないのだろう。
「……人生イージーモードそう」
「あの顔で男も女もイケるってなればヤリたい放題だよなあ、うらやましー」
「え、バイってマジなの……?」
「空き教室で男に突っ込んでんの見たって先輩が言ってたからガチ。でも噂によると、絶対に同じヤツと二回目はしないっていうポリシー持ちらしい」
「クソ野郎じゃん」
 絶対に交わらない思考回路の持ち主だということだけはわかる。純粋に一途な恋愛がしたいのに毎回ダメンズに引っ掛かる惟央からしたら、ああも大っぴらに『クズです』と自己紹介をしているような男に嫌悪感を抱かないはずがない。
「いっそうちのダメンズホイホイとマッチングさせてみたらおもろいかも。ダメンズホイホイvs究極のダメンズのマッチアップ、どう?」
「無理。そもそも俺アイツ苦手だし」
「えーそんなこと言うの珍し。なんでよ」
「高校ん時なんか睨まれたことあるし、ああいうヘラヘラしてる男ってDV気質あるからコワイ」
「あー同級生だっけ。ってか、それはおまえの歴代彼氏の傾向な?」
 高校の同級生だなんて口にするのは憚れるほど、瑛心は別人のように変わってしまった。高校の頃はまだ、ただの美形な同級生という印象しかなかったはずなのに。
 一度だけ会話をしたことがあるが、それも大して盛り上がらずに終わってしまったし、きっと向こうだって自分みたいな目立たない男のことをいちいち覚えていないだろう。
 兎にも角にも、派手な見た目にクソみたいな倫理観を持つ男に対して、苦手意識を持つなという方が難しい。
「……まあでも、誰にも本気になれないってかわいそうかも」
 頬杖をつきながらぼそっと呟いた惟央の声は、誰にも届くことなく、喧騒の中に消えていった。

*

「イオくーん、こっちに目線お願い」
 カメラを構えた中年男性に呼び掛けられて、伏せていた瞼をそっと持ち上げる。艶のある黒髪を掻き上げながら、意識的に目尻を垂らして、ゆるりと口元に弧を描いた。
「いいね〜可愛い。次ちょっとベッドに転がってみて、うつ伏せっぽい感じで」
「こうですか?」
「そうそう、うわ〜っ期待以上! 最高だよ〜撮り甲斐があるなあ」
 白いシーツが敷かれた簡易的なベッド。上裸で紐パンのみを身に付けた惟央は、その上で自由自在にポーズを披露し、求められるままに表情を作っていく。
 パシャパシャと止まることなくシャッターを切る男性の声は、興奮しすぎて上擦っている。自分だけを本気で求めてくれるこの瞬間が心地良い。
 きっちり三分間。タイマーが鳴ってスタッフが声を掛けると、男性は後でねと手を振って去っていった。列の最後尾に再び並び直したのが視界の端にうつる。
 次の客は常連であるスーツ姿のサラリーマンだ。すぐに目の前にやってきて何も言わずにカメラを構えるので、うつ伏せの姿勢のまま挑発的にカメラを射抜いた。

 小遣い稼ぎにと思い切って男性専用の撮影会モデルを始めて一年が経つ。最初はNGを出していたはずの下着姿での撮影も、もう全く恥じらいを感じないぐらいには慣れてしまい、今では『イオ』は店で一番の稼ぎ頭だ。
 お触りは禁止、会話はオッケー。お目当てのモデルの前に列を作り、制限時間内に好きなように写真を撮って、時間が来たらまた並び直す。
 生活費の足しにもなるし、適度に承認欲求も満たされる。自分より年上の男達が必死になって自分を撮影するのは滑稽だが、繰り返しクズに引っ掛かる自分よりも惨めな存在だと思うと、幾分か気も紛れる。
「イオくん見て、凄くいい写真が撮れた。さっきの表情よかったよ」
「わー本当だ。ありがとうございます、渡辺さんの撮る写真っていつも素敵。自分じゃないみたい……」
「モデルがいいんだよ。今日はもう帰るけど、また次もよろしくね」
 ありがとう、と満面の笑みで手を振ってから、くるりと後ろを向いてペットボトルの水を煽る。
 さっきはああ言ったが、正直自分の映りがどうなろうがどうだっていい。自分の容姿にはとことん興味が持てないし、そもそもこの容姿のせいでダメな男を引き寄せてしまうわけだから、むしろ好ましいとは言えない。
 一度も染めたことのない黒い髪に、やけにぱっちりとした瞳と密度の濃いまつ毛。低い身長と華奢な身体のせいで女と間違えられたことは日常茶飯事だし、この顔に生まれて得をしてきたことの方が少ない。
 ため息を吐きたい気持ちをぐっと堪えて、飲み終えた水を机に置いた惟央は、営業用のスマイルを作りながら、くるりと元気よく振り返った。
「次の方、よろしくお願いしま…………」
 あまりの衝撃に語尾が消滅したのは初めてだった。笑顔を浮かべたまま固まってしまった惟央の前に、上背がある男性の影が立ちはだかる。
(いや、なにこれ。ドッキリ?)
 真っ白になってしまった頭の中で、必死に思考を巡らせる。心臓はバクバクと激しく音を立てていて、未だに目の前で起こっている現実を受け入れられない。
 見覚えのあるホワイトカラーのウルフヘア、見覚えのある威嚇ピアス、見覚えのある綺麗な顔。
 それは数時間前まで学問を共にしていた、そして決して交わらないと思っていた、あの究極の陽キャダメンズ──伊崎瑛心に違いなかった。
「……えっ、あの……」
「時間ないんですけど、はやくポーズしてくださーい」
 ベッドの前に立って狼狽える惟央の前で、瑛心は顔の前にスマートフォンを構えながらそんなことを言ってくる。ここに来る客はみんな撮影ガチ勢なので、スマホという無課金武器で来る客は滅多にいない。
(一体何を考えているんだ。コイツの目的は何? そもそも、俺が大学の同級生だと気付いているのか?)
「ほら早くして、お金払ってるんだから」
「あっ……ごめんなさい……」
 ここに入るには安くはないお金がいる。そこまでして何でこんな所に──と疑問は募るばかりだが、とりあえず撮影に集中することにした。
 ベッドのふちに腰掛けて、髪を耳に掛ける仕草をしながら視線を外す。するとカシャ、と写真を撮られた音がして、何とも言えない羞恥心に襲われた。
 いつもなら次から次に流れるようにポーズや表情を作れるはずなのに、この男の前だと思うと素人に戻ったみたいに身体がぎこちなくなって、言うことを聞かない。いくつかポーズを撮ってみたけど、どれもこれも全然自分の中でしっくりこない。
「ねえ、ベッドに手ぇついて」
 声を掛けられてようやく視線を向けると、瑛心が真顔でベッドを指差していた。ベッドに、手をつく。小さな声で確認するように繰り返しながらそうした後に、後ろから嘲笑が聞こえてくる。
「違うでしょ。もっとケツ突き出して」
「いや、それは……」
「──できないの?」
「……っ」
 威圧感のある声に、鼓動が跳ねる。暴れ回る心臓を抑えつけながら、シーツに手をついたままゆっくりと背中を逸らせて、ぐっと尻を後ろに突き出した。
 それだけで息が上がって、小刻みに身体が震えてしまう。こんな経験は初めてだった。
「そのまま、こっち向いて」
 もう何も考えられなくて、言われるがままに振り向くことしかできない。上気した頬に、浅い呼吸。垂れ下がった眉に、潤んだ瞳。こんなに情けない姿を一番苦手な男にさらけ出しているという事実が胸を掻き乱していく。
 こちらにスマホを向けている瑛心が、はっと息を吐き出すように笑った。
「……いいね、その顔。怖くて恥ずかしくてたまんないって顔してる」
 カシャ、とシャッター音がするのと、タイマーが鳴るのはほとんど同時だった。撮影会でこんな思いをしたのは初めてだ。ポーズをとるのをやめてふらふらと瑛心の前に向き直ると、彼はスマホの画面をこちらに向けてきた。
「ありがとーございました、"イオくん"」
 ゆるりと悪戯っぽく目が細められて、にっと笑った口元からは白い歯が覗く。画面の中には酷くはしたないポーズをして情けなく顔を歪めている自分が写っていて、サッと顔から血の気が引いた。
 待って、と引き留める間もなく去っていった瑛心は、最後尾に並び直すこともなく店から出て行ってしまったようだ。
(写真を撮られた。よりによって、一番ヤバいヤツに……)
 次の客が来てもしばらく上の空だったぐらいには動揺してしまって、その夜は結局一睡もできなかった。

 一夜明けて翌日。こんなにどんよりとした気持ちで大学に向かうのは初めてだ。
 険しい顔でずんずんとキャンパス内を歩きながら、頭の中では最悪な想像が膨らんでいく。
 もしも昨日のあの写真を誰かに共有されでもしたら──。
 惟央の平穏なキャンパスライフは即刻幕を閉じ、紐パン変態ゲイ男のレッテルを貼られ、後ろ指をさされながら残りの二年間を生きていくことになってしまう。
(そんなの死んでもごめんだ……!)
 大体あんな卑猥な撮影会のアルバイトをしていることなんて、普段一緒にいることの多い松野にさえ話していないというのに。
 とにかく一刻も早くあの写真を消してもらわないと、取り返しのつかないことになってしまう。
「あ、瑛心おはよ~。珍しく二限から来たんだぁ」
 今最も敏感になっている固有名詞が背後から聞こえて、惟央は咄嗟に勢いよく振り向いた。
 すぐ近くで朝から取り巻きに囲まれているその男を視界に捉え、無意識に臨戦態勢に入る。
 緩やかな笑みを浮かべながら仲間と会話を交わすその顔は、いつもと何一つ変わらないように見える。
 もう己の写真は誰かに共有されてしまったのだろうか……。
 真っ青な顔でハラハラとしながら彼のことを観察していると、不意にその瞳がこちらに向けられた。
「……」
 無言のまま見つめ合うこと数秒。惟央の常とは違う動揺した様子を見抜いたのか、瑛心はふっと口端を軽く上げてから、再び仲間の方に向き直った。
 なんだ今の顔は──。平然とした涼しげな表情には、今は憎たらしさすら覚える。
 呆然と立ち尽くす惟央のそばで、瑛心が唐突に「あ、そういえば」と声を上げるのが耳に届く。
「昨日さ、面白いの見ちゃったんだよね。おまえらにも教えてあげよっか」
 悪魔の一声に、心臓がひやりと冷たくなるのを感じた。案の定、彼の取り巻きは「なになに~?」と一瞬にして話に食い付き、輪の中で盛り上がりを見せている。
 瑛心が惟央の方を向いてくれる気配はもうない。いけしゃあしゃあとした横顔がいつ次の言葉を発するのかと思うと気が気じゃなくなる。
(──まずい。このままだと、バラされる……!)
 途方もない焦燥感に駆られた惟央は、気付けばその輪に向かって足を進めていた。がしっとその男の腕を掴むと、何を考えているのかわからない切れ長の瞳が、惟央のもとに向けられる。
「ちょっと、いいですか……」
 思わず敬語になってしまったのは、近くで見上げるその顔が、あまりにも迫力があったからだ。人間、顔が整いすぎていると恐怖を感じるのだとこのとき初めて知った。別に知りたくなんかなかったけど。
「誰?」
「同じ学部の永木じゃん?」
「ああ……」
 近くで取り巻きの会話が聞こえてきて居た堪れない。
 「ああ……」ってなんだよ。特筆することもないほど存在感が薄くて悪かったな、なんて考えていると──。
「ちょっと抜けるわ、先教室行ってて」
 そんな声と共に、気付けば逆に腕を掴み直されていた。ぐいっと腕を引っ張られ、つまずきそうになりながら前を歩く男の前を着いていく。
 しばらく歩いて、連れてこられたのは人気の少ない校舎の裏だった。ぱっと掴まれていた腕を離されて、瑛心がこちらに振り向く。
「……で、俺に何か用?」
 絶対にわかっているくせに、わざとらしく聞いてくるところが意地が悪いし、にこりとして一切崩れないその顔が逆に恐ろしい。惟央は腰の横で拳を握ると、意を決して口を開いた。
「昨日のこと、なんだけど」
「うん、何かあった?」
「だからその、……撮影したやつ、消してほしくて」
 後ろめたくて途中で声が小さくなってしまったが、なんとか言い切った。言い終わって伏せていた視線を上げると、瑛心と目が合う。柔らかな微笑みに少しだけ肩の力が抜けた。
 この男も悪い噂が先行しているだけで、案外話せばわかるタイプかもしれない。惟央だって先入観で苦手意識を抱いているだけで、この男の中身をこれっぽっちも知らないわけだし。
「あはは、消すわけないじゃん」
 ──しかしそんな淡い期待は、すぐに打ち砕かれることになる。
 軽薄そうな笑みを浮かべながら発せられたのは、惟央を絶望に突き落とす一言だった。
「昨日も言ったけど、あの店に入んのに安くない金払ってんのね。それ、おまえが払ってくれんの?」
「っ、必要なら払うから、だから……」
「っはは、そこまでして消してほしいんだ、おもしろ。だったらやんなきゃいいじゃん、あんな撮影」
 瑛心はクツクツと喉を鳴らして笑いながら、腕を組んで壁にもたれかかる。
「たまたま俺があそこに顔出しただけで、いつ知ってるヤツが来るかもわかんないんだよ。そんなリスク背負ってまで、何であんなことしてんの?」
「それは……」
 確かに瑛心の言うことは何一つ間違っていない。現れたのが偶然彼だっただけで、いつ誰に自分の痴態を知られることになるかはわからない。軽い気持ちで初めて、リスクなんて深く考えたこともなかった。それが今回、この男の登場により初めて危機感を覚えることになった。
「お金のためと、自分のために」
「自分?」
「承認欲求ってあるじゃん。あそこにいれば、よく知らなくてもみんな俺のこと好きでいてくれるから……って、いいでしょ別に、こんな話」
 きっと常日頃から複数の人間から求愛されているこの男になど、惟央の気持ちなんかわかるはずもない。ふいっと視線を逸らしながら無理やり話題を終えると、気まずい沈黙がその場に流れる。
「消してあげてもいーよ、写真」
 静粛を切り裂いたのは瑛心の声だった。思いがけずぱっと顔を上げると、視線の先で彼はじっと惟央を見下ろしていた。
「っ、本当?」
「うん。でもその代わり──」
 長い脚が一歩こちらに踏み込んで、それだけであっという間に距離を詰められた。僅かに腰を屈めた彼によって、ぐっと綺麗な顔が目の前に近付く。
「俺と付き合って」
「は?」
 思ってもいない方向から飛んできた提案に、惟央は素っ頓狂な声を上げるしかできなかった。


 人生は驚きの連続だ。
想像もしていなかった出来事がある日突然現実になるものだから面白い。それでもこれはいくらなんでも想像の範疇を超えている。
「うわっ……おまえ顔色悪いけど、どうした?」
 後から教室に入ってきた松野が、己の顔を見るなり驚いた顔をするのも無理はない。何せ惟央は今から数分前、あのチャラ男によって訳の分からない交渉をするはめになってしまったのだから。
「まっちゃん……俺の平穏なキャンパスライフはついさっき終わりを告げた。今まで仲良くしてくれてありがとう、短い間だけど楽しかった。俺はこのままアイツの玩具になるから、どうか俺のことは忘れて他のヤツと仲良く……」
「待って待って、なに? 何なのその面倒臭いモード、またクズに引っかかった?」
「引っかかったっていうか、どっちかというと引っかけられたっていうか……」
 今までのは告るにしろ告られるにしろ、確かに自分も好意を寄せてしまったのが原因ではあったが、今回のは違う。

『俺と付き合って』
『は? ぜったい無理』
 今からほんの数分前。瑛心によってとんでもない交渉の提案をされた惟央は、考えるより先に言葉を発していた。
 すぐにはっとして口を片手で押さえる。目の前の男はぴくりと眉を動かした。
『……一応聞いてあげるけど、なんで?』
『ひっ……』
 声も表情もさほど変わらないのに、この威圧感は何だ。身を縮こまらせながら、おそるおそる小さく声を漏らす。
『だ、だって……あんた、良い噂聞かないし……』
『うん、それで?』
『付き合うったって、そもそもあんた特定の相手は作らないんじゃ』
『へえ、そんな噂が流れてるんだ。心外だなぁ』
 瑛心は言いながら悲しそうに瞼を伏せる。しかしその声色は明るく、全くもって悲観しているようには思えない。
『まあなんでもいいや、とにかく付き合ってよ。最近セフレ減らしてるとこだから、毎日クソ暇なんだよね』
『いや、だから俺は……』
『はいけってーい、じゃあ手始めに連絡先教えてよ。スマホ出して?』 
 おろおろしているうちにあれよあれよと巧みに丸め込まれ、気付いたときにはスマホを奪われて勝手にあの男と連絡先を交換していた。呆気にとられる惟央を置いて瑛心はあっさりどこかに消えてしまうし、まるで見かけ通り嵐のような男だ。

「はあ、まあよくわからんけど、どうせおまえのことなんだし、相手はまたクズなんだから付き合わない方がいいんじゃない?」
「いや俺だってできることならそうしたいけど、写真が……って地味に失礼だなおまえ」
 忌々しい回想をしていると、松野の憐れんだような声が聞こえて現実に引き戻される。
 ──そうだ、写真。そういえばまだ消してもらってない……!
 あまりにも怒涛の勢いで話が進むので、そこまで気が回っていなかった。目の前であの写真を消してもらわないことにはまだ安心はできない。
「あ、伊崎瑛心だ。今日もえぐい歓迎のされ方だな」
 松野の声にハッとして視線を向けると、後方の扉から教室に入ってくる瑛心の姿が見えた。取り巻きの男女に「瑛心こっち~」と手招きをされている。その様子を眺めていると、ふといつもなら交わらないはずの視線がばちっと重なった。瞬間、嫌な予感が頭をよぎる。
「あれ、今日はあっち座らないんだ。珍し~」
 呑気な声をあげる松野の横で、惟央はばっと勢いよく顔の向きを前に戻した。心臓がばくばくと音を立てている。
 いや、そんなはずはない。俺が見ていたからたまたま目が合っただけだし、さすがにこれは自意識過剰だろう。
 そんな風に自分に言い聞かせながら、必死に見えない背後に意識を集中させていると──。
「なんで無視すんの」
 笑い混じりの声がすぐそばから降ってきて、びくっと肩を揺らしてしまった。
「今目ぇ合ったでしょ」
「……」
「あれ、まだ知らないふり続行中? 酷いなあ、イオくん」
 絶対に振り向くもんかと思っていたはずなのに、名前を呼ばれて意表をつかれてしまった。
「──俺達付き合ってんのにね?」
 ぐりんと首が痛くなるほどの勢いで咄嗟に振り向けば、したり顔で口角を上げる白い髪の男と目が合った。
 しまったと思ったのも束の間、やたらと目立つその男のせいで、周囲がざわつき始めるのがわかる。隣の松野は口を開けたまま瑛心を見つめて硬直していた。
「ってことでごめん、ちょっと席替わってくんない? えーと、きみ」
「……あ、ハイ。松野っす、わかりました」
 通路側に座っていた松野はすくっと立ち上がると、荷物を纏めてさっと身体を避けた。すかさずそこに瑛心が割り込んできて、惟央の隣によいしょと声を漏らしながら腰を下ろす。そのまま前の列に腰掛けた松野がこちらを振り向いて、ご愁傷様ですとでも言いたげにそっと手を合わせてくるのを呆然と眺めていると、突然身体が右に大きく傾いた。
「イオくんっていつもこの辺座ってるよね。理由あんの?」
「いや特に……ってか、近いんだけど……」
 会話をするのに肩を組む必要はあるのだろうか。すぐ近くに綺麗な顔があって目のやり場に困る。
「ふーん。じゃあ明日からは、俺と一緒に座ろうね」
 何を考えているのかわからない、この軽薄そうに見える笑みが苦手だ。じわりじわりと、日常が侵食されていくような恐怖を感じる。
 一体俺はこの先どうなってしまうのか。初めからクズだとわかっている男にわざわざ捕まりに行くなんて、光の見えないトンネルに放り込まれたようなものだ。


 一人目の男は浮気。二人目と三人目はDV、四人目はモラハラ。付き合うごとに豹変する彼氏達。その結果、ついた二つ名は『ダメンズホイホイ』。
 それでも五人目こそは──。
 そんな風に意気込んでいたはずなのに、その五人目がまさかダメンズ確定だなんてさすがに人生クソすぎる。
 五人目の男、伊崎瑛心。学部内でも有名なバイのヤリチンで、同じ相手と二度は寝ないという生粋のクズ。そんな相手と付き合ったところで、都合のいい性処理の相手に使われて、飽きたらポイと捨てられるに違いない。
 そう、思っていたのだが──。
「イオくんの部屋って冷房の効き悪いよね」
 なんの遠慮も持たない言葉が、狭い室内にぽつんと落とされる。惟央は冷たいフローリングの上で三角座りをしたまま、ベッドの上に寝転がってスマホを触っている男を振り返った。
「そう思うなら自分の家に帰ればいいのでは」
「今度から俺の部屋にしよっか。学校から近いから毎回イオくん家になっちゃうんだよね」
「話聞いてます?」
 絶妙に話が噛み合っていない、というか、意図的に話を逸らされている。じろりと視線を向けると、瑛心がスマホを置いて身体を起こした。
「暇だし映画でも観ようよ。なんかサブスク入ってないの?」
「入ってない」
「狭いし蒸し暑いしサービスも悪いとか……二度とこねえ」
「だから自分の家に帰れって」
 口を開けば文句ばかり言うくせに、講義の合間に毎日のようにやってきては夜遅くまで居座るのだから、意味が分からない。
 うそうそ、と楽しそうに白い歯を見せて笑う姿は、だけど案外年相応で可愛げがある。そんなことに気付いたのも、あの交渉の日から二週間が経過した今日この頃。
 写真を消す代わりに付き合え、なんて悪魔の契約のような最悪の交際をスタートさせた当初は、崖の上から身を投じるレベルの覚悟をしていた惟央だったが、今は拍子抜けするほど平和な日々を送っていた。
 というのも、てっきり毎日のように身体を求められるのではと警戒していたのに、この男は一切そういう誘いをしてこない。家に来ても今みたいにだらだらと寛ぐばかりで、日が暮れればバイバーイとあっさり帰っていく。
 写真も目の前で消してもらうのを見たし、惟央からしたらありがたい話ではあるのだが、このヤリチンが何も手を出してこないのはそれはそれで不気味だし、この関係は何のためにあるのだろうと目的がわからなくなる。
「ねえ、その……セフレってまだいるの?」
「え? どうしたの急に」
 気まずい気持ちになりながら問い掛けると、瑛心はきょとんとした顔でベッドのふちに座り直した。
「付き合ってって言われたとき、てっきりそういう目的なんだと思ってたから」
「……あー、俺が他でヤッてきてんじゃないかって?」
「色々考えてみたけど、それぐらいしか浮かばないし」
 じゃなきゃこんな、中学生の恋愛ごっこみたいな無駄なことをこの男がするはずがない。別に惟央はこの男のことを本気で好きなわけでもないし、それでも全然構わないとは思っている。セフレが何人いようが、どこで誰と何をしていようが、興味も関心も持たないし、束縛する理由がない。
「ないない。大体ヤリたいだけなら付き合ってとか言わないでしょ。それこそセフレで充分だって」
 しかし惟央の考えに反して、瑛心はあっけらかんとした様子でそう答えた。
「イオくんと付き合ってすぐに全員切ったよ。夜もまっすぐ自分ん家に帰ってるし、心配なら寝るまで通話繋げといてもいいけど」
「え……いや、そんなことまでは……。てか、じゃあ何でしないの」
「したいの?」
 聞き方を間違った、と思った。急に身を乗り出した瑛心に顔を近付けられて、反射的に顔を背ける。
「したいなら全然するけど」
「し、したくない……」
「でしょ? だからいいよ。イオくんがしたくなるまで待つ」
 瑛心はクスクスと笑うと、すんなりと身を引いていった。言われた意味がちっとも理解できない。俺がしたくなるまで待つ? じゃあ一生したくないって言い続けたら、一生手を出してこないってことか。
 初めてだった、そんなことを言われたのは。今までの男は皆、惟央の意思など関係なしに好きなときに身体に触れてきたから。
「なんでそんな、俺に優しくすんの」
 だからつい、そんな言葉が出た。責めるように瑛心を見上げれば、困ったような微笑みが返ってくる。
「なんでだろうね」
 この男と一緒に過ごすうちに、わかったことが一つある。
 はぐらかすのがとっても上手なこと。喋る言葉のうちの、どれだけが本音なのだろう。もしかしたらこうして優しくしてくることだって、何か別の目的があって、そのための嘘かもしれない。
「……変なの」
 聞くだけ無駄だ。胸の奥にちりっと何かが弾けるような気分になって、惟央は彼から視線を逸らした。
「あ、そろそろバイトの時間だ」
 視線の先に映った壁掛け時計を見て、惟央は声を上げた。テスト期間に入ったためしばらくの間シフトに入れていなかったが、今日から復帰の予定なのだ。
「バイトって?」
「え? 撮影会の」
 立ち上がりながら平然と答えると、瑛心の顔から表情が抜け落ちた。
「なんで?」
 低くなった声に違和感を覚える。さっきまでの笑顔が嘘のような冷たい表情に、背筋にぞくっとしたものが走った。
「なんで、って……そろそろお金稼がないと、家賃とかあるし」
 別に毅然としていればいいはずなのに、なんだか悪いことをしているみたいだと、口にした後に思った。
「付き合ってんだよね、俺ら。恋人がいるのに他の男の前で裸になるのは、イオくんにとって普通のことなの?」
「それは、違うけど……」
 だってあんたとの関係は、ただの契約に過ぎないじゃないか。
 心の声を口にするのは躊躇われる。視線の先で惟央を見据えるその目は、軽蔑するような無機質な色をしているからだ。
「っ、うわっ……!」
 ぐいっと腕を引っ張られて、気付いたときにはベッドの上に仰向けに転がされていた。
 間髪入れずに上に乗ってきた瑛心は、惟央の両の手首を掴んで、頭上でシーツの上に縫い留める。
「わかんない?」
 いつもより低い声が耳に届く。冷ややかな瞳に見下ろされて、ごくりと息を呑んだ
「それとも、知らないおじさんにこういうことされるの、期待してんの?」
「い、嫌に決まってる……」
「言ってることとやってることがずれてんだよな」
 身動きを封じられ、じっと見下ろされているだけ。どこにも触れられていないのに、乱暴さを閉じ込めたような仄暗い瞳と視線が交わるだけで、変に腰が疼いてしまう。
「……は、なんでここ勃ってんの」
「えっ……」
 まさか、と思いながら視線を落とすと、Tシャツの胸元で二つの突起が主張し始めているのが映った。
(嘘だろ、一ミリも触られてもないのに、こんなの──!)
「へえ」
 鼻で笑うような声がして、視線を再び戻す。
「俺いま結構怒ってんだけど、なに勝手に期待してんの」
「違う! へ、変な目で見るから」
「見られただけで勃つんだ? ますます見過ごすわけにはいかないなー……」
 小馬鹿にしたように息を吐いた瑛心の顔が、ゆっくりと片方の突起に近付く。このままだと唇が触れてしまう。それなのに惟央は抵抗することもせずに、少し荒くなった息のままその様子を眺めていた。
 伏せられていた瑛心の視線が自分に向けられたとき、ピリピリと電流が走るような痺れが駆け上がる。あと数センチ、あと数ミリ──。
 しかし、そのときが訪れることはなかった。惟央の上からあっさりと瑛心が退くのを、呆然としたまま見つめる。
「スマホどこ?」
「えっ……そこの、机の上」
 瑛心は惟央のスマホを手に取ると、つかつかとこちらに戻ってきた。
「今すぐ電話して。この場で、バイト辞めるって」
「は?」
 突然のことに目を見開く惟央の前で、瑛心は有無を言わさないような圧の強い眼差しで見下ろしてくる。
「まさかこんなにちょろいのにまだ続ける気じゃないよね? わかったでしょ、自分がどれだけ警戒心が薄いか。いまだって俺じゃなかったら無理やり突っ込まれてたよ」
「それはっ、そうかも……だけど……。でも、生活もあるし」
「他のバイトなんていくらでもあるじゃん」
「……」
 まただ。口調は決して強くないはずなのに、決して逆らってはいけないと本能が言っている。結局惟央は言われるがままに、瑛心の目の前で、店に辞める旨を伝えさせられた。
 通話を切り終えた後、正座のまま顔を上げると、正面で綺麗な顔が満足そうに緩んでいた。さっきまでの冷ややかな表情が嘘のようだ。
「ふは、こっちも勃ってる」
「……っみ、見るな!」
 言われて視線を下げれば、膨らんでいる股間が丸見えだった。かあっと顔を赤くしながら背けると、クツクツと喉を鳴らす声が後ろから聞こえてくる。
「お仕置きのつもりだったのに全然嫌がんないし、心配になるよ」
「そりゃ、あんなことされたら……誰だってこうなるし」
「いやならないでしょ。……どこぞのゴミクズに乳首開発されてんのも腹立つな」
 一瞬また声色が低くなった気がして振り返るが、その顔は飄々としている。気のせいだったのだろうか。
「期待してんのに申し訳ないけど、イオくんがいいって言うまではしないって約束したもんね。仕方ないか」
 やけに嫌味のある言い方だ。確かにそうは言ったが、あそこまでしたんなら責任をとって最後までしてくれたって。
 そこまで考えてしまってハッとした。
(今俺は何を考えた……? こんなヤリチンに挿れてほしいだなんて……!)
「じゃあね、おやすみ。帰ったら連絡するね」
 悶々と思考を巡らせる惟央とは対照的に、すっきりした様子の瑛心が背を向けて玄関へと向かっていく。彼が去っていった後に、依然としてズボンを押し上げる硬くなった自分のそれと見つめ合って、頭を抱えるはめになった。


「いや~ビックリしたわ。まさか本当におまえらがマッチングしてたとは」
 昼時の食堂は混雑していて、席を取るのも一苦労だ。トレイを持ったままうろうろすること数分、ようやく向かい合って着席した矢先に、松野がそんな話題を切り出した。
「あれから見かけるたびにおまえの近くにアイツいるしさあ、やーっと話せたよ」
「はあ……なんかごめん」
「俺の彼氏が嫉妬深くてごめーんって?」
「ちげえよばか」
 松野と話すのは随分と久しぶりだ。少し前まではあんなにずっと一緒にいたのに、今は惟央の隣にはあの白髪の男がいることが当たり前になっている。
 今でこそ落ち着いてきたが、初めの方はもっと酷かった。被っている講義はおろか、自分が取っていない講義でさえ無理やりついてきて、隣でひたすら退屈そうにスマホを触るだけの素行の悪さ。しまいには突っ伏して舟を漕ぎ始めて、何故か惟央の方が教授の目を気にして居た堪れなくなることもあった。
「で、今日は何でいないの?」
「三限からだからまだ来てないだけ」
「うわ、おまえといるのバレたら俺殺されない?」
「さすがにないだろ」
 ポケットの中でスマホが振動している。間違いなく相手はあの男で、内容はきっと今起きたとか今家を出たとか、そんな感じのどうでもいい報告だろう。
「そもそもあの人、何考えてるか全くわかんない。イメージと違うっていうか、もっと淡泊そうな感じだと思ってたのに」
 どちらかというと恋人とは極力連絡を取りたくないタイプだと思っていたし、用がなければ無理に関わりたくないタイプだと思っていた。
 それが蓋を開けてみれば、おはようからおやすみまで逐一メッセージが入るし、十分以内に返信をしなければ鬼電。惟央の時間割を完璧に把握して、キャンパス内では隣を死守され、他者と話す隙さえ与えられない。大学が終わればどちらかの家で特に用もなく過ごすだけの毎日──。
「でもおまえ、なんだかんだで受け入れてんだな」
「え?」
「昨日二人で歩いてるところ見たときに思ったんだよ。なんか最初の頃より大分まとまったなーって。惟央が彼氏に自然体で接するの、なかなかレアじゃない?」
 言われてみれば思い当たる節があった。過去の恋人との交際中、惟央は彼らに対して見えない壁を築いていた。一番最初の恋人に浮気されていたことがトラウマで、無意識に自分を取り繕う癖がついてしまっていたのだ。
 だけどあの男はどうだ。ずかずかと惟央の日常に踏み込んできて、そのくせ惟央には変化を求めない。なにかにつけて苦言を呈するようなこともなく、ただ自然に惟央の生活に溶け込んでいる。まるでそこにいるのが最初から当たり前だったかのように。
「……」
 写真は消してもらった。でもこの関係は続いている。いつ終わるのだろう。あの人もいつか自分に飽きたら、いなくなってしまうのだろうか。
「惟央?」
「……ちょっとトイレ」
 不思議そうな松野の前で静かに立ち上がると、騒がしい食堂を抜けて廊下に出た。スマホを確認すると、届いたメッセージはやっぱり瑛心からのものだった。
〈起きた〉
〈家出る〉
 予想通りの文面に、思わず小さく吹き出してしまう。起きたと家を出るの間はものの十分ぐらいしか経っていなくて、相変わらずギリギリで生きているようだ。
〈気を付けて〉
 惟央がそれだけ打ち込んで送信すると、すぐに既読が付いた。瑛心がよく好んで使っている変な犬のスタンプが送られてきて、無意識に顔が緩む。
「惟央?」
 不意に名前を呼ばれて顔を上げると、目の前に驚いたような顔のひょろっとした男が立っていた。その姿を目にした瞬間、惟央の顔が一瞬で曇る。
「久しぶり~。同じ授業とってんのに全然会わねえもんだな」
「……そうだね」
 数か月前まで付き合っていた、市川だ。あんたのいる席の近くには近寄らないようにしているんだから、顔を合わせないなんて当たり前だろう、と心の中でつっこみを入れる。
 市川は相変わらずニヤニヤとした顔をしている。その目を見た瞬間、今から失礼なことを言われるのだと一瞬で理解した。
「おまえさあ、もう新しい彼氏できたんだって? まだ俺と別れてちょっとしか経ってねえのに、すげえよなあ」
 案の定、噂は耳に入っていたらしい。目を合わせたくなくてリノリウムの床に視線を落とす。それがしおらしく見えたのか、市川はますます調子を上げる。
「もうヤリまくってんの? おまえ俺のときもすごかったもんなあ。毎日咥えさせてってオネダリしてきてさあ」
「ちょっと……ここ大学だから」
 辱めたくてわざと大きな声を出しているのだろう。廊下にはそれなりに人がいて、ちらちらとすれ違う人達が惟央達のことを気にしているのがわかる。
 咥えさせてって何だ。一日に何度も口淫を強制してきたのはあんたじゃないか。
 言い返したいけど、こんな男を相手に何一つ言い返せない自分が憎い。付き合っているときだってそうだった。嫌なことは嫌と言えばいいのに、自分を隣に置いてくれることがありがたくて、顔色を窺ってばかりいた。
「なんだよその面。相変わらず辛気臭いな~。そんなんでよく男落とせたなあ、お得意の色仕掛けでも使ったの?」
 返事もしていないのにペラペラと話し続ける市川の声が、惟央の顔から表情を失わせていく。仮にも好きだった相手だ。もう微塵も気持ちは残っていないとはいえ、そんな風に思われていたと思うとくるものがある。
「でもよかった。おまえと別れて正解だったよ。おまえと付き合ってたって、楽しくなかったし」
 ダメンズホイホイなんていうが、本当にダメなのは俺なんじゃないか?
 俺が上手に振る舞えないから、相手に不快感を与えているのではないか?
 次第にそんな思考に毒されてきて、公衆の面前で説教をされても俯くことしかできない。服の裾を握っていた手を、ぶらんと離したそのとき、背後に気配を感じた。
「誰コイツ」
 すぐ後ろから声がしてハッと我に返った。顔だけ振り向くと、惟央の背中にくっつくようにして、見慣れた白い髪の男が立っていた。
「イオくんの知り合い?」
 すました顔をしている瑛心は、惟央の胸の前に片腕を回し、ぐっと自分のもとに引き寄せながら問い掛ける。瑛心の匂いに包まれて、ほっと胸を撫で下ろした。
「元カレ」
「…………あー」
 見上げた先でその眉がぴくりと動くのを見た。妙な間の後に、何かを悟ったような彼が冷ややかに目を細める。
「もしかして惟央の彼氏っすか?」
 するとしばらく黙っていた市川が、瑛心に視線を向けた。
「そいつと一緒にいてもつまんないでしょ。真面目のいい子ちゃんすぎて刺激足りないし、何言ってもヘラヘラ笑うばっかりで。セックスだってマグロだし」
 一番聞かれたくない相手に一番聞かれたくない話をされて、惟央は再び視線を下げた。こんなことを聞かされて、瑛心はどう感じるのだろうか。愛想を尽かされてしまうかもという不安がよぎって、身体が固まってしまう。
「早いうちに別れた方がいいっすよ」
 ヘラヘラと笑いながら言う市川の言葉を、瑛心は静かに聞いていた。
「……ありがとう」
 過呼吸になりそうな緊張感の中、後ろからそんな声が聞こえて、唇を噛んだ。
 これで終わりなのだろうか。ひっそりと覚悟を決めたそのとき、自分を抱き締める片腕に僅かに力が込められるのが伝わった。
「おまえの価値観が死んでてよかった。おかげでこの子手に入れられて俺いま超ハッピー。感謝するよ」
 やたらとハイテンションで後ろの男が語るのを、惟央は信じられないような気持ちで聞いていた。
 てっきり早々に捨てられると思っていたのに。言葉を失っていると、クツクツと笑いながら顔を覗き込まれる。
「つかなに、真面目のいい子ちゃん? えーっと、イオくんのことで合ってる?」
「……おい笑うな」
「っはは、だってさ。おまえコイツの前でどんだけ猫被ってたの」
「うるさいな、それはコイツが馬鹿みたいに女っぽくしろってしつこいから、そういうふりをしてやってただけで……!」
 言いながらハッとした。市川のことをコイツ呼ばわりするのも、市川の前でこんなに口調を荒げるのも初めてのことだった。やばいと思ったのは一瞬で、すぐにそんな不安は消し飛んだ。
 ぽかんとした顔の市川の顔はあまりにも滑稽で、何だか清々しい気持ちになってくる。なにを怖がっていたんだろう。自分を大切にしてくれない人間のことなんて、気遣う必要なんかないのに。
「……この子可愛いでしょ。でもだめだよ、もう返してやらない」
 ぶら下がっていたもう片方の腕も、同じように惟央の胸の前にまわされて、ぎゅっと抱き締められる形になった。肩に顎を乗せられて、ずしりと重みが走る。
「──俺のだから」
 勘違いしそうになる。こんなの、本当に愛されているみたいな錯覚に陥って心臓に悪い。頭の中でそう冷静に捉えていたって、身体はちっとも言うことを聞いてくれなくて、心臓は激しく暴れ回っている。
「あと俺死ぬほど嫉妬深いから、金輪際俺の許可なく話しかけないでもらっていいですか。ぶっ殺したくなっちゃうから、おまえのこと」
 軽そうに見える笑顔でとんでもないことを吐き出した後に、じゃあねー、と言いながら手を引かれた。
 前を歩く瑛心は心なしかいつもより僅かに機嫌がいい。絡められた指をじっと見つめた後、そっとその背中に声を掛けてみた。
「……嫌になったかと思った」
「なるわけないじゃん」
 不安ごとを全部吹き飛ばすみたいな即答をした後、瑛心は立ち止まってこちらを振り返った。
「俺のこと見くびらないでよ。あんなゴミクズの言うことなんて全然響かないし。俺の前にいるイオくんが全てでしょ」
「……」
 どうやら色眼鏡で見ていたのは惟央の方だったらしい。ヤリチンだとかダメンズだとか、最初からそんな風に勝手に決めつけて、一線を引こうとしていた。
 だけど違うのかもしれない。そう思ってしまうのは、こんなにまっすぐに等身大の自分を知ろうとしてくれる人は、今までにいなかったからだ。
「ありがと」
 その目を見つめて声に出せば、その目は一瞬丸くなった後に、機嫌良さそうに細められた。


 土砂降りの雨に打たれるみたいな最悪な恋をしたこともあったし、うまくいかないことばかりで自暴自棄になりそうなときだってあった。
 だけど生きていればこんなに平穏な日々もやってくるのかと思うと、冴えない過去すら受け入れられるような気がする。
「起きて、講義終わった」
「んー……」
 大教室での講義を終えると学生達がぞろぞろと動き出し、すぐそばの通路を通って廊下へ出て行く。惟央は未だに隣で机に突っ伏すその男をツンツンと突いた。
「ねえってば。早く起きないと置いてくよ」
「とか言って、いつもちゃんと俺のこと待ってくれるじゃん」
「……起きてるのかよ」
 顔を上げた瑛心は満足そうににこやかに目尻を垂らしている。
「一生懸命俺のこと起こすイオくんが可愛くてつい」
「はいはい。次空きコマだけどどうする?」
「んー、じゃあカフェ行きたい。ほら、この前SNSで見かけて気になってたとこ」
「でっかいパフェあるとこ?」
「そうそれー」
 トイレに行くという瑛心を見送って、すぐそばのベンチに座って彼を待つ。
 市川と喋ったあの日から、瑛心に対する警戒心が完全に消えてしまった。それなりに長いこと友人関係を続けていた市川よりも、付き合ったばかりの瑛心の方に安心感を覚えたことを自覚してしまったせいだ。
 暇潰しにゲームでも起動しようとスマホを開いたタイミングで、手に持っていたそれが震え始めた。着信先を見た瞬間に、大きなため息を吐きそうになる。
 まただ。ここのところ毎日のようにずっと。もう何度目かのその表示に飽き飽きとしながら無視を決め込もうとした惟央は、一瞬迷った後に「応答」をタップしてやった。
「……もしもし」
『……っ!? あーっ、やっとでた! もう、心配したんだよ!』
 スマホ越しに聞こえてきたのは、懐かしい声だった。
 撮影会素人だった惟央を人気ナンバーワンモデルにまで育て上げてくれた、いわば師匠のような存在の店長である。
『急に辞めるって言われたって他のスタッフに聞いたから! そんな無責任なことする子じゃないしって思って、何回も電話したけど出ないし……!』
「……ごめんなさい、ちょっと事情があって……あの日も撮影に穴開けて、すみませんでした」
 瑛心の目の前で店に電話をさせられてから一ヶ月は経っている。ずっとお世話になっていたから、罪悪感は拭いきれなかったのだ。
『はあ、でも元気そうで安心した。何があったのか知らないけど、辞めるっていうのはきみの意思なんだね?』
「……はい。あのときは違ったけど、今はそうです」
 撮影会の話をするたびに瑛心の機嫌が目に見えて悪くなるので、なんとか地雷を踏まないようにはしているつもりだ。店長にも直接謝罪できて、もうこれで本当に未練はない。
『……そう。わかったよ。でもごめん、一つだけお願い聞いてくれる?』
「なんですか?」
『最後にもう一度だけ、撮影会に出てくれない?』
 思ってもみなかった頼みごとに、すぐに頷くことはできなかった。言葉を詰まらせる惟央に畳み掛けるように、店長がだって〜と言葉を続ける。
『ウチだっていきなり売り上げ一位のきみが抜けちゃって大変なんだよ〜。お客さんからの圧やクレームもすごいし……イオくんだってお世話になったお客さんやスタッフだってたくさんいるでしょ?』
「……そう、ですけど……」
『イオくん卒業式って形にするから! ラストだってちゃんと皆に伝えて、筋通しなさいよ』
 真っ先に頭に浮かんだのは瑛心のことだ。あれだけ撮影会を毛嫌いしているのだから、もし見つかったらきっとタダじゃ済まない。
 でも確かに店長の言う通り、一年間もの間お世話になってきたバイト先だ。あんな形で終わりにしないで、最後にしっかりケジメを付けるべきだろう。
「──わかりました。じゃあ、今週の土曜夜なら」
 通話を切ると、おまたせ、とすぐ後ろから声が聞こえた。一瞬ビクッとしてしまったが、すぐに平静を装いながら振り返る。
「誰かと話してた?」
「あー……母さんから。仕送り届いたかって」
「そうなんだ」
 瑛心はそれ以上突っ込んでくることはなかった。ほっと胸を撫で下ろす。
「じゃあパフェ食べ行こ」
「うん」
 嘘をついているみたいでなんだか胸が痛い。誤魔化すみたいに繋がれた手をぎゅっと握り返した。
 大丈夫。一晩だけだし、さっと撮って帰ってくれば、きっとバレることはない。

*

「イオくんお疲れ様でしたー!」
 温かい拍手に包まれて、惟央は眉を下げながら深く頭を下げた。見知った客に何度も会釈をしながら、撮影部屋を後にする。
「やだー、寂しいよ〜。イオくん辞めちゃうなんて」
 控え室に戻ると、モデル仲間の男の子が声を掛けてきた。
「仲良くしてくれてありがとうね。同期だから勝手に親近感抱いてた」
「えー、僕もだよ。一度イオくんとセット売りしてもらえたおかげで人気出たし、ホントありがとう」
「俺は何もしてないよ。これからも密かに応援してるから、頑張ってね」
 撮影は順調に終わった。予め下着撮影にはNGを出していたので私服での撮影にはなったが、それでも久しぶりに顔を出した惟央の姿を喜んでくれる客はたくさんいた。
 こんなに自分を必要としてくれる場所を自ら手放すなんて、今までの自分なら考えられなかった。
 だけど今の惟央はもう、この場所がなくても不思議と満たされている。
(ぼーっと考える暇もなくアイツがくっついてくるせいなのかな)
 身支度を済ませながらその人のことを思い出し、無意識に笑みがこぼれた。
 瑛心は今日はバイトのシフトが深夜まで入っている。いつもならこの時間は一緒にいるはずだからか、撮影中もやたらとその顔ばかり思い出してしまった。
 そばにいないと落ち着かないなんて、我ながらどうかしている。でも彼の隣にいる自分は、嫌いじゃない。
「お疲れ様です」
「お疲れ〜。気を付けて帰ってね」
 スタッフに挨拶を交わして、惟央は店を後にした。
 珍しく通知のない静かなスマホを手に取りながら、夜道を歩く。何かメッセージでも送ってみようかな。自分から送ることなんて滅多にないけど、今日はそんな気分だ。
「イ、イ、イオくん……っ」
 後ろから振り絞るような声がして振り向くと、さっきまで撮影会に来てくれていた客がそこに立っていた。最近になって通うようになってくれていた、背の高いサラリーマンだ。
「あ……森澤さん、お疲れ様です」
「お、お疲れ……っ! 今日の撮影ありがとね、久しぶりにイオくんのことを撮れて嬉しかった……!」
「ありがとうございます。駆けつけてくださって嬉しかったです」
 言いながら、マスクを下げて愛想笑いを浮かべる。
「それじゃあ」
 ぺこりと会釈をして去ろうとしたそのとき。
「あ、ま、待って……!」
 森澤に肩を掴まれて、再び足を止めた。長い爪が食い込むほどの力強さに、顔を歪めてしまう。
「ずっと出てくるの待ってたんだ。よかったらこの後、お茶でもしない……?」
「……ごめんなさい、今日はちょっと」
「どうして? 急に辞めるなんて言い出したり、下着撮影もNGにしてたり……彼氏でもできた?」
 とうとう両方の肩を掴まれた。森澤の目はギラギラと光っていて、これはやばいと直感する。
 人通りの少ない夜道だ。街灯も少なく、近くには廃れた商業ビルが立ち並ぶばかり。助けを求めることもできそうにない。
「……っ、や、やめてください」
 逡巡しているうちに森澤の手が惟央の尻に降りてきた。身体をくっつけて、興奮したような荒い息を耳元で響かせながら、ねっとりと尻を揉まれている。
(気持ち悪い……)
 抵抗しようにもびくともしない。不快な刺激に耐えることしかできず、何度も唾を呑み込んで気持ちを整えようとする。それでも全然大丈夫になれなくて、がたがたと身体が震えて止まらない。
「はあ、ずっとこうしたかった……きみだってあんなにエッチな格好して、ずっと触られたかったんだろ?」
「ち、違う……俺はそんなつもりじゃ……」
「でも他の人達はみんなそう思ってるよ。何されたって文句言えないよね……きみが悪いんだよ」
 森澤の手がスラックスの中に入り込んできて、ひくっと喉が鳴る。下着越しに尻を揉まれて、生理的な涙が目に溜まって、唇が震え出した。
 こんなことになるなんて思わなかった。慢心していたのだろうか。撮影会に行くなと止められたあのとき、あの人にしっかり忠告されていたのに。
「……っ」
 瑛心に会いたいなんて、こんなときにあの顔ばかり浮かぶなんて──。嘘を付いて出勤して、合わせる顔なんてない。こんなの自業自得だ。
「だから言ったじゃん、いつか痛い目見るよって」
 聞き馴染んだ声がすぐそばで聞こえたと思った瞬間、ずっときつく身体に絡みついていた森澤が突然、物凄い勢いで離れていった。驚いて瞼を開くと、さっきまで頭の中で思い描いていた人物が目の前に立っている。
「俺の言いつけ守れなかった悪い子みーっけ」
「瑛心……」
 闇の中で彼の白い髪だけ光って見えて、その表情がはっきりと鮮明に視界に映る。明るく笑う彼を見てほっとしたのも束の間、その瞳の奥が笑っていないことにすぐに気付いて、息を呑んだ。
「おい、何なんだきみ、急に人のことを突き飛ばして……!」
 尻餅をついた森澤が立ち上がりながら言う。しかし瑛心が彼を一瞥すると、森澤の顔がさっと青褪めた。
「俺いま超機嫌悪いんだよね。おまえの顔見たら何するかわかんないから、さっさと消えて」
 森澤の方を振り向いていたから、どんな顔をしていたのかはわからない。森澤はガタガタと震え出すと、足を縺れさせながら情けない体勢でどこかへ走り去っていった。
「……で?」
 瑛心がようやく惟央の方に顔を戻す。光を宿さないブラックホールのような瞳の中に、怯えた顔の自分が映っている。
「なんか言うことある?」
「……下着には、なってない……」
「うんどうでもいいよ。だから許してって? 随分とナメられてるなあ」
「そんな、意味じゃ……」
 心臓が嫌な音を立てている。目の前にいるのは瑛心なのに、瑛心じゃないみたいだ。
「あーあ、嘘吐いちゃったね。惟央」
 死刑宣告のようなその響きは、惟央のもとに絶望感を与えるだけだった。

*

 耳を塞ぎたくなるような水音が、ピンクとブラックを基調とした煌びやかな室内に響き渡っている。それが自分の身体から発せられていることを自覚するたびに、中を掻き回す彼の指をきつく締め付けるのが自分でもわかってしまう。
 両の手首はベルトで縛り付けられて自由が効かないまま、四つん這いの体勢で後孔を弄られ続けている。もう何十分も達する直前で寸止めされて、気が遠くなりそうなほどの快感を無理やり与え続けられているせいか、喉はからからで声は掠れて、意識が朦朧として視界がぼやけ始めた。
「──こら、とぶな」
 すかさず降ってきた声と同時に、ごりっと中の弱い部分を的確に指が突く。
「……っあ、あっ、急に、はやっ……」
 あと少しで楽になれたのに。抜き差しが速くなるたびに電流が走るみたいな気持ちよさが弾けて、無理やり覚醒させられる。
 そんなことももう何度繰り返されたのだろう。近くのラブホテルに無理やり連れ込まれて、無言のままベッドに放り投げられて──。自分は全身裸に剥かれているのに瑛心はまだ服を着たまま、ひたすら後ろから惟央の身体を暴いてくる。
「ぅっ、あっ、イくっ……」
 たまらず達しようとしたそのとき、しつこく中を掻き回していた指がすっと抜かれた。
「やっ、なんでぇ……」
 まただ。もうずっとイけていない。こんなに気持ちが良いのに、発散する場所を与えられなくて、行き場を失った快感がぐるぐる回って苦しくてたまらない。
「あーイきたいよね、かわいそうに」
 言葉とは裏腹に愉しそうな声が聞こえたかと思えば、唐突に身体を反転させられた。仰向きになったせいで、涙と涎と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を彼の眼前に曝け出すはめになる。
「あはは、酷い顔。可愛い顔が台無しじゃん」
 霞む視界に映ったその人は、あろうことかスマホをこちらに向かって構えていた。連続するシャッター音に驚いて、咄嗟に顔を逸らす。
「いやだ、撮るな……!」
「気持ちいいとそんな顔しちゃうんだ。可愛いね、もっと泣いて?」
「……っこの、へんったい……!」
「その変態によがらされてんのは誰だよ」
 左手でシャッターを切りつつ、右手で器用に惟央の後孔を弄ってくる。予告なしに再開された刺激に目を見開いた惟央は、ひたすら意味のない嬌声をあげることしかできない。
「こっちもすごいね。ずーっと垂れ流しになってる」
 惟央の顔を撮っていたスマホのレンズが、ゆっくりと下半身へと向けられる。開かれた股の間で萎えてしまっている屹立からは、何かしらの液体が流れ続けている。もう何の感覚もなくて、自分では制御できそうにない。
「も、やだ……なんで、こんなこと」
 おかしくなってしまった。頭の中は絶頂に達することしか考えられないし、大事なモノだって機能しなくなった。怖くて悲しくて、ぼろぼろと涙がこぼれて嗚咽が漏れる。
「イオくんが悪いことしたせいでしょ。俺が助けに行かなかったら、今頃アイツにもっと酷いことされてたよ」
「ひぐっ、うっ……だって、そんな……」
「そんなつもりはなかった、はもうなしね。さすがにもう理解したでしょ。イオくんは快感にクソ弱いんだから、ちゃんと自衛してもらわなきゃ困るって」
 スマホをベッドに投げ捨てた瑛心が、徐ろに顔を近付けてきた。惟央の顔の横に片肘をついて、じっと観察するように顔を見られている。
 互いの家で二人きりになることなんて何度もあったけど、そういう雰囲気には一切ならなかったから、すっかり忘れていた。
 この男だって当たり前に性欲があるし、ヤリチンという噂を聞く限り、多分他人よりそれが強い。それなのに、どうして今まで自分にそれをぶつけてこなかったのだろう。
 その気になれば惟央のことなどこうやって簡単に組み敷いて、好き勝手してしまえるはずなのに。
「……考えごとするなんて余裕じゃん」
 ぼうっと目の前の綺麗な顔を見つめていると、再びその指が無遠慮に中に入り込んできた。
「やだ、も、むりっ……あっ、んんっ」
「こっち見て」
「んっ……うっ、うあっ」
 レンズ越しじゃなく直で目が合うと、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。絶えず暴力的なまでの快感を与え続けているのは正真正銘この男なのに、抱き着いて助けてと縋ってしまいたくなる。
 この気持ちは何なんだろう。
「いま惟央のこと気持ちよくしてるのは誰?」
「んっ、え、瑛心……っ」
 射抜くような眼差しを必死に見つめ返しながらその名を呼べば、腰がずくんと疼いた。肉襞が締め付けるのに気付いたのか、彼が機嫌良さそうに口端を上げる。
「……ちゃんと覚えてね、自分が誰のものなのか」
「あ、ぅあっ、イく、イっちゃ……〜〜っ!」
 言葉の意味を理解するより先に激しく前立腺を捏ね上げられて、仰け反りながら身体が浮いた。焦らされ続けて極限まで溜まっていた快感が一気に弾けて、はくはくと口を開閉しながら必死に息を肺に吸い込む。
「よかったねイけて。……っはは、俺の指食いちぎられそー。これじゃお仕置きにならねえし」
 放心していると、ゆっくりと瑛心の指が惟央の中から抜かれていった。刺激を失った窄まりが涎を垂らしながら、ひくひくと収縮しているのがわかる。
 弛緩しきった身体はぴくりとも動かない。そっと視線だけ移すと、瑛心のスラックスの中心が膨らんでいるのが見えた。
「ね、それ……いいの?」
「んー? ……ああ、コレ。別にいいよ。生理現象だから放っといて」
 そうは言ったって同じ男だからわかる。あんなに張り詰めていたら苦しいに決まっているのだ。散々自分だけ弄られて、このまま見過ごすことはできない。
「……挿れればいいじゃん」
 当たり前だが、こんなことを自分から言うのは生まれて初めてだ。恥ずかしくなって視線を外しながら口にしたのに、しばらく待っても瑛心からの返事はない。
「……なんで?」
 焦れて視線を戻すのと同時に、そんな言葉が降ってきた。てっきりあっさり承諾してくれるかと思ったのに、眉根を寄せて怪訝そうな顔をしている。
「え、いや……だって勃ってるし」
「イオくんって目の前に勃起してるちんこがあったら、誰にでもそうやって誘うの?」
「……はああ? そんなわけねえだろ……!」
 おまえ以外にこんなこと言うわけないだろ、と言いかけて、すんでのところで引っ込めた。
 惟央はヤリチンの瑛心と違って、別に貞操観念が死んでいるわけでもない。だったらなんでコイツにはこんなに簡単に股を開こうとしているのだろう。
「そんなんじゃダメ。もっと骨の髄まで俺のこと欲しがってよ」
 さっきまでの不穏な空気はどこへやら、すっかりいつもの調子に戻った瑛心を見て、ようやく緊張から解放されたような気がする。
 瑛心は惟央の手首の拘束を外した後に、甲斐甲斐しく身体を拭いてくれた。自分のパーカーを脱いで惟央の身体に被せると、そのまま抱き枕にでもされるかのように、ぎゅっと丸ごと彼の腕に包み込まれる。
「ごめんね、意地悪して。でも正直泣いてるイオくん見て興奮やばかった」
「……クズ。ちゃんと写真消してよ」
「えー、せっかく可愛く撮れたのに」
 触れている頬からクスクスと笑う声が直に伝わってきて、胸がきゅうっと掴まれるような妙な気分になる。
 本当にしないんだ。ラブホまで来たのに、まだ全然硬いものが太ももに当たってるのに。
 調子が狂う。ご機嫌な様子でどうでもいい話を喋り続ける瑛心の唇にそっと視線をなぞらせた。
(……キスしてほしかったなんて言ったら、絶対笑われるだろうな)
 密やかに芽生え始めた劣情に気付かないふりをして、そっと瞼を伏せた。


「イオくんって癖毛?」
 自分のものより広くて殺風景なこの部屋にも、何度か通ううちにようやく馴染んできた。別に居場所なんてそこら中にあるはずなのに、背後から抱き締められるようにぴったりと背中にくっつかれているこの状況は──いつまで経っても落ち着かないが。
「遠くから見るとストレートに見えるけど近くで見ると意外と跳ねてるよね」
「……癖毛じゃなくてアホ毛」
「マジか、朝直してから来ないの?」
「直しても跳ねるんだよ。直毛のあんたにはわかんないだろうけど」
 そう言うと頭上から無邪気な笑い声が聞こえてきた。ぴょこんと左右に跳ねている惟央の毛先を、彼に小さく引っ張られる感覚がする。
「ってか最近嫌がらなくなったね」
「何が?」
「こういうの」
 言いながら瑛心が惟央の肩に顎を乗せて、顔を覗き込んできた。思わずドキッと鼓動が跳ねるのを、気付かれないようにすまし顔で誤魔化す。
 ラグの上でスマホを触っていた俺の後ろに瑛心が座り込んできたのは、もう結構前のことだ。暑いし鬱陶しいなんて最初の頃は思っていたはずなのに、今はもう振り解く気なんて一ミリだってない。
「前までは近いとか離せとかうるさかったじゃん」
「ああ……別に、慣れただけ」
「ふーん?」
 何かを見透かすような視線には気付かないふり。口から出てくるのは事前に用意しておいたフレーズで、これなら何の違和感も持たれないはずだ。
(……こんなの、慣れるはずないだろ……!)
 しかし心の中では暴風雨のようにもう一人の惟央がのたうち回っていた。今だって変なことを考えないように必死に自分を律しているし、そのために興味のないパンダが転がる映像なんてスマホで垂れ流してまで、必死にやり過ごしているというのに。
 どうやら自分が瑛心に対して恋愛感情を抱いてしまったらしいと気付いたのは、ほんのつい最近のことだ。今でこそ何故か自分にべったりのこの男だが、それ以前の周囲からの評判は最悪なものだったのは記憶に新しい。本気で好きになったって痛い目を見るだけとわかっていても、どうしたって気持ちを押し殺せそうにないのだから困る。
「あ、明日学部の飲み会行くんだっけ。一緒に行こうよ」
「……っ、そうだけど、なんで知ってんの?」
 自分の腹に回された腕は男らしく血管が浮き出ている。この腕で今度こそ俺のことを抱いてくれたら──とそんなことを考えていた惟央は、話しかけられていることに気付かず、一瞬返事をするのが遅れてしまった。
「イオくんの出欠確認してから返事してるんだから当たり前でしょ」
「なっ……なにそれ。別に俺がいなくても、あんたは行くだろ……陽キャだし」
 学部の明るいヤツ全員友達です、みたいな男が俺を優先してくれている。そう思うとにやけてしまいそうなほど嬉しいのに、すんとした顔で可愛げのないことを言うことしかできない。
「うわ偏見~。でも俺も大人数のはそこまで好きじゃないよ」
「嘘ばっか」
「本当だって。それよりイオくんが参加する方がビビったんだけど。いつも来ないのにどうしたの?」
 瑛心に聞かれて、真っ先に疑問が浮かんだ。
「いつも来ないとかなんで知ってんの……てかそもそもあんたって、いつから俺のこと知ってんの」
 確かに入学当初の新歓と顔合わせがてらの飲み会以降、大人数が集まるような会には欠席を貫いてきた。逆に瑛心はきっと毎回出ているとは思うが、まさか特に目立つわけでもない惟央の出欠をいちいち把握しているわけではないだろうに。
「高校の同級生なんだから気にするのは当たり前でしょ」
「えっ、覚えてたの?」
「逆に覚えてないわけなくない。心外なんだけど」
 思いがけず目を見開く惟央を見て、瑛心は苦笑している。
「一回ぐらいしか喋ったことないし、うちの高校から進学する人多かったから、影薄い俺のことなんて忘れてるかなって」
「だからあんなによそよそしかったんだ」
 大学に入ってから髪を染めてピアスを開けて、それまでのクールな雰囲気をがらっと変えた瑛心のことを、できれば近寄りたくないと思っていたのは事実だ。
「俺はずっと喋りたいと思ってたよ、イオくんと」
「……? 高校でも特に接点なかったじゃん」
「……まあ、そうだね」
 どこか歯切れの悪い返事と困ったような笑顔。それは瑛心が何かをはぐらかそうとしているときのものだった。
(……接点、ないよな? だって喋ったのだって、一回きりで……)
 そこまで考えて首を捻る。
(あれ? その一回って、いつだっけ……)
 喋ったことがあるという認識はある。だけどそれがいつどこで、どんな内容だったのかがまるっきり思い出せない。
「……で? なんで参加すんの。俺がいんのに」
 黙り込んだ惟央のもとにそんな声が掛けられたので、一旦は考えることをやめることにした。
「友達に誘われたから……考えてみたらここんとこ瑛心としか話してないし、久しぶりに他の人とも喋りたいなって思って」
 たまには飲もうぜ、と松野から連絡が来たのは数日前のことで、それを瑛心に告げたらどうにも渋い顔をされてしまった。それなら学部の多くの学生が集まる飲み会でなら問題ないのでは──という結論に至ったのだ。
「………………は?」
 耳のすぐそばで、唸るような低い声が聞こえた。振り向くと瑛心は不機嫌を前面に出したような表情をしている。これならいけると思ったのに駄目だったらしい。
(でもそもそも、コイツは俺のことが本気で好きとかいうわけじゃないくせに、何でこんなに縛り付けてくるんだろ)
 他の男と二人で飲むのが嫌とか、そんなの惟央からしたら好きな人にしか思わない。でもその方程式がこの男に当てはまるかどうかは、難しいところだ。
「俺はイオくんがいれば満足なんだけど、イオくんはそれじゃ不満だってこと?」
「そういう問題じゃないし。俺だってあんたと出会う前から築いてきた交友関係があるんだよ。おざなりにするわけにはいかないだろ」
「へえ。俺よりそいつとの方が絆が深いアピール?」
「何なのおまえ、今日面倒臭い」
 好きとか明確なことは一つも言わないくせに自分勝手に束縛しようとしてくるなんて、いくらなんでもずるい。呆れたように嘆息すると、惟央の身体に回されていた腕がすっと解かれていった。
「……いいよ。じゃあ、明日は話しかけないでおくから」
 すぐに振り向いたけど、瑛心はもう背を向けていたので、どんな顔をしていたのかは見ることができなかった。

*

「かんぱーい」
 商業ビルの屋上にいるせいか、紺色の空がいつもより近くにあるように見える。場を賑やかすような色とりどりのガーランドが頭上に飾られていて、目が痛い。
 ビアガーデンの開放的な雰囲気に充てられてか、いつもよりハイペースで酒を飲んでいる人もいれば、出会いを求めてうろうろと忙しなく場を動き回っている人もいる。そんな中、惟央は隅っこの方に席を確保して、ちびちびとグラスに口をつけていた。
「惟央と飲むの久々じゃん。テンション上がるなー」
「そうだね」
「そうだねって思ってなさそうな顔してますけど」
 隣の松野に突っ込まれた惟央は、そこでようやく視線を彼の方に向けた。松野はじとりとした目で惟央のことを睨み付けている。
「図星かー……悲しいや俺」
「ちが……ちょっと考えごとしてただけで」
「へえ~? まあ彼氏があんなに遠くで飲んでるし悲しいよね」
 ニヤニヤした顔の松野が顎でしゃくったその先には、ビールサーバーの近くに立っている瑛心の姿がある。周囲には数人の男女がいて、楽しそうな笑い声がこちらにまで聞こえてきていた。
「あんなに女子に触られてるし。いいの、あれ」
「……別に、俺になんかいう資格ないし」
 むすっと尖らせた口で言いながら、惟央はふいっと顔を背けた。これ以上は見るに耐えない。むしゃくしゃとした気持ちのまま、僅かに残っていた酒を一気に喉に流し込む。
「? 付き合ってるんだからあるでしょ」
「付き合ってるって言っても、一時的なものだから。そう長くは続かないだろうし」
「えー……何でそんなネガティブなんだよ。せっかく珍しくうまくいってそうなのに」
 だからだよ、と言いかけて、やめた。出会ってからこれまで、驚くほどにうまくいきすぎている。そばにいることが当たり前になればなるほど、いつ飽きられるのだろうという考えばかりが先行して怖い。
 そもそもあの日、どうして瑛心はあの撮影会の場所に現れたんだろう。俺じゃなくて、他のモデルを目当てに来ていたとしたら──?
「えー、瑛心と付き合ってるってマジだったんだ」
 不意に空席だった向かい側の席に、金髪の男子が座った。猫のようなつり目をしたこの顔には見覚えがある。確か以前はよく瑛心とつるんでいた、同じ学科の江田だ。
「いっつもアイツと一緒にいるよね、確かえーっと、永木くんだっけ」
「あ、えっと……」
「永木くーん、そいつ瑛心の元セフレでーす」
「おーい、いらんこと言うなよ。気まずいだろ」
 どこからともなく飛んできた野次に周囲が笑うが、惟央はその笑いに乗っかることはできず、困ったように視線を彷徨わせるだけだった。胸がざわざわと嫌な音を立てるのがわかる。一瞬で苦手な人種だ、と悟った。
「ごめんねー、今は何も関係持ってないし安心して。ただのお友達」
「……はあ」
「アイツが一人に落ち着くの珍しいから、もうみんな気になってんのよ。今日はいっぱい俺らと喋ろうね~」
 いつのまにか過疎状態だった惟央達の卓は満席になり、惟央の苦手なタイプの男子ばかりが興味深そうにこちらを凝視している。助けを求めるように松野の顔を見るが、彼は隣に座った女子と楽しそうに会話を弾ませているところだった。
「てかグラス空っぽじゃん。誰か酒持ってきてあげて~」
「いや、俺酒はあんまり……っうわ……!」
 間髪入れずに目の前に置かれたジョッキを見て、喉がひくっと鳴ってしまう。目の前で江田がにこにこと邪気のない笑顔を浮かべるのを見て、この状況に絶望するのであった。

「──でさあ、ぶっちゃけアイツの相手大変じゃない? 性欲の鬼じゃんか」
 あれから何分経ったのだろう。いつもの倍以上のペースでアルコールを摂取した結果、惟央の思考は稼働を停止し、現在進行形で強烈な眠気に襲われていた。
「瑛心くんって一度ヤった相手とはヤらないみたいな話は本当なの?」
「うわ、そんな噂あるんだ。あっはは、クズじゃん~さすがにそれはないけど。俺だって何回か相手してもらったし」
「てか江田ってそっちなんだ……あんま知りたくなかったわ」
「バリネコで~す。松野可愛いし相手したげる。試したくなったらいつでも呼んで~」
「いや俺は女の子命だから。やめて?」
 すぐそばで交わされる松野と江田の会話の意味もろくに理解ができない。うつらうつらと舟を漕いでいると、それに気付いたらしい松野によって身体を揺さぶられた。
「おい惟央ー、大丈夫か?」
「ん……ぜんぜんよゆー……」
「……には見えないけど、もう飲むなよ。おまえらも飲ませんな~」
 もう手遅れだ、と頭のどこかで声がする。ぐらぐらと顔を上下する惟央を見かねてか、松野の肩にもたれかからされた。瑛心とは違う匂いがする。当たり前なはずなのに、そばにいるのが彼じゃないことを突き付けられて、胸の奥が疼いた。
「ねえ、瑛心って恋人相手だとどんなエッチすんの?」
 追い打ちをかけるかのような江田の問い掛けを、うまく働かなくなった頭でそのまま飲み込む。
 さっきからずっとこうだ。瑛心とのセックスがどうとか、俺のときはこうだったとか、聞いてもないのにそんな話ばかり。好きな人が他の人間とそういうことをしてたことなんか、想像したくもないのに。
「……しらない」
「またまた~。ここだけの秘密にしておくからさあ」
「したことないから、わかんない」
 食い下がる江田がしつこくて、悔しいからずっと言わないでおこうかと思っていたはずなのに、ついそんなことを口にしてしまった。
 一瞬、場の空気が凍りつくのがわかる。
「…………えっ、したことないって? 何を?」
「せっくす」
「はあ? あの性欲モンスターが? 隙あらば空きコマに空き教室でヤるような男が?」
 だから、そんな話聞きたくないんだってば。呆気に取られた様子で苦笑いをする江田に対していい加減イライラしてきて、つい目を細めてしまう。
「……おれにだってよくわかんないし」
 ちょっと話を聞いただけでも、この飲み会にいるうちの数人はあの男と関係を持ったことがあるらしい。それなのに恋人を謳っている自分がまだ一度だって抱かれたことがないなんて、そんな滑稽な話があろうか。
 好きならしたくなるもんなんじゃないのかな。でもあの男は自分の誘いを断って、あんなに下半身を硬くしていたくせに頑なに挿入しようとしなかった。
 ──しないの?
 ──イオくんがしたくなるまで待つ。
 ──なんで俺に優しくすんの?
 ──なんでだろうね。
 のらりくらりとはぐらかして、俺の意見を尊重するみたいな皮を被って、本当の気持ちはいつだって教えてくれない。
(結局俺のことなんて、本気で好きなわけじゃないんだろうな)
 そこまでして自分とはしたくないのだろうか。恋人というステータスを貰っているはずなのに、この場にいる誰よりも自分が劣っているような気がして、惨めに思えてきた。


「……あ」
 思わず声を漏らした。手洗いを済ませた後に通路に出ると、すぐそこに瑛心が立っていたからだ。
 あと数分でお開きになるが、結局最後まで瑛心は遠くの方で色んな人に囲まれながら飲んでいて、ちっとも話すことができなかった。
 アルコールで浮ついているせいか、さっきの下世話な会話のせいか、ずっと喋りたいと思っていたせいか──その顔を見たらなんだかほっとしてしまって、頬が緩んでしまう。
「もう帰る?」
「いや、二次会行く」
「あ、そう……なんだ」
 一緒に帰ろう、と誘おうとしていたのに、出鼻を挫かれた。いつもよりもどこか冷たい雰囲気を纏う瑛心は、無機質な瞳で惟央を見下ろしている。
「楽しかった?」
「え?」
「お友達と飲めてよかったね」
 にこりと他人行儀に微笑まれてようやく気付いた。彼がまだ怒っているということを。
「じゃあ」
 惟央に触れることもなく、すっと横を通り過ぎていく。残り香が鼻を掠めて、胸の奥が焼けるような痛みを感じた。思えばそれが、最後の会話だった。





 鳴る気配のないスマホと睨めっこをすること数十分。我ながら不毛なことをしている自覚はある。少し前まではあんなに引っ切りなしに通知を知らせてくれていた端末は静まり返っていて、散らかった狭い部屋にはもう何日も何の来客もない。ベッドの上に寝そべる惟央は深いため息を吐いた。
 あの飲み会から一週間が経った。あれから瑛心の様子がおかしい。まず大学で声を掛けられることがなくなった。いつも二人で講義を受けていたお決まりの席にも来なくなって、前までと同じように取り巻きのいる方に座るようになった。
 もちろん連絡だって来ない。おはようからおやすみまで惟央の生活の一部になっていたメッセージが突然来なくなって、惟央は酷く混乱していた。他人の前では、別に俺の方は気にしてませんけど、みたいなすまし顔をしながら、内心では地面にめり込みそうなほど落ち込んでいる。
 理由はおそらく、最後に交わしたあの会話だろう。
 ──お友達と飲めてよかったね。
 あの飲み会から急に素っ気なくなったし、自分より松野を優先されたことが気に食わなかったのだろうか。でもそもそも、男友達と飲みたいと思って何が悪いんだ。
(俺は悪くない……はずなのに、なんでこんなに罪悪感に苛まれるんだ……)
 謝れば戻ってきてくれるのだろうか。また少し前のように、惟央のそばにいてくれるのだろうか。だけどそれって、本当に正しいのかな。
(アイツだってあのとき、他の女子と楽しそうにしてたくせに)
 屈み込む瑛心の耳にそっと口元を寄せて、内緒話をするかのように言葉を吹き込む女子と、それを聞いて涼しげに笑う瑛心。たまたま見てしまったあの光景が頭に焼き付いて離れなくて、思い出すたびに無意識に唇を噛み締めてしまう。
 理不尽だ。あれだけ異常に束縛したがるくせに、いざとなるとこんなに簡単に手放すことができるなんて、自分はやっぱり気まぐれに弄ばれているだけなのかもしれない。
 ごめんという三文字を打っては消して、何度もそのトーク画面を開いて、もうどれだけの時間を無駄にしてきたのだろう。悩んだ挙句、会いたいという四文字を打ち直した惟央は、少し考えて結局それも全部消してしまった。

*

「まだバイト探してたんだ~?」
 講義の前の教室内はざわざわとした喧騒に包まれている。声を掛けられて顔を上げると、隣で松野が惟央の手元を覗き込んでいた。画面にはアルバイトの求人アプリが立ちあげられている。
「前のとこ二か月ぐらい前にやめたんじゃなかったっけ。もうてっきり見つかったんかと」
「一回働いてみたけど合わなくて……ファミレスのキッチンなんだけど、忙しすぎてついていけなくて三日で辞めた」
「すぐ見限るところがおまえらしいわ」
 撮影会のバイトを辞めてしばらく経つが、次はまだ全然決まりそうにない。貯金も家賃や生活費で削られていくし、そろそろ決めないと本当にまずいのだが。
「俺んとこ来る? 居酒屋だけど」
「大きい声出せる気しない……」
「だろうな。おまえテキパキ動くの無理そう。顔は女子ウケしそうだし、いっそホストとかどう?」
「女と話す方が無理だし」
 惟央がそう言うと、ムリムリ言うなよと松野が呆れたように姿勢を崩した。今まで服を脱いでカメラの前に立っていればそれだけでお金を貰えていたので、普通のバイトがこんなにも大変だなんて思わなかったのだ。
「てかどうすんの。このままでいいわけ?」
「いいわけないから探してんだろ」
「そっちじゃなくて、彼氏の方」
 唐突に真剣な目をする松野の言葉に、ドキッと心臓が跳ねた。
「もう別れたって噂だいぶ広まってますけど。おかげで毎日お誘いかけられまくりらしいですし」
「……知らない。自然消滅なんじゃね」
 教室に入ると無意識にその姿を探してしまう自分が恨めしい。話さなくなってからもうずっと、毎日のように頭の中にはあの男が居座っている。
「不貞腐れんなよ~。このままだとダメンズの歴史にまた名を連ねることになるんだぞ」
「最初からわかってたことじゃん……」
 言うなれば学内イチのダメンズ。ヤリチンでクズで自己中でワガママで理不尽で強引で、それから。
「それなのに勝手に本気になってんの、あほらし」
 絶対に好きになんてなったらいけない人間。それなのに自分を見るときの優しい眼差しとか、大切にされていると錯覚するような手つきだとか、独占欲の垣間見える苦しいぐらいの束縛だとか。脳みそを作り替えられるぐらい痛いほどに刻み付けられて、気付いたときには後戻りできないまでに心を奪われていた。
「……惟央」
「ん、痛いんだけどなに」
 机に突っ伏した後頭部を、ぺしんと軽く松野に叩かれる。
「まだ好きなんだろ。とりあえず声掛けてこいよ。あっちもおまえから来るの待ってるだけかもしれないぞ」
「でも……」
「ダメだとわかったら未練残さないおまえが、そこまで入れ込むなんて珍しいじゃん」
 松野に視線だけ移すと、したり顔で口端を吊り上げているのが見えた。
 一人目の男は浮気。二人目と三人目はDV、四人目はモラハラ。付き合うごとに豹変する彼氏達。その結果、ついた二つ名は『ダメンズホイホイ』。
 しいて言うなら五人目は、『理不尽ヤリチン束縛男』とでも言うところか。今までの元カレ達に未練はないし、別れるたびに喪失感に襲われることはあったものの、友人と酒を飲んだら忘れてしまえるぐらいの呆気なさだった。
 だけど今回は明確に違う。こんなに心を乱されるのも、思考をめちゃくちゃにされるのも、自分が自分じゃなくなりそうなぐらい苦しいのも、全部初めてだった。

「……久しぶり」
 誰かを待っているのだろうか。廊下の端で壁にもたれながら一人で立っているところを見かけて、つい声を掛けてしまった。
 惟央の声を聞いて、瑛心が視線をこちらに向ける。その目は以前のような親しげなものではなく、まるで他人にするみたいな冷ややかな色で塗り潰されていた。
「……あのさ、この前はごめん。えっと……あんたのこと、面倒臭いとか言って」
 結局謝るという選択肢をとったのは、プライドを捨ててもいいから元の関係に戻りたいと思ったからだ。
 俯きがちにたどたどしく語る惟央を、瑛心は無言のまま見下ろすばかりだ。こんなに話しづらかったっけ。冷や汗が流れて、何度も唾を呑み込んでしまう。今までどうやって話していたか忘れてしまった。
「その……まだ怒ってんの?」
 ヒリヒリと肌に刺すような緊張感と威圧感に耐え切れなくて、視線をそっと上げながら問い掛けてみた。視線がかち合うが、その表情が崩れることはない。
「怒ってないよ」
 その言葉を聞いて、惟央は心が一瞬で軽くなるのを感じた。期待に満ちた目を大きく見開いて、何か声を掛けようとする。
「別にもうどうでもいいだけ」
 しかし次の瞬間に聞こえてきた声に、再びどん底に突き落とされることになった。吐き捨てるように言われた言葉の意味を自分の中でゆっくり咀嚼した後に、えっと小さく声を漏らしてしまう。
「ずっとおまえのことばっか気にしてると思った?」
「……っ」
「悩ませちゃったんなら悪いけど、終わったことだし俺は全然。許すも何もないし」
 以前とは違う突き放すような口調と、合わせているはずなのにどこか違う方向を見ているような視線。嘲笑うように息を吐いた瑛心は、面倒臭そうに頭を掻いた。
「用件それだけ?」
「……そう、だけど」
「そっか。じゃあ」
 近くのトイレから女子が出てきて、瑛心は彼女の方に向かっていった。腕を絡められても振り解こうとしない彼の後ろ姿を呆然と眺める。
 わかっていたはずだった。いつ捨てられてもいいように常に予防線を張っていたつもりだったし、覚悟なんてとっくにできているはずだった。それでも実際にそのときが来てしまえば、想像以上に胸にくるものがある。
 捨てられた。全部終わったんだ。
 理解した途端に目の前が真っ白になって、全ての音が遠くに感じる。地面に足を縫い止められたかのように、しばらくその場から動くことができなかった。


 フラッシュの眩しさと、汗が混ざり合うような独特の匂い。この場所に来るとやはり懐かしい気持ちになる。
 白を基調とした広々としたフロアの中には、ベッドやソファーなど様々なセットが至る所で組まれている。艶っぽく着飾ったモデル達が思い思いのポーズでカメラの前に立っているのを、どこか新鮮な気持ちで近くから眺めていた。
「レイくんの撮影最後尾こちらになりまーす」
 惟央は手に持っているプラカードを掲げ、のんびりと声を上げた。
「チェキ券売ってますか?」
「受付でお願いします」
「プレゼントは?」
「本人に直接渡してください」
 声を掛けてくる客達を次々と捌いていく様子は、まるでバイトを始めて三日目とは思えない慣れっぷりである。
「イオく……ごほん、永木くんお疲れ様。ずっと働きっぱなしだし、一回水分とりなよ」
 声を掛けられて振り向くと、店長がペットボトルを片手に立っていた。受け取って口に含めば、ひんやりとした冷たさが身体に染み渡って、頭が冴えていくのがわかる。店長はフロアに視線を向けたまま、惟央の隣に並んだ。
「いやあ、でも驚いたよ。まさかきみが戻ってきてくれるなんて。モデルじゃなくてスタッフの方をやりたいって言われたときは、信じられなくて三回ぐらい聞き返しちゃったけど」
「あんま大きい声出すのやめてくださいよ。バレたら洒落になんないし」
「あーごめんごめん、つい。その姿も全然慣れないね」
 店長が困ったように眉を下げながら惟央に視線を向ける。その瞳の中には黒縁の厚底眼鏡にマスクを掛けている、普段の惟央とはかけ離れた姿の男が映っている。
「わかんないでしょ、俺だって」
「うん、一瞬どこ行ったかわかんなくなっちゃうもん。でもなんで身バレしたくないの? イオくんだってわかったらみんな喜ぶのに」
「……100%善意を持ってる人ばっかりじゃないって、わからされちゃったんで」
 そんなつもりじゃない、と自分では思っていたって、相手はどう感じているかわからない。男だから大丈夫という慢心はもう惟央には残っていない。
 自分の身は自分で守らないと。そう教えてくれた相手はもう、惟央のそばにはいないけど。
「すいませーん、チェキ撮影お願いします」
「はーい。……いってきます」
「よろしくね〜」
 モデルと違ってスタッフの仕事は忙しい。ずっと走り回っているような気がする。でもそれが救いだった。一人になるとどうしても塞ぎ込んでしまって、嫌なことばかりぐるぐる考えてしまうからだ。
 モデルと客のチェキを撮影した後に、首に掛けてあるタイマーを確認した。あと数分したら撮影場所を入れ替えないと。そう考えながらふっと顔を上げた瞬間、一瞬息が止まるような衝撃を覚えた。
「……なんで……」
 思わず声を漏らした。惟央の視線の先、とあるモデルの列の真ん中にいる、白い髪をした横顔に見覚えがある。ばくばくと心臓がうるさい。頼むから人違いであってくれ。そう無意識に願ってしまう自分がいる。
 惟央はふらふらとした足取りで、まっすぐにその男のいる方に歩いていった。近付くにつれてそれが、頭に思い描いた人物と重なることを確信する。
 瑛心だ。どうしてこんなところに──。
 彼の視線の先には人気モデルの男の子がいる。じっとその姿を見ている横顔を、見つめる惟央の胸は絶望に満たされていく。
(俺の次は、あの子ってこと?)
 思えば高校以来初めて瑛心と喋ったのもこの場所だった。どうして男女問わず選り取り見取りの陽キャがこんなところに、とあのときは不思議に思っていた。
 次に遊ぶ相手を選んでいたのだとしたら。自分はもう用済みで、他の相手を探しにきているのだとしたら──。
(だめだ、そんなの絶対)
 とてつもない焦燥感に駆られた。衝動に突き動かされるがままに、自然と足が動く。
(だってその場所には、俺がいたのに)
 気付いたときには手を伸ばしていた。ぐいっとその腕を引っ張ると、訝しげな視線がこちらに向けられる。
「……あの、痛いんですけど」
 今の格好では惟央だと分からないのだろう。分かったところできっともう、同じような目を向けられるだけだろうけど。この男にとって、自分はもう特別でもなんでもないんだ。
「……やめて、ください」
 声が震える。悔しさとか悲しさとか憤りとか、色んなものが喉の奥でせめぎ合っている。
「とら、……いで……」
 掠れて音にならない。そうこうしているうちにいつのまにか列は動いて、瑛心がイラついたように眉根を寄せている。
「聞こえない。もう順番来ちゃうんだけど」
 固くなった声にびくっと肩が上がる。もうあの柔らかい声で名前を呼んでくれることはないのだろうか。
 自分じゃない人に同じように近付いて、自分じゃない人に向かって笑いかけて、自分じゃない人をあの腕の中に閉じ込めて──。
 そんなの、死んでも見たくない。

「………………俺以外、撮らないで」

 震わせた声は、正しく耳に届いたかどうかも分からない。だけど一度口をついて出てしまえば、堰を切ったように溜め込んでいた気持ちが溢れ出す。
「あんたが俺をこんな風にしたくせに……っ。飽きたらもう乗り換えんのとか、そんなの、ぜったい許さない」
 掴んでいる腕にギリギリと力が入ってしまう。だけどこうでもしないと立っていることすらままならない。荒くなる呼吸を必死に抑えつけながら、睨み付けるように視線を上げた。
「責任とって、一生俺に縛られてろ……!」
 見下ろす瞳と視線が交わる。冷ややかな色をしていたはずのそれが、満足げにゆっくりと細められるのを見た。ハッとして我に返ると、掴んでいた腕に爪を立てていたせいで、うっすらと血が滲んでしまっているのに気付く。
「あっごめ……きず……っ」
 慌ててハンカチを取り出そうとすると、今度は逆に腕をがしっと力強く掴み返された。
「……っはは、ムリ、たまんない……」
 もう片方の手で顔を覆っているせいで、どんな表情をしているのかが見えない。堪えるような笑い声と、小刻みに揺れる肩。
 離さないと言わんばかりの力で握り込まれて、動きを封じられた惟央は、困惑しながらその姿を見つめることしかできない。
「俺ね、ずーっとこのときを待ってたんだ。俺を求める必死な顔がずっと見たかった。だから今回は俺の作戦勝ち」
「……は、どういう……」
 見上げる惟央の両頬を、自分のものより大きな両手がそっと包み込んだ。分厚い眼鏡のレンズ越しに、綺麗な顔が嬉しそうに緩むのが見える。
「可愛くオネダリできてえらかったね、惟央」
 するりと手が離れていったかと思えば、今度はその手が惟央の指に絡められた。懐かしい温度に、胸の奥がじんわりと滲む。
「ほら、帰るよ」
 有無を言わさないその声にすら鼓動が波打つこれがきっと、惚れた弱みというやつなのだろう。

*

 シャワーを終えて部屋の扉を開くと、ベッドの縁に座ってスマホを触っていた瑛心の視線がこちらに向けられた。口から心臓が飛び出そうなほどの緊張感に襲われながらその場で立ち尽くしていると、その目尻がふっと柔らかく下げられた。
「おいで」
 甘ったるい声に腰が疼く。ゆっくりとそばに近付くと、手首を引っ張られてその膝の上を跨ぐように、向かい合わせに乗せられた。
「緊張してんの」
「そりゃ……部屋来るの久々だし」
「寝室入るのは初めてだもんね」
 いつも見上げるばかりだったこの男を、上から見下ろすのはなんだか新鮮だ。不意に片腕がそっと伸びてきて、惟央の髪を一束掬っていった。それにすら肩が上がって、息を詰めてしまう。
「俺がちょっと触るだけでこんなにビクビクしちゃって」
「……っ」
 気まぐれにその指が惟央の髪を撫で付けていく。こんなことで死にそうなぐらいドキドキするなんて、中学生じゃあるまいし。頭ではそんな風に思うのに、触れられている相手が好きな人だと思うと、身体は素直に反応を示す。じわじわと頬に熱が集まってきて、肩を竦めて目を閉じることで羞恥を逃がした。
「このあと刺激が強すぎて死んじゃうんじゃない?」
「……俺もそう思う」
「っふは、そこは否定してよ」
 愛おしいと思った。白い歯を見せてくしゃっと笑うその顔は、また自分に向けてほしいと願っていたものだったから。思わず見惚れていると、その目が艶っぽく細められて、後頭部に大きな手のひらが差し込まれる。その瞬間、ぐっと優しく引き寄せられて、息をつく間もなく顔が近付く。唇に彼の唇がそっと触れて、ぶわっと身体中の細胞が沸騰するような高揚感を覚えた。
 ずっと触れてみたいと思っていた唇は、想像していたより薄くてひんやりとしていた。頭がくらくらしてぼうっと視線を送ると、薄く開かれた熱っぽい瞳と視線が交わって、ぞくっと背筋に熱がせり上がる。
「……んっ」
 唇を割って入ってきたぬるりとした感触に、思わず声が漏れた。唇の冷たさとは比較にならないほど熱いそれに優しく口蓋をなぞられると、下腹がぎゅっと縮むような快感が走る。今までしてきたキスとは全然違う。もっと乱暴で、貪られるような触れられ方しかしてこなかったから、確かめるような甘い口付けに調子が狂う。
「舌出して」
 鼻先が触れる距離で、いつもより低い声が聞こえてドキッとした。おずおずと舌を伸ばせば、すぐに絡め取られて絶妙な加減で吸われる。鼻に抜けたような声が自分の口から漏れ出るのが止められない。甘い痺れが身体中を支配して、下半身に熱が集中するのがわかる。
(やばい、このままだと──……)
 ぼんやりと蕩けた頭の隅で危惧するが、濃厚な口付けは止まることなく降り続ける。開きっ放しの唇からだらしなく投げ出された舌をかぷりと甘噛みされた瞬間、目の前が真っ白になって、下半身がぶるりと震えた。
「……っふ、っはあ……」
「……もしかしてイっちゃった?」
「~~っ、ち、ちがっ……」 
 否定したところでどうせ見抜かれているはずだ。下着をじんわりと濡らす嫌な感触がする。もしかしたら瑛心の膝まで濡らしているかもしれない。
(ありえない、俺、キスだけで……)
 顔をがっちりと両手で掴まれているから、どう転んでも逃れることができない。真っ赤になっているであろう顔で必死に息を整えるのを、愉しそうにじっと観察されている。
「違うの?」
「……わかってんのに聞くなよ」
 恨めしさを隠さずに睨み付けると、瑛心はクツクツと楽しそうな声で笑った。
「興奮しちゃったんだ」
「それもあるし……その」
「なに?」
「……この前、してくれなかったから」
 どうやら自分は熱に浮かされて大分素直になっているらしい。いつもだったら絶対にこんなこと言えるはずないのに。
「ずっとキス、してほしいって思ってたから──嬉しかった」
 言いながら、初めて惟央の方から瑛心の顔にそっと両手を這わせた。頬を包み込んだまま視線を絡める。目を見開く彼のその唇に、触れるだけのキスを落とした。
「…………お返し」
「………………」
「……ねえなんか言ってよ。気まずいじゃん」
 唖然とした顔で固まる瑛心に耐えかねて、その両頬をむにっとつまんでやった。イケメンというのはどうやら、そんなことをされてもイケメンのままらしい。別にそんな世界一無駄な情報は知りたくなかった。
「あーキツ……。頼むからあんま煽んないで、これでも超我慢してんの」
「煽ってないし、どこが」
「もういい。イオくん喋るとろくでもないから、もう黙ってて」
 そう言うなり再び口を塞がれる。さっきまでの蕩けるようなキスとは違う、もっと性急な交わり。口内を荒々しく攻め立てられて息をするのも精一杯だ。
「……っは、こっちも触ってほしかった?」
 唇を合わせたまま、瑛心の手が惟央のTシャツの中に侵入してきた。脇腹をなぞりあげ的確に胸の尖りを掠めていく指に、堪らず身を捩る。
「この前舐めてあげられなかったもんね」
「んっ、だめ、そこは……っや、ああっ」
 服を捲り上げられたかと思えば、離れていった唇が今度は胸の突起に吸い付く。じゅっと音を立てられると、視覚的にも聴覚的にも目に毒だ。
 瑛心が自分の胸元に頭を寄せて、自分の乳首を赤子のように吸っている。その事実だけで再び下半身が熱くなるのを感じた。
「ぅ、やだ、あっ、ひぁ……っ」
 火傷しそうなほど熱い口内に含まれて、ちろちろと左右に舐められる。時折乳輪をぐるりと舌でなぞられて、弾くようにその中心を押し潰されると、一段と声が出てしまう。
「声も顔もかーわい。もっと聞かせてよ」
「やっ、んん、もう恥ずかし……しぬ……」
「だめだよ。これからもっと恥ずかしいことすんのに」
 言いながら膝の上から下ろされて、ベッドの上に横たえられる。
「下着脱いで、お尻こっち向けて」
 言われた通りに脱いだ後、おずおずと四つん這いになる。まるで犯されるための体勢みたいで、羞恥でどうにかなりそうだった。
「すご、もうとろとろになってる」
 この部屋に来るまでにシャワールームで自分で解して、ローションまで仕込んであるそこに、ふうと生ぬるい息を吹きかけられた。びくっと腰が跳ねてしまう。
「あっ、うそっ……あっ、だめ、そんなこと……っ」
 何のためらいもなく後孔の縁に舌を這わせ始めた瑛心にぎょっとする。しかし腰をがっしりと両手で掴まれているので、逃れることを許してもらえない。
 すぐに中にぬるっとした熱いものが入ってきて、腸壁をぐるりと舐め回した。唾液を送り込まれながら舌を抜き差しされれば、どこかもどかしくなるような刺激にひくっと喉が鳴る。
「うあっ、んっ、やだ、それやば……っ」
 彫刻のように綺麗な顔が、自分の身体で一番汚いところに顔を埋めていると思ったら、もうだめだった。全身に火花が散るような快感が走り、がくっと腕の力が抜けて上半身が崩れる。頬をシーツにくっつけたまま息を整えていると、ようやく舌が離れていった。
「あっ、だめ、いったばっか、だから……んあっ」
 間髪入れずに骨ばった指が入ってきて、中を探るように丁寧に掻き混ぜられる。
「前より柔らかい。自分でした?」
「んっ、さっき準備、したから……」
「それだけでこんなになんないでしょ。ほら、もう二本も飲み込んでる」
 図星だった。初めて瑛心に後孔を弄られてから、あの夜を思い出して何度自分で慰めたかわからない。自分のより太くて長くて、見た目に反してゴツゴツとしている指。ずっと恋い焦がれていた人の指が、また自分の中を暴いている。
「やっ、瑛心、も、やめてっ、いっちゃう」
「ん、いっていいよ」
「だめ、やだ……瑛心のでいきたい、から……」
 口にすれば、ぴたっと指の動きが止まった。力を振り絞りながらなんとか振り向くと、こちらを見据える熱っぽい瞳が視界に映って、背筋がぞくっとする。
 まるで獲物を狙う獣のような表情。それに加えてボトムスの中心は窮屈そうに張り詰めていて、冷静そうに見えてこの男も興奮しているのだと思うと、嬉しかった。
「はやく、それいれて」
 縋るように声に乗せる。瑛心は瞠目した後に、くしゃっと顔を歪めた。
「……煽んのやめてって、俺は忠告したからね」
 唸るように言った瑛心が荒々しく服を脱ぎ始めたかと思えば、あっという間に先端が後孔に宛がわれる。
「いれるよ」
 切羽詰まったような声に続いて、火傷しそうなほど熱いそれが中に押し込まれていく。媚肉をこじ開けてかき分けられるような感触に、ぞくぞくと痺れが押し寄せた。
「あ、ああっ、んっ、おっき……」
「……あーもう、頭ばかになりそ……」
 奥まで入ると、瑛心が惟央の背中の上にくたりともたれかかってきた。ちゅ、と項に吸い付くような口付けが落とされる。くすぐったさに身を捩った。
「痛くない?」
 横から顔を覗き込まれる。その表情も声色もいつになく優しい。
「ちょっと苦しい……けど、しあわせだよ」
 そばに置かれていた瑛心の手に、ぎゅっと自分のそれを絡めた。
「……好き。もう俺から離れていかないでね」
 穏やかな色をした瞳を見つめながら言うと、ふっと柔らかく細められる。
「離れないし、最初から離す気なんてさらさらないよ」
 頬にそっと口付けが落とされた。息が触れそうなほどの距離で、ゆっくりと形のいい唇が動く。
「──愛してるよ、惟央」
 砂糖を溶かして煮詰めたみたいな甘ったるい声。その言葉の意味を理解した瞬間、神経を隅々まで伝わるような甘い痺れが身体中に駆け巡った。きゅう、と媚肉が収縮して、中に埋まっている彼の形が伝わってくる。少しも動かれていないのに硬い先端がいいところにあたって、自分で締め付けて軽く達してしまった。
「いってるところ悪いけど、俺も限界だから……動くよ」
 耳元で声を吹き込まれた直後、唐突に抽送が始まった。惟央の頭の横に手をついた彼に、奥まで腰を打ち付けられ、ぐりぐりと蕩け切った中を掻き混ぜられる。
「あっ、きもち……ん、あっ、それだめ、ああっ」
「……ん、こっち向いて」
 熱いものが中から抜けていって、くるりと仰向けにされた。鬱陶しそうに汗に濡れた前髪を掻き上げる彼の瞳は、捕食者のようにギラギラと光っている。
 知らなかった。誰かに本気で求められることで、こんなに満たされた気持ちになるなんて。
「瑛心、すきっ……もっとして……っん、んぅ」
 唇を奪われて、息もできないぐらいに彼の呼吸で肺を満たすことが、こんなに気持ちがいいなんて。
 ぽっかり空いた窄まりの中が、再び熱くて硬いもので満たされていく。まるで最初から二人で一つだったみたいに、どうしようもない幸福感が込み上げて、涙が溢れそうになった。
「ここ、俺以外にあげちゃだめだよ。これからは全部、俺のだから」
 唇が離れる。腰を打ち付けられながら、トントンと心臓の近くをノックするみたいに小突かれて、こくこくと必死に頷いた。
「……はっ、出していい?」
「んっ、なか、ほしい……っ」
 縋り付くみたいにその首に腕を回して、腰に両脚を絡める。そうすると汗ばんだ素肌がますますくっついて気持ちがよかった。
 ずっと惟央の様子を窺ってくれていた腰遣いが急に激しくなって、明確に達するためだけの動きに変わる。扱き上げるみたいに激しく腸壁を擦り、奥を叩く暴力的なまでの快感。開きっ放しになった口からは涎が垂れ、目の前がチカチカと光る。
「……っ、惟央……っ」
「あっ、いくっ、あっやあ、いっ……、〜〜〜〜っ」
 互いの身体を力強く抱き締め合いながら、一層強く最奥を穿たれ、叩きつけるような熱が弾けるのを感じた。灼けるような熱いものが内側をじんわりと満たしていく。身体の奥から波が押し寄せて、つられるみたいに白濁を吐き出した。
「……惟央。へーき?」
「うん」
「泣いたの? 痛かった?」
 生理的な涙が滲んだ目尻を、瑛心の親指がそっと拭う。以前、セックスが乱暴だとか雑だとか言われていた男と同一人物だとは思えない。こんな彼は自分だけが知っていると思うと、気分が良かった。
「でもごめん。まだ全然収まんないんだけど……」
 中に埋められたままのものが、再びじわじわと硬さを取り戻していく。言われなくなってそのつもりだった。
「いーよ。ぐちゃぐちゃになるまで、俺のこと愛して」
 今度は明確に煽るようなことを言ってみせると、返事の代わりに蕩けるような口付けが降ってきた。


「はい、あーん」
 言われて口を少し開く。差し込まれたストローを大人しく吸うと、口内にひんやりとしたものが流れ込んできた。
「水分補給できてえらいねえ、よしよし」
「……なんでそんな元気なの……」
「え? だって好きな子が隣にいるんだもん。表情筋も仕事しなくなるよね」
 爽やかな朝が来たっていうのに、惟央達はまだベッドの上にいた。ぐったりと横たわる惟央の隣で、ヘッドボードにもたれる瑛心が緩んだ顔をしている。
 想いが通じ合った昨夜。盛り上がりすぎて眠りについたのは朝日が昇る頃だった。
「ゲホッ、俺の声やばくない? 一晩でこんなになってんの、変に思われそう……」
「俺以外と喋んないんだからいいじゃん」
 さも当たり前かのようにそんな物騒なことを口にする瑛心に、複雑な気持ちが膨らむ。この男が嫉妬深いことは重々承知している。幾分か度が過ぎていることも。
「……俺さ、あんたのこと好きだし、束縛されるのも全然嫌じゃないんだけど」
 だけどこれからも一緒にいるんだから、このままでいいわけがない。
「でも、友達のことも友達として好きだから普通に喋りたいっていうか。他の人と喋ったって一番好きなのは瑛心だけだから……許してほしい、です」
 掛け布団から顔だけ出したまま、彼の方に視線を向けた。惟央を見下ろす瞳が、しばらくの沈黙の後、みるみるうちに細められていく。眉根を寄せてギリギリと唇を噛み締め、普段は綺麗な顔が激しく歪められている。
「…………なんなのその顔」
「死ぬほど嫌だけど愛しのイオくんの頼みだから頑張って許そうとしてる顔」
「うわ……でも嬉しい、やっぱ瑛心は優しいな。ありがと」
 ふわりと顔を綻ばせれば、彼の表情もようやく落ち着いた。自分の気持ちを伝えて、受け入れてもらう。一見単純に見えるそれは、過去の恋では到底できなかったことだった。
「ってかさっきから通知やばいけど、いいの?」
「んー……どうせどうでもいい内容だから大丈夫」
「……ふーん」
 ベッドの上に伏せられているスマホは、ひっきりなしに振動している。一体誰からのものだろう。あんなことを言った手前言いづらいが、ただでさえ交友関係の広いこの男のことだし、些細なことが気になってしまう。
「気になるなら見ていーよ」
「えっ」
「パスワード0321ね」
「……俺の誕生日?」
 教えた覚えはないのに、なんで知ってるんだ。面食らう惟央のそばに、ぽいっとスマホが投げられる。おそるおそる手に取ると、ロック画面にはメッセージアプリの通知が大量に来ていた。どうやらサークルのグループトークが活発に動いているだけのようだ。
「…………………………えっ」
 そんなことより、問題はそこじゃない。その通知の背景に映されている写真を見て、素っ頓狂な声を上げながら勢いよく起き上がった。
「なっ、ななな、なにこれ」
 そこに映されていたのは見覚えのある廊下に、見覚えのある制服、それから見覚えのある横顔。少し離れたところから撮影されたそれは、紛れもない──高校時代の惟央の写真だった。
「これ俺だよね……なにこれ、いつこんなの撮って……ってか高校のとき、一回しか喋ったこと……」
 よく見ればその目には涙が滲んでいて、眉は情けなく垂れ下がり、唇は何かを堪えるように固く一文字に結ばれている。廊下の床にぺしゃりと崩れ落ちて、教室の中の何かを見つめるその視線の先はここには映されていない。
 だけどこの日のことは鮮明に覚えている。
「思い出した?」
 そうだ、あのとき。夕暮れ時の教室で、わざわざご丁寧に惟央の机の上で──クラスメイトの彼氏の浮気を目撃したあの日。絶望に震えて涙を流していたときに、すぐそばからシャッター音が聞こえたのだ。
 振り向くとそこには、堂々と自分に向かってカメラを向ける、まだ黒い髪をしていた綺麗な顔の男がいた。
 ──なに撮ってんの。最低。
 ──……ごめん。
 たった一言。だけど絶望感に打ちひしがれて泣くしかできなかった惟央は、その出来事でなんとか踏ん張って持ち直すことができた。
「泣くの必死に我慢して耐えてんのとか、意外と気ィ強いとことか、なんか可愛くて目が離せなかった。帰った後も馬鹿みたいに何回も写真見返して、やっぱり気になって仕方なくて……そっからイオくんのこと追っかけるようになった」
「お、追っかけって……?」
「大したことはしてないよ。住んでるところ突き止めたり付き合ってる男のこと調べたり進路調査勝手に見て大学も学部も合わせたり」
「……なんて?」
「俺の存在をアピールしたくてわざと目立つ格好して、素行悪くしてみたりとか」
 なんだかとっても物騒なことばかり並べたてられたような気がする。自分の知らないところでそんなことをされていたとは俄かに信じ難い。そもそも少し前まで、雲の上のような存在だと思っていたのに。
「大学から尾行してエッチなバイトしてること知ったときが一番胸糞悪かったかな」
「もういい……! 一歩間違ったらストーカーだからな!」
 あの撮影会に現れたのも偶然ではなく確信犯だったのか。だとしたら写真で脅されたのも全部作戦のうちだったのだろうか。最初からこの男の手のひらの上でまんまと転がされていたのだと思うと少し悔しい。
「でもなんですぐ声掛けてこなかったの。そんなに遠回しなことしなくたって、俺のことなんてすぐ落とせる自信ありそうなのに……」
「それじゃだめなんだよ」
 楽しげに笑っている彼の目の奥の仄暗さに気付いて、口を噤んだ。
「簡単に手に入れたって、本当の意味で俺のものにできるわけじゃない。だからとにかく時間が必要だった」
「……時間」
「そう。イオくんは高校であの浮気男に振られた後、大学に入ってから三人の男と付き合ったでしょ。全員三か月以内に別れたけど」
 絶句した。俺のことなんて全く眼中にありませんみたいな顔をしておいて、そんなことまで知り尽くされていたとは。開いた口が塞がらない俺を横目に、彼が話を続ける。
「イオくんが新しい恋をするたびに、他の男に傷付けられてボロボロになっていくのを見て、やっぱり俺じゃないとイオくんを幸せにできないんだなって再確認した」
「……っ」
「傷付けられて傷付いて、最後に辿り着くのが俺であってほしかった。そうすればイオくんはもう二度と俺以外を選ばないと思うから」
 とんでもないことを言われているような気がする。だけど頭は意外とすんなりとそれを受け入れようとしていた。きっともう、心臓ごと掴まれてしまったから。
「俺が他の人とうまくいくかもとか思わなかったの?」
「全然。イオくんって男見る目ないし」
「……コロス」
「あはは、でも実際クズばっかだったじゃーん」
 隣でケラケラと笑う瑛心の肩をどついた。避けないところがこいつらしい。そのまま腕を掴まれて抱き寄せられる。
「でも死ぬほど妬いたよ。イオくんモテるくせに拒まないから、男取っ替え引っ替えしまくるし。相手の男何回も殺したくなったけど、そのときが来るまでは接触しないようにしようって、ずっと我慢してたから」
 互いにまだ素肌のままだから、彼の鼓動がよく伝わってくる。惟央のものよりも速い。軽く振る舞っているけれど、もしかしたら緊張していたのだろうか。
「幻滅した? でもごめんね、もう離してあげらんない」
 背中に回る手に力が込められる。自分がこんなにも愛されていたなんて知らなかった。同じように力を込めて、抱き締め返す。
「しない。嬉しい。俺に瑛心を選ばせてくれてありがとう」
 これが最後の恋になるなんて、出会った頃は想像もつかなかった。嬉しすぎる誤算だ。
「……勃っちゃった」
「……はあ、もうちょい余韻に浸らせてよ」
 平常運転に戻った瑛心の身体を無理やり引き剥がして、キスをしてこようと近付けてくる顔を両手で押しのける。
「二限からだからだめ」
「えー、今日ぐらい一緒に自主休講にしようよ」
「俺は皆勤目指してんの、不真面目なあんたと違って……!」
 しばらくの間ぶーぶーと文句を垂れていた瑛心は、ベッドの下に散らばった服を着始める惟央を見て諦めたらしい。再びシーツの上に不貞腐れたように寝転がり、いそいそと掛け布団に包まり始めるのが見える。

「ねえ俺でるけど」
 シャワーを浴び終えて戻ってくると、すうすうと規則的な寝息が寝室を満たしていた。本当に寝たのか。呆れながら近づくと、その手にはスマホが握られていた。
「もう、芋虫みたいになってるし……」
 どうせなら寝顔を拝んでやろうと近付いてみる。すると、寝落ちる寸前までスマホを触っていたのか、不用心にも画面が開きっ放しになっていることに気が付いた。
 そこに映されていたのは──。
「……っ」
 こちらを向いて満面の笑みを浮かべる、自分の顔だ。なんの警戒心もなさそうな、緩みきった笑顔。自分で言うのもなんだが、幸せそうな顔で笑っている。
 そういえば一度だけ、部屋で二人でいるときに瑛心に盗撮されたことがある。なにかくだらない話をしていて、振り向いた瞬間に勝手に撮られたやつ。
「……後生大事に抱えちゃって、なんなのこいつ」
 寝る直前までこれを眺めていたのか。ってかよく見たらこの写真、ホーム画面じゃん。ロック画面もホーム画面も俺とか、なに考えてんの──頭の中に色んな感情が渦巻いて、こっちが気恥ずかしい気持ちになって、誰も居ないのにゴホンと一つ咳払いをした。
「本物がいるんだからこっち見ろよ、ばーか」
 気持ちよさそうな寝息をこぼす、あどけない寝顔に向かってぽつりと呟く。さらりと乱れた前髪を撫でた後に、カシャ、とシャッター音を響かせた。
 ホーム画面ってどうやって変えるんだっけ。あとで大学に行ったら市川に聞いてみよう。撮りたてほやほやの愛しの恋人の写真。その画面をそっと指でなぞりながら、起こさないようにそっと部屋を出た。


〈了〉

 
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