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ハピエン小説部門 選考通過作品 『いつか宝石になる日』

2025/11/07 16:00

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『いつか宝石になる日』作:はちねん

 

 

あらすじ
終末が運命付けられた世界で、王子のシユウは亡国の王子リェンと出会った。 
二十年の時を経て、民に愛される国王となったシユウは退位を望んでいた。下臣たちは大反対!幼馴染で総騎士団長のリェンを納得させられたら退位を認めると言われ、説得に向かうもリェンはシユウと一緒に退職すると言い出した。 
二人は森の砦で静かな日々を送るはずだったが、実はリェンに想い人がいるとわかり、シユウは嫉妬を隠せない。 
一方で二十年間シユウに片想いしてきたリェンは、二人暮らしを始めた途端ぐいぐい迫られて戸惑っていた。
長すぎる無自覚両想いは、周囲を巻き込みながら恋を実らせる。 
二人は亡き父の墓前で結婚の約束をするのだった。 

 ※こちらの作品は性描写がございます※
 
 

 その銀盤には水が張られ、大小の銀細工が水面から突き出している。 
 水は中央の突起から噴き出ていて、銀盤から溢れた水は窓から差し込む光を受けて輝く。 
 これは精巧に作られた世界の縮図だ。 
 始まりの島を中心に七つの大陸と三つの島があり、銀の突起はそれらを模している。 
 始まりの島に四番目に近い大陸の玉座の間に、この銀盤はある。 

 
「もういいだろ」 
 王は玉座から長い手足を投げ出した。口調は疲れを滲ませているが体付きはがっしりとしていて、齢四十にして衰えの兆しは微塵もない。 
 切れ長の目尻は男の聡明さを、限界まで引いた顎は頑固さを物語っている。 
「しかし、陛下」 
 臣下の反対は想定の範囲内だ。 
 王は己の長い黒髪をむんずと掴んだ。今すぐ切ってもいいんだぞ、という脅しだ。反対意見を述べようとしたモラド大佐は口を「あ」の形にしたまま動きを止めた。 
 それを見て、王はしめしめと話を続けた。 
「俺が王になったのは十八の時だぞ。いい加減、他の者がここに座ってもいいだろう」 
 肘掛けをポンと手で叩く。 
 玉座にそんなことをして許されるのは王ひとり。ロホ、アマリージョ、モラド、ブランコなどの宝石で彩られた木製の椅子に、現在の王が腰を下ろして二十二年の歳月が流れていた。
「そろそろ座面に俺の尻の形が残るぞ?」 
 王の冗談に、場の空気がふっと緩む。 
 しかし、王は一度言い出したら聞かないと、臣下たちはよく知っていた。 
 先王の突然の崩御により、第一王子が十八という若さで玉座についた。 
 幼き頃から百年に一人の逸材と言われていた彼は、度重なる戦に勝利し、先王の悲願だった民主化をも成し遂げた。 
 そんな彼でも四度行われた選挙で自らが王に選ばれるとは予想できなかった。 
「この髪にも飽きた」 
 スパニャ国では、選挙で王を決めるようになった現在も、男性で王だけが長髪を許されている。 
 彼の腰まで伸びた黒髪は、長い期間、国民から信を得ている証なのだ。 
「わかりました」 
 しわがれた声が残念そうに言うと、評議員たちがいっせいに老アマリージョを見た。 
先代の王の時代から王家に仕えている彼は現在の評議会では最古参だ。 
「爺ならわかってくれると信じていたぞ」 
 王が少年のように声を弾ませると、爺と呼ばれた老人は柔らかな笑みを浮かべた。 
「王がうちの息子を納得させることができた暁には、我々も諸手を挙げて貴方様を第二の人生へと送り出しましょうぞ」 
 ロホ王は一度は浮かべた笑みを消して、苦りきった顔で爺を睨んだ。 
「さすがはアマリージョさま」 
「王の扱いに慣れていらっしゃる」 
「ホッホッホッ、王がドラスノしか食べられないときから存じ上げておりますからの」 
 老アマリージョは独身だが男子を養子に取って育てて来た。 
 現在、息子は三つの騎士団を束ねる総騎士団長をしており、王へ辛辣な物言いができる唯一の人物でもあった。 
 王シユウ・ロホと総騎士団長リェン・アマリージョは十代の頃からの友なのだ。 
 王が玉座から立ち上がると、評議会に集まった面々は笑みを浮かべながら頭を下げた。 
 臣下の打って変わった態度に、王は心のうちで舌打ちをした。 
 どいつもこいつも、俺がリェンを説得できるわけがないと思っていやがる。 
 王がファルダを翻しながら玉座の間を出ると、扉前を警備していた兵士たちが背筋を伸ばし、甲冑が硬い音を立てた。 
「リェンさまは現在、ビブリオテリカで子どもたちに勉強を教えておられます!」 
「わかった。ちなみにお前たちは、どちらに賭ける?」 
 王の問いかけに二人の兵士は顔を見合わせた。 
「自分は……リェンさまが陛下を説得されるかと」 
「自分も同じことを考えておりました」 
 若い二人は恐る恐るではあるが、王が負けると思うと正直に答えた。 
「まったく……俺が勝ったらお前たちの母親特製のタコーチを食わせてもらうからな!」 
 王が賭けに乗ると、兵士たちは小さく笑い、カチカチという金属音を奏でた。 
「はい!承知致しました!」 
「母に伝えます!」 
「よし」 
 この一幕だけで、いかに王が愛されているかがわかるだろう。 
 玉座の間に集まっていた評議員たちとて同じだ。 
 今のニャスパは平和そのものだ。森に棲む獣たちは穏やかで、他国の軍隊や海賊が攻め込んできても、訓練された軍隊がそれを許さない。 
 現王の再選を望む評議員たちも、余程の愚か者が王にならない限り国が傾くことはないとわかっている。 
 ただ、現王が治めるこの国を深く愛していた。 
 
 
 リェンがいるビブリオテリカに向かうには中庭を突っ切るのが一番の近道だ。 
 短いインビエルノが終わりプリマベラを迎えた今、セレィソの花が見頃を迎えている。 
 風が吹くたびに小さな白い花びらが舞う木の下では、女性たちが豪華な織物を広げ、お茶の時間を楽しんでいた。 
「あら、あなた。お仕事はもう終わったの?」 
「ご一緒なさる?」 
「ドルセスがありましてよ」 
 口々に声を掛けるのは宮殿の花。 
 王の妃たちだ。 
「これから一番の大仕事だ」 
「まあ」 
「忙しいのね」 
 彼女たちに先ほどの賭けを彼女たちにも問うたら、どう答えるだろう。王が騎士団長を説得できるか否かで、彼女たちの今後の人生も変わってくるのだ。 
 シユウは妻たちの横で足を止めた。 
「その菓子をくれるか?手土産にする」 
 相手は菓子の賄賂で懐柔されるような甘い男ではないが、甘いものはひとの心をほぐす効果がある。それに相手は忙しい男だ。菓子は話を聞かせるための時間稼ぎぐらいにはなるだろう。 
「包みますからお待ちになってね」 
 細い指が薄い布の中央に菓子を並べていく。こんなふうにして菓子を贈ったことが前にもあったのを、ふと思い出した。 
 当時、シユウは王になったばかりでリェンは騎士より階級が下の兵士だった。 
「はい、あなた」 
「ありがとう。行ってくる」 
 手土産を持ち、今度こそ幼馴染の元へと向かう。 
 ビブリオテリカは玉座の間よりも古い年代に建てられた。壁は雨が降る前の空のような色で、全体の大きさに対して窓は少なく、出入り口は一つしかない。
 まさに本のための建物だが、いつの頃からか城の中の子どもたちのエスクエラの役目も果たしてきた。 
 シユウがその扉を開けた途端、子どもたちが飛び出して来た。 
「お腹空いたー!」 
「メリエンダを食べたら浜辺に集合だぞ!」 
「今日は何するー?」 
 王が扉を押さえていることにも気付かず、これから何をして遊ぶかの相談に夢中になっている。
 子どもとは、そういうものだ。 
 目の前のことに夢中で、誰かが扉を開けてくれたことにも、道を譲ってくれたことも気付かずない。 
 それでいい。 
 気がつくのは自分が開ける側になった時でいいのだ。 
 子どもたちの明るい声と対照的にビブリオテリカの中は薄暗く、古い顔料の甘い匂いがした。 
「シユウ?どうしたんですか?」 
 ほんの一瞬だけ、銀色の髪が肩まで伸びているように見えた。 
 それは逆光による錯覚で、実際はリェンの銀髪は耳が半分隠れる程度に短く切られていた。 
「君に会いに来た」 
「何をしでかしたんですか?」 
「おいおい、俺はもう悪戯をする歳じゃないぞ」 
「本当に?またうちの父を困らせて僕に一緒に謝ってくれと頼みに来たのでは?」 
「そんなこともあったな」 
「ええ、十三回ほど」 
 そう言いながらリェンは王のために椅子を引いた。 
 ビブリオテリカで勉学に励んでいた頃のシユウのお気に入り席だ。そんな些細なことまで覚えていてくれたリェンは、いつもシユウの隣の席だった。 
「菓子を持って来た」 
「ではカフィをいれましょうか」 
リェンは棚からバソを二つ取り出すと、その中に土色の粉を入れ、湯をポコポコと音を立てながら注ぎ入れた。 
 たちまち香ばしい匂いが立ち込める。 
 これは軍隊式の入れ方で、中庭で妃たちが楽しんでいた茶とは趣が全く違う。 
 効率のみを重視した粉なのに、リェンが入れると不思議と美味しいのだ。 
「これは……ビアホさまのものですね」 
 シユウの前にカフィを置きながらリェンは菓子の下に敷かれている布の持ち主を言い当てた。
「ああ。中庭で菓子を食べていたから分けてもらった」 
「仲がよろしいことで」 
「ああ、助かってるよ。歳が近いのがよかったのだろうな」 
 妃は一番上が二十三歳、一番下が十九歳で、三人ともが王とは十以上離れていた。 
「……それで、今日はどのようなお話で?」 
「まだ菓子を食べてもいないぞ」 
「僕が食べるので、あなたは僕に会いに来なければならなかった理由を話してください。まさか、妃たちのようにお茶の時間を楽しみたくてきたわけではないでしょう?今日は評議会だったはず。父に僕のところに行くように言われたのでは?」 
 シユウのほうが部屋を出たから養父から先に話を聞いたわけではないだろうに、リェンは見てきたかのように言い放った。 
「実は、次の選挙を辞退すると決めた」 
「は?」 
 リェンの顔から表情が抜け落ちる。リェンの指が摘んだばかりの菓子も布の上に落下した。 
 長い付き合いだか、こんな彼は初めて見る。 
 シユウは落ちた菓子をつまんで、半開きになったリェンの口に入れてみた。 
 淡い色の唇は拒むことなく菓子を受け入れ、サクサクという咀嚼音と共にリェンの頬が動く。 
 ビブリオテリカは今日も静かだ。防音機能のある材質を使っているから風の音も聞こえない。採光のための細長い窓の向こうでは木々が揺れているが、音がないだけで遠い世界のように感じる。 
 王位を退き俗世を離れたら、こういう生活になるのだろうか。シユウは近い将来に思いを馳せた。 
「突然何を言い出すんですか、あなたは!」 
 リェンが大声を上げた。菓子を飲み込むまで口を開くのを我慢していたらしい。 
「だから退位すると」 
「まだ四十ですよ!?隠居するには早過ぎるでしょう!現在進行中の事業はどうするんですか!?治水工事に新しい砦の建設、それから地方のエスクエラ整備、全部あなたが言い出したことでしょう!こっちはねぇ、騎士を志して来た若者たちを土木工事に派遣してるんですよ!?あなたと戦に出たいと言って集った子たちを!!『国民の役に立ちながら心身を鍛えられる効果的な方法だと王が仰っている』って説得したんですよ!?それなのにあなたが退位なんてしたら……僕はあの子たちにどう顔向けしたらいいんですか!この、自分勝手野郎!」 
 リェンの捲し立てる声はビブリオテリカを満たしていた静寂を切り裂いて、手でクシャクシャに丸めて、足でゲシゲシと踏みつけていく。 
 成人男性にしては小さな肩をいからせ、元々大きな青い瞳をさらに見開き、髪と同じ色の眉の間にはくっきりと皺が寄っていた。 
「はははっ」 
「なに笑ってるんですか!」 
「すまん、君に叱られるのが好きなんだ」 
「おかしなやつだ……」 
「そうか?」 
「……本気なんですね」 
 リェンが椅子に腰を下ろすと、シユウは急に申し訳なくなった。 
 さっきまで自分を詰っていた時とはリェンの表情は一転して、まるで迷子の子どものように寂しげで、騎士団長だけが着ることを許されている制服の肩飾りが地面に対して垂直になるほど肩が下がっている。 
「すまない、リェン……若手の騎士たちには俺が直接話す。退位すると言っても死ぬわけじゃない。そうだ、俺が彼らの稽古を付けるのはどうだ?戦がない現状、俺と一緒に戦いたいという彼らの気持ちを満たすには一番いい方法じゃないか?」 
「……そうですね」 
 リェンは俯き、その視線は目の前のテーブルを通り越して床、さらには建物の基礎、その先にある大地を見ているかのようだった。 
「リェン……顔を上げてくれ」 
「僕の勝手だろ」 
 ごもっとも。 
 王に敬意を払うために頭を下げる作法はあっても、王のために顔を上げよという法はない。 
 シユウはリェンの顔が見たくて、頬をテーブルに寄せた。 
 爺が見ていたら「いい歳した大人が二人して何をやっているんです」と呆れただろう。 
「お妃様たちは納得しているんですか?」 
「まだ話してない」 
「……ダメでしょう、それは」 
 リェンが顔を上げた。元々垂れ気味の目尻がさらに下がっている。迷子の子どもが絶望して泣き出す寸前の顔だ。 
「彼女たちのことは考えてある」 
「一緒に隠居するつもりですか?彼女たちの若さを考えると少々酷だと思いますけど……」 
「連れて行くつもりはない」 
「下賜するんですか?」 
 功績を上げた家臣に妃を妻として与えることは家臣と妃のどちらにとっても名誉になる。 
 しかしシユウとシユウの妃たちの場合は少々問題があった。 
「いや、海の近くに使っていない宮殿があるだろう?そこで三人で暮らせるように考えている。もちろん三人が再婚を望むなら、段取りはするが」 
「離縁されるおつもりで……?」 
「ああ。俺の我儘に付き合わせたくはない」 
「……僕ら家臣は絶対に付き合わされることになりますけどね」 
「悪いとは思っている」 
「どうだか……」 
 悪いとは思っているが、当初の予定では評議会で退位を押し切り、リェンには決定事項として伝えるつもりだった。シユウはリェンに叱られるのが好きだが、引き止められたくはなかった。彼に口で勝てる気がしないからだ。 
 爺に条件として提示されたので仕方なく話してみたが、リェンは『自分勝手』と罵ったものの引き止めてはいない。今のところは。 
「それで?父はなんと言っているんです?」 
「……君を納得させられたら退位を認めると」 
「ふうん」 
 リェンの口の端がわずかに上を向いたのを見て、シユウはこの説得が長くかかることを覚悟した。 
「いいですよ」 
「なんだって?」 
「退位したいんでしょう?すればいいんじゃないですか?僕は前々からあなたより弟君のキリセ様のほうが王に向いていると思っていたんです。聡明で穏やかで。武力はほぼゼロですが、そういう『守ってあげたくなる』感じって騎士としてはぐっとくるんですよね。これまであなたが言い出した事業のほとんどで彼が実際の図面を引いているので、引き継ぎもすんなり進むでしょう。もちろん国民投票の結果に従いますが、僕の推しはキリセ様ですね」 
 そう来たか、とシユウは奥歯を噛み締めた。 
 シユウとて弟の優秀さは認めているし、次の選挙でシユウの名がなければ、国民の大多数は弟に投票するだろう。 
 しかし十代の頃からの友であり、幾度となく共に戦地を駆けた戦友でもあるリェンが後釜を手放しで誉めるのは面白くない。 
 俺だって頭はいいし、気性が荒いほうじゃない。でも、それを一度だって褒めたことはないじゃないか! 
 シユウはそう言いそうになるのをぐっと堪えた。ここで「俺だってできる!褒めろ!」と言えば「じゃあ王様を続けましょうね」と返されるに違いない。 
「これからのニャスパは知的な国になりそうですね」 
「……ああ、そうかもな」 
「ただし、あなたの退位を認めるには条件があります」 
「条件?」 
「僕も総騎士団長を辞めます」 
「……は?」 
「総騎士団長と国王の二重選挙ですね」 
 総騎士団長は古い時代から、ずっと選挙で決められてきた。 
 投票するのは全国民ではなく騎士のみだが、三つの騎士団員に選ばれるのは簡単なことではない。 
「待て待て、君が辞める必要がどこにある!?」 
「その言葉、そっくりそのままお返しします」 
「ぐ……しかし、まだ君は若い」 
「僕たち二歳差ですよ」 
「……君、三十八になったのか」 
 リェンとシユウが出会ったのはシユウが十四の時だった。 
 彼は最果ての国からやってきた。 
 彼の国を制圧したのはシユウの父の代のニャスパ国だった。 
「ええ。ちなみに十六で騎士団に入ったので、身分の差はあれど国捧期間は同じですよ」 
 二十二年間、国のために戦っててきた男は、とてもそうとは思えない美しい顔で微笑んだ。 
 騎士になったばかりの頃は生傷が絶えず心配したこともあったが、元々武道を嗜んでいたリェンはすぐに頭角を著し、王の友という後ろ盾など霞むほどに強くなった。 
「あなたがどちらで隠居する気なのかは知りませんけど僕もそこへ付いて行きます。警備として不足はないと思いますけど?」 
 むしろ勿体無いぐらいである。 
 その声ひとつで数千の兵を動かし、その身ひとつで数多の領地を守ってきた男が、たったひとりの男の警護になるのだ。 
 リェンが抜けたあとの穴の大きさを考えると顳?のあたりが痛むが、二人で過ごす日々を考えるとシユウの口角は自ずと上を向いたのだった。 
「楽しくなりそうだな」 
「えっ、本気ですか?」 


 それはリェンの養父の台詞だった。 
 血の繋がりはなくとも、リェンの能力の高さを最も評価し、成長を頼もしく感じてきた。
 その息子が王の退位を認めただけでなく、自分よりも先に引退するとは思ってもみなかった。 
 あの子はずっと優等生だった。これが遅れてきた反抗期だろうか……。
 いや、反抗期なら一度だけあった。 
 老賢人の脳裏に浮かんだのは、息子が家出をした日のことだった。 
 アマリージョ老がニャスパに連れ帰ってすぐの頃、リェンは無口で塞ぎがちだった。 
 彼の故郷である最果ての島は文字通り、この世界の果てにある。 
 世界の中心にある始まりの島から外側へと島々は常に移動しており、二千年で端に達し落下する。その端に最も近い島は最果て島と呼ばれる。 
 始まりの島から生まれ、世界の端から落ちるまでの二千年の間に、島では文明が発達していく。 
 落下の時が迫ると民は他の島へと移住し、船は彼らと共に工芸品や技術を乗せて、始まりの島により近い島を目指す。 
 その一方で、なぜ故郷が消滅しなければならないのかと悲しみ、鬱状態に陥る者もいる。 
 リェンの父である、最果ての島の最後の王もそうだった。 
 落下予測日の一年前、王は民に島と運命を共にするよう命じ、全ての船を焼き払った。 
 その知らせを受けたニャスパの先王は兵とともに最果ての島に向かった。 
 リェンの父は彼らを攻撃した。 
 短い戦闘の末、ニャスパは王宮を占拠し、民を船で逃した。多くがニャスパへと移住し、一時的にニャスパ国内も混乱した。 
 アマリージョ老は、その混乱に乗じてリェンを養子とし、王子であることは隠して育てるつもりだった。 
 王宮殿を占拠する際にニャスパ側に宮殿の内部構造を教えたのは、唯ひとりの王位継承者リェン王子だったからだ。 
 しかし、予想外のことが起きた。アマリ―ジョ老を尋ねて来たシユウ王子にリェンを見られてしまったのだ。
 リェンが王族であることは一目瞭然だった。最果ての島では、王だけではなく、王族の男性全員が長髪だったのだ。 
 銀色に煌めく髪を切った後、リェンが王子であることは決して口外してはならないと、アマリ―ジョはシユウに言い聞かせた。 
 シユウ王子は約束は守ったものの、異国から来たリェンに興味津々で、故郷に感情を置き忘れたかのように表情が抜け落ちていたリェンが激昂するほどちょっかいを出した。 
 追いかけっこの途中でニャスパの国獣であるガトーの長い尾を踏んでしまい、怒ったガトーから逃げるうちに二人して海に落ちたこともあったが、元は同じ立場の二人がお互いを友と認めるまで長い時間は掛からなかった。 
 そんなある日、リェンが消えた。 
 リェンがニャスパに来て一年が経っていた。 
 アマリージョ老はリェンを探す中で彼が旅支度をして家を出たことに気が着いた。 
 あぁ、神よ。朝の女神ディアスよ。どうか、息子をお守りください。 
 老賢人は神に祈らずにはいられなかった。なぜならその日は、最果ての島の落下予測日だったからだ。 
 世界の端まで到達した島は七日掛けて世界から落下すると言われている。ニャスパから最果て島まで最短でも四日。落下を見届ける任を負った神官たちを乗せた快速船が、明け方に出港したばかりだった。 
 リェンは故郷の話をほとんどしなかったが、生まれ育った島と父の最期が気にならないはずがない。 
 この日、出航した船は後発隊だった。落下観測の学者を乗せた先発隊の船に潜り込むこともできたはずだ。そうしなかったところにリェンの葛藤が垣間見えて、老賢人の胸をさらに締め付けた。 
 後に、シユウ王子も行方知れずになっているとわかった時は、アマリージョン老は腰が抜けて立ち上がれなかった。 
 兵士たちが最速船で追いついた時、二人は船の中から落下する最果ての島をじっと眺めていた。シユウ王子の靴紐はリェンの靴紐と固く結ばれていたという。 
 ひとりでは行かせない、とでも言ったのだろうか。 
 そして今回、シユウが退位を告げたのに対して、リェンも騎士団長を辞した。 
 あの日の仕返しなのかも知れない。 
 それならば、止めても無駄だろう。 
 アマリージョ老は空になった王座を見て、痩せた肩を落としたのだった。 
 
 
 タコーチは家の数だけ種類があると言っていい料理だ。 
 作り方は大きく違わないが、家によってかなり味や食感が違う。 
 薄い生地にカルネとベルデューを乗せて包むのだが、カルネを甘辛く味付けする家もあれば、たっぷりの香辛料と炒める家もあるし、火を通したあとでリムを絞って酸味を効かせる家もある。 
 一緒に包むベルデューにしても、シャキシャキとした食感の葉物を入れるか、じゅわっと汁があふれる実を入れるかで食感がかなり違う。 
 若い兵士たちが持ってきたのも、まったく違うタコーチだった。 
 一つは生地で具をくるくると巻いているのに対して、もう一つは生地を半分に折ってその間に具が挟んである。 
「どちらもうまいな」 
「ええ」 
 タコーチから垂れた汁が、リェンの白く長い指を伝っていく。 
 それを唇で受ける友を見て、シユウはなんだか落ち着かない気持ちになった。 
「なんですか、ひとの顔をジロジロと見て」 
「君はどんな風に女を抱くのだろうなと思ってな」 
「……王なら何を言っても許されるとお思いで?」 
「いいや?それに俺はもう王じゃない」 
 シユウが退位の意を表してから三ヶ月。 
 選挙でシユウの弟が新しい王に選ばれた。 
 律儀な兵士たちが賭けに勝ったシユウに母親特製のタコーチを持ってきたというわけだ。 
「なおさら口を慎んだほうがいいですね」 
「すまん、考え事をしていたせいで口が緩んだ」 
「ビアホ様の縁談の件が気に掛かっているんですか?」 
 その通りだった。 
 ビアホはシユウの三番目の妃だ。手芸が趣味の大人しい女性で、嫁いで来たばかりの頃は夫のシユウとも目を合わせなかった。 
 シユウはそれで構わなかったが、先に嫁いでいた二人の妃がビアホの髪を結ったり、自分のドレスを着せたりと構い倒した結果、ビアホは三姉妹の末っ子のように甘えたり生意気なことを言ったりするようになった。 
 その彼女に縁談が持ち上がったのは、シユウが退位と同時に三人の妃との離縁を発表して、すぐのことだった。政略結婚ではない。騎士のひとりがビアホとの結婚を望んでいるのだ。 
 騎士団長のリェンの後任として抜擢された男で、武道の腕前はかなりのものだ。 
 そんな彼がビアホに惚れていると知り、ビアホのほうもまんざらでもない様子だった。 
 では何がシユウの気を重くさせているかというと、シユウと妃たちの秘密を明かさなければならないからだ。 
「実は……ないのだ」 
「何がです?」 
「だから……ビアホは乙女なのだ」 
「はあ?」 
「再婚すればわかってしまうだろう?その騎士が肉体的に不能でなければ」 
「部下たちは皆元気ですよ!」 
「そうか……」 
 つい暗い声が出た。リェンが心配そうにシユウを見る。 
「あなたのほうはどうなんですか……?」 
 退位を望んでから何度も聞かれた質問だった。体がどこか悪いのではないかと聞かれるたびに、シユウ違うと答えてきたが、退位の理由ではないものの健常とは言い難い部位がひとつだけあった。 
「すこぶる健康だ。ただ月が満ちないだけで」 
「……まったく?」 
「ああ、二十年になるかな」 
「そんなに前から!?僕が騎士になったばかりの頃じゃないですか!」 
 リェンが勢いよく立ち上がったせいで、二人の間にあったテーブルの上の花が揺れた。 
この邸は元々、砦だった。すぐそばに森を住処にしている獣による獣害が多発していたため、兵士たちが交代で泊まり込み、見張りをしていたのだ。 
 そのため門扉や壁が頑丈に作られており、少し手入れをしただけで住める状態になった。 
 邸では数人の使用人を雇っているが、宮殿からの通いなので夕食後の今は二人しかいない。 
 夕方届いたタコーチをつまみに、庭に向かってせり出した屋根の下で晩酌を楽しんでいた。 
「では、一番目のお妃さまとも……?」 
「ない」 
 周囲の目があるため何度か寝所を共にしたが、シユウは彼女たちの服に隠れている部分に触れたことさえなかった。 
「宮殿医に相談しなかったんですか?」 
「言えると思うか?」 
「言えばいいじゃないですか。気安く話せる部位ではありませんけど……この国では男性機能が不能になることを『神に近づく』と言うぐらいですから、恥ずかしがらなくても」 
「だから嫌なんだ!」 
 夜を支配するノーチェスは神々の中で最も強い力を持つ。 
 彼は昼の神タルデスとの間にディアスという娘をもうけてから男性機能が不能になり、代わりに全知全能の力を得たと語られている。 
 そのため、国によって解釈の違いはあれど、男性器が不能になることに神聖な意味を見出す。 
「戦に勝ち続け、民からの信を得て、そのうえ不能になったなんて言ったら神格化されかねん!神殿を建てられて、祭壇で日々祈りを捧げるなんて生活はまっぴらごめんだ!」 
「はははっ、確かに。シユウには向いていないでしょうね」 
 シユウは若い頃から好奇心が旺盛で体を動かすのも好きだった。王子でありながら宮殿にいる時間よりも外で遊び回っているほうが多かった。 
 お忍びで街に出て、歳上の女性に可愛がってもらったこともある。 
 しかし王になってからは政務で忙しくしているうちに、いつの間にか勃たなくなっていた。 
「事情はわかりました。彼には私からうまく話しておきましょう」 
「悪いな」 
「いえ、全然構いませんよ」 
 そう応えるリェンはどこか楽しげに見えた。 
 幼馴染の意外な秘密を面白がっているのだろう。 
「そっちはどうなんだ」 
「え?」 
「教えてくれてもいいだろう」 
「何をです?」 
「君の恋愛遍歴だよ。初恋はいつだ?一番長く付き合ったのは?」 
 友になって長い時間が経過していたが、二人はそういう話をしたことがなかった。 
 リェンは一度真剣な顔になってから酒が入った杯を傾けた。 
「今ですよ」 
「なに?」 
「僕の初恋は現在進行形で続いています。そのひとに生涯を捧げると決めているんです」 
 雷に打たれたような衝撃だった。 
 リェンにそんな想いびとがいるとは夢にも思わなかったのだ。 
 さっきは「教えてくれ」と言ったが、職務が忙しくて私生活はおざなりだろうと思い込んでいた。 
 リェンは、シユウが知る限り、女性関係で揉めたことは一度もない。 
 総騎士団長として行進の先頭に立つ彼を見て女性たちがはしゃぐことはあっても、リェンを巡って女性が対立したという話は聞いたことがない。 
 うまく立ち回っていたのだろう。 
 シユウの知らないどこかで秘密の恋を楽しんでいたとは思いもしなかった。 
 リェンは目を細め、何かを思い出すような瞳で杯を見ている。 
 相手は一体誰だ。いや、知りたくない。俺を見ろ。俺だけを見ろ。これからは二人で生きていくんだ、誰にも渡さない、絶対に。 
「……コシーナにドラスノがあったな」 
「え?ええ、タコーチと一緒に兵士たちが持ってきたのがありますけど」 
「食いたくなった。取ってくる」 
「それなら僕が」 
「いい、俺が行く」 
 食料貯蔵庫があるコシーナに向かいながら、シユウは静かに驚いていた。 
 月が満ちている。 
 二十年間眠り続けていたというのに、リェンの秘密の恋を聞いた途端にむくりと起き上がり、今では下着の中を圧迫している。 
 コシーナの食料貯蔵庫を開けると冷気がシユウの頬を撫でた。 
 性的興奮を覚えているというのに、妙に頭は冷え切っている。 
 戦の前の感覚に似ている。 
 戦場でノーチェスのごとき強さと謳われたシユウだが、戦を楽しむ性質ではなく、国を守り繁栄させることだけに集中してきた。 
 王の座を退き、ただの男になって、己が欲しているものに気が付いた。 
 リェンが欲しくて仕方ない。どうしたものかと戸惑うと同時に、興奮してもいる。 
 己の欲に突き動かされるのは王になってから初めてだった。 
 シユウがドラスノの実を持って戻ると、リェンは不機嫌そうにグラスを傾けていた。 
「よく熟れている。食べ頃だ」 
「ふん」 
「気分じゃなかったか?」 
「そうじゃありません……ただ」 
「ただ?」 
「僕に話してくれても良かったじゃないですか」 
 白い指は深緑色の瓶を持ち上げると中の酒をグラスに注いだ。 
 トマから作られた酒は深い赤で、シユウの瞳の色はよくこの色に喩えられてきた。 
「勃たなくなったと?君に?」 
「男同士なんだからいいでしょうか。というか、相談相手は僕以外に考えられなくないですか?」 
 机の横に立ったシユウを恨めしげに見上げるリェンは、酒で頬が上気しているにもかかわらず、あどけなく見えた。 
 元々彼は若く見られがちで、長い付き合いシユウでも三十八になったと聞いて驚いたほどに出会った頃と変わらない。 
 そんな幼馴染のために、シユウはドラスノに小刀を向ける。柔らかい皮は最も簡単に刀を受け入れた。 
「子ができないことに気を揉んでいたか」 
「それは……作る気がないんだろうと思っていました」 
 民主化は成功したものの、選挙で王に選ばれたのはシユウだった。もし彼に子どもが生まれたら、その子に王位を継がせようと躍起になる輩が出てくるだろう。 
 それでは民主化の意味がない。 
 王だった頃、シユウは周囲に子を作らない理由をそう説明していた。 
 妃たちも子を欲しいと願うにはまだ若く、それで構わないと言った。 
 たとえ欲しくともできない状況だったのだが。 
「僕は相談するに値しないということですか」 
 リェンはとうとう唇を突き出してしまった。 
 ますます子どものようでシユウは笑いを堪え切れなかった。 
「なぜ笑う!」 
「ほら、皮が剥けたぞ」 
「話を逸らすな……んぐ」 
 汁がしたたる果肉を突き出した唇に押し付けると、リェンは渋々といった様子でそれを口に含んだ。 
「俺の母は乳の出が良くなくてな。乳の代わりにこの実の汁をよく飲んでいたらしい」 
 シユウの母もまた土の下にいる。父よりも早かった。 
「……僕は乳母の乳で育ちました。小さいのによく乳を飲むから大変だったそうです」 
 リェンは口元を布で拭いながら、そう言った。 
 男ふたりが女性の乳房の話をしているのに、こうも艶っぽくならないとは。 
 思春期にそういう話をしなかったからだろう。シユウ自身は女性の体に興味があった時期もあったが、リェンの耳には入れたくなかった。 
 シユウにとってリェンはそういう存在だった。 
 初めてリェンを見た時の驚きは今でも鮮烈に覚えている。 
 銀色の髪は腰まで伸びて、すらりとした体といい、男女という区別を必要としない神聖な美しさで、アマリージョ老が最果ての国から女神を連れて帰ってきたのかと思ったほどだった。 
「相談しなかったのは君を煩わせたくなかったからだ。こういう話は得意じゃないだろう?」 
「僕は騎士団にいたんですよ?その手の話なんて日常茶飯事です!」 
 確かに騎士団にいるのは皆男で、鍛錬も仕事の一つだ。 
 それだけに己の体に自信もっている。 
 女性にモテるだの、夜の営みがどうので競いたがる者も多い。 
 リェンがそういう話の輪の中にいる姿は想像しがたいが、若い騎士たちと交流するのも騎士団長の仕事だから、酒の席で猥談を聞く機会はあっただろう。 
「相談しなかったのは君もだろう?想い人がいるなんて全く知らなかった」 
「下手くそ」 
「うん?」 
「皮を厚く剥きすぎです。もったいない」 
 リェンはシユウから小刀を取り上げると、慣れた手つきでドラスノの皮を剥き始めた。 
 はぐらかされたな、とシユウは思った。 
 こんなに美しく、強くて手先が器用な男に思われて嫌だと言う女がいるだろうか。
 結婚をせず初恋を貫いているのには何か理由があるはずだ。 
「君、俺の妃に惚れているのか?」 
「は?」 
 リェンの手からドラスノがぼとりと落ちた。 
「だから俺に黙っていたのか!?」 
「ち、違いますよっ」 
 どれだ。 
 新しい騎士団長の妻になるビアホは違うだろう。初恋を捧げるには若すぎる。 
 二番目の妃とは式典以外に接点がなかったように思える。 
 可能性としてありそうなのは一番目の妃だ。 
 彼女はリェンの故郷の隣島から、ここニャスパに嫁いできており、リェンはシユウよりも先に彼女と面識があった。 
「あの時、俺の結婚に反対したのはそういうわけだったのか……」 
「違うと言ってるでしょう!あなたというひとは頭がいいくせに、どうしてそんなに鈍いんです!?」 
 鈍いと言われたのは生まれて初めてだ。 
 人の機微には聡いほうだし、それが求められる立場にいた。 
 とはいえ長い付き合いの友人の恋に全く気付かなかったのだから否定はできない。 
「じゃあ誰なんだ……」 
「もうこの話はやめましょう。僕たちに向いてないですよ、恋バナは」 
「それは否定しないが、君が初恋の相手を明かしてくれるまで俺はここを動かないぞ」 
「どうぞ、ご勝手に!」 
 そう言うとリェンは本当に家の中へと入ってしまった。 
 シユウは空を見上げた。夜の神ノーチェスが支配する空は暗く、始まりの島の方角だけが仄かに明るい。 
 ノーチェスが船乗り達のために掲げる島中央の山の上の月は、インビエルノからベラーノかけて陰影が濃くなり太くなる。このことから男性器の隠語として使われてきた。 
 シユウが退位を決めたプリマラから三ヶ月が経ち、ベラーノ初旬を迎えた。月は当時より太くなったが、模様はまだ薄っすらとしか見えない。 
 シユウの鼻先は冷たくなっていた。気温が上がっているとはいえ、森が近いここは宮殿よりも風が冷たい。 
「引越して早々に風邪をひくつもりですか」 
 外に戻ってきたリェンは夜着に着替えていた。風呂に入ってきたのだろう。銀色の髪はしっとりと濡れ、シユウの鼻までふわりとリモンの香りがとどいた。 
「ファルダを持ってきましたよ」 
 リェンがもっていたファルダに、シユウは見覚えがあった。 
 王になる前にシユウがリェンに贈ったものだ。
 まだ持っていてくれたのか。
「君があたためてくれ」 
「おや、珍しい。酔っているんですか?」 
「俺ではダメか?」 
「えっ」 
 リェンの瞳が揺れたのをシユウは見逃さなかった。 
 彼が人生を捧げると決めた相手は男ではないかという推理は当たったようだ。 
 リェンは女にも男にもモテるが、相手が騎士だったら想いを告げないと決めたのも納得できる。騎士団には恋愛禁止の掟があるからだ。 
「あのねぇ、シユウ」 
 リェンの長い指がシユウの黒髪を梳く。 
 その眼差しは女神のようでもあり、聞き分けのない弟を見る兄のようでもあった。 
「君が結婚してからずっと、僕はひとりで恋をしてきたんだよ?一緒に暮らすようになってようやく気付くような鈍感男はもっと悩むべきだ」 
 そう言うとリェンはまた中へ戻ってしまった。 
「マジか……」 
 思わず抱きしめたファルダからリェンの匂いがして、シユウは呻いた。 
 第二の人生を歩み出した元国王の前に訪れたのは、王としての責務に目隠しされて通り過ぎた青すぎる恋だった。 


 翌日の朝早く、二人の邸に来客があった。 
「兄さん、やっぱり僕には無理だよ!」 
「そんなことはない、キリセ。なあ、リェン?」 
 訪ねてきたのは現国王であり、シユウの弟でもあるキリセだ。 
 兄弟は二つ違いで、キリセとリェンは同じ歳だが、リェンにとっても弟のような存在だった。 
「もちろんです。私はキリセさまはシユウよりも王に向いていらっしゃると思いますよ」 
「まさか!」 
 キリセは細い目を見開いて、リェンとシユウの顔を交互に見た。 
 弟を見返すシユウは優しい表情を浮かべているが、横にいるリェンをちらっと見た時だけわずかに唇の端を下に向けた。 
「僕は兄さんと違って引きこもりだし」 
「書類仕事がお得意なのは素晴らしいことです。シユウはじっとしているのが苦手で困るとうちの父がよく漏らしていましたよ」 
 シユウの眉間に皺が寄るのを、リェンは見てみぬふりをした。 
「で、でも、優柔不断で決断力もないし」 
「国民のためを思われているからこそ熟慮されるのです。シユウの思い付きに振り回されてきた私にはわかりますよ」 
「おい、リェン」 
 低い声がリェンの名を呼んだ。 
 完全に拗ねてしまったようだ。 
「これは失礼いたしました。どうぞご兄弟でお話なさってください」 
 リェンは手を大きく回して腰に当て頭を下げた。この挨拶を騎士団の先頭でするのは総団長のリェンの役目だった。 
 先王と現王の前を辞したリェンは自室に戻り、着替えを始めた。 
 といっても、王の御前に出るからと肩に掛けていた礼装用のファルダを外し、外用のものに付け替えるだけだ。 
 今日の予定を考慮してファルダの下にはすでに丈夫な服を着込んである。 
 室内用の靴から騎士の頃から履いている編み上げ靴に履き替えて部屋を出ると、一階に降りたところで応接室からわずかにシユウとキリセの声がした。 
 リェンは使用人にキリセとシユウにテとドルセスを運ぶように言い、森に入ると伝えて屋敷を出た。 
 今日も朝の女神ディアスはご機嫌麗しいようで、天は晴れ、はじまりの島中央の山から生まれた太陽が草露を宝石とまごうばかりに照らしている。 
 リェンは故郷にいた頃からそうしていたように女神ディアスに感謝の祈りを捧げた。 
 森に入る理由は二つある。 
 一つは森の獣たちの様子を確認することだ。 
 最近は大人しくなったが、以前は田畑を荒らしたり、家畜をおもちゃにして殺したり、ひどい時は家屋を倒壊させてしまうことが頻繁にあった。 
 獣たちを追い払うのは兵士たちの仕事だ。 
 騎士になる前の兵士だった頃、リェンはその任務に着いていた。 
 当時のことを思い出しながら歩いていると、森の奥から四つ足の獣が現れた。 
 ガトーだ。 
 尻尾が長く頭の上で三角の耳がツンと立っている。成獣のようだ。 
「にゃあ 
 ガトーはリェンに呼びかけるように甘えた声で鳴いた。 
「やあ、おはよう。ニャアちゃん」 
 ガトーはニャスパの国旗にも姿が描かれ、国民からは「ニャアちゃん」の愛称で親しまれている。 
 リェンの故郷にガトーはいなかった。 
 だから初めて見た時はかなり驚いた。 
 特に、その大きさに。 
「にぁぁん」 
 ガトーは森の木々の中ほどまである頭を屈めて、リェンに向かって鼻を押し付けた。 
 ガトーの親愛の仕草だ。 
「よしよし、いい子だね」 
「にゃあ?」 
 理由は不明だが、リェンはガトーにすこぶる好かれる。 
 森の見回りをしているとガトーがリェンの周りに集まってはしゃぐので、先輩兵士に「お前のせいで仕事にならない」と責められた。 
 一度など同行していた学者が「彼がいればガトーは森から出ないのでは?」と言い出したせいで、夜の森にひとりで野営することになってしまった。 
 リェン心配して森まで様子を見に来てくれたのは、国王になったばかりのシユウだった。 
「リェン!」 
 ガトーの毛並みはリェンの肘から先より長く、視界はほぼ黄色で満ちている。 
 リェンはガトーの毛が口に入らないようにガトーの毛を掻き分けた。 
「どうしたんですか?シユウ」 
「それはこちらのセリフだ!」 
 リェンの姿はシユウに見えていないのかもしれない。 
 ガトーの前足と頭の間、肩の少し下あたりで毛並みに包まれているので、ガトーの毛並みに目を凝らせば銀色の髪が見える程度だろう。 
 リェンが森に入るといつもこうなる。老いも若きもその大きな毛むくじゃらの体をリェンの体に押し付けるが、生憎リェンは彼らの半分ほどの背丈しかないため撫でられる範囲は限られており、彼らのほうがリェンに巻きつく形に落ち着く。 
 彼らの体の柔らかさには驚かされる。頭と尻がくっつくように丸くなるなんて人には不可能だ。しかも長い尻尾は別の生き物かのようにクネクネと動いている。 
「無事なんだな?」 
「ええ。あなたのほうは?キリセさまは帰られたのですか?」 
「話より先に、そこから出てきてくれ。ガトーと話しているようで落ち着かん」 
 リェンが毛並みから脱出を試みるとガトーが「グルル」と不機嫌そうに喉を鳴らした。 
 それでもなんとか抜け出すと、ガトーは立ち上がり、森の奥へと去って行った。 
 森の中央には獣たちのために建てた塔がある。命じたのはシユウだ。爪研ぎ用の塔を建てると聞かされた時は「何を言ってるんだ、コイツは」と思ったが、ガトーもペローも塔を気に入り、獣害はぐんと減った。 
 そのため見張り用の砦が使われなくなり、現在の二人の住処になったというわけだ。 
「前にもこんなことがあったな」 
「僕がまだ兵士だった頃でしたね」 
 あの時も、シユウはリェンを心配してくれた。 
 ひとり森で野営をした時の心細さは今も覚えている。 
 ペローの鳴き声がするたびに心臓が止まるかと思った。ペローはガトーによりずっと小さいが、顎の力が強く、カルネを好む。 
 夜に活動する種は特に獰猛で、リェンは彼らの気配に神経を尖らせなければならなかった。 
「持って来てくれた菓子を一緒に食べましたね」 
「そうだな」 
 あの時、菓子を包んでいた布には青い羽を持つパレハが描かれていた。 
 珍しい柄だったし、シユウが来てくれたのが嬉しかったから、よく覚えている。 
 王が夜中に宮殿を抜け出すのは簡単ではない。 
 しかし、男は逢引きのためならどんな場所からでも抜け出せる。リェンは騎士になってから、そのことを知った。 
 シユウに菓子を包んで持たせたのはどんな女性だったのだろう。 
「なぜひとりで先に行ってしまったんだ」 
 シユウがファルダの上からリェンの腕を掴んだ。 
『俺ではダメか』 
 昨夜のやり取りが耳に蘇り、リェンは目を逸らした。 
「お邪魔にならないように気を遣ったつもりですが?」 
「その必要はない。リェンにも聞いて欲しかったと王が仰せだったぞ」 
 シユウにはわからないだろう。 
 リェンはかれこれ二十年この国のために戦ってきたが、この国の未来には口を挟まないようにしてきた。故郷を失い、新たに居場所を与えてもらった余所者としての線引きだった。 
 服に着いたガトーの毛を手で払う。 
 実の父はこの気ままで愛らしい獣を見たことがあったのだろうか。 
「キリセさまはどういったご用件だったのですか?」 
「宮殿に戻ってきて欲しいそうだ」 
 キリセの気持ちは十分理解できる。選挙で選ばれたとはいえ、シユウ以外が王になったのは民主化して初めてだ。 
 兄にそばにいて助言して欲しいと思うのは当然で、優柔不断と責められることではない。 
「では荷造りしないといけませんね」 
 ずっと二人きりでいられると思っていたわけじゃない。それでも終わりはあまりにも早かった。 
 宮殿に帰れば数百人の使用人がいて、シユウ自らコシーナに食べ物を取りに行く必要もなく、酒を注ぐのも選ぶのも誰かがやってくれる。でもその誰かはリェンではない。 
「嘘だ」 
「……はい?」 
「君は存外わかりやすい」 
 意味がわからず顔を上げたリェンにシユウはぐっと顔を近づけた。 
「このまま二人で暮らしたいと思っている、そうだろう?」 
「……自惚れるな。僕はあなたのわがままに付き合っているだけで、好きでここにいるわけじゃない」 
「俺は二人で暮らしたい。だから弟の願いは叶えられなかった。まあ、宮殿に行く用事ができたことに変わりないんだが」 
 胸がじんと熱くなるから悔しい。 
 この男は人たらしだ。 
 誰にでも親切で誠実で、行動力もあるから、リェンのように振り回される人間が他にもたくさんいる。 
 でも、リェンが振り回されてもいいと想うのは彼ひとり。 
 それが悔しい。 
「もうずっと恋をしているんだろう?」 
「……それが何か?」 
「簡単に諦めてくれるな。俺はまだ気付いたばかりだが」 
 シユウの手がリェンの腕を離したが、リェンの肌にはシユウの体温が残っていた。 
「君の全てを手に入れるつもりだ」 
「なっ」 
「あれからよく考えてみた」 
 まるで数月前から考えているような口ぶりだが、この男がリェンへの執着に気付いたのは昨日の夜だ。 
 その執着が恋愛感情なのか、王という特殊な立場にいたゆえに拗れた友情なのか。 
 判別するにはまだまだ時間がかかるはずだ。 
 リェンはもっと悩めと思った。 
 ほぼ二十年だ。 
 もう三十八だぞ。 
 どうしてそんなに長い間好きでいられるのか、リェン自身もわからなかった。 
「君なら抱ける」 
「抱く!?」 
「昨日、試してみた」 
 シユウは逞しい太ももと太ももの間の少し上を指差した。 
 木々の間から差し込んだ陽がシユウの服に光と影で模様を描く。 
 露骨に下半身を指差していても眩しいほどの男振りにリェンは眩暈を覚え、手のひらを額に当てた。 
「月が満ちないんじゃなかったんですか?」 
「二十年ぶりだよ」 
「自分が何を言っているかわかっていますか……?」 
「やはり猥談は苦手なんじゃないか」 
 シユウはリェンの肩を抱き寄せた。 
「な、なに」 
「眩暈がするんだろう?」 
 猥談で眩暈がしたと思っているらしい。 
 どんな体質だ。 
 僕をクラクラさせるのは猥談ではなく、今も昔もお前だけだと言ってやりたくなった。 
「屋敷に戻ろう」 
「でも、まだペローが」 
 森に入った二つ目の理由だ。 
 円満に退位したとはいえ、シユウは元国王だ。敵はゼロではない。 
 ニャスパを混乱させるために他国の刺客が彼を狙うことも考えられる。 
 念のため森の獣に庭で番をさせようとシユウが言い出した。 
 国獣のガトーは飼育が禁止されているから、ターゲットはペローだ。 
 森には他にも、跳ねるように駆けるトや長い角を持つカなどが森にはいるが、耳が良く、鋭い歯があって、吠え立てるのが得意なのはペローだけだ。 
 大きくて強そうなのを二人で探すはずだった。 
「あとでいいだろう。それとも、俺よりペローがいいのか?」 
 シユウとペローのどちらが好きかなんて考えたこともない。 
 ペローなら突然自慰中の妄想の内容を告白しないだろうから、シユウよりマシだろうか。 
「本気で悩まないでくれ……」 
「だって、シユウが変なこと言うから……」 
「信じられないなら見せようか」 
「何を?」 
「俺が君で抜くところ」 
 リェンは鼓動が早くなり、聞き返したことを後悔した。 
「…………見る」 
 シユウはリェンの手を引いて走り出した。 
 ああ、朝の女神ディアスよ。どうかお許しください……。 


 この邸に越してきた日、シユウは伸ばし続けてきた髪を切った。 
 王の証だったそれを切ったのはリェンだった。 
 リェンを自室に招くのは、その時以来だ。 
 部屋の中央には大きな寝台がある。四方に垂らした布を完全に閉じているので、外から中を窺い知ることはできない。四隅の僅かな隙間から陽光が差し込んでベッドの上にいるリェンの白い肌と白い敷布の境界線を浮かび上がらせている。 
「君を初めて見た時、ひとではないかと思った」 
 境界線をなぞるように頬を撫でると、リェンがシユウの掌に頬を押しつけた。 
「僕をなんだと思ったんですか?ていうか、なぜ僕が寝台に寝かされているんです?僕はあなたの……」 
 自慰を見に来たと言おうとして躊躇ったリェンの艶やかな唇にシユウは指先で封をした。 
「君があまりにも綺麗だから人ではないかもしれないと思ったんだ」 
 たとえば女神とか。 
 さすがに口には出さなかったが、当時10歳だったリェンはシユウが見たことのないほど白く輝いていた。 
 島が世界の縁に近付くにつれて太陽からは遠ざかる。気温は下がり、暮らす人々は色素は世代を重ねるごとに薄くなっていく。 
 最果ての島で生まれ育った王子は透き通るような銀色の長い髪と、自らが発光しているかのような白い肌を持っていた。 
 神話の時代に人々が見た神のうちのいくつかは最果ての島からの移民だったのかもしれない。 
 シユウが掌を顔から首、首から鎖骨へと移動させると、リェンは居心地が悪そうに顔を背けた。 
 シユウの肌の赤土色が滲んだかのように、リェンの雪肌が赤く染まる。 
彼の言う通りだ。 
 こんなにわかりやすいのに今まで気付かなかったなんて、バとカの見分けが付かない愚か者と同じだと言われても仕方ない。 
「本当に俺が好きなんだな?」 
「揶揄っているだけなら僕に触れるな!」 
 リェンがシユウの手を払う。その気高い振る舞いは王子然としていた。 
 もしリェンの国が存在していたら、国主会議でシユウと顔を合わせたことだろう。島同士が離れているから友と呼べるほど深く話す機会はなかったかもしれないが、彼の美貌に目を奪われずにいられなかっただろう。 
「揶揄ってなどない。ただ嬉しいんだ、俺も同じ気持ちだから」 
「ふん、昨日今日のそれと同じにしないでください」 
 この美しい男が長いこと自分だけを好きだったと思うと、シユウは頬を緩むのが抑えられなかった。 
 それを見たリェンは、笑われたと思ったのだろう。寝台から起き上がり、シユウに背を向けた。 
 シユウの頬はますます緩んで、さすがに手で覆わずにはいられなかった。 
 鎖に繋がれているわけでもないのに寝台から出ていかないなんて、離れたくないと体全体で表現しているようなものだぞ。 
「僕にはシユウしかいない」 
 リェンがぼそりと呟いた。 
 これはもう反則だ。 
 抱きしめろと命令するより効果的な抱きしめたくなる呪文を唱えられて、シユウはその細い背中を抱き締めた。 
「俺だって君だけだ」 
「君を慕う人は大勢いる!その誰もに君は優しくて誠実だ」 
 勘弁してくれ。 
 シユウは胸の内で呻いた。 
 お前だけをずっと昔から愛してると告白されたうえに内面を褒められたのだ。愛されることに慣れているシユウでも許容量を超えている。 
「勃つのは君だけだ」 
「……証拠は?」 
「下着の中だ。見てごらん」 
 変態の言う台詞だ。 
 これにはリェンも笑わずにはいられなかったようで、目尻に皺を寄せてシユウを振り返った。 
「本当に?」 
「ああ」 
 シユウはリェンの手を取って、己のそこへと導いた。 
 かつて絶対王制だった頃、王は男の恋人を持つことを推奨されてきた。 
 王と妃は多くの場合が政略結婚で、気が合わない場合も多く、出産で妃が先立つ場合も少なくなかった。 
 しかしながら、女性との交際は妊娠の可能性があるとして妃以外と寝台を共にすることは固く禁じられ、その代わりに男性との恋愛を周囲から進められたという。 
 シユウの父は妻と仲睦まじく、そして妊娠の可能性がないという理由で男性を慰みもののように扱うことを忌み嫌っていた。王でありながら民主化を進めた理由のひとつはそれだったのかもしれない。 
 そんな父の元で育ったシユウは、もちろん男妾を作らなかったし、自らの恋愛対象は異性だと思い込んでいたので、そこを同性に触られるのは初めてだった。 
「……本当だ」 
 リェンの長い指が月をなぞる。 
 シユウは熱い吐息を漏らした。 
「リェン……」 
 名前を呼んでふと気付いた。 
 ベッドの上でそんなところを触っているのにキスさえもまだしていない。 
 お互いの気持ちは詳らかにしたが、その先について話し合っていない。 
 すでに一緒に住んでおり、無二の友となってから長い時間が経っている。 
 恋人になってくれ、と乞うのは違う気がした。 
「結婚しよう」 
「……」 
「ダメか……?」 
「ダメでしょう。言いたいことは色々ありますが、寝台の上で言っているのが一番ダメです」 
「そうだな……」 
「まずは約束を守って。見せてくれるんでしょう?」 
 白い指が金属製の留め具を弾く。 
 シユウは腰紐の金具を外し服を寛げた。 
 青い瞳はじっと見ている。 
 男についてるモノは皆、大小あれど、美しくはないと思う。 
 それなのに、なぜだろう。 
 慕っている相手に見られて興奮するのは。 
 シユウは青い視線に愛撫されているように感じて、たまらず緩く扱いた。 
 さらに固くなったので手を緩める。出したいのに出したくない。終わらせたくない。 
「リェンのも見せてくれ」 
「えっ」 
 リェンは目を丸くして寝台を囲む布を掴もうとしたが、シユウが捕まえる方が早かった。 
 大事にしたいのと同じぐらい、逃げられなくしたいと思う。清潔で柔らかな寝具で包みたいのに、己の欲液で汚したい。 
 相反する欲望が不思議なほど自然に湧き上がる。 
「ちょっと待て!」 
「嫌だ」 
「本当にすぐ戻る、だから」 
 逃げようとするのをシユウは押し倒した。 
 この美しい男は恐ろしく強い。 
 押し倒すことができたのは、シユウのほうが強いからではなく、彼がシユウに惚れているからだ。 
 そうでなければ逆に押し倒されて、二度と同じことができないように腕の骨を折られていただろう。 
「シユウ……もしかして僕が好きなの……?」 
「そう言っただろう」 
「言ったけど……そんなに欲しそうな顔をされるとは……」 
 一体どんな顔をしているのか、見当もつかない。 
 第一王子として生まれ、大抵のものは手に入った。それゆえに、ここまで強烈に何かを欲しいと思ったことはなかった。 
「バーニョに行かせて」 
「ひとりで抜くつもりか?」 
 シユウはリェンの服の下にある月を指で突いた。 
「ちがう!森から戻ってから水浴びをしてないから」 
 試しに白い首筋に鼻を近づけてみると、ほのかに汗と獣の匂いがした。 
「嗅ぐな!」 
 シユウの下でリェンがもがく。 
 体格の差でシユウが覆い被さってしまえば、いくらリェンでも脱出するのは不可能だ。 
 リェンは鍛錬に鍛錬を重ねて総騎士団長になったが、体質なのか、食が細いからなのか、体付きは全体的に細い。 
 他国の要人に文官と間違えられたことがあるほどだ。 
「……そんなに匂うか」 
 ハッと我に帰り、リェンを見ると、頬と目尻を赤くしてシユウを睨んでいた。 
「悪いのはガトーだ!リェンの匂いは……ぐはっ」 
 訂正するために慌てて体を起こしたシユウの鳩尾にリェンの膝蹴りが入った。 
 リェンは寝台から駆け出し、シユウは鳩尾を抑えながらその後を追う。 
 しかし部屋を出るとリェンの姿はどこにもなかった。 
 使用人たちは宮殿に帰らせたので、この邸には二人だけだ。 
 邸の中は静かで、足音ひとつ聞こえない。 
 深緑色の絨毯が吸い込んでしまうせいだ。 
 こんなことなら板張りのままにしておけばよかった。 
 体が細いリェンが騎士団でのしあがれたのは俊敏さがあったからだ。しかも持久力もある。バに乗って戦場を駆けるシユウに足で並走した彼と追いかけっこするのはあまりに不利だ。 
「そっちか!」 
 まだ痛む鳩尾を抑えながらかすかに音がした方に向かうと、リェンの銀髪が一階に消えていくところだった。 
 二階から一階へと飛び降りたようだ。 
 シユウも手すりから吹き抜けの空間に飛び出し、絨毯に着地するとすぐに走り出した。 
「待て、リェン」 
 シユウの視線の先でリェンはバーニョに入った。 
 シユウも入ろうとしたが扉には鍵かけられていた。 
 ここのバーニョは温泉が湧いている。 
 シユウが第二の人生の拠点をここを選んだ決め手はそれだった。 
 そのバーニョの鍵を取りに部屋まで戻り、手にした鍵で扉を開けると、脱衣所にリェンの服があった。 
 これ以上逃げられるわけには行かない。 
 シユウは手際良く服を脱ぐと、音を立てずにもう一枚の扉を開けた。 
 立ち上る蒸気がシユウの鼻にリモンの匂いを届ける。 
 中央にある噴水から温泉が湧き出している。その向こうで、お湯を頭からかぶるリェンが見えた。半透明の窓から差し込む光がリェンの体から滴り落ちる湯水を輝かせ、かつて長かった銀髪を彷彿とさせる。 
 しかし体つきはあの頃と全く違う。騎士の甲冑を下ろした後も鍛錬によってできた筋肉の鎧は健在で、強さと美しさが共存している。 
 息を呑むほど美しい背中だ。 
 初めてにその裸を見たのは二十年ほど前。 
 シユウは王として即位して数年が経ち、リェンは兵士から騎士になった。 
 着甲式で若い騎士たちは伝統的な下着レェスだけを身につける。 
 剣を使った演舞を披露して王に忠誠を誓い、王からは騎士団の紋章が入ったファルダが与えられる。 
 シユウから女神タルデスの刺繍が入ったファルダを受け取ったリェンはまだ少年だった。その体についた傷を見て、シユウは初めて王であることが嫌になった。 
 そういえば、不能になったのはそのすぐ後だったような気がする。 
 シユウは、生まれたばかりのペローを見たくて母ペローに気付かれないようこっそり近づいた時のように、リェンに近づいた。 
 手を伸ばせば背中に手が届く距離まで近づいたところでリェンがシユウに気付き、リェンはじゃぼんと音を立てて湯の中に逃げ込んだ。 
 座ると肩の高さまである浴槽の中でリェンは目尻を赤くしてシユウを見上げた。 
「国王が水浴びを覗くだなんて」 
「俺はもうただの男だ」 
 シユウはゆっくりと、飛沫が立たないほど静かに、リェンの隣に腰を下ろした。 
「それに我が国には愛し合う者同士は一緒に水浴びする風習がある」 
「えっ」 
 嘘だよ、と言う前にリェンが「お妃様たちと一緒に水浴びをしていたのか!?」と言ってシユウの方へと身を乗り出した。 
 パーニョの天井は外の光が入るように一番高い場所だけが透明な現在でできている。 
 湧き出る温泉も無色透明で、リェンの白い肌を隠すものは何もない。 
「君は?騎士たちの宿舎では皆と一緒に水浴びをしていたのか?」 
 騎士団長の立場になってからは場内にある屋敷でアマリージョ老と二人暮らしだったが、その前は兵士や騎士たちのための寮で暮らしていた。一定期間はそうやって生活する規則なのだ。 
「そりゃあ、入りましたけど……妃様たちが入るのと、僕が同僚と入るのはワケが違うじゃないですか」 
 ということは、つまり、この雪のように白く滑らかな肌も、温まったことでマンサナ色になった小さな突起も、他の男たちの目に触れたということか。 
 面白くない。 
 面白くはないが、心が弾む。 
 誰にも見せたくないぐらい可愛いと思う存在が手を伸ばせば届く距離にいるのだ。 
 それほどまでに愛しいと思える者が、自分と同じ熱量で嫉妬して、唇を突き出している。 
「うわ、ちょっと」 
 突然抱き寄せられたリェンはバランスを崩してシユウの胸に頬を乗せた。 
「妃たちとは水浴びを共にするどころか顔を洗うところも見たことない」 
「えっ……そう」 
 胸の上のリェンが力を抜いたのがわかった。 
 しなだれかかる小さな頭を覆う銀色の髪を指ですくと香油の匂いがした。 
 あの短時間で全身を洗い香油まで付けたのか。 
 それも寮生活で身につけた技なのだろう。 
「リェン……」 
 額の生え際にキスすると、リェンの体がびくんと震えた。 
 もっと反応がみたくて、シユウは白い体に手を滑らせた。肩から腕、手のひら、指先。もう一つの手は背中から腰、そして尻、足の付け根を指先でなぞるとリェンの体がひときわ大きく跳ねた。 
「や、くすぐったい……」 
 甘えるような声がシユウの耳朶を熱くする。 
「口付けがしたい」 
「え?」 
「君の気持ちが知りたいんだ」 
「僕は……愛してますよ、あなたよりずっと前からね」 
 唇を唇で甘く塞ぐ。取り消させないように。これから何度でも言いたくなるように。 
「ん、シユウ……」 
「リェン……すまん、部屋までもちそうにない」 
「えっ、ちょ、どこ触って、あっ」 
 リェンの尻をぐっと掴み引き寄せ、肌と肌がぶつかる。完全に勃ち上がった月は温泉よりも熱かった。 
「ここでいれるつもりですか!?」 
「いれる……?」 
 男性同士の性行為においてナニをドコに入れるか知識として知っている。 
 でもリェンが知っているというのがシユウにとって大問題だった。 
「誰に教わったんだ……」 
「へ?誰って……覚えてないですよ」 
「なんだって……?」 
「騎士団では猥談なんて日常茶飯事だって言ったでしょう」 
「本当にそれだけか……」 
「それだけって他に教わる機会なんて……」 
 そこで言葉を切るとリェンの顔色が変わった。 
「したことあるわけないだろ!僕はずっとお前に片想いしてたんだぞ!」 
 雨雲のように立ち込めていたモヤモヤがリェンの言葉で一気に晴れる。 
 我ながら単純すぎると思うが、それもまたいい。 
 四十にもなってこんな青い恋ができる男はそういないだろう。 
「悪かった」 
 シユウはリェンを抱き寄せたまま、浴槽の縁に座り直した。 
「リェン、絶対に良くすると約束する」 
「……いいでしょう。寝室へ行くことを許可します」 
 かつてはシユウに忠誠を誓っていたリェンが今は主だ。 
 アマリージョ王と呼ぼうか。いや、元の名のアズール王のほうがいいか。 
 シユウは彼に跪く自分を想像しながら、二つのそれを揃えて握った。 
「えっ!?」 
「言っただろう、もうもたないと」 
「あっ、待って、ここじゃ嫌だっ!」 
「今は入れない、抜くだけだ」 
「あっ、こら、あっ……」 
 二つを同時に上下に擦ると、ほどなくしてどちらともから白濁が溢れた。余韻を楽しむようにどろりとした液で纏わせ、さらに扱き続けるとまた固くなってきた。38と40にしては元気なほうだろうな。シユウはどこか他人事のように思った。 
 そんなシユウの上でびくびくと体を震わせているリェンと自分に湯を掛けると、シユウはリェンを抱いたまま立ち上がった。 
「さあ、寝室に行こうか。俺の可愛い君」 
「この……自分勝手野郎!」 


 目が覚めると水滴が窓を叩く音が聞こえた。 
 寝台を囲む布をずらして窓の外を見ると、雨でもなお外は明るかった。 
 この国に来たばかりの頃、空が明るくて驚いたのをよく覚えている。 
 生まれ育った島は始まりの島から最も遠く、太陽からも離れているため届く光は弱かった。 
 雨音よりも近いところで、獣の唸り声がした。
 シユウの腹の音だ。 
 そういえば昼を食べていない。 
 シユウの閉じた瞼を少し恨めしい気持ちで眺めてから、リェンは音を立てずに寝台を出た。 
 シユウの部屋を出て、絨毯が敷かれた廊下を階段とは逆の方向に進んだ先にリェンの部屋がある。 
 使用人は帰したから誰に見られるわけでもないとわかっているが、通路を何を纏わずに歩くのは心許ない。着ていた服をバーニョに置いてきてしまったせいで裸のままだった。 
 この邸は、砦から住居として改装した今も、アマリージョ老と暮らした宮殿内の邸より簡素な作りだ。 
 男二人の隠居暮らしで、尋ねてくる客も限られているから、美術品もニャスパ特有の曲線を活かした装飾もいらないだろうと二人で決めた。 
 彫刻の一つもない扉を潜って部屋に入ると、リェンの唇から長いため息漏れた。 
「何が、いけなかったのだろう……」 
 大人がふたり、一糸纏わぬ姿で同じ寝台で過ごして、一線を超えなかった。 
 バーニョにいた時は確かにシユウの月は兆していた。 
 しかし、寝台に上がってからどうだったかはわからない。 
 二十年以上拗らせてきた初恋の相手と同じ寝台に入って、顔以外のどこかを見る余裕なんて全くなかった。 
 キスはした。あらゆるところに。 
 お互いの体を抱きしめて、いよいよ、というところで、シユウはなぜか昔話を始めた。 
 出会ってすぐの頃のお互いの印象、初めて喧嘩をした時のこと、リェンの養父に二人揃ってお説教を受けたこと。 
 なぜ今、と思わなくもなかったが、思い出に浸りながら肌を触れ合わせるのは気持ちよかった。 
 シユウもおそらく同じ気持ちだったのだろう。気が付くと、黒いまつ毛に縁取られた褐色の瞼は閉じていた。 
 だから、リェンも寝た。隣の男の手がいつ、大事なところへ伸びてくるのか緊張しながら。 
 しかしリェンは今も無垢なままだ。 
 部屋の小さなバーニョに行き、湯を浴びた。 
 白すぎる肌に熱い湯が滑り落ちていく。太陽に近いこのニャスパに来てもなお、壁材の石と同じぐらい白い。この肌が萎えさせてしまったのだろうか。 
「それにしては……」 
 白い肌に残る赤い跡を指でなぞる。 
 一、ニ、三……六。 
「ここをシユウの唇が……」 
 やめろ、想像するな。ひとりで月が満ちても虚しいだけだ。 
 慌てて目を逸らし、布で体を拭く。跡は当然消えないが、服を着てしまえば恋人の証は見えなくなった。 
 一階のコシーナに入ると雨音はより大きくなった。 
 雨の音は追憶へと誘う効果があるのかもしれない。 
 シユウが寝台で思い出話を始めたように、リェンの頭には父の姿が浮かんでいた。
 父は島を愛していた。山や湖や港。歴史や人々の暮らし、すべてを。 
 それだけに、失われる運命に耐えられなかったのだと思う。 
 リェンが生まれた島は心に病を得やすい環境だった。 
 陽の光が弱く、インビエルノは夜のほうが明るく感じるほどだ。 
 寒さを取り除き光を得る技術は他国より発達していたが、人の心はそれだけでは明るくならなかった。 
 父の心が壊れていくのを見るのは辛かった。 
 だからニャスパが攻めてきた時、彼らに手を貸した。 
『父を助けてください』 
 リェンは父に共に島を離れようと訴えたが、結局父はリェンを見ようともしなかった。 
 裏切り者。父の無言がリェンの耳にはそう聞こえた。 
 最期を見届けようとして屋敷を抜け出した日のことは今も鮮明に思い出せる。 
 船を漕ぐリェンを見る赤い瞳、靴紐を固く結ぶ黒いつむじ、繋いだ手の温かさ。 
 あの時シユウが無理やり一緒に来なかったら、今ここに自分はなかったかもしれない。 
 ニャスパ帰ってから養父に泣かれ叱られたが、その間もシユウは隣にいてくれた。 
 記憶の扉は次々と開いていく。 
 それに呼応するように、屋敷のどこかでドアが開く音がした。 
 シユウも目を覚まして部屋を出たのだろう。 
 階段を降りる足音がして、バーニョのほうからまた扉の音がした。 
 水浴びをするのかと思ったが、足音はまた階段を上り、バタンバタンと立て続けに扉の音がした。 
 寝ぼけて宮殿と間違えているのだろうか。 
 足音はさっきよりも早く階段を駆け降りると、今度はコシーナの扉を開けた。 
「ここにいたのか!」 
「どうしたんですか?騒々しい」 
「君を探していたに決まっているだろう!!」 
 シユウはリェンの腰を後ろから抱きしめた。 
「ちょっと、小刀を持ってるのに」 
 リェンはセボージャを刻む手を止め、後ろを振り返った。 
「一緒に寝台で寝ていたはずの恋人がいなくなっていたんだぞ、慌てるだろう」 
 恋人と聞いてむっとしてから自分のことだと気がついた。 
「次からは起こしてくれ……」 
 次があるんだ……。 
 シユウが手を出して来なかったことに傷付いていたリェンは少しホッとした。 
「何を作っているんだ?」 
「何って……名前なんかありませんよ。刻んだセボージャとアロッゾと炒めて昼飯にしようと思っています」 
 兵士たちの定番の料理だ。他にもウェーボや細かくしたカルネなんかも入れたりするが、気の利く使用人が酒に合いそうな小さな料理を作っておいてくれたので、主食は簡素な炒めアロッゾでいいと思ったのだ。 
「もっとちゃんとしたアルムルゾが食べたいなら使用人を返してしまったご自分を恨んでください」 
「まさか。王だった頃も『ちゃんとしたアルムルゾ』なんて食う暇はなかったぞ。会食の時ぐらいだ。妃たちは毎日食べていたかもしれないが」 
 リェンもそうだった。 
 この国に来る前はソッパから始まる伝統的なアルムルゾをほぼ毎日食べていた。主菜はペスカドとカルネが交互に出て、最後はパステルかドルセスを選べた。 
 こんな風に料理をする日が来るなんて、あの頃は思いもしなかった。 
 ずっと贅沢ができると思っていたわけじゃない。 
 来るべき時に自分は島とともに落下すると信じていた。 
 背中に温もりを感じながら平たい鉄鍋にアセイトを流してセボージャを入れる。異なる物質が反発しあう音とともに、強烈に食欲を誘う匂いが立ちのぼった。 
「話していたら余計に腹が減った」 
「こら!火傷しますよ!」 
 シユウが手を伸ばしたので、リェンは慌てて鍋を彼から遠ざけた。 
 この男は料理をしたことがないに違いない。 
 懐かしさと愛おしさに突き動かされるように、その褐色の頬に唇を当てた。 
「すぐにできるから待ってて」 
「……庭の机を整えてくる」 
 シユウがコシーナから出ていくのを背中で感じながら、リェンは自分で自分に驚いていた。 
 これまで恋人のひとりもいたことがないのに、あんな仕草ができるものなのだな。 
 誰かの真似なのかもしれないが、恋をするための器官がひとには備わっていて、抱かれるだけだった赤ん坊が突然歩き始めるように、その時が来たら恋愛行動ができるようになっている、そんな気がした。 
 リェンにとっては今が『その時』だ。 
 木製の板に二人分の料理を乗せて庭に出ると、シユウが鋭い視線で森を見ていた。 
 どうしたの、と聞くより先に、リェンは料理を机の上に置き腰に手を当てた。しかし騎士だったころにはあった剣はもうない。 
 代わりに水が入った瓶を持ってシユウの前に立った。 
「リェン?」 
「シッ」 
 ガトーの鳴き声がする。 
 暴れている様子はないが、近くにいるのは確かだ。 
「僕が様子を見てくるので、あなたは邸に入っていてください」 
「勘弁してくれ」 
 振り返ると森を警戒していたはずのシユウが不満そうにリェンを見ていた。 
「俺はまだ君に守られなきゃならないのか?」 
「なんですか、その言い草は!僕は護衛としてあなたと一緒に暮らしてるんですよ!?」 
「わかってる。ほら、飯にしよう」 
 シユウの話し方はいちいち勘に触ったが、幸か不幸か、リェンは空腹で、食事をすることに異論はなかった。 
 シユウが何を見ていたのかは分からずじまいだが、腹が減った状態で戦うのは避けたいところだ。 
 さっきまで雨が降っていた庭は水滴で濡れていて、濃い草の匂いがした。 
 屋根の下にあったおかげで机と椅子は乾いていて、机の中央には昨日飲み干した酒瓶にリェンの瞳と同じ色の草花が活けられていた。 
「そんなに嫌でしたか」 
「アロッゾが?うまいぞ?」 
「違う……僕が騎士団長では不満だったのかと聞いているんです」 
 またガトーの声がした。リェンの気分とは裏腹に機嫌の良さそうな声だ。 
「正直言って、王を辞めたいと思ったのはあの時が初めてだった」 
「あの時……?」 
「君の着甲式だ。君の体の痣や切り傷を見て、心底王であることが嫌になった」 
「そんな……確かに当時の僕は弱かったかもしれませんが……」 
 あの程度で兵士から騎士になれたのは、アマリージョ家の養子だったからだ。 
 王制は廃止されても、貴族階級の顔が効くのは変わらない。 
 そう簡単にひとの価値観は変えられない。 
 リェンだってそうだ。シユウは友人だが、絶対の忠誠を違う主だった。今もし森のガトーが気を変えてこの屋敷を襲ってきたら、シユウを屋敷の中に放り込んで、この身に何があろうとガトーの対処をする。 
 シユウの剣の腕前を知っていても一緒に戦うという発想にはならない。少なくとも、今はまだ。 
「でも騎士団の総選挙で選ばれるぐらいには強くなりました」 
「知っている。俺が言いたいのはそういうことじゃない。俺を守るために君が傷付くのが嫌なんだ。俺の命令を受けて敵と戦い、君が命を落とすかもしれない、そう考えたら……」 
 シユウは言葉を切って、アロッゾを口に運んだ。 
 リェンも食事を再開し、もし逆の立場だったらと考えてみた。 
 最果てから落下したのがシユウの国で、リェンが王でシユウが騎士になり、国のためにシユウを戦場に赴かせなければならなかったら。 
 好きな相手が傷付くだけでも嫌なのに、それが自分を守るためだとしたら。 
 二十年越しの想いが伝わってきて喉の奥が狭くなった。 
 それでもアロッゾは自分で作ったとは思えないぐらい美味だった。 
「勃たなくなったのは、それが原因だと思う」 
「……は?」 
 確信を深めるように何度も頷くシユウに、リェンは開いた口が塞がらなかった。 
 自分のためにリェンが傷付くのが嫌で不能になったとシユウは言うが、リェンは気付いてしまったシユウへの叶うはずのない恋心を消すために騎士になったのだ。 
 シユウの話が本当なら、この二十年ずっとすれ違っていたことになる。 
「これからは俺が君を守る」 
 リェンを見るシユウの顔が強張った気がした。 
 大気が揺れ、下草を踏む音が耳を通り過ぎていく。 
「守るって……何かあったんですか?」 
 そういえば、今朝のキリセの訪問で宮殿に出向くことになってたとシユウが言っていた。 
「キリセさまから何か聞いたんですね?」 
 リェンはシユウを見つめたまま、すぐ横に迫っていた大きな黒い鼻を撫でた。 
「キリセ?いや、墓掘りの相談は受けたが」 
 誰の、と聞く必要はなかった。 
 土の中で眠っていた遺骨が宝石になるまで約二十年かかる。 
 その年月から該当するのはシユウの父だが、先先代の王が他界してからそれ以上の時間が流れていたことに、リェンは少なからず驚いていた。 
「もうそんなになるんですね」 
「ああ」 
 シユウの父親との思い出はそう多くない。 
 父との関係を考えるとよく思われていなかったのかもしれないが、リェンが第一王子であるシユウと遊ぶことは禁じなかった。養父からも先王は懐の広い方だったと聞いている。 
「君にも参加して欲しい」 
 そう言いながらシユウは手で何かを追い払う仕草をした。虫でもいたのだろう。 
「でも僕が立ち会っていいんですか?」 
「当然だろう。君は家族同然だ」 
 シユウの言葉に胸がじわりと熱くなる。 
 あふれそうになる何かを紛らわせるように、リェンは長い毛並みに手をうずめた。 
「嬉しいです、その、さっきはダメなんて言ったけど僕もあなたと……」 
「リェン、俺は真剣なんだ」 
「僕だって真剣ですよ?」 
「じゃあガトーを撫でながら話すのはやめてくれ!」 
 シユウとリェンが食事を始めたあたりから庭に侵入してきたガトーは、シユウには目もくれずリェンにべったりで、鼻や眉間を押し付けて、リェンもそれに応えていた。 
 森で出会ったガトーだ。 
 リェンが外に出た時に鳴いていたのは、この子だろう。 
「庭に出ただけで気付かれるなんて先が思いやられるな」 
「確かに。君はすごく鼻が利くのかい?それとも目がいいのかな?」 
「にぁ??」 
「わかんないかぁ。かわいいねぇ」 
「リェン!そのガトーと俺、どちらを可愛がるつもりだ!」 
 何をバカなことを言ってるんだ。 
 リェンは呆れた。 
 ガトーはというと、別に人の意見はボクらには関係ありませんけど?と言わんばかりの態度で、それから毎朝、庭に現れた。 
 国獣ゆえ飼うことは禁じられているが、追い払うことも禁止されている。 
 黄色い毛並みのガトーは元王と元総騎士団長の庭番になったのだった。 


 シユウの国ニャスパとリェンの国マヌエルでは掘り出される宝石が違うとわかったのは、ふたりの間で墓掘りの話題が出てから数日後のことだった。 
「マヌエル国では墓を掘り返して出てくる宝石は全て青いのか?」 
「ええ。紫や青緑色は出たようですが、こちらのように黄色や赤の宝石は出ません。土の違いでしょうか」 
 シユウは三ヶ月前まで腰を下ろしていた王座を思い出していた。木製の椅子飾っていたのは歴代の王たちの宝石だった。黄色のアマリージョ、赤のロホ、白のブランコ。青い宝石はひとつもなかった。 
「興味深いな。後で調べてみよう」 
「宮殿の学者に詳しい者がいるかもしれませんね」 
 今日は墓掘りの相談をするために、シユウは宮殿の学者と顔を合わせることになっている。 
 リェンもシユウの道中の警護をしながら、宮殿に向かう。 
 もう主従関係ではないのだから守らなくていい、むしろ俺が君を守ると宣言したシユウだったが、リェンが一緒に来てくれるのは大歓迎だ。 
 それに家族にリェンのことを打ち明けるいい機会になる。 
 邸の玄関前でシユウのコルバットを整えているリェンには、そのことは話していない。 
 話そうと思ったのだが、リェンから故郷の墓掘りの話を聞いてそちらに興味が言ってしまった。 
 シユウのコルバッタを見るリェンの蒼い眼差しは宝石のように美しく、視線が注がれている胸板あたりがくすぐったくなってくる。 
「トラヘまで着なくてもいいじゃないか」 
「王様にお宮殿に呼ばれたのだから正装するのは当然です」 
 シユウにとって王様は半分血のつながった弟で、宮殿はいわば実家だ。 
 普段着でいいだろうと思ったが、カミサにファルダを巻いただけのシユウを見たリェンは無言でシユウの部屋に入り、トラヘとコルバッタを持って戻ってきた。 
「窮屈だ」 
「何を言ってるんです。トラヘなんて十八の時からずっと着ていたじゃありませんか」 
 そう言うリェンはカミサの上にファルダを掛け、腰には剣がある。騎士たちの正装といえばそうなのだが、シユウもそっちがよかった。 
「もしかして、太りました?」 
 リェンが悪戯っぽくシユウを見上げる。 
「確かめてくれ」 
 シユウはその手を取り自分の胴に巻き付けると、近くなった唇に自分のを合わせた。 
「ん、シユウ」 
「どうだ?太ったか?」 
 尋ねておきながら、シユウは答える隙を与えなかった。口付けの角度を変えて、舌を忍ばせる。初めてした日から数えきれないほどしてきたが飽きるどころか口付けをしていない時間がもどかしく感じる。 
「シユウ、ダメ……迎えが……来ちゃう」 
「待たせておけばいい」 
 そうはいかなかった。 
「兄さーーん、迎えに来たよーー!」 
 勢いよく扉を開けたのは弟のキリセだった。 
 シユウは腕の中でリェンが小さくなったのがわかった。 
 驚いたのは弟も同じで『よ』の形に口を開けたまま、固まっている。 
「キリセ、扉を叩くのが礼儀だろう」 
 兄貴風を吹かせてそう言うと、キリセはようやく我に返った。 
「ご、ごめん!リェンも」 
「い、いえ、こちらこそ……」 
 ぎこちない空気のまま三人は外に出て、シユウとキリセは四頭引きのバ車の客室に乗り、リェンはキリセの護衛が連れて来たバに跨った。 
「びっ……くりしたぁ……」 
 客室に乗ると、キリセはずっと呼吸を止めていたかのように息を吐いた。 
「悪かったな」 
「いやあ……そうじゃないかと思ってたけど」 
「うん?」 
「だって兄さん、普段は僕に甘いのに、リェンが僕を褒める時だけ、ちょっと不機嫌になるから」 
「そうか?」 
「無自覚だったの?」 
 キリセは呆れ顔で、背もたれに体を預けた。 
 口付けしているところを見られた以上、隠すこともないだろうと、シユウは弟にリェンとの経緯を話した。 
 実のところ誰かに話したくて仕方なかった。 
 美しい妻を自慢する夫の気持ちが初めてわかった気がした。 
「兄さんらしいね」 
「どのへんがだ?」 
「展開が早いところ。リェンは納得してるの?」 
「まるで俺が無理強いしているような言い方だな?」 
 不満そうに言ったシユウだったが内心、ご機嫌だった。あの強くて美しい総騎士団長が二十年以上も一途に思っていたと説明するのは二度目だって気分がいい。 
「そうじゃないよ!兄さんは頭の回転が早すぎるから心配なんだ。普通の人が長い期間悩んで決めるようなことを兄さんはあっけなく決断できる。兄さんにとってそれは普通のことでも、理解できないひとの方が多いと思う」 
「何が言いたい」 
「僕がリェンだったら、こう思うな。『こいつ、僕が好きって言ったからその気になったんじゃないか?』って」 
 そうじゃない。 
 一晩考えてリェンが好きだと確信したのだと反論したかったが、キリセの言い分ももっともだった。 
 リェンも『もっと悩め』と言っていた。 
 そもそもシユウとリェンは無二の友だった。友愛か恋慕か。判別するには時間が必要だという主張はもっともが、ずっと眠り続けていた男性器が力を漲らせていたのが何よりの証拠になった。 
 しかし、『アレが反応したから俺は君が好きに違いない』と言えば体目当てだと思れるだろう。 
 シユウは小さな窓から外を見た。 
 新緑の中をバに跨り進むリェンは、絵に描いたように美しかった。 
「俺の想いは伝わっていないんじゃないかと心配しているのか?」 
「リェンと兄さんの仲だから、そんなことはないと思うけど……」 
 正直わからない。 
 あのリェンが抵抗しなかったということは、嫌がってはいないはずだ。彼はその気になればシユウの手や足を折ってしまえるのだから。 
 シユウはリェンをベッドに閉じ込めた日のことを思い出し、窓の外に視線を向けたままニヤリと笑った。 
 それを自信と受け取ったのだろう。キリセは小さく呟きを漏らした。 
「彼は大丈夫かな……」 
「リェンがそんなに心配なのか?」 
「ちがうちがう、モラド大佐だよ」 
「モラドがどうかしたのか?」 
「今日、リェンに会えるのをすごく楽しみにしているんだ」 
「アマリージョ爺さんだってそうだろ」 
「そうだけど、そうじゃないよ。モラドはリェンが好きなんだ」 
「……なんだって?」 
 モラドはシユウの一つ上で、子どものころはリェンとシユウと一緒に学んだり、遊んだりした。 
 騎士になった後はリェンと同じ騎士団にいたこともある。 
 シユウよりも早く結婚したが、妻に先立たれて、もう十年になるだろうか。海難事故だった。今は海の底で宝石になろうとしているところだろう。 
 宮殿に着くと、シユウが降りるより先にリェンが馬から降りた。 
「リェン、待っていたぞ!」 
「モラド大佐!」 
 リェンが駆け寄るとモラドは紫色のファルダで包むようにリェンを抱きしめた。 
 ニャスパでは貴族たちは宝石の名前の家族姓を持っている。モラドもその一つで、紫色の石がそれだ。 
「兄さんのそんな顔、初めて見た」 
「……見るな」 
 シユウは自分がどんな表情をしているか検討もつかなかった。今、コンコンと湧き上がってくる感情が何に分類されるものなのかもわからないのだからお手上げだ。 
 自分のことなのにわからないなんて、初めてだ。 
 思い返してみれば『悩み』に縁のない人生だった。 
 王として国を納める中で困難な状況や、悲しい結末に何度も直面してきたが、いつも自分が何をしたいのか、何をすべきなのかわかっていた。 
 それが今は、心が二つあるかのようだ。 
「ニャアちゃんにも教えてあげなきゃ」 
 兄を面白がる弟が先に降りた。 
「余計なことは言わなくていい」 
 その背中の陰で表情筋を殺してから、シユウもバ車を降りた。 
 外ではモラドとリェンが並んで頭を下げていた。 
「お帰りなさいませ、キリセさま。シユウさまも。お元気そうでなによりです」 
「出迎えご苦労。リェン」 
「はい」 
 顔が見たいと思ったのに、目が合った途端逸さずにはいられなかった。 
「シユウさま……?」 
 ふと、子どもの日のことが頭に浮かんだ。キリセの母に『メリエンダの食べ過ぎは体に良くない』と言われた。シユウはそれまで時間も量も決めずに食べたい時に食べたいだけ食べていたメリエンダを一日二回に減らした。本当はもっと食べたかったけど我慢したのだ。 
 そうか、俺は今我慢しているのか。 
 モラドとリェンが抱擁を交わすのは今日が初めてではない。抱擁は挨拶の一つだ。 
 昔からの習慣を、たかが数日前に恋人になったシユウが止めに入るのは間違っている。 
頭では理解できるのに、抱き合う二人の間に割って入り「実は我々は一緒のベッドで寝て、一緒に水浴びをする仲なのだ!」と聞かれてもないのに話したいし、「リェンに触れる時はそのことを念頭においてくれたまえ!」と牽制したかった。 
 これが世に言う嫉妬というやつなのだろうか。 
「この後は好きに過ごして良い。アマリージョもお前に会いたがっているだろう」 
「わかりました……」 
「久しぶりに騎士たちと手合わせをしてくれるとありがたいんだが」 
「もちろんです。剣を持つのは久しぶりなので、相手になるかわかりませんが」 
 なんてことだ。 
 我慢したら敵に好機を与えてしまった。 
 後悔もまた、シユウにとって久しぶりのことだった。 
 宮殿の中ではキリセの母がシユウを待っていた。 
 墓から掘り起こした父の宝石をどう分配するか、相談するためだ。 
  先王には妻が二人いた。シユウの母とキリセの母だ。シユウの母はすでに他界しているので、相続権があるのは彼女を除いた三人となる。
 もし先王の宝石が細かい結晶として出てくれば話は簡単で、重さを測って三人で平等にわければいい。 
 問題は巨大な結晶として出てきた場合だ。もしも最も硬い宝石ブランコだったら、宝石職人でも砕くのは簡単ではない。その逆で少しの衝撃でも粉々に砕けてしまうベルデだったら、運搬するのに最新の注意が必要だ。なぜなら王族の宝石は一定期間、国立美術館で国民に公開されるからだ。 
 そういうわけで、話し合って決めなければいけないことは山とあるのに、今日のシユウは精彩を欠いていた。 
「少し考えさせてくれ」 
 どうしてもリェンのことが頭から離れない。 
 老アマリージョとはもう会ったのだろうか。でもあの爺さんはビブリオテリカで子どもたちに勉強を教えているから、先に騎士たちの鍛錬場に行ったかもしれない。 
 その場合、リェンの隣にはモラドがいるだろう。 
 二人が顔を見合わせて笑い合うところが頭に浮かぶと、王の間から飛び出したい衝動に駆られた。 
「シユウ、あなたどうしたの?随分と時間を必要としてるみたいだけど」 
 キリセの母は責めるではなく、心配そうに指を頬に当てた。 
「シユウさまらしくないですよねぇ」 
 そう相槌を打ったのはキリセの妃だ。 
 キリセは子どもの頃から彼女に夢中で、泣いて縋って結婚を承諾してもらったほどだった。今はニャスパの男たちが愛妻を呼ぶ時に使う愛称『ニャアちゃん』で彼女を呼んでいる。 
 婚約に至るまでの過程で散々兄に揶揄われた弟はニヤリと笑ってこう言った。 
「リェンが気になるんでしょ?」 
「おい、キリセ」 
「リェンに何かあったの?」 
 シユウの育ての母は母性の強い女性で、キリセという息子がいるのに、異母兄のシユウだけではなく、その友人のリェンのことも気に掛けてきた。 
 リェンが森で野営をした時、シユウに城から出る方法を教え、リェンに持っていく菓子を用意したのも彼女だった。 
「実はね、今朝……」 
 キリセはいつになく饒舌に、今朝見た場面とシユウから聞いたリェンとの経緯を母と妻に話して聞かせた。 
「あらまあ」 
「ビアホさまにお手紙を出さなきゃ!」 
 キリセの妃は今にも椅子から立ちあがりそうな勢いで目を爛爛とさせている。 
 彼女はシユウの第三の妻ビアホと仲が良く、ビアホが新しい夫である現総騎士団長のことをよく思っているとシユウに教えてくれたのは彼女だった。 
「やめろ!」 
「そうして差し上げなさい。ああ、そうだわ!アロッゾ・ドルセスを炊いて一緒に送りましょう」 
 王母は国家行事を取り仕切る時と同じ顔で思案し始めた。 
「勘弁してください……」 
 アロッゾ・ドルセスは祝いの席には欠かせない食べ物だが、シユウはあまり好きじゃなかった。たとえ好きだとしても、四十で離婚歴がある男が恋人ができたぐらいで義母から寿がれるのはどう考えても異常だ。 
 しかも送り先は離縁した妻(再婚済み)というのだから、もはや喜劇だ。 
「でも、そうなると確かに心配ですわね」 
 弟の妻は突然真面目な顔でシユウを見た。 
「何がだ」 
「だって、リェンさまって男女問わずモテるじゃないですかぁ。隠居されたことを悲しむ者はたくさんいますが、特に騎士団のみなさんはリェンさまの話をしない日はないとか」 
「あれだけ強い男はそういないからな」 
 リェンの戦歴はニャスパで類を見ない。 
 特に海賊の大艦隊を撃破した話は伝説になっている。7つの帆船の帆柱を切り倒した姿は絵になり他国にも輸出され、リェンの名を轟かせるのに一役買った。 
そんな前任者と否応なしに比べられる新しい総騎士団長が不憫に思えるほどだ。 
「惹かれるのは強さだけではありませんわ」 
「何が言いたい」 
「騎士団には恋愛禁止の掟があるそうですけど、退団されたリェンさまに掟は適応されないのですわよね?」 
 義妹は夫とよく似た笑い方でシユウを見た。 
「誰か!!リェンをここに呼んでくれ!!大至急だ!!!!」 
 甲冑を付けた部屋番が通路を走る硬い音を聞きながら、キリセの母は「重症じゃない」と驚きと呆れが混じった声を上げた。 
 しばらくすると同じ足音が扉の向こうで立ち止まり、顔を見せたのはタコーチを持ってきた騎士の一人だった。 
「リェンさまはモラドさまや騎士たちとバーニョで汗を流されていました。身支度を整え次第、向かうと仰せでした」 
 シユウは項垂れた。 
 その様子に騎士が狼狽えたのだろう。キリセが「ありがとう、戻っていいよ」と優しい声で言った。 
 リェンが騎士たちと水浴びをしたのは今日が初めてではないが、今の騎士ではなくなったリェンではおそらく初めてだ。 
「悪い子ね、義理の兄をいじめて」 
 王母は青い羽の扇子で義娘の膝を叩いた。 
「うふ、滅多にない機会なので」 
 義妹は木製の扇で緩んだ口元を覆った。 
「兄さん、恋をしてるんだねぇ」 
 リェンとシユウとは違い、恋バナ好きのキリセはニコニコしながら兄の膝を揺らしている。 
「シユウ、メリエンダの用意をさせましょうか。リェンはサナオーリアのパステルは好きかしら?」 
「……好きだ」 
たかが「好き」されど「好き」。なかなかに厄介な感情だと、シユウは思い知り始めていた。 


 リェンが落ち着かない様子であることに、モラドは気付いていた。 
 それにしても強い。 
 宮殿の主塔前に作られた訓練場は、中央に石造りの床があり、三方を木々に囲まれ、もう一方は海に面している。 
 海風が吹く中でリェンが相手にしているのは十歳下の騎士だ。肉体的に最盛期を迎え、経験も蓄えている相手に対して、リェンの剣先はまるで子どもをあやすようにいなしている。 
 騎士のほうが手加減している様子はなく、むしろ一瞬でも気を抜いたら殺されるかのように鬼気迫る表情だ。 
 実際、そう思っているのかもしれない。リェンは鍛錬中に部下を殺してしまうような男ではないが、国を守るために葬ってきた命は数えきれない。 
 リェン自身も同じだけ命を狙われてきた。だから、たとえ手合わせでも剣を握っている間でも決して気を抜かない。 
 若い騎士を追い詰めてるのは、その気迫だ。 
 白い雲を木剣が横切る。それを目で追うと、騎士が持っていた木剣が地面に刺さっていた。 
「勝者、リェン」 
 モラドが宣言すると、その後ろから野太い声援が上がった。 
「強い!!」 
「さすがリェン様!」 
 騎士はまだ闘技場の石床の上に膝をついたまま、肩を上下させて呼吸している。 
 リェンは爽やかな笑みを浮かべながら、その肩に手を乗せた。 
「走ってこい」 
「はい!!」 
 騎士は目を輝かせて闘技場を後にした。 
 まるでご褒美をもらった犬のように走り去る騎士を見て、モラドは苦笑いをするしかなかった。 
 小さい頃は、あんな子ではなかったんだがなぁ。 
 故郷と父を思い出しては涙を流す、繊細で美しい少年だった。 
 だから騎士団に入りたいと言い出した時はとても驚いた。彼の性格からして文官かエスクエラの講師になるものだろうと思っていた。 
 モラドが驚いているうちにリェンは兵士から騎士になった。 
 共に戦に出るようになってから少しして、一度だけリェンが戦場から帰ってこなかったことがあった。 
 モラドが数人の兵士を連れて探しに行こうとしたところで、やっと帰ってきた。顔も体も血だらけで、見ているこちらが悲鳴をあげたくなる有様だった。 
 それが全て返り血だとわかるまで、モラドは生きた心地がしなかった。 
 リェンのことは実の弟のように思っていた。 
 こちらの国に来たばかりの頃はニャスパの文化を教え、モラドが妻を無くしたときはリェンが何かと気にかけてくれた。 
 リェンが退職してからは、毎年花をつける庭に咲くセレェンが蕾を付けなかった時のような寂しさを覚えた。 
 別に死に別れたわけじゃない。砦を改装した邸は会いに行こうと思えば会いに行けない距離ではないのだ。 
 でも、会って何と言えばいい?顔が見たくなった?どうしても会いたくて? 
 これは友愛ではないのかもしれない。もっと繊細でドラスノのように柔らかくて甘い何か……。 
 リェンが宮殿に来ると聞いたのは、そのことに気付いたすぐ後だった。 
 闘技場を出たリェンはモラドの横に立った。 
 訓練場では別の若い騎士たちが木製の剣を交えている。 
「何かあったのか?」 
「えっ」 
「朝からずっと考えごとをしているだろう」 
「……モラドさまに隠し事はできませんね」 
 眉尻を下げた笑みに、なぜだかモラドは胸がざわついた。 
 それは正しい予感だった。 
 リェンは声を落として言った。 
「実は今朝、シユウと口付けをしているところをキリセ様にお見せしてしまって」 
「うん?」 
 待て待て待て。 
 キリセさまに何を見られたって?口付け?誰と?誰がうちのリェンの唇を奪ったというのだ。シユウと言ったように聞こえるが、俺が知っている、あのシユウなのか!? 
「その後からシユウが素っ気ないんです……」 
 モラドを見るリェンの顔は弟が兄に相談するような表情だった。 
「か、考えすぎではないか?バ車から降りられたシユウさまはいつも通りのご様子に見えたぞ」 
「そうでしょうか……バ車の中でキリセさまに僕との関係を反対されたんじゃないかと思うと、どうしても気が散ってしまって」 
 リェンは申し訳なさそうに項垂れた。 
 散漫した状態で、あの強さか。 
 今頃、宮殿の外周を走っている騎士が聞いたら倒れるんじゃないだろうか。 
「考え難いことだが」 
「そうでしょうか」 
「キリセ様はご自身も恋愛結婚なされている。他人の馴れ初めを聞くのも大好きなお方だから、今頃は兄上の新たな恋について根掘り葉掘り聞いているのではないか?」 
 そう言うと、リェンはやっと屈託のない笑みを浮かべた。 
「そうかもしれませんね」 
「バーニョで汗を流そう。そうすれば胸の内もさっぱりするだろう」 
「はい!」 
 モラドは騎士たちに鍛錬終了の声を掛けた。 
 主塔には兵士が暮らす兵舎があり、地下は彼らが使用するバーニョがある。 
 地下から温泉が湧き上がっており、騎士たちの傷や疲れを癒してきた。 
 二人が主塔へと歩き出すと、騎士たちもゾロゾロと付いてきた。 
 皆、リェンと話したいのだろう。 
 その気持ちが、モラドには手に取るようにわかった。 
 総騎士団長の座を辞してから、リェンは雰囲気が穏やかになった。 
 かつては鍛錬中にたとえモラドが隣にいても私的な話はしなかった。 
 今なら孤高の総騎士団長さまとお話できるんじゃないか。背後を歩く騎士たちからはそんな期待感が漂っている。 
「お前たちも水浴びするか?」 
「はい!!」 
主塔地下のバーニョはモラドが知る中で最も広い。この人数で入っても全く問題ない。 
 主塔の入り口から地下に降りる階段をいくとすぐに脱衣場がある。その床には籠が置かれ、中には清潔な布が無造作に放り込まれていた。 
 公衆浴場を利用したことがない貴族たちはまずここで躓く。 
 かつてのモラドもそうだったように、兵士になったばかりの頃のリェンもまた、カゴと布を見て首を傾げていた。 
 籠は脱いだ服を入れるために使うとモラドが教えてから二十年の歳月が経ち、リェンは着ていた服を脱ぐと籠に入れて、用意されていた布を肩に掛けた。 
 それを見て、数人の騎士がサッと視線を逸らした。 
 リェンと風呂に入るのが初めてなのだろう。 
 肌は透き通るように白く、余分な肉がない肩はモラドよりもずっと華奢で、腰は成長途中の少年のように細い。 
 それでいて尻は果実のように丸く、そこから伸びた足はしっかりとした筋肉を纏っている。特に脹脛から踵にかけては美しく、歩いているだけなのに艶かしい。 
 あれほど強い男だから、さぞかし筋骨隆々だろうと誰もが想像するが、甲冑の中にこんな美体を隠しているのだ。 
 モラドはリェン体を視線でなぞりながら、口付けの跡を探している己に気がついた。 
 何を考えているんだ、俺は! 
 淫らな妄想を振り払うように首を振ってから浴場に行くと、リェンは体を洗い始めていた。 
 モラドは一瞬悩んでから、その姿を隠すようにその隣に腰を下ろした。 
 リェンの裸は若い騎士には少々刺激が強すぎる。 
「わかりますか?」 
「うん?なにがだ?」 
「引退してから太ってしまって。お恥ずかしい限りです」 
「そんなことはないぞっ」 
 思った十倍大きな声が出た。 
 ちょうど浴場に入ってきた騎士たちが驚いて、こちらを見る。 
「リェンが太ったとは全く気付かなかった!現役の頃と変わらないように見える!なあ!」 
 そのままの声量で話を振ると、騎士たちはうんうんと何度も首を縦に振った。 
「はい!とても整ったお身体だとお見受けします!」 
「うちの姉より綺麗です!」 
「お前の姉と比べてどうする!」 
「絵に描いたような美しさです!」 
「もし絵なら国立美術館に飾られること間違いありません!」 
 口々にリェンの美しさを賞賛するが、大半以上は若い男たちだ。体は鍛えているものの、美しいものを言葉で表す表現力や語彙力は並みの男子以下だ。 
 褒められたリェンも苦笑を溢している。 
「そんな有様では好いた相手ができても相手にされないぞ?」 
「申し訳ありません!!!!!」 
 謝罪の大合唱が浴場に響き渡る。 
 もし上階に人がいたら騎士たちが元総騎士団長に叱責されていると思っただろう。 
「舞台の女優より美しいです!」 
「踊り子より綺麗です!」 
「そうか?」 
 リェンは笑って立ち上がると、伝統舞踊バイルのポーズをとった。 
 長い足を交差させ、手を床につく。両腕を横に広げ、手を調のようにひらひら回しながら体を起こし、今度は頭上で指を組む。 
 騒がしかった騎士たちが静まり返った。 
 美体に優雅な動きが加わり、見てはいけないものを見てしまった気がしたのだろう。モラドもそうだった。 
 有り体に言えば、エロすぎる、というヤツだ。 
「おじさんを揶揄うからこういうことになるんだぞ?」 
 リェンの照れた笑みが可愛くて、モラドは浴槽に浸かる前なのに湯あたりしたかのように体が熱くなった。 
「ははは!リェンは何をやってもサマになるなぁ!」 
 無理して笑うと余計にクラクラしたがなんとか堪える。 
 浴槽にはモラドとリェンが先に入った。上官から入るのが騎士団の暗黙の掟だ。 
「一緒に入るのはとても久しぶりですね」 
 リェンが嬉しそうに言うから、モラドはますます居た堪れなくなった。 
 湯の中の月が反応しないように努めているなんて絶対に知られるわけにはいかない。 
「失礼します」 
 年嵩の騎士が浴槽に入ると、それに倣って他の騎士もやってきた。 
 彼らが入りやすいようにリェンが場所をずれて、モラドとリェンの肩がぶつかった。モラドは奥歯を噛み締めた。 
 すまん、シユウ……! 
 その台詞とともにモラドの頭に浮かんだのはまだ王になる前のあどけないシユウだった。 
 当時からモラドはシユウに忠誠に似た感情を抱いていた。 
 そうさせる何かを、シユウは子どもの頃から持っていた。 
 ノーチェスのごとく、と謳われたシユウが恋をしているらしい。いい変化だ。彼にも妻はいたものの、モラドには彼がひとりきりに見えた。 
 そんな彼の恋人の裸を見て下半身が疼く背徳感がモラドを酔わせる。 
 密着した肩はまったく違う色をしている。 
 シユウはこの体にもう触れたのだろうか。 
 寝台でレェスだけを身に纏ったリェンを想像してしまい、モラドは浴槽の縁に手をついた。 
「大丈夫ですか?」 
「あ、ああ……」 
 そこに甲冑を着たままの騎士が声を上げた。 
「ご入浴中に申し訳ありません!シユウさまがリェンさまをお探しです!至急、王の間にお越しください!」 
「わかった。身支度をしてすぐに向かう」 
 リェンは浴槽の中で立ち上がった。 
 その姿はまるで水浴びを終えた女神ディアスを描いた絵画のようだった。 
「そういうことなのでお先に失礼しますが、本当に大丈夫ですか?顔が赤いですよ?」 
「あ、ああ……」 
 全然大丈夫ではない。 
 ただの恋慕なら良かった。リェンとシユウが口付けをする仲でモラドに脈はないのだとしても、まだ恋のほうがましだ。 
 幼馴染二人の閨を想像して目眩を起こすなど、恋と呼ぶには不純すぎた。 


 モラドは「考え過ぎ」と言っていたが、シユウは邸に帰ってからも素っ気なかった。 
 玉座の間に着いた時も、リェンの顔を見るなり「帰る」と言い出し、苦笑するご家族を振り返りもしなかった。 
『帰ったら食べてちょうだい』 
 そう言って王母から手渡されたのは美しい布に包まれたパステルだった。 
 布に施された刺繍は、あの野営の夜にシユウが菓子を包んで持ってきたのと同じ図柄だった。 
 愛情深い王母はまだ子どもだったリェンにとてもよくしてくれた。彼女なら王になったばかりのシユウを城から抜け出させることもできただろう。もちろん護衛を付けて。 
 義母の助けを借りて、自分のもとに駆けつけてくれた幼馴染を思い浮かべると、愛しさが大波となって胸に打ち寄せた。 
「カフィが入りましたよ」 
 私室の扉を開けると、シユウは寝台の上に腰を下ろしていた。 
 その脇にある机に淹れたてのカフィと王母のパステルを並べても、シユウの視線は窓の外に向けられたまま。 
 サナオーリアのパステルは栄養があり、育ち盛りの子どもに母親が食べさせたがるメリエンダの一つだ。 
「あの方にとって僕たちはいくつになっても子どもなのでしょうね」 
「そうだな……アマリージョの様子はどうだった?」 
 シユウはパステルを一口食べて、リェンに尋ねた。 
「会えませんでした……身体の具合が良くないそうで」 
 リェンの養父は頑健なひとで、引き取られてから二十数年の間に風邪を引いたことさえなかった。 
 尚更心配で様子を確認したかったが、感染する病かもしれないと言われては諦めるしかなかった。 
 リェンも丈夫だと自負しているが、万が一にもうつり、一緒に暮らしているシユウにまでうつしたら養父は間違いなく悲しむ。 
「そうか……宮殿の医師に様子を尋ねたほうがいいな」 
「ええ……」 
 シユウの口ぶりは相変わらず素っ気ない。 
 しかしシユウの家族の様子からして、二人の関係を反対しているわけではなさそうだった。 
 だから余計にわからない。 
 一体何が気に入らないのか。 
「父の病状によっては、しばらく実家に帰るかもしれません」 
「それがいい」 
 シユウの答えはアマリージョ老を深く心配しているようにも、リェンを突き離しているようにも聞こえた。 
 今朝はやめてと言っても口付けをやめなかったくせに。 
 リェンは苦い想いをカフィと共に飲み込んだ。 
「墓掘りの件はどうなりましたか?」 
「何も決まらなかった」 
「それは珍しい。意見が合わなかったのですか?」 
「……リェンが悪いのだ」 
 シユウはぼそっと呟いた。 
 これはさすがに頭に来た。 
「僕がなんだって?」 
「俺以外の男と抱き合ったり水浴びしたりするから全然集中できなかった」 
「はあ?」 
 まるで子どもの言い訳だ。 
 しかも言い方が悪い。 
 リェンは確かにモラドと抱擁をし合ったが、それは挨拶の範疇だ。水浴びもしたが汗を流しただけで、シユウとの水浴びのように大事なところを触り合って、愛を囁いたけではない。 
「それのどこに問題がある!」 
「嫌なものは嫌だ!仕方ないだろ!」 
 これを四十路の男が言っていると思うと眩暈がする。 
 メリエンダが足りなくて、まだ食べていないと言い張っている子どもみたいだ。 
 シユウの言い分は子どもよりタチが悪いが、そんな彼に少しときめいている己はもっとタチが悪い。 
 先程の喩えでメリエンダはリェンだ。シユウはリェンが足りないと喚いている。もう二十年も前から彼のものなのに。 
「……妬いたんですか」 
「そうだ」 
 素直に認める奴があるか……! 
 シユウは完全に開き直って、リェンをじっと見て逸らさない。 
「リェンは自分の置かれている立場をわかっていない」 
「わかっていますよ!」 
「いいや、わかってない!今の君は騎士ではないのだぞ?恋愛禁止の掟は適用されない!懸想され放題だ!」 
「そうですね!でも僕が好きなのはシユウだ!」 
 リェンは徐に立ち上がると、シユウの逞しい太ももの上に腰を下ろした。 
「そんなに気になるなら抱けばいいだろ」 
「は?」 
「僕が誰とも不埒な真似などしていないとわかるはずだ」 
 リェンは腕組みをしてシユウを見下ろした。 
 純潔には自信がある。かれこれ二十年片想いしてきたのだ。リェンが恋に気付いた時に生まれたガトーは今頃、ドラスノの木と同じぐらいのサイズになっているだろう。 
「そんなことできるわけないだろ」 
 シユウはさっと顔を背けた。 
 頬がわずかに赤い。 
 膝の上に乗られたことに怒っているのか。それともリェンの行動に驚いているのか。 
 リェンにはわからない。 
 でも渾身の「お誘い」を断られたということだけはわかった。 
「僕は抱けないのか……」 
「当たり前だ。結婚前だぞ」 
 リェンの口は自然と開き、瞼は瞬きを忘れてシユウを見た。 
 すっかり忘れていた。 
 目の前の男は生粋の王族だ。婚前交渉なんてもってのほかだと教えられて育ってきたはずだ。王子として教育を受けてきたリェンにはわかる。 
 リェンが王子だったのは十代前半までだが、女性の服の下に隠れた部分に触れるのは人として恥ずかしいことだと教えられてきた。 
「いや、待って。酒場のアーサは!?彼女と寝たって噂を聞きましたよ!?」 
「あれは若気の至りだ。彼女とは友人でそれ以上の関係になったことはない」 
 ちょっと体を触り合っただけだ、とシユウは小声で付け足した。 
 リェンはバーニョでの情事を思い浮かべた。 
 シユウの考えでは、あれが恋人同士の情事の上限なのだろう。 
「君が騎士たちに体を触らせたとは思っていない」 
 シユウがリェンの尻を抱き寄せると、彼の固くなった月がリェンの内腿にあたり、リェンは小さく息を飲んだ。 
「しかし幼馴染の俺でも君を間近で見ただけでこうなるんだ。もし他人が君の生まれたままの姿を見たらどんな劣情を覚えるか」 
 裸を見せただけで拗ねてしまう彼にバーニョで踊ったなんて話したら、一体どんな顔をするだろう。 
 嫉妬しすぎて熱でも出すかもしれない。 
 それではまるで童貞ではないかと笑おうとして、リェンは顔がカッと熱くなった。 
 そうなのか……? 
 国民から絶大なる信頼を得て、在位二十年を超え、妻が三人いた男が、真紅の神秘的な瞳と神に愛された筋肉質な体を持ったひとが、未経験なのか。 
 彼が結婚してから、妃たちとは違う形で彼を支えようと決心してずっと近くにいたはずなのに、知らなかった一面がどんどん増えていく。 
 リェンが愕然としていると、それをどう勘違いしたのか、シユウがこんなことを言い始めた。 
「しかし、君を不安にさせてしまう掟なら俺たちの間には不要だ」 
「えっ!?」 
 尻を鷲掴みされて思わず腰を浮かすと、重心が後ろに寄り、リェンは背中から寝台に倒れ込んだ。 
「そんなに待ち望んでいたのか」 
「ちがっ、今のは体勢を崩しただけだ!」 
「抱かれたいわけではない?」 
 深紅の瞳がリェンを見下ろす。いつの間にかシユウの両膝がリェンの体を挟み、厚い胸板が視界を覆っていた。 
「……それは……否定できない。でも婚前交渉に抵抗感があるあなたに無理強いしてまで抱かれたいわけじゃない」 
 口ではそう言いながらも、リェンの月は満ちるのを感じていた。長い時間を掛けて大きく育ちすぎた恋が出口を求めて暴走しかけている。 
「リェン……いや、アズール王」 
 その名で呼ばれたのは約二十年ぶりだった。 
 移住を助けてくれた老アマリージョでさえ、ニャスパに着いてからは、その名で呼ぶことはなかった。 
「今夜からここは君の治める国だ」 
 シユウの手のひらがベッドを叩いた。 
「僕の……国?」 
「そうだ。ここでは君が王で、君が法だ。俺は君に仕えるただの男だ」 
 シユウはリェンのバーニョの壁と同じぐらい白い手をとって、唇を押し付けた。 
「君は俺に命令しなくちゃならない。さて、どうする?」 
「えっ」 
 掟を破るのではなく、二人で新たに作ろうと提案する方へと発想を転換させたらしい。シユウらしい考え方だ。 
「我が国では……」 
「我が国では?」 
「王に毎日、口付けることとする」 
「承知いたしました」 
 手の甲に当てた唇は徐々にあがってきて、肩、首まできたところで、くすぐったさ身を捩った。 
「王よ……」 
「リェンと呼べ……」 
「ありがたき幸せ」 
 その囁きは口付けにかわり、声が耳をいやらしく撫でる。 
「あっ、だめ、耳がくすぐったい」 
 耳から唇はすぐそこだ。シユウの体がわずかに離れ、あの息も出来ないほどの口付けが来る。 
 期待に唇が震える。 
 しかし唇を撫でたのは、熱い吐息だけだった。 
 閉じていた瞼をうっすら開けると、政の話をしている時と同じぐらい真剣な瞳に見下ろされていた。 
「なんで……?」 
「全部君の言う通りにしたまでだ。嫌なら止める。どうする?」 
「……続けろ」 
「御意」 
 シユウはニヤリと笑った。意地悪め。童貞なら童貞らしくガッツいたらどうだと言い返したいところだが、またお預けを食らうのは、それこそ『嫌』だ。 
 主の命令に無駄に忠実な下臣の唇はリェンの唇に何度も角度を変えながら口付ける。息が苦しくなり、さすがに止めようかと思ったところで、顎、そして喉仏へと降下し始めた。 
 息を整える。鼓動が早い。シユウにもわかってしまうだろうか。 
 リェンにとってシユウは近くて遠い存在だった。 
 こんな風に体を重ねるなんて、妄想したことはあっても、実際にあるとは思わなかった。 
 リェンはシユウの背中に腕を回して抱き寄せた。体温が高い。彼も興奮してるのだと思うと嬉しい。でも、まだ足りない。 
「シユウ」 
「はい、陛下」 
「……恋人の証を付けろ」 
「ご命令とあらば」 
 シユウの手がリェンの服を脱がし、誰も口付けたことがない肌に唇で吸い付いた。 
「あっ」 
 キツく吸われて、思わず声が出た。 
 赤くなっているのだろうか。親指でなぞる。吸われた場所が熱い。 
「もっと……」 
「喜んで」 
 シユウが吸い付く度に心臓が震える。月がさらに満ちていく。 
 ごっこ遊びのような台詞を紡いでいたシユウも今は無言で夢中になってリェンの肌を吸っている。赤ん坊みたいだ。シユウの短くなった髪を撫でた。 
 彼の長い黒髪を揺らして歩く後ろ姿は、思わず見惚れてしまうほど美しかった。 
「あっ」 
 シユウの唇に乳首を吸われた途端、一際甘い声が出た。 
「好きか?」 
「わかんない……でも……」 
 全身が痺れる。宥めるように突起を舌で舐められて、リェンは身を捩った。 
「もっと……痛くしてみて」 
 舌より固いものがリェンの突起を挟んだ。痛みというにはあまりにも甘すぎる感覚が乳首から全身に広がっていく。 
「ああっ、いいっ、反対もしてっ」 
「リェンは痛いのが好きなんだな?」 
「……変かな?」 
 騎士団の部下のひとりに猥談が好きな男がいて、女の尻を叩くと締まりがよくなると助平顔で語っていたことがあった。 
 女を抱いた経験がないリェンはそういうものかと思って聞いていたが、普通なのかどうかはわからなかった。 
 きっと、シユウも同じだろう。 
「言っただろう?ここでは君が法だ」 
「僕に丸投げして、あっ」 
 シユウが愛撫を再開すると文句は喘ぎ声に変わった。 
 股間が下着の中で膨らみすぎて痛い。 
 それなのに、シユウは愛撫をやめてしまう。リェンの高まりを察したのだろう。 
 リェンは息を上らせたまま、下着の中に手を差し入れた。 
「リェン……?」 
「香油を」 
「……かしこまりました」 
 シユウはリェンの頭がある寝台の端から身を捩って、本来頭があるべきほうを振り返った。その横にある小引き出しに、ちょっとした生活用品が入っていることをリェンは知っていた。 
「これでいいか?」 
「うん……」 
 リェンはシユウから香油を受け取ると、下着の中に入れていた手のひらに垂らした。普段使っている香油と違う香りがする。 
 香油を指先にまで塗り広げると、再び下着の中に忍ばせて、秘部を解していく。 
 沈めた指がぐちゅりと掻き混ぜる音を立てると、シユウが目を見開いたのがわかった。 
「そんなにじっと見つめられたら恥ずかしいよ」 
 そう言いながらも興奮していた。 
 リェンに自慰を見せた時のシユウも同じ興奮を覚えたのだろう。 
「……リェン、脱がすぞ」 
「ん……」 
 リェンは自身の穴に指を入れたまま、腰を浮かした。 
 今までと違うところに指が当たって、自然と背中が反り、シユウに向かって男性器を突き出す形になった。 
 シユウの手はリェンの足から服を引き抜きながら、目はそこに釘付けになっていた。 
 その視線を感じながら指をさらに動かす。 
「ん、あ……んん」 
普段ひとりで慰める時は声など出さない。じっと奥歯を噛み締めていれば細かな快感の波は逃がしてしまえるのに、目の前の男がわかりやすく反応するせいで、その理性を失くしつつある。 
 幼馴染を思って自慰をするのは自分だけで、とても悪いことだと思っていた。 
だから、シユウがリェンで抜いたと聞いた時は、背負っていた罪が羽になったように感じた。 
「俺にやらせてくれ」 
 シユウに手を引かれ、リェンの指が抜ける。 
「よく見えない。足を広げてくれ」 
 香油で濡れているそこを見せるなんて恥ずかしいくて嫌なのに、体は勝手に反応してしまう。 
 今はリェンが王でも、シユウの騎士であることか体に染み付いてるせいだ。 
 足を広げのを、シユウがまじまじと見ている。 
 恥ずかしくて死にそうだけど、そんな童貞丸出しのシユウがかわいいとリェンは思った。 
「こんな小さな穴に入るのか?」 
「入れたくないなら別に……」 
「教えてくれ。俺は初心者なんだ」 
 ほら、と言ってシユウはリェンの手を掴む。リェンは香油をまとった指を、シユウに見つめられているのを感じながら、穴に沈めた。 
「あん……」 
 シユウはその手を掴んだまま、リェンの指を出し入れさせた。ぐちゃ。自分の指なのに犯されているみたいだ。 
「俺にやらせてくれ」 
「やらせてくれ?」 
「愛撫させていただきます、陛下」 
「ん、許す」 
 リェンの秘部は己の指には慣れているが、他人を受け入れるのは初めてだ。 
 最初は遠慮がちな愛撫だったがだんだんと要領を掴んでいく。 
「いい……上手」 
「……もう入れてもよろしいですか?」 
「……僕がやめろといったらやめるんだぞ」 
 リェンは太ももの裏を手で支え、シユウの挿入を助けた。 
「ああっ、大きいっ」 
「くっ……はあ……すごいな、これは」 
 シユウは目を閉じていた。初めての快感に堪えるその姿をリェンは目に焼き付けた。 
 本能に突き動かされるようにシユウの腰が動き始めた。 
「あっ、あっ」 
「気持ちいい……君はどうだ?」 
「ん……はっ、あっ、んん」 
「俺のいいところを教えてくれ……浅いところがいい?それとも奧?」 
「ひっ、ああっ、あー……っ」 
 奥と手前を交互に穿たれて、声が止まらない。気持ちいい。答えようとして開けた口の端から唾液が零れていく。 
 痛みもあるが、快感が上回っていく。 
 あと少しというところで、シユウが突然動くのやめた。 
「えっ、なんで……?」 
「王、ご命令を」 
「……意地悪」 
「俺ほど忠実な下臣はいないぞ?」 
「……さっき奧、気持ちよかった」 
「そうか」 
 シユウに笑われて、恥ずかしくて全身から汗どころか、湯が噴き出しそうだ。 
 頭はぼうっとして、シユウを見つめながら、寝台の布を掴むことしかできない。 
「あっあっ」 
「リェン……」 
「あっ、だめ、やめないで」 
 リェンの中でシユウが大きくなったのがわかった。 
 腰の動きもさらに早くなる。 
「一度待って、シユウ。出ちゃうから 」 
 息も絶えだえに懇願しても、シユウは律動をやめない。 
「なんで、待てって言った」 
「王であっても全てが思い通りに行くわけはない」 
 そんなところを忠実に再現しなくてもいいだろう! 
 シユウから与えられる快感に体が支配されて、悔しいのに揺さぶられる度に甘い声が出る。 
「王命を守らないヤツは……昇進できないからな……っ」 
「はは」 
 シユウは笑ってはいるが、額の汗で限界が近いのはわかった。 
「止まれ」 
「は?」 
「これは命令だ」 
 シユウが止まる。動きたいのを堪えている。 
 忠義者の腹を撫でてやるとビクンと震えた。 
「頼むよ、王様」 
 掠れた声が懇願する。 
「ら僕が達するまで腰を動かし続けろ……イきそうになったら、僕に掛けろ」 
「王の御心のままに……っ」 
「あっあっ、シユウ……あっ、んん、いい、そこ、イく」 
「リェン……リェン……」 
 体の中で限界まで篭っていた熱がはぜる。何度もリェンを攻めて穿ったそれが抜けて熱いものが腹にかかる。 
「はあ……はあ……」 
 ややあってから冷たい雫が落ちてきた。シユウの汗だった。 
「性交とは……すごいな……ここまで気持ちいいとは……」 
 頭をふる姿は雨の日のペローのようだ。獰猛なほどに情熱的な雄が垣間見せる可愛いがリェンの胸をときめかせる。 
「僕も良かった……」 
「もっと褒めてくれ」 
 シユウの体がリェンの体に重なり、二人分の汗と精液が混ざる。 
「初めてにしてはよかったが、まだまだ鍛錬が必要だな」 
 脱力している腕を大きな体に手を周り、尻をたたくと、ペチンといい音がした。 
「もちろんです、我が王。さあ、もう一度」 
 リェンは耳を疑った。 
 聞き間違いであってほしいと願うリェンの腹に、すっかり満ちたシユウの月があたっていた。 
「あっ、ばか、これ以上は無理だから……あっ」 
 二度目の挿入は一度目よりも滑らかだった。 
 射精によって敏感になった体は小さく震えるだけで、完全に満ちた月を拒まなかった。 
「無理ではなかったようだ。こら、なぜ逃げる。ここは君の国だぞ」 


 墓掘りの日は抜けるような青空だった。 
 太陽がさんさんと輝く下で、土を掘るのは相続権のある三人と、その伴侶だ。 
 ニャスパの伝統で家族が掘ることになっているとはいえ、国母が掘り具を土に突き立てている姿は違和感がすごい。 
「王母様とお妃様は、少しお休みなられてください。そこは私が掘りますので」 
「ありがとう、リェン。ではお言葉に甘えて」 
「助かりますわ」 
 王母は休憩用に用意された式布の上に腰を下ろした。 
 それでもまだリェンの父は心配顔で墓掘りを見ている。 
 どうにも顔色が優れない。体の具合はよくなったと言っていたのだが。 
 リェンがなぜ墓掘りに参加しているのかを疑問に思っているのかもしれない。養父が現れたのは墓掘りの直前だったので、リェンはまだ彼にシユウ王子の婚約者になったと伝えられていなかった。 
「出た!」 
 最初に宝石を掘り当てたのはキリセだった。 
 現王は草の生い茂る大地を指さして、兄を呼んだ。 
 王家が代々墓場としているのは宮殿の一画にある小さな庭で、普段は見張りの兵士が生垣の前に立っている。 
 墓は宝石化すると掘り起こされるため、今眠っているのは先王だけのはずだった。 
「どういうことだ」 
「宝石が二色ある……?」 
 王の息子たちが顔を顰めるのを見て、リェンは慌てて彼らに駆け寄った。 
 掘り返された土の中を見ると赤い宝石がきらりと光っていた。そして、その横には、ニャスパでは見られないはずの宝石があった。 
「この色は……」 
 リェンは思わず宝石を手に取った。 
「間違いありません。アズールです」 
「ニャスパでは生まれないんじゃなかったのか?」 
「そうなの?」 
 キリセは驚いた顔で兄を見た。 
「私の故郷では、皆、この宝石になるのですが」 
 三人は顔を見合わせると、誰からともなく老賢人へと視線を向けた。 
「黙っていてすまなかった」 
 アマリージョ老は地面に頭が付きそうなほど頭を下げた。 
 その姿があまりにも弱々しく、リェンは彼の体を支えるために駆け寄った。 
「なぜ謝られるのですか?」 
「そこにいらっしゃるのは……最果ての島の最後の王です」 
 リェン以外の四人が息を呑んだのがわかった。リェンが王の子であると知っているのはシユウだけだが、他の三人もリェンの故郷が最果ての島であることを知っていた。 
リェンは呼吸すら忘れて、養父の言葉の続きを待った。 
「最後の戦の時、マヌエルの王はキリセ様とシユウ様の父君と剣を交えられ負傷されました。父君はマヌエル王を治療するため、ここニャスパへと連れ帰ったのです。しかし」 
 父は島より先に死んだのだとリェンは理解した。 
 複雑な想いがこみあげる。 
 愛した島と共に死にたいと願った父にとって、ここに連れてこられて果たして幸せな最後と言えたのだろうか。 
 しかもニャスパはリェンにそのことを隠していた。 
 アマリージョ老は小さな瞳でリェンを見上げた。 
「先先代の王にとって、君の故郷の王は……大切なご友人だった」 
「えっ」 
「最期の時まで王はひとりで看病を続けた。息を引き取られる瞬間まで手を」 
 リェンの養父は声を詰まらせながら、皺くちゃの手でリェンの手を包んだ。 
 知らなかった。 
 リェンは父からニャスパの話さえ聞いたことはなかったが、他国にいる友からの手紙を、父が目を細めて読でいたのは知っていた。 
 空を見上げる。太陽が近い。父はこの眩しいほどに明るい国で最期を迎えた。 
 怪我の程度がひどくて、リェンに教えられなかったのかもしれない。 
「今日まで黙っていたのは、父の遺言か」 
 いつの間にか隣に立っていたシユウが尋ねると、アマリージョ老は頷いた。 
「いえ、マヌエル王のご遺言です……移民した国民に遺恨を残したくないと」 
 そのうちの一人に息子であるリェン含まれていた。 
「お辛い役目でしたね」 
「リェン……」 
「国を代表して感謝申し上げます。王を……王として、友として手厚く葬ってくださり、ありがとうございました」 
 いつから、このひとの肩はこんなに小さくなっていたのだろう。 
 引き取られたばかりのときは見上げていたのに、今はこの腕の中で震えている。 
「リェン・アマリージョ」 
 名前を呼ばれて振り向くと、友であり主であった男はリェンの前で地に膝をつき、二つの色を持つ宝石を手に、リェンを見上げていた。 
 ロホとアズール。同じ墓所に埋葬された二人の王が土の下で結びつき出来た宝石は陽光を受けて煌めいている。 
「結婚しよう」 
「シユウ……」 
「いつか宝石になる日まで共に生きよう」 
 島と運命を共にするのだと思っていた。 
 それなのに、海を渡り他国へ移住し、そこで無二の友ができた。 
 いつしか友情は恋慕にかわっていたが、彼は王となり妻を迎えた。 
 リェンは伴侶とは違う形で彼を支えるために総騎士団長になった。 
 第二の人生はあっという間の二十年だった。 
 そして今、目の前に第三の人生が提示されている。 
「……はい」 
 宝石の上に手を乗せると、さっきまで土の下にあったとは思えないほど温かった。 
 シユウが立ち上がる。 
 それと同時に何かが地面に落ちる音がした。 
「な、な、なんだって!?」 
「父上!」 
 老いた養父は腰を抜かして地べたに座り込んでいた。 
「驚かせて申し訳ありません、順を追って話しますから」 
「リェン、お前、本気なのか」 
「えっと……」 
 養父の気持ちを考えると「はい」とは言いづらかった。なんせ、相手は元国王であり、その行動力と頭脳に尊敬の念は確かにあるものの、彼を子どもの頃から知る養父にとって頭痛の種でもあったのだ。突然の退位による心労もまだ癒えてはいないだろう。 
「本気に決まってる、そうだろう、リェン」 
 シユウのさが捲し立てる声の後ろで、彼の家族がくすくす笑う声がする。 
 そのさらに後ろで、墓から掘り返された宝石たちだけが静かに、二人を祝福していた。

 
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