12/19 「魂炸裂♥ハピエン・メリバ創作BLコンテスト」結果発表!
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2025/11/07 16:00

あらすじ
ひとりひとり成長の速度が違う世界。人の寿命は数十年から数百年とさまざまだった。
若い寿命判定師ディヴィアンは、あるときひょんなことから孤児の少年ラケオを預かることになる。
ディヴィアンはまれにみる長寿だったが、ラケオの寿命はたった二十年しかなかった。あっという間に立派な若者に成長したラケオとディヴィアンは恋に落ち、幸せな暮らしを営むようになる。しかしラケオの寿命が無情にもやってくる。
『大丈夫。僕らはきっといつか、またどこかで再会できるよ。その時まで世界中を見て回って。そして再び会えたときにその話を僕にして』
老いたラケオは、そう言い残してこの世を去る。
打ちひしがれたディヴィアンは孤独の中、それでも彼との約束を守るために世界中を旅して回る。
そして悠久の時間をすごすうち、世界は科学が進歩し、人類はやがて新たな技術を手に入れる。それは時間旅行の方法だった。
時間遡行の技術でディヴィアンは過去へと向かい、ラケオと再会を果たし、残りの人生を幸せにすごす。
第1章 一年目
寿命判定師ディヴィアンのもとに、ラケオが連れてこられたのは彼がまだ小さな子供のときだった。
「孤児院が火事で全焼してしまい、院長も行方知れずになってしまいました。残った子供たちを町の住人で手分けして預かることになったのですが、どうか協力してもらえませんか」
町の世話役である男に頼まれたディヴィアンは、露骨に嫌な顔をした。
人嫌いで人づきあいも苦手、まして子供など接したこともないひとり暮らしの自分が幼い子を預かるなど到底無理な話だった。
「できかねます」
と即座に断ったのだが、男はしつこく頼んできた。
「いや、そこをなんとか。他の町人はもう皆、手一杯で、あなたぐらいしか残っていないのですよ」
「……」
最後にはこの町で仕事を続けていきたいのなら協力してもらわないと我々もあなたと仲よくしていくことはできません、と脅しめいた言葉まで口にしてきたので、ディヴィアンは仕方なく小さな男の子を引き取ることにした。
「ほんの数か月です。孤児院が建て直されたら、この子はまたあそこに戻せばいいですから」
その言葉を信用してむっすり顔で了承すれば、世話役は喜んで礼を言い、男の子をおいてディヴィアンの家から帰っていった。
窓から丘を下っていく男を見送って、薄汚れた子供に向き直る。じっと黙ったままぼんやり立ち尽くす子を見て、ディヴィアンは盛大にため息をついた。
子供はディヴィアンの膝上ほどの背丈だった。痩せ細り、ひどく汚れていて、目だけが魚のように怖いくらいまん丸かった。百歳換算で推定年齢は三歳といったところか。腹が減っているのか、ここにきてからずっと指をしゃぶっている。伸び放題の黒髪はべたつき、埃やゴミが絡みついていた。着ている服は襤褸雑巾にしか見えない。多分、蚤や虱が山ほど潜んでいる。
この子を自分の家におくのか、と考えただけでゾッとした。ディヴィアンはきれい好きだった。
「とにかく、人間らしくしないと」
預かったからには責任がある。子供は嫌いだが数か月の辛抱だ。この地で仕事を続けていくためには町の住人に恩を売っておかなければ。
ディヴィアンは台所で湯を沸かし、幼い少年を家の外に連れていって服を脱がせ、髪を全て切って剃った。それから盥に湯を張って、少年をサボンで全身くまなく洗った。
盥から出すと乾布でぬぐい、自分のシャツを着せる。ぶかぶかで大きすぎたが、子供用の服など持っていない。スッキリした少年は、丸坊主になった頭を不思議そうに小さな手で撫でた。
「すぐにまた生えてくる」
ディヴィアンは残った湯で襤褸雑巾を洗濯しながら言った。
「お前、名は何という」
たずねると、少年は大きな目でぼんやりこちらを見てきた。もしかして耳が聞こえなかったりするのだろうか。だとしたら厄介だ。しかし少年はすぐに答えを返してきた。
「ラケオ」
「そうか。私の名はディヴィアンだ」
小さいからまだうまく舌が回らないのだろう、「……アン」と小鳥の鳴くような声でディヴィアンの名を呼んだ。
洗濯物を干して片づけをして、夕方になったので食事の準備をする。テーブルに並べられたパンとスープ、それからチーズと果物を見て、ラケオは目をまん丸にした。料理とディヴィアンを交互に見比べ、よだれを流さんばかりの顔で犬のようにジッと号令を待つ。
「食べていいぞ」
と言うと、いきなりガツガツ食べ始めた。
「慌てて食べるな。喉をつまらせる」
注意しても、これが最後の晩餐かと思わせるほどの勢いで平らげていく。ディヴィアンは呆れた。
ここ最近、飢饉が続いていたのは聞いている。町の人々も生活は苦しいとこぼしていたから、孤児院も経営が大変だったのかも知れない。もっとも寿命判定師という専門職であるディヴィアンは仕事にあぶれることはなかったから、飢饉にもさほど実感がなかった。
「……まあ、好きに食べればいい」
料理を残さず平らげたラケオは、匙をおいて満足げに息をついた。
「アン」
小さくディヴィアンの名を呼ぶ。何かと顔をあげれば、ラケオはこちらを見つめて一言もらした。
「おめぐみをありがとうございます」
その言い方が子供らしくなく、ひどく礼儀正しかったので、ディヴィアンは胸がキュッとつねられたような気がした。
***
ディヴィアンは淡い金色の髪に、蜂蜜色の瞳を持つ年若い男だった。髪は肩の下まであり、それをいつも紐でひとつにくくっている。身長はそれなりに高く、細身で顔立ちは中性的だ。一応、見目は悪くないらしい。と、行きつけの酒場で女主人に言われたことがある。
そんな自分を、幼い少年はじいっと見つめてきた。もう指はしゃぶっていない。
居間の奥にある狭い寝室には、ベッドがひとつしかなかった。そしてこの家には客間などない。シーツを整えて、ディヴィアンはラケオをその上に乗せた。
「お前は小さいから、まあ、一緒に寝てもさほど窮屈じゃないだろう」
数か月の辛抱だ。誰かとひとつのベッドで寝るなんて、子供のころ以来だと思いながら、蝋燭の火を消して自分も横になった。
すると暗闇の中で、ラケオがディヴィアンに身をよせてきた。まるでそうするのが当たり前というように、ぴったりとくっついてくる。
「……」
多分、孤児院ではこうやって子供同士身をよせあって眠っていたのだろう。季節は春先で、まだ夜は冷える。そんなふうに暖を取っていたのかもしれない。
やれやれと思いつつ、ディヴィアンは好きにさせておいた。振り払うほど冷淡な性格でもない。幼い子供がひとりで放り出されれば不安なのは自分も経験があるから理解できる。
ディヴィアンはじっと動かずに、ラケオが眠りに入るのを待った。
翌日には、幼子の手を引いて町の市場まで出かけた。そこで子供用の古着一式を買いこんでその場で着せる。下着にシャツ、ズボンに靴と帽子も。ちゃんとした服装をさせれば、ラケオはとても見目のよい容姿をしていることがわかった。黒い目はまつげが長く、鼻筋も子供ながらしゅっと通っている。
「あらまあかわいい」
古着屋の女主人はそう言ってラケオをほめた。ラケオはディヴィアンを見あげて、恥ずかしそうにまた「おめぐみをありがとうございます」とつたない舌で礼を言ったので、ディヴィアンは居心地の悪い思いをした。
***
ディヴィアンの住処は、丘の上に建つ小さな一軒家だった。周囲は一面の草っ原で、建物は他にひとつもない。そこをラケオの手を引いてのぼっていく。家に着けば、玄関先に若い男と女の子が立っていた。
「判定師様。娘の寿命判定をお願いできますか」
どうやら客人のようだった。
「ああ。いいだろう」
仕事場に入り、ラケオには部屋のすみの丸椅子を指して「そこにいろ」と命じた。幼い少年はすなおにちょこんと腰かけた。
「では、その子の名前と生年月日を」
ディヴィアンの仕事場は医師の診察室に似ている。以前の住人も寿命判定師だったこの部屋には、南側に大きなガラス窓があり、北側の壁一面には抽斗がたくさんついた棚が設置されていた。その他に身体を測る道具がいくつかと、診察台がひとつ。ディヴィアンは棚の抽斗から羊皮紙を一枚取り出して、父親から聞いた娘に関する情報を書き留めていった。
それから女の子の身長と体重を測定し、窓辺にある小テーブルに座らせた。自分は対面に腰かけると、拡大鏡を使って少女の手の甲を丁寧に観察する。小さな白い手には、うっすらと血管の文様が浮き出ていた。それを羊皮紙に書き写していく。
一連の作業が終わると、顔をあげて父親に告げた。
「この子の寿命は百八十年です」
「そうですか」
父親は少しホッとした顔でうなずいた。
「よかったです。私は九十年と言われたので、長くてよかった」
ディヴィアンは書類にサインをして父親に手渡した。
「この子の母親は百四十年と判定されていたから、それよりも長かった」
父親の言葉に、少女が横から口を挟んだ。
「けど母さんは三十歳で死んでしまったわ」
父親が娘に答える。
「病気だから仕方がない。たとえ寿命が長くても、人は病気や怪我であっけなく死ぬものだ。お前も気をつけて生きていかねばならない」
ディヴィアンもうなずいた。
「そう。寿命はひとつの指針となるだけです。健康な生活をしていれば判定より一割ほど伸びますしね。あなたの未来に祝福を」
にっこりと微笑めば、少女は頬を赤らめた。
代金をもらって、親子を戸口から送り出す。広い丘には、春に向かって黄色い花の蕾がふくらみ始めていた。緑の中に薄黄色の粒がたくさん揺れている小道を、大小の影が仲よさげにより添い小さくなっていく。ディヴィアンはその光景をぼんやり見送った。
この世界に住む人間は、ひとりひとり天から与えられた成長の早さが違う。ゆっくり成長する者もいれば、あっという間に大人になり老いていく者もいる。長生きな者は数百年生き、短命な者は百年に満たない生しかない。それはほとんど運で決められていて、一生変わることはなかった。遺伝もしないし、環境にも左右されない。祈りも呪いも作用しない。この世の神の無情な取り決めなのだった。
そしてディヴィアンはそんな人々の生きることのできる時間――すなわち寿命の測定を生業としていた。
ディヴィアンは仕事机に戻り、片づけを始めた。ふと目を向ければ、ラケオは大人しく椅子に腰かけてこちらを見ている。この子は言いつけをきちんと守り、仕事の邪魔もしなかった。存外育てやすいのかも知れない。
「お前は寿命を判定してもらったことはあるか?」
声をかければ、ラケオはふるふると首を振った。
「じゃあ、ついでだ。判定してやろう。こっちにおいで」
小さな少年は椅子をよいしょとおりて、ディヴィアンのところにやってきた。
「生年月日はわかっているか」
抽斗から新しい紙を一枚取り出し、『ラケオ』と書きこむ。
「しらない」
「そうか。まあ仕方ない。孤児院も焼けてしまって資料もないだろうし」
今日の日付を記入し、小さな身体の身長と体重を測定する。それから窓際の小テーブルに向きあって座った。手の甲に日光をあて、拡大鏡を使って調べていく。
寿命は、その人の身体を走る血管の文様、即ち『血彩』を調べることで明らかになる。その数値は知識と経験を積んだ熟練者でなくては正確に導き出せない。ディヴィアンはもう長い年月を判定師としてすごし、この国では一定の信頼も得ていた。
血彩は、主に手の甲を走る血管から読み取る。寿命が短い者は太く単純な模様で、長寿になればなるほど繊細で複雑な模様を描く。
「……」
ディヴィアンは痩せ細った小さな手の甲を見て、言葉を失った。
少年の寿命は、たったの二十年しかなかった。
***
丘に咲いた花が、風に揺れている。
ゆらゆら、ゆらゆら、歌うように踊るように。
その真ん中で、ラケオがうずくまっている。
太陽の光は温かくふりそそぎ、遠くで鳥が鳴いていた。
「ラケオ」
名を呼ぶと、顔をあげてディヴィアンを見つけ、ぱっと笑顔になった。
「アン」
トコトコと駆けてくる姿を、微笑ましいと思うようになったのはいつごろからか。
ラケオがディヴィアンの家にきて一か月がたとうとしていた。丘の花は今が盛りで、うす黄色の花を鮮やかに開花させている。
「何をしていた」
たずねれば、満面の笑みで片手に握った花を差し出してきた。
「おはな、つんでたの」
数本の花は子供の体温でしおれ始めている。こうべをたれた小花を見て、ディヴィアンは眉をよせた。
「花をつむのはよしなさい」
するとラケオはきょとんとこちらを見あげてきた。顔には「どうして」と書いてある。
「つんだらすぐに枯れてしまうだろう。つまなければ寿命はのびるから」
ディヴィアンの言葉に、ラケオは黒い瞳を瞬かせた。そうしてちょっと俯いた。
「おはな、つんだらかれちゃうの」
「そうだ。だがまあ、つんだ分は花瓶にでもさしておけばいい。それより買い物にいくぞ」
「うん」
気を取り直したラケオは家に戻ると花瓶に花を挿して、窓際に飾った。それからふたりで丘をおりて町へ向かった。
「花などつんで、何をするつもりだったのだ」
問えばラケオは前を見ながら答えた。
「おへやに、たくさん、かざろうとおもったの。そうしたら、おへやも、はなばたけになるでしょう」
子供らしい発想に、ディヴィアンはふっとため息で笑った。
「なるほど」
ディヴィアンが明るい口調で呟いたので、ラケオも少し気分が上向いたらしい。
「おはな、きれいだから。アンもうれしいかなって」
「私は外で見ているだけでいい。部屋の中に花など入れたら、あとで掃除が大変だ」
身も蓋もない答えにラケオがまた目を見はり、「そうなの」と納得した。
ここにきたばかりのときは茫洋とした顔つきでガリガリに痩せ細っていたラケオも、少し肉がついて元気になった。それに伴いたくさんしゃべって動くようにもなった。
元来かしこい子だったらしい。物わかりがよく行儀もいいし、泣いたりわがままを言ったりすることもなかった。だから一緒に暮らすのはさほど苦痛ではない。ディヴィアンはふたりの生活を楽しみ始めていた。
日に日に成長していく幼子を見守りながら、しかし心の内には消しきれない小さな哀情があるのを、うっすらと感じてもいる。この子の寿命は二十年。寿命が百年の人間と比べれば、五倍の速さで歳を取ることになる。本人にはまだそれを告げていなかったが、いつかは知ることになるだろう。それを考えると、何とも言えない胸苦しさを覚え、憂いを振り払うため輝く太陽を見あげた。人の命は他人がどうこうできるものではない。そして寿命の長さによって人を差別するのは間違った考え方だ。
「アンは、このおはなににているね」
爛々と咲きほこる花を眺めてラケオが言う。
「どうして?」
まぶしさに目を細め、ディヴィアンは問い返した。自分のどこか花に似ているというのか。
「きいろいところ。かみのけと、めが」
花を指さして答える。なるほど、花びらは薄黄色で、萼は濃い黄色をしている。自分の髪と目の色と同じだ。それを言っているのか。ディヴィアンはまた小さく息をついて笑った。
「花に似ているなど、生まれて初めて言われた」
それでも、幼子の口から発せられれば、さほど悪い気はしなかった。
第2章 二年目
日々の生活は単調で、大きな出来事が起こることもない。
春がすぎれば夏がきて、暑い中を出かけたり涼んだり。秋がくれば森へ木の実を拾いに出かけ、冬は暖炉の前で本を読んで長い夜をやりすごしたり。
ラケオを引き取って、いつの間にか一年がすぎていた。丘にまた薄黄色の花が咲いて、ディヴィアンはそのことに気づいたのだった。
子供の成長は早い。特にラケオはあっという間に背が伸びて顔つきも変わっていく。夜ベッドに一緒に入り、朝には面立ちが変化している気がすることもあった。百歳換算でラケオの年齢は八歳ほどになった。
ラケオは働き者の素直な子供で、ディヴィアンの助手もこなせるようになっていた。客がくれば仕事場に案内し、ディヴィアンが動く前に抽斗から羊皮紙を取り出して、机にペンとインクを並べる。家事の手伝いも少しずつできるようになり非常に助かっていた。
「そろそろ学校にいかないか」
客がいないときは、窓際の小テーブルで勉強をする。読み書きを教えるのはディヴィアンだ。
学校、という言葉にラケオが顔をあげてきた。
「お前はかしこい。学校はきっと楽しいだろう」
それにラケオは小さく首を振った。
「いかない」
「どうして」
手にしたペンを見おろして、口をとがらせる。
「いきたくない」
「なぜ? いけば友達もできるだろう」
ラケオはここにきてからずっとディヴィアンだけとすごしている。友人はまだいない。
「いらない。アンがいればいい」
そう言って、ペンを動かし、紙につたない綴りを連ねていく。
「……」
ディヴィアンは無理強いをしなかった。本人がいきたくないのならいかせる必要はないと思ったからだ。この子の一生は短い。好きなようにさせてやればいいだろう。友達だってできたところで彼らより早く歳を取って去っていく身だ。それに気づけば、自分はいささか無神経な誘いをしてしまったかと悔やんだ。
窓の外に目をやれば、今年も丘には薄黄色の花が咲き始めている。昨年と変わらずに。
ディヴィアンはふと、この前宿屋の女将から聞いた話を思い出した。一年前に焼けた孤児院の再建が完了し、新たな院長も決まったそうで孤児らがまた院に戻り始めているということを。
ラケオをここに連れてきた町の世話役は、あれから何も言ってこない。もしかしてこのまま養子にでもさせてしまおうという魂胆か。
「……」
孤児院が立ち直ったのなら、この子を連れていけばいい。ディヴィアンにはこれ以上育てる義理はない。役目は果たした。
「アン」
考えていると、名を呼ばれる。目を移せばラケオも丘の花を見ていた。
「何だ?」
大きな黒い瞳は、陽光を浴びてまるで黒曜石のように煌めいていた。
「あの花は、なんて名前なの?」
一年かけて伸びた黒髪はまっすぐで、首を傾げればさらりと揺れる。
「さあ……町の人たちはほほえみ草と呼ぶが」
「ほほえみ草」
「ああ」
「ふうん」
納得したようなしないような、あいまいな顔で窓の外を眺めた。
「風で揺れると、クスクス笑っているような音がするからかな」
何気なく言った台詞に子供らしい感性を覚え、ディヴィアンは口元をゆるめた。
「花たちが笑っているのか」
「うん。笑ってるよ」
「そうか」
孤児院に返すのは、いつでもいいだろう。この子はこんな風に話し相手にもなるのだし。
二度目の春をそうやってすごし、ほほえみ草は丘の上に住むふたりの生活を彩ったのだった。
第3章 三年目
日々はつつがなくすぎて行き、ラケオは大きな病気もせず、すくすくと成長した。
三度目の春にさしかかるころ、ディヴィアンはそんな彼にひとつの提案をした。
「物置になっている奥の部屋を片づけて、そこをお前の部屋にしようと思う」
夕食時にそう切り出す。ラケオはディヴィアンの胸くらいの背丈になっていた。彼がここにきて二年がたとうとしている。百歳換算で、もう十三歳だ。
「どうして?」
幼年期を終えて少年期にさしかかった養い子は、思いがけないという顔でこちらを見てきた。幼いころからの整った顔立ちは、最近少しずつ男らしさを増している。頬の輪郭はまだ子供のそれだったが、声は低くなり始めていた。
小さいときの面影が消えていくのを、ディヴィアンはなぜか日々惜しく思えて、ときおり意味もなく淋しくなることがある。健康的に育つ姿はほほえましいが、同時に何とも言えない空しさも覚えてしまうのだ。そんなときディヴィアンは、ああやはり幼い内に孤児院に返しておくべきだったかと後悔するのだった。しかし今更、出ていけというのは薄情だろう。
「お前もそろそろ自分の部屋が欲しいだろうから。ベッドも家具職人に頼んで作ってもらう」
「じゃあ、もう一緒に寝られないの?」
「あのベッドは窮屈だろ」
ディヴィアンの寝室にあるひとり用ベッドで一緒に寝るのは限界だ。それで寝室をわけようと考えたのだが、ラケオはなぜか反対した。
「そんなことないよ。ぜんぜん」
「私は狭い」
だからもう寝ないと伝えれば、ラケオは不満そうな顔になった。
「ひとりで寝たことない」
「では、慣れろ」
「ひとりは寒いよ」
「たくさん着こんでベッドに入ればいい」
命令すれば、相手はもう反論せず、黙って口を尖らせた。だから納得したのだとディヴィアンは判断したのだが、その晩ベッドにふたりで入ると、ラケオが背後から抱きついてきた。
「どうした?」
「……」
「ラケオ?」
じっと動かない相手を振り返る。
「もうちょっとしか一緒に寝られないのなら、いっぱいくっついておく」
「…………」
大きくなったと言っても、まだ子供だったのか。独り寝が淋しいとは。
ディヴィアンはため息をついて好きにさせた。するとラケオはディヴィアンの寝間着の、腹のあたりをギュッと握ってきた。
「こら、くすぐったい」
やめろと訴えるも聞いていない様子で、さらに身体を密着させる。そのせいで首筋に相手の髪が触れた。さらりとした感触と、ラケオ独自の匂いに眉をよせる。
幼いころのラケオの髪は、いつも日向のにおいがした。乾いた風と草っ原の、空と大地の香り。ディヴィアンはそれが好きで、眠ったラケオの頭にこっそり鼻をすりよせたりもした。
けれど今の彼からは、もっと違う匂いがする。青くて爽やかな、成長しつつある男の芳香が、未熟な身体から発せられている。そのことに戸惑った。
「アン」
小さなつぶやきが背後から聞こえる。いつもと同じ声なのに、なぜか首筋がぞわりと粟立った。
「……」
ディヴィアンが寝室をわけようとした理由はもうひとつある。それは、このムズムズした感覚が居心地悪いからだった。
どうして自分は、こんな子供の声に怖れにも似た感情を覚えるのか。肌が落ち着かなくなるのだろうか。
いささかの困惑を感じつつ、多分これはラケオの体温が高いせいだろうと結論づけた。温かすぎて、自分はこの子供を鬱陶しいと思っているのだ。いつも密着されて狭苦しいし、寝返りも打てやしない。だから苛立ちから身体が火照るのだ。
それなりに長く生きてきたディヴィアンだったが、他人に初めて与えられた刺激に、脳を総動員してそんな答えを導き出した。
数週間後、ラケオは個室を与えられ、しばらくすると満足した様子を見せるようになった。
「やっぱり自分ひとりのベッドは落ち着くね」
などと言う。ディヴィアンは「そうだろう」と相槌を打ちながら、原因不明の空虚さも覚えていた。
おかしい。自分だってようやく伸び伸びと眠れるようになったのに。
ディヴィアンは広くなったベッドに横たわるたび、手が小さなぬくもりも求めて隣をさまようのをとめられなかった。
そのころから少しずつ、ディヴィアンはラケオを引き取ったことを、正体のわからぬ悲しみと共に苦しめられるようになった。
第4章 四年目
家の庭先で、若い男が薪割りをしている。
まだ春先で寒いのに上半身は裸だ。彼が斧を振りあげるたび、鍛えられた筋肉がしなやかに躍動し、小気味よい音を立てて薪が真っ二つに割れる。
それをディヴィアンは離れた場所から眺めた。
ラケオがこの家にきて、四度目の春が訪れていた。時は流れ、あの薄汚れて痩せた子供と出会ってから丸三年がすぎていた。この年、彼はディヴィアンの背丈を追い越した。そしてまだとまる様子もなく成長している。百歳換算で十八歳。容姿からは幼さがすっかり消えて、今は精悍なひとりの青年に変貌していた。大きかった瞳はそのままに彫りの深い目元と鼻筋になり、最近ではうすく髭も生えてきている。それを剃刀で剃る姿は、まったく想像もしていなかったもので、月日の流れる早さに驚かされた。時がとまってしまえばいいのに。このごろ、ディヴィアンはそんなことを考える。なぜ時間は一方通行に進んでいくのだろうか。なぜ成長と老化は、万人に等しく与えられていないのだろう。
「アン」
薪割りを終えたラケオが笑顔でこちらにやってきた。
「準備はできた? もう出かける時間だろ」
若い男の明るい声音に、ディヴィアンの心臓がドクリと跳ねる。
「あ、ああ」
上半身裸のラケオが隣にくると、ディヴィアンは不自然に目をそらした。
「僕もついていきたいんだけどな。やっぱり今回もダメ?」
「ダメだ」
すげない言い方で、相手に背を向けると家に向かってスタスタと歩く。その後ろをラケオが追いかけてきた。
「でも最近、この近くは盗賊が出るって噂だよ」
「知っている。乗合馬車には用心棒も同乗させるらしいから、大丈夫だ」
「ふうん。けど留守番は暇だしなあ」
「留守番は大事な仕事だ」
仕事場に入ったディヴィアンは鞄に荷物をまとめた。
寿命判定師であるディヴィアンは、一か月に一度、七日間、仕事で王都まで出張する。王都の判定所で人々の寿命判定をしたり、住民の判定書を整理したり、貴族の訪問判定を行ったりするのだ。それはこの国に住む判定師の義務であり、大切な実入りでもあった。出張の手あては大きい。
ラケオが小さいときは、知りあいの宿屋に預けてひとりでいっていたのだが、大人になってからはこの家に残して留守を任せている。昔、ラケオが幼いころ、一度だけ一緒に連れていったことがあったのだが、同業の判定師が、ディヴィアンが目を離した隙に勝手にラケオの寿命判定をしていた。それに気づいたディヴィアンは慌ててラケオを判定師から引き離し、『あいつは腕が悪いから判定はいつも外す』と言ってごまかしたのだが、ラケオが彼から何を聞いたのかはたずねなかった。聞きたくなかった。以来、ラケオは留守番させている。
「土産を買ってきてやる。お前の好きな砂糖菓子だ」
小さいころは甘い菓子に大喜びしたものだ。だからいつも土産は菓子だった。
「ありがとう。嬉しいよ」
ラケオは苦笑した。
青年になった同居人をひとり家に残し、ディヴィアンは丘をおりていった。ほほえみ草は今年も蕾をふくらませている。まだ花ひらく前なのに、さわさわとやさしい音を立てている。この花を、あと何回、共に見られるのかとラケオの逞しくなった身体を思い出しながらディヴィアンはひっそりとため息をついた。
――やはり引き取るべきではなかったのだ。
何度もした後悔を、また繰り返す。長年ひとり暮らしをしてきたのだから、そのままひとりでいるべきだった。世話役に脅されても断ればよかった。そうすれば、こんな複雑な思いを抱くこともなかった。この感情が何なのか。自分でもよくわからない。苦しいようで、悲しいようで、けれど心躍る甘さもあるこの感覚。それは身体を蝕む毒のようでもあり、何かを生み出す薬のようでもある。ディヴィアンは一度も、他人にこんな不可解な情動を覚えたことはなかった。
乗りあい馬車に乗って、半日の距離にある王都へ向かう。そこで六日間仕事をして、土産を買ってまた馬車に乗る。帰路は夕刻になった。人気のない森の近くを通るころには夜も更けて、灯りもないキャビンの中は真っ暗闇になる。小さな四角い窓に月のない夜空がうっすら青みを翳らせて浮かんでいた。目に映るのはそれのみだった。
もうそろそろ故郷の町に着くな。そう思ったときだった。
いきなり二頭立ての馬が、甲高くいなないた。キャビンがガクンと揺れ、続いて「うわっ」という悲鳴が外から聞こえる。
「何だ? どうした?」
一緒に乗りあわせていたふたりの男性客が驚いて叫んだ。
「事故か? まさか」
また外で悲鳴があがる。御者台には御者と用心棒がいるはずだが、何が起きたのかよくわからないまま馬の鳴き声と、人の怒声が何度も耳をつんざいた。ディヴィアンと客らは恐怖に身を震わせた。
やがて少し静かになったので、客のひとりが様子を見ようと窓に身を乗り出す。瞬間、外からドアが勢いよくひらかれた。
「おりろ」
聞いたこともない、野太い声が闇に響いた。
「……だれだ?」
問いかけたディヴィアンの前に、大男の影がおおいかぶさった。
「つべこべ言わずに出ろ。殺されたくなかったらな」
後ろで「すぐ殺すくせになあ」という笑い声があがる。どうやらこのあたりに最近出没する盗賊らしい。ディヴィアンは血の気が引いた。
「早くしろ」
大男はディヴィアンの首根っこをひっつかむと、無理矢理外に出して地面に放り投げた。他の客も同じようにして転がして並ばされる。
「荷物を出せ」
三人は慌てて手にしていた荷物を差し出した。闇になれてきたディヴィアンの目が、盗賊の数を確認する。影は全部で四つ。その近くにふたつの影が倒れていた。御者と用心棒だろう。まったく動かないふたつの塊に恐怖が押しよせた。
盗賊頭らしい一番背の高い影が、ひときわ大きな声で仲間に告げた。
「よし、いいだろう。――全員、殺れ」
その声に反応して、三つの影が短剣らしきものを取り出す。
「ひいいいっ」
乗客らは哀れな悲鳴をあげた。
「助けてくれえっ」
「嫌だあっ」
暴れ始めた乗客を盗賊が押さえこむ。
「うるせえなあ。観念しろよ」
ディヴィアンも髪を掴まれて、喉をのけぞらされた。
青白い刃が目の前に迫り、――ああもうダメかと諦める。
そのとき、背後から「ウグァッ」と低い呻き声があがった。
次にドサリとものが倒れる音がして、ゴキッと鈍い音が響く。
「ひぎゃっ」
カエルを潰したような叫びに、乗客がやられたのかと思ったが、事態はそうではなく、盗賊頭が動いた。
「どうした?」
ディヴィアンを掴んでいた盗賊の手もゆるむ。瞬間、キン、と金属音がして男の手から短剣が弾け飛んだ。闇に目を見ひらくディヴィアンの前で、男が「ぐうっ」とうめき、へにゃりとくずおれる。
「おい! どうした!」
怒鳴る盗賊頭に答える声はない。うろたえる大男に近づく俊敏な影。刹那、大男が吹っ飛んだ。近くの木にぶつかり、「ぐえっ」と一言唸って、動かなくなる。
呆気に取られるディヴィアンとふたりの乗客の周囲から、不穏な殺気が消え去った。
「……え? 何?」
状況が全くつかめない三人の前に、ゆらりと別の影がひとつあらわれる。手には斧がさがり、そこからは血の匂いがした。
「ひ……っ」
新たな影が近づいてきて、三人はおののいて身をよせあった。震えあがる客らに、影は静かな声で言った。
「アン?」
それは、慣れ親しんだ同居人のものだった。
「……え?」
「ああよかった。アン、無事かい」
「ラ、ラケ……オ。お、お前なのか?」
「うん」
ラケオはディヴィアンの前にしゃがむと、両手で抱きしめてきた。
「よかった。間にあって」
ディヴィアンは呆然となった。
「ほ、本当に、お前、か?」
「そうだよ」
いつもと変わらぬ優しい声音に、へにゃりと腰が抜ける。
「……ああ……」
ディヴィアンは安堵から、ラケオの腕の中で気を失った。
***
四人はやはりこのあたりを荒らす盗賊だった。
ラケオはディヴィアンの身を心配して、帰宅予定日に、街道沿いにある馬車乗り場まで斧を手に迎えにきていたのだった。
「遠くから馬の悲鳴がかすかに聞こえたんだよ。それで急いで駆けてきた。月のない夜だったから嫌な予感がしてさ」
その予感が的中し、馬車は襲われた。盗賊団は四人とも重傷を負い、怪我の手あてもそこそこに領主のもとに連行された。そこで処分が下されるのだろう。
事件の諸々の処理が終わって、翌日ようやく自宅に帰ると、ディヴィアンは安心から急に恐怖がよみがえり震えがとまらなくなった。ラケオがくるのがもう少し遅かったら、自分はこの世にいなかった。その想像に感情が振り乱される。もう無事だったから怖れる必要はないのに、どうにも戦慄きがおさまらなかった。
「アン、大丈夫?」
ベッドに腰かけるディヴィアンの横にラケオがやってくる。返事もできずに身体を固くして黙りこんでいると、ラケオは痛ましげな目を向けてきた。
「怖かったんだね」
肩に手を回して、そっと抱きよせる。その温かさに泣きそうになった。
「……お前は怖くなかったのか」
ラケオの腕に力がこもる。
「怖かったさ。アンに何かあったらって思ったら、怖くてたまらなかった」
ディヴィアンは目をあげた。こちらを見つめる瞳には温かな黒色がたゆたっている。
「お前、いつの間にあんなに強く……」
四人の盗賊に怯むことなく戦いを挑んでいた姿を思い出す。
「夢中だったんだ。それだけだよ」
アン、アンと言って駆けてきた小さかった姿が脳裏によみがえった。あのときの子供が今はもう、こんなに逞しい大人になって自分を救いにきてくれた。
ディヴィアンの目に涙がにじむ。
「……助けてくれてありがとう」
礼を伝えれば、ラケオは少しはにかんで笑った。
その夜は久しぶりに、ディヴィアンのベッドでふたり一緒に眠った。どちらからともなく身をよせあって、そのままシーツに潜りこんだ。ラケオの体温が高ぶっていた気持ちを鎮めてくれる。両手で身体を抱かれれば、ゆりかごのような安心感を覚えた。
ラケオの匂い。夜露をためた早朝の草花に似た、若く甘い香り。それを深く吸いこんで、ディヴィアンはようやく眠りにつくことができたのだった。
***
翌朝、目覚めると隣にラケオはいなかった。どこへいったのかと、もぞもぞベッドを這い出て居間に移動したら、外から下着姿のラケオがやってきた。
「どこへいってたんだ?」
何気なくたずねると、なぜか目元をちょっと赤らめて、「井戸」と素っ気なく答える。
「朝から井戸で何を?」
「洗い物」
「そうか」
深く聞かれたくなさそうな顔で、自分の部屋に入ってしまったので、ディヴィアンはそれ以上たずねなかった。離れずにそばにいて欲しかったという気持ちがまだ残っていて、そのため少し落ち着かなかったが、まあ相手にしてみれば窮屈な寝床など早く出てしまいたかったのだろうと判断し、寝室に戻ると普段着に着がえた。
いつも通りに朝食をとって、おとといの事件のことなどを話す。
「気分はもう大丈夫?」
ラケオがパンをかじりながら聞いてきた。
「ああ。落ち着いたよ。悪い夢を見ているようだった」
「来月から、僕もついていこうか?」
「いや。その必要はない。領主が何かしらの対策を考えてくれるそうだから」
「そう」
ラケオは何か言いたそうな顔で、けれどディヴィアンの命令には黙って従った。
朝食が終われば、出張に使った荷物を片づけた。仕事場で鞄をあけて整理していると、それを手伝っていたラケオが、一枚の羊皮紙に目をとめた。
「これは何? アン」
紙には数名の女性の、名前や容姿の特徴などが記されていた。
「ああ。それは……」
事件の騒ぎで忘れていたが、今回の出張中に、王都の判定所で調べた情報だった。
「見合いをどうかと思ってだな」
出発前、ディヴィアンはラケオに対し不可解な感情を抱いて苦しめられていた。一緒にいればいるほど、ふいに苦しくなったり、引き取ったことを後悔したり、そうかと思えばもっと近づきたくなったりと、自分の気持ちなのに全く整理がつかなくて、そのせいで苛立ったり仕事で失敗したりしていたので、ラケオと距離を取ろうと決めたのだ。
ラケオも年ごろだ。そろそろ結婚を考えてもいい。王都の判定所は結婚の斡旋も行っている。寿命と年齢の近いもの同士、かけあわせて家庭を持たそうという国の政策だ。寿命が近ければ仲よく一緒に歳を取って、どちらか一方が残されて悲しい思いをしなくてもすむ。
「アンが見合いをするの?」
ラケオが大きな声を出す。ディヴィアンは驚いた。
「私ではない。お前だ」
「僕が? どうして急に」
「もう、そういうことを考えてもいいと思ったからだ」
ラケオはふいに、目つきを鋭くしてこちらを睨みつけてきた。今までみたこともない表情を向けられて、ディヴィアンは目を瞬かせた。
「結婚は……したくないのか?」
戸惑いつつたずねる。ラケオは羊皮紙をグシャリと握りつぶした。
「したくなんかない。考えたこともない」
「しかし」
男ならば、可愛い嫁は欲しいものだろう。ディヴィアン自身はそんなものはとうに諦めているが。
「だいたい、僕の寿命につりあう人なんていない」
「えっ」
今度はディヴィアンが大きな声をあげる番だった。
「お前、自分の寿命を知っているのか」
それに冷淡な瞳が向けられる。
「知ってる。ずっと前に知った」
「誰が教えた?」
「王都の判定所に連れていかれたとき、判定師のひとりが教えてくれた」
「……あのときか」
ラケオは何も言わなかったが、子供のころにはもう、自分の寿命がわかっていたのだ。
ディヴィアンは唇を震わせて俯いた。ラケオは知っていた。自分の命の期限を。
もちろん隠し通せるはずはないとわかっていた。いつかは告げねばならないと覚悟は決めていて、けれど聞かれないのをいいことに先延ばしにしていた。成長の早さから本人にも予想はついていただろうが、明確な数値を口にするのは嫌だった。
「なぜそのことを私に言わなかった」
「アンが、話したくなさそうだったから」
「そうか」
ディヴィアンが床を凝視していると、頭上から静かな声がした。
「アン」
震える両腕に、そっと手が添えられる。
「どうしたのさ」
「……」
「僕が、自分の寿命を勝手に知っていたのが、気に入らないの?」
「違う」
そうではない。気に入らないのではなくて、悲しいのだ。どうしてか、とても悲しい。ラケオは知っていながら一言も口にせず、普通に暮らしてきた。そんな彼に自分は一体、どんな為になることをしてやれるのだろう。
「アン」
ラケオが心配そうに顔をのぞきこんできた。
「僕の寿命が短いことを、哀れんでいるの?」
ディヴィアンは、ハッと顔をあげた。するとすぐ近くに黒曜石の瞳があった。
「……」
違う、と否定したかったが言葉が出ない。寿命差別主義は唾棄すべき愚かな思考だが、ディヴィアンの中に哀れみがないとは言い切れなかった。
澄んだ目から逃げるようにまた俯く。黙りこんだディヴィアンにラケオがふっと息をはくように笑った。
「アン。僕は自分を不幸だと思ったことはないよ」
静かで優しい声だった。まるで小さな子供をあやすような。これまではずっと、ラケオのほうが年下で庇護すべき存在で、自分は頼られる養育者だったのに。今はラケオのほうが大人に感じる。
「そりゃ、他人に比べたら短い人生かも知れないけれど、不満に思ったことはないよ。天から与えられたものは変えることができないんだし、そういうもんだと思ってる」
「……」
「それよりも、アンと出会えたことのほうがずっと僕は嬉しいし、幸運だと思ってる。あなたが僕を引き取ってくれたから、僕の人生は信じられないほど幸せになった」
顔をあげると、ラケオは穏やかに笑っていた。
「初めて会ったときのことを覚えてる? あんなに薄汚くてやせっぽちな子供を、よく世話しようなんて気になったよね」
「……それは」
あのときは本当に迷惑としか感じていなくて、孤児院が再建したらすぐに返そうと思っていたのだが。けれどそんな過去は恥ずかしくて言葉にできなかった。
「ありがとう、アン」
ラケオがそっと身をよせてくる。やわらかく抱きしめられて胸がキュッと痛くなった。
「あなたに出会えたことが、何物にも代えがたい宝なんだ。それで充分すぎるほど僕の人生は豊かだよ」
「……」
自分がそれだけのものを与えてこられたとは到底思えなかったが、本人がそう言うのならきっとそれでよかったのだろう。
温かな体温に包まれながら、ディヴィアンは自分も満たされた気持ちになった。出張前はラケオを遠ざけたほうがいいだろうと考えていたが、これからも一緒に暮らしていきたいという思いが抑えられなくなる。
この青年と共に。同じように歳を取ることはできなくても――。
「ところで」
心地よく逞しい腕に身を任せていたら、突然口調を変えたラケオがディヴィアンを引き剥がした。
じっとこちらを見つめて、真剣な顔でたずねてくる。
「アンのほうは結婚するの?」
「えっ」
自分に話題が変わってビックリした。
「アンだってもうそういうことを考えていい年ごろだよね」
「いや。わ、私は」
女子と結婚など考えたこともない。
「結婚はしない」
「どうして」
「他人と一緒に暮らすなんてまっぴらごめんだからだ」
「けど僕とは暮らしてるじゃない」
「お前は別だ」
ラケオはちょっと目を見はった。
「どう別なの?」
「それは……」
何が別なのだろう。首を傾げて考えたが、よくわからなかった。ラケオ以外の人間と同じ屋根の下で暮らすなどあり得ないが、彼にはここにいて欲しいと願ってしまう。
「よく、わからないが、……多分、気を遣わなくてもいいからだろう。あと、いれば色々と便利だし、助けになるし」
なんとなく思いついた理由を並べれば、ラケオは呆れたような顔をした。
「そうなんだ」
「うん。話し相手としてもちょうどいいしな」
だから一緒にいても居心地がいいのだ。多分。
「まあそんなとこだろうと思ったけどね」
片頬だけあげて笑うと、ラケオはもう一度ディヴィアンに抱きついた。
「……こら」
「それでもいいよ。アンの役に立てるのなら、僕は幸せだ」
明るく笑って腕に力をこめるものだから、圧迫されたディヴィアンは息がつまって顔を熱くした。
***
闇夜の襲撃事件から数日がたった。
毎日は春風のように温かく爽やかにすぎている。
ほほえみ草の花が咲きほこる時期になれば、庭先にテーブルと椅子を出して一緒にお茶を飲んでくつろいだりもした。薄黄色の花は今年もさわさわと笑うように波打って揺れている。
「アンはほほえみ草のようだね」
幼かったラケオが、かつて言った台詞をまた繰り返す。
「どこがだ」
そして自分も同じような返事をした。短い黒髪に凜々しい眉の青年は、テーブルに組んだ腕をのせてこちらに身を乗り出して告げる。
「見てるだけで笑みが浮かぶよ」
瞳を細めて笑う仕草は、花よりもずっと魅惑的だ。ディヴィアンは心にわいた感情をごまかすようにそっぽを向いた。
「私は男だし、花にたとえられてもな」
気のない振りをして肩をすくめる。ラケオはそんな反応を眺めて仕方なさそうに微笑んだ。
花の命は短い。あっという間にほほえみ草の季節は終わり、丘一面を埋め尽くしていた薄黄色は姿を消していった。後には色を濃くした緑の葉が茂るばかり。すぐに夏がきて、暑く乾いた風が吹くようになった。
するとどういうわけか、ディヴィアンの身体の中にも熱い風が吹くようになった。気温があがるにつれて寝苦しい夜がやってきて、どうにも落ち着いて眠りにつくことができなくなる。
その日もベッドの中で何度も寝返りを打って、訪れる気配のない眠気に腹を立てたりして、うんざりしながら何時間もすごした。朝方ようやく少し眠れたかと思ったら、何だが得体の知れない夢を見て身体が異様に興奮し、ハッと目を覚ましたら、下半身に変化が訪れていた。
「……え」
下穿きの中がじっとりと濡れている。不快感に上がけをめくれば、足の間が粗相をしたように染みをつくっていた。
「……何だ」
漏らした感覚はない。だったらなぜと焦って、気がついた。
これはもしかして、精通というものではないのだろうか。男が年ごろなったらあらわれるという、あの現象では。自分は他の人間と比べて成長がゆるやかであるが、どうやらついにそういう歳になったらしい。
最初の精通は、いやらしい夢を見て迎えるものだと聞いたことがあるが、自分は一体どんな夢を見たのだろう。考えて、脳裏に浮かんだのは同居人の顔だった。
「……え」
まさかそんな。いやしかし……。
ディヴィアンはベッドの中で青くなった。
自分も彼も男である。なのにそんな夢を見るとはおかしいのではないのか。
けれどディヴィアンは考えた。自分はこの年になるまで女性に興味を覚えたことがない。恋をしたこともなかった。
「恋」
口からこぼれた言葉が、不意に全身を包みこむ。それは大きなうねりを伴ってディヴィアンの心を攪乱した。身体の芯が熱くなり、覚えていない夢の残骸が脳の中で暴れ出す。
「……」
脳みそが必死になってなくした夢のかけらを拾おうとする。そうすると浮かびあがってくるのは、黒い瞳と黒髪の青年だ。
「ラケオ」
心臓がドキンドキンと鼓動を早め、いたたまれないような、叫び出したいような、激しい情動に襲われた。
ディヴィアンはオロオロしながらベッドをおりた。とにかくこの状態を何とかしなければ。服を脱いで裸になり、着がえを出そうとしたところに、ノックのかるい音が響いた。
「アン、起きた? もう朝だよ」
ラケオの声だ。
「お、お、起きてる」
「ああそう。あのさ、朝食なんだけど、パンがなくて」
いつもの調子で、ラケオはガチャリとドアをあけた。入るな、と言う暇もなかった。普段ならディヴィアンだって別に気にもしなかっただろう。けれど今日はちがう。
部屋に入ってきたラケオは、全裸で脱いだ服を胸に抱きかかえ、心細げな顔で腰を引いているディヴィアンを見て目を剥いた。
「――あ、着がえてた?」
「あ、ああ」
お互い目を泳がせて会話する。裸の姿を見られるのはラケオが子供のころ以来かも知れない。
「えと、パンがないから、どしよかって」
「おお、そうか、それは困ったな」
自分の服から立ちのぼる匂いを隠そうと寝間着を丸めるが、そうすると下半身がモロ出しになってしまう。焦ったディヴィアンは手を滑らせて、下穿きを落としてしまった。
「あっ」
パサリと床に落ちた服を、ラケオが気を利かせて拾いあげる。
「ああ、これ、洗濯しとく――」
「触るなっ」
慌てて下穿きを奪い取ると、ラケオは呆気に取られた顔をした。
「どしたの?」
真っ赤になってうろたえるディヴィアンを不思議そうに眺めた後、自分の手のひらに視線を落とす。目を見ひらいてそこにあるものを凝視するので、ディヴィアンは彼の手に何が付着しているのかわかってしまった。
「……アン」
ラケオにばれてしまった。自分の放ったものを触らせてしまった。全身が羞恥の業火に焼かれる。
こちらに顔を向けたラケオが、クスリと笑った、気がした。まるで子供の粗相を許すかのような余裕の表情で、口の端をわずかに持ちあげる。
「……出ていけ」
その反応に、ディヴィアンはショックを受け、恐慌状態に陥った。
「出ていけっ、出てけ、すぐに、今すぐにっ、出てけ。もう戻ってくるな、二度と戻るなっ」
頭が真っ白になって何も考えられなくなる。
とにかくラケオに、ここにいて欲しくなかった。顔を見られたくなくて、相手の顔も見たくなくて、すべてグシャグシャに壊し、なかったことにしてしまいたかった。
「アン」
驚くラケオに罵声を浴びせ続ける。
「出てけ、出ていってくれッ」
声を振り絞って、怒りにまかせて、最後には涙目になって訴えれば、ラケオは戸惑いの表情を浮かべながらものろのろと部屋を出ていった。
姿が見えなくなってやっと一息つく。ハァハァ肩を上下させて床にへたりこんだ。
「…………」
すると今度は耐えきれないほどの恥辱に、胸が張り裂けそうになる。自分の犯した失態に、ディヴィアンは服を抱きしめて涙ぐんだ。
***
何時間そうしていただろう。ぼんやりと座りこんだまま肌寒さも感じずに、茫然自失の海に沈んでいたが、ふいに意識が浮上して顔をあげた。
「ラケオ」
ポツリと口にして、彼は今どこにいるのかと考えた。
ディヴィアンはゆっくりと立ちあがった。いつまでもこうしているわけにもいかない。洋服箪笥をあけて服を取り出し、もそもそと身につけた。ドアノブに手をかけ、この向こうに彼がいるかも知れないと思うと、死ぬまでここに引きこもっていたい気になる。
どうしよう。もう少しここにいようか。しかし自分はラケオにひどい言葉を投げつけてしまった。それだけでも謝らなければ。彼は何も悪いことをしていない。全部、自分のしでかした失敗のせいだ。
ディヴィアンは覚悟を決めてドアをあけると、居間に顔を出した。ラケオがいるかと思ったが、そこにはいなかった。仕事場か、それとも裏庭かと、恐る恐る家の中を探してみる。しかし、どこにも姿が見えなかった。
「……ラケオ」
どこかに出かけたのだろうか。そう言えばパンがないとか言っていた。ならば町のパン屋にでもいっているのか。だったらほとぼりが冷めたころに、帰ってくるかも知れない。
ディヴィアンは洗濯をして、仕事場の整理などをしながらラケオが戻ってくるのを待った。どうやって謝ろうか、あの失態をどう説明しようか、あんなことは初めてでだから焦ったのだとか言い訳じみた文句を考えながら待ったが、夕刻になってもラケオは戻ってこなかった。
「ラケオ」
ディヴィアンは家の前に出て、丘の周囲を歩いてみたりした。翳りゆく陽の光に、夏の草が緑濃く揺れている。やがて陽は沈み、星空の下でディヴィアンはひとりになった。
ラケオはどこにいったのだろう。なぜ帰ってこないのだろう。こんな時間になるのに。ディヴィアンがあまりに強く怒りすぎたため、消沈して町のどこかに滞在しているのか。
ディヴィアンはもう朝ほど興奮していなかった。怒りも恥ずかしさもおさまり、今は淋しさと心細さを感じている。
ラケオに早く戻ってきてもらいたい。姿を確認しないと落ち着かない。今なら素直に謝れる気がする。だから早く帰ってこい。祈るような思いでじっと丘の先を見つめる。しかし人がくる気配はない。ディヴィアンはため息をついて家に入った。
その夜はひどく心許ない気持ちでベッドに横になり、まんじりともせずに朝を迎えた。けれど翌日一日待っても、ラケオは帰宅しなかった。さすがに心配になったディヴィアンは町へ出かけた。留守の間にラケオが帰ってくればいいがと考えつつ、知りあいをたずねて回る。宿屋、パン屋、雑貨屋、いつもふたりでいく店を訪問し、ラケオがきていないかと聞く。しかし誰も知らないと言う。ディヴィアンはだんだん不安を覚え始めた。
ラケオはどこに消えたのか。何も持たないまま。家に帰っても、彼が戻ってきた様子はない。
「……ラケオ」
自分がしでかした間違いに、ディヴィアンはうろたえ始めた。なぜあんな風に当たり散らしてしまったのだろう。悪いのは全部自分だったのに。
ディヴィアンはラケオを探して、町の周囲を数日間さまよい歩いた。街道沿いの雑木林や、橋の下なども探索してみる。どこかで野宿でもしているのではないかと、狼や野犬のいる森にまで足を踏み入れた。しかしどこにもラケオの影はなかった。
「一体どこへいってしまったんだ」
もう五日になる。まさか町を出たのか。それともどこか谷や沢で命を落としでもしているのか。想像するだけでいても立ってもいられなくなり、目的地もないまま幽霊のようにおろおろと昼も夜もさまよい歩いた。
六日目は雨だった。けれどディヴィアンは構わず終日ラケオを探し回った。ざあざあ降る雨に打たれながら、寒さも感じずにただひとりの相手を求めて、もしかしてと思える場所を練り歩く。だが何の成果もなく、夜もふけたころ、ディヴィアンはとぼとぼと丘の斜面を失意の内にのぼっていった。
雨はまだやまない。視界は真っ暗で、丘の輪郭だけがぼんやりと見て取れる。絶望しながら進んでいると、家の近くの、草っ原に誰かがたたずんでいるのがわかった。背が高く、しっかりとした身体つきの、あの人物は――。
「……ラケオ」
ディヴィアンは急いでその影に走りよった。
「ラケオっ!」
声に応えて、影が振り返る。ああやっぱりラケオだ。やっと帰ってきてくれたのか。ディヴィアンが近くまでいけば、濡れそぼった相手はぼんやりとこちらを見返してきた。
「……アン」
暗闇でもよくわかる。ラケオは疲れてげっそりとした様子だった。目の下にはクマがあり髭もうっすら生えていた。
「……ラケオ」
帰ってきてくれたことが嬉しくて、どう声をかけていいのかよくわからない。雨がふたりの代わりにざあざあうるさくしゃべっていた。
「……今までどこに――」
小さな問いかけが途中で遮られる。
「さよならを言いにきたんだ」
「えっ」
思いがけない言葉に驚く。
「最後に、お世話になった挨拶だけはしていかないと、いけないと思って」
「な、なんで?」
目を剥くディヴィアンに、ラケオが暗い表情で続けた。
「今までありがとう。僕は町を出るよ」
「そんな、いきなり、どうして」
出ていくなんて言い出すんだ。震え声のディヴィアンにラケオが悲しそうな顔になった。
「だって、アンが、出ていけって言ったから」
「……え」
そうだったろうか。
「もう戻ってくるな、二度と戻るな、って言ったろ」
ディヴィアンは自分の記憶をたどった。たしかに、そんなことを口にしたかも知れない。けれどそれは、決して本心からではなかった。羞恥からただ勢いだけでそう言い放ってしまったのだ。
「アンがどうしてあんなに怒ったのか、僕にはよくわからないけれど、でもアンが出ていけと言ったら、僕はそうするしかない」
「……」
雨のせいでよく見えないが、ラケオの瞳は濡れているようだった。
「けど、黙って出ていくのは礼儀知らずだから、最後に、お別れだけしようと思って、引き返してきたんだ」
ラケオは唇をキュッと引き結ぶと、視線を落として小さく呟いた。
「今まで育ててくれてありがとう。一緒にいられて楽しかったよ」
「違うんだ!」
ディヴィアンはラケオの服を掴んだ。
「違う、違うんだ。あれは、そんなつもりの言葉じゃなかった。本心じゃない、ただ混乱してしまって、心にもないことを言ってしまったんだ」
「え」
「だから出ていかなくていい。出ていくな。ずっと、ここにいて欲しい」
ラケオがポカンとした顔になる。目も口も丸くして、こちらを見おろしてきた。
「出てかなくていいの?」
「ああ、そうだ。もちろん」
「……」
相手の顔に困惑がよぎる。
ディヴィアンが勝手に怒って当たり散らして追い出して、数日後に別れの挨拶をしにきてみれば今度は出ていかなくていい、ここにいて欲しいなどと言う。混乱するのも当然だった。
「……すまない。私が、言いすぎた。間違ったことを、してしまったんだ、きっと」
ラケオが考えこむ表情になる。ディヴィアンの言葉を信じていいのかどうか迷っている様子だ。
「と、とにかく、いったん、家に戻ろう。身体が冷え切ってる」
「うん」
ディヴィアンがラケオの袖を引っ張れば、相手は素直についてきた。
真っ暗な居間に入って、まず暖炉に火を熾す。ディヴィアンは手がかじかんでうまく火打ち石が扱えなかった。それをラケオが代わって、素早く薪に火をつける。炎が大きくなれば、それぞれ濡れた服を脱ぐ。お互い、裸の相手から目をそらして毛布にくるまった。パチパチと音を立てて燃える火にあたると、やっと人心地つく。身体が暖まると気持ちもゆるんでいった。
「アン」
横のラケオが先に口をひらいた。
「もう怒ってない?」
こちらをそっとうかがうように聞いてくる。
「うん」
ディヴィアンは素直な気持ちで答えた。
「アンは、何をあんなに怒っていたの?」
本当に怒りの理由がわかっていないようで、ディヴィアンはその純朴さに己の振る舞いを反省した。
「……それは、……その、つまり、…………恥ずかしかったからだ」
思い出すとまたいたたまれなくなり、ディヴィアンは毛布に顔を半分うずめた。
「恥ずかしかった?」
ラケオが首を傾げる。もしかしてラケオには経験がないのか。いや、それほど子供というわけではないだろう。ラケオはもう立派な大人だ。ではなぜ同じ男としてディヴィアンの恥ずかしさが理解できないのか。
ラケオは本気で不思議そうにしていた。黒い瞳は澄んでいる。ディヴィアンはチラとその目を見た後、仕方なく自分の心情を吐露した。
「……そうだ。あんなことになって、とても恥ずかしい思いをした。それでパニックになって、みっともない態度をお前に取ってしまったのだ」
ディヴィアンの告白に、ラケオはしばし口をとざし、それからおもむろに言い放った。
「それは、夢精が恥ずかしかったの?」
「えっ」
直截な疑問に全身が跳ねる。
「そ、そ、そんなはっきりと」
「ああ、そうなんだ」
ラケオはちょっと驚いた様子を見せた。
「あんなの、普通にみんな起きてることじゃない。誰だってなるよ」
「し、し、しかし、私は、初めてだったんだぞ」
「えっ。そうなの」
ラケオがさらに驚く。
「アンは僕よりずっと早く生まれていたのに。もしかして今ごろやっと精通したの?」
「はっきり言うな。む、むせいだの、せ、せぇつうだの、そういうことは」
ディヴィアンは顔が熱くなった。炎のせいだけではなかった。焦るディヴィアンに、ラケオが目を見ひらき、それから表情を和らげる。
「……アン」
とても優しげで、労り深い笑みを浮かべて名を呼ぶ。包容力あふれた男らしい微笑にディヴィアンはさらに顔を赤くした。
「……お前は、もしかして、そういうの経験ずみなのか」
横目でたずねる。
「うん。普通にね。ずっと前に」
「……そうか」
肩から落ちかかっていたディヴィアンの毛布を、ラケオがそっと引きあげてかけ直した。
「もしかしたら、僕、いつのまにか、アンの成長を越えちゃったのかな」
明るい言い方に、ディヴィアンは瞳を伏せた。
そうか、この青年はもう自分より大人になってしまったのか。
「アンは見た目よりずっと成長していないんだね。寿命はいくつなの? 生まれたのは何年前?」
「その話はするな」
寿命云々を、今は語りたくなかった。
「ごめん」
ラケオの指が、ディヴィアンの毛布から離れていく。
「僕は、あなたを困らせている?」
少し心細げな声音に、ディヴィアンは顔をあげた。
すると相手と視線が絡んだ。ラケオは微笑みを湛えたまま、悲しげな瞳でこちらを見つめていた。
「まさか。そんなことはない」
「じゃあ、僕のことを未だに手のかかる子供だと思ってる? 扶養する義務はとっくに終わってると思うけど、そばにいてもいいと言ってくれるのは優しさから? それとも同情?」
ディヴィアンはどうしていきなりそんなことを言い出すのかと困惑した。
「五日間、森の中にこもって考え続けたんだ。僕が、あなたのそばにいることを許されている理由は何なんだろうって」
「……許す理由?」
許すも許さないも、そんなつもりはない。ただ、いて欲しかったから、一緒に暮らしていただけだ。
「理由がなければ、そばにいてはいけないと思った。あなたの幸せのためにも。そうしないと、……つらいから」
ディヴィアンは何度も瞬きをした。
「許される理由がなければ、お前は私のそばにいるのがつらいのか」
「うん」
「なぜつらい」
ラケオの毛布に触れる。そっとうかがうように。けれど身体の中では未知の感情がわきはじめていた。答えを知りたい。自分の何が彼を苦しめるのか。それは未だ踏みこんだことのない、ラケオの心の領域だった。
こちらに顔を向けた相手の瞳に、暖炉の火が反射する。そのせいか光彩が燃えているように輝いていた。目をあわせたまま、ラケオは静かに、熱く語った。
「アンが、いつか誰かと寝るのなら、その相手を知りたくてたまらないから。たとえ僕の命が尽きた後でも、誰かと夜と共にすごすのなら、相手を知りたすぎるから、つらいんだ」
言い終わると、口元をゆがめるようにして笑う。詮ない望みをぶつけてしまい、自分の愚かさを笑っているように見えた。けれどディヴィアンはその表情に胸がつまった。
「私は、誰とも寝ない。寝たいとも思わない。絶対に」
お前以外とは。心の中で続きを告白する。口にする勇気はなかったから。
ラケオは大きく目を見ひらいた。予想外の言葉を聞いたという顔をする。
凜々しい表情を険しくして、グッと身をよせてきた。
「夢を見た相手は誰?」
「えっ?」
いきなり問われて裏返った声が出た。
「相手がいるから夢を見て、夢精したんだろ。そいつがアンの想う奴だ。誰とも寝たくないならそんな夢は見ない。じゃあ相手は誰だったんだ?」
「……」
それはいささか乱暴な理論ではないか。と思ったが同時に納得もした。確かに夢は見ていたから。そして相手は明らかに、疑いなく――想う相手に違いなかったから。
ラケオが両手で、ディヴィアンの手首を強く掴んできた。グッと引きよせられて、荒々しい仕草に心臓が高鳴る。
「アン」
端正な顔が間近にせまり、吐息が唇に触れた。体温のこもった微風が、胸を痛いほどこがす。
「相手は誰?」
視線の鋭さに、自分の中にある固くて融通の利かない壁が崩れ落ちていく。
好きな相手。それは――。
あふれる想いは自然と口からこぼれ出た。
「……お前だ」
言葉にして、答えを与えられる。
ラケオの黒い瞳が、ゆっくりと濃さを増した。嬉しいような哀しいような、複雑な笑みを浮かべたと思ったら、ディヴィアンを床に押し倒した。大きな両手が、ディヴィアンの頬を包みこむ。
「アン」
ささやきながらそっと唇に触れてくる。興奮に身体中の皮膚がピリピリした。
「……ラケオ」
出会ってから何度も言葉を交わし、食べる姿を眺め、笑ったりすねたりしゅんとしたりする様子を毎日のように見てきたけれど、キスをするには距離があった。その距離がなくなって、自分の口で相手の口を撫でると、もう会話は必要なく、全てが薄い皮膚を通じて伝わるようだった。
――ラケオが好きだ。誰よりも。
「あなたが好き」
そして相手も同じ気持ちでいる。
――ああ、そうか。そうだったのか。
ふたりして同じものを抱えて生きていた。
ラケオは毛布を剥ぎ取った。乱暴に放り投げて素肌を重ねあわせてくる。熱く乾いた感触に喉元がわななけば、キスは深くなった。喘ぐように口をあけると、相手も喘ぎながら舌を押しこんできた。
ディヴィアンは全身を震わせた。歓喜の嵐が襲ってきて、どうにも我慢ができなくなり、相手の短い髪を掴む。自分に引きよせるように引っ張り、自ら舌を絡めにいった。
性に対する知識や技巧があるわけではなかった。ただそうしたくてたまらなくて、身体が望むまま勝手気ままに振る舞った。それはラケオも同じで、手順も気遣う余裕もなく、どうにかしてくれと泣きたいほどの切なさを吐息に変えてお互いうごめいた。
ラケオの一番熱い部分が、ディヴィアンの充血した場所にすりあわされる。ごつごつとぶつかるゴムのような弾力に息があがった。
「あ、あ、あッ、ラケオ」
幹の下から何かがせりあがってくる。それは甘美で、やるせなくて気持ちよくて、死にそうに心地よかった。
「あ、どしよ」
「気持ちいい?」
「う、あ、あ、いいっ」
「達って」
「え、は、ぁ……ッ」
きつい快感が、身体中の神経を逆撫でする。肌がピリピリ痛んだ。やがて我慢ができなくなって、渦に呑まれるように快楽の頂に放り出される。目をとじると瞼の裏に星が見えた。チカチカ瞬く光と共に、ディヴィアンは際を越えた。
「あ、あ、ァ……ああっ、あ、はぁ、……ッ」
短い喘ぎを間断なくもらしながら、ラケオにすがりついて下腹を濡らす。
「僕のアン」
みっともなく顔をゆがめるディヴィアンに、ラケオが何度もキスをする。そうしながら筋肉の張った逞しい腰を強く揺らした。
「アン、ああ、アン」
何かに必死に祈るような声をあげて、最後に性器をわななかせる。射精の瞬間、熱い雫がディヴィアンの腹に注がれた。
「……」
全身が余韻に痺れている。
それはとても心満たされる感覚で、ディヴィアンは思わず相手の首にすがりついて、一緒に満足のため息をついた。
***
「あなたのことを教えて」
ベッドの中でラケオが言う。
久しぶりに一緒の寝床で横になり、裸で身をよせあっていた。大の男ふたりにディヴィアンのベッドは狭すぎたけれど、お互い気にならないほど心地いい空間だった。
ディヴィアンは自分の頭を支えているのがラケオの腕だということがまだ信じられないでいた。
「私のことを?」
「うん。あなたのことが知りたい。どこで生まれて、今までどんな人生を送ってきたのか」
そう言えば、自分の過去はほとんど語ったことがなかった。
「別に大した話はないが」
そう前置きをして、記憶をたどってみる。一番初めの思い出は何だっただろうか。
「……私は、遠い国の小さな町で生まれた。両親は雑貨屋を営んでいて、私はひとりっ子だった。平和で穏やかな子供時代だったが、あるとき戦争が起こった。私たちは故郷を捨てて別の国に逃れることにした。その途中、難民らを乗せた荷車が、山を越えている最中に崖から落ちた」
そのときディヴィアンはまだ物心がついたばかりだった。
「荷車に乗っていた難民はほとんど死んでしまった。私の両親もだ。さいわい母に抱きかかえられていた私は軽傷だった。もうひとり、生き残った年老いた寿命判定師がいて、彼が私を助けてくれた。そうして私は、彼に育てられることになった」
老いた判定師は優しい人だった。彼は、ディヴィアンがこれからの長い人生を自分の力で生きていけるようにと、自分の持つ技術を伝授したのだった。
「老判定師と暮らしたのは数十年だったろうか。彼の寿命が尽きた後は、ひとりで判定の仕事をしながら、各地を移り住む生活をしてきた。ここにきたのもお前を引き取る一年前だ」
ラケオがこちらを向いた。
「どうして、ひとところに住まないの?」
ディヴィアンはチラとラケオを見て、それから天井に目を移した。
「同じ場所に長い間住むと、生きることに倦んでくるんだ。だから定期的に生活を変える」
そう言って目をとじる。ここのところラケオを探して歩き回っていたせいか疲労がたまっていた。それに加えて、先ほど思いがけない体力の消費をしたから会話が途切れると一気に眠気が襲ってくる。意識がすうっと落ちていく感じがした。
「じゃあ、海とか、高く連なる山脈とかも見たことあるの」
ラケオが話しかけてきたが、ディヴィアンはもう夢の中だった。――うん、と答えたどうかも定かではない。相手がどう答えたかも聞き取れなかった。
翌朝、目を覚ますと、ラケオがディヴィアンの手のひらを持ちあげて朝日にかざしていた。寝室にはひとつだけ小さな窓があり、そこからベッドに陽が落ちてきている。白く眩しい光は、ディヴィアンの肌をさらに白くしていた。
「……何してる」
寝起きのぼんやりとした瞳で、自分の手のひらと、それを掴む日に焼けた手を眺める。
「きれいな手だと思ってさ。見とれてた」
隣の男が答えた。
「とても美しくて複雑な血彩だ。僕は判定師じゃないからよくわからないけれど、こんな繊細で芸術的な模様は見たことがない」
そうしてディヴィアンの手をなでる。
「アン。教えて。あなたの寿命はどれくらいなの」
ディヴィアンは口元を皮肉に持ちあげた。
昨日の雨が嘘のように、今朝はよく晴れている。暖かないい一日になるだろう。今日からまたラケオと一緒に暮らすことができるのだ。嬉しくて、そして同じほどの哀しみが胸を満たした。
「私の師匠は、私の血彩を正確に読み取ることができなかった」
ラケオがディヴィアンの手をそっとおろした。ディヴィアンは自分の手を胸の上においた。
「じゃあ、生まれたのは何年前?」
「三百年ほど前。だから私の寿命は多分……千年、あるいはそれ以上と思われる」
「すごいね」
純粋に驚いた声をあげる。
「そんなに長く生きる人は他にいないんじゃないの」
ラケオの問いにディヴィアンはうすく笑った。
「私が判定してきた中には、ひとりもいなかったな」
「聞いたことないもんね。アンは特別な人なんだ」
「そう。特別に不幸なのさ」
ゆったりと微笑めば、ラケオが寝返りを打ってこちらに身体を向けた。
「不幸なの?」
ディヴィアンは目をとじた。
「皆、私をおいて去ってくから」
だから人と深く関わることを避けてきた。誰かを好きになったりもしなかった。ずっとひとりで生きていこうと決めていた。ラケオを知るまでは。
「長く生きれば、それだけ色々なことができて楽しいと思うけどな」
「そんなことはない」
大切な人がだんだんと歳をとり、老いて縮んで、やがて死んでいくのを見るのは並大抵の悲しさではない。ディヴィアンは師匠を看取ったときにそれを経験した。そして老いていく側も、いつまでも若さを保ったままの者に対し、深い断絶と憧憬を覚えるのだろう。死に怯える苦しみがひしひしと伝わってくるから、送る側もつらいのだ。
「アン」
ラケオがディヴィアンの長い髪を手で梳かす。この青年と、共に歳を重ねられたら。どんなによかっただろう。そう考える。できることならラケオがこの世界を去るとき、一緒に逝きたい。不意に泣きそうになり、ディヴィアンは顔をしかめた。
そんなディヴィアンにラケオは優しく語りかけた。
「長く生きる人の苦しさは僕にはよくわからないけれど、人が羨むほどなら、きっと価値があるんだよ」
ディヴィアンが目を向けると、そこには愛情に濡れた瞳があった。
長すぎる寿命に、価値とか意味とかを考えたことはない。自分の人生も、この青年が死ぬときに一緒に終わればいいと思う。できればそうしたかった。ひとつの棺桶に入れてもらって、一緒に永遠の眠りにつく。それは甘美な想像だった。
「ねえ、アン」
ラケオはディヴィアンの金髪を一房つまんで言った。
「あなたに、ひとつお願いがあるんだ」
涙がにじんだ眼差しで、何だ、と問う。それに相手は微笑んだ。
「僕はこの町で生まれて、ここ以外の場所を知らないだろ。きっと、この先も、別の土地を知らずに人生を終えるんだと思う」
「何だ? どこかに引っ越しでもしたいのか」
それとも旅行にでもいきたいのか。そう言えばラケオと遠出をしたことはない。
「ううん。違うよ。僕はここが気に入ってる。アンと出会って、毎年ほほえみ草をみながら暮らす生活が大好きなんだ。ここ以外の場所に住みたいとは思わない」
ディヴィアンは瞬きを繰り返して涙を引っこめ、ラケオと向きあった。
「けれど、本で見た他の場所に憧れもあるんだ。だから、僕がこの地からいなくなったら、アン、あなたが代わりに、色々な場所を見てきて欲しい」
「……」
「青い海や、高い山。熱い砂漠に、凍った大地。物語の本には空を飛ぶ船や、黄金や機械でできた街のことも書いてあった。そんな世界中の不思議な景色を見てきて欲しいよ。そしてそれを、いつか、どこか知らない場所で、僕と再会したときに教えて欲しいんだ」
ふいに鼻の奥がツンと痛くなった。
得体の知れない悲しみが腹の奥からせりあがり、ディヴィアンは息をとめた。
「お願い」
ラケオの眼差しは静かだった。月のない夜空のように。
「あなたの寿命が尽きるまで、世界の果てを見てきて」
そして金髪に口づける。
「空を飛ぶ船や、機械でできた街なんて、作り話にすぎないだろう……」
「それでもいい。見てきてよ」
涙がまだあふれてきた。とめようにもどうにもとまらなくて、優しい絶望に頬が濡れる。
それを誤魔化そうと、ディヴィアンは俯いて小さくうなずいた。
「……うん。わかった」
「ありがとう。アン。愛してる」
静かなささやきが、彼自身の安堵を伝えてくる。
絵空事のような願いはいかにもラケオらしくて、ディヴィアンは彼の腕の中で声を押し殺して泣いた。
***
ときおり自分の未来を考えて、ディヴィアンはひどく気が塞ぐことがあった。
そんなとき、ラケオはことさら快活に冗談を言って場を明るくしようとした。だから毎日は微笑みに満ちて、楽しさにあふれ、真冬も花が咲いているように暖かかった。
「ねえ、知ってる? 男同士は尻を使ってふしだらなことをするんだって」
客のいない昼間、仕事場で書類整理をするディヴィアンのかたわらでラケオは本を見ながら言った。ディヴィアンはいきなりの爆弾発言に顔を赤く爆発させた。
「な、な、何をいきなり」
「ここに書いてある。ほら。これ、僕らもできるんじゃない」
ラケオが本を差し出す。確かにそこには男同士の手順が記してあった。
「むう」
前の住人の置き土産の本には、こんなものも含まれていたのか。
「アン」
耳元でラケオがささやく。
「してみたい」
「…………」
窓の外では小鳥が可愛らしくさえずっていた。陽は高く、こんな時間からみだらな行為にふけるのには抵抗がある。
けれど、ディヴィアンは立ちあがると戸口までいき、看板を『休業中』に変えた。そうしてラケオの元に戻ると、大きな手を握る。
「しよう」
真っ赤な顔で誘いをかければ、ラケオは歯を見せて楽しそうに笑った。
ふたりでラケオのベッドになだれこみ、キスをして、服を脱がせあう。
ディヴィアンはラケオの裸体をしみじみと眺めた。
長い手足、なめらかな筋肉の筋、固そうな太もも、節だった指、短い黒髪、顎のライン、二重の眠たげな眼差し。
どれもこれも忘れないように記憶に刻みこむ。快楽が刹那で終わらないように。
ラケオの指が油をまとって身体の中に入ってくる。初めての感覚も忘れない。
「……あ」
「ああ、アン」
相手が甘やかな吐息をもらす。それも耳に覚えさせる。忘れない。
「挿れていい?」
ディヴィアンのそこはもう、ねっとりとほころんでいた。
「……早く」
でないと達ってしまう。頭が回るうちにラケオの射精を目に焼きつけておきたかった。初めての挿入。ラケオは背後から入ってきた。
「ん……ふ、ぁ……は……、ぁ……」
全身が快楽に震える。どうにかなりそうだ。
「……いい、すごく」
ラケオの声が嬉しげなので安心する。彼の獰猛で淋しがりな逸物は、救済を求めてディヴィアンの中で濡れた声をあげて鳴いた。それを受けとめて、ディヴィアンも心の中でひそかに泣いた。
幸せはきっとこういう形をしている。ほんの短い歓喜と充足。それが去ったときの空しさと諦めを含んで。
このまま消えてなくなりたいと、ディヴィアンは心底望んだ。
ラケオはしかし満足げに何度も儚い幸せを望んできた。昼も夜も、ふたりは狭いベッドで抱きあった。飽きもせず。同じ行為を繰り返し、いつも喉を渇かせた子供のように相手の口に吸いついた。
第5章 二十一年目
何度目の春だったかは覚えていない。
ラケオはあるとき、ディヴィアンにプレゼントをくれた。大きな琥珀のネックレスだった。
「この宝石は、できるまでにすごく長い時間がかかってるんだって。だからこれからも長い時間この姿を保つんじゃないかな」
アンの瞳と同じ色だからと、行商人から買い求めたらしい。笑うと目尻に小じわがよるようになった青年は、働き者で親切で気さくだったから町の人たちにも好かれた。ときおり家の修理や力仕事を頼まれて報酬を得ていたらしい。それをすべて注ぎこんで、ディヴィアンのためにプレゼントを用意したのだった。
濃い蜂蜜色の玉石は、ころんと丸くて、中に針のような模様がいくつか入っていた。
「……ありがとう」
自分は彼にあげられるものが何もないというのに。
ネックレスを胸に飾れば、ラケオは愛おしそうにこちらを見つめてきた。ディヴィアンよりずっと年上になった青年は、いつも変わらぬ眼差しで恋人を見守っている。
「……お前は」
手の中で琥珀を温めつつ、小さくたずねた。
「私なんかの、どこかそんなにいいんだ」
他人に好かれる要素がどこにあるのか自分では全然わからない。
「全部」
迷いなく答える。ディヴィアンにとっては不可解な問いも、ラケオにしてみればひどく簡単な質問だったらしい。
「初めてあったときから、なんてきれいな人なんだろうって、一目で恋に落ちた」
「…………」
「ずっと好きだった。あなたのそばにいたいと、ただそれだけを望んだ」
ディヴィアンの瞳に涙が浮かぶ。
「僕は幸せ者だ。願いが叶ったんだから」
涙はとめることができなかった。下まつげの小さな堤防はたやすく決壊し、ボロボロと水滴がこぼれてしまった。
「アン」
ラケオが困り顔をよせてくる。大きな両手でディヴィアンの頬をくるみ、親指で雫をぬぐった。
「うっ……」
こらえきれない感情があふれてとめられなくなる。
この青年を失いたくない。ずっと一緒にいたい。離れたくない。時がとまればいいのに。おいていかれたらその後はひとりで一体どうしたらいいのだろう。
怖くて淋しくて、心細くて、ディヴィアンはその場にしゃがみこんで泣き続けた。
「アン」
ラケオがディヴィアンの背中をさする。
「泣かないで。大丈夫。僕らはきっといつか、またどこかで再会できるよ」
「どうしてそんなことがわかるんだ」
「そんな気がするんだよ」
「気だけじゃないか」
「信じてるんだ」
言い聞かせるようにして、力強く断言する。
「…………」
ディヴィアンは泣くのをやめた。
いくら泣いたところで詮ないことなのだ。どうしたって運命は変えられない。この男は自分よりずっと早くこの世界を去る。
ならば信じるしかない。ラケオの、愛する人の言葉を。
「わかった。私も信じる」
「うん」
そうして、いつかの再会がふたりの合い言葉になった。
別にディヴィアンはそれを心から信じているわけではなかった。死んだ後どうなるのか、それは誰にもわからない。けれどわからないことが多少の慰めになった。
儚い約束は、淡くとも希望の形をしていたから。
***
ほほえみ草は、きちんと約束を守るように、毎年丘に春をもたらした。花が咲けば、庭にテーブルと椅子を持ち出して、薄黄色の花をながめながらお茶をするのがふたりの恒例行事となった。
穏やかな時間だった。風は爽やかに吹きそそぎ、陽光は柔らかく、鳥たちは姿を見せずにさんざめく。どこで鳴いているのかその姿を見つけるのは難しい。
ラケオは決まってディヴィアンの容姿を褒めた。花のように美しいと。
ささやかでも幸せな生活には目立った事件もなく、青年は壮年になり、人より早く年をとり、やがて立派な老人となった。
ラケオは努力した方だと思う。酒も飲まず、食事は適度にすませ、身体を鍛え、健康には人一倍気をつかった。
時をとめるすべはない。長生きするための薬も呪術も、子供だましの効果しかなかった。
ディヴィアンが判定した寿命は二十年。
けれど、彼は二十一歳まで生きた。
春を待つ雪どけのころ、今年のほほえみ草は無理かなあとつぶやいた白髪の男は、歳の割には艶のある手をディヴィアンに握られながら、地上での短い滞在を終えた。
「……ありがとう。幸せだったよ。アン」
微笑みを浮かべながら、掠れ声で伝える。
「愛してる。いつまでも」
恋しい人は、そうささやいて目をとじた。
ゆっくりと力の抜けていく指を、いつまでもきつく、きつく握りしめる。
ディヴィアンにできることはもう何もない。
「……あなたが、未来でもっと幸せになれますように」
誰よりも高貴で純粋な魂が、静かにこの世界から離れていく。
ラケオは最後まで、ディヴィアンの行く末を案じていた。
第6章 長い不在
葬儀は簡単に行われ、ラケオは町外れの教会に埋葬された。町中の人が参列し、その短すぎる一生を悼んだ。
葬儀の後、家にひとりで戻ったディヴィアンは、その日から何もできなくなった。食べることも寝ることも億劫になり、一日中、庭の椅子に座ってぼうっとすごすようになった。家の中には入りたくなかった。彼の残した思い出がそこかしこにあふれ、不在を明確に伝えてくるから。
共に死ねたら。どんなによかっただろう。今からでも追いかけようか。彼はどこで待っているだろう。
胸には琥珀のペンダントがかかっていた。それを握りしめ、どんな方法がいいだろうかと真剣に考えた。
――泣かないで。大丈夫。僕らはきっといつか、またどこかで再会できるから。
ある月もない闇夜に、ふと、若い男の声が聞こえた。
――お願い。あなたの寿命が尽きるまで、世界の果てを見てきて。そしてそれを再会したときに教えてよ。
優しい青年の、穏やかな笑顔がよみがえった。
「……そんなこと」
唇が震える。
「そんなことに、一体、何の意味があるんだ……」
会えるという確証もないというのに。
ディヴィアンはラケオが死んでから一度も泣けていなかった。身のうちはしんしんと冷えて、心は凍ったように固くなっていた。希望は消え、未来は永遠に暗黒だった。
けれどその中に、小さく淡いものが浮かびあがった。それは儚いくせに力強く、ディヴィアンの腕を掴んで引き起こそうとした。
「…………」
別に信じているわけではなかった。死後の世界は足を踏み入れた者にしかわからない。だが、もし万が一、どこか、ここではない場所で、彼にふたたび会えるのだとしたら。
「約束を守らなかったことを責められる」
ディヴィアンはゆっくりと立ちあがった。
大きくため息をついて、背を伸ばす。そして重い身体をひきずって家の中に入った。数日かけて荷物の整理をし、旅の支度を調えて、今まで世話になった礼を書きこんだ店じまいの看板を戸口に立てかけた。
春の盛り、ほほえみ草が丘を一面におおうころ、ディヴィアンは二十数年暮らした町を後にした。
大きな荷袋を背負い、坂をひとりでおりていく。行き先はまだ決めていなかった。
町を出て、乗合馬車の停留所に向かっていると、道の反対側から見覚えのある男が歩いてきた。
「やあ、お久しぶりです」
それは町の世話役だった。会うのは二十年ぶりか、男は少しだけ老けたように見えた。
「どこかにお出かけで」
「ちょっとそこまで」
「そうですか」
世話役は淋しげな笑みを浮かべた。
「ラケオは旅立ったそうですね」
「ええ。数日前に」
ディヴィアンは力ない声で答えた。
「結局、あの子の面倒を最後まで見てくださったのですね」
「ええ。まあ」
「よかった。きっとあの子は幸せだったでしょう」
男が安堵したようにつぶやく。ディヴィアンは瞳を伏せた。
「だといいのですが」
「もちろんそうでしょう。あなたのその顔を見ればよくわかります」
自分がどんな表情をしているのか、ディヴィアンにはよくわからなかった。
世話役は「では、また」と挨拶をして去っていく。
残されたディヴィアンは、自分がいつの間にか泣いていることに気がついた。
***
住んでいた国を出ると、まず最初に海を目指した。
大陸の端まで馬車と徒歩で移動し、広い砂浜にたどり着けば、広大でただまっすぐな水平線を目に焼きつけた。それから山に向かった。切り立った山脈が連なる国に旅をして、自分も登ってみた。次は大陸の内側にひたすら足を向け砂漠を横断した。北の果てにいって凍った森をその目で確かめて、オーロラの美しさに魅せられて思わず百年、極寒の地ですごしたりした。
数百年ぶりに人の多い街に戻ってみれば、そこでは蒸気機関車が走っていた。産業革命というものが起きたらしい。街の空は石炭の煙で灰色に染まっていた。科学が発達し電気や放射線が発見され機械人形が動いていた。驚きに目を見はりながら、四輪自動車が走り去るのを眺める。医学も進歩し新薬も開発されていたが、死者をよみがえらせる方法はまだ発明されていなかった。
ラケオが生き返らないのなら新しい技術にも興味はない。ディヴィアンはまた旅に出かけた。行く先々で判定をしながら糊口をしのぎ、まだ見ぬ地を目指す。星の降る夜、たったひとりでいるとこのまま死んでしまいたくなったが、彼との約束を思い出して踏みとどまった。
海を渡り、南国の島々をひとつ残らず踏破する。密林の奥に暮らす野人とも会話する。全ての地に足跡を残し、見たものを書き留める。数百年の間に琥珀のペンダントは何度も紐が切れ、そのたびに新しいものに変えたが、玉が輝きを失うことはなかった。
あるとき地平まで荒野が続く道を歩いていると、頭上に巨大な機械の鳥が飛んでいくのが見えた。ついこの前までは飛行船だったのにと考えていると、次に見たときは鋼の鳥は空の果てまで登っていった。人間は月にまで到達したという。しかしまだ死人を生き返らせる方法は発明されていなかった。賢者の石は幻のまま錬金術師は死に絶えた。
寿命判定の方法は機械化され、人の目で判定するということはもうなくなっていた。ディヴィアンは失業し、日雇いの仕事をこなしながら旅を続けた。どれくらいの年月がたったのかよくわからない。襤褸をまとい伸びすぎた髪を縛ることも忘れ命の終わりを待つ。早く愛する人に会いたかった。もうラケオの顔も曖昧だ。絶望も過ぎて自棄になったときに新しい恋人をつくろうと試みもしたが、結局彼以上に愛せる人は現れなかった。だからディヴィアンはずっと孤独だった。
人は火星にまで宇宙船を飛ばしたらしい。勇気ある者はそこに居を構え新たな生活を始めたという。遠い昔、ラケオが語った『空を飛ぶ船や、機械でできた街』は作り話ではなくなった。彼の言った世界の果てはもしかして宇宙の先かと、ディヴィアンは夜空に輝く星々を見ながら考えた。そこまではさすがに行けない。
しばらくして、ディヴィアンのもとに一通のしらせが届いた。それはディヴィアンが生まれた国からだった。祖国はまだ存在していたようだ。手紙には、長寿のディヴィアンを国宝として迎え入れたいと書かれていた。ぜひ長寿の秘密を解明し、人々の生命の発展のために協力して欲しいとある。ディヴィアンはそれを断った。興味がなかったからだ。ラケオがよみがえらなければどんな研究も関心がない。
ディヴィアンの知らないところで人類はどんどん活動範囲を広げ、あるとき海王星の近くで未知の生き物と接触した。その生き物と人間は戦争をしたり和平を結んだりして数百年をすごし、最終的に友人となった。彼らの技術は時間をかけて人間世界に浸透した。素晴らしく発達したものもあったが、死んだ人間を生き返らせる方法だけはなかった。どれだけ進化しても、死後の世界は解明されないままだ。ディヴィアンは失望し、まだ生きている自分自身を呪った。
星はいつも変わらず輝き続けている。人間国宝になって欲しいという知らせは定期的に届く。報酬は目玉が飛び出るほど高額だった。新たな生き物は『星人』と呼ばれ、最近では普通に町中を闊歩している。彼らは友好的で、奇抜な見た目で、発想が突飛で、面白い性格をしていた。
時間はとまらずに流れている。いつも同じ早さで。多分自分が死ぬまで。
世界の至るところを見て回るのも疲れたころ、ディヴィアンはある日、街角のベンチに腰かけていてひとりの星人と出会った。暇に任せて会話をしてみると、存外面白い話を聞かせてくれる。彼らの頭の中は常人には理解できないほど複雑怪奇で、意味不明で、希望に満ちていた。
それでも話が楽しかったディヴィアンは久しぶりに笑って、彼と別れた。
そうして、ひとりになると、ある決断をした。
第7章 永遠
かつて二十年ほど暮らした丘に戻るのは千年ぶりだろうか。丘にはもう、ほほえみ草は一本もなかった。道はすべて瀝青で平らにされて、空まで届きそうな鋼の塔が乱立していた。青い空は、建物の隙間からほんのちょっぴりしか見えていない。
丘の天辺と思われる場所に、古い集合住宅が建っていた。その一階の小部屋をディヴィアンは購入した。部屋の真ん中に、新品のベッドをひとつだけおく。
数百年ぶりに髪をきれいに整えて、服も新調する。それからベッドに横たわった。手の中には、星人に教えてもらった高価な機械がある。球のように丸くて、何やら複雑な文様が刻まれた不思議な物体だ。それを握って、ひとつ深呼吸をした。
「……」
ボールについた釦のひとつを押す。
すると、球体は電気能を放ち、部屋の中が真っ白く光った。あまりに明るく輝くので、ディヴィアンは目を瞑った。自分がどうなるのか全く予想がつかない。未知の機械はブルブル震えていまにも爆発しそうだった。
身体を強ばらせてそのときを待っていると、やがて身体がふっとかるくなって、魂が飛び出る感覚がきた。
ぐるぐる、ぐるぐる、意識が回る。そして、落ちていく。ぐるぐる、ぐるり――と。
酔いの感覚がなくなるまでしばらく待ってから、そうっと用心深く目をあけた。
光は消えていた。その代わりに、目の前には懐かしすぎる光景が広がっていた。
使い古したベッドにチェスト。
白い花瓶と、読みかけの本。
すすけた燭台に、そこに刻まれた模様。
記憶の底に忘れ去られていたものばかりだ。壁の小窓からは、明るい日が差しこんできている。
「……ああ」
ディヴィアンは昔の自分の部屋に立っていた。
ため息を漏らし、感動に打ち震える。涙が滲んで、胸が苦しくなり、倒れそうになった。
「本当に……」
全てそのままに、確かに存在している。
窓際によろうと歩き出したら、ドアがガチャリとあいた。そして人が入ってくる。
「――あれ? アン」
かるい調子の声音に、総身がわなないた。振り返れば、そこには、長年会いたくて、会いたくて、たまらなかった相手が立っていた。
「どうしたの? 出張にいったんじゃなかったの」
驚き顔の若いラケオは、ディヴィアンの姿に、目を大きく見ひらいた。
「何その奇抜な格好?」
「……ラケオ」
千年ぶりの邂逅に、伸ばした手が震える。本当に、本物の彼なのかと、よろよろとよろめきながら近づいていけば、ラケオは不審げな顔でじっとディヴィアンを見つめた後、伸ばした手を握って言った。
「……あなたは誰? アンなの?」
「そうだ。私だ。ディヴィアンだ。お前に会うために、未来からやってきたんだ」
「未来から?」
ラケオはまじまじとこちらを眺めた。頭の天辺から足の先まで観察して、信じられないという表情で問いかける。
「本当に? ――ああ、でもこの血彩はアンと同じだし、あなたはだいぶ歳をとって見える」
言われて、ディヴィアンは自分の容貌が急に恥ずかしくなった。
「そ、そんなに老けたか」
うろたえて身を引くと、手を引っ張られた。
「嘘みたいだ。けど、アンだね。その声は間違いなくアンだ。すごいよ、どうやってここに?」
「星人の技術を使って、時間を遡ったのだ」
「せいじん?」
ディヴィアンは手に持っていた不思議な球体を見せて、ラケオに説明した。千年の間に、世界がどのように変わったのかを手短に。
「じゃあ、あなたはそんなにも長い時間を生き抜いたんだ」
「お前との約束だったから」
「……そうなの」
ラケオが納得するようにうなずく。
「遠い未来から、時を越えて会いにきてくれたんだね……信じられない」
ラケオはディヴィアンの髪に口づけを落とした。それから大きな手で頬をくるんで、唇にもキスをした。ディヴィアンは嬉しくて照れくさくて、天にも昇る気持ちで顔を赤らめた。
長い長い不在の時間はあっという間に消え去り、ふたりだけの幸せなときが戻ってくる。ディヴィアンは愛しい相手に抱きついてその感触を確かめた。
ラケオ。ラケオ。ただひとりの自分の恋人。人生に一度だけの相手。
いつかの再会の約束は果たされた。彼の言ったとおりだった。嘘はなかった。
その夜、ディヴィアンは千年ぶりにラケオと一緒に寝床に入った。狭い木製のベッドに身をよせて、昔と同じように語りあい、ディヴィアンは自分が見てきた世界中のものを伝えた。
「じゃあ、空を飛ぶ船や、黄金や機械でできた街は、未来では本当に存在しているんだね」
「ああ」
「すごいよ、そんなに遠くまで旅をしたなんて」
「そうだ。語り尽くすには永遠の時間が必要なくらい。……だから、またここにきてもいいか」
そっとたずねると、ラケオが笑った。
「うん。いつでもきて。旅の話を聞かせて」
「若い私がいないときにな。会いたくないから」
同じ自分だが、ライバル心を持ってしまう。
「あなたに会ったことを、もうひとりのアンに話してもいい? 話したら未来に不都合が起こるかな」
「いや、それはない。星人の理論では、過去に戻るとその時点で、時間の流れがふたつに分岐するんだ。本流――つまり最初の時間の流れは時間遡行に汚染されない。私が過去に来ればそのつど、あらたな分岐が発生するだけなんだ」
「ふうん……。何だか難しいね」
「ついでに言うと、ここにいる私も、本体ではない。本体は千年後の世界で、小部屋のベッドで眠っている。意識だけが過去に飛ばされてきているんだ」
「そうなの?」
「肉体は運べないらしい。けれど星人の科学技術は優秀で、私の肉体までもがここにいるように振る舞うことはできるんだ」
「へえ」
ラケオはディヴィアンの身体に触れてきた。
「じゃあ、することはできるんだ?」
それにディヴィアンは慌てて言い足した。
「べ、別にしたくて、それだけが目的できたわけじゃないぞ」
「恋人はいたの? 未来に」
大きな手が意地悪な動きをする。
「いるものか。お前だけだ」
「千年もひとりで?」
「だって、お前が言ったから、いつかどこかできっと再会すると。そのときに浮気を疑われたら嫌だから。だから他の恋人なんか作ってない」
本当は作ろうとしたけれど、ラケオのことが好きすぎて作れなかったのだが。
「ふうん」
ラケオは信じているのかいないのか、それでも嬉しそうに微笑んだ。そうして手をディヴィアンの身体に這わせてきた。千年ぶりの触れあいに鼓動が早まる。
「けれど、未来の技術はすごいね。まるで魔法みたいだ。千年後の人は皆、こんな風に時間旅行ができるようになっているの?」
「いや。一般人はできない。時間遡行には莫大な金がかかるからな。規制も厳しいから、私も許可をもらうのに苦労した」
「お金はどうしたのさ?」
ラケオの手がとまって、心配げにたずねてきた。
「人間国宝になった。それで、長寿の研究に協力することにした。身体中調べられたり血を採られたり不愉快極まりないが、まあそれはしかたない」
「人間国宝に……」
驚き顔でディヴィアンを見てくる。
「すごいなあ、アンは」
「まあな。千年も生きていれば知識もたまる。歴史学者や言語学者など、各方面の学者に協力したりして、毎日それなりに忙しく暮らしている」
「……へぇ」
瞳に尊敬の色が浮かぶのを見て、ディヴィアンはいい気分になった。
「アンは国の宝物になったんだね」
「うむ」
自分はそんなものに全然なりたくなかったが、おかげでまたラケオに会えるようになったのだから長寿にも価値があったのだろう。
「そんなに忙しいのに、会いに来てくれてありがとう」
「うん」
会いたかった。ただそれだけで、生きてきた。
ラケオの手が、ふたたびディヴィアンの身体を撫でてくる。優しい感触に、幸せの涙がにじんだ。そっと身をよせてきた相手が、ディヴィアンの唇に触れる。ディヴィアンは自分から手を伸ばして、ラケオを抱きしめた。
大きくて逞しい身体。かつて何度も触れた相手に、また触ることができて、幸福感に息もできなくなる。
「……しても大丈夫?」
うかがうようにたずねてくる。
「うん」
して欲しかった。昔と同じように。愛する人をふたたび手に入れることができたという実感が欲しい。
ラケオは微笑みながらキスをしてきた。以前と変わらない力強い動きで。全身が歓喜に震える。下肢が千年ぶりに疼き、腹の奥が刺激を求めて蠕動した。
「――ああ」
お互い服を脱ぎ捨て、裸で相手をまさぐりあう。興奮で皮膚があっという間に粟立った。気持ちがよくて、よくて、よすぎて、それだけで心臓が痛いほど軋んだ。
ラケオはゆっくり、気遣うように中に挿入ってきた。ほとんど初めてのように行為を忘れ去っていた秘所を、やわらかくゆるめ、固く反り立った自身を咥えさせた。
「……ふ……ぁ……」
忘れていた強い快感がよみがえる。とじていた粘膜がひらかれ、ゾロリとこすられて脳天まで電撃が突き抜けた。
「ああ……いぃ……」
「僕もだ」
身体がラケオのやり方を思い出す。彼は最初は眠りに落ちていく子猫のようにゆっくり自身を前後させ、それからだんだんリズムを早め、最後は獲物をむさぼる猛獣のごとくディヴィアンの中を蹂躙するのだ。射精するときは抑え気味な呻きをあげて、達したあとは大きく脱力し、こちらと目をあわせて、少しだけ恥ずかしがるように笑う。ディヴィアンはその笑顔が好きだった。
全てが終われば、ディヴィアンを腕の中にすっぽりと抱きしめて、何度も触れるだけのキスをした。それも手順通りだった。
「愛してる、ラケオ」
満たされた想いで、黒い瞳に告白する。
「僕もだよ。アン」
いつまでも。この命が尽きるときまで。いや、その先も永遠に。
ラケオの指先がディヴィアンのまなじりに触れた。いつの間にか泣いていたようだった。優しい指に目をとじて身を任せる。
外では記憶そのままに、草花が夜風にさわさわと揺れている。
その響きは昔なつかしい子守歌のようだった。
第8章 常春
ディヴィアンは、金が貯まると時間遡行の許可を取ってはラケオの元を訪れた。
それは一年に一度ほどだったが、回数を重ねるごとに、ラケオにとって二度目、三度目の訪問となっていったようだった。
「アン、さっき帰ったばかりなのに、またきたの?」
久しぶりの時間旅行に、わくわくした気持ちで寝室から居間に出れば、テーブルに腰かけていたラケオに呆れられた。
「……またって、お前」
歓迎されていない言葉にショックを受ける。
「今、さよならしたばっかりじゃないか」
「けど、さっきの私と今の私は違うんだ」
ディヴィアンは反論した。
ラケオはこちらへやってくると、後ろから抱きしめた。
「ああそうだね。着ている服が違う」
消沈したディヴィアンを宥めるように耳元でささやく。
「ごめん。またきてくれて嬉しいよ」
「……」
「けど、さっきのアンが、僕のアレ全部持ってっちゃったから、今は空っぽなんだ」
「なっ……」
ディヴィアンは顔を熱くした。
「べ、別に、それだけが目的できてるわけじゃないぞ」
腕の中で身をよじると、相手は明るく笑った。
「うん。わかってる」
「顔が見られれば、それでいいんだ」
「うん」
向きあって、額同士をくっつける。
「……それに、私はもう歳だし、そんなに、しなくっても、構わないんだ」
ディヴィアンは歳をとった。金髪には艶がなくなり、目や口のきわには皺もできている。壮年時代は去り、老境に入りつつあった。
「あなたはいつきてもきれいだよ」
ラケオがディヴィアンの口元にキスをしたので、ディヴィアンはさらに顔を熱くした。
「そうだ。今日は外でお茶をしない? ほほえみ草が花を咲かせているんだよ」
「もう咲いたのか」
「うん。晴れて天気もいい。テーブルと椅子を庭に出そう」
ラケオの提案で、庭先でお茶の時間をとることにした。遠い昔使っていた自分用のカップに、茶をそそぎ砂糖菓子を皿に盛る。ふたりで晴天の下、のんびりとほほえみ草の花を眺めた。
「いつきてもここは変わらないな」
まるで永遠の花園だ。
「僕にとっては日常風景だけれど。アンには違うの?」
「ああ。千年後には、この丘に草花はひとつもない」
「本当に? それは残念だね」
常春の光景と若さあふれる恋人の姿に、ディヴィアンはふと不安になった。ラケオはいつまでも歳をとらずにここで生きているが、自分はどうだ。来訪するたびに老いて醜くなる。若い恋人はいつまで飽きずに会ってくれるだろう?
けれど同時に思い出した。自分だって老いていくラケオを愛したではないか。その時々の飾らぬ姿を愛おしんで、ふたりで積み重ねた年月と共に慈しんだ。
「命の尽きる最後のときまで、お前に会いにきてもいいか」
「うん。いつでも会いにきて。待ってるよ」
何度でも。小さな花が咲くこの丘に。
ディヴィアンは淡い黄色におおわれた大地を見渡した。
風は温かく、水色の空はどこまでも透明に澄んでいる。一面の花畑には、光の加減で遠く霞がかかっていた。
淡くおぼろなその中に、ふと、小さな影が浮かんだ気がして目を細める。ゆらゆらゆれる幻影は、幼いころのラケオだろうか。視力が落ちた瞳には定かではなかったが、あのちょこんと丸い背中は確かに見覚えがある。なぜあそこにと思いながら、しかしこの常春の場所でなら、あの子に会えるのも不思議ではないと感じた。
「そうか、ここがこの世の果てか」
ディヴィアンは呟いた。
幼子が立ちあがり、こちらに笑いかける。手にはつんだばかりの花束があった。
――おはな、きれいだから。アンもうれしいかなって。
可愛い声音に、ディヴィアンは微笑んだ。
この時間がとまった場所で、自分だけが歳を重ねていく。くるたびに生と死を知り、やがて訪れる命の終わりを実感できる。そして誰にもおいていかれないですむ。もしかしてこれは自分が望んだ一番の願いではなかっただろうか。それに気づけば、今まで感じたことのない充足感が身体を満たしていった。
次の旅行は、自分と同じ年ごろになったラケオに会いにいこう。ふたりこうやって並んで、千年前にはできなかった話をしよう。愛について。生きていくことについて。老いについての諸々を。
「何を考えてるの? アン」
ラケオが茶を飲みながらたずねてくる。ディヴィアンは幻影の消えた先を見つめて答えた。
「共に生きることの、幸せを」
隣の男に目を移して、泣きそうに幸せな気持ちで続ける。
「いい人生だ。お前のおかげで」
「それは僕の台詞だよ」
ラケオは永遠に変わらない魅力的な表情を浮かべて笑った。
さわやかな風が丘を駆け抜けて、彼の笑い声を攫っていく。
やわらかな陽光が周囲を包みこむ。
ほほえみ草はふたりを見守るように、――ゆらゆら、ゆらゆらと、金色に輝く花弁を、いつまでも夢のように揺らしている。
【終】
