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ハピエン小説部門 選考通過作品 『グラフィックラブ』

2025/11/07 16:00

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『グラフィックラブ』作:桜餅熊太郎

 

 

あらすじ
鬱々とした日々を送る俊介は、真夏の暑さの中でコンビニのアイスを片手に歩き、ふと辿り着いた自殺名所の橋で死を考える。川の音に心を委ね、靴を脱ぎ淵に腰をかけたその瞬間、見知らぬ青年が慌てて声をかけてきた。彼と話をすると、意外な事実が明らかに。
大学の使われなくなった旧校舎での「落書き」により、二人の距離が縮まっていく。まるで落書きのように偶然で不器用な出会いが、彼らを恋に引き寄せていく。

 
 

  グラフィックラブ

 「落書きは非公式なコミュニケーションの形態であり、匿名性や偶然性を伴いながら、限られた空間で相手に思いを伝える表現手段でもある。」街中にあるあの落書きは、アートとも捉えられる。それを、グラフィックアートというらしい。

 どういうわけか、最近何をしてもやる気が起きない。眠るのもだるいし、起きるのもだるい。明日生きていたら上出来、ってくらいのレベルで僕は結構限界なのかもしれない。今思えば食欲はないし、なんなら睡眠欲も性欲もない。世間一般でいうところの鬱ってやつなんだろうか、とはなんとなく理解している。本当のことを言ってしまえば、もう生きることすらもちょっとばかし、だるくなっている。いや、ちょっとどころではないかもしれない。だって、今現在、僕の視界に見える世界は、綺麗な川と、靴を脱いだ僕の素足なんだから。

一時間前、ふらっと僕の住むボロアパートから、近くのコンンビニまで歩き、百五十円のアイスを買ってきた。あまりの暑さで、コンビニの自動ドアを出た瞬間からアイスが柔らかくなってきたので、咄嗟に袋を破き、バニラ味の塊に頬張りついた。アパートまで徒歩十分もある。僕はいつもの、微妙な近道ルートでアパートへ向かった。数歩歩いた先に、蝉の死骸が落ちていて、今日の気温の高さに気がついた。日差しが眩しすぎて、目を細めながら斜め前にある電光掲示板を見る。暑さで歪んで見える電光掲示板には、気温が三十七度と表示されていた。昔は三十度を超えたら大ニュースだったというのに、今となっては平気で人間の体温を超えてくる。ふざけた世の中になったものだ。こんな世界でよく僕ら人間は生きていけるな、とつくづく思うばかりである。死骸を眺めているうちに、セミの命の短さを羨ましく思った。彼らは地上に出てからたった一週間で力尽きてしまう。その間に子供を作るためにミンミンミンミンと、求愛をしているのだとかなんだとか。ヤリたいヤリたいとだけ叫ぶ一週間、彼らの地上の人生の儚さになんとも言えない気持ちになった。彼らにとっての一週間は、どれだけの短さなんだろうか。人生百年時代と言われるこの世界で、僕はまだあと約八十年も生きなきゃいけないのか。彼らみたいにミンミン言っているだけなら楽だろうが、この世界は、そうはいかない。叫んでいるだけでは、何にもできないクズとして扱われる。暑さのせいだろうか、正直最近は、生きる活力が全然ない。別に何か嫌なことがあるわけでもないけど、なんとなく、この人生がめんどくさくなっていた。きっとこのセミにはわからない気持ちだ。生きるのに必死なセミには、僕の気持ちはきっとわからない。きっと僕もこのセミの気持ちはわからないのだろう。気がづけば数分間セミと向き合っていた。まさかセミの死骸でこんなにも頭を使うとは思わなかった。Tシャツの背中が汗でびしょびしょになっていて、残りのアイスは棒から垂れ、左手に精子みたいにドロドロひっついていた。昨夜の自分の馬鹿馬鹿しい妄想を思い出す。さっきのセミのことを考えると、余計に虚しくなってきた。こんなにも死にたい気分なのに、どうして正反対なことばかり思い浮かんでしまうのだろうか。
生と死、正と死、性と死……。
暑さで頭の中がぐるぐると回っている。なんだか少し涼しいところに行きたくなった。涼しいと言っても、クーラーのような人工的な肌寒さではなく、地球の涼しさを感じたくなった。一旦心を落ち着かせたかった。僕はセミを起点に踵を返し、コンビニ側へ足を踏み出した。左手を拭くものなんて持っているわけもないので、僕はペロリとそれを舐めた。バニラの濃厚な甘さが、少し罪深い夏の味を感じさせた。
 この辺りはかなり田舎で、数歩歩けば緑が見える。なんなら歩かなくても視界には入っている。セミの死骸から数分歩いたところで、人気の全くない川に辿り着いた。気がついたら、自然に導かれるようにこの橋まで来てしまった。階新橋というらしい。昼間だから良いものの、街灯のない夜中に通れば、家にはきっと帰れないだろう。気温三十七度というのがまるで嘘のように、一瞬背筋が凍るような涼しさを感じた。川だから、ということにしておきたい。この階新橋は、自殺スポットとして有名らしい。周りに人もいない。川までの距離も遠く、川には大きな岩もあって塵になりやすいらしい。橋の柵も低く、すぐに飛び越えられる設計になっている。こりゃまあ、簡単に死ねるわけだ。もしかしたらさっきの寒気も、数年前のニュースで見た、飛び降り自殺の当事者だったのかもしれない。彼らも、もしかしたら僕の気持ちを分かって歓迎してくれたのかもしれない。
 初めは別にそんなつもりはなかった。ただ、少し人混みから避けて涼みたかっただけだった。だけどどうしてだろうか、暑さのせいか、寒さのせいか、頭がうまく回らない。体も思うように動かず、気づいたら靴を片足脱いでいた。
あれ、僕、もしかして事件起こそうと……。
気がついた時には両足脱いで、橋の淵に座っていた。下を見ると、大きな岩と、透き通った綺麗な川が見える。ピントを手前側に合わせれば、靴を脱いだ僕の脚が見える。川の流れは、昨日の雨の影響でかなり水量が増加しているせいか、ゴーゴーと激しい波が流れている。川の音は、どうしてこんなにも心を落ち着かせるんだろう。ミンミンと発情している彼らの声や、鳥の声、木々、葉の擦れる声が共鳴して、F分の一ゆらぎとやらが生まれているのだろうか。
きっとここで命を絶った先人たちは、この心地の良さに、身を任せてしまったのだろう。最後に聞ける音がこんなに美しい音色だなんて、幸せだったに違いない。僕も、このまま……。

「わっ!! あの! えっと……! タンマ! タンマタンマ……!」

 背後から慌てふためく大きな声が聞こえた。息切れが混じっているところから考えるに、きっとここまで走ってきたのだろう。急な大声に、僕ははっと目が覚めた。彼の声がなかったら、このまま自然の音楽に体を授けて、音楽の一部になるところだっただろう。僕も慌てて声の鳴る方へ体を捩り、顔を向けた。
「あ、あの、そこから、落ちたら、危ない、というか、えっと……!」
 動揺している男の姿が見えた。僕よりも少し高い身長で、髪色が明るく、チャラそうな風貌だった。なのに、このギャップである。まあ、仕方ないか、人が死のうとしている状況を見れば誰だってああなるだろう。人間って、誰かの命を助けるように設定されているのだろうか。人が死のうとしていると、こんな風になるんだな。まるで他人事のように、そう思った。
 「ええと、その、まだ、多分楽しいことあると思うし!あと、えっと、死んじゃったら、親に家のエロ本とか見られるし、色々隠してるの全部バレるから!まだ、一旦おりよ!」
 とんでもない説得だ。本当に死ぬ気の人間が聞いたらどう思うのだろうか。僕は、さっきの第一声で冷静になってしまったわけだから、彼の慌てっぷりが面白くなってしまった。
 「ぷはっ、いや、そうだよな。エロ本バレるのダルいな。」
 「え、そ、そうだよ! だから落ち着いて……。」 
 「ごめんごめん、大丈夫だから。心配させてごめん。いや、さっきまではマジで落ちるとこだったけど、お前の声でハッとした。一秒でも遅れてたら多分取り返しのつかないことになってた。ほんと、ありがと……。」
 本当にその通りで、タイミングが本当にコンマの単位でズレていたら、僕はもうこの世にいなかった気がする。そして彼に寒気を与える側になっていただろう。
 「そ、それは、良かった……。」
 川に落ちようとしていた人が急にこんな反応をしてきたら、それは動揺するだろう。僕だってそんな立場だったら頭が真っ白になりそうだ。僕は橋から降りて、靴を履き直した。それから、真っ直ぐと立ち直し、彼の方を向いた。さっきまでまともに彼の顔を見ていなかったが、よく見ると、誰にでもモテそうな整った顔立ちをしていた。目元の形が綺麗で、死ぬな、と言われたら、一瞬躊躇ってしまうような目の輝きをしている。瞳の奥に、強い思いが見えてくるような、純粋な眼差しだった。
 「ごめん、死のうとしたり、笑ったり生きようとしてたりで……。あんな橋にもたれかかってたら、やばいと思うよな。」
 「いや、ほんと、遠目に見て、誰かいるって思って、ここ自殺名所だし、目の前で死んじゃったら俺、どうにもできないし、ほんと、怖くて……。」
 そう言って彼はほっとため息をついた。きっと安心したのだろう。それと同時に木々の隙間から少し風が吹いた。セミの鳴き声も、相変わらず僕らの会話のBGMになっている。
 「そう言えば、さっきのエロ本の話、めっちゃ面白かったな。」
 「あ、あれは、ほんと動揺してて、なんて声かければいいか分からなくて、もう、咄嗟に出たのがあれだったから……。」
  咄嗟に出たのがエロ本なのが面白いのだが。きっと彼も自分が死ぬとなったらそれを恐れているのだろう、と少し思って笑いそうになって左手で口を押さえようとしたら、数時間前のバニラアイスのベトつきと、甘い香りが漂った。
 「本当に、大丈夫?その……。」
 「ああ、ごめん大丈夫。俺も別にそこまで本気で死にたかったとかじゃないから。ただなんとなく、この川の音が綺麗で、ここで消えてみようかな〜みたいな思っちゃっただけだから。」
 我ながらかなりダークなことを言ってしまったかもしれない、と後悔をした。うん、やはり少し引いている。そうだよな、死のうとしてた現場を見たんだもんな。申し訳ないことをした。多少の罪悪感はあったが、それよりも左ポケットの不快感に気を取られてしまった。
「あ……やべ、アイス……。」
あの時、アイスの棒と袋、ポケットに突っ込んだのである。無意識のうちにアイスのゴミをしまっていた。開封時にすでに溶けていたため、もちろん袋にはソフトクリームの白濁液がべったりと付いている。
「まじか……服べっちゃべちゃじゃん!あー僕のバカ……。」
 「はは、これ洗うのめんどくさいよね。今日暑いし、アイスいいなぁ。それ、何アイス?」
 心配でいっぱいだった彼の顔が、ふわっとほころんだ。綺麗な笑顔だった。
 「あー、これ、バニラスペシャル。 僕、このアイス一番好きで、家からコンビニちょっと遠いのに、歩いて買いに行っちゃうんだよね。しかも当たりくじつきとか今時珍しいし、これ昔っから好きでさ……。」
 ポケットのゴミを漁りながら彼に話していると、手がアイスでベタついていた。しかし、それどころではなかった。ゴミだと思っていたアイスの棒が、奇跡の棒になったのだ。
 「あれ?! あ!! 見て! これ、当たり!!」
 なかなか当たりが出にくいことで有名なバニラスペシャル。まさかの当たりに驚きが隠せない。ポケットの汚れなど、どうでも良くなるほどに嬉しかった。さっきの死にたいムーブが嘘みたいだ。もしこの橋から飛び降りていたら、このアイスの当たりにも気がつかないまま地獄に落ちていたのだろう。お化けになっていたとしても、当たりのアイスを貰いには行けなかった。」
 「そうだ!コンビニ行ってもう一本買おう! あ、そうだ、君にめちゃくちゃ迷惑かけたから、当たりアイス、あげるよ。」
 「え、いいの?せっかくの当たりなのに……。」
 「いいのいいの、だって、お前がいなかったらこれにも気付いて無いんだからさ。」
 「あ、ありがとう……。」
 そう言って僕らはコンビニの方向へ進み始めた。川の音色は、少しずつ小さく遠のいていった。セミの声は遠ざかってもなかなか耳から離れなかった。初対面はあまり得意ではないはずなのに、彼とは、なんだか昔から友達だったかのような気がする。
 「そういえば、なんでお前あそこ歩いてたの?人なんて全然いないし、自殺名所だし。」
 「あー俺、散歩好きでさ、あそこ、妙に涼しいから、よく通るんだよね。そしたら君がいたから。驚いちゃって。」
 あそこを散歩するやつもいるのか、でも確かに妙な涼しさはある。ある意味避暑地である。
 橋からだいぶ歩くと、さっきまでの空気が嘘みたいに僕たちは打ち解けて、彼も僕も笑顔で話していた。これが物語だったら、ギャップに読者はおどろきそうなものだ。
 「俺の知り合いにも、バニラスペシャル大好きな人いるんだよね。面白い人で、最近は連絡取ってないけど、今日暑いし、バニラスペシャル食べてそうだな。」
 「そうだな、こんな暑い日はこれ食べなきゃやってけないよ。僕も会ってみたいな。僕、これ好きな人と会ったことないから。」
 「そうなんだ!あー、でも、俺も実はその人と会ったことなくて……。」
 「あーネットとかの、友達ってことか。」
 「まあ、そんな感じかな?」
 「ネットでは、ないんだけど、面白い繋がりで……。」
 ネット以外でそんな繋がりなんてあるのか?文通とか、そういうやつなんだろうか?彼の言いにくそうな儚い表情を見て、仕方なく、僕は深掘りするのを諦めた。
 「あ、そう言えば、名前、聞いてなかった。名前、なんていうの?あ、僕は乃木俊介。」
 「え、ええと、俺は、佐々木麗音。綺麗の麗に音でれおん。」
  習字で書くのが大変そうな名前だな、と思った。だけど、綺麗な名前だ。名は体を表すっていうのは、こういうのを言うのか、と初めて納得した。
 そんな他愛もない自己紹介をしているうちに、あっという間にコンビニに到着した。コンビニの自動ドアを潜ると、お決まりの音楽が流れ、涼しい気分になったのに、なぜか、あつ〜い、と言ってしまう謎の現象が起きる。わざわざ商品も持たずにレジに並ぶのは少し度胸が必要だったが、バニラスペシャルのことなら何も怖くない。堂々とアイスの棒を持ち、レジに持っていくと、少々お待ちください、と新しいアイスを持ってきてくれた。初めから自分でアイスもレジに持って行けば良かったのか、という罪悪感と、アイスをゲットした高揚感で胸がいっぱいいっぱいだった。
 「はい、これバニラスペシャル。さっきはほんとありがと、まじで。」
 「いや、こっちこそアイスありがと、おいしそー、ありがたくいただきます……!」
 彼は、またもや日差しですぐに溶けてくるアイスを、舌で舐め取って、左手への付着を防いだ。夏の暑さと光が差して、なんだかとても堪能的に見えた。
 「わ、めっちゃおいし!」
 「だろ?どのバニラアイスよりも美味しい自信あるんだよね。」
 「なんか他のアイスとは味違う気がする……!」
 このバニラアイスは本当に他のアイスとはわけが違う。別に値段が高いわけでもないのに、どうしてこんなにも美味しいのだろう。
 「さっきの話なんだけど……。」
 彼がバニラアイスの最後の一口を頬に入れ、少し間を起き、ぼそっと口を開いた。まだセミはミンミンと鳴いている。彼の小さい声は、セミの声に、いや、もっと小さな虫の声にすらかき消されてしまいそうだった。だけども。僕は、そんな彼の呟きを聞き逃さなかった。
 「さっきの話?」
 「面白い繋がりの、友達のこと……。」
 まるで映画のように、彼が口を動かすと風が吹いてくる。僕らはコンビニ前の小さなベンチに座ったが、アスファルトから湧き上がってくる熱はまるでサウナみたいで、今すぐにでも僕らを焼き尽くそうとしているみたいだ。彼の横顔は、熱の陽炎でモナリザみたいに輪郭がぼやけている。
 「僕今、大学二年なんだけど、一年前、入学したばかりの時、って言うか今もそうなんだけど、友達がいなくて、やりたいこともなくて、大学に行って勉強してもなんだか頭に入ってこなくて……。昔からそうだったんだ。周りに馴染むの苦手で、集団行動できなくって、俺は多分、神様が作った失敗作だから。それで、本当に、この世界から消えてちゃいたい……って思ったんだ。それで、俊介と同じ、あの橋まで歩いて行ってみた。でもそこに行っても、怖くて死ねなくて、なんて意気地なしなやつなんだろう、死ぬことすらできないんか……。って、自分のことが本当に嫌になった。それからどんどん大学にも行けなくなって、もうなんか、全部嫌になってとりあえず、自分を変えたくて、髪でも明るくしてみようって思って、勝手な思いつきでこんなブリーチして金にしてさ。」
 彼の目元が赤く染まり、喉仏がきつく閉まっている。声が少し震え、一度の涙腺から垂れてきそうな水を飲み込んで言葉が詰まっていた。
 「なんとなく、大学の旧校舎?みたいなのがあるんだけど、もう使われてない場所でね。そこに行ってみたんだ。いくつか古い机があって……でも。」
 僕の大学にも、使われていない謎の校舎がある。なんならそもそも、この辺りに大学なんて一つしかない。話を聞く限り、こいつは僕の後輩の可能性がとんでもなく高い。大学がどこなのか聞きたいが、もう答えのわかっていることに彼の大事な一分一秒を使うのは勿体無いと思い、喉元まで出てきた言葉を飲み込んだ。
 「そこの、机に、面白い落書きがいくつかあってさ、恋人募集中、とか、よくわかんない携帯電話の番号とか、人生とは?みたいな哲学っぽいこととか、よく消えないな……って思ったけど、なんか、僕もそれに参加したくなってさ、勉強机に落書き、始めちゃったんだ。」
 僕は、この瞬間、心当たりが強く胸の中で騒いだ。鳥肌が急に奮い立った。僕は去年、二年の時、あの埃臭い旧校舎の勉強机でグラフィックを見た。

  死にたい。

 「そこに、僕、なんとなく文字書いてみたんだ。もしかしたら、みたいな願い込めて。それで、次の日もまた、その校舎に行って落書きを眺めてたんだ。そしたら……。」

 ああ、待ってくれ。それ以上言わないでくれ。
 僕は知っている。古びた旧校舎の香りも、あの机の落書きも、全部……。
そのバニラスペシャルは多分、僕だ。いや、絶対に僕だ。繋がってしまった。あ、そうか、いや、あの言葉、じゃあ……。僕は彼の続きの言葉を先に声に出した。

 「返信が書いてあった、と。『話聞こうか』って。」

 彼はベンチから落っこちそうになる程、体と共に驚いていた。こいつは、本当に感情豊かなやつだ。いや、今の状況は僕も負けてない気がするが、その名前を彼の口から聞いて、やっと、しっくり、頭で現実を理解した。

 「の、『のっく先輩』……?」

 「久しぶり、元気……してた?『ナシ』」

 一年前の五月、五月病の影響で大学行きのバスが空いていたため、行列のストレスなく大学に行くことができた。なんとなく、誰かと群れるのが苦手な僕は、入学当初にとある秘密の教室を見つけたのだ。僕の大学はまあまあ大きい敷地で、学部によっては全然使わない教室もある。探検がてら見つけたのが、今は使われていないらしき、古い建物だった。鍵は空いていて、中に入れた。中は掃除をしていないからか、すこし埃とカビの香りがする。でも静かでいい場所だった。大学の教室というより、高校や中学の教室みたいな、木でできた机や、黒板があった。どこか懐かしいような、そんな雰囲気の校舎だった。一階建てで、いくつか教室があったが、ほとんどがもう、汚れて使える状況ではなかった。しかし、その中でも一番奥、ちょうど窓から自然が見える5号室だけは、もちろん長年使われていないからもちろん汚いことには変わらないが、他に比べ、机も椅子も綺麗な状態で残っていて、一部屋だけ、違う空間のようだった。その日から急行者は僕の秘密基地になった。それからことあるごとに僕はその教室に行き、緑の見える窓際の席に座って本を読んだり、昼寝をしたりしていた。
僕は古びた教室のいつもの席で、ニーチェの哲学本を読んでいた。哲学が好き、というよりは、本が好きなだけだが、ゼミの教授に勧められて読んでみたら、なかなか面白い内容だったので、ここのところ毎日ここで読んでいる。最近は、繰り返される何もない毎日に、なんだか退屈さを感じていたため、この本は、少しの刺激になって丁度よかった。最近の僕の人生の喜びは、バニラスペシャルくらいだから。あれは言葉に表せないくらいに美味しい。頭が溶けそうになる。僕にとっては一種の麻薬みたいなものだ。もちろん五月だってあれを買いに行く。コンビニ限定商品のため、手に入れるには、アパートから少し歩いてコンビニに行くしかない。今日も帰りに寄っていこうか?そんなアイスのことばかり考えていたら、本の内容が頭に入っていなかった。昨夜、少し夜更かししたせいか、眠気が込み上げてきた。本を閉じ、机の左奥に置いた。僕は体を伸ばし、そのまま机に体を突っ伏した。このまま少し仮眠でもとろうか、と思ったその時、机の右角あたりに小さな落書きが書いてあるのが見えた。小さくシャーペンで書かれた文字は、今にも消えそうだった。古い机のあるあるだ。いろんな落書きが書かれている。やれ恋人募集だ、電話番号だ。しかし、いくつかある落書きの中でも、なぜか僕の目には、その小さな落書きだけが写り込んだ。

 「死 に た ぃ 。」

 死にたい。これを書いた人は、この小さな文字を伝えるのに、どれだけ大きな決意が必要だっただろう。小さな小さなこの文字には、そんな彼の生と死の間の感情すら感じさせる威力があった。僕は、寝るのをやめた。人生にある無数の選択肢の連続で世界が作られているのなら、僕の今の選択はきっと、僕という小さな生き物が、世界を動かす何かになる気がしたんだ。
 さて、僕の筆箱の中のシャーペンは、芯がもう入っていなかった。筆箱の奥底で黒く滲んでいるシャーペンの芯ケースを掻き分け出し、蓋の上からぽとり、と挿入する。カチカチと数回ペンを振り、出てきた芯を見つめた。これを書く行為はただの人生の刺激にしかならない。こんなものを書いたところで何も変わらない。これを書いた当の本人はもうこの世にいないかもしれないのに。この教室に来るのだって僕くらいしかいないのに。書いたところで何も変わりやしないだろう。馬鹿馬鹿しいが、少しの期待を胸に、僕はペン先を走らせてしまった。
 小さな薄い字で、誰にも見えないように僕は文字を書いてしまった。落書きだ。あれだけ小学生の頃、先生に落書きはするなと怒られてきたのに。それでも少し羨ましかった。古びた机に彫刻刀で刻まれた誰かの名前や心の叫び声が。油性ペンよりも砕けない魂の形がそこに描かれていることが、昔からどうしても、羨ましかた。こんなシャーペン一本の薄い言葉なんて、何処にも残らないだろうに。三限目のチャイムと同時に、僕は旧校舎を出た。
 また、あの机に座ってみよようか。何気ない日常に少しだけ色が着いたような気がした。明日からの日々が少しだけ、輝いて見えた。

 今日もまたくだらない大学生活が始まった。今日は二限から五限まで講義が詰め詰めだ。春に履修登録したやる気満々の僕に呆れながら、六号館の扉を開いた。もちろん今日もあの旧校舎に行く予定はある。だけど心の中で少しだけ、昨日のあの机がどうなっているのか、少し気になってしまった。普通に考えれば、僕の文字はあそこで途絶える。だけど、なぜ僕が少し期待を持っているかというと、あの落書きは、他の落書きに比べて、新しい文字に見えたからだ。ペンや彫刻刀で刻まれたメッセージと違うようなきがしたから。もしかしたら、僕みたいに人間が苦手な誰かが、あの教室に行っているのかもしれない。もしかしたら、その人はあれに返事を書くかもしれない。あんなちっぽけな落書きに、もちろん返信なんてこないのは知っている。だけれど、ほんの少し、その、小さな確率の「もしかしたら」を期待して、魔法みたいなことが起こるんじゃないかと、小さな期待を胸に抱きながら、耳を通り抜けるような教授の話を数時間聞き続けた。
 五限の授業が終わり、少しばかり日が落ちてきて、蒼い空と桃色の空が混ざり合って、幻想的な絵画のようになっていた。だが僕にとって、そんなこと今はどうでも良かった。五号館から旧校舎までの距離は近く、つまらない授業が終わった瞬間に荷物をまとめてバスの停車場と反対方向に向かっていった。この時間に大学に残っている人は、サークルか部活のある人で、この旧校舎の近くには、本当に人がいない。まるでこの世界に僕だけになったのではないかと思うくらいだ。みんな早く家に帰って寝たいのか友達と遊びたいのかバイトが忙しいのか、5限後のこの時間は、いつにも増して旧校舎は静寂に囲まれていた。僕はいつも通りニーチェの本を持ちながら奥の教室に向かった。さすがにこの時間帯は日が当たらず暗い。旧校舎に電気なんてあるのだろうか。薄い期待を込めて教室の手前にある電源ボタンを押すと、二箇所だけだったが、蛍光灯が光った。ちょうど僕のお気に入りのせきの前だ。僕はすぐに荷物をおろして椅子に腰掛けた。そして誰に見られているでもないのに、自分の目的がバレるのが恥ずかしく、寝るフリをしながら机の右奥をちらっと眺めてみた。
するとそこには、まさかの奇跡が起こっていたのだ。
落書きの続きが、描かれていた。とても小さな文字で、しかもとても短いたった五文字の文言だった。

 『ありがとう』

 僕は、胸の辺りがゾクゾクするのを感じた。高揚が抑えきれなかった。全身の産毛が逆立つような感覚だ。まさか、いや、0.1パーセントくらいの期待を頼りに、講義なんて耳に入らないくらいの勢いでここまで走ってきたが、まさかそのほんの小さな期待が叶ってしまったのだ。こんなことが現実にあるのか、誰かのイタズラかもしれない。いや、なんなら夢という可能性だってある。誰かに遊ばれているだけかもしれない。だけど僕にとっては、この五文字が、明日からの大学生活を充実させるためには十分だった。僕は急いで筆箱をカバンから取り出し、昨日芯を入れたばかりのシャープペンの先をカチカチと押し出し、机に向かって落書きをした。

 『君の名前は?』

 きっとこの大学の誰かなんだろう。一体誰なんだろう。スマホで簡単に知らない人と関われてしまう現代、こんな原始的で幻想的な関係はこの世にきっと僕らしかいない、そんな気がして、僕はなんだか家に帰る気分になれなかった。数十分机に向き合って、哲学の本を眺めながら、そんなちょっと厨二病みたいなキモいことを考えながら、自分で書いた落書きを指でなぞってみた。

今日も授業終わりに旧校舎に向かった。もちろん空きコマに行くのでも良かったが、僕はあの静かな放課後の旧校舎が好きで、全ての講義を受け終わってからあの部屋に向かうことにした。落書きの彼がいつ大学に来ているのかは分からない。SNSのように返信の連絡も既読の連絡も来ない。だから僕は、一分一秒でも早く彼の言葉が聴きたくて、毎日欠かさずこの机に向かうことにした。今日も机に向かったが、落書きはそのままだった。一番初めの落書きは少し消えかかっていたが、小さな落書きは、そのまま残っていた。それはそうだ。普通に考えてこの机で勉強する人はいない。この校舎にすら来ないだろう。だからもちろんこの落書きに触れる人もいない。僕と彼の世界を邪魔するようなグラフィックはひとつもなかった。明日もここへ来よう。そう思いながら哲学の本を数ページ読み進めてから教室を出た。

 木曜日、今日は朝から雨で、大学の人口密度も少し低かった。今日も授業を右耳から左耳に聞き流し、旧校舎へ向かった。いつも通り5号館の前を通り、あの教室へ向かう。椅子に座ることよりも先に僕は机の端に目をやった。そこにはまた、あの消えそうな小さな字が書かれていた。

 「俺のことは『ナシ』って呼んでよ。君のことはなんて呼べばいい?」

ナシ?なんだか秘密のやりとりみたいだ。こんな小学生みたいなことで喜んでしまっている僕もバカだが、なんだか子供心が戻ってきたみたいで、楽しくて仕方がなかった。

 「じゃあ僕は『のっく』。君は何年生なの?」

乃木の「の」でのっく、小さい頃呼ばれていたあだ名だ。お互いにコードネームみたいでワクワクする。また明日からも僕と彼の秘密のやりとりが始まるのかと思うと今日も眠れなそうだ。勝手に子供みたいに上機嫌になっているが、実際彼は「死にたい」と言っていたやつだ。僕はスーパーヒーローにでもなったつもりなのだろうか。彼の命を救おうとでもしているのだろうか。偽善で世界を救おうとでもしているのだろうか。こんなに勝手に彼との会話を喜んでいいのか?だけど僕には、彼の生に対する感情も彼の苦しい気持ちも何もかも関係なく、ただ、この会話が楽しくて仕方がなかったのだ。スーパーヒーローになる気なんてさらさらない。彼とただ、この机で落書きをし合えればそれで良かったのだ。自分勝手なことは分かっているが、どうしてもこの時間が僕にとっては必要だった。僕にとっての生きる希望のような気がした。

 それから、僕たちの会話は数日おきに続くようになった。多分ナシは、火曜日が全休なのだろう。水曜日の旧校舎では、僕はいつも哲学書を読むだけの暇つぶしになる。死にたいって言ったくらいだ。大学に来ているだけでも奇跡なんじゃないかと、そんなことさえ思うが、水曜と土曜以外は毎日返信があった。きっと彼も、僕と同じで、このためだけに大学に来ているのかもしれない。そんなことを勝手に思い上がりながら今日も大学へ向かう。毎日、毎日僕はあの古びた教室に通った。

「俺は一年 のっくは?」

「一年かぁ、僕は二年経済学部」

「先輩か!じゃあ『のっく先輩』だ 俺は社会学部」

「先輩はつけるのにタメ口なんだw 別に僕はいいけどw」

「あ、なんかごめんw そういえば、俺の落書き よく見つけたね」

「いやあ、なんか寝ようとしたら目に入っちゃってさ、暇つぶしに返事書いてみちゃったわけ」

「あんなキモい落書きに返信なんて 先輩も変わってるねw」

「キモくはないだろ、でも、僕の返信のおかげでお前生きてるんじゃん」

「うん ありがと なんか ほんと何もかも嫌になって そんな時に書いたから」

「そういう時ってあるよな、いやぁ、まじで奇跡、これ気づかなかったらお前死んでたかもじゃん」

「そうだね のっく先輩は命の恩人だよ ありがとう」

 命の恩人、僕なんかがそんなものになっていいのか。僕にとってはつまらない日常の暇つぶしだっていうのに、きっと彼にとってはこれが大きな転機だったのだろう。まあ、言ってしまえば僕も、この落書きがなかったら、去年と変わらない、充実感も何もないような生活を送るだけになっていただろうし、僕にとっても、この落書きは、人生の大きな転機になっていた。彼の「死にたい」なんていう気持ちと同じにしちゃあいけないのは分かるけど、やっぱり僕と彼は同じような気がした。僕の勝手な妄想だ。彼のことを見たこともないし、文字だけでの関係だけど、彼と僕は、少し似ているような気がした。

「恩人なんて、そんな、俺も暇つぶしに書いただけだから」

「でもその暇つぶしが俺を救ってくれたんだから」

「そりゃ良かったw 俺もこれのおかげで大学来るのめっちゃ楽しいw」

「俺も この前まで大学来れてなかったのに 今じゃほぼ毎日来てるw 授業はあんま行ってないいけどねw」

「単位大丈夫かよw」

「うーん 微妙? やばいかも でも単位なんてこの会話に比べれば小さいものだよ」

「そうか?w」

「うん この前海を見に行ったんだ そしたら、なんか俺の悩みなんてほんとちっさいなって思って、海と単位比べたら、自分がバカみたいでw」

「海かー、いいな、ここ海なし県だしな、僕も行きたいな…… 海と単位比べるのはどうかと思うけどw まあ、でも今が楽しけりゃ、それでいいような気はするよなw」

「うん 俺今めっちゃ楽しいw このためだけに大学来てるからw」

 あぁ、僕と同じなんだ。本当に彼もこの落書きのためだけに大学に来ているんだ。海なんてどうして行ったんだろう。もしかして、そのまま水平線と一緒に溶けようとでもしたんだろうか、一瞬余計な心配ばかりが頭を過ったが、だけど僕と彼の繋がるこの机では、その瞬間だけは、死なんて物騒な事は思い浮かばなかった。その瞬間が、楽しくて、楽しくて仕方がなかったのだ。

「そういえば最近暑くなってきたよな」

「アイスとか食べたいなぁ」

「僕、バニラスペシャルってアイスめっちゃくちゃ好きなんだよね、食べた事ある?」

「ないなぁ 帰りに買ってみる!」

 僕の大好物、バニラスペシャル、好きなものの話ができる友達なんて今まで一人でもいただろうか?こんなに心を打ち解け合えるような友達は初めてで、僕はいつもながら、胸を高鳴らせていた。そういえば、僕らの関係は友達でいいのだろうか?この関係に名前はあるのだろうか?いや、なんだか名前をつけたくないような気がした。僕らは友達でも先輩後輩の関係でもない、僕たちだけの関係なんだ、そんな独占欲を感じていた。

「バニラスペシャル美味しかった! あれって当たりくじ付きなんだね」

「そうなんだよ!なかなか当たらないんだけどねw」

 毎日毎日僕らは落書きを続けた。五号館から走って旧校舎へ。授業なんてどうでもいいくらいに僕らは毎日机の角で生きる楽しみを共有しあっていた。気がつけばバニラスペシャルの季節も終わり、世間はさつまいもやらカボチャやら、食欲だ、運動だと言うような声が聞こえるようになっていた。

「もう秋だね 先輩って好きな季節とかある?」

「えーやっぱ夏かな、バニラスペシャルあるしw」

「そっかw 俺は秋好きなんだよね」

「どして?」

「静かな感じが好き、落ち葉とか、紅葉とか、外眺めるの好きなんだよね」

「おー風流だ めっちゃいいじゃん! 俺絵描くの好きで 秋の風景の絵とか描くの特に好きなんだよね」

「え!すご、僕画力幼稚園に置いてきちゃったタイプだから羨ましい…… せっかく落書きなんだし、ちょっとなんか書いてみてよ」

 次の日、机の隅を見ると、可愛い狐の落書きがあった。僕はまた、なにかくだらなくて面白い事を思いついてしまった。きつね、きつね……、よし、これでいいか。

「ねぇ 先輩笑 これって猫であってる?w」

 まあ、予想通りの結果だ。幼稚園レベルの画力で全力で描いた猫、狐からの絵しりとりでも始めようと思ったが、僕には到底不可能だったらしい。ぐちゃぐちゃの不思議な生き物が出来上がった。でも猫だと分かってくれるレベルの画力で安心した。

「猫だね、やっぱダメだわ、僕画力無さすぎるw」

「可愛かったけどねw そうだ そういえば先輩って誕生日いつ?」

「十月十一日、ナシは?」

「俺は三月十四日 てか先輩そろそろじゃん! あ!俺プレゼント渡す!」

「え、どうやって…?」

「引き出し 入れてもいいかな? さすがに危ないかな? でも誰も来ないよねここ」

「お! その手があったか 多分誰も来ないでしょw」

「だねw じゃあ誕生日楽しみにしてて!」

 プレゼントなんてもらうのはいつぶりだろうか。中学生の頃までは親から何かしら貰っていたが、歳を重ねると共に、まだ大学生だっていうのに自分の年齢を忘れそうになる。最後に人にプレゼントなんてもらったのはいつだっただろうか。思い返しても思い出せず、哲学書を読み始めた。春はニーチェの本を読んでいたが、気がつけばたくさんの本を読んでいた。読み終えた本の数で、それほど月日が経っていることを気付かされた。

十月十一日の朝だ。小学生の頃は、起きたら親がクラッカーで部屋を彩ってくれたっけ。リビングに風船や折り紙のリングが飾られていて、夢を見ているような気持ちになったっけ。あの時はあれが夢みたいで、風船一つで笑顔になれた。気がつけば風船なんてただのゴムでしかなくなっていた。なんだかあの頃に戻りたくなった。ダラダラとベッドから起き上がり、自分の年齢がテレビに出ている芸能人やアイドル、SNSの人気者に近付いたり越したりしていることに気がつき、さらに憂鬱な気分になった。だけどやっぱりバスに乗ると思い出す。そうか、今日は僕の誕生日なんだと。授業なんてそっちのけで、僕は今日も旧校舎に向かうことばかりを考えていた。あの机の隅に、今日も僕の存在価値が生まれるんだ、そう思うと授業なんて水平線に沈んでいくような気持ちだった。期待を込めてチャイムと同時に五号館を抜け、旧校舎へ向かう。五号館のエスカレーターの中で、鏡の自分の顔を見て、ニヤつきが隠せていないことに気づき、少しばかり恥ずかしくなった。こんなことで小学生のように喜んでいるなんて馬鹿馬鹿しく思えてきた。だけど多分それでいいんだ。僕はそういうドキドキを求めていたんだ。机に向かい、まずはいつもの癖で右端を見つめてしまう。そこにはいつもより大きな文字で書かれたそれに、僕は人生の中で一番嬉しい気分になれたきがした。

「誕生日おめでとう!」

僕は荷物を床に放り置き、右手で引き出しの中に手をいれる。すると何かの感触がある。紙だ。少しだけざらざらしている厚い紙だった。紙を引き出しから出す瞬間、一瞬だが、なんだか時がゆっくり進んでいくような気分になった。紙を持ち上げ、裏返してみる。

 あ、これが、あいつの見てる世界なんだ。

 そこには、階新橋と森の絵が描かれていた。階新橋は家から徒歩数分で行ける距離にある橋だ。周りには木々がたくさん生えていて、自然豊かで穏やかな場所だ。秋になると紅葉が綺麗で、虫のなく声が鳴り響いて、落ち着くような場所だ。彼も、ここを知っているんだな。そりゃ、知っているよな。もしかしたら初めての会話の前に、ここに来ていたんじゃないか。そうだよな。
 その絵は、どうも僕の心の奥の下の方にずっしりとくるような絵だった。それと同時に、なんだか涙が出そうになるようで、嬉しくて、悲しくて、ドキドキするような。色使いだろうか、紅葉で黄色く染まった葉が繊細に描かれていて、色鉛筆と絵の具か何か、彼の性格が、全てが伝わってくるような筆の運びだった。彼の見ている世界と僕の見ている世界は、まるで同じようで、でも少し違って、川の音や風の音が聞こえてくるかのような絵だった。思わず僕は目を瞑った。瞼を下に下ろした瞬間、秋の音が聞こえてきた。聞こえるはずのない葉の擦れる音や、彼の心の声まで聞こえてきてしまいそうだった。音だけじゃない。あの自然の香りや風までも、五感で全て感じてしまいそうになった。ここは大学なのに。放課後の旧校舎が、この絵で一瞬で秋の夕暮れの森に変貌した。葉っぱは触れるだけで溶けてしまいそうなほどに繊細で脆く、空に浮かぶ雲は淡く、でもすこし濃くてはっきりしていて、どこか芯があるような雲だった。これが、彼の見ている世界なんだ。これが、彼の生きている世界なんだ。僕と同じようで違う世界に圧倒される。絵の上手下手の基準はどうやって決めるのだろうか。この絵はいわゆる世間一般的に上手な絵なんだろう。細密で、丁寧で、限りなく正解に近い絵だ。だけど現実ではない。これは彼の目に見えたこの森で、彼にしか見えない森で、音も香りも全てを感じさせられる絵だ。僕はこんな絵に出会ったことがなかった。心が、胸が高鳴った。この気持ちに同名前をつければいいのだろう。ニーチェに聞いても、答えは見つからなかった。

 「本当ありがとう、めちゃくちゃ上手いな!すごすぎる!家に飾るよ!」

 うまく言葉にできなかった。上手い、なんて語彙力のかけらもない一言で済ましたが、本当はもっと、直接会ってでも、この感情を全て伝えたかった。でも、そんな術も、機会も、可能性もきっとないだろうから、机右端のこの言葉に全てを込めた。
 家に帰ってもこの胸の高まりは治らなかった。とにかくまずはこの絵を飾ろうと、机の上を整理する。一人暮らしの机はぐっちゃぐちゃで、まるで泥棒に入られたかのように散らかっている。こんな部屋に彼の絵は見合わないだろう。まずは片付けでもしよう、そう思って一時間半、気持ちを紛らわす意味も込めながら机と床を片付けた。ペットボトルのゴミがたくさん出てきて、バニラスペシャルのハズレ棒も何本か出てきた。ゴミ袋いっぱいになったがらくたは、明日の朝、ゴミ捨て場に出しに行くつもりだ。引っ越ししたての頃みたいに綺麗になった俺の部屋の机に、彼からの誕生日プレゼントを立てかけて飾った。いつ見ても吸い込まれるように心が疼く絵だ。
 あぁ、だめかもしれない……。僕は最低だ。心が疼くどころではなくなりそうになった。僕は咄嗟に絵を机に伏せた。頭を冷やそうと、一度玄関を出て、外の空気を吸い込んだ。
 この感情には、やっぱり名前をつけてはいけないのかもしれない。

 次の日も、僕は躊躇いつつも旧校舎へ向かった。机の右上には、今日も新しい落書きが描かれていて、次の日も、また次の日も、いつもと同じ高揚感を抱きながら落書きを続けた。

「喜んでくれてよかった! あの風景 俺好きなんだよね」

「僕もあそこ、行ったことあるよ、家から近くて」

「え?!そうなんだ あそこ、自殺名所で有名なの知ってる?」

「あー有名だよね、知ってる」

「俺もさ 本当は初めてここに来た日 そこで失敗して帰ってきたとこだったんだよね」

 やっぱりそうなのか、という安堵感と、死に対する恐怖心、自分が救ったかもしれないという偽善に独占欲、それとほんの少しの不思議な感情が頭の中を混沌と濁していった。僕は、彼の何何だ。僕が勝手に舞い上がっているが、それで良いのだろうか。僕は、彼との机の文通で、時々こうして不安になる。でも、彼の小さくて明るい文字は、結局お互いに同じ気持ちなんだろうと思わせて終わってしまう。でも、あの誕生日以来、僕は自分の気持ちが彼よりもずっと先に、追いつかないところに勝手に先走ってしまっていることに気づきかけた。僕は、僕は本当にこのまま落書きを続けられるのだろうか。

「まじか、でも、失敗したからこの落書きできたんだし、良かったかもな」

「うん! 俺今めっちゃ楽しい! 単位は正直やばいけど のっく先輩とこうして話してる時間だけは 俺 生きてるなーって思えるんだよね」

「そりゃ嬉しいな 俺もナシとこうしてる時間が一番楽しい、そのために学校来てる」

「先輩は単位大丈夫なの?」

「僕は一応出席はしてるから……テストがやばいけど」

「先輩が先輩じゃなくなっちゃうかもね」

「お前が留年したら俺も先輩のままだから大丈夫笑」

 気がつけばもうそんな時期だった。後期試験の真っ最中だ。講義を聞き流していたせいか、テストが不安で仕方ない。それなのに、こうして毎日この教室に来てしまう。ついでにテスト勉強でもするか、と、今日は気付けば二時間ほど机に向かっていた。

 秋というのは、食欲、運動、またしては恋なんて馬鹿げたものまでも発展する季節らしい。なんとかの秋とでも名前をつければ、何にだってなるのだろうか。そんなことを考えながら机の右端を見ると、タイムリーな話題が目に入った。

「のっく先輩って 恋とかしたことある?」

 恋、か。これは僕の余談だが、少し聞いて欲しい。
 僕は中学生の頃、初恋をした。初めはその気持ちが何なのか分からず、永遠にスマホで検索して、僕の感情の答えを導き出した。僕とそいつは幼馴染で、小さい頃からよく一緒に遊んでいた。だからこそ、この関係を壊したくなくて、気持ちを伝える事を躊躇った。しかし、気持ちがあるという状況だけで、僕は彼と一緒にいることが気まずくなってしまった。恋をした時点で負け確だったのかもしれない。ある日、僕はそいつといつも通り家で遊んでいた。あの日は、どうしてか、神様のせいなのか、ちょうど家に僕ら以外誰もいなかった。あいつが勧めてきたんだ。
「な、これ、にいちゃんの部屋から盗んできた!」
 そう言ってやつは、右手に、おっぱいの大きい女の人がこちらを向いている表紙のディスクカバーを見せてきた。ディスクをセットし、動画が流れ始める。中学生の悪ノリにふさわしい時間帯だ。薄暗い部屋に、僕とあいつと、女の人の喘ぎ声が染み渡る。モザイクがかかっているものの、こんなにエロいものを僕は見たことがなかった。そして何よりも僕はそれを見て確信してしまった。こんなにも胸を上下に揺らして、声を荒げてよがる姿に、ちっとも何も感じられなかったのだ。それよりも、そんな穴に、はあはあと息を荒げながら入っていく姿に、興奮が抑えられなかった。ソファの隣に座る彼はきっと、あの大きな胸を見て、こうも僕の目に見えるくらいに大きく膨らんでいるというのに、僕はあの大きな体に包まれたいと、そして、それを見て顔を赤らめる彼が欲しいと思ってしまった。この世に神様がいるならば、どうか許してくれないか。あの時の僕は、頭が酔っていたんだろう。正常な判断なんてできなかった。あれだけ躊躇って言葉を、気持ちを隠していたというのにも関わらず、身体だけは正直だった。僕は彼に触れて、彼も酔っていたんだろうか、なんの戸惑いもなく、僕に触れてくれた。手を動かすだけで済ませなかった僕は、彼の唇すらも、言葉よりも何よりも先に、奪ってしまった。
 画面がメニューに戻った瞬間、僕らは夢から覚めた。全力で僕は謝って、同時に、自分の汚く幼い気持ちを伝えた。彼もお互いに悪かったと許してくれた。だけどそれ以来、僕らは会うことも話すこともなくなった。連絡先すらも知らないまま、今では大学生になってしまった。
 こんな汚い恋しか僕は知らなかった。それ以来、恋をするのが怖くなってしまっていた。自分の気持ちを誰かに伝えるのが、怖くて、怖くてしかたなかった。だからだろうか、高校でも大学でもほとんど友達なんてできなかった。だから今、こうして自分の好きなものや気持ちを語り合える相手がいることが奇跡のようだ。だけど、また、あの日のように傷つけてしまうのではないか、あの時のように、僕が裏切ってしまうのではないか、そう思うと怖くなって文字を書く手が震えそうになる。だって、もう、きっと僕は少し、彼を裏切り始めているのだから。

「そうだな、したことはあるよ」

「おー!そうなんだ!どんな人??」

「えー、そういうナシはどうなんだよ」

「わぁ質問に質問で返すとかズル……」

「答えたくないんですー、で?どうなん?」

「あー俺は別に好きな人とか できたことないからな……」

「まじかー話聞きたかったのにw」

「いや!先輩が答えればよかった話じゃん!」

「僕はそんな漫画みたいな幸せな恋とかしてないからさ」

「えーそれでもいいじゃん どんな人かだけでも」

「うーん……幼馴染?」

「わーー!漫画みたいじゃん!嘘つきだ!」

「いや別に、てか僕恋愛漫画なんて読んだことないから知らないって」

「まぁまぁ深掘りはしないでおこうw 先輩の恋人はバニラスペシャルってことでw」

「そういうことにしといてくれw まじこの会話見られてたらどうすんだよ、恥ずかしすぎる」

「大丈夫でしょ 誰も俺らのことなんて見てないって」

 やっぱりこいつも同じように思っていたんだろう。この机の右端は、僕たちだけの世界で、他の誰も邪魔することなんてない、そんな二人だけの世界なんだって。
 あれから家に帰ってもう一度あの絵を眺めてみた。やっぱりどうしてもあの絵には不思議な力がある。中学生のあの時、暗い部屋で脳が溶けて酔ったような感覚に近い。絶対に認めてはいけない何かを感じさせるような、そんな色と線が描かれている。会ったこともない、顔も知らないはずのナシの姿が見えるかのような絵、そんな素敵なものなのに、僕はどうして、こんなにも汚い感情を持ってしまうのだろうか。とっくに名前はついていた。僕の中ではわかっていた。知っていた。あの絵を見た瞬間から、いや、きっとその前からなんとなく分かってはいたんだろう。これは執着かなにかで、なにかの勘違いなのかもしれない、初めはそう思っていた。でも、日に日に会話を重ねるたびに、自分のこの気持ちに嘘をつくことが難しくなってしまった。僕は最低な人間だ。こんな感情殺してしまいたかった。それでも、この会話を途絶えたら、もしかしたら彼がこの世から消えてしまうのかもしれない、そう思うと逃げることはできなかった。この汚い思いは、まるで溶け切ったバニラスペシャルのようになって、美しいこの絵を汚してしまった。あぁ、やっぱり僕は、最低なんだな。滲んだ絵を見ながら、僕は喉仏まで登ってきた涙を飲み込んだ。

 こんな複雑な感情になるなら、あんな落書き始めなければよかった、なんて言って仕舞えば片付いてしまうが、彼と僕が出会えたのも、彼が文字越しでも笑って生きていけたのも、あの瞬間があったからで、そんな簡単な言葉で丸めてはいけない気がした。どうしていいのか分からない気持ちのまま、今日も教室に足を踏み入れた。いつもの部屋に入り、右上の文字を見る。

「ギリ! ギリギリ留年は避けられそう! 先生が言ってた!」

 さっきまでのモヤモヤが一気にすっと消えるような安堵感だった。こんなに人の幸せを喜べたことはいつぶりだろうか。ふわふわした気持ちに胸がいつものようにはずむ。もしかしたらこの思いは汚いものではないのかもしれない。柔らかくて、暖かいものなのかもしれない。

「よかった、安心したw 僕も大丈夫そう、ちゃんと三年になれそうだわ」

「よかったー 俺と同じ学年になるのも悪くなかったけどねw」

「まあ、それはそれで面白いかもだけどなw」

「でものっく先輩はのっく先輩だから、留年しても先輩だなー」

 やっぱり先輩は先輩なんだな。こいつは僕のことをどう思っているんだろうか。友達?先輩?僕は名前のない存在だった彼に、心の中で、自ら名前をつけてしまった。
 気がつけばもうそんな季節だ。後期ももう終わる。秋も冬もあっという間に終わってしまう。それがなんだか切なくて、少し怖くなった。

「なあ、ナシは、俺のこと、どういう存在って思ってる?」

 あぁ、聞いてしまった。恥ずかしくて、返信が怖くて、今日は本も読まずにすぐにバスに乗って帰宅した。きっと今の僕の顔は人には見せられないような赤面だろう。急いで部屋に入ってベッドに飛び乗った。恐怖だろうか、興奮だろうか、どうも寝付けず、スマホをスクロールしながら深夜まで時間を潰した。それでもやっぱり、スマホを見る時間よりも、あの机を見る時間のほうがどうも楽しくて仕方がない。こんな場面でも自分の醜さを知らされて、苦しくなる。気がつけば、アラームをかけずに寝落ちをしてしまっていた。目が覚めたのは朝の十時頃だ。今日は一限からだったが、もう間に合わないことが確定し、ゆっくりと準備をして大学へ向かった。今日ももちろん旧校舎へ行く。だけども心臓がうるさくて、行くのが怖かった。まるで告白の返事をまつ小学生の女子のようだ。胸の高揚が止まらない。ただの存在の確認だというのに、どうしてこうも胸が脈打つ音がうるさいのだろう。今日も授業は耳を抜け、いつもの放課後を迎えた。昨日から治らない赤面は、いつもの五号館のエスカレーターでも確認できてしまった。旧校舎へ行き、机の右端を見つめる。

「一番大切な ずっと一緒にいたい恩人かな
でも ずっとは無理かw だって先輩 卒業したら机で会話なんてできないもんねw」

 一番大切な、恩人、確かに前に命の恩人だって言われたことを思い出した。明るくて照れ臭いようなことをすらすらと文字に起こせる彼が羨ましかった。僕も、もっとちゃんと、自分の気持ちに向き合って、素直になりたかった。

「たしかに、この数年間だけの、特別な時間だな」

 今日は天気予報が外れて、午後から雨が降った。傘を忘れた僕は、今日の返事でも見て、旧校舎で雨宿りをしようと考えていた。今日はなんだか、五号館を階段で降りたい気分だった。最近運動をしていなかったせいか、鉄分不足か、少し体が重く、降りる階段なのに疲れてしまった。校舎に着くと、テスト帰りで荷物がほとんどなかったので、荷物を下ろす間もなく、机の右上を見つめた。

「先輩は、どう思ってるの?俺のこと」

 少しは予想をしていたが、予想外の回答に、一瞬頭が真っ白になりかけた。今日が雨だったのは、この時間潰しの為だったのだろうか。僕の心情描写をするならば、天気は曇りでよかったはずなのに、空気の読めない空は、僕に苦痛の時間を与えてきたみたいだ。
 どうって、どう思っているのかなんて、僕がどれだけ考えていたことか、文字なんて簡単に嘘が書けてしまう。でもそんな嘘で何かがひび割れるのが怖くて、逃げたくなくて。
僕は、正面から向き合うことを決めた。
SNSをブロックするような気持ちで、最後の最後に、まだ卒業でもなんでもないのに。今日で後期の授業が全部終わりで、明日から休みだってことも、全部神様が決めた僕らの定めだったのかもしれない、そう思って僕は僕に向き合った。シャー芯がカリカリと机を擦る音が、今日はどうも大きく聞こえる。周りが静かだからだろうか、それとも僕の筆圧が高いからなのだろうか。今思えばこんな落書き、よくあったな。昔、中学の頃、近所の図書館の机に、こんな落書きがあったっけ。もしかしたら、そいつも僕と同じ気持ちでそこに文字を刻んだのかな。書き終えた文字を見返すまでもなく、僕は個室部屋を出て行った。
帰りに、図書館でソクラテスの本を返却して、図書館を出た。少し名残惜しくて、いつも書いているシャーペンは、そのまま旧校舎のいつもの机上に置いて行った。もしかしたら彼が拾ってくれるかな、なんていう希望を抱いて。おまじないを信じる小学生女子みたいな気持ちで、図書館を出た。雨はまだ止んでいなかったらしい。僕の顔はずぶ濡れで、隠したい何かを、雨と一緒に外へ投げ出した。やっぱり僕の情景描写は、間違っていなかったみたいだ。空に謝りたい。

ごめんな

 あの日から、僕は哲学書なんて読まなくなった。あの教室で哲学書を読むのが日常になっていたせいで、なんだか日々の当たり前にぽっかりと穴が空いたみたいだった。所詮暇つぶしで、先生に勧められただけの本だったんだから、今辞めたところで別にどうってことはない。でも、多分また僕は、自分の気持ちで人を傷つけてしまったんだろう。それでも怖くて、僕はあの校舎に右足を一歩でも踏み入れることができなくなってしまった。それから冬を越して、春になり、なんとなくまた、人生の楽しみがなくなって、つまらない大学生活を始めた。そんな日々を過ごしていたら自然と、あの日心が踊らされたあの風景のもとへ出かけなくなってしまったのだ。

 そして、今、こうして現実がやってきたのだ。

 「元気に、してたよ、先輩のおかげで」

 「そりゃよかった……。」

 恥ずかしさと気まずさ、今すぐこの場から逃げ出したかった。バニラスペシャルの呪いか何かなのか、僕たちはどうしてこうも巡り合う運命にあるのだろうか。互いに当たり障りもない回答をした。きっと彼のことだ、本題に移るんだろうな。今すぐ逃げたい。穴があったら入りたいというのはこういうことを言うのだろうか。そんなことを言ってもこのコンビニ前のベンチに穴も何もない。さっきの橋の方にいれば川も穴もなんでもあっただろう。あぁ、やっぱりあの時あの橋の下にそのまま流されていれば……。目線をひょいと左隣に移すと、僕よりも身長の高い彼が、暑さのせいか僕のせいか下を向いている。何か口にだすのを躊躇っているような、夏の暑さに混ざった冷や汗が見える。でも、やっぱり彼は綺麗で、横から見ても整った顔つきだった。こいつが、あの絵を描いたのか。このアイスの棒を持ったこの手で、あの絵を描いたのか。僕はまた、あの時のような心臓の高まりを感じて、夏のせいだと言う言い訳と共に水を飲んで頭を冷やした。

 「あのさ、聞いてもいい?」
 「あー……やっぱそうだよね、ごめん、勝手に連絡途絶えて。」
 「うん、それもそうだけど……。」
 「いやぁ、でも生きててよかったわ、僕の連絡途絶えて生きる意味とか無くしちゃったらどうしようって思ってたから。」
 「それは先輩の方じゃん。俺はちゃんとやってけたよ。あのやりとりがあったから、前に進めるようになったんだって……。」

 そんな綺麗なことなんかじゃない。僕は初めから僕のためでしかなかった。人助けなんていう名の偽善で、自己満足で自分の人生を彩らせていただけだ。下心しかないような僕に、感謝されるような資格はない。

 「いや、僕なんて、ただ、暇つぶしにやってただけだし……。」
 「そんな事ないでしょ……。だって、ねえ、あれ、最後の。」

 頼むからそれ以上話さないでくれ。今でもまだ、この声を聞いているだけで何かが動き出しそうなのに、そんな自分が醜くて仕方がないんだ。謝っても謝りきれないから。

 「最後の言葉、僕、ほんとはすごく嬉しくて、でも、これで最後なんだろうなって思って。そんな気がして……、それからやっぱり会えなくて、もう会えないんだって、もうあの落書きが最後なんだって悟って、だから、ずっと本当は伝えたくて、先輩がのっく先輩だって分かった時、僕ほんと、どうしていいか分からなくて……。」

 あの日の最後の文字。最後のグラフィック、当たり前だ。今でもまだ覚えている。いや、忘れようとして記憶の下の方に埋めていたのが、一瞬で掘り起こされた。あれで最後のはずだったのに。

 「ねぇ、先輩、あの時の言葉……。」

 机の隅に小さく小さく書いたあの文字。

『好き』

 「はは笑、最低だよな、ごめん、僕が勝手なこと書いて勝手に終わらせて……。ごめん忘れて笑、あれはその、なんていうか……。」
 「忘れられるわけないじゃん!それに、のっく先輩は最低なんかじゃないんだって!」
 僕は居ても立っても居られなくなって、ベンチから立ちあがろうとしたが、かれの右手に引き止められた。僕は大人しくもう一度ベンチに腰掛けた。僕は今、どんな顔をしているんだろうか。あの日のエスカレーターの鏡で見たような顔だろうか。この顔の暑さは、きっと夏の暑さのせいだろう。きっと……。
 「ねえ、のっく先輩……、向き合おうよ、目、逸らしたまんまじゃ、また消えたくなっちゃうよ。俺もそうだったから。ずっと現実から逃げてばっかりだったから。あのね、俺の話になっちゃうけど、俺、にいちゃんがいて、にいちゃん美大行ってて、俺もにいちゃんみたいになりたくて頑張ったけど結局絵の才能がなくて、にいちゃんみたいにはなれなかった。誰にも賞賛されることもなかったし。それから、絵、描くのが怖くなって、ずっと描かないでいたんだ。だからあの日の誕生日プレゼントは、ほんとに久しぶりに描いた絵で……、評価されるのが、見られるのが怖くてずっと描いてなかったのに、先輩にだけは見せたいって思った。描きたいって思った。俺の絵を、俺の見てる景色を伝えたいって思えたんだ。だから、先輩が綺麗だて言ってくれて、俺、めっちゃ嬉しかった……。先輩のおかげなんだよ。のっく先輩のおかげで俺、もう一度自分に気付けて、自分に向き合えたんだ。だからさ、先輩も逃げないでよ。ちゃんと、話そ。」
 彼の目は少し赤らんでいた。きっと僕の顔の方が酷いだろうが。
でも、そうだったんだ。勝手な自己満足も、人を救うんだ。そうだった。今思えば、こいつは死のうとしてたやつだったんだ。あのはじめの文字をどうして思い出せなかったんだろう。こんな言葉を彼から聞く日が来るなんて思ってもいなかった。ばかみたいだ。自分が救った気になっていて、こいつに救われる日が来るとは。恥ずかしすぎる。前を向く彼の瞳と一瞬目があって、逃げたくなった。先輩で、人助けしといて、みっともなくて、恥ずかしい。あの絵、僕が勝手に欲情したあの絵にも、そんな過去があるなら、なおさら向き合えない。だけどだめだ、彼の目にはどうしても負けてしまった。
 「まって……、分かった、でも、一つ提案、筆箱、持ってる?」
 「え?」
 僕は彼の手を引いて、コンビニから徒歩三分ほどの場所にあるバス停まで歩く。回転式でたくさん流れてくるバスにはすぐに乗れた。今日は土曜だからか、バスの車内は空いていたが、座る場所を躊躇い、扉の近くに立って乗車した。七分で着く大学のバス停。そこから五号館の前を通り、いつもの道を歩く。あの日以来だ、こんなところに来るのは。哲学書を持っていた僕の左手には彼の腕がある。こんなにも人と関わらずに生きていた僕が他人の手を引くなんて考えられるだろうか。五号館の後ろへ周り、真っ直ぐ進む。一番奥の教室の扉に手をかけ、いつもの席に向かう。緑の見える、窓際の席。
 「ここ、久しぶりだね、先輩」
 「うん。僕もあの日以来、来てない、から。」
 「俺は何度か来たよ。もしかしたら会えるかも……なんて期待込めて。」
 「ごめん。」
 「謝んないでよ。」
 「シャーペン、持ってる?」
驚いたような顔をしたが、一瞬で、顔が綻んで、何かを察したようにこちらを向いた。
 「うん、はい、これ、先輩の分」
ナシは、僕の分のシャーペンまで机上に置いた。このシャーペンって……。驚く暇もなく、全てを悟った彼が言った。
 「じゃあ、はじめよっか、落書き」

 彼の左手には一本のシャーペンが握られている。知らなかった。アイスの時に気が付かなかったのか。綺麗な手だ。彼が文字を書く姿は、絵画みたいで、あの時、この図書室が紅葉に包まれたみたいに幻想的だった。カリカリと進むシャーペンの音は心地よくて、ここに人がいるんだ、ということを改めて感じさせられる。

『久しぶり、のっく先輩』

 えへっと笑ってみせる彼の顔は、やっぱり整っていて、窓から吹き抜ける風で少し靡く金色の髪が、光って見えた。昔は、金髪は知能の低いやつがやるんだろうな、なんて思っていたのがバカらしく思えてきた。僕も目の前のシャーペンを手に取り、静かな図書室に音を立てる。

『久しぶり』 

『俺 ずっと待ってたんだよ?』

『ごめん、勝手に終わらせて』

『まあ あれで終わりな気はしたけどねw』

 文字と同時に少しにやける彼の顔を直視するのが難しい。僕はずっと机の手前の方を見つめていた。本校舎から離れて少し涼しいこの教室では、もう、この顔の暑さを、夏のせいなんかにはできないことはわかっていた。

『なんて書けばいいか、めっちゃ悩んで、あれしか出てこなくて』

『悩んでくれたんだ。俺のほうこそ無理なこと言っちゃってごめん でも俺ものっく先輩のこと 大好きって思ってるよ』

『そうじゃなくて、僕は、最低で……、こんなふうに好きなんて思っちゃだめなのに』

『なんで?』

『君を、傷つけるかもしれないから、大事にしたかったから、初めてこんな相手に出会えたから、ずっとずっと暗闇にいるみたいだったのに、この机の片隅から奇跡が起きたみたいで、あの絵も綺麗だったのに、そんな君を、大切に、ずっと、一緒にいたかったから』

 スラスラとペン先が進んだ。心の声が漏れていくみたいに、うまく言葉がまとまらない、でも、この机の上では、きっと伝わっている、そんな気がする。書いていくうちに涙がこぼれ落ちそうになった。悲しいわけでもないのに、心が、ぎゅっと締め付けられるような気がした。

「先輩は、最低なんかじゃない。俺はちっとも傷ついてないし、むしろ、嬉しかった。あの時、あの文字を見て、あれで最後だって思った瞬間に俺も思ったんだ。俺も、ずっと先輩と同じだったんだって。」

 彼の言葉が、静かな図書館に響き渡る。

 「さっきも言ったじゃん、俺、のっく先輩のこと大好きだって」
 少し照れた彼の顔を、直視なんてできたものではなかった。机の落書きに視線を落とす。相変わらず僕は逃げてばかりだ。
 「好きって……。」
 「好きに意味も形も無いんだよ多分、でもそれは汚くも醜くもない。好きって綺麗な感情でしょ?好きって何って聞かれたら難しいでど、俺は多分、いや、ちゃんと先輩のこと、好きだから。俺も自分の気持ち伝えるの苦手なんだ。だから絵ばっかり書いて、感情を表現してて。だからさ、きっとあの時の絵も、僕の気持ち、ダダ漏れだったかも。多分、本当は、はじめからずっと、好きだったんだと思う。」
 まっすぐに伝える彼は、少し照れくさそうに頭を掻いた。絵でも文字でも無い、本物のナシは、僕が今まで生きてきた中で一番と言っていいほどに美しかった。

「あ、ごめん、ちゃんと落書きで、続き、答えないとだよね笑」

 彼はまた下を向いて透き通るような左手でシャーペンを握る。

『俺も、のっく先輩のこと大好き』

 「ぷはっ、なんか小学生の告白みたいで笑えてきちゃった笑」

 笑顔を正面から見るのが恥ずかしく、僕はまたシャーペンを握りしめた。声で伝えるのが怖かったから。

 『ありが……

 目の前にあの秋の風が吹いた。こんなに暑い夏なのに、心地が良い。シャーペンは僕の右手から落下し、地面に転がっていった。彼の聞き手に握られた右手と、右手で支えられた僕の左肩。
 そして、唇を辿う柔らかい感触。

 「ごめん、先輩、やっぱり俺、言葉で伝えるの苦手かも」

 そう言って笑う麗音の瞳と唇が、僕の顔をさらに紅葉させていった。

 「ねぇ、もう笑、赤くなりすぎ、かわいすぎだって、のっく先輩笑、いや……。」
 「麗音、もっかい、いい?」
 「うん、何回でも、俊介。」

 静寂に包まれる図書館の個室。土曜日でほとんど人のいない部屋で二人だけの時間が止まったみたいだった。床に落ちた一本のシャーペンと、昔誰かが彫刻刀で刻んだLOVEの文字が横目に見える。そんな落書きから始まった僕らの出会いは、こんなところまで進んでしまった。あの日、橋の下に流されていたら……、お互いにきっと同じことを思っているんだろう。この小さな机が起こした奇跡。この感情に名前をつけるのは難しい、この関係にどう名前をつけようか。そうだな、きっと、これかもな

 『グラフィックラブ』

 
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