BLニュースは標準ブラウザ非対応となりました。Google Chromeなど別のブラウザからご覧ください。

ハピエン小説部門 選考通過作品 『ウソ彼と本物のキス』

2025/11/07 16:00

癖“ヘキ”に刺さった作品はグッドボタンで投票を♥

 

『ウソ彼と本物のキス』作:藤吉とわ/イラスト:塩田キョウカ

 

 

あらすじ
実家の定食屋で働く多兼奏羽は自分がゲイであることを唯一曝け出せる場所、孤独感の解消先としてSNSのアカウントを拠り所にしていた。これまで誰とも交際経験のない奏羽だったが、ある日週一程度で行っている音声配信で彼氏が居ると見栄を張ってしまった。謝罪してアカウントを消去するか、それともレンタルお兄さんに彼氏のフリをして貰うか――と悩んでいた時、定食屋の常連客で大学生の中垣莉月にこれらの秘密を知られてしまう。しかし莉月は自分もゲイであると打ち明けて来て、何を思ったのか「俺が彼氏になるから他の男をレンタルするのはやめて」と言い出して――。
年下溺愛攻めと強がりわんこ受けのハピエンラブです。

 ※こちらの作品は性描写がございます※
 

 音声ライブ配信の途中、自分が発してしまった一言によりこれまで経験したことがないくらいチャット欄が賑わった。
 まずいと思いはしたが今更訂正も出来ず乾いた喉から何とか声を絞り出す。
「か……彼氏に一緒に配信出て貰えるか聞いとく! 今日はとりあえず寝まっす! ではではまたね、おやすみー」
 配信終了ボタンを押して、多兼奏羽(たかねそう)は座っていた床から立ち上がると店舗兼住宅である二階の自室を犬のように回り出す。
「どうすんだ、どうすんだ。どうしようもねぇじゃん。どうにも出来ねぇじゃん」
 独り言を繰り返して床を踏み鳴らす。ほんの数ヶ月前なら「うるさい!」と父親からの怒号が飛んできていただろう。でも今は父が家を出てしまい、住居スペースは奏羽が独占状態でどれだけ騒がしくしても誰も何も言わない。
 そうだ、誰かが居てくれれば——。
 奏羽は足を止めて、ベッドに座った。父のことを考えた瞬間心の隙間に誰かが居てくれればという寂しさが入り込んできた。
 自分という存在は確かにここに在るのに、暗闇に取り込まれそうになって思考を断ち切るみたいに溜息を吐いた。
「……寝よっ」
 無理矢理に明るい声で言って、奏羽はそのままベッドに寝転がった。

「奏羽! 唐揚げ上がってんぞ」
 父親の声で我に返る。
「あ、ごめん」
 調理場にある提供台の上には唐揚げ定食だけでなくチキン南蛮定食も置かれている。夜の営業が始まってカウンター席とテーブル席四席が埋まってしまうと順番に注文を取ってそのままぼんやりとしてしまった。
奏羽は父の目から逃れるようにトレーに乗ったチキン南蛮定食を持って客席に向かった。
【飯処・たかね】は奏羽の父である勇信(ゆうしん)が始めた店だ。最初は母と二人で店を切り盛りしていたが奏羽が小学三年の時に母が病死するとそのあと暫くは父一人で営業し、奏羽は平日夕方や土日に手伝いをする程度だった。いずれは自分があとを継ぐつもりで中高時代を過ごし、二十五歳になった今現在では母の代わりとなり父と二人体制でこの店を守っている。
「お待たせしてすんません、チキン南蛮定食と唐揚げ定食です」
「奏羽くん、親父さんに怒られてたじゃん」
 テーブル席にトレーを置くと常連客であるサラリーマンが話し掛けて来る。狭い店なので父とのやり取りは筒抜けだ。
「俺がボーッとして働かないもんだから叱られちゃいました」
「そういえば元気ないね、どしたの」
 聞かれて、奏羽は笑顔で固まる。
 どうしたの? と聞かれて本当のことなど話せるわけもない。
 実はゲイで、最近凄く寂しくて、誰かに話を聞いて欲しくてこの歳でSNS始めて、ネットの中では自分のセクシャリティを隠す必要なくて、実生活とは違う自分になれるのが嬉しくてハマっちゃって音声ライブ配信とかして、チャットで「彼氏いるんですか」の質問に「いるよー」って嘘吐いちゃって、今はカップルで運営するアカウントも珍しくないから、奏羽のアカウントをフォローしている人らも同じセクシャリティの人たちだけでなく所謂腐女子と呼ばれる人たちも多くて「彼氏さんの声も聞いてみたい」「ラブラブ配信してください」という要望に「いいよー」なんて勢いで答えてしまって、でも本当は彼氏なんて居たこともないからどうしようって悩んで昨日は眠れなかったんです、なんて口が裂けても言えない。
 脳内で息継ぎなしの早口捲し立てを行ってから、奏羽は「夏バテっすかね」と答えた。
「最近は十月くらいまで熱いもんね。倒れないように気を付けなきゃ」
 連れのサラリーマンも会話に加わると、奏羽は相槌を打つ。
「そっすね。気を付けます」
 提供の仕事が終わり、食器でも洗うかと調理場に向かおうとすると「すいません」という声と共にカウンターの奥で長い腕が伸びるのが目に入った。
「来てたんだ。気付かんかったわ」
「そういえばいらっしゃいませが聞こえなかったです。親父さんは言ってくれたけど奏羽さんボーッとしてた」
 カウンターに向かうとここでもぼんやりしていたことを指摘されて奏羽は苦笑いをする。
「今からシャキシャキ働くよ。で、なんにする?」
 奏羽が尋ねると黒髪の青年は片手に持ったメニューに目を落とした。頭の動きに連動してセンターで分けられたさらさらの前髪が揺れる。
 注文決めてから呼んでくれよと思いながらも目の前の青年の顔を眺める。
 中垣莉月(なかがきりつき)。大学二年生。田舎から出て来て一人暮らし。奏羽の記憶が正しければ半年ほど前から【たかね】に来てくれている。
莉月の実家は飯屋をやっていると聞いたことがあるので奏羽親子の営む定食屋にも愛着を持って頻繁に通ってくれるのだろう。
ただ、それだけにしては莉月の来店頻度はやたらと高く、大学が夏休みに入る前は昼か夜のどちらか、夏休みに入った今は昼も夜も店を利用しており、夕方から来る時には食事を済ますと閉店までカウンターでレポートだか何だかをこなす超常連客だ。
普通なら食事を終えた後はお帰り願いたい所だが、大勢で騒ぐでもなし、物静かにカウンターの端に居るだけだから置物だと思って奏羽も店の主人である勇信も特に何も言わない。
「トンカツと迷ったけど……やっぱ生姜焼き定食。ご飯大盛りで、豚汁変更してください」
 形の良い唇が動き、決して大きくはないが二重瞼の線がくっきり入った涼やかな目が奏羽に向けられる。バランスよく配置された鼻は高く、声も心地の良い低音で、ついでに長身、足も長い。
 モテるんだろうな。
莉月のような男前であれば女が放っておかないだろうし、奏羽がもし同じような顔面を持っていたとしたら彼氏などすぐに出来ていたに違いない。
「……奏羽さん? 聞いてます?」
「ん? あ、ああ、えっと、トンカツ定食、サラダ別皿に大盛りで、あとビールだっけ?」
「全然違います」
 集中すると決めた先から余計なことを考えてしまった。違ったか、ははは、と誤魔化したけれど莉月は一緒に笑ってはくれなかった。

「はー……」
暖簾を仕舞って洗い物をしていると今日何度目になるか知れない溜息が口から漏れた。
「奏羽、ほんとに大丈夫か」
 洗い場に帰り支度をした勇信がやって来て心配そうに声を掛けてくれた。
「全然大丈夫」
「大丈夫な奴がそんな溜息まみれになるかよ。心配事があるなら父ちゃんに言えよ」
 泡の付いた食器を取り落としそうになりながら「本当になんもないのに何を相談すりゃいいんだよ」と奏羽は笑って見せた。
「ほら、早く帰んないと。まなみさん待ってるだろ」
 奏羽が寂しいと感じてSNSのアカウントを作ったのは、勇信に恋人が出来たから、というのも大きいかもしれない。母が亡くなってから奏羽が成人するまで勇信には女っ気というものがなかった。幼い奏羽を育てるため一生懸命に働いてくれたことを知っているからこそ、奏羽自身が婚活を勧めた。自分だけのために勇信の人生があるわけではない。父にも幸せになって欲しい。そういう気持ちで自治体の婚活パーティーに行くよう説得をした。そうして、現在勇信にはまなみという交際相手が出来て、いずれ籍を入れる予定で近くのマンションで二人暮らしをしている。
 勇信は店の二階で三人暮らしをしようと言ってくれたが、奏羽の方が新婚気分を味わったら? と勇信とまなみに二人暮らしを提案した。
 だから今この店舗兼住居は奏羽一人のもので、父には他に帰る場所がある。
「じゃあ俺もう行くけど……りつくん、奏羽が倒れないか見といてやって」
 もう閉店だというのに未だにカウンターに居る莉月に声を掛けて勇信は裏口から出て行った。
「勝手に任すんじゃねぇよ。な、莉月」
 最初は名字呼びだったが、その内に莉月の方から「名字で呼ばれるのに慣れない。皆下の名前で呼ぶから」とリクエストがあって親子揃って彼の下の名を呼んでいる。
「別に、俺暇なんで。奏羽さんのこといくらでも見張れますよ」
「見張るとか言うと俺がなんかやらかすみたいじゃん」
 口をへの字に曲げて、けれどすぐに真顔に戻ると奏羽はカウンターに向かって声を掛ける。
「莉月、夜食にお茶漬け食べる?」
「え、マジすか。食べる」
「俺今から飯だから付き合ってよ」
 夏になってからほぼ毎日閉店まで居る莉月とこういう風に夜を過ごすことは珍しくなかった。
勇信が居た時とは違い夜になると奏羽は広い家に一人きりになってしまう。定食屋をカフェみたいに使って居座る莉月に強く帰宅を促せないのは結局寂しいからだろう。
 自分用の夕飯を準備し終えると莉月用に大き目のお椀を用意し、冷や飯とお手製の鮭フレークを乗せて白だしを回し入れゴマを振ってワサビを添え、それに湯を注ぐ。
「莉月、受け取って」
 カウンター越しにトレーに乗せたお茶漬けを手渡そうと腕を伸ばす。莉月も同じく腕を伸ばして来て彼の指が奏羽の手に当たった。思わず手を引きそうになるが莉月がしっかり受け取るまでは離せない。
 こういう些細なことで狼狽えてしまいそうになる。男が好きな癖に男への免疫がなさ過ぎて自分が嫌になる。
 童貞かよと心の中で自分に突っ込みを入れるがこの歳にしてまごうことなく童貞な上にセクシャリティを引け目に感じているから現実世界で一歩も踏み出せずにネット世界に逃げたのだった。
 莉月にお茶漬けを手渡すと自分の夕飯が乗ったトレーを持って調理場から出てカウンターに向かう。
「俺に渡してくれて良かったのに」
「どうせ回って来ないとカウンター来れないし自分の分くらいは自分で持つよ」
「奏羽さんくらいならカウンター越しに受け取れますよ」
「俺自身の話かよ……ってそんな小さくねぇし、赤ちゃんじゃねぇんだぞ」
「赤ちゃんとまでは言いませんけど、奏羽さん童顔ですよね」
 確かにたまに店に来る旧友からは中学の頃から顔が変わってないと言われる。でもそれは髪型も中学の頃から変わらず短めだからだろう。奏羽としては飲食店だから煩わしい見た目にならぬよう気を遣いつつ、少しでも外見を良く見せようとツーブロックにしてみたりするのだが今の所誰かに洒落感を褒められたことはない。
「女なら童顔でも喜べたかもなぁ」
「童顔て嬉しくないもんですか」
「男ならかっこ良いって言われたいじゃん」
「ソウサン、カッコイイヨ」
「棒読みしてんなよ」
 言いながらトレーをカウンターに置くと莉月が椅子を引いてくれた。ジトッとした視線を送るも機嫌良さげに笑う彼を見るのは悪くない。
「それ食ったら家帰ってちゃんと勉強しろよ」
 莉月がこくっと頭を上下させるのを見届けて奏羽は箸を持つ。食べ始めると二人して無言になる。話したいことがあれば話すけれどそうじゃなければ無理に会話はしない。
 奏羽が一日の終わりで疲れているのと元々口数の多くない莉月だから気まずさは全くなく、たまに聞こえる小さな咀嚼音と水が喉を通る音だけがしてあとは静寂が続く。
 こうも静かだと昨晩のことを思い出してしまう。
 あれからベッドに寝転がったものの眠れぬはずもなく薄暗い部屋の中で色々と考えた。
どうしてあんなことを言ってしまったのか。
 自分が寂しい人間であることを知られるのが嫌だったのか、それとも単なる見栄だったのか。どちらにせよ短絡的な自分の性格を呪うしかない。ただ、今更どんな呪詛を己に向けても時は戻らないし発言は無かったことにはならない。
いっそアカウントを消してしまおうか。
顔は晒していないし、この広いネットの海で自分一人くらい消えた所で誰も何も思わないだろう。ちょっと経ってからまた必要であればアカウントを作り直せば良い。全くの他人として。
そうして一度はSNSアカウントの削除画面までいったが、いやでも、と思い直した。姿は晒してないにしても声を晒している。アカウントを新しく取り直しても浅はかな己のことだから暫くしたら今回のことを忘れて音声配信をしてしまう。そうしたらいつか誰かに過去のアカウントがバレてしまうかもしれない。それなら今のアカウントを残しておいた方が良いのではないか。
幾つかの言い訳を並べて削除画面から引き返した。要するに心の底ではSNSをやめたくないのだ。
軽い気持ちで作ったSNSアカウント。何てことはない日常を発信したら見てくれて応援してくれる人が居る。音声ライブ配信を始めてからは更にそういった人たちが増えた。
大事なものを失わないためにはどうすれば良いだろう。何とかしなければ。
でも奏羽一人の思考には限界がある。眠れなかったから起き上がってパソコンを起動させ「彼氏のフリ」で検索をかけてレンタルお兄さんというサービスがあることを知ったが——。
「奏羽さん、ほんと元気ないですね」
 莉月の声で現実に引き戻された。いつもなら無言で夕飯を食べていても何も言ってこないのに雰囲気だけで分かるとでもいうのか、覇気のなさを指摘されてしまう。
「元気あるよ」
 言う割に声色に活力はない。
「疲れてんのかな?」
 自分で言って自分で呆れる。これでは察して構って欲しい困った女子みたいじゃないか。
 空気を変えよう。
 何でも良い。話題を変えられるもの——奏羽は夕飯を口に運びながらカウンターに視線を走らせる。するとカウンターの端に追いやられた莉月のペンケースが目に入った。
「……それってスパスチューズのグッズ?」
 シンプルなペンケースのファスナー部分にチャームが取り付けられていて、そのデザインに奏羽は見覚えがあった。
「あ、そうです。なんか幼馴染がバンドのライブ行ったらしくてお土産で貰って。CDも借りたんですけど結構良くて……奏羽さんも知ってるんですね」
「知ってるもなにも、ボーカルが高校の一個上の先輩だよ」
「えっ!?」
「昔バンドメンバー皆でよく店来てくれたよ。今は有名になっちゃったから一年に一回くるかこないかだけど」
 最近名前が売れてきたバンドという共通の話題を見つけ、奏羽は喋り続ける。そうして、ふと思いついた。
「そういやインディーズの時のライブ音源あるよ。貸してやろうか。莉月の幼馴染にも聞かせてやったら喜ぶかもな」
「え、いいんですか」
「いいよ。部屋探したら昔のライブ映像とかもあるかも」
 夕飯の量はそこまでない。もうすぐ食べ終わる。
莉月はとっくに食べ終わっていて、奏羽はカウンター上にある空っぽになったお椀を確認すると隣に目をやって莉月と視線を合わせた。
「部屋、来る?」

 子供の頃は友人と家を行き来する時どうやって誘い合っていただろう。もう何年も前になる記憶を掘り起こしても、鼻水垂らして「俺んちでゲームしようぜ~」で笑い合う場面しか出てこない。
 誘い方は悪くなかっただろうか。妙に思われたらどうしよう。いやでも嫌だったら莉月も断るよな。大学生とはいえ成人した大人なんだから。
 カウンターでのやり取りを反芻しながら階段を上り二階へと向かう。その後ろを莉月が黙って付いてくる。
「適当に座って」
「あ、はい」
 部屋に人を入れるのは久し振りだった。
奏羽の部屋はテレビとベッドとローテーブルくらいしか置いていないので片付ける必要もなくさっぱりとしている。
「シンプルすね」
 周囲を見渡している気配を感じながら奏羽はベッド下の収納を開ける。
 収納は二か所あって最初に開けた方には入っていなかった。ではこちらかともう一方を開けると奥の方にCDケースを仕舞ってあるボックスが見えた。
 この中にインディーズの時の音源やライブ映像を保存してあるはずだ。腕を伸ばして収納の中からボックスを取り出すと莉月が声を掛けてくる。
「奏羽さん、ライブ映像ここで見てって良いですか?」
「え、莉月ん家レコーダーねぇの?」
 そう聞き返したものの、奏羽の部屋にもDVDを再生させるレコーダーはない。父の部屋にはあるのだが、もしかしたらまなみと暮らす家に持って行ってるかもしれない。
「まぁいいや。じゃあパソコンで見よ。そこにあるだろ、起動させといて」
 莉月からの返事は聞かずに言うと奏羽は収納ボックスを開けてCDとDVDを探す。手元に視線を落として真剣にケースを選び出していると何度目かの瞬きでハッとした。
パソコンは駄目だったのだ。レンタルお兄さんの申し込み画面を開きっぱなしだし、何なら「自分はゲイなのですが彼氏のフリをして一緒に音声配信して貰うというのは可能ですか」などと問い合わせフォームに打ち込んでいた。電源を落とさずスリープ状態にしているから莉月が操作したらすぐにその画面が現れてしまう。
「莉月っ、待っ——」
 振り返った奏羽は息を飲む。
遅かった。
 奏羽が声を掛けてもこっちを見もせずに莉月の視線は開いたパソコン画面に注がれている。
 あの綺麗な瞳に切実な問い合わせ内容が映っているかと思うと居た堪れない。今すぐに窓ガラスに突っ込んでここから消えたい。
「……奏羽、さん」
 莉月の声がして奏羽の肩が大袈裟に揺れる。
「奏羽さんって、ゲイなの?」
 直球の質問だったが、まぁまずそれが最初にくるだろうとも思えた。
 体の他の部位は冷えているのに顔だけが熱い。ゲイバレしたのが恥ずかしいのか、レンタルお兄さんへの問い合わせ内容が情けないのか、奏羽は言葉が出ないでいる。どうにかして誤魔化せないかと必死に思考を巡らせるが何も良い案が浮かばない。
 沈黙は肯定と受け取られても仕方がない。それくらいの時間が過ぎてから奏羽ではなく、莉月の方が口を開いた。
「俺も、一緒です、奏羽さんと」
 あまりに自然に莉月が打ち明けるものだから周りの空気に彼の声が溶け込んで一瞬何を言われたのか分からなかった。

「中学の時に彼女が出来たんです。ペンケースの、チャームくれた子。幼馴染で、ずっと好きだったって言われたから……俺、子供の頃からすごい大人しくて小学校も中学校も交友関係全然拡がんなかったけどそういう俺を理解してくれる子なら一緒に居ても楽だし、付き合ったら好きになれるかもって思ってOKしたんですけど、付き合い始めたら当然友達みたいにはいかないでしょ。それなりのスキンシップを求められるわけで、でも俺それで気付いちゃって。女子が駄目なんだって。その子と付き合ったことがきっかけで恋愛対象が女子じゃないって分かっちゃったんです」
 スパスチューズのデビュー前のレア音源やライブ映像の件は何処へやら、奏羽は莉月がどういう経緯で自分のセクシャリティに気付いたのかという経緯を聞きながら「はぁ……はぁ……」と曖昧に相槌を打っている。
 まさか莉月もそうだったとは。世間は狭いというか、これまでこういったことを誰かに打ち明けたことがないからもしかしたら奏羽が知らないだけで世間には恋愛対象の境界線が曖昧な人が多く存在しているのかもしれない。
「奏羽さんはどうなんですか? なんで自分がそうだって気付いたの?」
「あー……俺はあれだ、莉月と違って女と付き合ってなんか違ったとかそんなんじゃなくて、中学くらいになると周りがあの子が可愛いとか胸がデカいとかそういう話しし出すのについていけなくなって、体育の着替えの時に男の半裸見てなんか気まずいな、なんでだろ、から気付いたって感じ」
「好きな人とかいなかったんですか」
「好きな人? ああ、それこそスパスチューズのボーカルが先輩っつったじゃん?かっこいいなーとか思ってたよ。でもそれは憧れの方が強かったかもな」
 聞いてきたくせに莉月は「ふうん」と鼻を鳴らすだけでそれ以上奏羽の恋愛遍歴を尋ねてくることはなかった。
「で、このレンタルお兄さんはなんなんですか?」
 莉月がパソコン画面を奏羽に向けて問うてくる。
恋愛経験値が低いことを突っ込まれなくて良かったと思っていたのに油断していた所を袈裟懸けに斬られたようで奏羽は「ううっ」と呻く。
奏羽がゲイだと知れても莉月は自分のセクシャリティを隠しておけたはずだ。それなのにこうして伝えてくれた。その彼を前に今更隠し事など必要ないだろう。
奏羽はズボンのポケットからスマホを取り出しSNSのアイコンをタップした。
「……SNSやってんだけど」
 アカウントを開いたままにして莉月にスマホを手渡す。ゲイであることを隠さずにいられるネット上の自分の姿が彼の目に映っていると思うとどういう顔をして反応を待っていれば良いのか分からなくなる。
アカウント名やゲイであることが書かれたプロフィールを見て莉月は何を考えているだろう。
 莉月から目を逸らして意味もなく部屋の隅を見つめてみたり、腕を組んだり解いたりを繰り返していると莉月が「奏羽さん」と声を掛けてくる。
「アカ名、ポチって言うんですね」
「……うん……小学校の時飼ってた犬の名前、ってそれはどうでも良くね」
「まぁどうでも良いっちゃ良いんですけど、奏羽さんに似合ってて可愛いなと」
「あ、そう。まぁ、それでこのアカウント使って週一くらいで音声配信してて——」
「配信てどんなことするんですか。結構人来るの?」
 興味があるわけでもないだろうに莉月が食い気味で聞いてくる。
 誰に向けて、というわけでもなく自らを曝け出せる場所が欲しいと思い作ったアカウントなので最初は日々の嬉しいこと楽しかったこと、ゲイなので知人に女性を紹介すると言われた時の困った出来事などを綴っていた。一人、二人とフォロワーが増えてその内に普段の呟きにも反応があるようになって、ある時、腐女子だというフォロワーから男の人のどんな仕草にグッときますか、という問いに返信した所何故だかボーイズラブ好きなフォロワーが一気に増えた。
ネット上では一般人でも限られた層に刺されば需要があるようで、それならばと匿名でメッセージを受け取れる質問箱を設置した。
ゲイだけど何か聞きたいことがあれば、という一言を添えて投稿したら「芸能人に例えると誰に似てますか?」「身長と体重教えて下さい」という可愛いものから「初恋はいつ?」「初体験はいつ?」という恋愛絡みのもの、「好きな体位は?」「タチとネコどっち?」「オナニーの頻度を教えて」など下世話なものまで結構な量がきた。
 全てに答えるつもりはなかったが想像以上のリアクションにアカウント上で返事を書いていくのは大変そうだと思った奏羽は音声配信を使ってサクッと答えようと初めてのライブ配信を行った。
 事前に告知をして、リアルタイムに誰もこなくとも一週間程アーカイブを残しておけば良いかと軽い感じで配信を行ったらこれまた思っていた以上の人が聞きにきてくれた。
 それ以来週一程度で雑談をする配信を行っていて、これが先日の「彼氏いないのに彼氏いるって言っちゃった事案」に繋がっていくことになる。
そもそも彼氏の有無については以前にも質問箱にきたことがあった。しかし奏羽はこれに答えたことがなく、気になっている腐女子の方々も多かったのかもしれない。それでとうとう配信中にチャット欄にまで「彼氏いますか?」ときて、それに反応するように「それ気になってた」「うぶなんかな?」「逆にすごい遊んでたりして」と周りも盛り上がり、コメントは奏羽の恋愛関連の話で埋め尽くされて——。
「それで、嘘を吐いたということですか」
「……はい、そうです」
 一頻り説明を済ますと莉月が締め括ってくれて奏羽は棒読みで音声配信で偽りを述べたことを認める。
「だからレンタルお兄さんに依頼して彼氏のフリをして貰おうと?」
「はい、その通りです」
「なんで嘘なんか吐いちゃったんですか」
「……俺にも分かんない」
 当然の質問に奏羽はしょんぼりと萎えた声色で返事をする。
居ない、と答えれば良かった。そうすればこんなに悩まなくて済んだのだ。今ではそう思うのだけれど、どうしてだか奏羽の口は「いる」と答えてしまった。それに関しては時を戻すことが出来ない。ならば起きてしまったことをぐずぐずと考えるよりも対策を講じた方が良い。
 アカウントを消して逃亡。
嘘だと認めて謝罪後アカウントを消去。
誰かに彼氏のフリをして貰う。
 頭に浮かんだのはこれくらいで、会話が止まり静かになった部屋で一つ息を吐くと奏羽は再び口を開いた。
「よし、決めた」
 莉月と目を合わせたままで彼を置き去りに奏羽は決意の相槌を打つ。
 SNSを始めてネット上のことではあるが初めて誰かにゲイであることを打ち明けた。たったそれだけのことで気持ちが軽くなって救われた。父が家を出た寂しさも誰かに向かい喋り掛けている内に一人じゃないと慰められた。そんな場所を奏羽は自ら壊したのだ。
 フォロワーにとって奏羽など取るに足らない存在かもしれないが、奏羽にとっては癒しの場だった。それならば感謝を伝えて正直に謝る必要があるだろう。完全に元には戻せないだろうけど、これしかない。
 自分一人の時には迷いあぐねていたのに、莉月に話を聞いて貰い腹を決めることが出来た。
「莉月、ありがとうな」
 話を聞いてくれた礼を言い、手元でスパスチューズのCDやDVDのケースを纏める。するとその手を莉月に取られた。
「レンタルお兄さんに彼氏のフリして貰うんですか」
「は?」
 勘違いしている莉月に急いで視線を戻す。目が合うと真剣に見つめられてたじろぐ。
「やめて下さい、知らない男なんて。危ないです」
「いや、知らん男っていうかレンタルお兄さんは仕事で来るんだからね? ビジネスの方が安全だろ。つか、その話は——」
レンタルお兄さんを雇う話は無かったことにすると伝えたかったのに話を最後まで聞かない莉月に手首を強く掴まれる。
「俺がなります」
「えっ、は?」
「俺が奏羽さんの彼氏になるから、他の男はやめて下さい」
 莉月の言葉は確かに奏羽の耳に届いた。彼が何を言いたいのか理解した瞬間、きちんと形を保っていたはずの部屋がぐにゃりと歪んだ。眩暈がしたのかもしれない。
 莉月にまで迷惑を掛けるわけにはいかない、という気持ちと、彼氏っていうのは本物の? それとも外部に頼もうとしていたようにフリだけ? と確かめたい気持ちがせめぎ合って暫くすると後者の思いを乗せた秤の方がぐんと重たくなった。
気付けば奏羽は、「はぁ、ありがとう」と間の抜けた返事をしていた。



 莉月を部屋に上げてから三日が経った。
父の勇信がまなみと同棲している部屋から出勤してくると一緒に定食類の仕込みをチェックして、昨晩も行っているが今一度店内を清掃する。オープンの少し前に暖簾を掲げて、待っている客が居れば開店前でも店の中に案内する。
表面上は変わらない日常を過ごしているけれど、新たな悩みが増えた。
「お待たせしました。唐揚げ定食、ご飯大盛りです」
 カウンターの端、いつもの席。莉月の前に定食が乗ったトレーを置くと彼は小さく頭を下げた。
 ランチ時で会話はおろか目を合わす余裕もなく、奏羽は早足で調理場に戻る。
 他の客の目にも忙しなく動く姿が映っているだろうけど、それは見せかけだけで奏羽の脳内はあの日の莉月とのやり取りでほぼ占められており、残りの隙間に客からのオーダーや勇信からの指示が入っている。
 あの夜、莉月は彼氏になると言い残し奏羽の頬を撫でてからスパスチューズのCDやDVDを持って、帰ってしまった。
 一体何が起きたのか、頭では分かっているのだけれど整理するのに時間が掛かって莉月が帰ろうとしているのに見送りもせず奏羽は暫く部屋で固まっていた。
 話の流れからして奏羽の彼氏になるという発言は実際に交際をスタートさせるのではなく、彼氏のフリをしてくれるということなのだろう。ただ奏羽はあまりにも恋愛経験がなくてどうしてそこまでしてくれるのかと動揺してしまった。
まさかこちらが恋愛初心者であることを察して揶揄っている?
 そんなことを考えながら提供台に準備されていた定食を持ってテーブル席に運んでまた調理場に戻っていると莉月と目が合う。すぐに逸らせば良かったのに、さっきは全く会話が出来なかったから目を合わせたままで居ると莉月が笑った、ような気がした。
 奏羽の気のせいかもしれないがそう思うと急に顔が熱くなる。自分だけが意識しているようで恥ずかしい。莉月は彼女が居たこともあるようだし、男性経験は聞いていないが、整った顔面とスタイルの良さでそちらも引く手数多なのではないか。
 やはり揶揄われているような気がしてならない。現にこの三日間店には来るものの莉月の態度は全く変わらず、付き合うフリの話にもならない。
 仕事に戻ろう。
 このことに思考が奪われているという自覚があるから仕事の方を意識して行わなければ失敗しそうだ。気合いを入れるよう短く息を吐くとちょうど良く店のドアが開く。来店客が現れてくれたおかげでごく自然に莉月から目線を外すことが出来た。
「いらっしゃいませ」
 奏羽が言うと女性客がペコッと頭を下げた。視線が絡んだのは一瞬だけで、すぐに彼女の目は奏羽の向こうに向けられた。
 振り返り見ると莉月が軽く手を挙げている。
 定食屋で待ち合わせとは。しかも女と。三日前よりもさらに以前であれば異性であれ同性であれ気にならなかっただろうけど何となく今は気分が悪い。
 そのまま調理場に戻れば勇信が「りつくんの彼女かな」と小声で聞いてくるから「知らね」と返事をした。
 ピークタイムを過ぎていたので奏羽は洗い物をして、莉月の連れの注文取りは勇信に行って貰った。洗い場からカウンターが見えて時々莉月の視線を感じたがいずれもスルーした。
 提供も勇信にお願いしたかったが、タイミング的に奏羽が行くことになってさっさと終わらせようといつも通りの声色で「お待たせいたしましたー」と流れるようにトレーを女性客の前に置いた。
 チラッと視線を落として彼女の顔を確認する。化粧のことは詳しくないがナチュラルメイクであることは奏羽にも見て取れた。白い肌に光で淡く透けた茶髪が良く似合っている。ゴテゴテと飾り立てずとも美しいというのは彼女みたいな人をいうのだろう。
「あ、あの」
 ごゆっくりどうぞ、と告げて立ち去ろうとしたら声を掛けられた。莉月からではなく、今しがた料理の提供を終えた女性客からだった。
「はい? どうされました?」
 オーダー間違いでもしただろうか。足を止め、莉月を視界に入れないよう意識しながら女性客を見ると、彼女はもじもじと奏羽を見上げる。綺麗な顔に可愛らしい仕草、先程聞いた声も見た目にピッタリな可憐さだった。
「スパスチューズのCDとDVDをお借りしまして……ありがとうございました」
 言葉が聞こえて、奏羽はここで漸く莉月に目をやった。目が合って彼が相槌を打つから奏羽も「ああっ」と声を上げた。
「莉月の、幼馴染さんですか」
「そうですっ、あの、私、谷川有紀と言います。直接お礼が言いたくて莉月にお願いして今日ここで待ち合わせにして貰ったんです。スパスチューズのデビュー前の音源、最高でした! ライブ映像も感動して泣きました」
 勇信が先程「りつくんの彼女かな」と言っていたが、それは当たらずといえども遠からずといった所か。莉月の幼馴染――つまり有紀は莉月の元カノだ。
「それは良かったです。こないだ探した時にCDもDVDも同じのがあったので渡したやつは貰ってやってください」
 これは本当のことだった。でもそれを言う奏羽は無理に笑顔を浮かべて明るい声を出している。
「えっ、良いんですか」
 有紀は奏羽だけでなく莉月の方にも顔を向けて二人の顔を交互に見ている。
「ほんとに良いんですか、奏羽さん」
「いいよ、まだあるから莉月にもやろっか」
 作ったままの笑顔を莉月にも向ける。有紀と莉月、隣同士並ぶ姿を見ていると本当に似合いの二人だなと思う。
 世間から祝福される普通のカップルはこういうものなのだろうという絵面から目を逸らしたくて、じゃあ、ごゆっくりー、と調子の良い声色で立ち去ろうとすると今度は莉月の方から声が掛かった。
「奏羽さん、俺、夜また来ます」
 何しに、なんて分かり切ったことだ。ここは定食屋なのだからいつものように夕飯を食べに来るんだろう。それか今話したスパスチューズのCDとDVDを取りに来るか。そのどちらかに決まっている。
 それなのに奏羽の心臓は期待するかのように強く鳴る。
 莉月の顔も有紀の顔も見れずに、奏羽は二人に背を向けながら「ああ、うん」と頷くことしか出来なかった。

 夜店に来る時は大体夕方からなのだけれど、今日は夜のピークが過ぎた頃に莉月は現れた。おにぎり定食を注文して、待っている間にノートを開きタブレットを使って勉強し始め、食事を済ませたあとも同じように時間を潰していた。
ついついソワソワしてしまい、莉月以外の客が帰ってしまったら今日の営業は終了にしようと決めて、勇信にも帰宅を促した。
勇信が莉月に声を掛け、二人して挨拶を交わすと勇信は裏口から帰って行った。
奏羽はおにぎりを作って皿の上に並べ、お椀を二つ準備して両方に豚汁を注ぐ。それらをトレーに乗せ、莉月が居るカウンターに向かうと彼の隣に腰掛けた。
「あ、お疲れ様です」
「お疲れ。はい、夜食」
 食うか? と聞きもせずに当然のように莉月の分も用意してしまった。気恥ずかしさはあるが、彼が「あざす」と頭を下げるので奏羽は安心してしまう。
 大皿に乗せたおにぎりが一つ、また一つと減っていく。男二人で食べているのだから当たり前なのだけれど黙々と食べつつも奏羽は頭の中で話したいことのシミュレーションを済ませて咳払いをした。
「元カノも同じ大学?」
「いや、別のとこ通ってます」
「ふうん……すげぇ綺麗な人だな」
「え、あー……そうですかね」 
「そうですかね、って分かんないもん? 幼馴染なのに?」
「いや、今は普通に友達だし、付き合ってた時は眼鏡掛けててそればっか印象にあるから綺麗かどうかとか考えたことなかったです」
「へえ、眼鏡か」
「俺も中高は眼鏡ですよ」
「え、じゃあ今はコンタクト?」
「そう。気付きませんでした?」
 莉月がグッと顔を寄せてくる。目が合うというより彼の目元が視界一杯に拡がっているという状態に奏羽は笑ってしまう。
「いや、分からんし」
 近い、近い、と莉月の肩を押して離れるよう促すと鼻先に甘い匂いが当たる。飲食店特有の匂いの中で奏羽たちが居るカウンターの端だけは莉月が纏う香りに包まれていた。それは香水かはたまた洗剤の匂いなのか。気になると確かめたくなってしまう。だけど鼻を鳴らして莉月の周辺を嗅ぐのは流石に変態過ぎるので奏羽は思考を振り払うように明るく声を上げた。
「莉月って、ど、どういう人がタイプなの」
 雑談はやめにして、本当に聞きたかったことに話題を転換させる。
 意識せずにと言い聞かせても声が上擦ってしまう。だけどこれを聞いておけば奏羽の中できちんと線引きが出来るような気がした。
自分が莉月の好みに全く当て嵌まっていないのなら自制心を持って、彼氏のフリ、に全力を注げる。逆にもしも万が一彼の好みの範疇に入っているようならば自分には縁遠かった恋愛というものにほんの少しだけ期待を持てるかもしれない。
奏羽は窺うような表情で莉月を見る。彼の方が身長が高いから自然と上目遣いになるが、女子のような可愛げが自分の中から生まれるわけもないと思っているのでそのまま遠慮なく莉月を見つめた。
莉月の目も逸らされず、奏羽を見つめ返してくる。
沈黙が長引くと段々訳が分からなくなってくる。
これは何だ。一体何の時間だ。
「……ん? あの、質問に答えてくれる?」
 奏羽が首を傾げると同じように莉月も首を斜めに倒す。
「え、答えましたけど、視線で」
「……視線て。俺に心を読めと?」
 どうにも噛み合っていない嵌りの悪い気分で眉を寄せると莉月が最後のおにぎりに手を伸ばす。食べてもいいですか、と断りを入れてくるのでもちろんと頷きを返す。
「まぁ、俺のタイプの話より、早く配信しちゃいましょう」
「えっ」
 自分の好みなどどうでも良いと奏羽の話を跳ね除けて莉月がおにぎりにかぶりつく。それから手の平を見せてくるから奏羽は少し考えてから彼の手に自分の手の平を乗せてみる。
「ハハッ、お手じゃん。違う違う、スマホ出して」
「スマホ? なんで」
 犬の真似は正解ではなかったようだ。聞き返しながらも莉月の要求通り店名が書かれたエプロンのポケットからスマホを取り出してカウンターの上に置いた。
「じゃあサクッと配信しちゃいましょう。告知はする? 五分後にしまーす、とかで良いのかな」
「え、マジですんの」
「え、しないの?」
 驚いて見せると莉月も同じく驚いた顔をする。
「ポチさん、最近投稿減ってるってフォロワーの皆さん心配してましたよ」
「アカウント見てんのかよ」
「そらね。知ったからには毎日チェックしますよ」
 三日前、莉月にゲイであることが知られてしまい全てを打ち明けたあの日、次に音声ライブ配信をする時には彼氏が居ると嘘を吐いたことを謝罪しようと心に誓った。それがここにきて揺らぐ。
 彼氏のフリでも良い。莉月にそうして欲しいと欲が出始めている。良からぬ思いに自覚があるならこんなことはやめた方が良い。分かっているのに奏羽の手はスマホを掴んでSNSのアプリをタップしている。
 慣れた手付きで文章を作成して、莉月に画面を見せる。
「十分後に配信する……莉月、ほんとに良いの?」
 自分の嘘に莉月を巻き込むことになる。それなのに莉月は嬉しそうに笑っている。
「いいですよ。なんなら告知なしで今すぐでも」
 こうも迷いなくスパッと言い切られると自分の不安よりも莉月のことが心配になってくる。
奏羽から見て莉月は店の常連客で、莉月から奏羽を見てもよく行く店の従業員くらいの認識だろう。顔を合わせる頻度は高くても特別な関係ではない。
莉月からすればこの件は完全な他人事なのに、どうしてここまで関わってくれるのか。もしかしたらとんでもないお人好しで困っている人がいたら放っておけないタイプの人間なのか。もしくはトラブル大好き、何にでも首を突っ込んでくるお節介タイプか。
奏羽はジイッと莉月を見つめる。
穴が開くほど見つめても莉月がコンタクトを付けていることさえ気付けなかったのだ。ちょっと時間を掛けてその顔を眺めてみた所で莉月の本質など見抜けはしない。
「なに? 米粒付いてます?」
 莉月の心の奥底まで覗くことは叶わないけれど、黙っていれば迫力さえ感じる顔面が笑うと可愛らしくなることだけは分かった。

 階段の前を行く莉月の背中を眺めながら、三日前とは随分と状況が違うなと考える。
 あの時は莉月が初めて部屋に上がるというのもあって奏羽が先導したが、今日は莉月自ら前を行き「早く早く」と催促までしてきた。
 部屋に入るとローテーブルの前に座り、スマホスタンドにスマホを設置すると莉月が瞬きを数回して奏羽の顔を見る。
「これだけ?」
「これだけ」
 莉月の質問に頷いて答える。
音声ライブ配信なんて大袈裟な言い方をしているから何か特別な機材を想像したのかもしれないが、誰かに聞かせるために歌を披露するわけでも、収益化を目指しているわけでもない奏羽にはスマホが一台あれば事足りる。たまにヘッドホンを付けることもあるけれど今日は二人なのでそれもしない。
 スタンドに置かれたスマホの画面をタップしてSNSを開くと配信が開始出来るまでの準備をしていく。タイトルは適当に「雑談」と付けたが、莉月が「彼氏と雑談」にしようというのでそれに変えた。
 あとは配信開始ボタンを押すだけだ。
「いい、押すよ」
「はい」
「ほんとにいい? 押したら後戻り——」
「いいって言ってんでしょ」
 指先を震わせていると横から莉月が開始ボタンを押してしまう。ああぁ、と情けない声が出てしまった。
「これ、今始まってんですか?」
「……うん」
「まだ人居ないね」
「うん、あ、きた」
 告知の投稿にはすでに百近いリアクションがあった。配信を開始すればすぐに誰か聞きにきてくれるだろうと思っていたが、タイトルに「彼氏」と入っていたのが呼び水となったのか数分の間に続々とリスナーが集まってきた。その大半がいつも配信を聞いてくれている腐女子の面々だった。
「こんばんわー……えっと、なんだろ、普段は一人で喋ってるから隣に人が居るのに慣れないな。緊張してます」
 奏羽が喋るとコメント欄に「ポチさんこんばんわー」「彼氏さん隣に居るんですか」「彼氏さんの声が聞きたいです」と流れてくる。
「あ、うん、居るよ。なんか喋ってだって」
「……あー……こんばんは?」
「なんで疑問形?」
「初めてなんで緊張してて」
 先程までの勢いは何処へやら、莉月は照れ臭そうに笑う。
「今回は事前に質問受け付けられなかったんで、なんか聞きたいことあればコメ欄に打ち込んでくれたら……」
 スマホ画面を見るとコメントではないがハートマークが飛んでいるのが見えて莉月がこれなんですかと聞いてくる。奏羽は聞いてくれている人がリアクションで送れるんだよと説明するとコメント欄に「彼氏、敬語!?」「年下?」「出会いはどこですか」「お互いの好きな所聞きたいです」「彼氏さんのことなんて呼べば良いですか?」と次々に書き込まれていく。
「待って、コメント追えない。うん、年下です。何個違うんだっけ? 五歳かな」
「そうですね。ポチさんとはバイト先で知り合いました」
 特定は困るからフェイクを混ぜて喋る莉月に感心しながら奏羽はリスナーから見えぬというのに相槌を打つ。
「彼氏さん、なんて呼べば良いか? ……えっと……」
 お互いの好きな所を挙げてという質問は飛ばして莉月の顔を見る。奏羽でいう所のポチ、のようなハンドルネームを考えるのを忘れていた。
莉月の本名はナカガキリツキ、年下……。連想ゲームみたいに脳内に並べてから奏羽の口が自然に開く。
「……ガキ。俺より年下だからガキくんって呼んであげて」
 そう呟くと莉月が信じられないといった表情で見てくる。だがリスナーには好評のようで「ガキくんww」「かわいい(笑)」などのコメントが並ぶ。
「普段は名前で呼び合ってるけど、ここではガキくんで良いよな?」
「……ポチさんのいいように呼んで貰って良いですよ」
 本当に良いと思っていない表情で莉月が言う。それから「じゃあ俺ポチさんの好きなとこ挙げてきますね」と先程スルーした質問を拾い上げた。
 完全に拗ねている。それだけでなく、やり返してやろうという魂胆が透けて見える。
 しかし事前の相談なく、ガキなんていうハンドルネームを付けたのは奏羽の方で臍を曲げられても仕方ないかと悪口を言われる覚悟で莉月の言葉を待った。
「目がくりっとしてて小型犬みたいで可愛い。髪型は短めなんだけど、たまに寝癖が付いてる時あって、くしゃくしゃに撫でてあげたい時がある。一生懸命働いてるとことか気遣って夜食作ってくれるとことかも好き」
 何を言われるのかと警戒していたが割とまともな内容でそれが莉月の本心かどうかはさて置き、変なことを言われずに済んだとホッとする。
 そうしている間にもコメント欄には質問やリアクションが届き続けている。莉月はそれらを見ながら続けて答えていく。
「好きになったきっかけ? えっと、ポチさんは俺の恩人なんです。どんなことがあったかは内緒だけど、ポチさんのお陰で俺は今の自分になれた。だからそれがきっかけかな。それから意識するようになって、俺、ポチさんのこと好きなんだって気付いた感じ、です」
 きっと莉月は一人に対する思いではなく、これまでの恋愛経験を組み合わせ織り交ぜながら話しているのだろう。何故なら恩人と呼ばれるような行いをした記憶が奏羽にはないのだ。
 質問に答えていく莉月の横顔をぼんやり見ていると視線が合った。
「ポチさんは?」
「へ?」
「俺の好きなとこ。聞かせてください」
 莉月はいじけていたとは思えないほど優しい顔で微笑み掛けてくる。
「うん……あの、俺、結構寂しがり屋で、でも意地っ張りっていうややこしい性格してて……でもガキくんはそんな俺を一人にしないというか、寂しいなって思った時に伝えなくても一緒に居てくれる」
 普段なら言えないことがするすると出てくる。
しかも、これは全て事実だ。奏羽の場合、十分な経験がないので話を組み合わせて披露することは出来ず、目の前の莉月への本当の気持ちを語る他ない。
「あとは単純に顔が好き。スタイルも良いし、俺より背が高いとこも最高。前は眼鏡掛けてたみたいなんだけど、俺、眼鏡姿は見たことなくて、いつか見たいなって思ってる」
 隣に居る莉月を見つめてそう締めた。
気恥ずかしさはあれど「ポチ」という人物を全力で演じる。
バーッと流れていくコメント欄が視界の端に映る。狙ったわけではないが、BL好きな人たちからすればコメントを打ち込む速度が上がるほどの惚気だったかもしれない。
「ガキくん、なんか言えよ」
 奏羽の方へ顔を向けて固まっている莉月の腕を肘で小突いて「引いてんの? 照れてんの?」と茶化して笑う。
 それでも何も答えない莉月に、仕方なくリスナーとやり取りをしようとスマホ画面に目を向けた。
 思った通りにコメント欄は大盛り上がりで「ガキポチ最高~」「勝手に左右決めんなww」「キッスしろ、キッス」「音付きで頼む」と次々に投稿が流れていく。
「いや、キッスしねぇから」
 ハハハと笑って、これ以上要求がエスカレートしないようこの辺で切り上げようと奏羽はスマホを掴む。
「まぁ、そういうことなんで……これからもポチ垢よろしくお願いします」
 彼氏(のフリ)の紹介も済んだことだし、次からはまた一人の配信で大丈夫だろう。
 ホッと息を吐いて「ではではまたね」といつものように配信終了ボタンを押そうとした。が、最後の挨拶も配信終了ボタンも押すことは出来なかった。
 莉月に手を取られたからだ。
 スタンドから下ろしローテーブルの上に転がるスマホと握られた自分の手を見てから莉月の方へ顔を向ける。
「いいじゃないですか、キス」
「は?」
「しましょうよ」
 莉月の手が肩に移動してきて掴まれたと同時に彼の方へと体を向かされた。当たり前のように莉月の体も奏羽に向き直っており、二人見つめ合う形になってしまう。
「え、え?」
「キスの音、聞かせてあげましょう」
「は、なに言って」
「いやですか?」
 聞かれて、奏羽の喉がゴクッと音を鳴らした。嫌かどうかの返事が出来なかった。それはつまりそのまま返事となるわけで、莉月の顔が近付いてきて目を瞑る間もなく上唇にふにっと柔らかな感触が当たった。
「ぁ」
 小さく、何とも言えない声が出てしまう。
 スマホはローテーブルの上にあって奏羽の位置からでは見ることは叶わない。でもきっと凄い勢いでリスナーのコメントが流れていってるはずだ。
「り、っ」
「ポチさん、名前、ダメだよ」
 自分しか拾うことが出来ないような声量で囁かれて掴まれた肩が震える。
 もう一度啄むようなキスをされて次に莉月の舌が唇を撫でていくと体から力が抜けた。抵抗する気も失せて、というか初めから抗うつもりもなかったように奏羽の唇が開いていく。
「は、ぁ」
 柔らかな舌が口内に侵入して奏羽の舌を絡め取ると全身がぴくぴくと反応してしまう。体全体が悦んでいるのが自分でも分かって、はしたないと思うのに深い口付けが止められない。
 これが性欲によるものならば、奏羽は素直に欲情していることを認めようと思った。ただ、恋由来の性欲かと問われれば、キス一つで動かされるような簡単なものを恋愛に含んで良いのか分からない。
男は下半身でものを考えることが多々あるので状況に流されているだけと言われればそうなのかもしれない。
「ん、っ、う、ぁ」
 粘っこい音を立てて莉月の唇が離れる。まだ、もっと、と追い縋って上半身を伸ばすと彼の手がローテーブルの方へ向かうのが目に入った。
「……ポチさん、配信切るよ?」
 元々そうしようと思っていたのだ。だけど莉月の低い声色にあてられて奏羽は言葉も出せずに頷く。
 莉月がスマホを操作し、配信が終了した画面を見せてくる。
「これでもう奏羽さんの可愛い声、誰にも聞かれないね」
「なに言っ——」
「俺だけが聞ける」
 抱き締められて体に力が戻る。莉月の腕の力は苦しくなるほど強くて、もしかしたらそれほど余裕のある状態ではないのかもしれない。
 莉月も欲情している?
 そう思うと腕の中に居る奏羽は落ち着きなくそわそわと体を動かしたくなってくる。顔が見たい。名前を呼んで、またキスをしてくれないだろうか。脳内はそんな邪な思考に支配される。
「……俺の顔、好きなんだ?」
「……なんだよ、それ」
「さっき言ってたじゃないですか、俺の好きなとこ」
「いや、それは、あれだろ、配信だから、咄嗟に、というか……莉月だってそうだろ、今までの経験色々組み合わせて喋ってたろ」
「なにそれ。俺のは全部本当ですよ」
「ほ、ほんとって……」
「奏羽さんのこと、好き」
「好っ、え!?」
「好きですよ、ずっと前から」
「ずっとって、ええ!?」
「驚き過ぎじゃない? 俺、かなり懐いてたでしょ奏羽さんに」
 ほんの少し腕の力が抜けて、二人の間に隙間が出来る。顔を上げて莉月の顔を見ると目の奥に熱を感じた。
 欲を宿す男の顔を見たのは初めてだった。
 またキスが降ってくる。
「ん、わ、ぁ、ぁ、りつ、き」
 今度は唇だけでなく頬や首筋にも口付けてきて、合間に声を上げているとじゃれ合うように莉月に押されて床に倒れる。
「奏羽さん、好き、大好き」
「……えー……へへ」
 自分でも良く分からないが謎に照れてしまい曖昧な笑みを返す。けれど莉月は一緒には笑ってくれず真剣な表情で見下ろしてくる。
「キスの先、しても良い?」
「……キスの先?」
 たった今キスを覚えたばかりなのにその先と言われてもぼんやりとしか想像が出来ない。
「触ってもい? 奏羽さんに触りたい」
 仕事のすぐ後でエプロンを付けたままだった。莉月がそれを捲り上げてTシャツの脇から手を入れてくる。
「ぁ、待っ、ぅ」
「誰かにされたことある? あ、待って、言わないで、想像すんのすげーやだ」
 勝手に言って勝手に止めて勝手に妬いている莉月に付いて行けずに奏羽は彼の手を掴む。
「……奏羽さん?」
 キスの時はただただ気持ち良くて流されるままだったけれど、いきなりその先となると覚悟が決まらない。当然、体を見せることになるんだろう。二十五まで誰にも見せたことのない部分を莉月に晒す。
 考えただけで無理かもしれない、と思う。世の大人は皆こんな気持ちを経てセックスに挑むのか。それとも最初から平気なものなのだろうか。こんなことで思い悩む自分がおかしいのか。
 固まったままの奏羽に困惑した莉月が仕切り直すように顔を近付けてきた。
キスをされる。
あれだけ望んでいたのに奏羽は思わず避けてしまった。
「……莉月ぃ、無理……俺、無理かも」
 いい大人が泣き出しそうな声で訴えると奏羽に掴まれつつもモゾモゾと動いていた莉月の手が止まる。
 石のように表情を固めた莉月がよろつきながら奏羽の上から退いた。


「……どうして俺は……馬鹿、意気地なし、童貞」
「あ? なんだ、なんか言ったか」
 調理場で鍋を振るう勇信に話し掛けられるが奏羽は何でもないと客席に運ぶ水の準備を進める。
 先日の出来事を思い出しては、仕事中だろうが何であろうが所かまわず発作のように一人反省会を始めてしまう。
 明らかに情緒不安定。自分でもそう思う。だけど染み付いた仕事場での動作には然程影響はなく、オーダーミスやレジの打ち間違い等もないので奏羽の挙動不審に気付く客は居ない。
 たった一人を除いては。
「目が合わないですね」
 今日も元気にカウンターの端を陣取る莉月に焼き魚定食を運ぶとそう言われた。
「そ、そんなことないけど?」
「そんなことあるじゃん。めちゃくちゃ意識してるでしょ、俺のこと」
 その主張は間違いではなく、奏羽は反論出来ずに苦々しい顔をして「お待たせしました、残さず食べて下さい」とトレーを置いてその場を去る。
 はぁ、と莉月の溜息が背中に刺さる。それを何でもないこととやり過ごせずに胸が痛んだ。
 あんな拒否をされてそれはそれは呆れたことだろう。二十五歳の大の男が、セックスを前に半べそで逃げたのだから。
 普通の男ならそんなことしない。付き合ってなくてもチャンスがあれば飛び付くのが雄という生き物だろう。
莉月もそうだったのかもしれない。奏羽があまりにちょろいからセックス出来そうだと判断して適当なことを言っていたのかも——。
気を緩めるとこういう考え方をしてしまう自分が嫌だ。
ヤリ目だとしてもそれの何が悪いのか。イケそうと思えば押すのは当たり前のことだ。奏羽が積極的な人間ならきっと同じようにしている。
これらのことを繰り返し考えるのは如何に己に意気地がないか知らしめて奏羽を最低な気分にさせた。
だけれどそんな日々の中でも莉月は奏羽を見捨てずに店に通ってくれる。あの日の翌日など、もう莉月と会う機会などないかもしれないと落ち込んでいたのに、オープン前に暖簾を出しに外に出たら店先に彼が居て、泣きそうになった。
あの甘い雰囲気から逃亡した自分はとんでもない大馬鹿者だが、莉月は変わらず優しい。例えそれが下心を発端とした優しさでも、やらかしたと思ってガチガチに固まっていた奏羽の心には深く沁みた。

「奏羽さんの元カレってどんな人ですか」
 昼御飯時に来て、一旦帰った後、また夜御飯を食べに来た莉月が閉店後の店内でそんなことを聞いてきた。
 唐突な質問に消毒済みのダスターでテーブル席を拭いていた奏羽は口の中の空気を盛大に吹き出した。
「あ、やっと目が合った」
 視線が絡むと昼間のやり取りを根に持っていたのかそんなことを言う。
「……言っとくけど莉月のこと避けたりしたいわけじゃないからな」
「分かってますよ。意識してるだけでしょ、俺のこと」
「……まぁ、そう」
 昼間とは違い素直に認めてしまうと莉月は何がそんなに嬉しいのか機嫌良く笑う。奏羽は先程の質問をスルーしてテーブルを拭き上げてしまうと調理場に入って自分の晩御飯の支度に取り掛かる。
 勇信の交際相手であるまなみが持って来てくれた魚の南蛮漬けをメインに、余った総菜や味噌汁を適当に並べたものが今日の夕飯だ。それに冷凍してある炊き込みご飯を莉月の分も合わせて解凍する。彼の分の漬物と総菜も用意してトレーに乗せカウンター越しに手渡す。
「え、俺の?」
「うん」
「なんかすいません、いつも」
 奏羽にしてみれば特別に時間を掛けて何かを作っているという感じでもないが、莉月にしてみれば毎回夜食が出て来るというのも気が引けるものだろうか。
「別に手間かかってないし、俺の晩飯のついでだし」
 自分の分のトレーを持って莉月の横に座りながら言う。あまり重荷になることをすると夜に来てくれなくなるかもしれないなとそんな心配が浮かんだ。
恋愛は押したり引いたり匙加減が難しい。奏羽の中で自然と二人の関係性が色恋に結び付いていてそんな思考に恥ずかしさを覚える。
「いただきます」
 隣から声がして、奏羽も手を合わせる。
 黙ってトレーの上のものを順番に食べて行って、最後に味噌汁が少し残ってそれも飲み干してしまうと奏羽は莉月の夜食が乗ったトレーに目をやって全部食べ終わっていることを確認する。
ごちそうさま、と箸を置き、先程までの口数の少なさが嘘のようにすぐに喋り出す。
「さっきの、なんでそんなこと聞いてくんの」
「うん?」
「元カレがなんとかって話。こないだは聞きたくないって嫌がってなかったっけ」
 Tシャツの中に手を入れて直に肌に触れながら「誰かにこんなふうに触られたことはあるか」と聞いて「やっぱり言うな」と一人で騒いでいただろと莉月に言う。
「……嫌なんだけど、でも、奏羽さん、なんかすごいうぶいから前の人とどうやってそういう関係になったんかなって。参考にしようかなって」
「参考て……。つか今から俺が言うこと、絶対引くなよ、笑うなよ」
「え、なに」
「俺今までそういう相手居たことないから。彼氏も、彼女も、ないから」
「……セフレも?」
「ない!」
「え、じゃあ初めて?」
 手の平に汗を掻きながら頷く。エプロンが皺になるくらい握り締めて手の中の汗を吸わす。
「手に触るとか、キス、とかも、誰ともないから」
「俺が、初めて?」
「そう」
「え、マジか……」
 年下相手に恋愛経験がないことを打ち明ける。それがどれほど羞恥心を伴うことか、笑うなと言ったのに堪え切れない感じでニヤケている莉月には分からないだろう。
「やば、嬉しっ」
 語尾を跳ねさせると莉月の手が伸びてきて奏羽の手に重なる。
「好き、すごい好きです、奏羽さん」
 莉月の声で好意を伝えられると心臓に直接響いて息がし辛くなる。それは彼のことが「気になる」以上の存在になりつつある証拠だ。
奏羽が莉月を明確な恋愛対象として意識したのは最近のことだが、彼は「ずっと」奏羽のことが好きだったと言っていた。
それがいつ頃のことなのかはっきり分からない。でもこうなってから考えてみればよく目が合うなと感じていたし、莉月の視線にはいつも熱が籠っていた。
自分はずっと前から莉月に好かれていたのだ。勇信に母以外の愛する人が出来た時も、一人になった奏羽が孤独を感じ始めた時も、莉月は見てくれていた。好きだと思ってくれていた。
それを知ってなお頑なにその気持ちに応えないという選択肢は奏羽の中にはなかった。単純で甘っちょろいと見られても構わない。莉月に抱き締められた時の温もりを忘れることは出来ないし、温かなこの手を振り解くことも出来ない。
奏羽は少しだけ手を動かすと莉月の手を握り返した。

「不束者ですがご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」
「なんすかそれ」
「いや、莉月が年下とはいえ教えを乞うんだからちゃんとしないとなって」
「だからその教えを乞うって一体なに?」
 莉月の言葉に部屋の床で土下座をしていた奏羽がちょこっと顔を上げる。立ったままだった彼は視線を合わすためにしゃがみ込んで奏羽の上半身を起こしてくれた。
「奏羽さんは俺を手練れかなんかだと思ってる? だったとしたら期待外れだよ。ごめんね」
「ヤリチンとは思ってないけどそれなりに経験はあるんだろ?」
「ないよ。俺も初めて」
「……えっ!?」
「声でかっ。鼓膜破れる」
「マジかよ」
「マジですよ。そんなに驚く? 俺の周りもそんな感じだし、別に二十歳過ぎてて童貞って珍しくないでしょ」
「え、ええぇ……そうなん……いや莉月の見た目でそれはないと思ってたから……」
「なんすか、遊んでる男の方が良かった?」
「そんなわけ——」
 床に座り込んだままで莉月がTシャツを脱ぐ。
「……意外と着痩せするタイプなんだな」
服を着ていた時は細身だと思っていたが腕も胸もがっしりめで、腹周りも引き締まって綺麗な筋肉が付いている。ますます奏羽は自分の体を見せるのが躊躇われる。
「俺も脱がなきゃダメ?」
「別にどっちでも良いですけど、見ますよ」
 どちらでも構わないけど見る、というよく分からない日本語に首を傾げていると莉月が奏羽の手を取り立ち上がる。これはベッドへの誘導だ。分かっていて奏羽は立ち上がり、莉月に手を引かれるまま数歩歩く。
 二人してベッドに腰掛けると二人分の加重に木枠が驚いたみたいにギシギシッと音を立てる。
「ん、う」
 すぐに莉月の唇が奏羽の口にぶつかってくる。思ったよりも勢いがあって、鼻がぶつかり強く目を閉じる。
 上下の唇を割って莉月の舌が口内に入ってくる。それに応えて舌同士が触れ合うとまるでスイッチを押されたように思考が性欲全開に傾く。
「はっ、ぁ、っ」
 油断したら唾液が零れそうなほどだらしなく口を開けて莉月の唇や舌を貪る。当然こうなるまで知らなかったことだが、奏羽は莉月と交わす口付けが好きだ。柔らかくて優しい莉月の舌に口の中を掻き回されると頭の中が真っ白になるくらい気持ちが良い。
莉月にも同じように思って欲しくて経験がないながらも夢中になって吸って食んでいると生温かった口内はどんどんと熱くなる。それと同時に耳朶を指で挟まれ撫でられて体温もどんどんと上がっていく。
 後頭部に柔らかな感触が当たって薄っすらと目を開ければ莉月の顔が眼前にあり、その後ろには天井のクロスが見えた。
 莉月の舌の動きに翻弄されている内にいつの間にかベッドに倒されていたようだ。
 触れられていた耳と頬がジンジンする。ぼんやりと力を抜いてベッドに寝転がっていると布が擦れる音が耳に届く。腹の方がすうっと冷えてTシャツを捲り上げられたことが分かる。莉月の手が腹に触れる。贅肉は付いていないが、かといって彼ほど引き締まっていない体を見られるのは恥ずかしい。確かに羞恥心を覚えているのに脳内はキスの余韻に浸っていて莉月に待って欲しいとも言えない。
「……奏羽さん、触るよ」
 もう触ってるじゃないかと目だけを動かすと腹を撫でていた莉月の手がスーッと上の方へ上がってくる。女とは違い膨らみのない胸を揉んでくる莉月を何故か健気に感じて触れることの出来ない胸の奥の方が騒ぎ出す。
 奏羽は手を伸ばし莉月の髪を撫でた。思っていた以上に柔らかくて、撫でている内に顔が見たくなって指で前髪を避けるように触れた。すると奏羽の手付きに気付いた莉月がこちらを見てくる。だけど目が合ったのは一瞬だけですぐに莉月の顔が視界から消えた。それと同時に胸に甘やかな刺激が走る。
「あ、わわ、っ、な、ぁ」
 チュッ、とキスの時のような啄む音がする。何が行われているか予想は付くがこの目で確かめたくて奏羽は頭を起こす。首の辺りまで捲り上げられたTシャツの少し下に莉月の顔がある。彼のピンクの舌が奏羽の乳首を舐め上げようとしている所で、唾液を絡めた柔らかい感触が当たると背中がピリピリと痺れる。そうしながらもう片方の乳首は指で摘まんだり指の腹で捏ねられたりするものだから奏羽は何処に感覚を集中させて良いのか分からなくなる。ただ、明確な意思を持って触れられているから莉月の指先から熱が移って、ぐんぐんと欲が湧き出てくる。
「ぁ、ぁ……くすぐった、い」
「……それだけですか?」
「んん、ぁ、っ」
 膝同士を擦り合わせていると胸にあった莉月の手が下がって脇腹や臍を経由してズボンの股間部分に触れた。下半身がビクッと震える。
「あ、や、だ、そこ」
 訴えても止めてくれるはずもなく、ズボンを押し上げている部分を莉月の指先がカリカリと掻いていく。
「ここはくすぐったくないよね?」
「う、ぅぅ」
 布の上を何度も指が通っていく。経験はなくとも焦らされている自覚はある。
「触って欲しい?」
 ダメ、と言いながらも聞いてくれて助かったとばかりに奏羽は頷く。
「じゃあ腰上げて」
 ズボンのボタンを外され、チャックも下ろして貰うと奏羽は言われるがままに腰を浮かす。莉月から受け取った熱が全て集まっているかのように下半身が疼く。早くどうにかされたい。
「顔、可愛くなっちゃってる」
 強請るような顔をしていただろうか。莉月が言って頬を撫でる。ほんの少し穏やかな空気が流れたがそれもすぐに終わって、ズボンは下ろされTシャツに下着一枚という姿にさせられた。
「奏羽さん……濡れてる」
 すでに先端から先走りの汁が滴り、ボクサーパンツの上から強く触れられるとすぐに布に染みが拡がっていく。
「うー、待っ、待って、はずい」
「隠さなくていいって。大丈夫」
 キスと胸への愛撫くらいで完勃ちしているのは流石に居た堪れなくて手を動かして下半身に持って行こうとするとすぐに莉月に払われてしまう。そのままボクサーパンツも脱がされて下は何も身に着けていない心許ない状態となる。
 奏羽は諦めが付いたように後頭部をシーツの上に付けて「うう」と唸りながら視線だけ莉月の方へ投げる。
そこで思い付く。自分だけではなく平等にしようと。
「……莉月のも、見せろよ」
「え?」
「俺ばっかずるくね」
「ずるいとかそういうんじゃないと思いますけど」
 言いながらも莉月は渋ることなく穿いていたズボンのボタンを外す。自分事で精一杯だったが、よく見れば莉月の穿いているズボンの股間部分は盛り上がっていて、それを確認するとこんな特徴のない体にも反応してくれていると嬉しくなる。
「……勃ってんね」
「好きな人に触ってんですもん。そりゃあ勃ちますよ」
 チャックも下ろして腰元が緩んだズボンを下げると莉月はそのまま思い切り良くボクサーパンツも引き下げた。
 布に引っ掛かって一度下がった陰茎が昂り具合を表現するかのように上向きに戻ってくる。自分のモノよりも太くて長い陰茎に他人のモノなど見る機会がなかった奏羽は釘付けになる。
「す……すご」
「あんま見ないで。俺もそれなりに恥ずかしいんで」
 莉月が膝を擦らして奏羽の足の間に割り入ってくる。上から伸びてきた手が胸の飾りを愛撫して、もう片方の手は奏羽の陰茎を包み込む。
「ふ、ガチガチ」
「う、あ」
 上下に扱かれて太腿がむずむずとしてくる。
一人でするのとは全然違う、莉月の手がどう動くのか予想も出来ず奏羽は与えられる快楽に抗えないまま腰を揺らしてしまう。
「奏羽さん、気持ちい?」
「ぅ、ぅ、い、い、気持ちい、ぁ、ぁ、ダメ、早くしたら、ダメ、ぁ」
「腰振ってるから早くして欲しいんだと思ってた」
「あ、ん、違っ、うぅ、勝手に動いちゃ、っ、うぅぅ」
 先端から止めどなく溢れる蜜を引き摺って莉月の手の動きがどんどんと速くなる。それに加えて自分で上下に腰を振ってしまい、上がってくる射精感を抑えることも出来ずに奏羽は呼吸を乱す。
「んぁぁっ、イキッ、そ、イキそ、りつ、出そう、あ、あ」
「いいよ、全部出切るまで扱いててあげる」
 その言葉が聞こえると背筋から頭のてっぺんに向かって快感が走っていく。あとは身を任せているだけで自然と膝が震え出す。
「ああぁっ、っ、イク、イクッ」
 もう竿は扱かれず、射精を助けるように濡れた亀頭ばかり刺激されると先端から勢い良く白濁の液が飛び出す。
「ぁ、ぁ、は、あ、はぁ、はぁ……あぁ、出たぁ……ん、う」
 大きな波のように快楽が押し寄せて、緩やかに引いていっても莉月が手を動かせば先端からはぴゅくぴゅくと精液が飛ぶ。
「……奏羽さん」
 詰まったみたいな声色で名を呼んでくる。
 射精後の気怠さで瞼が重たくなってくるが、黒目だけを動かして莉月を見ると反り返った陰茎を手で押さえて奏羽のまだ辛うじて硬さを保っている陰茎に擦り付けてくる。
「まだ頑張れる? ……俺も、出したい」
 先端同士を触れ合わせて大きな手の平で束ねてしまうと莉月は一緒に扱き出す。
「はっ、あ、うっ、う、りつき」
「うん、名前、いっぱい呼んで」
「りつき、りつきっ」
 手の動きだけでなく莉月は腰を揺らして上り詰めようとしている。奏羽は揺さ振られながら不安定な視界の中でも何とか彼の姿を捉えようと出来るだけ瞬きを抑えて真っ直ぐに視線を向ける。
 互いに下半身を硬くして性欲のままに手を動かして腰を振る。冷静になってみると何と間抜けな姿だろう。
それなのにどうしてだか莉月のことが愛おしくて仕方がない。
「っ、りつき」
 名を呼んで口をハクハクと動かすと莉月が上半身を倒してキスをくれる。
「ぁ、はー……出そ、奏羽さん、イッてい?」
「ん、ん、う」
 頷くと莉月の腰の動きが早くなる。それに伴い彼の手の中の亀頭も擦れ合ってぐちぐちと濡れた音を立てる。
「んー、う、俺も、っ」
 莉月の手付きと腰の動きに煽られて奏羽も二度目の射精が近くなる。
「あっ、俺のが先、イッちゃいそ……っ、う、ぁ」
「ぅ、わっ」
 束ねられた陰茎が解放されて莉月が自分のモノだけを扱くと勢い良く出た精液が奏羽の顎先から唇に掛けて飛んできた。
「はぁ、は、はっ、あ、奏羽さん」
 上がった息はそのままに莉月はすぐに奏羽の陰茎だけを握って手淫を再開させる。
「ぁ、いいって、もう」
「でももうイキそうでしょ。先っちょパンパン」
「ふ、あぁ」
 強く扱かれてもどちらのものか分からない体液が潤滑油になって全く痛みはない。
「あー……あ、イクッ」
 莉月のあとを追うように再び達して欲を吐き出し切った奏羽は胸を上げて呼吸し、ぐったりと体の力を抜いた。
「奏羽さん、風呂、シャワー浴びま——」
 声が遠く聞こえる。
 ああ、そうだ。シャワーを浴びなければ。莉月も家に帰るだろうし、そうなったら彼を見送って店に鍵を掛けなければならない。
 まだ一日は終わっていない。
ぎりぎり開いている目に莉月の姿が映る。何か言っているが脳がシャットアウトしているのか耳に膜が張っているようにぼんやりとしか聞こえない。頬を撫でられて心地良さから一度目を瞑ってしまう。そうしたらもう体は完全に動かなくなった。
情けないことに瞼すら持ち上げられなくなって、奏羽はそのまま意識を手放した。


 んが、と鼻が詰まって、自分の寝息で目が覚めた。
 ぼやっとした視界も何度か瞬きをするとクリアになって室内の壁紙で自分の部屋だと判別が付く。
 その場で背伸びをすると腕が何かに当たる。それに狭苦しいことにも気付く。
 そこでハッとして隣を見ると莉月が居た。
「……そうだ……そうだった」
 寝落ちる寸前までの記憶が蘇って、やってしまったと溜息を吐く。どうしよう、起こした方が良いか。その前にシャワー……莉月も浴びてないよな、いやでも二人で体液撒き散らした割に男臭さがない気がする。
 奏羽はタオルケットを退けると起き上がってスンスンと鼻を使う。やはり、特有の臭いはない。
改めて自分の格好を確認すると昨日身に着けていたものとは違うTシャツにボクサーパンツを穿かされていた。体のべたつきも感じられない。もしかしたら莉月が綺麗にしてくれたのかもしれない。それか昨晩の出来事は奏羽が見た都合の良い夢――流石にそれはないか。どちらにせよ一旦風呂に行こう。というか今何時だ。
 覚醒により停止していた思考が忙しなく巡っていく。
 とりあえずベッドを出よう。そう決めて体を動かすと腕を掴まれた。
「おはよ……奏羽さん」
「あ、莉月……はよ」
「……幽霊見たような顔しないでくださいよ」
「え、そんな顔してる?」
「うそ、可愛い顔してる」
「お前なぁ」
 朝から甘いんだよと莉月の頭を撫で付ける。
「……昨日、寝落ちてごめんな」
「気にしてません。仕事のあとだしね」
「もしかしてだけど体、拭いてくれた? なんか全然臭くねぇし」
「ああ、何回も声掛けたけど奏羽さん全然起きないんで洗面所使わせて貰ってタオルで拭いてパンツとTシャツ適当に出して着せました。あと俺もパンツだけ勝手に借りちゃった。すいません」
 言われて見れば莉月もTシャツにパンツを穿いているだけで、若干ピチピチのボクサーパンツは奏羽の見覚えある物だった。
「いや、それは全然いいよ。それよりほんとにごめん。マジで迷惑掛けた」
「だから気にしてないって。体拭きながら色々触らせて貰って楽しかったし」
「……どこ触ったんだよ」
 ニコニコと機嫌良く笑うものの質問には答えない莉月の頬をプニッと摘まんでから奏羽はベッドから下りる。
「俺シャワー浴びるけどお前も風呂場使うよな」
「奏羽さんのあとにシャワー浴びさせて貰います」
「じゃあシャワー浴びたら朝飯作るからそのまま店の方来いよ。あ、また下着着替えるんならクローゼットから適当に持ってって」
「はい」
 素直な声色を耳にしながら奏羽は部屋のドアへと歩いていく。
「奏羽さん」
 呼ばれて、軽く振り返る。
「昨日、すごい可愛かったです」
「……俺、男だから可愛いはちょっと……どうリアクションしたら良いか分かんない」
「じゃあ言い方変えます。奏羽さん、昨日すごい可愛くて俺我慢すんの大変でした」
「……いや、なんも変わってないから。逆に付け加えられてるから」
 照れてしまって苦い表情しか出来ずに再びドアへと向かい扉を開ける。奏羽さん、好き、と莉月の声が聞こえたけれど、見せられる顔をしていない気がして今度は振り返ることが出来なかった。
 俺も、好き、と返せば良かった。

 二階には部屋とトイレしかなく、風呂場は一階なので下に下りてシャワーを浴びる。風呂から出たら二階の莉月に声を掛けて奏羽は調理場に続くドアを開けた。
 時計に目をやって勇信が来るまでまだ時間があることを確認すると冷凍庫に入れておいたおにぎりを取り出す。味噌汁は冷蔵庫、おかずになりそうな総菜もある。
目玉焼きでも作ってみるかと「卵、卵」と呟きながら業務用冷蔵庫を開けようとした所で外から音が聞こえた。
 店のドアが揺れるような音。
 奏羽は再び時計に目をやる。さっき確認した時から然程時間は経っていない。勇信はまだまなみと暮らす家から出ていないだろうし、そもそも裏口の鍵を開けて入ってくるので店のドアをどうにかする必要はない。
 では、強盗? とも思ったが朝早い人ならばもう外を散歩している時間だ。盗みに入るにはリスクが高い。となると単なる気のせいだろう。
 動きを止めていた奏羽は冷蔵庫を開けて卵を二つ取り出すとまた手を止めた。
 やはり聞こえる。トントン、とドアが叩かれている。取り出した卵を調理台の上に置いて奏羽は店のドアへ向かう。
鍵は掛けてある。誰だか知らないが、店前にいるのが暴漢だとしてもいきなり蹴破られることはないだろう。
 トントン、と決まった間隔でドアを叩いてから「すいませぇん」と、か細い声が聞こえた。女の声だ。一瞬勇信のパートナーであるまなみかと思ったが、やはりまなみも店の鍵を持っているからすぐに候補から外れた。
「……どちら様でしょうか」
 恐々とドアの向こうに声を掛けると外から「あっ」と驚いたような声がした。いやこっちの方が吃驚しているんだが、と言いたくなるが相手の答えを待ってから店の鍵を開けようと返答を待った。
「……ゆき、です」
 と聞こえて何処のゆきだ? と奏羽の頭上にクエスチョンマークが浮かぶ。
「谷川有紀です。莉月の……」
 ここまで言われて漸く思い当たった。莉月の幼馴染だ。
 急いで鍵を開けてドアを開くとTシャツにスウェット、眼鏡姿の彼女が眉を下げて「早朝にすいません」とさっき聞いたものと同じ声色で頭を下げた。
「どうしたんですか」
「あ、あの、莉月が電話に出なくて、家にも居ないし、大学が違うので彼の友人の連絡先も分からなくて……こちらのお店によく来るってことは聞いてたのでもしかしたらと思って」
「え、莉月、ですか」
 彼女が訪ね来た理由が分かって奏羽は一歩下がる。すると有紀は店の中に入って良いと判断したらしく、一歩進んで店内に足を踏み入れてきた。
「えっと、莉月なら」
 居るには居るが、どう説明しようか。いや、普通で良いんだ。男友達ならば特別な理由はなくても互いの家を行き来するものだろう。
「あれ、有紀?」
 迷っている内に背後で声がした。
肩にタオルを掛けて髪を拭きながらやって来た莉月はいかにも「お泊りしました」という出で立ちで、奏羽は慌てて有紀に「昨日ちょっと二人で飲んでそれで潰れちゃって」と意味の分からない弁明を始めた。が、有紀の視線は奏羽に向かうことなく真っ直ぐに莉月に注がれていて奏羽は言い訳を止めた。
「莉月っ、おばちゃんとおじちゃんから電話掛かってなかった?」
「え? あ、スマホ見てないな」
「おじいちゃんが倒れたって、莉月が電話に出ないから私に掛かって来たんだよ。すぐ帰ってきて欲しいって」
 会話の内容は莉月の祖父が倒れたというもので、彼の田舎での暮らし振りなど知りもしない奏羽でも緊急性の高さは理解出来た。
ただ、二人のやり取りは何処か遠い。ガラスの膜が張られた、奏羽の手が届かない場所での出来事のようだ。
有紀みたいに莉月の両親と彼の間を取り次ぐようなことも、会ったことはおろか話すら聞いたことのない莉月の祖父の容態を聞いて慰めることすら出来ない間柄なのだと思い知らされる。
「じいちゃんのことだからまた大袈裟に言ってんだよ。俺が帰んないから倒れたネタで呼び戻そうとしてんだって」
「もう! すぐそんなこと言う! とにかく帰って来いって言ってるんだから帰らなきゃ」
 有紀がバシッと莉月の肩を叩いてチラリと奏羽に視線を向けたが、絡んだ視線はすぐに解かれた。彼女は莉月がゲイだということを知っているのだろうか。莉月から聞いたわけではないが、知っている感じがした。だとしたら今日のこの状況だけで莉月と奏羽の関係性を敏感に察知した可能性もある。
 考え過ぎか。
 奏羽は有紀がしたように莉月の肩を叩く。
「じいちゃん大変じゃん。帰った方が良いよ」
「いやでも……なに言われるか大体分かってるし」
「それならそれでちゃんと話さないと。てかじいちゃんマジで倒れてる可能性もあるんだからまず電話してこい」
 自分が掛けた言葉なのに、中身は空っぽだ。奏羽は莉月の田舎の家での立場や両親の思い、莉月が帰省を渋る理由、これらを何も知らない。だからどうしても薄っぺらい説得しか出来ない。
莉月の人生の大半を把握しているであろう有紀の前でこの有様なのは物凄く惨めだった。彼女は何も悪くない。ただただ、二人の歴史に太刀打ち出来なくてもがく己がみっともなくて笑えた。

 奏羽は二人を見送ったあとで朝食を作り、トレーを持ってカウンターに向かった。
 いつも莉月が座っている場所は空けて隣に座ると静まり返った店内で一人手を合わせる。最初に味噌汁を少し飲んでおにぎりを食べながら漬物に箸を伸ばす。
莉月に、暫く来れないかもしれない、と言われた。田舎に帰るのだからそれはそうだろうと「気を付けて」とだけ伝えた。
莉月は奏羽に触れたそうな顔をしていた。奏羽も触れて欲しかったけれど、有紀の手前どうすることも出来ずにハグもキスもせずに帰っていった。
「寂しいな」
 思ったことを呟くとシンとした店内に奏羽の声はよく響いた。勇信や客の話し声という障害物がないとこうもはっきりと聞こえるのか。だけれどそれは奏羽が孤独である証拠のようで、飲み込まないと次から次へと口を吐いて出そうで急いで残りの朝食を食べていく。
 これまでだって恋人もおらず一人だった。勇信が居なくなったあとは本当の意味でも一人になっていたのだから平気なはずだ。それに莉月と一緒でも会話が盛り上がるわけではない。夕飯の時も隣に居るだけで一人で食事しているのと変わらない。
 そうだ、そうだ。
 自分の考えに同意するように深く頷きながら味噌汁椀を持ち上げる。しかし口をつけることが出来ない。鼻の奥が痺れて痛い。涙が溜まっていくのが自分でも分かる。
 隣に居る、そばに居る、それだけで良い。会話なんてなくても二人分の咀嚼音に救われる。誰でも良いわけじゃない。莉月が良い。
 大人になっているのは体だけで、心はいつまで経っても成長せず我儘な子供のようだと呆れる。相反する感情が渦巻いてこれをどう捌いて折り合いを付ければ良いのか、自分のことだというのにやりようがなくて苦しい。
味噌汁椀をトレーの上に戻して手で乱暴に目元を拭うと、穿いているスウェットのポケットの中でスマホが短く震えた。
 取り出してカウンターの上に置く。いつだかのSNSの投稿にコメントが付いていた。「DMしようと思ったんですけど送れなかったのでこちらから失礼します。最近お見かけしませんがお元気ですか? 彼氏さんともラブラブかな」というメッセージだった。DMは出会い系やいかがわしい画像が送られてくることもあるのでちょっと前に受信拒否にした。わざわざ生存確認して貰い申し訳ない気持ちと心配されてほんの少し嬉しくなるような思いでふっと息を吐く。
 確かにここ数日はSNSの存在を忘れていた。音声配信も莉月とやった以来していない。依存度が減ったといえば良いことなのだろうけど、結局それが莉月に移ったとすればあまり褒められたことではない。
 またいつ一人になるか分からないのだから。母を失った時のように。父が家を出てしまった時のように。
 いつからこんなに弱くなったのか。学生時代は友人らとあっちへ行きこっちへ行き駆け回っていたから気付かなかっただけで元々弱メンタルだったのかもしれない。
 奏羽はスマホを手に取り、久し振りにSNSを開くと先程のコメントに「元気です! 彼とも上手く行ってますよ」と返事をした。
 偽りではないはずなのに、嘘を吐いてしまったかも、と思った。



 莉月が店に来なくなって五日が経っていた。
 初日の段階で「なんでりつくん来ないの」と騒いでいた勇信も、祖父の体調が悪いらしいと伝えたら納得してそれからは一度も莉月の名を口にしない。彼の話題にならないから、奏羽も莉月の名を呼ぶことはない。
ただ、考えはする。というかいつも頭の中にある。考えることを止めたら莉月の存在自体が怪しくなりそうで怖いというのもあって、暇があればすぐに脳内に思い浮かべられるように彼の姿は常に奏羽の頭の片隅にあった。
「……連絡してみようかな」
 勇信がそんなことを言い出したのはランチ時の忙しさを乗り越えたあとのことだった。奏羽は「誰に?」とは聞かなかった。
「父ちゃん、莉月の連絡先知ってんのかよ」
「知らない」
口には出さなかったもののここ数日勇信も莉月のことを考えていたらしく、餃子の皮に餡を入れて包みながら「奏羽、してみてよ」と言う。奏羽は出来るもんならとっくにしてるわと心の中で愚痴りながら「俺も連絡先分かんない」と返事をした。
「えっ、あんだけ仲良いのに!? もう友達みたいだったろ」
「だってあいつ毎日来んじゃん。だから連絡先の交換とか……忘れてた」
「我が子ながら抜けてるわ。馬鹿だね~」
 何とでも言え、と奏羽は口をへの字に曲げる。
勇信に言った通り、本当に失念していた。莉月は毎日店に来ていたし、連絡を取り合う必要がなかった。最後に会った時もすぐにまた会えると思っていたから連絡先を交換しておくという基本的な項目が抜け落ちていた。
多分、莉月の方もそうだろう。
田舎に帰る途中か帰ってからか、連絡先の交換をしていないことに気付いて、それなら店の方に掛ければいいじゃないかとネット検索をしても【たかね】の電話番号には辿り着けなかったはずだ。
今は仕入れなど必要な連絡は全て父のスマホが窓口になっている。もし古い情報が削除されずネット上に残されていたとしてもそれは何年も前に解約をした固定電話で繋がりはしない。
だから莉月が店に来て顔を合わすか、誰かが莉月と奏羽の間を行き来して橋渡しをしてくれない限り接点は失われたままとなる。
やはり前者、莉月が帰ってくるのを待つしかない。この店以外で会うことがなかったから共通の知人という者はなく、後者の手は全く使えない。
奏羽の代わりに勇信が手詰まり感満載の溜息を吐く。一人で考えても二人で考えても出来ることは何もないのだと痛感していると店のドアが開く音がした。
昼営業後は一度店を閉めるのだが常連や準備中と書かれたプレートが目に入らない客は勝手に入って来たりする。今回もそれだろうと出入口に目をやると見知った顔が店内を覗いていた。
「……あの、こんにちは」
「あー、有紀ちゃんだ」
「誰……あ、りつくんの彼女か」
 勇信の声は耳に入っていたが無視をして、奏羽は手洗いをしてから店のドアへと近付く。
「どうしたの?」
 もしかしたら莉月も一緒かもしれないと胸が逸るも有紀は一人だった。落胆は見せずに「中、どうぞ」と笑顔で招いてみるが彼女の視線が勇信を気にしていたので奏羽は身に着けていたエプロンを外した。
「父ちゃん、悪いんだけどちょっと出てくるわ」
 話があるのは間違いないけれど勇信の前では話し難いというのが有紀の態度から伝わってくる。それならば奏羽が店から離れた方が良い。そうまでして有紀と二人きりになりたかった。
 きっと莉月のことで何かあるのだと思ったからだ。

 有紀には店から歩いてすぐの場所にある公園で待っていて貰った。平日の昼間、遊ぶ子供よりも時間を潰しているサラリーマンの方が多く、各所に設けられたベンチはスーツ姿の大人に占拠されていた。
 夏の陽は強いが、木々が多く有紀の座っていたベンチも日陰のおかげでいくらか涼しい。
「お茶しかなかったけど良かったら飲んで」
「あ、すいません」
 奏羽が店から持って来た麦茶のペットボトルを手渡すと有紀は受け取るだけでキャップを開けようとしない。
「すごく冷えてますね」
「さっき冷蔵庫から取り出したからね」
その冷たさを身に移すように有紀はペットボトルを両手で包む。奏羽もベンチに腰掛けて有紀の隣で麦茶のペットボトルを開けた。
「莉月、今日戻ってくるみたいです」
「そう、なんだ」
「連絡なかったですか」
「連絡先交換してないんだよね」
 有紀が意外そうな顔をする。本人ですら何で連絡先を聞いておかなかったんだろうと思うのだから他人はもっとそうだろう。
「多分、一番に店に顔出すんじゃないかと思います」
「腹減ってんのかな」
 ふふ、と笑って有紀を見ると彼女も同じように笑みを作ったがそれは一瞬のことでそのあとは泣き出すんじゃないかというくらい不安げに眉を下げた。
「莉月の家、地元では有名な懐石料理店なんです」
「……はぁ」
 莉月の話をされると思っていたが、本人のことというよりもその周辺の話が出てきて奏羽は相槌の仕方に困って息を吐く。
「他にも鰻屋さんとお弁当屋さんととんかつ屋さんを経営してます」
「そ……それは、すごいね。中々のやり手だ」
 どう答えるのが正解か分からず、とりあえず思ったことを口に出す。有紀は奏羽を見ない。視線はやや下気味に落ちていて、公園のさらさらの砂を見つめているように見える。
「だから莉月のご両親もおじいちゃんも莉月に地元に帰って来て欲しいって思ってるんです」
 働き手が必要ならば幾らでも求人募集すればいい。有紀が言いたいことはそういうことではなく、経営的な所で莉月が必要とされていると言いたいのだろう。
奏羽が親の立場だったとしてもそれだけの店を持っていれば子に継いで欲しいと考えるかもしれない。
「だけど、莉月、帰らないって……こっちで就職見つけるって言ってるらしくて、それでおばちゃんたちと揉めて、帰省もしなくなっちゃったりで……」
本人から聞かされるならまだしも彼女から莉月の実家、彼の進路のことを聞かされてもリアクションに困ってしまう。
「……それ、俺が聞いても良いことなの?」
「聞いて貰わないと困ります」
 絞り出した言葉は有紀の強い口調を引き出してしまうことになる。彼女の顔は段々と赤く染まっていく。それは外気温が高いからとかそういったものではない。
 ああ、そうか。
 この子はまだ莉月のことが好きなんだ。
「莉月が地元に帰らないって言ってるのは多兼さんが居るからです。莉月が多兼さんのこと好きって知ってますよね」
 有紀が握り締めるペットボトルは水滴を垂らして、彼女の手を伝って零れ落ちる。
「莉月が、多兼さんが居るっていう理由だけでこっちで就職する、それって多兼さんにとってはどうですか、迷惑ではないですか。重たくはないですか」
有紀の顔から目を離して砂の上に落ちて染みを拡げていく水滴を眺めて息を吸う。さっきまでは何ともなかった空気がやけに熱い。
「莉月が実家を捨てて多兼さんを選んで、多兼さんもそれを受け入れた、とします。それに責任を持てますか。莉月の人生を背負うんですよ」
 単なる幼馴染とは思えない発言だ。それこそ莉月の実家を背負って立つような口振りに、もしかしたら彼女は将来莉月と夫婦になって——と彼の家族から期待されているのかもしれない。
「……有紀ちゃんは、持てるんだ、責任」
 隣に居る有紀が少しして「持てます」と返事をくれる。
「莉月が望んでいない未来でも? 彼がそれで潰れてしまったとして、それでも無理矢理立たせて家に縛り付けるの?」
 意地悪な聞き方をしてしまった。奏羽が知らない二人だけの歴史があるのに。
 口にしてすぐに謝ろうと思った。言い方が悪かったと。
「あの、有紀ちゃん、俺……うわっ」
 顔を上げて有紀を見ると瞬きもせずぼたぼたと涙を流していた。
「ごめんなさい、興奮してしまって……すいません、本当に……でも莉月のことを思うと、もし多兼さんと上手くいかなかった時に、莉月が傷付くんじゃないかと思うと、私、私……」
 涙が落ちて砂の上の水滴と一つになる。
 奏羽は慌ててキャップを開けただけで口を付けていなかった麦茶のペットボトルを手渡す。有紀が持っていた方は奏羽が引き受けると彼女は喉を鳴らして麦茶を飲んでいく。
「……莉月のこと、好きなんだね」
 指摘をするとペットボトルから口を離した有紀が目を見開いてまたぼろぼろと泣き出す。
「ほんとは分かってるんです。私じゃダメなことも、莉月が自分の選択に後悔しないことも。諦めの悪い私が悪いんです。でもどうしても考えちゃう。女として関われなくても家っていう理由があれば私は幼馴染だから莉月に関われるって。だからいずれは莉月も地元に帰って来て欲しい」
 ううう、と嗚咽を漏らして泣き出した有紀を慰めることも涙を拭ってやることも出来ずに奏羽はただただ自分たちを陰で包んでくれる木々を見つめる。
 ランチ休憩が終わったのかサラリーマンたちが公園から出て行く。木々の合間から差す光を見つめる奏羽と手で顔を覆って泣き声を上げる有紀にちらりと目をくれるも痴情のもつれくらいに思っているのだろう、さっさと横を通り過ぎていく。
「……私が、男だったら、好きになって貰えたかな、莉月に」
 一頻り泣いた有紀が独り言のように言う。
 そんなに簡単なものじゃないというのは有紀本人も理解しているはずだ。きっと何度も考えたに違いない。答えはないのに、だけど口にしてしまう。
誰かの何かになれずに悔しい。寂しくて、情けない。
奏羽にも心当たりのある感情だった。
 でも奏羽は何も言わない。有紀が望む言葉を持ち合わせていないし、彼女を慰めるのは自分ではないと思う。
 その代わりに泣きじゃくって乱れた有紀の前髪を元に戻してあげようと彼女に断りを入れてから手で撫で付けた。



 有紀が帰って夕方の営業が始まって間もなく彼女が言っていた通り本当に莉月は現れた。普段の、トートバッグ一つだとかそういう身軽な格好とは異なりリュックを背負って片手には紙袋をぶら下げていた。更には眼鏡姿だったので一瞬莉月に良く似たメガネ男子が来店した、と思っていたら本人で、その風体からこれもまた有紀の予想した通り実家帰りのその足で何処にも寄らずに店に顔を出したのだと分かった。
 カウンターのいつもの席に座る莉月を目で追って、少し経ったら水の入ったコップを持って行く。
「えっと……ヒレカツ定食、豚汁変更で。あ、あと、地元のお土産」
 まずは客と店員という関係らしく莉月が注文をして、それから持っていた紙袋を手渡してくる。中を見ずとも袋に商品名が書いており、その上に〇〇名物と記されてそれで莉月が何処の出身なのか知る。
「ありがとう……あ、父ちゃんがすげぇ心配してたよ。莉月のこと全然見ないって」
「え、そうなんですね」
 奏羽が言うと莉月はカウンターの向こうを覗いて勇信の姿を見る。勇信もこちらの視線に気付いて手を振って、莉月がペコッと頭を下げた。
「……このまま閉店まで居る?」
「あ、一回家帰ってからまた来ようかなって思ってた。いい?」
「そか。……じゃあ待ってる」
 オーダーを取ってしまったらさっさとカウンターから離れるべきなのに仕事に戻るのが嫌になる。
ここでずっと莉月の顔を見ていたい。
 勿論、そんなわけにもいかずすぐに勇信が提供に行ってくれと声を掛けてくるから奏羽も莉月の注文を伝えるために足早に調理場へと戻った。

 一旦一人暮らしの家に帰った莉月が閉店一時間前に店に戻って来た。
 店には客が二人居たがそれ以上来店客は増えず、調理場の清掃に取り掛かった奏羽をよそに莉月と手の空いた勇信が久々の会話で盛り上がっていた。
 盗み聞きするつもりはないが自然と耳に入ってきた内容によると「倒れたと聞いていたのに祖父は元気で入院すらしていなかった」「すぐにこちらに戻ろうとしたが夏休みなんだしゆっくりして行けと家族総出で引き留められた」とのことだった。眼鏡については実家でコンタクトケースを無くしてしまったということだ。
 閉店三十分前になると莉月以外の客は居なくなって、こういう日は早めに店仕舞いをすることもあるので勇信を先に帰してから奏羽は暖簾を仕舞った。
「なんか食う?」
「なんも要らないです。奏羽さん、夕飯の準備してんの?」
「うん。ついでだから莉月の分も作るよ」
「俺はいいです」
 だから早く、と言わんばかりに莉月が見てくる。カウンター越しにそんな熱い視線を浴びたら逆に動きが悪くなってしまう。
 何とか簡単な夕食を用意してトレーを持って莉月の隣に向かう。勇信が帰るまでタブレットとノートを拡げて課題をやっているように見えたが、今はバッグの中に仕舞ったのかカウンターの上は綺麗に片付いている。
「話したいこといっぱいあるんです」
 子供のように無邪気に言って莉月はカウンターに真っ直ぐ座るのではなく体全体を横に座る奏羽に向ける。眼鏡の奥の優しい瞳と視線が合って、奏羽はパッと逸らして自分の夕食を見る。手を合わせて適当に作ったお茶漬けを掻き込んでいく。
「奏羽さん? なんかあった?」
「なんもない。けど、眼鏡に慣れない」
 本当は何かあった。目を合わせただけで見透かしてくる莉月に焦って眼鏡のせいにした。
「あ、これ、実家でコンタクトケースごと無くしちゃって……実家、犬飼ってるんですけどそいつ収集癖あって、だいぶ年取ってるからおもちゃと俺の物の区別つかなくなっちゃってんのかどっか持ってちゃったみたいで結局最後まで見つかんなかったんです……またコンタクト作んないと」
「そっか……ワンコ……可愛いな」
「可愛いですけど、収集癖はちょっと困りますね。……今度見に来ます?」
「え、ワンコを?」
「うん。遊びに来て下さい、実家。よく行く定食屋のお兄さんと仲良くなったって言ったら是非会いたいって。あっ、うち、飯屋やってて——」
「知ってる。有紀ちゃんに聞いた」
 食い気味に返事をすると莉月が黙る。その間に奏羽はお茶漬けを食べ切って、漬物や煮物に手を伸ばす。
「やっぱなんかあったでしょ? 分かりますよ、そういうの」
ちょっと前ならばこういう風に構って貰えると嬉しかった。けれど莉月の立場を知ってしまった今は色恋だけで人生を左右する大きな決断をさせてはならないと思う。それは彼の人生よりほんの少し先を行く年長者としてそう思う。
 有紀のお陰だった。彼女に気付かされた。
もっと他の、莉月や奏羽の上辺だけを見て物を言う相手から「男同士なのに」「年下を誑かすな」「年下に騙されてる」なんて悪意をぶつけられる前で良かった。
「……ちょっと離れたろ、俺たち」
「俺が実家に帰ってた期間のことですよね」
「うん。たった数日、だけど、気付いちゃって」
 奏羽はトレーの上に箸を置いた。漬物も煮物も残っている。でももう何も口の中に入れたくない。
「俺は、この店から離れられない。ずっとそうだったから、これからもそうなんだよ」
 莉月を見ると困惑した表情になっている。先程まで眼鏡の奥は優しい目をしていたのに今は不安に揺れている。自分がそうさせている。
そしてこれから先一緒に居てもまた同じ顔をさせる。
 これで良い。これが正しい道なのだと奏羽は自分に言い聞かせる。
「莉月はどうする? これから就職活動だって大変だろ、実家から帰って来いって言われんじゃねぇの? 莉月の将来のこと考えたらそれが一番だよな。大学で勉強して、地元に戻る。家を支えて、親孝行出来る。でもそしたらさ——」
 喋る自分の声や膝に置いた手が震えている。暑い季節なのに背中が寒い。思ってもないようなことを言うのは気分も悪いし、吐き気がする。
だけど自分勝手な意見で莉月を傷付けようとしているのだから身の上に起こる異変など些末なことだと奏羽は全身を戦慄かせて言葉を振り絞る。
「俺は、どうなる? 母さんはとうに居ないし、父さんは他の人のとこに帰る。それで莉月が居なくなったら俺はまた一人に戻る。それが分かってるのに今だけ一緒に、なんて笑えない」
「奏羽さん、俺、こっちに居るよ。奏羽さんのそばに居る。実家には帰らない」
 莉月の顔を見ていられなくて奏羽は下を向いて首を横に振る。
「自分で決めたように言うけど、それは俺のためじゃなくて、いつか俺のせいになる。莉月がそうしなくても莉月の周りが俺のせいにするよ。俺はそれに耐えられない」
「……それは……ちゃんと話をする。時間が掛かっても親父さんやうちの家族にも奏羽さんとの仲を認めて貰えるように頑張るから。それに就職の件は——」
「認めて貰う? 認めて貰えると思う? 有紀ちゃんみたいな良い子がそばにいるの分かってるお前の両親が俺を認めると思うか? 俺が莉月の親なら認めない」
「奏羽さんっ! なんでそんなに自信がないんだよ」
 ドンッと強い音が鳴った。カウンターの上に莉月の手の平が叩き付けられた音だった。奏羽はチラリと目線をやって、小さく笑う。
「……お互いに天涯孤独だったら良かったんかな」
「そんなの関係ないです。俺たちが天涯孤独のゲイでも、何の障壁もない男女だとしても今の奏羽さんならなんやかんや理由を付けて俺を避けるでしょ。奏羽さんは確定してない未来に怯えるばっかで俺自身を見てくんない」
 怒りを抑えているのか莉月の声が上擦っている。
 莉月が椅子から立ち上がる。奏羽は顔も視線も下を向けたままでいる。
「俺のこと見てよ」
 乞われても奏羽は顔を上げない。嫌って貰うためのあともうひと踏ん張りであり、何よりも目を合わせたら奏羽自身が堪えられないと思った。
追い縋ってしまわぬように何も言わず、瞬きもせずに彼の纏う温もりがこの場から去るのをただ待つ。
カウンターの椅子を引く音、荷物を持つ音。そのどれもを奏羽は聞き逃さない。覚えておくのだ。莉月の立てる物音一つも自分のものであったと記憶に刻んでおくために。
「……俺が悪いんですね。奏羽さんに、俺が居れば平気だって思わせられないから」
 悲しみや苦しみ、そういった負の感情をぶつけるものではなく、本当に心の底から申し訳ないといった莉月の声色に胸が引き裂かれそうになった。震え出す唇を噛んで耐えていると店のドアが開いて、ちょっとの間の後閉まった。
「……は、っ」
 今になって莉月がカウンターに叩き付けた手の音が耳に響いてきた。胸を殴られたみたいに心臓の音が速くなる。
 深呼吸なんかではやり過ごせないくらいせり上がって来た嘔吐感に奏羽は急いでカウンターから離れると調理場を駆け抜けて住居スペースと店を繋ぐドアを開けてトイレに駆け込んだ。
 食べた物が悪かったのか、夏場だしなと便器に頭を突っ込んでそんなことを考える。
 だけど、ただえずくだけで何も出ては来なかった。吐き出したいのに吐き出せない、何なら吐き出して終わりにしなくて良かったと思っている。それはまるで莉月への想いのようで、諦めの悪い自分に呆れて便器に向かって笑い声を発してしまった。


 翌日から莉月はまた店に来なくなった。あれだけのことを言ったのだから怒って当然、見限られても仕方がない。
口を滑らせたわけでも何でもなく奏羽が望んでしたことだからこれで良かったのだ。
割り切ったはずなのに奏羽は莉月に会わなくなってから体調不良の日が続いた。といっても見た目に何かあるわけではなくただモヤモヤと胃の周辺が重たい。そこにずっと取れない塊があるみたいに引っ掛かって時折吐き気を催す。
 夏バテ、熱中症、名前の付けようは幾らでもあって休もうと思えば幾らでも休めるのだが奏羽は働き続けた。もしかしたら、有紀が、莉月が、またふらっと店を訪れるかもしれない。その時に自分が居ないというのは嫌だった。臥せっているなんて思われたくなかった。年上の意地ともいえるそんな下らない理由で奏羽は店に立ち続けた。
「明後日から二日間店閉めようかな」
 勇信がそんなことを言い出したのは夜営業の客が帰った後のことだった。
 店は年末年始以外は不定休で休みを取る年もあれば取らない年もあった。休む場合は毎年盆明けに臨時休業を取ることが多く、今年は盆を過ぎても勇信が言い出さないのでこのまま休みはないのかも、それならそれで余計なことを考えなくて済むと思っていたのにここにきての休業に奏羽は戸惑った。
「今年は休まないのかと思った」
「どうしようか迷ったんだけどなんか奏羽すごい疲れてるみたいだし。今日もお客さんに言われてたろ」
 確かに常連客から顔色の悪さと目の下のクマを指摘された。だけどそんなのは世間話の一つに過ぎない。
「いや、俺は大丈夫だよ」
 そう言うも勇信の気は変わらないようでテーブル席に腰掛けて白い紙に黒いペンで【臨時休業のお知らせ】と書き込んでいく。
こんなものは勇信が帰ったら剥がして捨てれば良い。ただ、本当にそんなことをすればワーカホリックを疑われてしまうだろう。
勇信を止めるのは諦めて、奏羽は勇信が座るテーブル席以外を拭き上げ、カウンター席にもダスターを滑らせる。いつも莉月が座っていた端の席まで拭いていると勇信も彼のことを思い出したのか「最近また来ないねぇ」と呟く。
「……莉月? 忙しいんじゃねぇかな、ほら、就職活動とか」
「ええー、就職って言ったって、りつくんまだ二年だろ」
「二年くらいから忙しくなるもんなんじゃないの、知らんけど。てか父ちゃん大学行ってねぇんだから分かんないだろ、大学生の日常なんか」
「奏羽だって行ってないから分かんないだろ」
「……ああ、うん! 分かんねぇよ!」
「な、なんで怒んだよ」
「怒ってねぇよ!」
 と言いつつ明らかに声を荒げた奏羽は調理場に戻ると洗ったダスターを消毒液の中に沈めた。莉月の話をしたら頭に血が上る。
 勇信に当たっても莉月との仲が戻るわけでも、彼を忘れられるわけでもない。自分に苛立ちながら勇信に向かって「ごめん!」と叫ぶ。
「やっぱ疲れてるみたい。もう寝るからあとよろしく」
 珍しく勇信に戸締りまで任せた奏羽は夕食も摂らずに住居部分に繋がるドアを開けた。
「……あれ?」
二段ある短い階段に足を掛けたら視界が歪んだ。ドアノブを掴んでいるのに掴み切れていないような感覚、足の裏はちゃんと階段を踏んでいるはずなのに踏み締めた感じがしない。頭はふわふわしているのに体は重い。
奏羽、と誰かが呼んだ。店の中には勇信しか居ないのだから間違いなく彼の声なのに、莉月だったら良いのになんて脳が勝手に思考する。
 都合の良い脳内変換機で莉月の声を聞いた気になって、さっきまでの最低な気分は多幸感に塗り潰された。しかしそれも長くは続かず、奏羽は短い階段を上り切れずに住居スペースの小さな玄関部分に倒れ込んだ。

 目を開けたら廊下に寝転がっていた。
 勇信が運んでくれたらしく何処かに電話をかけていて(恐らくまなみだろう)目覚めた奏羽と視線が合うと「救急車呼んだ方が——あっ、目、開けた!」と騒ぎ出す。
「……救急車、要らんから」
「頭とか打ってるかもだろ、病院行こう」
「大丈夫、平気。単なる眩暈だよ、タイミング悪く足踏み外しただけ。頭も痛くない」
 ただ、喋ると口の中に血の味が拡がる。口内を切ったかもと思ったが勇信には言わずに寝返りを打って上半身を起こす。少し待って、眩暈が起きないことを確認すると壁に手を付いて立ち上がった。
 勇信や常連客が言ったように本当に疲れていたようだ。
「なぁ、奏羽、明後日からと言わず、明日から休みにしよう」
 壁側とは反対側の体を勇信に支えられて、奏羽は頷く。
「……ごめん、すぐ治すから」
「無理しなくて良いって。奏羽、ずっと頑張ってくれてたもんな、母さんの代わりに」
 弱っているからか、涙腺も緩々で鼻の奥に痺れるような痛みが生まれる。
 奏羽は勇信の手からゆっくりと自分の手を離すと「部屋行って寝るわ」と告げて階段に向かう。
「今日俺、泊まってくからな」
 奏羽の後ろから勇信の声がする。今度は莉月の声には聞こえなかった。それを残念と思いながら奏羽はまたコクコクと頷いた。

 その日の晩、発熱し寝苦しさから熟睡は出来なかったものの、翌日もベッドで微睡む時間を多くとり、勇信が作る粥や果物を食べて過ごしていたら夜になる頃にはすっかり熱も下がった。
「本当に大丈夫かよ」
「大丈夫だって。店閉めてる間はずーっとゴロゴロして過ごすから」
 謎熱に付きっ切りで看病してくれた勇信にもう大丈夫だから帰るように伝え、ベッドの上から「また二日後~」と手を振る。
「食うもんは全部冷蔵庫入ってるから何でも良いから食えよ」
「わーかったって。はよまなみさんとこ帰れよ」
 小学生振りの看病は有難かったが、やはり奏羽も大人なので頼りっぱなしというのは居心地が悪く、親子と言えども適切な距離感は必要だと感じた。もう少し言えば、一人になりたかった。いつの間にか母が居ないことも、父が別の場所に帰るようになったことも寂しいとは思わなくなっていた。
 今、奏羽の胸の中を占めるのはただ一人であり、奏羽を寂しくさせるのもその人だけだ。
 勇信が帰って行ったあとの部屋で、細く長い息を吐く。枕元に置いてあるスマホを手に持ちそこから天井の写真を撮った。久々にSNSを開き写真を添えて「仕事休み。ゴロゴロしてる」と文字を打ち込む。
 天井写真プラス仕事が休みだなんて体調不良アピールの構ってちゃんだなとちょっと気にはなったがこんなもの誰も気にしないだろうと思い直す。
 投稿後すぐに一つ反応があった。ハートボタンを押してのリアクションに夜でも見てくれている人がいるのだと嬉しくなる。
 今度は写真を添えずに「久々に喋ろうかな」と投稿してみる。これこそ構ってちゃん確定だが、SNS自体が久々だしもう自分のことなど忘れている人もいるだろうし、そんな中のゲリラ的な配信だから誰も来ないだろうと勢いでライブ配信ボタンを押した。
「……こんばんはー……って誰も居ないか」
 呟いて、小さく笑う。だが予想に反してすぐに一人リスナーが入ってくる。先程の投稿に素早く反応してくれた人だった。
 夜の挨拶をしている間にまた一人リスナーが増える。奏羽がライブ配信しているという知らせがフォロワーに通知されたのか徐々に人が集まっていき、「久々ですね」「ガキくん元気ですか」「また彼ピの声も聴きたいです」等々コメント欄も盛り上がっていく。
スマホの向こうに居るのは顔も見たことない人たちだ。彼氏の話題は適当な返事で躱したり、答えずにスルーすることだって可能だ。このまま偽り続けてもバレることはないだろう。
だけど、どうしてもそのままやり過ごすことが出来なかった。。
「……多分、配信はこれで最後になると思います。俺、嘘吐いてて……彼氏とか、居ないんだ。てかこれまでも居たことない」
 呟いた途端にコメント欄が物凄い勢いで流れていく。だけど奏羽は一つ一つを確かめられない。批判されてもしょうがないし、そういう意見も受け入れなければならないと思うが、目にしてしまったら言葉に出来ない気がした。
「夜一人になるのが寂しくて、SNS始めて気持ちを話してる内にどんどんフォロワーさん増えてって、見栄張りたくなったんだと思う。だから、彼氏居る? っていう質問に居るって答えちゃった。ガキくんは知り合いで、彼氏のフリして貰ってた」
 スマホ画面を見ずに話していると莉月と初めてキスした時のことを思い出した。この部屋で、キスされて、好きだと言われた。揶揄われているかと疑いもしたが莉月の目は本気だった。
 あの目にまた見つめられたい。名前を呼ばれて、奏羽も莉月の名を呼んで、求められたら受け入れて、彼に甘えて、奏羽も彼を甘やかしたい。
 そんなに前のことでもないのに思い返すみたいに目を瞑って、まだ部屋の何処かに莉月の香りが残ってやしないかと息を吸い込む。
「……最初はフリだったんだけど、俺、好きになっちゃってガキくんのこと。恋愛経験ないから分かんなかったんだけど好きになったらそのまま突っ走って良いもんじゃないんだね。ガキくんは俺より年下で、輝かしい未来が待ってて、俺が足引っ張っちゃダメなんだ……っ……だから、離れて、自分で、切っちゃって……」
恋をすれば目を開けていられないくらい眩しい未来が待っていると思っていた。
誰かを想って、相手も自分を想っていてくれればずっと離れずに居られると思っていた。自分から手放すなんて想像もしてなかった。
離れ難くなる前に冷静な判断が下せる内に身を引くのが互いの為だとそうしたのに、もう既に取り返しがつかないほどに苦しい。母が居なくなった時とも父が自分以外の拠り所を見つけた時とも違う、ぽっかりと穴が開くなんて空虚感ではなく、明確な傷を負うみたいな身を裂かれるような感覚に奏羽は服の上から胸を押さえる。
「ごめ……っ、意味分からないよね。一方的で悪いんだけど、これで、終わります。アカウントも消す予定です。嘘吐いてごめんなさい。今まで俺の話聞いてくれてありがとう」
 ライブ配信の終了ボタンを押して奏羽はスマホを放るとうつ伏せになって「ゔぅっ」と唸る。堰を切ったように涙が零れた。
どれくらいの時間泣いていたのか、タオルケットを抱え、それに涙も涎も嗚咽も吸って貰ってそれでもまだ枯れなくて、しゃくり上げながら起き上がると泣き止んでもいないのに部屋のドアに向かって歩き出す。目の上を腫らすと勇信だけでなく常連客からも心配されてしまうので保冷剤を取りに行こうと顔中から液体を噴出させながら部屋を出て一階へと下りた。
うう、えぐっ、と怪物みたいな声が暗い店内に響くと自分のことながら恐ろしくなる。それでも止まらなくて泣き声を上げながら冷蔵庫を開けると店の出入口の方から音が鳴った。
このシチュエーションなら覚えがあった。
有紀だ。
いや、でも、今更何の用があるというのか。有紀なわけがないじゃあ今度こそ盗みを働きに来た者だろうか。それとも泣き声が五月蠅くてモンスターが居るとご近所さんから通報されたか。
もうどうでも良い。有紀でも強盗でも警察でも。何でも構わない。
取り繕っていられないほど乱れている。奏羽にとってはそれほどの恋だった。
もう一度、ドアが叩かれる。続けて二度三度と音が鳴ると流石に腹が立ってくる。
涙も拭わぬままで店のドアに近付き、声も掛けずに鍵を開けた。本当に何が来ても構わなかった。怖さはなく、どうにでもなれという投げやりな気持ちの方が強かった。
 誰かが立っている。その確認だけは取れたが、奏羽がドアを開けた瞬間に人影が飛び込んで来て奏羽は店内に押し戻された。
 体がぶつかって、一瞬、刺されたかと思ったが、そんな殺傷事件は起きてなくて誰かの腕の中に居た。
「……奏羽さん」
 名を呼ばれて、顔も見ずに分かってしまう。
莉月だ。
驚きで止まった涙がまた噴き出して乾き始めていた落涙の跡を新たな雫が濡らしていく。
「も、ダメかと思った……でもさっき配信で俺のこと、好きだって、言ってくれましたよね」
 いつの間にフォローされていたのかどのアカウントなのか顔の見えない世界では判別出来ないが莉月は今日の配信を聞いたのだと言う。
「いきなり実家帰って、連絡しなかったから不安にさせたんだと思うけど、ここにくれば奏羽さんに会えるから連絡先聞くの忘れてて、店に電話しようにも情報ネットに載ってないし、アカウントにコメントしようかと考えたけどあれ周りにも見られちゃうしDMも一回送ってみたんですけどポチさんDM欄閉じちゃってるのか届いてないみたいだし、なんかとにかく全部空回って、奏羽さんを一人にさせちゃったのが悪かったんだとか色々考えてて……ああもう俺の言い訳とかそんなんどうでも良いんだけど」
 莉月が早口で言って奏羽を抱き締める腕に力が籠る。
「はぁ……良かった、俺のこと、好きでいてくれて良かった」
 心底安堵した声が耳だけでなくくっ付いた体を通して奏羽に伝わってくる。抱き締め返したいけれど、奏羽の腕は重い空気を纏ったみたいになってただそこに在るだけで動かない。
「……こないだ、一人になるのはやだ、放っておかれるのはやだって言ったけど、ほんとは違う。ただただ、莉月の足枷になることが怖い」
「奏羽さん、まだなにも起こってないよ?」
「分かってるけど、考えるだけで怖い」
 莉月が体を離す。二人の間に空気が通る。
「奏羽さん、俺を見て。絶対不安にさせない、自信がある」
「……なにそれ。どんな理由で言い切れんだよ」
「俺が奏羽さんのこと好きだから。だから大丈夫なんだよ」
 両手で頬を鷲掴みにされて上を向かされた。驚きと共に目に溜まっていた涙がぼろっと落ちる。
薄暗闇に目が慣れても少し距離があると相手の表情は読み取れない。そのはずなのに莉月の顔ははっきりと見えた。
眼鏡はしていない。
笑っていた。
「就職はこっちでします。そもそも兄ちゃん居るから店はそっちでなんとかなるんだよ。はっきり言ってなかったから親が帰って来るもんだと期待しちゃってただけで、今回の帰省でちゃんと話したし」
「……兄ちゃん居るのは聞いてないな」
「言ってないからね。てかこっち戻ってから話そうとしたけど奏羽さん聞く耳持たなかったでしょ」
 返す言葉もなくて、奏羽は喉から詰まった音を出す。
「こうやって不安事一緒に解決してくのが恋人なんじゃないの。一人じゃどうにもなんないことも二人で居ればなんとかなるし、俺がそうしてくから、奏羽さんは俺だけ見ててよ」
 目を逸らせるわけがなかった。
 あんなに動かせないと思っていた腕がスッと上がる。莉月に向かい手を伸ばしたら彼は奏羽の頬を解放してまた抱き締めてくれた。


 涙や鼻水が付いた顔面を洗面所で洗って二階に行くと莉月がベッドの上に座っていた。おいで、と腕を拡げてくれるからそれに応じると静かに横向きに寝かされて抱き締められた。
「……しないんだ」
「うわー、奏羽さんエッチになったね」
 拳で腹を突くと莉月は身じろぎしながら笑う。
「奏羽さん本調子じゃないからしないよ。SNSに天井の写真投稿してたじゃないですか、あれ寝転がって撮ったでしょ。働き者の奏羽さんが休みだなんて体調不良以外考えらんないもん」
「もしかして載せた直後にいいねしたの莉月?」
「……ノーコメントで。それにもういつでも触れるんだから焦んなくても良いよ」
「聖人だな……最初に配信した時はあんな鼻息荒くキスしてきたのに」
「あれは、あの時は早く奏羽さんを自分のものにしなくちゃって必死だったんで」
「ふぅん……なんでさ、莉月は、そこまで俺の——」
 莉月の腕に抱かれて背中を優しく撫でられると眠気がやってくる。ぽつぽつと呟く自分の声すら心地良い子守歌のように聞こえる。
「奏羽さん? 眠い? 寝ていいよ」
「ん……なんで、俺のこと、好きなの」
 何か切っ掛けでもない限り尋ねられないようなことも寝入る前の夢と現実を行き来している瞬間ならば聞ける。
「奏羽さん、前に店でサークルの飲み会あったの覚えてない?」
 ああ、あった。
少し前の話だが、今は大学を卒業して顔を見る機会も少なくなった子が在学中に飲み会をうちでしたいと言い出して、居酒屋じゃないんだからと断ったのだけれど、どうしてもこの空間が気に入っているからと聞かなくて結局人数を限定するという約束の元承諾したことがあった。店を貸し切りにしたのは後にも先にもその時だけで、よく覚えている。
既に目を瞑っている奏羽の脳内に薄い雲が拡がり、そこに当時の光景が浮かび上がる。
「奏羽さんは覚えてないだろうけど、俺もその中に居たんです。当時はコンタクトにする前で眼鏡でした。大学入学したら自分のセクシャリティは隠さないでいようって決めてたのでその日も飲み会お決まりの、彼女はいないの? 好きな人は? っていう質問にもゲイなのでって答えたんです。そしたら酒癖の悪い先輩が絡んできて、いつからそうなのか、病院で診て貰ったのかって病気扱いして笑うんですよ。腹立ったけど宥めてくれる人も居たし我慢してたんです。そしたら奏羽さんが来てね」
 莉月が居たことに驚きつつ、細かい会話は覚えていないが、後輩だかにしつこく絡んでいる奴が居たことを思い出す。周りも困っていたから一番関係性の薄い自分が間に入れば角も立たないだろうと水を運んだのだ。
「お客さん、酔い過ぎ。吐かれたら困るからもうあんたには酒出さないよ。これでも飲んでな。はい、水、って結構乱暴にコップ渡して、先輩の服にちょっと掛かったんです。先輩は気付いてなかったけど俺はそれでちょっとすっきりして、それから店に通うようになったんです」
 確かに、記憶にある。水だしすぐ乾いたろうし、それに救われたと莉月が言ってくれるなら罪悪感もない。
「最初は純粋にその時食べた料理が美味いと思って、普段は定食屋って聞いてたんで家からも近いし他のメニューも食べてみたいなって通ってたんだけど、段々俺の目的が変わって来て、奏羽さんに会いに行ってるんだって自覚して、あ、好きなんだなって気付いて。まぁ奏羽さんはノンケだろうと思ってたし、顔見て話せるだけで嬉しかったからそれだけで満足してたんだけど、あの日に全部変わっちゃいました。SNSやってて音声配信してるって聞いて、奏羽さんもゲイだって知った日。絶対にこのチャンスを逃せないって思った」
「……良かった……」
 莉月の話を夢現で聞きながら動かし難い口を動かして返事をした。
「うん?」
「良かった、な、俺に出会えて……俺も、莉月に、会えて、良かっ——」
 何とも図々しいことを言ってから糸が切れるように奏羽の言葉が途切れた。
 この日、最後に耳にしたのは莉月の小さな笑い声だった。



「ごめんなさい」
 綺麗な角度でお辞儀をされて、奏羽は慌てて有紀の肩を叩いた。
「ちょっ、やめてよ、有紀ちゃん、そういうの、いいから」
 部屋の模様替えを兼ねて部屋の整理をしていたら有紀に渡していないスパスチューズのデビュー前音源をまた一つ見つけた。
莉月を通して連絡して貰い、色々あったから有紀が気まずいなら彼から渡して貰おうかと考えていたが彼女は閉店後の店に来てくれた。それが嬉しくて笑顔で出迎えたのだがいきなり頭を下げられてしまった。
「有紀、奏羽さん困らすなよ」
 隣に居る莉月が言うと奏羽は肘で彼の腹を小突いて、有紀に頭を上げて貰おうともう一度肩にちょんと触れた。
「莉月には莉月の人生があるって分かってたはずなのに私ほんとに酷いことを言っちゃって……それなのに多兼さん、また、スパスチューズの音源を……こんな、優しく……ほんとにほんとにごめんなさい」
「もう良いって。有紀ちゃんは莉月の心配をしてたんでしょ。それはちゃんと伝わってるよ。だから大丈夫」
 恐る恐る頭を上げた有紀に、ね、と安心させるよう笑い掛ける。それからスパスチューズの音源を手渡す。
「時間あるならジュースでも飲んでかない?」
「あ、いえ、今日は帰ります。でも……また、ご飯食べに来ても良いですか?」
「もちろん! いつでも待ってるよ」
 莉月に手を振り奏羽に頭を下げる有紀を見送ってホッと息を吐く。
「接客業だからか奏羽さんて誰にでも優しいですよね」
「なに言ってんだよ、誰にでも優しいってのは臆病者とも言えるんだぞ。誰にも嫌われたくないから」
「出た、奏羽さんのネガ」
「ネガ言うな」
 二人で店の中に戻って、二人で二階に上がる。週末は殆ど一緒に居て、そろそろ勇信にも莉月との関係を打ち明けなければと思っている。
「あ、そういえば、SNSのアカウントまだ消してないんですね」
 我が家のように階段の前を行く莉月が思い出したように言う。奏羽は、うーん、と唸ってから「消した方が良い?」と彼に尋ねた。
 本当に消すつもりでいた。最後の配信の時までは。
だがSNSの、奏羽のフォロワーたちは優しい人が多く、やめないで、たまにで良いから声を聞かせてとメッセージをくれる。そうなると気持ちが揺れ動いてしまうのが人間というもので奏羽も例に漏れず未だにアカウントを削除出来ずにいた。
「俺は別にどっちでも。奏羽さんがリアルじゃ言えないこととか吐き出せる場所が欲しいならとっといても良いんじゃないですか」
「そ、そう?」
「決め兼ねてるなら消したくないってことでしょ。いいと思いますよそれで」
 部屋に入ると莉月が振り返って笑う。
 奏羽は笑みを見ながら莉月に寄っていって彼に抱き付く。当然のように抱き締め返してくれる莉月に甘えながら「ならもうちょい続けようかな」と呟く。
「あ、じゃあ、ほんとに付き合い始めたよって言っちゃいます?」
「え、えー……マジ?」
「うん。今日しよ」
「また急だな」
 機嫌良く笑う莉月の頬に背伸びをしてキスをする。すると今度は奏羽の唇目掛けて莉月が口付けしてきた。
「奏羽さん……配信前に、キスの先、しても良いですか」
「……いいですよ」
 答えたら莉月がちょっとだけ屈んで奏羽を抱き抱え、そのまま二人ベッドに落ちた。



 
著者SNSアカウント
X(旧Twitter)
pixiv
 
イラスト担当者SNSアカウント

関連外部サイト

PAGE TOP