11/07 【ハピエン・メリバ創作BLコンテスト】審査通過作品投票開始!
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2025/11/07 16:00

あらすじ
蒸し暑い真夏のある日。俺の彼氏は死んだ――
交通事故で死んだ恋人、雨宮健斗(あまみやけんと)。遺された七森包(ななもりくるむ)は信じたくない現実の中で健斗の葬儀に出席した。
しかし重い足取りで帰宅すると包は何者かに背後から抱き締められる事になる。「おかえり」と囁いたその正体は幽霊となって包に取り憑いた健斗だった……。
死んだ筈の恋人の幽霊×取り憑かれた人間の現代ファンタジーBL。
死んでも離さない永遠の愛、それは呪いか、祝福か――
※こちらの作品は性描写がございます※
#1 呪い
まだ真夏の酷く蒸し暑い日、俺の彼氏は死んだ。
交通事故でほぼ即死、外傷は酷いものだったが幸い身体は繋がっていてまだ見られる遺体だった。
彼氏――幼馴染だった雨宮健斗(あまみやけんと)の家族、雨宮家には俺達が付き合っていた事は知られていたしその事を受け入れられていた為ごく身内のみの家族葬にも呼んで貰えた。もう何も言ってくれない冷たい遺体に向き合って、どうして、何でこいつが……とそう泣きじゃくって真実を受け入れるのには時間がかかったし今でも正直信じたくは無い。
幼稚園からの幼馴染で家も近所、小学校も中学校も高校さえも一緒。大人になった今でも家族同士も仲が良い。
付き合い始めたのは高校生最後の冬だった。健斗と二人きりで公園のベンチに座り、自販機で買ったホットの缶に入ったコーンポタージュを回し飲みしていた時に急に告白され、それを切欠に自分も健斗が好きだという事に気付かされたのだ。
その時に飲んでいたコーンポタージュの味は今でも鮮明に覚えている。初めてのキスもその味だったから。
独りになったその日の夜。またあの公園の自販機で、夏場の為今度は冷たいコーンポタージュを買った。あの時のベンチに座ってキャップを外し静かに啜るとひんやりとして甘くて、濃厚な味が口の中に広がった。
七森包(ななもりくるむ)、それが俺の名前。またあの優しい低めの声で「包!」と名前を呼ばれた気がして顔を上げるがそこには当然誰も居なかった。じりじりとした蒸し暑さも夜になって少しだけ落ち着いたとはいえやはり暑い。
本格的に汗をかく前に家に帰ろうとコーンポタージュを一気に飲み干して立ち上がり、ゴミ箱に空き缶を放りカランという音を響かせながら帰路を辿る。二人で暮らしていたマンションも今日から一人になるのかと思うとより寂しさが込み上げた。
足取りが重い。現実を見たくない。健斗が居ない日常なんて考えたく無い。あいつが何をしたって言うんだ。あいつは馬鹿が付く程真面目で、まっすぐで、言わなくても分かる位俺の事が大好きで……本当に心から愛していた。
朝は癖っ毛の黒髪に対していつもヘアアイロンとヘアワックスで格闘して、綺麗に整え終わったら見て見てとまるで犬の様に駆け寄って来るし料理も上手くてあいつの作る夕飯のハンバーグはどの店よりも美味い。180センチのデカい身長で、大きな目はいつだって俺だけを見ていた。そこまで考えてああ、どうして思い出してしまうんだろう。もう居ないというのにと思い知らされる。いつも当たり前に隣にあった温もりはもう何処にも無い。
葬儀の時、小さなセレモニーホールで泣きじゃくる俺に健斗の両親は肩を摩って優しく接してくれた。皆が皆、それぞれに涙を流していたのを覚えている。その位、本当に……良い奴だったんだ。
火葬場で焼かれ、骨だけになった健斗だったものを見てもあいつが死んだという現実はやはり受け入れられなかった。これは何かの悪い夢で、目が覚めたら隣で「おはよう、包」と大きな手で髪を撫でて笑い掛けてくれるんじゃないかと思いたかった。
夢ならば痛くない筈、そう考えて両手で自分の頬を叩くが無情にも微かな痛みが走る。夢なんかじゃないと現実を叩き付けられている様で最悪だ。
歩きながらそんな事をしている内に住んでいるマンションの前まで来てしまい、渋々ポケットから鍵を取り出し自動ドアを潜ってマンションの中に入り迷う事無く自分の家に辿り着く。マンションの廊下の電灯が瞬く様に点滅し、何か違和感を感じた。
そうは言ってももう疲れたし廊下の電気が切れそうだという報告は管理人に明日電話すれば良いだろう。そう思って扉の鍵穴に鍵をさし込み捻ればガチャ、とロックが外れる音がする。扉を開けて中に入れば当然家の中は真っ暗で、伺い見れるベランダからは月明りがリビングに注いでいた。
「……ただいま」
もう誰も居ないというのに、習慣というのは嫌な物でこうして帰宅の合図を呟いてしまう。手探りで電気のスイッチを入れるとパッと部屋に明かりが灯る。扉に鍵を掛けて靴を脱ぎ、片手でネクタイを緩めて我が家に上がった。
「おかえり、包」
「……は?」
変わらず重い足取りでリビングに入り電気のスイッチを入れると背後から何者かに抱き締められた。でもそれに温もりは無く冷たい。恐る恐る振り返ると、そこに居たのは肩に顎を乗せて甘える様に擦り寄って来る健斗で思考が停止する。何が起きているのか分からない。
「俺、やっぱ死んだんだよね?」
「……何で居るんだよ」
ぽた、ぽたと雨が降る。否、部屋の中で雨なんか降る訳がない。それが自分の涙だと気付くのは容易だった。
「人ってさ、未練があると魂が残っちゃうって言うじゃん?俺、包を置いて逝けなかったんだと思うんだよね」
「てか、何勝手に死んでんだよ!馬鹿野郎!」
一度流れ出した涙はもう自分では止められなかった。確かに抱き締められていると感覚では分かるのに、やはり温度はとても冷たい。その温度一つで、こいつは生きているものでは無いと分からされるのが辛かった。
「ごめんね、包。ごめん……」
温度こそ感じられなくてもその優しさはやはりこいつを健斗だと思わせてくれる。無理やり身体を反転させて健斗の唇にキスをした。こいつが今幽霊なのかそれとも何かの化け物なのかは分からないが、確かにそこに居て触れられる。この際もう何だって良い、一分でも一秒でも永く傍に居られるならそれで良かった。
「どこもかしこも冷てぇんだよ馬鹿」
「ごめん……俺、死んじゃってるし……」
温度の無い唇から離れ、視線が絡み合う。ああ、やっぱり健斗だ。見間違える筈が無い。また一筋涙が頬を伝って落ちていく。
「なら俺、お前に取り憑かれたって事?」
「悪霊みたいに言わないで欲しいけど、でも実際そうなのかも?」
「なら俺が死ぬまで取り憑いてろ、先に成仏しやがったらマジで許さねぇから」
「けど良いのかな……俺多分幽霊でしょ?やっぱりこんなの変だよね」
健斗が渋い顔をして自分の身体を触ってうーんと唸りながら現状を確かめている。確かに普通の幽霊が触れるなんて聞いた事が無い。幽霊と言えば脚が透けてるとか白い服で佇んでるとか人を呪うとかそういうイメージだ。しかし健斗はいつも通りの小洒落た水色のシャツにジーンズで別に白い服を着ている訳でも無ければ透けてもおらず何より手を伸ばせば触る事が出来る。やはり温度は無いが。
触れると冷たい健斗の頬を撫でて、もう片方の手の甲で涙を拭う。例え他人からすれば可笑しな関係だろうと構わない。例えこれが一種の呪いだとしたらそれも上等だ、受けて立つ。
「幽霊なら幽霊らしく俺を呪えば良いだろ。死ぬまで絶対に離さないって」
「包らしいね。じゃあ包が死んでも愛し続けてやるって呪いをかけてあげる」
また温度の無い腕に抱き締められる。それは冷たい筈なのにどうしようもなく心を暖かくした。もう一度啄む様に唇を重ね、そしてそれを何度も繰り返す。
果たして、それは呪いか祝福か。
#2 写真
朝目が覚めると、隣には幽霊になった健斗が居た。
カーテンの隙間から漏れる朝日は外の暑さを感じさせる明るさ。気怠い寝起きの狭間で何度も瞬きしてやっと意識を浮上させる。
横を見ればいつもの様に、俺の殆ど金髪に近い茶色の髪とピアスの付いた耳を健斗が撫でてそのまま愛おしそうに見詰められた。
「おはよう、包」
「……おはよ」
何も変わらない朝、そんな風に錯覚してしまいそうになるが触れた手にいつもの温もりは無くて、ああやっぱりこいつが死んで幽霊になってしまったのは夢では無いのだと思い知らされる。
アラームより早く起きてしまったのか、手探りでスマートフォンを掴み画面を確認するとやはりまだ起きるには早い時間だった。
「健斗、寝てねぇの?」
「俺さ、眠れなくて……っていうかビックリする程全く眠くなくて、夜中に実家行って来たんだ」
「そっか……」
「仏壇にじいちゃんの遺影があるんだけど、その横に俺のも増えてて。あーやっぱ俺死んじゃったかーって」
困った顔で笑みを浮かべる健斗に何で笑えるんだよ、とそう思ったが言葉にはしない。何と声を掛けるのが正解なのか分からないからだ。
「薄々分かってたけど、実家に入る時ドア開いた音で母さんが出て来たのに俺の事見えてなかったみたいで。怖がらせただけだったし俺が何をしてもそっか、これ周りからはいわゆる心霊現象にしかならないんだって思った」
少しだけ寂しそうな声色で語る健斗を何も言わずに抱き締めてやると背中に温度の無い腕が回される。死んで幽霊になったなんて現実叩き付けられて、健斗だって辛い筈だ。
「……俺には見えてっから」
「うん」
「見えてるし、こうやって触れる。俺は健斗がちゃんと居るって感じられんだよ」
「……包は本当にあったかいね」
少しでも体温を分けてやりたくて、でもそんな事出来ないなんて分かり切ってるのに抱き締める腕に力を込めた。身体は冷たく、鼓動は聞こえない。生きていた頃の習慣でそうしているだけで実際は呼吸すら必要無いのかもしれなかった。
とてもじゃないが生きているとは到底言えない存在。触れる程に嫌という程現実を突きつけられる。でも生前の、俺が良く知っている健斗の姿で、声で、仕草で……全てがこいつは紛れもなく健斗なのだと物語っていた。
「お前、どこまで出来んの?」
「簡単な事なら多分大体は……まぁ傍から見れば全部心霊現象って事になっちゃうんだけど」
「じゃあ朝飯」
「ああそっか、お腹空いた?よね。待ってて、今試しに作ってみるから」
抱き締めていた腕を互いに解くとすぐに健斗がベッドから抜け出した。寝室から出て行く後ろ姿もいつもと何ら変わりない。透けている訳でもなければドアだってすり抜ける事無く開けている。
俺が健斗の死を受け入れられなかったから?それとも健斗が言った様に未練が形になったから?それは分からない。ただ真実なのは今此処に居る健斗は確かに死んでいて、幽霊で、俺にしか見えないという事。
スマートフォンを充電ケーブルから外してパジャマ替わりのハーフパンツのポケットに仕舞いベッドから降りると脱衣所にある洗面台へと向かった。洗面台の鏡を見れば我ながら酷い顔をしている。それはそうだ、恋人が死んだばかりなのだから。
二本並んだ青と黄色の歯ブラシから黄色の物を迷いなく手に取り、隣にあった歯磨き粉のチューブからブラシ部分に塗り付ける様に中身を絞り出す。歯ブラシを咥えると満遍無く前歯も奥歯も磨いて行き最後にプラスチックのカップに蛇口から注いだ水で口を漱いだ。
歯ブラシとプラカップを戻し前髪を掻き上げてから洗顔フォームを掌に出して泡立て、顔に塗り付ける。顔を洗っている内にリビングの方から良い匂いが漂って来て腹が鳴った。
急いで蛇口を捻って両手で水を掬い顔に塗布した泡を洗い流す。髭は永久脱毛している為剃る必要は無い。
フェイスタオルを手繰り寄せて水分を拭い、さっぱりした顔はほんの少しだけマシにはなった。そのままフェイスタオルを洗濯籠に放り込んでリビングへと向かう。漂う香りはベーコンの焼ける匂いだろうか。そもそも料理が出来る幽霊って何なんだと若干思いつつも横目にキッチンを覗き見ると健斗がフライパンでベーコンエッグを焼いている最中だった。
その姿だけを見れば生きている人間と何ら変わりない。至って普通の、いつもの朝の光景だ。
でも明確に違う事が分かる方法がある。テーブルと共にある椅子に座り、ポケットからスマートフォンを取り出す。ロックを解除しカメラアプリを開いてキッチンに居る健斗にカメラレンズを向けると此方に気付いた健斗が照れ笑いしているが画面には誰も写っては居なかった。
真実を写すと書いて写真。ならば画面に写らない健斗は、生前と変わらず生きているかの様に振舞う健斗はやはり生者では無い。
すぐにカメラアプリを閉じて、代わりにフォトアプリを開く。最後に撮った健斗の姿はまるで子どもみたいにすやすやと眠っている寝顔で、いつも俺よりも先に起きているこいつの寝顔というのは大層貴重なものだ。
気が付いた時にはスマートフォンの画面に水滴が落ちていた。健斗の姿はもう二度と撮る事が叶わない。二人でふざけ合って写真を撮る事も、柄にも無くデートなんてして美しい背景と共にツーショットを撮る事も、何一つ出来ない。そう思うと涙が止まらなかった。
「包、泣かないで?ごはん出来たよ」
「泣いてねぇよ馬鹿」
「じゃあそういう事にしとこうか」
いつの間にか傍に居た健斗に頭を撫でられ我に返り慌てて手の甲で涙を拭いスマートフォンの画面を消灯しポケットに戻す。その後すぐテーブルに一人分のベーコンエッグの皿と茶碗に盛られた白米、箸と水の入ったグラスが置かれた。
「お前の分は……」
「幽霊が食事とると思う?」
「……馬鹿野郎」
向かい側の椅子に座り頬杖をついて笑顔で首を横に傾げて見せる健斗がこの時ばかりは恨めしく思った。死者と生者の境界線を引かれた気分だ。
「冷めない内に召し上がれ」
「いただき、ます」
多分きっと俺はまた酷い顔をしている事だろう。それでも生きる為に両手を合わせてから箸を手に取って焼きたてのベーコンエッグを一口大に千切り頬張った。健斗だって俺が生きる事を望んでる。だからこうして幽霊になってまで現れたのだろう。
健斗が作ってくれたベーコンエッグの味は生前作ってくれた物と殆ど変わらなかった。誰でも出来る簡単な料理だというのに胸が苦しくなる程美味しくて、また泣きそうになる。
「どう?美味しい?」
「腹立つ位うめぇよ」
「そっか、良かった」
白米を口いっぱいに頬張ると健斗が満足した様に微笑む。しかしもう二度と健斗と味覚を共有する事も出来ない。一つずつ、着実に出来ない事が増えて行く。それが何より俺の心を苦しめた。
#3 職場
「で、何でお前憑いて来てる訳?」
「まぁ誰にも見えない死人じゃ、仕事は当然買い物も全く出来ない上に家に居ても暇だし?じゃあ幽霊特権使って彼氏の職場見学してみようかなーって」
迷い無くいつもの出勤ルートを歩くすぐ後ろを恋人の幽霊が付いて来るなんてどんな状況だ。
清々しい程の快晴の空は青く澄んでいて朝から既に蒸し暑い。そんな中でも涼し気な声色でそう言ってのけた健斗に溜息を吐く。
「あのな……絶っっ対変な事すんなよ」
「はいはーい」
こうしている間も俺は確かに間違いなく健斗と話しているが、傍から見れば盛大に独り言を喋っている変人になりかねないと思い道端に居る学生を見てそっと口を閉じる。健斗も察したのか大人しく付いて来るだけで静かにしていた。
仕事は至って普通のウェブデザイナー、堅苦しい職場では無く私服通勤だし空調の効いたビルのオフィスで自分のデスクに向かいパソコンでクライアントから依頼された仕事を淡々と熟すだけだ。センスと知識を大きく問われる職業ではあるが割と気に入っている。
いつもより早く着いた職場のオフィスはまだ人がちらほらと居る程度で、流石に少し早過ぎたかと思いつつも鞄を置いてデスクの椅子に座る。ふう、と息を吐き出すと背中に一人分の体重が掛かる。前に腕を回され背後から抱き着かれたと分かるのにそう時間は掛からなかった。
「……おい」
「いつも通りで居ないと周りから不思議がられちゃうよー?」
「お前ぜってぇ楽しんでるだろ」
「さて、どうでしょう」
周りに聞こえない程度の小声で、不自然じゃない程度に背後の幽霊の額を小突いてやるとあははと軽い笑い声が耳元に届く。
誰一人として部外者がこんな所に居るなんて気付きもしないし見向きもしない。まぁ当たり前か、と少しだけ寂しい気持ちに浸りつつパソコンの電源スイッチを押してデスクトップを立ち上げ仕事の準備を進めた。
仕事の時だけ着けているブルーライトカットの眼鏡をして画面と向かい合うとほぼ同時に隣のデスクの同期、東堂のぞみが現れはぁーと盛大な溜息を吐きながら鞄をデスクの上に置き此方を見て「七森おはよ」といつも通りの挨拶をされる。
「おはよ東堂」
「昨日羽目外してちょっと飲み過ぎた……」
「ストレス?」
「帰りに彼氏が女と居るとこ見ちゃってサイッアクだったわ」
「そりゃそうもなるわな」
東堂は自分の長い黒髪をわしゃわしゃと搔き乱してまた盛大に溜息を吐いていた。しかし椅子に座ると少し二日酔いも覚めたのかそうだ、と此方を見て気まずそうに口を開く。
「そういえば七森……あんたの身近な人亡くなったって……聞いたけど」
「ああ、事実。交通事故で死んだ」
「あー……その、ゴメン……」
「何で俺より深刻そうな顔してんだよバーカ」
「だってさ……」
昨日は葬儀に出る為休暇を取っていた。理由は隠していなかったし東堂の耳にも入ったのだろう。余りにも沈んだ顔をする東堂に一呼吸置いてから彼女の額にデコピンをする真似をして見せた。
「そりゃショックだったし今でも信じらんねぇけどさ、お前が気にする事じゃないし」
「でも七森、酷い顔してるよ……?幽霊にでも取り憑かれたみたいな……」
「……それも事実って言ったら?」
「は?悪霊にでも憑かれたの?お祓い行きなってえ!?は!?何!?」
「おまっ……悪い、落ち着け東堂」
背後から離れフラフラと歩き出した健斗が何を思ったのかおもむろに東堂のデスクの上のスタンドカレンダーを指先で摘まみカタカタと揺らして見せる。慌てた東堂を宥めてすぐに辞める様にと手を離させた。
「……何……何これ、ほんとに?何で」
「混乱させて悪いな、でも本当」
「え、悪霊じゃないよね?それ大丈夫な奴?」
周りが一瞬ざわついたが特に気にもされずすぐ通常時に戻る。困惑する東堂に頷いて見せると露骨に心配を滲ませて肩を揺すられた。
「俺も分かんねぇ。けど、もしも恋人の幽霊ってなったら放って置けるか?」
「死んだ身近な人って……こんな事聞くのアレかもだけど……まさか恋人なの?」
「そ、恋人。俺を遺して死んだ大馬鹿」
気が済んだのか背後に戻って来て椅子の背凭れに手を掛けた健斗が俺の言葉に少し切な気に俯く。それを横目に見て一息吐くと東堂が周囲を見渡してから此方を改めて見る。
「……今、居るの?」
「俺の後ろに、な」
「その、悪霊とか言ってごめんなさい。七森にはいつもお世話になってます……?」
「律儀だな東堂」
背後と教えたその直後姿勢を正して東堂が軽く一礼し恐る恐る顔を上げた。心霊現象を目の当たりにしたとは言え東堂は根は本当に良い奴だ。後ろの健斗も何かを考える素振りを見せた後俺の肩を一度ポンと叩く。
「包、驚かせてすみませんって伝えて?」
「ああ……東堂、こいつが驚かせてすみませんってさ」
「いえいえ……てか七森、霊と対話出来るの普通にやばくない?」
「やっぱ変だよな……いや分かってはいたっつーか」
元々は霊感なんて何一つ無く、夏場のテレビ番組で良く放映される心霊映像も大して信じていなかったというのにいざ取り憑かれてみるとその自分の中の常識は全て一瞬で書き替えられた。
幽霊は確かに存在するし、見えて、触れて、喋る事も出来る。限られたごく一部の人間だけなのか、それとも取り憑かれた事による拍子になのかは分からない。それでも健斗は確実にそこに居るのだと思えたし信じたかった。
「でもちゃんとご飯食べてお風呂入って充分寝なよ?顔色悪いのは事実だから」
「おー、そうするわ。サンキュ」
その遣り取りの後、それ以上東堂は深入りして来なかった。健斗の事で騒がれず済んだのも有難かったし彼女なりの気遣いなのだろう。溜息を吐いてデスクのパソコンに向かい、目の前の企業用ウェブサイトのデザインに打ち込んでいると不意に健斗がまた背後から抱き着いて擦り寄って来る。仕事の邪魔だと追い払いたい所ではあるが満更じゃない自分も何処かに居た。
「包の眼鏡姿、初めて見た」
此処で喋っては不審に思われると思い手元のブロックメモにボールペンを走らせ一枚捲り取り『仕事中だけ』と書いて自然を装って後ろに見せる。するとブルーライトカット眼鏡のフレームのサイドをつう、と健斗の指先が撫でた。
「眼鏡の包、すっごいえろい」
耳元に唇を寄せて吐息と共に吹き込まれて思わずゾクりと粟立った。すぐにまたブロックメモへ『セクハラ禁止』とペン先を走らせて捲るとそれを見せ付けて仕事に集中する。その後も「これ位なら良い?」とマウスを操作する手を重ねられたりと堪らなかったので明日からは職場は出禁にしようと心に決めた。
#4 愛情
業務は無事にひと段落し、今日の分を無事に終えてはぁと腕を上げ伸びをする。
途中からは仕事に集中出来る様に配慮してくれたのか、健斗はオフィスの彼方此方をこっそり見て回っていたのだ。それでも暇になれば椅子の背凭れにくっ付いて「邪魔はしないから」と宣言した上で大して面白くも無いだろうに作業の様子を真剣に見ていた。
「帰んぞ」
「多分問題なく出来ると思うから今日はハンバーグ作るよ、包好きでしょ?」
「んじゃ買い物してかねぇとな……東堂、先上がるわ。お疲れ。酒に溺れてないでちゃんと彼氏と話せよー」
「はいはいそうしますー!七森お疲れー」
マウスでカチカチと慣れた操作でパソコンをシャットダウンし、恐らくはもう少しで終わるだろう隣の東堂に声を掛けて鞄を手にすると中の眼鏡ケースを出しブルーライトカットの眼鏡を外してそれに入れ、鞄に戻して椅子から立ち上がる。
オフィスの出入口にそのまま向かって歩き始めると健斗がそれに付いて来た。
「包の仕事ってこんな風にしてたんだね、職場見学楽しかった。お疲れ様」
「おう。でも次からは出禁な」
「ええ!?何で?俺途中から大人しかったよ?」
「殆どくっ付いてたじゃねぇか」
すぐ横の健斗に聞こえれば良い程度の小声で喋りながらオフィスを出てエレベーターの前まで進むと下降のボタンを押して暫く待つ。不服そうな健斗を横目に、到着し扉が開いたエレベーターに二人で乗り込んで一階と閉のボタンを押せばガコンと扉が閉まりエレベーターはまた動き出す。
健斗の姿はこのエレベーターの監視カメラにも映ってはいないのだろう。居る事を教えてしまった東堂は例外として、案の定出勤から退勤する最後の最後まで誰一人として健斗が居る事に気付く奴は居なかった。
そりゃ当然か、と思いつつも何処か寂しいと感じてしまう。健斗は此処に居るのに、やっぱりもう死んでいるのだと現実突き付けられる様で良い気はしない。こいつが死んだという事実をまだ認め切れていないのだ。
そんな事を考えている内に一階に到着し扉が開く。出る前に一度健斗の方を向けばこいつも此方を見ていて視線が合った。
「誰にも見えてないなら、手を繋いでもバレないよね」
「馬鹿かお前」
口ではそんな事を言いつつも健斗の手が俺の手に触れると思わず握ってしまう。相変わらず温度が無い。冷たく感じる程だ。
「包はほんと素直じゃないね~」
「良いから行くぞ」
あくまでも自然を装って、エレベーターから降りてビルの正面玄関に向かって歩き出す。手を繋いだ至近距離の健斗は普段より少し嬉しそうだった。
帰り道にあるスーパーマーケットは生鮮食品を扱うだけあって涼しい。自動ドアを潜り抜けると心地良い温度が出迎えてくれて外の茹だる様な暑さから僅かな時間とは言え解放された気分になる。一度繋いでいた手を離し、入口のすぐ横にある買い物籠をひとつ手に取り健斗と青果コーナーを進んでいく。
「包、この玉ねぎ籠に入れて」
「これでいいのか」
「そう、丸くて皮がツヤツヤの方が美味しいんだよ」
「へぇ……」
玉ねぎの選び方なんてものはさっぱり分からないが健斗が言うのならそうなんだろう。次は挽肉か、と鮮魚コーナーを通り過ぎようとした所で健斗にTシャツの裾をほんの少し引かれる。
「ん?ハンバーグに魚いらねぇだろ」
「でも見て、このアジ。鮮度良さそうだから刺身かたたきで食べたら美味しそうじゃない?」
「アジ……」
「今日食べる気分じゃなかったら、明日南蛮漬けか塩焼きにでもしようか」
確かに目も綺麗で腹もふっくらしていてきらきらとした魚――これがアジ?という事は今聞いたので分かる。アジの開きとか朝飯で食べた事はあるしアジフライだって何度も夕飯に出て来た。目利きに自信のあるらしい健斗が言うならそれなりに上物なのだろう。一応買っておくか、と健斗が興味を示した一尾入りのアジのパックをひとつ籠に入れる。
「てか捌けんの?お前」
「簡単な魚ならね。魚用の包丁もあるし。ただ余りにも大きいのとか小さすぎるのは流石に、だけど」
「ほーん。じゃ刺身。飯の後の酒のつまみにする」
「任せて。包の大好きなスナック菓子より最高のつまみにしてあげるから」
やたら自信満々な健斗にふっと小さく笑む。夕飯の後は一息吐いてから二人で晩酌するのがルーティンだった。テレビのバラエティ番組やサブスクの映画を見ながらつまみはその時次第でスナック菓子だったり健斗が何か作ったりと様々で、一緒に飲む安いウィスキーのハイボールは特別なものだ。
酒好きの俺は二十歳を過ぎた頃から良く飲み会に行っていたのもあり、そんな俺に対して一緒に過ごす時間を少しでも長く大切にしたいという健斗の提案から二人だけの晩酌会が始まったのを覚えている。それ以降は最低限だけで殆ど飲み会には行っていない。
「次、挽肉だろ?」
「そう、鶏の挽肉とか豚の挽肉とか合挽とか色々あるけど惑わされずに牛の挽肉。合挽とかも使った事あるけど、包は牛挽肉だけのハンバーグが好きだから」
「子どもの頃からの仲良しで、付き合ってからだって七年近くも一緒に居ると好みも完全に把握されてるわなそりゃ」
「うん、包の胃袋は完全掌握してるしずっと一緒だからね。包が最初で最後の恋人だよ」
「本当の意味で最後になっちまったけどな」
感傷に浸りそうになるがすぐにそれを飲み込んで精肉コーナーへと足を向け歩き始める。健斗の指示通りに牛挽肉のパックを厳選してその中からひとつを買い物籠に入れた。
「あとは何が要るんだ?」
「パン粉も卵もあるし、スパイスとハーブもまだ残ってたから大丈夫。必要なのは牛乳とハイボールに使う炭酸水位かな?」
「ん、分かった」
まずは牛乳を探して乳製品コーナーへと行き、健斗が指差した低脂肪乳の紙パックをひとつ手に取り籠に入れる。その後は酒類コーナーへと先導する健斗に付いて行き、積まれた段ボールの上から炭酸水のペットボトルを二つ掴んでまた籠に入れた。なんやかんやで重みが増した買い物籠を確りと掴み無駄な買い物はせずにレジへと向かう。
「セルフレジ使える?包」
「馬鹿にすんな。この位今時誰でも出来んだろ」
比較的空いているセルフレジのレーンに並ぶと程無くして自分の順番がくる。セルフレジの籠置き場に買い物籠を置いてから横にある大き目の袋を一枚取ってバーコードをスキャンし、読み込み済みの物を乗せる台にセットした。後はひとつずつバーコードを読み込んで袋に詰め込んで行くだけなので簡単だ。
詰め込む作業に少々難航したが食べるのは自分なので余り気にしない事にして、飲み物から先に次々適当に放り込んだ。鞄から去年の誕生日に貰った健斗とお揃いのブランドの財布を出し現金払いのボタンを押して機械に札と小銭をそれぞれ入れる。会計が済むと釣銭を忘れずに取り財布に戻してそれをまた鞄に入れ、レシートを捨てて買い物籠を所定の場所に置いてから袋を手に持ち健斗と共にスーパーを後にした。
外は案の定そう簡単に涼しくなる訳も無く相変わらず蒸し暑い。はぁと溜息を零して帰路を辿る。八月に入ったばかりの空はまだ明るく、西日が眩しかった。足元にある影は一人分。横に健斗が居るのに陽に照らされ伸びる影は俺のものだけ。
些細な事でもやはりひとつずつ着実に現実を示されて胸が苦しくなる。見えるだけでなくどんなに触れて話せていても、健斗はもう故人だ。その事実は揺るがない。
何よりこいつはもう幽霊で、本当であれば――自然の摂理に従うなら此処に居てはいけない存在だ。それでもこいつは……健斗は生前と何ら変わりない笑顔で当たり前の様に横に居る。死んでも傍に居続けるとか愛が重いんだよ馬鹿、と罵りたくてもまた涙が込み上げて来そうで言葉にする事は出来なかった。
「包」
「何だよ」
「俺の世界はいつだって包だけなんだよ?包しか欲しくないし俺には包しか見えない。それは死んだって変わらないよ。だからそんな顔しないで」
「お前の愛の重さは良く知ってるよバーカ」
寂しい気持ちがうっかり表情に出ていたのかもしれない。健斗に顔を覗き込まれ、こいつは色々察したのかそう言って微笑み掛けて来る。悔しいけどこいつが好きで好きで堪らないと自覚させられてしまう。
俺だって健斗が最初で最後の恋人だろう。これ以上好きになれる相手なんか出来る筈が無いし、そもそもこの幽霊は俺が死んでも離してくれるとは到底思えない。
次の冬が来れば俺達は付き合って七年になる。子どもの頃を含めたらどんな長い時間を共に過ごしているか分からない。今思えば健斗が告白して来るまで気付かなかっただけで、俺だってずっとこいつが好きだったんだ。
初恋で、初めての恋人で、初めての相手。そして最初で最後の愛だ。幽霊と付き合い続ける事が本当に幸せなのかは分からない。でも、どうしようもなく好きなのだ。例え他人に間違っていると言われてもその気持ちは変わらない。好きという気持ちに嘘は吐けない。
「ねぇ包」
「ん?」
「愛してる」
「……俺も」
帰り道を歩いている最中、少し冷たい温度を感じると共に手に下げた買い物袋の重みが軽くなる気がした。健斗が手を繋ぐ様に、傍から見ても自然に見える形で袋を持ってくれている。こいつのそんな些細な気遣いも大好きで仕方なかった。
#5 晩酌
腹は丁度八分目。肉汁滴る牛挽肉百%のハンバーグは健斗が作る料理の中でもダントツで美味い。俺が良く食べるのを見越して大き目のハンバーグを用意してくれるのはいつもの事だ。
夕飯を終えて一息つくと、食器を片付けてダイニングテーブルを健斗が布巾で綺麗に拭いて行く。それを合図にした様に椅子から立ち上がってキッチンの食器棚からグラスを二つ取り出して冷蔵庫の製氷室の引き出しを開けてそれぞれに氷を入れてから閉める。
テーブルを拭き終えた健斗がキッチンに戻ってくると、冷蔵庫から炭酸水のペットボトルを一本と、既に刺身にし盛り付けてあるアジの皿を取り出してパタンと閉じた。
リビングにある二人で奮発して買った大型のテレビの前にあるローテーブルと二人掛けのソファー。そのローテーブルにグラスを並べて、続いて健斗が皿と炭酸水のペットボトルを置く。あとは醤油差しと箸と小皿か、とキッチンまで戻りこれらは一人分用意した。
「グラスも一人分で良いんだよ?包」
「気分だけでも味わいてぇだろ」
一通り晩酌の用意が整うとソファーに座り、リモコンでテレビの電源を入れて適当なバラエティ番組にチャンネルを変えるとリビングには複数の笑い声が木霊した。
健斗が差し出してくれた安物のウィスキーのボトルのキャップを回して開け、二つのグラスにそれぞれ目分量で注ぎ入れ、キャップを閉めてから横に座った健斗が開けた炭酸水を更に注ぐ。注いだ勢いである程度は混ざる為このままで良い。
「それじゃ乾杯」
「乾杯」
気分だけでも、という俺の意図を汲んでくれた健斗がグラスを手にする。同じくグラスを掴んでカチリと軽くぶつけ合ってから冷えたハイボールが入ったグラスに口を付けて喉を潤す。口の中でパチパチと弾ける気泡とアルコールの苦みに続けてウィスキーの香りが広がる。
「包はさ、食べるのも酒飲むのも好きだから前は良く飲み会行っちゃって寂しかったなーって」
「何だよ今更。だからこうやってお前と晩酌する様になっただろ?」
「だね。まぁ寂しかったのもあるけど、包はモテるから本当はずっと心配してた」
「モテてねーし」
突然昔話を始めた健斗を不思議に思いつつ、醤油差しから小皿に中身を注ぎ箸を握って用意してくれたアジの刺身を一切れ摘まんで醤油を付けてから頬張る。健斗の目利き通り脂が乗っていて旨味が口一杯に広がった。
「包はずーっとモテてた。中学の時も高校の時も、大学入ってもラブレター何通も貰ってたし呼び出されもしてたでしょ?全部知ってる」
「お前だってモテてたろ。成績優秀運動神経抜群のバスケ部のエース様?」
「あはは、でも俺は包にモテなきゃ意味が無かったからね。全部必死だったよ」
またハイボールを一口飲み、横に居る健斗に視線を向ける。何となく意地悪な質問をしたくなって思い付いた事を口にする。
「なら、俺がもしお前じゃない誰かと付き合ったらお前あの頃如何した?」
「死ぬ気で包を寝取ったかも」
「発想がだいぶヤベェ」
確かに学生の頃、何度も告られたのを覚えている。でも誰かと付き合おうとかまるで考えもしなかった。性欲だってそれなりにあったし発散したいと思わなくは無かったが、多分健斗以外といる自分を想像出来なかったのもある。
中学高校と二人でバスケ部に入り、大会だって優勝した事もあった。高校二年の夏、健斗は怪我を切欠にバスケをやる事は無くなったが、俺がボールを奪って健斗にパスを回しそのまま逆転シュートを決めるあの瞬間の興奮はいつまでも忘れられない。
最後までなんやかんやバスケを続けていた俺には大学のスポーツ推薦が幾つも来たが結局健斗と同じ大学を選んで一緒に勉強し、共に合格発表を祈る気持ちで見た。揃って合格が分かった時の安堵感も今は懐かしい。
「俺ね、包じゃないとダメなんだよ。小さい時からずっとずっと包だけを見て来た」
「お前確か俺と結婚する―ってガキの時から騒いでたよな」
「今でも変わらないよ、包と結婚していいのは俺だけだから」
「ほんっと重てぇな」
そんな願いももう叶わないと分かっている。まだ同性婚は認められていないし、何より役所に出されたのは婚姻届ではなく健斗の死亡届。この先同性婚が認められたとしても、もう叶わない。
「ごめんね包。俺が――」
「それ以上言うな大馬鹿野郎」
「……うん。でも、ごめん」
カラリとグラスの中で氷が解けてぶつかる音がした。視線を向けたテレビは未だに笑い声が絶えない。横に在る冷たい温度にももう徐々に慣れて来た気がする。ハイボールの残りを一気に飲み干してテーブルに置き、健斗が持つグラスを奪うとそれも一口喉に流し込んだ。合間につまむアジの刺身が本当に美味くて共有出来ない事に腹が立つ。
「お前が目利きしたアジ、美味ぇよ」
「そっか、良かった」
「俺一人で食うの勿体無い位な」
「じゃあキスだけさせて、食べられなくても味覚はあるかもしれないし」
「好きにしろバーカ」
テーブルにグラスと箸を置き、また健斗の方を向くと頬にひんやりとした手が添えられる。目を閉じるとその後すぐに唇が重なり二度、三度とキスをする。最後にぺろりと唇を舐られ瞼を開けば間近で健斗と視線が絡み合った。
「美味しい、気がする」
「……そうかよ」
「ありがとうね、包」
「何にもしてねぇし」
「俺がちゃんと居ると思わせてくれて、ありがとう」
そう言った健斗に強く抱き締められる。やっぱり暖かな体温は其処には無い。でも離したらいつか消えてしまいそうな気がしてそっと腕を回して抱き締め返す。背中を優しく撫でてやれば安心した様に健斗が小さく笑ったのが何となく伝わった。
「健斗」
「なぁに?」
「お前の事ちゃんと分かってっから」
「……包は優しいから他の幽霊にまで好かれないか心配になる」
「これ以上憑かれんのは勘弁だわ」
「大丈夫、俺が護るよ」
いつの間にかテレビのバラエティー番組は終わり合間のニュースが流れている。甘えた様に擦り寄って来る健斗の頭を撫でてやるといつもと変わらなくて何だか少し安心した。
こいつなら本当にあらゆるものから護ってくれそうで心強い。絶対に本人には言ってやらないが。
「ほら、まだ晩酌中だからそろそろ離れろ」
「じゃあ後でまた抱き締めさせて」
「後でな。先に風呂」
「準備してきます」
健斗の腕の中から抜け出してハイボールの入ったグラスを再び掴んで中身を飲み込む。名残惜しそうにしつつもソファーから立ち上がって風呂の準備をしに行った健斗を横目にまたアジの刺身を頬張った。
#6 情交
熱すぎずぬるくもない絶妙な温度で沸かされた風呂から上がり、タオルで全身を拭って寝間着のTシャツと緩めのハーフパンツに着替え洗面台でドライヤーを掛ける。光に当たるとより明るく見える茶髪は割と気に入っていて、大学に入って染めたばかりの時も周りからは好評だった。それからはずっとこの髪色だ。
シャンプーに拘りは特に無かったが、染めた本人の俺よりも俺のヘアケアに情熱を燃やしているらしい健斗に勧められるがままに今のシャンプーとコンディショナーを使っている。
ご立派なシャンプー特有の甘ったるい香りもせず、ふわっと何かの花の匂いが周囲にほんのり香る程度。シャンプーを変えるまで気にもしてなかったが髪を触った時の指通りもツヤも全然違うのが流石の俺でも分かって驚いた程だ。
「健斗ー!上がったぞ」
「ああ、うん。ねぇ、幽霊でもお風呂って入れるのかな……」
「悩んでる位なら入ってみりゃいんじゃね?」
ドライヤーを戻して脱衣所の扉を開けリビングに向かいがてら声を掛けると少々不安そうな声色で健斗が顔を覗かせたがこの際もう悩んでも埒が明かない。
「それもそっか。あ、ちょっとだけ包のスマホ借りた」
「は?あー……そっかお前のはもう」
「交通事故で木っ端微塵になっちゃった」
健斗があはは、とおどけて見せる。どうせやましい事なんてありはしないからと健斗の誕生日四桁にゼロを二つ付けただけの六桁のパスワードで簡単にロックが外れてしまう様なスマートフォンだ。その事は教えてあったし、それ故に実際こいつに見られた所で今更如何とも思わない。
「俺の名義でもう一つスマホ契約しとくわ。俺と連絡取るのに無いと不便だろ?」
「ありがと、包。手間掛けさせてごめんね」
「別に。さっさと風呂入ってこいよ」
「いってきまーす」
スマートフォンを擦れ違い様に手渡され、それをハーフパンツのポケットに捻じ込むと同時に夏用のパジャマを脇に抱えた健斗が代わりに脱衣所へと入って行く。俺には全て認識出来るが、どうやら健斗が直接身に付けている物であれば着替えたり持ち歩いたりしていても周りからは見えないらしい。それが今日の職場で分かった収穫だ。つまりは服だけが浮いて歩いているなんて事には幸いならなかったと言う訳で、これならもし健斗が外に出たとしてもその辺をふら付く位であればまだ安心出来る。
キッチンに向かって冷蔵庫を開き、幾つか冷やしてあるミネラルウォーターのペットボトルを一つ掴むと後ろ手に冷蔵庫の扉を閉めてペットボトルのキャップを捻る。喉を鳴らして半分程飲み込んだ所で一息ついた。
ペットボトルのキャップを閉めてそれをそのまま手に持ち寝室に向かうと、ダブルベッドのシーツには丁度腰の位置辺りにバスタオルが敷かれていて溜息が出る。
それは暗黙の了解で、セックスの時にシーツを汚さない為にと健斗が気を利かせてやり始めた事。つまりバスタオルが敷かれている日は抱くつもりだと示されている様なものだ。
「まさかあいつそれで……」
ポケットからスマートフォンを出してブラウザの検索履歴を見れば恥ずかし気も無く最後に『幽霊 セックス』と表示されている。試しにそのまま検索してみると体験談が幾つも表示された。出来んのかよ……と頭を抱えて愕然としたが、ついいつもの癖で風呂場で準備してしまった自分も存在していて居た堪れない気持ちになる。
サイドチェストの上にあるルームライトの明かりを点けて其処にペットボトルを置き、スマートフォンを充電ケーブルへと繋いでからベッドに寝転がった。ご丁寧に普段から使っていた温感ローションとゴムが枕元に置いてある。毎度思うがバスタオル然り、用意周到過ぎていっそ感心する程だ。ヤる気満々状態の寝室で待ってるこっちの身にもなれと言いたい。悶々としていると脱衣所の扉が開く音が響き健斗がリビングを消灯し寝室に向かって来る。
「一応お風呂入れたけど、やっぱり鏡に写らなくててちょっと苦戦しちゃった。大丈夫?癖毛酷くない?」
「俺はそのぽやぽやしてる髪も好きだけどな」
「包の前では格好付けたいでしょ……」
寝室に現れた健斗が髪を気にしながらベッドに近付き腰掛けると上半身を起こしてワシャワシャと乾かしたての黒い癖っ毛を撫で回す。頑固な癖毛の割には猫の毛の様に柔らかくて触り心地は抜群だが本人曰くコンプレックスらしい。
「で?いつになくセックスする気満々の健斗くんは俺を如何したいワケ?」
「優しく抱かれたい?それとも激しい方が好き?」
「質問に質問で返すなっつーの。いいよ、激しくて」
「お風呂でちょっとでも暖かくなってると良いんだけど、冷たくてつらかったら言ってね」
そう言ってひたりと健斗の手が頬に添えられる。まだ到底人肌と言える温度ではないがいつもよりは冷たくない。これならだいぶマシかと安堵した。
「いい。大丈夫そ」
「ねぇ、包」
「ん?」
「大好き」
完全にベッドに乗り上げ向き合った健斗の手によってTシャツを捲り上げられ素肌にひんやりとしたエアコンの風が当たる。中途半端に脱がされたTシャツを自ら脱ぎ捨てて健斗のパジャマのボタンをひとつずつ外して行くと不意に顔が間近に迫りそのまま唇が重なった。
最初は啄む様なバードキスを角度を変えながら何度か。形の良い鼻先を擦り合わせて次第に息を奪うかの如き激しいキスに変わっていく。唇を舐られて薄く口を開くとその隙間を縫って健斗の舌が侵入し、そのまま歯列をなぞり好き勝手に味わい尽くされる。微かに息が上がり震える舌を掬い上げられて絡み合う音が静かな寝室に響いた。
貪り合う様な口付けを繰り返している最中にも健斗のパジャマのボタンを全て外し終えて肩から外させる。名残惜しそうに唇が離れていく瞬間、銀の細糸が伸びてふつりと途切れた。
少しマシになったとは言えやはり少しばかり冷たさを感じる掌が俺の両肩を掴んでそのままベッドに優しく押し倒され視界が薄暗い天井と健斗の顔だけになる。いつもは優しく穏やかで陽の光を浴びたガラス玉みたいなきらきらした瞳が今、欲に塗れた雄の眼をしていて俺にそれが注がれているというだけでゾクリと背筋が強張るのが分かった。喉仏を甘く噛まれ、耳朶から徐々に首筋、胸元へとキスの雨が降り注ぐ。
「っ、激しくすんじゃねぇのかよ」
「もっとがっつかれたかった?」
「んな事言ってねぇし」
「じゃあご要望に応えないとね」
キスだけで既に緩く擡げていた性器を布越しに撫で上げられて期待に身体が震えるのが分かる。撫でる手が何度か往復して緩く刺激を与えて来るのがもどかしい。
「ぁっ……ちゃんと、触れって」
「じゃあ少し腰浮かせて、そう」
言われるままに腰を浮かせると隙間に手が入り込み、手慣れた様子でハーフパンツを下着ごと俺の足から引き抜いてそれを脱がせた。腰をベッドに降ろすと脚を開かされて全身隈無く余す事無く見られているのが分かり、何年もこいつに抱かれているとはいえ流石に細やかな羞恥心が湧いて来た。
「……そんなに見んなよ」
「幽霊でもちゃんと好きな人には欲情出来るんだなぁってちょっと感動してたとこ」
「そんな幽霊がホイホイ居て堪るかって話だけどな」
「不能になってたらどうしようかなって割と本気で心配だったんだよ?ってちょっと……!」
俺の手を取って健斗が股間を触らせる。其処は確り芯を持っていて興奮しているのが嫌でも伝わった。先程の仕返しにパジャマのボトムと下着を指で引っ掛けて降ろし、出て来たそれに対してとびきりいやらしく裏筋を撫でてやると健斗が焦るのが分かって口角が上がる。
「お喋りはもう充分だろ?」
「煽るの本当上手くなったね……」
「お前に何年抱かれてると思ってんだよ」
「なら包、煽られた俺がどうなるかもよーく分かるよね?」
分かりやすく膨張した健斗の性器に気を良くしていると、もうなる様になれとボトムと下着を脱ぎ捨てた健斗に手を掴まれシーツに押し付けられた。射貫く様な視線にああ、これはスイッチを入れたなと頭の何処かでぼんやりと思う。優しさをありったけどろっどろに煮詰めたのが普段のこいつなら、今のこいつはきっとそれ以上に強欲と執着を上から塗り固めた危険物だ。
でもそれが心地良いとすら思う。いっそ気が狂う程求められたい。俺も大概強欲な生き物だった。
いつもならご丁寧にしつこい程愛撫されるのに全てをすっ飛ばして健斗がローションに手を伸ばしチューブのキャップをパチンと開けて手に絞り出す。辛うじてキャップを閉める事を忘れない程度の理性はまだあるらしい。
肩を甘噛みされ、後孔にはローションに塗れたいつもより冷たい指が入り込む。最初の頃は異物感が酷かったというのに今では健斗の指だと思うとすんなり受け入れてしまう。
「ふ、あ……ッ、そこっ」
性急に前立腺を指先で抉る様に刺激されて腰が震え喉が反る。じっくりと年月をかけ開発されてバグった身体はそれだけでスイッチが入った。それが気持ち良い事だと認識した途端、腹の奥が切なく疼いて健斗の指に喜んでしゃぶり付く。
「ぁ、はぁ……っん、んぅ……っ」
「包、気持ち良さそうだね」
指が二本に増えてくぱりと拡げられるのすらも快感だと刷り込まれて陸に打ち上げられた魚の如く全身を跳ねさせるこの様だ。耳をピアスごと口に含まれ舐られてぴちゃりという水音が鼓膜を震わせゾクゾクと快感が背筋を走る。性器はすっかり反り立ち腹に先走りを滴らせていた。
「っう、ァ……やば、だめ」
「前立腺指でグリグリされてイきそうなの?でももう少し待ってね」
ふう、と耳に息を吹き込まれてびくりと震えシーツを握り締めると綺麗に整えられていた筈のそれはそこを中心にして皴が刻まれる。わざと前立腺を外して三本目の指を挿し込まれ抜き差しを繰り返されて上擦った嬌声が止まらなくなる。
「アっ、ン、けんと……も、奥、ほし……いッ」
「じゃあ、ちゃんとおねだりしてみて?」
唇で首筋を何度も食まれた後に底無しの闇の様に黒く染まって見える健斗の眼に見詰められて仕舞えば小さく頷く事しか出来なかった。
「ッ……健斗のちんこでっ、奥……めちゃくちゃに、して」
「はは、上手におねだり出来た包にはご褒美あげないとだね」
「ひッ、あ――ぁ!!!」
指を引き抜かれるといつの間にかゴムを装着していた健斗のデカブツをひたりと後孔に宛がわれて一気に貫かれる。その拍子に前立腺も強く抉られて腹に吐精した。
「まだイけるよね、いっぱいめちゃくちゃにしてあげる」
その甘い囁きは朝まで離さないの意だと知っているのは俺だけで良い。
明日が休みで良かったとこれ程思った日はないだろう。
#7 八日
夏の夜明けは早く、手探りでスマートフォンを掴んでタップし画面を点灯すればおおよそ四時半。
カーテンの隙間から部屋に一筋差し込む朝日の光と小鳥の囀りが聞こえて来る。健斗がしてくれている腕枕がひんやりとしていてこの時期には心地いい。そんな事をぼんやりと思いつつ眠い目を擦り欠伸を噛み殺した。
「包、もう起きたの?」
「何時間寝た……」
「うーん、三時間位かな」
「思ったより寝れたけどだりぃ……てかなにこれ」
首元に違和感を感じて触れてみると夜には無かった細いチェーンが巻かれているのが分かる。下を向き辛うじて視界に入ったそれは黄緑色の鮮やかな宝石がワンポイントとして嵌め込まれたシルバーで洒落たデザインのペンダントトップが朝日に煌いた。
「本当は十二時に祝いたかったけどまぁ……ね!とにかく、誕生日おめでとう。今日は八月八日、包の二十五歳の誕生日だよ」
「……忘れてたわ」
「幸いというかなんと言うか、まだ生きてる内に買っておいたからちゃんと最後にプレゼント出来て良かった」
「最後とか言うな馬鹿」
ペンダントトップにそっと触れて形を確かめる。雫をモチーフにしたかの様な実にシンプルな作りで、これならばどんな服にでも合いそうだ。顔を上げて健斗に視線を合わせるとこいつは緩み切った顔でふにゃりと笑い掛けて来る。
「想像以上に良く似合ってる」
「……ありがとな」
「どう致しまして。この緑色の石、ペリドットって言って八月の誕生石らしいんだよね。愛の象徴なんだって」
「お前ほんとそういうの好きだよな」
こんな時でもやっぱり俺は中々素直になれなくて、本当は滅茶苦茶嬉しいのに言葉に出来なくて、抱き締めて癖毛の黒髪を撫で回してやる事が俺の精一杯だ。それでも嬉しそうに笑うこいつは本当にお人好しだと思う。
「きっとこの先、包には何もプレゼントしてあげられないから……形になる物を遺せて良かった」
「お前が居ればそれで良いし」
「包ならそう言うって思ってた」
抱き締め返されて、以前の温もりはもう無いのに暖かいと錯覚を起こしそうになる。てっきり朝まで抱き潰されるものとばかり思っていたが、このドが付く程真面目でお人好しで優しい馬鹿は割とすぐに理性を取り戻した。学生の頃みたいに一晩中盛ってヤりまくるなんて事は無くて、やっぱりこいつは優しさが過ぎると思う。
額を擦り合わせて睫毛がぶつかるのではないかという程至近距離で視線を合わせる。健斗のガラス玉みたいなキラキラした眼に映っているのは一体どんな世界なんだろう。顔も良くていつだって素直で爽やかで明るくて、誰がどう見ても百点満点の良い奴。そんな奴が俺だけをただ一心に見ている。
「……もう少し寝る」
「包が寝落ちちゃう前に一応水飲ませたけど、喉平気?水まだ有るよ?」
「へーき。てかお前が横に居たら冷房代浮くんじゃね?」
「あはは、冗談言える位には大丈夫そうで良かった」
視線を外せば意図を汲んだ健斗が俺の頭を腕で抱き、心地いい腕枕が再び完成する。筋肉質で柔らかくも何ともないのに妙に落ち着くのは何故だろう。前と違ってひやりとした健斗の身体、でも凍える程冷たい訳では無い。程良い温度に身を委ねて瞼を閉じる。
「おやすみ、包」
「……おやすみ」
健斗の匂いに包まれて安堵して、落ち着いた呼吸を繰り返しているとそう待たない内にすぐに眠気は降りて来て思考がブラックアウトした。
照り付ける太陽の下、今日はご馳走を作ると張り切る健斗を引き連れてスーパーで大量に買い物をしまさに帰路を辿っている最中。レンガ調の整備された歩道を並んで歩き、試しに熱さ凌ぎにと手で顔を仰いでみるが生温い微弱な風が当たる様な気がする程度の足掻きでしかなくげんなりする。
そんな俺を見兼ねたのか健斗がひんやりとした手を頬に当ててくれる。じわじわと其処だけ暑さが吸い取られていく心地がした。
「暑そうだけど大丈夫?幽霊になると気温も全然感じなくて」
「涼し気でいっそ羨ましいわ」
「でもまだ包はこうなっちゃダメです」
「そうそう簡単に死ぬかって」
健斗を肘で小突き小声で他愛ない束の間の会話を楽しむ。街行く人は特に気にもせず通り過ぎて行くだけ、の筈で。
「ああ、失礼。ボクとした事がぶつかりそうになるなんて、すみませんね」
「…………」
きっちりセットされたやたら派手な金髪に丸い黒のサングラス。それに高級そうなシャツとスラックスのまるでホストみたいな男が健斗とぶつかりかけてそう謝罪し此方を一瞬見た後ニィと口端を上げてから去って行った。
「健斗?」
「あの人、俺の事見えてた」
「あのホストみてぇな奴?」
「…………悪寒がした、あの人は……多分やばい」
健斗が心なしか少し怯えている気がした。良く分からないが幽霊的に何か思う所があるのだろうか。そりゃ体質によっては見える人というのは一定数居るだろうとは思っていた。でもこの健斗の怯え方は何だ。こんな事一度たりとも無い。
せめて手を握ってやる位しか出来ないが、それでも手の震えは暫く止まなかった。
#8 招待
蝉の無く音が彼方此方から聞こえて来る真夏の夕方。
歩いているだけで汗が滲む程の猛暑日。暑さの所為で陽炎が見える程の日だ。それでも繋いだ手だけはひんやりとしていた。
健斗の震えが収まるまで少しだけ待ち、落ち着いたのだろう頃合いでまた歩き出す。
「大丈夫か?」
「ごめん、心配かけちゃったね。もう平気」
「幽霊にも怖いものあんだな」
「あの人は多分特別だと思う、近寄りたくないって咄嗟に思ったから」
ふうん、と相槌を打ち手を離してからポケットに捻じ込んである一枚の折り畳んだ紙を出して開くとそれは近所の洋菓子店の予約表で、健斗から出掛ける前に渡された物だ。支払い済みと書かれているそれにはホールケーキ×1と記載されている。
「しっかし毎年わざわざケーキまで予約して、用意周到過ぎんだろ」
「包、ここのお店のケーキ好きだからね。来年からはもう予約出来なくなっちゃったけど……」
「俺が予約すりゃ良い話じゃん」
「あはは、それじゃ意味ないでしょ」
確かに自分で自分の誕生日ケーキを予約するなんてアホらしい。でも健斗に切ない思いをさせる位ならその程度如何という事は無いしケーキがあるだけで特別感が出るのは事実だ。
買い物袋を片手に辿り着いた洋菓子店の自動ドアを潜り抜けると其処は涼しく快適だった。一番に目に飛び込むショーケースの中は鮮やかな夏のフルーツをふんだんに使用したケーキやタルトが陳列されていて、それらが目的ではないのに何処かワクワクとしてしまう。
「いらっしゃいませ」
「あ、ケーキ予約してた雨宮です」
「お待ちしておりました、4号のショートケーキをワンホールですね。少々お待ち帰り下さい」
「はい」
ショーケースの向こう側に居る店員に予約表を渡すとすぐに控えとの照合が済み、裏へと入って行った店員が今度は箱を持ってすぐに現れる。
「お待たせしました。代金は先にお支払い頂いておりますのでこのままお持ち下さい」
「どうも」
「ありがとうございました」
買い物袋を持つ手とは逆の手で、店員に差し出されたケーキの入った箱の持ち手を掴んで焼き菓子コーナーを横目に出入口に向かう。先を歩く健斗では自動ドアはやはり反応せず立ち止まったのを見兼ねて開いた自動ドアを抜けて追い越す。それに慌てて付いて来た健斗が少しだけ面白い。
「毎年こんな事してたんだな、お前」
「包が喜んでくれるなら何だってするよ」
「甘やかしすぎだっつーの」
「けど満更でもないでしょ?」
分かり切った様な顔で健斗が微笑み掛けて来る。この顔にはどうにも弱い。それに健斗に甘やかされて満更じゃないのも事実だ。
住んでいるマンションからこの洋菓子店は本当に近い。徒歩で五分と言った所だろう。健斗と喋っている内にあっという間にマンションの入り口に辿り着き集合ポストの前まで行くと、人が居ないのを確認してから健斗に荷物を渡してダイヤル錠を外し中身を確認する。大したものは入っていないと思ったが不意に目に留まったのは見慣れない一枚の招待状。
「何だこれ。八月のお誕生日の方限定、ステラの占いの館三十分無料ご招待券……」
「珍しい物入ってるね」
「ああ。でも占いなんて興味ねぇしな……」
「この人さ、朝のワイドショーの占いコーナーやってる有名占い師じゃないかな。ステラの今日の占い~とか書いてあった気がする」
背後から招待状を覗き込み、そう言えばといった表情で健斗が答える。占いコーナーなんて自分の星座が一位の時しか信じない位には興味が無いがテレビ番組の占いコーナーを任される程の占い師と言う点だけは気になった。
「まぁ行くだけ行ってみるか、タダらしいし……駅近くのビル内って随分良いとこに構えてんな」
「占いに幽霊は邪魔そうだから俺はお留守番してるよ」
「ん。まぁ明日にでも行ってみるわ。占いの館とか初めて行く」
「俺も行った事無いよ。女の子達が恋愛運占って貰いに行くイメージ強いし」
取り合えず招待状を鞄の中に詰め込み荷物を引き受けた健斗と共にエレベーターに乗って自宅へと向かう。質素なエレベーターには監視カメラは無い為、道中人と擦れ違わない限り不自然に思われる事も無いだろう。
それでも万が一に備えて急ぎ足で自宅の扉の前まで進み鍵を開けて周囲を警戒しつつ健斗と共に中に入った。鍵を確りと閉め空調が効いた涼しい家の中に安堵の溜息が出る。
靴を脱いでキッチンに向かうとまずは健斗がケーキの箱を冷蔵庫に仕舞い飲料や肉、野菜を詰め込んでから既に冷えたミネラルウォーターを一本取り出して渡してくれる。さんきゅ、と短く礼を述べてキャップを捻りそのまま口を付けて飲み込み喉を潤した。
「もう夕方だし俺はこのまま晩御飯の支度するけど、包はどうする?」
「疲れたからちょっと涼んどく」
「猛暑日だったみたいだしね~それじゃ水分確りとって休んでて」
「おう、悪ぃな」
キッチンから出てリビングに移るとソファーに倒れ込んでエアコンの風を浴びる。あー、と唸りながら外気温と灼熱の太陽で火照った身体を涼しい風が撫でて行く心地良さに目を細めた。ソファーに転がったまま鞄から先程の招待状を取り出して改めてじっくりと内容を確認する。
「駅前のファッションビルの八階、占いの館ステラ……占い師ステラが占星術であなたの運命にアドバイスを致します、か」
ふうん、とポストカードサイズの招待状を両面ぼんやりと眺めて果たして何を占って貰うか考える。仕事はまぁまぁ順調、恋愛運は今更必要ない、そうなると無難に健康運辺りだろうか。さっき健斗も言っていたがきっと女性客で賑わっているのだろうと思うと少しだけ気が重い。
だが行くと言った手前、前言撤回は男として許し難いので物は試しだと気持ちを切り替えて再び招待状を鞄に仕舞った。
ポケットからスマートフォンを取り出してSNSのアプリを開くと同級生のカップルが婚姻届けを出して来たという報告と写真を上げていて、賑わうコメント欄に対し俺も素直に『おめでとう、お幸せに』とコメントを送った。そう遠くない内に式を挙げるのだろうか、羨ましいな……なんて感傷に浸りそうになる。
ごちゃごちゃと考えている内にキッチンからは野菜を刻む小気味良い音が響く。健斗の指示するままにあれよあれよと籠に詰め込んで会計したが何を作るかまでは聞かされていない。次第にほんのりと甘辛い匂いが漂って来て腹が鳴った。
「あはは、包お腹空いた?今日の晩御飯はすきやきだよ」
「うん、腹減った」
「じゃあ少し早いけど晩御飯にしちゃおうか」
「俺も用意する」
鞄を置き、ソファーから立ち上がり手元のミネラルウォーターを飲み干すとキッチンに向かい空のペットボトルをゴミ箱に分別して捨てる。食器棚から器と箸、冷蔵庫の中の卵をひとつ取り出してダイニングテーブルに並べた。
健斗がカセットコンロをキッチンの上の棚から出してテーブルにセットし、続けてすきやきの入った浅い鍋をカセットコンロの上に乗せる。すぐに火を付けて煮立たせるとより良い匂いが立ち込め空腹に刺激を与えた。
綺麗にカットされた長ネギ、白菜、それに白滝と木綿豆腐。主役の牛肉も次第に煮えて色付いて行く。量こそ以前と違って一人分だがボリュームで言えば充分にある。
椅子に座って卵を器に割って入れ、箸でぐるぐると溶いているとキッチンに戻った健斗が白米を盛った茶碗と麦茶の入ったグラスを手に再び現れる。全てをテーブルの上に置き準備が出来ると両手を合わせた。
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
健斗も向かい側の椅子に座りそう言って微笑み掛けて来る。ぐつぐつと煮える鍋から白菜と火が通った牛肉を箸で掴んで溶き卵の中に入れそれ絡め、息を吹きかけてから頬張ると甘辛い割り下が良く染み込んだ肉は蕩けそうな程に美味くて思わず笑みが零れた。
「うっま」
「それは良かった」
すきやきと白米を交互に食べ、胃が徐々に満たされて行くと満足感に包まれる。食事を共有する事はもう出来なくても、幽霊になっても、健斗が傍に居てくれる事が幸せなのだと――この日までは信じて疑わなかった。
#9 邂逅
今日も良く晴れた記録的な猛暑日。照り付ける日差しは強く、雲一つ無い快晴。
家で待つと言った健斗に留守番を頼み、人で賑わう駅前通りまで足を運んだ。ハンディファンで風を顔に当てながら歩く高校生位の女子達と擦れ違い、時代は進化して行くなと柄にも無く物思いに耽る。一定の速度で歩き続け、目的地に辿り着くと鞄を漁り一枚の招待状を取り出す。
手にした招待状に書かれた住所はこのファッションビルの名前で間違いない。こんなご立派なビルの中でテナントとしてやって行けているのを考えてもやはりそれなりに人気なのだろう事が伺える。
自動ドアを抜けてビル内に入ると空調が効いていて温度も丁度良い。フロア案内を確認してエスカレーターの場所まで行くと後は人の波に乗って上がって行くだけだ。八階なのだからエレベーターの方が良かったか?と思わないでもないが空いているとも限らないのでこの選択を良しとする。
目的の八階まではそう掛からず、人の波から抜け出して近くのフロアマップを眺める。現在地を示す赤い印から右の角へ向かうだけ。これなら迷う事は無いと安堵して右方向へと歩き出せばひそひそと嬉しそうに小声で喋る二人組の女性達が見えた。来た方向からして占って貰った後の客なのだろう。その楽し気な様子にまぁ占いも考え様によっては悪い物でも無いんだろうと思わされた。
フロアマップの通りに右の角へ向かうと完全に区切られたひとつのブースとして存在している占いの館が現れる。時間帯が丁度良かったのか並んでいる人数は少なく、その最後尾に並んで暇潰しにスマートフォンをポケットから手に取りネットニュースを確認した。
芸能人の熱愛報道や交通事故、政治の話にビジネス関係と様々。適当に流し読みして行き、女性客が出て行くと共に列が進むと自分も一歩前に出て暫く待つ。ブースの壁に掛けられている案内を見るに如何やらこの占いの館にはメインのステラだけでは無く数人の占い師が居るらしい、それぞれ西洋占星術やタロット等役割分担している様だ。それなら思いの外進みが早いのも頷ける。
順番が近付き、占いの館のブース内をチラリと覗けば会計兼案内人らしい女性スタッフが一人と防音と思われる小さな個室が三つ。それぞれに担当の占い師名の札が掛けられている。噂に聞く占い師のイメージはパーテーションやカーテンで区切った程度の最小限の設備しかない物だとばかり思っていた為に此処まで金を掛けている事に驚いた。
「お待たせ致しました、今日はどの占いをご希望ですか?」
「あ、招待状貰ってて……これなんですけど」
「確認させて頂きました、七森様ですね。では此方の部屋にお入り下さい」
「はい」
自分の順番が回ってくると女性スタッフに招待状を渡して見せる。すぐに向こうも把握した様子で一番手前の個室――ステラと書かれた札が掛かっている場所に案内され、扉を数度ノックした後に開いた扉の中へと入ったと同時に女性スタッフによってゆっくり扉が閉まった。中は薄暗く上からぶら下がった照明がひとつ。
「ようこそ、七森包サン」
「げっ」
「まぁまぁそう嫌そうな顔しないで。どうぞ座って下さい」
前を向いた途端目が合ったのはにこにこと擬音が付きそうな程に胡散臭い笑顔を浮かべた派手な金髪の青のカラコンをしたホストみたいな男。昨日健斗が怖がっていたまさにそいつだ。
「ステラってお前かよ……てか男かよ……」
「男の占い師だって沢山居ますよォ?さて、此処にお呼びしたのはアナタと少~しお話させて頂きたかったからです」
「俺は用事ねぇけど」
「釣れませんねェ~?七森包サン、二十五歳、誕生日は八月八日で獅子座のO型。ご職業はウェブデザイナー、ご兄弟は弟さんがお一人……まだまだありますよ?」
「何で……」
渋々椅子に座ると両手の上に顎を乗せテーブルに肘を付いたステラが此方を見透かす様に青い眼を向けて来る。つらつらと俺のプロフィールを述べ始めるこいつに冷や汗が一筋伝った。その反応に気を良くしたらしいステラは続けて口を開く。
「ああ、これは占いで言い当てている訳ではありません。此処まで個人情報視えたら流石に怖いですからネ!ちょーっとしたツテを使って調べただけです」
「普通に最悪じゃねぇか」
「まぁそう言わずに!つい先日アナタの職場にウェブデザインのご相談をしに行かせて頂きまして。其処でついつい包サンに一目惚れを」
「猶更タチ悪ぃわ!」
この僅かほんの数分間だというのにどっと疲れが込み上げる。相変わらず胡散臭いが顔がやたら良いのが更に腹立つ要因だ。ホストに絶対こんな奴居る。間違いない。
「でもですねェ……どうやらアナタには邪魔なモノが憑いている様で。いやぁ困りました」
「…………」
「ボク、表面上は占い師やってますけど神社の家系の次男でして」
「何が言いてぇんだよ」
ほんの少しの不機嫌を感じ取ったのだろうステラがすっと目を細める。心の奥底まで見通そうとする視線が居心地の悪さを加速させた。
「ではそうですね、回りくどいのは辞めて単刀直入に言いましょう。ボクは霊能力者の側面も持っています。つまり浄霊も出来ると言う事ですね」
「……必要ねぇし」
「ではこうお話しましょうか、成仏出来ないでいる霊は不成仏霊と言って放って置けばいつか悪霊になってしまいます」
「そんなの信じられるかよ」
信じたくない、というのが正しいのかもしれない。だがあの健斗の怯え方から察するにこの男が言っている事は多分間違いないんだろう。でもそんな事認められない。
「未練や執着でこの世に残り続けるのは正しい事ではありません。そんな事が罷り通ってしまえば霊で溢れてしまいますからね」
「そもそも大体、俺が決めて良い事じゃねぇんだよ……」
「来週から丁度お盆ですね。あの世に送るには丁度良いかと思いますが?」
「何度も言わせんな、俺が決めていい事じゃねぇんだって」
何を言っても正論で返される、いい加減うんざりして来た所でステラがふむと何か考える素振りを見せた。
「余程あの霊に御執心な様で」
「恋人の幽霊を祓いますって言われて、はいそうですかなんて言える訳ないだろ」
相も変わらず腹が立つ程の笑顔で言われたかと思えば俺の返答にステラが急に真顔になった。それは圧を感じる程で何となく息苦しくなる。さっきまでの和やかなこいつは何処に行ったのかと問いたくなる位だ。
「妬けますね。よりによって幽霊が恋敵なんて」
「恋敵って」
「ボクはこう見えて本気ですよ?顔も良いし金もあるし尽くしますし浮気もしなければセックスも上手い。優良物件だと思いません?」
「触んな、つーか自分で言うかよ普通……」
一切笑っていない目で見据えられ、不意に立ち上がり近付いて来たステラに頬を撫でられ至近距離まで詰められると耳元で囁かれる。ふわりと柑橘系の香水の匂いがした。手を払って拒否するが健斗の手もこんな風に暖かかったなと少しでも考えてしまった自分が嫌になる。
「仕事中じゃなければキスしてしまいたかった所ですが、今日はこの位で」
「充分職権濫用してんじゃねぇか」
「では折角なので占って行きますか?」
「んな気分になるかっつーの。もう行くし……っておい!?」
椅子から立ち上がると同時に引き寄せられて腰元から尻に掛けてを撫でられゾワゾワした感覚に思わずステラを引き剥がす。すっかり最初と変わらない胡散臭い笑顔に戻っていたこの男の考える事がさっぱり分からない。
「また会いましょうね、包サン」
「セクハラで訴えんぞ!……もう会わねぇ」
「いいえ、アナタは必ずボクに会いに来ます」
「どんな自信だよ……じゃあな」
踵を返して扉を開けて個室から出て行く。三十分に満たなかったが凄く疲れた気がする。そこからどうやって帰ったのかはよく覚えていない。
今日の話が本当だとしたら健斗は本当は居てはいけない存在なのだろう。成仏出来ずに幽霊として其処に居る。感覚がマヒして当たり前の様に思っていたが本当はそうじゃない。お盆は来週、それまでにこの気持ちが整理できるかと思うと気が遠くなった。
#10 宿命
アスファルトに陽炎が揺らぐ猛暑日の気温は最悪で、それだけでも気が滅入るのに帰り道はひたすらムシャクシャしていた。あの男――ステラに言われた事は理解出来る。でもそれを受け入れろというのは余りにも酷だ。
うだうだと悩んでいる間に自宅のあるマンションまで辿り着いてしまって果たして健斗に何と言えば良いものかと考えると頭が痛い。
エントランスを抜けてポケットから鍵を取り出すと意を決して自宅へと向かった。
「おかえり、包……くるむ?」
「あー……ただいま」
鍵を差し込み扉を開けると様子が可笑しいと早速気付かれたのか健斗が首を傾げている。近付いてくるその姿に安堵感が湧き出して思わず泣き出しそうになった。
「大丈夫?何か……痛っ」
「健斗……?」
「いた……い、なんで……触れない」
「おい、どうした」
此方に延ばされた手が触れるか触れないかという所で急に健斗が顔を顰めた。何が起きたのか全く分からずその手を取ろうとすると静電気の様なものが走る感覚と共に健斗が絶望した顔で嘆く。
何故こんな事に?と頭が混乱する。何か変わった事は無かっただろうか、と今日起きた事を思い出して行くとあの男の影がチラ付く。
「まさか……マジかよ」
「なに、それ」
最後に触れられただけだと思っていたがジーンズの後ろポケットに手を伸ばすと気付かぬ間に電話番号が書かれた名刺とひとつのお守りが入れられていた。それはまるでこの状況は異常なのだという改めての警告の様にも思えて手が震える。同時にあの男は、ステラは間違いなく本物であるという確固たる証明でもあった。
浮かれていたんだ。健斗が傍にいてくれればいいという想いだけで。この可笑しな現状を作ってしまったのは自分だったのかもしれない。
「なぁ、健斗」
「うん」
「お前このままだと悪霊になっちまうってさ」
「……うん」
「俺の所為だ、俺が……俺が健斗の死を受け入れられなかったから、こんな……」
声が震える、健斗の事を真っ直ぐに見られない。涙が溢れ出して止まらなくて、雫と共に手元からお守りが床にポトリと落ちる。その場に泣き崩れると健斗に抱き締められた。分かっている、分かっているんだ。触れたって体温も心音も何もない事位。嫌という程自分が一番分かっている。でも手放したくなくて……こんなのエゴでしかないと理解させられた。
「……包は悪くないよ、俺が包を置いて逝けなかっただけ。でもそっかぁ~俺、どう足掻いても幽霊だもんね。こんなの可笑しいって薄々分かってた」
「やだ……おれ、やだよ。何でお前が……」
俺を包み込む温度の無い腕にぎゅ、と力が籠った。顔を上げてみても健斗の表情は伺えない。
「それ以上は言わないで。まぁ、これが逆に奇跡だったって事なんだ」
「なんでっ!なんでお前は受け入れられるんだよ!」
ぽたりぽたりと降り始めた雨粒がアスファルトに落ちる様に涙の粒が零れて止まらない。背中を撫でられて、でもその優しさが今は余計につらかった。
「ねぇ包、きっとこれは神様がくれた猶予で悔いの無いようにって存在してる時間なのかもしれないね」
「猶予……?」
「そう、俺が死ぬ運命はきっと変わらなかったけど。きっと最後に笑ってバイバイする為の猶予」
「俺の事死ぬまで離さないって呪うんじゃなかったのかよ!?」
「包には笑ってて欲しいんだ、俺。だからこのまま悪霊になって呪うんじゃなくて、俺として居られる内に包に祝福を送りたい。包は俺が悪霊になっても良いの?」
いっそ苦しい程に健斗は優しくそっと語り掛けて来る。ちゃんと全部分かっているのに、頷くというただそれだけの事が出来ない。いっそ悪霊になって呪い殺して欲しいなんて言ってはいけないと分かっていても脳裏をどうしても過ってしまう。でもこの誰よりも優しい男はそれを絶対に良しとはしないのも分かっている。
「……ばかやろう」
「うん、馬鹿野郎でごめん」
きっとこいつも言わなくても全部分かってるんだろう。俺が何を考えてるかも、全部。そんな狡くて優しいのがいっそ憎らしい程だと思いながら手に残った名刺を横目に見た。もう結論は出ているも同然だ。
「生まれ変わっても俺の事見つけなかったら許さねぇから」
「来世でも愛してくれるの?」
「当たり前だ馬鹿」
きっとどんな姿形で生まれ変わってもこいつはまた大型犬みたいに俺を見付けてはしゃぐんだろう。そう思ったら自然と笑みが浮かんだ。泣いて笑って、俺も俺で馬鹿みたいだ。ポケットからスマートフォンを取り出してショートメールのアプリを開くと名刺の番号を打ち込んで手短に文章を送った。これで全て終わってしまう、魔法が解ける。最後に頬を伝った雫は健斗の肩にぽたりと落ちた。
#11 覚悟
ザァザァと熱いシャワーが降り注ぐ。
向かい合った健斗のずぶ濡れの癖毛に手を伸ばして指先で遊ぶと唇が静かに重なった。シャワーの熱を冷ます様な温度の無い唇を甘く食み、もっとと囁けば舌が絡み合う。漏れ出す吐息がバスルームに木霊してシャワーの音と共に鼓膜に響き渡る。
後ろ手にシャワーの栓を捻って止めるとより一層食らい付かれると錯覚する程のキスに変わった。ちゅぷ、と舌先が触れ合い、それを飲み込む様に掬い上げられて互いの唾液が絡み合う。
「ん……ふ」
蕩けてしまう程の口付けひとつで腰が砕けそうになるのを見計らった様に健斗が名残惜しそうに唇を解放しそのまま腰を抱かれて密着する。身に纏うものひとつない素肌はやはり温度は無くて、浴びていたシャワーの熱気だけが伝う。
「キスだけで足りる?」
「足りない……今の内にもっと健斗が欲しい」
はしたないとは思いつつ、灯った欲望のままに下肢を擦り付ける。性器は僅かに兆しを見せており既に芯を持っていた。
すると腰を抱き撫でていた健斗の手が臀部に添えられて揉み込む様に手付きが変わる。より密着して幾度もキスを交わし、下肢を擦り付け合えば徐々に性器が頸を擡げた。
互いにその気であると分かれば話は早かった。俺が誘う様に腰を揺らして、先走りの助けを借りてぬるりと擦れる陰茎同士は徐々に膨れ上がり、揉みしだかれる臀部は気持ちいいがやはり物足りなさを感じている。
「健斗……」
「大丈夫、わかってる」
臀部の割れ目に沿って健斗の指が肌を撫でていく。その指先が後孔に触れると期待が隠し切れずそこがひくりと脈動した。
健斗がバスルームに置いてあったローションの蓋を開けて手に出しそのぬめりを頼りにそれを丁寧に塗り付けて、そっと中指が侵入して来る。もうすっかり慣れてしまった異物感に熱い溜息を零してもっとと誘い込む。
「ッ、ぁ、健斗……」
「もう少し、待って」
馴染んだ頃にもう一本の指を挿し入れ、腹側にある前立腺を明確に二本の指先で捏ね回されるとびくりと過剰な程に全身を震わせた。
そうしている間に健斗の腹筋を撫でながら下肢へと手を辿らせ、起ち上がった擦れ合う性器を撫で、そして震える手でゆるゆると扱き始める。
くちゅちくちゅりと淫猥な水音がバスルームに響き渡り、二人の熱い吐息が漏れ出した。
気付けば三本に増えていた後孔を解す指は縦横無尽に動き回って明確な意図をもって拡げていく。俺が扱いていた性器は既に完全に反り立ち、既に臨戦態勢と言える状態だった。
「くるむ、後ろ向いて」
その言葉を合図に後孔から指が引き抜かれ、健斗に背を向ける様にしてバスルームの壁に手をつく。
とろとろに解されたひく付く後孔にひたりと健斗が性器を宛がい力を籠めるとそのままずぷずぷと入ってくるのが分かる。
「ぁ……!アあ……ァ、ッ」
「は、ァ……くるむのナカ、相変わらずすごいね」
ゆっくりと挿入されコツリと結腸弁に先が当たるとゆるゆると馴染ませる様に健斗の性器が中を掻き回し始める。それだけでも快楽が襲い背筋を反らせて身を捩った。
健斗が俺の腰を掴み、程良く慣れた頃合いを見定めてトントンと奥をノックするかの動きで腰を振り始めるとぶるりと背筋に快感が走った。
「ッぁ……アン、ぁぁ!ァぁ!ンン、ァ!っ」
「包、気持ちいい……ッ?」
「あっ、けんと、もっとぉ」
完全に蕩け切った顔ではふはふと熱い吐息を零しもっと強請る俺に、強くグラインドを繰り返し突き上げて来る。そうしている内に緩み出した結腸弁にぐりぐりと先端を押し付けるとぐぽりとさらに奥へと飲み込まれ、俺の全身が大きく震えてぴしゃりとバスルームの壁に白濁が散った。
「ァ―――!!!!……ァあ……あ、ぁアん……ッん、ア……ぁ」
皮膚同士が勢い付けてぶつかり合いパンパンと音が鳴る。健斗が達したばかりの俺の性器を掴み、亀頭を撫で回して刺激し始めると大きく首を振り快楽に抗おうと腰が逃げそうになるが、構わず強く挿出を繰り返す健斗が背中に何度もキスを落とす。
「あ……イく、ァぁ!イ、あぁ!ア……、ァン……ぁ!っ」
「くるむ……ッ」
執拗に亀頭を責められて、結腸を突き上げて快感という快感を責め抜くと俺の鈴口から透明の液体が断続的に放たれ、その反動でこれ以上無い程に締め付けると健斗が中に精液を吐き出し、それを擦り付ける様に本能のまま腰が揺らぐ。
そっと顔に健斗の手が添えられて後ろを向かされると労わるかのごとく頬を擦り合わせて首筋にキスを落とされる。
絶え絶えな二人分の呼吸がバスルームに反響して余韻を感じさせるがまだ足りなくて、もっと健斗を感じていたくて腰を揺らす。まだ中に居る健斗の性器が脈打つのが伝わった。
「はぁ、っ……ア、ッ!けんと……ぉ!」
バスルームに止め処ない嬌声と吐息が響き渡り、後孔の奥までぐぽりと性器を叩き込まれ塞がらない口端からは唾液が雫となって零れ落ちる。ずっとゾクゾクと背筋を電流が駆け巡る様な快楽が止まず壁に爪を立てた。
「ッッ、くるむ、気持ちいいの?」
「ぐ、っ……ぁア!いい、もっとぉ……!」
「ふ、ッもう少しだけ」
耳を舐りながら囁かれてまたゾクリと背筋が震え腰が疼く。もう何度達したか数える余裕もない、すっかり咥え込む事に抵抗の無くなった肉体は浅ましく腰が揺れ動く。どんな激しい挿出にも感じる身体は一体いつ達しているのかも分からず前後不覚に陥る。
「ひ、ぁあ!イく……!!も、イってる、……ッ!」
「くるむ、かわいい」
「ハ、っ……は、ァ」
肌のぶつかり合う音が響く中、背が仰け反り叩き込まれる快楽に酔い痴れ絶頂を迎えるとこれ以上無い程奥を貫かれ再び中に熱い迸りを感じた。
疲れ果てた身体を鎮める様に二人でベッドに転がり、向かい合うと健斗に抱き寄せられすっぽりと腕の中に仕舞われる。それが何だか心地良くてそのまま好きにさせた。
「このまま二人でどろどろに溶けちゃえばいいのにね」
「なんだよ急に」
「覚悟決めたのにやっぱ包が恋しくて?」
「そんなの俺だって……」
額がそっとぶつかる。鼻先が擦れて、どちらともなく口付けて、やっぱり名残惜しいと心が叫ぶ。でも健斗が呪いを振り撒く所なんて見たくない。相反する気持ちが苦しくて胸がツンと痛む。
本当にこのまま二人で溶けてしまえたらどれだけ良いだろう。悲しみも苦しみも無くひとつになって……でもそれは叶う事の無い夢物語だ。
「ねぇ、包。俺の事愛してる?」
「……愛してるよ」
「……そっか、ありがとう」
ぎゅう、と健斗の腕に力が籠る。今思えばこいつだって滅茶苦茶つらい筈で、苦しいのも俺だけじゃない。恋人と離れて下さいと言われてはいそうですか、なんて簡単に頷ける訳がない。なのに健斗は俺を想ってあっさりと受け入れた。本当に馬鹿な奴だ。
「明日、東(あずま)神社に来いだとよ」
「うん。でももうちょっとだけ包と居たかったなぁ」
「先に覚悟決めたのお前だろ馬鹿」
「まぁね……俺さ、包と出会えて幸せだった」
「俺だって……」
不意に健斗が小さく鼻を啜るのが聞こえた。背中に腕を回して撫でてやるとハハッという笑い声で返されるがその声は震えている。
「俺と出会ってくれて、愛してくれてありがとう」
「……おう」
「来世ではさ、しわしわのおじいちゃんになるまで二人で幸せになろ?」
「今世でなりたかったっつーの」
「それはほんとゴメンって」
言葉を交わせば交わすほど、止まったと思った涙が溢れて来る。健斗も珍しく泣いている様だった。本当なら馬鹿みたいに笑って二人で泣きたかったなと思ってももう俺達に未来という二文字は無くて、そう思うとまた目尻から雫が零れた。
泣いても笑っても明日でこの束の間の幸せも終わりを告げる。なら最後位こうして求め合っても罰は当たらないだろう。涙を拭ってもう一度唇を重ねた。
#12 最終話 それは呪いか祝福か
蝉の声がこれ程煩わしいと思った日は無いだろう。
記録的な猛暑日を繰り返す八月の昼下がりは外に居るだけで嫌な汗が滲む。苛立つ程の雲一つ無い快晴の空は澄み渡っていて、アスファルトには陽炎が揺れている。
スマートフォンのナビゲーションに従いつつ比較的マシな日陰を優先的に通り、後ろをついて来る健斗を時折振り返って確認した。
物思いに耽っているのか珍しく口数が少なくて、ああ本当に終わるのかと奥歯を噛み締めた。
「東神社、考えたら来た事無かったな」
「うん。初詣はいつも別の神社だったしね」
「……ついた」
「もうついちゃったかぁ」
ナビゲーションが終わると共に目的地を見れば林に囲まれた涼し気な鳥居越しに境内が見える。それ程大きくはないが管理の行き届いた立派な神社である事が伺えた。ポケットにスマートフォンを捻じ込んで鳥居に向かい、潜る前に一礼して入ると健斗も続けて鳥居を潜ったものの様子がおかしな事に気付いた。
「健斗?」
「ごめ、ちょっと苦しくて……多分大丈夫」
「ならいいけど……」
「ようこそ、お二人とも」
手水舎まで向かい両手を交互に清めていると白衣に袴姿のステラが近付いて来る。幽霊なりに危険を察知したのか健斗の身体が震え出すが手を繋いでやると少しだけ治まった。
「……ステラ……出来れば会いたくなかった」
「言ったでしょう?アナタは必ずボクに会いに来ると。あと今は占い師ステラではなく東智也とお呼び下さい。そちらの幽霊は……」
「雨宮健斗……です」
「ではちゃっちゃと始めましょうか、もう既に半分剝がれていますがネ。幽霊にはこの神社は相当耐え難いでしょう」
「健斗お前……」
大丈夫、と目配せして来る健斗にそれ以上何も言えなかった。ステラ――東が言う通りなら今こいつは相当しんどい筈だ。
「この分であれば剝がすだけなら祝詞で充分でしょう。剥がせば後は成仏するだけですので。さぁこちらに」
東の案内に従って境内の中央に呼び寄せられる。余りにも簡単に言われて苛立ちを隠し切れないが今はもう東に委ねるしかない。
「では包サン、ボクの唱える祝詞を復唱して下さい」
「繰り返すだけでいいのか?」
「ええ。それだけです」
「……分かった」
もっと大層な儀式かと思っていた分、東の言葉に呆気に取られる。苦しそうな健斗を早く解放してやりたくて意を決して頷いた。それを見た東が口を開く。
「では続けて……祓え給い、清め給え、神ながら守り給え、幸え給え」
「祓え給い、清め給え、神ながら守り給え、幸え給え」
「くるし……っなに、これ、ぅっ」
「健斗!?健斗!」
「言ったでしょう、剝がれてしまえばあとは成仏するだけと」
東の唱えた祝詞を復唱すると露骨に苦しみ出した健斗を慌てて抱き締めようとするが、現実は無常でもうこいつに触る事は出来ず手はただ宙を舞った。
取り憑かれていたから触れただけで、本来の俺には霊感も何もない。故に触る事も出来ない。元に戻ってしまっただけの事だ。辛うじて見えているのが奇跡なのだろう。
「あ……そんな……」
「くるむ、ごめんね……泣かないで」
「……っ、泣いてねぇよ馬鹿」
「そっか、じゃあそういう事に……しとこうか」
苦しいだろうに健斗が俺をそっと抱き締める。でももう温度どころか感触も何もかもが、何ひとつない。気が付けば頬を一筋の雫が伝っていて、でも空はやっぱり澄み渡る晴天で……もう何度涙を流しているだろう、本当は笑って見送る筈だったのに。
「ボクの仕事は此処までです。本来あるべき摂理に戻す、それだけ」
東が気を利かせて背を向ける。徐々に健斗の姿が薄れていく中でやっぱりつらくて泣きじゃくった。涙は雨の様に地面に吸い込まれていく。
「包、今まで本当にありがとう」
「っ……」
「本当に、本当に愛してた」
「俺だって……!ずっと愛してる」
涙で視界が滲む。健斗はもう殆ど見えない。最後に触れる事の無い口付けをして、健斗が微笑む気配がする。でも瞬きする間にはもうそこには誰も居なかった。
「……東」
「ハイ、何でしょう」
「ありがとうな」
「礼には及びません」
東がひらひらと手を振り背を向けたまま去って行く。手の甲で涙を拭って、空を見上げた後自分も神社を後にした。
『次のニュースです。本日朝、都内のマンションで男性の遺体が発見されました。男性は――』
永遠の愛――それは呪いか、祝福か――
