11/07 【ハピエン・メリバ創作BLコンテスト】審査通過作品投票開始!
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2025/11/07 16:00

あらすじ
潮と宇佐美は高校のクラスメイトにしてルームメイト。宇佐美が詠む詩に惚れ込んだ潮は、彼に対する執着心を抱く。ふたりは文芸部に入部したものの、気まぐれな宇佐美は滅多に詩作をしない。それでも誕生日に作品を書き合う約束を取りつけ、潮は幸せの絶頂にあった。
だが、間もなくふたりは交通事故に遭ってしまう。共に酷い傷を負い、潮はかろうじて生還したものの、宇佐美は亡くなった。詩を諦めきれない潮は宇佐美の実家に押しかけ、彼の兄から一冊のノートを受け取る。
そこには、宇佐美が事故直後に詠んだと思われる詩が綴られていた。潮は「僕のことを書いてくれた」と確信し、作中の柘榴の木になぞらえて、自ら身体を破壊していく。嵐に見舞われた柘榴と同じく、彼は目も当てられない姿になり、やがて眠るように息を引き取った。
*
さる十二月一日、豊穣学園高等部の生徒二名が暴走車に撥ねられるという事故があった。彼らの名前は宇佐美秋月(うさみあきつき)と潮星太郎(うしおせいたろう)。休日に連れ立って外出している際の出来事だった。ふたりとも骨がむき出しになるほどの損傷を負い、病院では懸命な処置が施された。結果、潮はかろうじて生還を果たしたものの、宇佐美の方は息を引き取った。
豊穣学園は全寮制の男子校であり、彼らはクラスメイトにしてルームメイトだった。部活動も共通しており、友人と呼べる関係性だろう。事故当時、一緒にいたことに不審点はない。暴走車も単なる酔っ払いの過失であり、深掘りできる要素はなかった。ただ、この事故の続報については、関係者一同が首を捻った。
手術の痕がふさがり始めた頃、潮が自ら傷口を裂いたのだ。
元々の彼は立派な体躯の美丈夫だった。ギリシャ彫刻のように均整の取れた身体に、安心感を与える柔和な顔を持っていた。とはいえ自覚がないのか、いつも身を縮めて控えめに過ごしていた――とのこと。顔も身体もずたずたになってしまったため、写真と人伝による情報だ。
傷口を裂いたといっても、後追いや絶望が理由の自傷行為とは一線を画していた。死を目的としている様子ではなかった。手首や頸動脈には目もくれず、あくまで事故の傷を再現するかのように。医師が力を尽くして繋ぎ留めた肉体を、再びばらばらにするかのように。骨が覗いていた腕。脳漿があふれていた頭部。あらぬ方向に曲がっていた脚。病室にあるものを使い、できうる限り忠実に戻したいという執念が窺えた。
ひとつだけ、意図的に変えた部分があるとすれば。
事故では右頬が裂けていたのだが、再現では左頬を傷つけていた。彼の中で唯一、右頬の手術跡だけが綺麗に残っていた。窓ガラスの破片が突き刺さり、奥歯がこぼれ落ちるほどに崩壊していた部位だ。せっかく、対面する者が怯えない程度には処置できたのに。事故で抜けてしまった歯は差し歯に取り換えていた。そちらはそのままの状態で、反対側の奥歯を手ずから抜いたのだ。
潮はまだ生きている。今度は治療できるだろうか。九死に一生を得たのだから、二度目を望むのは贅沢だ。否、きっと、彼自身は望んでもいない。少しでも生きたいと思っているのなら、こんな凶行に走るはずがない。
ここに記述するのは、心理士である私が潮から聞き取った内容を整理したものである。最初の手術からの回復時と、「再現」の数日後、意識が戻った瞬間。その際に事情を尋ねたのだ。瀕死の患者にするべきことではないが、訊いておかないと永遠に分からないままだと思った。そして彼の方も、誰かに伝えたいことがあるようだった。
これを読んであなたが何を感じるのか。理解できるのか。納得できるのか。
私は非情に興味を持っている。ぜひ、意見をお聞きしたい。
*
宇佐美秋月くんと出会ったのは、高等部一年の春でした。つまり入学式の日です。ほとんどの生徒は中等部からの内部進学ですが、宇佐美くんは違います。彼は一般の受験を経て入学したそうです。出席番号が前後なので、ルームメイトになることは事前に分かっていました。
第一印象は「小柄で可愛らしい男子」でした。十人いれば十人が中学生だと思うほどに背が低く、相貌もあどけない。雪のように肌が白く、髪と瞳は黒々としていました。いわゆる美少年と呼ばれる容姿です。それもとびきり美しい部類の。入学式の間じゅう、ずっと意識してしまったことを覚えています。
寮の部屋の中で、改めて顔を合わせました。宇佐美くんはずいぶん遅れてやって来て、驚きの行動に出ました。ノックもなしにドアを開けると、ずかずかと二段ベッドに歩み寄り、断りもせず寝転がったのです。見目によらず横柄な態度でした。でも、これこそが彼の本性でした。
「お前、ここな」
ぴん、と立てた指を下へ。要するに、自分の寝ている場所へと。おかしな話です。せめて「上を使え」と言うのなら理解が及ぶのですが。呆気にとられている僕の目の前で、宇佐美くんは欠伸をしながら寝返りを打ちました。僕が使うはずのベッドなのに。
この瞬間、彼がどういった人間であるのか十分に理解しました。自己紹介としては完璧です。きっと、今まで本気で叱られたことがないのでしょう。口にしたことは全て叶ってきたのでしょう。有無を言わさぬ勢いや、息をのむほどの見目の良さ、あるいは周囲の人間の性格など――様々な要素が噛み合って、彼は妥協を知らずに生きてきたのです。大柄な人間に広い方を譲るという発想は、どこにも持ち合わせていない様子でした。
そして、僕もまた、許してしまった。
「分かったよ。僕がこっちを使うね」
そう言いながらベッドの端に荷物を置くと、少しだけよけてくれました。気だるげな視線が室内を一周し、最後に僕で止まります。何を言われるのかとどぎまぎしていると、桃色の唇がバッと開きました。
「牛だ!」
情けない話ですが、とても怖かったです。中等部の頃、同じような語気でからかわれたことがあったので。無駄に体躯が大きいこと、常にぼんやりしていて動きが遅いこと。それらが原因だったのでしょう。だから、今回も悪口かと思った。ですが宇佐美くんは、続けて嘲笑することもなく、ベッドから降りて歩き始めました。
情緒的で美しい、一篇の詩を口ずさみながら。
遊牧民の飼う牛が満天の星を見るという、童話のような詩でした。その瞳に映った光の粒と、高原の澄み渡る空気。枯草を踏みしめる音。全てが僕を取り囲み、すとんと胸の内に落ちてきます。
ああ、詩人なのか――
流行りの曲の歌詞などではないと、すぐに理解しました。宇佐美くんが即興で詠んだのです。会ったばかりの僕から構想を巡らせて。なんと光栄なのでしょう。この瞬間、ふたりの関係は決まったも同然でした。
彼の詩を間近で感じるために生きていきたい。
どれほど振り回されたって離れてやるものか、と決心したのです。
*
僕は宇佐美くんを誘って文芸部に入りました。といっても、当時は部員が全くおらず、事実上の廃部状態でした。幸いにもふたりの同級生が興味を持ってくれたので、僕たちは四人で部活動を始めました。
以前から読書は好きでした。ミステリや純文学などの鬱々とした小説を好み、人と語らうことはあまりありませんでしたが。他のふたり――高野と藤村も似たような趣味で、すぐに打ち解けることができました。年に四回は部誌を発行しよう、そこには自作の小説や互いの講評を載せよう。そういったことがすらすらと決まっていく中、宇佐美くんだけが部室のソファで眠りこけていました。
「……いいのかい、あれは」
控えめに指を向けながら高野が尋ねます。僕は曖昧な返答しかできません。
「いいんだよ、宇佐美くんは詩人だから」
当然、詩人であることは部活動を怠けてもいい理由にはならず、高野は納得がいかない様子でした。それでも彼を動かすことは不可能です。結局その日は、僕たちが部屋を出るまでずっと眠っていました。
以降も何度かせっつかれていましたが、宇佐美くんが真面目に取り組むことはありませんでした。ただ、原稿の締切の直前、寝転がっている彼に声を掛ければ詩を提出してくれました。手近なノートへ乱雑に綴り、それを破り取っただけのものですが。高野も藤村も呆れていましたが、僕にとっては何よりも貴重な原稿でした。そう、彼らが丹精込めて書いた小説よりも、です。
僕はそれを丁寧に清書し、部誌の巻頭に載せました。
そうやって、春と夏と秋の刊行を済ませることができました。その頃にはもう、宇佐美くんが白い目で見られることもなくなっていました。奔放で美しい野良猫が遊びに来ている、くらいの認識になったのでしょう。窓際のソファを空けておくことが、文芸部の暗黙のルールでした。
ある日、こういったことがありました。
藤村の誕生日に、僕と高野でプレゼントを買いました。高校生なので大した金額ではありませんが、きっと喜ばれるものを用意できたはずです。綺麗にラッピングされた、いかにも贈り物といった見目の小包み。それを部室で渡しているとき、ふいと宇佐美くんが起き上がったのです。
「お前、誕生日だったのか」
欠伸をしながらふらふらと歩み寄り、藤村の手元を覗き込みます。まさか奪い取るのではないだろうな、という緊張が走りました。そのくらい、彼の行動は読めません。猫が次に何をするか分からないのと同じです。
彼は視線をプレゼントに向けたまま、ポケットを探っていました。取り出したのはくたびれたメモ帳です。空白のページに何か書き込むと、破り取って藤村に押し付けました。
「新作だ。祝いにやるよ」
藤村はぽかんと口を開けていました。高野は困った顔で僕の方を見ました。言いたいことは分かります。贈り物として、さすがにこれはないだろう、と。しかし僕にとっては羨ましいのひと言に尽きた。その手から奪い取ってやろうかと思うほどに。
でも、あれはあくまで藤村に向けた詩ですから。
僕は自分の誕生日について考えました。ある時期から気にも留めなくなった日付について、久しぶりに思い返したのです。二月二十五日。まだまだ遠い。その日が来れば、僕も宇佐美くんから詩を贈ってもらえるのでしょうか。
歳をとることなんて、とっくに煩わしくなっていたのに。
僕は変わったのです。変えさせられたのです。綺麗な包みのプレゼントよりも、即興の詩の方が羨ましい。人生に割り込んできた詩人によって、感性が塗り替えられていくのを感じました。
*
それからというもの、僕はなるべく宇佐美くんと行動を共にすることにしました。
藤村が詩を贈られたのは、ほんの気まぐれです。直前まで、誕生日すら知られていなかったのですから。ならば僕もそれなりのアピールをするべきです。宇佐美くんはきっと、過ぎてしまった誕生日までは祝ってくれないでしょう。
「本屋に行くのかい。荷物持ちくらいはするよ」
休日。部屋を出ようとする背中に声を掛けました。いつも手ぶらに近い彼が、学生鞄を携えるのは古書店に行くときだけです。読み終えた本を売りに行き、同じだけの本を買ってくるのが常でした。
宇佐美くんは一瞬だけ面倒そうな顔をしましたが、すぐに応じてくれました。
「じゃあ、ついて来い」
全寮制の学校といえども、休日の外出は自由です。連れ立って近所の商店街を歩きました。八百屋や床屋、雑貨屋やブティック。団子の屋台などもありましたが、そちらには目もくれません。
「宇佐美くんは、もっと普段から詩を書いたりはしないの」
沈黙が気まずくて尋ねてみると、彼は振り返りもせずに答えました。
「俺の詩はそんなに安くねぇんだよ。何もないときに書いたりするものか」
確かに、彼は国語の授業で詩や作文を課されても、滅多に提出することがありません。いつも先生に叱られています。何を言っても柳に風なので、近頃は先生も諦めているのですが。
「藤村くんに詩を贈ったのは?」
「そりゃお前、誕生日は特別だろ。めでたい日だ」
「そっか」
他愛もない会話ですが、フッと胸が温かくなるのを感じました。誕生日は良い日だ、という認識が彼にはあるのだな、と。いつも気だるげで行事にも興味がなさそうなので、少し意外でした。
「宇佐美くんの……誕生日はいつだっけ」
古書店の扉が見えてきました。あそこに到着すれば、彼は口を利いてくれなくなるでしょう。本の方へ興味が移りますから。なので、切り込むなら今のうちでした。
「二月二十九日」
「へぇ、閏日だ」
「そう言うお前はいつなんだよ」
「ええっ」
まさか訊き返してもらえるとは思わず、飛び上がるほどに驚きました。宇佐美くんが足を止めて振り返ります。艶のある美しい黒髪が、慣性でふわりと跳ねました。
「二月二十五日……」
「大して離れてないな。そんときは何か書いてやるよ。だからお前も、俺の誕生日には小説を書け」
ああ、こんなに上手く話が進んでいいのでしょうか!
僕は呆然と立ち尽くしてしまいました。宇佐美くんが歩みを再開し、古書店へ入り、扉の向こうから「おい!」と呼び掛けてくるまで。もちろん彼のことですから、明日にはけろりと忘れている可能性はあります。それでも、少なくとも一度は、僕のために書くと約束してくれた!
ずっと上の空でした。荷物持ちとしてついて回り、どんなに重い本を持たされても、締まりのない笑顔を浮かべていたと思います。ある重要なことに気付いたのは、すっかり夜が更けてからでした。
(自分の誕生日には僕の書いた小説が欲しい、ってことか……?)
狭い寝床の中、ふと浮かんできた結論。そうです、宇佐美くんは僕の小説を求めたのです。自分も書くからお前も書け、と。素人の書いた小説なんて、普通の高校生は欲しがったりしないのに。社交辞令にしては、あまりにも自然な口ぶりでした。
もしかして、文学においては、相思相愛なのでしょうか。
愚鈍で、みっともなくて、図体ばかりが大きい僕のことを、好いてくれる相手などいないと思っていました。宇佐美くんにも幾度か「陰気くさい」と叱られてきましたし、それは事実でしょう。でも、文学というステージなら。僕は宇佐美くんの詩が好きで、宇佐美くんは僕の小説が好き。そんな関係なのだとしたら。
(死んだっていいくらい、幸せなことだ……)
そのとき、上段のベッドが軋みました。彼が寝返りを打ったのでしょう。まるで返事をもらえたように感じて、シーツの中で微笑みました。
*
休日の度に宇佐美くんと古書店へ行きました。はじめは意外そうな顔をされましたが、三度目ともなれば彼から誘ってくるようになりました。付き人のように後ろを歩く僕に対し、
「お前も好きな本を選べよ」
なんて言ってくれたりもして、対等な友人になれたみたいで嬉しかったです。互いが好きそうな本を選び合ったり、気に入ったものを交換したり。部活では寝てばかりの宇佐美くんが、僕の前では文芸部らしいことをしていました。
それはそれは、幸せな日々でした。
文学について語らっていると、彼の感性が理解できるようになります。猫のように気まぐれで、何をするか分からないと思っていたのに、少しは予想がつくようになるのです。東京の空は煩雑なので、空しか見えない空間に出会うと得をした気分になる――という話を聞いたとき、僕はようやくあのソファの価値を知りました。
ですが、楽しい時間は長く続かなかった。
あなたもご存知でしょう。商店街の暴走車事故。宇佐美くんとふたりで古書店に向かっているとき、飲酒運転の車に撥ねられました。いや、撥ねるだなんて生易しいものではありません。僕たちはすり潰されたのです。車とガードレールの間に挟まって、レンガ敷きの歩道に身体じゅうを削られた。宇佐美くんの美しい顔が、僕の目の前で、あっという間に血に染まったのを覚えています。
意識はしばらくありました。商店街の人たちが、右往左往しつつも助けようとしてくれていることが分かりました。誰かがシーツを持ってきて、垂れ幕のように周囲を覆ったとき、心の底から嬉しかったです。凄惨な姿を晒したくないというのもありましたが、囲われた空間でふたりきりになれたことに、強い安堵を感じたのです。
大勢が騒いでいる気配を感じながらも、僕の前には宇佐美くんしかいない。頬を染めているのは僕の血だったのでしょうか。彼自身に外傷はあまり見られませんでした。見たこともないほどに狼狽えて、こちらに触れようとして、何かに怯えて手を引っ込める。それを数回繰り返していました。
もしかすると、少しでも触れば崩れてしまう状態だったのかもしれません。ええ、僕の顔が、です。
宇佐美くんが死んで、僕が生還したのは、まったくもって不思議なことです。いえ、疑っているわけではありません。お医者様には感謝しています。彼は打ちどころが悪かったのでしょう。病院に着くまでは息があったと聞きました。
でも、目が覚めたとき、僕の隣にはいてくれなかった。
それが全てです。互いの誕生日を迎える前に、僕たちは引き裂かれてしまった。約束していたのに。書いてもらうことも、書くこともできないまま。僕がどれほど落胆したか、お分かりですか。最期の表情が記憶に焼きついて消えません。今まで一度も目にしたことのない、明らかな恐怖の色。あれほど我の強い宇佐美くんが、僕に触れることすらできないで……。
せめて、シーツ越しに見る空が、ひたすらに青かったことが。
部室の窓のように、空だけ見える構図だったことが。
天国へ向かう彼へのはなむけになっていればいいのですが。そう願ってやみません。
*
お久しぶりです、カウンセラさん。
また会いましたね。会ってしまいましたね。おっしゃりたいことは分かります。やっとひとりで歩ける程度まで回復したのに、また振り出しに戻ってしまいました。いえ、振り出しどころかマイナスでしょうか。
僕の顔、どんな風に見えています? 包帯に覆われて何も見えない? そうですか。僕の方も、あなたの姿がほとんど見えていません。まあいいじゃないですか。お互い表情が分からないなら、フェアに話せますからね。
僕はきっと助からないでしょう。そのくらいのことを、自分でやりました。もし事件性を疑っておられるなら、ここではっきりと否定しておきます。決して誰かに襲われたわけではない。これは全部、自傷です。
さりとて宇佐美くんの後追いではありません。お分かりですね? 死ぬためにここまでやる馬鹿はいません。塞がり始めた傷を裂き、肉を削いで、骨まで露出させる。途中で意識が飛ばないよう、痛み止めの薬まで打ったりして。もうすぐ僕は死にますが、死にたかったわけではないのです。それだけは伝えておきたくて。こうやって、声にならない声で話しているのです。
宇佐美くん亡きあと、僕は「どうしても彼の詩が読みたい」という願いに支配されました。部誌に載せた原稿や藤村に贈られたものだけでは足りません。なにしろ、片手に収まるほどしかないのですから。
まずは、見舞いに来てくれた同級生を頼って、部室や寮に詩が遺っていないか探しました。ノートの切れ端でもいい、書類の裏でもいい。どんな走り書きも漏らさず集めてくれと頼んだのですが、なしのつぶてで。宇佐美くんの詩は彼の頭の中だけにあって、形として表れることは稀なのだと。改めて実感する結果となりました。
それでも、最後にひとつだけ確かめておきたい場所があった。
僕は禁忌を犯しました。病院を抜け出した日のこと、覚えておられますか? 夕刻には戻ってきたのですが、実はあの日、宇佐美くんの実家を訪ねていたのです。
実家といってもご両親のお宅ではなく、お兄さんの住んでおられるアパートです。宇佐美くんは中学生の頃、歳の離れたお兄さんとふたりで暮らしていたらしく。詩の断片があるとすれば、本当の実家ではなくこちらだと考えました。
でき得るかぎり身なりを整えて。怪我も治っているように見せて。ドア越しに対面を果たしたとき、彼はずいぶんと恐縮している様子でした。弟のわがままのせいで事故に遭わせてしまったと、そう考えていたようなのです。行きたくもない古書店に付き合わされたせいで、あの事故に巻き込まれてしまったのだ、と。
もちろん、そうではないとすぐに説明しました。外出したのは僕の意思ですし、あの場にいたから事故に遭ったというのも結果論に過ぎません。滾々となだめている間、僕は宇佐美くんの詩のことばかりを考えていました。彼の書いたものがあるのなら早く出してほしい。それさえ受け取れば、ここに用はないのです。
やがて、お兄さんはほろほろと涙しながら、部屋の奥へと向かいました。
戻ってきたときに持っていたのは一冊のノートで。表紙が血に染まり、強く握られたような跡がついています。ただ事ではない、ということがひと目で分かりました。
「事故のとき、秋月の手元にあったそうです」
弟によく似た白い指が、表紙をそっと撫でます。
「秋月は病院に運ばれるまで、息がありました。それどころか、一時は起き上がって縁石に腰かけていたそうです。血の海に伏しているあなたの隣で、そのノートを開き、一心不乱に何か書いていたと……」
気味悪いですよね、という言葉を聞き終える前に奪い取りました。その、血を吸って重みを増したようにも感じるノートを。
「ください、これ」
「いいんですか? 気分の良い話ではないと思って、今まで黙っていたのですが」
「ください! いや、これは本来、僕のものなんだ!」
怯えた表情をされましたが、構いやしません。お兄さんの話が本当だとすれば、ここには僕のことが書かれているのです。命が尽きる間際、宇佐美くんは僕を見ながら何かを書いた。きっと詩です。どこまでも奔放に生きた彼が、遺書なんて真面目なものを記したりはしないでしょう。僕について書かれた詩ならば、僕に受け取る権利があるはずだ!
……驚きますか? 僕の執着が理解できませんか?
でもね、これは事実なんです。後でキャビネットの抽斗を確かめてみてください。血濡れのノートが入っています。ええ、二段目です。もう僕自身の手では開くこともできませんが、内容は頭に入っていますから。やりたいことも済ませましたし、好きにしてくださっていいですよ。
とにかく、僕はノートを携えて病室に戻りました。しこたま叱られたことは周知の通りですが、ノートの存在は隠しきりました。僕にとって必要なものはこれだけで、他は有象無象でしかありません。心配をする両親も、治療をしてくれるお医者様も、話を聞きに来たあなたのことだって。
申し訳ありませんが――本当に、どうでも良かったんです。
*
深夜の病室でノートを開きました。そこには確かに、宇佐美くんの詩がありました。ほとんどが白紙で、最初の二ページだけ使われています。事故の際、縁石に座って書いていたものと見て間違いないでしょう。普段は端正な筆跡が、かわいそうなほどに震えていました。
でも、その内容は、事故のさなかで書いたものとは思えません。
一株の柘榴の木が嵐に倒れ、枝葉を散らしている様子の描写に見えました。少し前まで立派に茂っていたというのに、圧倒的な暴力によってずたずたにされた。根ごと掘り返すほどの強風。執拗に枝を折る飛来物。果実はひとつ残らず落とされ、中身を晒しながら潰れている。そういったことが、ただ淡々と綴られていて。
そして――全てを遠巻きに眺める、ひたすらに青い空。
嵐の過ぎた空だけが、何事もなかったかのように柘榴を見下ろしている。壊れたままであることを見下している。たった一瞬の暴風で、築き上げてきたものを失ってしまうちっぽけな存在を、助けるでもなく燦々と照らしている。
ああ、なんて美しいのでしょう!
僕は詩を何度も読み返しました。そこに書かれているのは僕のことです。でも、事故を知らなければ僕のことだとは分かりません。いや、あの日のあのとき、同じシーツに囲われていた相手にしか、こんな詩は書けやしない!
紛れもなく、宇佐美くんが僕だけのために書いてくれた詩でした。
彼は約束を守ろうとしてくれたのでしょうか。誕生日を迎えられそうにないので、今のうちに書いておこうと考えたのでしょうか。あるいは、ただ衝動に駆られていたのかもしれません。目の前で友人が蹂躙されるなんて、普通に生きていれば経験しないことですから。
詩作に値すると感じてもらえたのなら、これほど喜ばしいことはないのです。
僕は自分の腕を触りました。そこは宇佐美くんが「枝」と表現した部分でした。全ての梢に実がついていた、無骨ながらも強靭な枝。ずっと実の重さに耐えてきたのに、嵐のせいで収拾がつかなくなって。守るべきものを落とし、樹皮一枚でぶら下がり、あとひと突きで千切れてしまいそうな柘榴の枝。
僕も一時はそうだったはずです。でも、手術で治ってしまった。自然のままに壊れていくことは許されなかった。そんなことを考えながら、チェストの抽斗を開けました。差し入れの果物を食べるため、級友が貸してくれたナイフがあります。まさか彼も、こんなことに使われるとは思ってもみなかったでしょう。
ええ、そうです。僕は自分で、そのナイフを腕に突き立てました。
骨が見えるまで深く刺しました。自棄ではありません。あくまで戻しただけです。なぜって、宇佐美くんが見たときの僕はこうだったのですから。回復した後の姿なんて、彼は知らないのです。知ったことではないのです。
サイドボードには痛み止めの注射がありました。どうしても耐えきれないときに申告すれば、お医者様が打ってくれたものです。幸いにもあまり苦痛を感じなかったので、ほとんど手つかずで残っています。
今こそ必要だと感じたので、自分で打ちました。途中で倒れるわけにいきませんから。先はまだまだ長いのです。宇佐美くんが命をかけて綴ってくれた、描写の通りにならなければ。詩の中の柘榴を回復させるすべはない。手術で治るはずがない。青空のもとで、静かに朽ちていくだけです。
腕も、脚も、腹も。歌い踊るような気持ちで壊していきました。楽しかったのです。嬉しかったのです。僕の愛した人の、最後の作品と同じ姿になれることが!
途中で誰ひとり来室しなかったのは、神の思し召しでしょう。巡回の看護師は気まぐれにこの部屋を飛ばした。どうか責めてやらないでください。僕が声ひとつ漏らさなかったので、外から気づきようもありません。順調に足元から壊し続け、ついに刃が頭部に達したとき。僕は右頬の傷跡を触りました。
ここは、柘榴の実です。
こぼれ落ちる種衣として表現されたのは、きっと奥歯でしょう。事故のとき、ガラス片が刺さってぼろぼろになっていたと聞きました。肉体と違い、僕の歯は戻ってきません。永久歯は再生しないので、綺麗な差し歯に取り換えられていました。
これじゃあ、意味がない。
宇佐美くんは僕のことを書いてくれたのです。ただのプラスチックの塊を表現したわけじゃない。まがい物で再現するのは失礼です。仕方がないので、やむを得ず左頬に刃を添えました。少し力を入れるだけで簡単に裂けていきます。切っ先が本物の奥歯に当たり、楽器のような音を奏でていました。
――と、まあ。言葉にすれば、これだけのことでして。
わだかまっていた疑問は解消しましたか? 右ではなく左の頬を裂いた理由に納得できましたか? ……まだ少し、釈然としない様子ですね。でも、僕から話せることは他にありません。強いて言うなら、ノートを提供したお兄さんについて、取り沙汰しないてほしいというくらいですかね。
……たくさん話したら眠くなってきました。この目蓋を下ろせば、次に開くことはないと思います。全て分かっていたことです。何も嘆くことはないでしょう? 道端で、いずれ朽ちゆく柘榴の木を見ても、あなたは大して哀れまないはずです。
所詮その程度のことだったと、すぐに忘れてくだされば幸いです。
*
後日談を記しておこう。
話を終えた潮少年は、宣言通りそのまま意識を失った。一週間ほど幽明をさまよい、眠るように息を引き取ったという。享年十五。両親すら拍子抜けするほどに、実にあっさりとした別れだった。
ノートの存在はいまだ明かしていない。私と潮と宇佐美、そして彼の兄だけが知っていることだ。とはいえここには書いたので、行く末が気になる方も多いだろう。宇佐美の形見として兄に渡そうとしたのだが、これは潮と共にあるべきだと突き返された。潮の両親は血濡れの遺品を見ようともしなかったため、棺に入れて燃やすことになった。だからもう、この世のどこにもありはしない。
潮星太郎をここまで狂わせたのは、いかほどの詩だったのか。宇佐美という少年は、本当に才能ある詩人だったのか。それを確かめるため、私は彼の作品を読んでみた。発行された部誌は三冊。つまり、巻頭の詩も三篇しかない。ひとつずつ目を通してみたものの、どれも目を見張るほどではなかった。確かに才能は感じられる。並の高校生の詩ではない。それでも、せいぜい「少し上手い」程度だ。
この矛盾には二通りの理由が考えられる。
まずは、宇佐美が手を抜いていた可能性だ。部誌に掲載された詩は全て即興のものである。寝転がったまま、手近なノートに書いていたらしい。出来が今ひとつなのは当然で、本来ならばもっと良いものが詠めるのかもしれない。
もうひとつは、潮の審美眼が狂っていた可能性だ。彼の話によれば、宇佐美の詩に心酔していたのは潮本人のみだった。教師から褒められている様子もないし、誕生日に贈られた藤村も内容には言及していない。あくまで証言者はひとりなのだ。もしかすると、宇佐美の容姿や言動に惚れ込んでいて、全てに対する盲目状態になっていたのかもしれない。
答えを知るためには、柘榴の詩を確かめるしかない。あれこそが宇佐美の全身全霊であり、手を抜くはずのない作品だ。少しでも妥協があったなら、潮が命を捨ててなぞらえることもなかっただろう。客観的に見て、柘榴の詩が傑作であれば前者、凡作であれば潮の狂信ということになる。
だが、その検証は叶わなかった。
ノートを開こうとしたところ、あまりにべったりと血糊が付着しており、中身を読めそうになかったのだ。無理をすれば破れてしまう。ノートそのものは潮の報告通り、二段目の抽斗にあったというのに。特に隠しているわけでもなかったのに。見えざる手で押さえられているかのように、ページは頑なに開かなかった。
かくして、人を狂わせるほどの傑作だったかもしれない詩は、荼毘に付されて青空へと消えた。
これで良かったのだ、と思うことにしている。潮の話の中で、彼はただ一度も宇佐美の詩を暗唱しなかった。全て頭に入っているだろうに、誰かにそのまま伝えようとはしなかったのだ。
我々が知っているのはありきたりな三篇の詩だけ。至高の遺作は、潮が黄泉へ連れて行ってしまった。この事件は、私の心理士人生の中でも特に印象深いものだ。いまだに少年たちの夢を見ることがある。ひと目で彼らだと分かる、明らかな体格差の高校生ふたり。こちらに背中を向けているが、ふと潮だけが振り返った。
人差し指を口元に立て、ふわりと微笑んで。その表情があまりに幸せそうで。
だから秘め事は秘め事のままで良かったのだ、と。
そう考えることにしている。
〈柘榴 終〉
