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メリバ小説部門 選考通過作品 『人魚は二度死を選ぶ』

2025/11/07 16:00

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『人魚は二度死を選ぶ』作:卓球先輩

 

 

あらすじ
妻と子どもに囲まれて暮らす日々。これ以上ない満ち足りた、幸せな人生のはずなのに。
ふとした時に襲ってくる虚しさは、なんなのだろう。

佐藤康介(さとうこうすけ)はある休日、家族と旅行で訪れた海辺のペンションのオーナー藤島達生(ふじしまたつき)から、康介は高校時代から想っていた、死んだはずの涼二だと言われ、「会いたかった」と抱きしめられる。困惑するもその場を振り切り、滞在中、達生と距離を置こうとする康介。
後日、康介は家族の忘れ物を引き取るため会社帰りにペンションに立ち寄るが、実はその忘れ物は、康介がわざと置いていったものだと告白。その理由と、本当の自分を受け止めようとしてくれる達生に、康介は誰にも打ち明けずにいた自らの正体と過去を語る。

今ある幸せか、ずっと願って止まなかった温もりか、それとも―――。自分が本当に選ぶべきものを、康介は改めて見つめ直す。

 ※こちらの作品は性描写がございます※


「海がみたい」
そう言った妻に、娘が私もー!と、小さい体を目一杯弾ませてみせた。
休日の予定は、たいていこうして決まる。妻がしたい事を言って、娘が無条件に乗っかる。娘はまだ4歳。自分がどうしたいかというより、みんなと何かできることが楽しいようだ。
俺は特別に行きたいところも、やりたい事もない。正確に言うと、家族の行きたいところに行きたいし、したいと言う事をしたい。
海を見るだけではもったいないから、宿泊旅行を提案した。このところ仕事が忙しくて、家のことも育児も碌にできていなかった。休みの日にも仕事を持ち帰っていたため、近場の広場に妻の作ってくれたお弁当を持参してのピクニックが精一杯だった。だから海も見られて、家事もお休みできる、妻へのささやかなプレゼントも兼ねてみたのだ。
妻は、「ほんと、そういうところ」と、ふわりと笑ってくれた。
30も後半に入り、出会った頃より目尻の皺は増えた。でも皺の数だけ、自分が傍で何回もこの笑顔を見てきた証拠のようで、俺はその皺が大好きだ。大きい声では言えないけれど。

佐藤康介という人間とこれまでの人生は、まずまずといったところではないだろうか。
小さい頃から運動も勉強も難なくこなし、快闊な性格で友人に困ったことはなく、ほどほどにモテた。難関といわれる私立大を一浪で入学し、卒業。大手企業の法務部に所属し、今は法令調査のチームをまとめている。忙しいが、そんな日々の中で出会った同い年の香奈江と結婚し、可愛い娘、愛花とも出会えた。
劇的な何かは無い。しかし、職に恵まれ、所帯を持ち、家族の一員として生きていく。誰もが想像するありきたりな暮らしこそが、世間の言う「幸せ」なのだろうし、それを手にできた自分は本当に幸運な男だと思う。

少し夜更しして、3人でパソコンの画面に顔を突き合わせて決めたペンションを予約した。
次の金曜日。2泊3日。午後半休を取ったから、職場から一旦家に帰り、荷物を車に運び入れて東京から葉山に向かう。
明日からまた月曜日。愛花は幼稚園ではなく旅行の支度を始めて妻に注意されていた。興奮が収まらないから、今夜は何冊絵本を読む羽目になるだろうか。愛花の「おやすみ」という少し拗ねた含みの声を残して、2人は寝室のある2階にあがっていった。
俺も明日からまた仕事だ。相変わらずの忙しさだけど、これもまた、「幸せ」を構成する一部分なのだろう。
ふと、漠然とした虚しさに襲われることもある。家族の為に生きている自分が、本当に幸せなのかと。どこかに自分では気づいていない本当の幸せが、空虚を埋めてくれる熱が、両手を広げて待ってくれているのではないか。そんな妄想めいたことを考えるときもある。
まあ、あるはずのないものを求めても仕方がない。漠然とした悩みは、眠りの中に散らせばいい。旅行のためにも、しっかり睡眠をとろう。いつも通り書斎に布団を敷いて、この日は意識して目を瞑った。

「ただいま」と玄関のドアを開けた途端、愛花が廊下に続くリビングからダッシュで俺に抱きついてきた。一日幼稚園をお休みした愛花は、自分の体と同じくらい大きくパンパンになったリュックを背負い、まだかまだかと騒いでいる。
「ぴょんちゃんもいっしょだよ!」
お気に入りのうさぎのぬいぐるみも、しっかり抱きかかえていた。
「わかった、わかった。一緒に行こうな!ところで、そのリュックには何が入っているんだ?」
「んーっとね、おかしでしょ、みーちゃんでしょ、おふとんと…」
みーちゃんというは、猫のぬいぐるみ。おふとんは、普段使っているガーゼタオルのことだ。可愛らしい動物たちの絵が描いてある。赤ちゃんの頃から使っているからだろうか、これがないと眠れないのだと、旅行先には必ず持っていっている。小さくきれいに畳めば問題ないのだが、今回は娘一人で荷造りしたせいか、中を確認するとぐちゃぐちゃに丸められていて、パンパンになっていた。移動途中で昼寝するだろうから、チャイルドシートのベルトを装着してから、おふとんを取り出して渡してあげると、噓のようにリュックの中はカパカパに空いた。
妻と自分の荷物を積んで、いよいよ車を走らせた。妻が用意してくれた間食用の小さなおにぎりを噛みしめながら、青空の下、俺たちは歌を歌ったり、しりとりをしたり楽しんだ。愛花が寝てからは、今週ずっと午前様だった俺に、いかに愛花が毎日毎日、海!海!と騒いでいたかを、妻から途切れることなく聞かされた。後部座席から聞こえてくる、不満半分、愛しさ半分の声色に、思わず顔が綻んだ。

目の前に佇む2階建ての建物は、ネットに載っていた写真で見るよりかは少し古さを感じた。海に映える白い外壁に、ところどころ経年の汚れが見える。それでも、屋上テラスの柵を越えて伸びるヤシの木を見ると、海辺に来たと単純に興奮してしまう。それに、このペンションの売りは、なんといってもオーナーの人柄だ。滞在した人たちのコメントには、必ずといっていいほどオーナーとの交流について書かれており、海の男らしく陽気で、ビールを飲みながら朝まで語り明かしたとか、細やかなおもてなしをしてくれたとか、とにかく高評価だったのだ。
客用のスペースに駐車した頃にようやく愛花が目を覚ました。寝起きなのでペンションを前にしてもテンションが低い。ぴょんちゃんを片手に抱きかかえ、半分目が閉じたまま妻に手を引かれ、玄関までの短い上り坂をペタペタと歩いている。
玄関ドアの横に、金色の小ぶりな鐘がぶら下がっていた。これを鳴らせばいいのだろうか。
垂れ下がっている紐を引っ張ると、バーの入り口によくある、カランカランとした音が響いた。木材で組みあげられた壁とドア。海とは面していない、隠れている玄関部分だけは、白に塗らず、木の色合いそのままだ。この木の温もりが、お客を温かく迎え入れるという意味にも受け取れる。
ドアの奥から「はーい!」という声が聞こえた。男性の、明るくてよく通る声だ。
玄関のドアが勢いよく開かれた。
「お待たせしてすみません!ようこそいらっしゃいました!」
目が合って、一瞬声が詰まった。
明るい金色のツーブロックに白いタオルをバンダナのように巻き、白いTシャツにアイスブルーのオーバーサイズなデニムパンツを履いている。焦げ茶色の瞳が、切れ長な瞼の奥からキラキラと輝いている。口周りのひげはきちんと剃ってあり、笑顔からのぞく歯も白い。日焼け止めをこまめに塗っているのか、海辺ペンションのオーナーにしては肌の色が白い。清潔感を纏った爽やかイケメンを具現化したような男だった。
「16時ご予約の佐藤様ですよね!?」
「え、あ、はい。あの」
「オーナーの藤島です!この度は当ペンションを選んでいただきありがとうございます!」
文章の終わりに必ずビックリマークがつくくらい、力強く歯切れの良い喋り方で、こちらも挨拶をしなければならないのに、圧倒されて言葉を失ってしまった。
「あ、こ、こちらこそ、お世話になります。あ、妻と娘です」
ようやく喉から声が出せたので、後ろに控えて同じように圧倒されている2人を紹介した。
「ああこれはこれは!奥様ようこそ!娘さん、可愛いですね!自分で荷物持っているんだね!偉いね!」
声の大きさにあっという間に目が覚めた愛花は、初めて会う人に褒められて、嬉しさ半分戸惑い半分で、妻の後ろにさっと隠れてしまった。
「ああ、すみません。でもおそらく喜んでいます」
「あはは!こちらこそ急に話しかけてすみません!でもここにいる間に、たくさんお喋りできることを楽しみにしているね!」
そう言うと自然な流れでウィンクをしてみせた。その完璧なイケメンムーブに、妻はキャッと小さく声を上げ、娘は見たこともないくらい目を丸くして、妻の服をこれでもかとぎゅっと握りしめた。
同じ男としてもうっかり見惚れてしまう。初手の挨拶だけで、高評価に納得せざるを得なかった。

このペンションは、最大で3枠宿泊できるそうだが、今週末の宿泊客は俺たち家族だけのようだった。確か出かける前に確認したら、残りの予約枠はすべて埋まっていたように見えたけど。キャンセルだろうか。
でもお蔭で、妻も娘も、ほかに気を遣うことなくゆったり過ごせているようだ。公共スペースである応接室も自由に使えるし、立食形式で行われた屋上テラスでの夕飯のバーベキューも、オーナーがつきっきりで焼いてくれて、俺も食べることに専念できた。愛花はあれからすっかりオーナーを気に入り、彼の分の肉を焼いてあげたり、ぬいぐるみを見せたり、普段家族以外の大人にあまり懐かないのに、びっくりするほどべったりくっついて離れなかった。
「愛花、そんなにくっついていると、お兄さん困っちゃうぞ」
「あはは!気にしないでください!楽しんでもらえているようで嬉しいです!」
「おにーちゃん、あとでアイス一緒に食べよ!」
応接室に備え付けてある冷凍庫にアイスキャンディがあったことを覚えていて、食後に食べたいとずっと言っていたのだ。
「じゃあ、お父さんお母さんと、お風呂あがったら、またこっちにおいでよ!お風呂ありのアイス、すっごく美味しいよ!」
「やったー!まなか、いちご!ぜったいいちご!」
「よかったね、愛花。じゃあお風呂いきましょう」
席を立った妻が愛花を連れて、階下の宿泊部屋に戻っていった。風呂は部屋のシャワールームを利用することになっている。俺は二人が入っている間、食器やバーベキューの道具の片づけを手伝おうと思い、そのままテラスに残った。
「お父さん、すみませんね!手伝ってもらっちゃって」
「いえ、こちらこそ。全部やってもらっちゃいまして。おかげで私たちは堪能しましたが、オーナーはお食事大丈夫ですか?」
「後で適当に食べるんで、大丈夫ですよ!愛花ちゃんにもお肉焼いてもらったし。あれは美味しかったなあ」
「あはは!おそれいります」
もうとっくに日は落ちていて、テラスにあるオレンジのライトが届かない海は暗闇に包まれていた。波の音と、食器の当たる音が混ざり合って響いて、忙しい日常から離れた世界にいる実感がした。
一通り終わったところで、大きく伸びをした。
「んー!やっぱり、海はいいですね。今日は波が穏やかで、風も気持ちいいし、ああ空も広い!」
「…海、お好きなんですか?」
「昔から好きなんです!忙しくてあんまりだったので、久しぶりに来られて嬉しいです。ここのペンションも素敵ですし、眺めもいい。あなたも、やっぱり海が好きでここに?」
「俺は」
一言口にした後、炭の処理に掴んでいたトングを静かに置いて、海の方を向いた。その背中は広くて逞しいのに、どことなく緊張感を覚えた。
「知り合いに、海の好きな奴がいて。そいつは遠くに行っちゃったんですけど、海の近くにいれば、そいつに会えるような気がして。それで、ここでペンションを始めたんです」
「へえ…」
ずいぶんロマンチストな人だ。もっと、男と言えば海でしょ!とか、モテそうでしょ!とか、そういう分かりやすい感じで来るのかと思っていた。
俺の返答を聞いて、ふとこちらを向いた。にやっと悪戯っ子のように口角を上げる。
「今、俺っぽくないって思ったでしょ。もっとアホっぽいこと言うのかなーって」
「え、いや!いやいやいや!いいですね!そういうの、素敵ですよ!会えるといいですね」
「…会えました」
「本当ですか!」
俺が相槌を打つと、彼はこちらをまっすぐに見つめてきた。その顔からは、今日会った時からずっと見てきた爽やかな笑顔は微塵も消えて、男らしい真剣な、しかし何かを堪えているように、眉間に皺を寄せていた。
「会えた、今。ほんとうに……。会いたかった、涼二」
「……え」
そういうと、ふいに、何かに突然力強く包まれた。
それが彼の腕だと気づくまでに時間はかからなかったが、気づいて、離れなきゃと思っても、体が固まって動かない。一気に極限まで緊張して、心臓の鼓動で体が跳ねるほどだ。
「あ、あの、一体なにをっ」
「死んだって聞かされて、もう会えないんだって…。会えた。海にいたら、会えた…」
しがみつく様に抱きしめられる。俺の肩に顔を埋めながら、誰に聞かせるでもなく、嚙みしめるように、そう呟いた。
肩の服越しに彼の息がかかって、くすぐったくて堪らなくて、やっとの思いで腕を伸ばし、体を突き放した。
「涼二…」
「俺は康介ですよ!申し訳ないですが、勘違いです。…やめてください」
「勘違いじゃない。康介さんは海なんか好きじゃない」
「海好きですよ!」
「海が好きなのは涼二だ!お前、言ってた。海風に当たっているのが好きで、波の動きを見ているのも好きって。ずっと海にいられたらって!」
「なっ、……そんなこと、誰に」
「俺に。俺に言ってくれた。2人で海を見たとき!」
―――お前、それでいいのか?
いつの記憶だろう。波の音と、誰かの声。日が沈みかけていて、辺り一面、燃えるようなオレンジに染まっていて…。
「涼二じゃない」
「りょうじ」
「俺は涼二じゃない!」
「おとーさーん!お風呂でたよー!」
下から突然響いた娘に声に、はっとした。同時に、呼吸も碌にできない苦しい時間からようやく解放されるという安堵に、溜め込んでいた息を大きくゆっくり吐き出した。
「すぐいくよ!」
努めて明るく返事をして、逃げるように彼に背を向けた。一秒たりともこの人の顔を見たくない。声も、ききたくない。
背中に突き刺さるような視線には気づかないふりをして、お互い何も言葉を発しないまま、俺は階段を下りて部屋に向かった。

俺が風呂から出るのを待っていた娘から、いつもより出てくるのが遅いと小言を言われた。体をタオルで拭きながら、今本当にシャワーを浴びたのか分からないくらい頭の中は混乱したままだ。本当は一緒に応接室に行く気分ではなかったが、俺がいない間、妻や子どもに何を吹き込むか分からない。その恐怖が勝って、渋々ついていくことにした。
彼は娘と同じアイスキャンディのイチゴ味を食べながら、3人掛けのソファに二人で座り、娘が一生懸命話しかけてくるのを、変わらず優しい顔を向けながら聞いてくれていた。オーナーの隣側にある一人掛けソファに座る妻も、時々娘の奇天烈な日本語を通訳しながら、周辺の観光スポットを聞いたり、おススメの食事処を教えてもらったりしていた。
ローテーブルを挟んで妻と対面に座っている俺はといえば、家族にバレない程度にはにこやかに、しかしなるべく彼の目を見ないように会話に参加していた。至って普通の態度。何も不安に思うことは起きなさそう。でも、やはり居心地が悪い。この場にいるのが耐えられなくなり、席を立った。
「どうしたの?」
「わるい、運転で疲れたかな。今日はもう休もうと思う」
突然無言で立ち上がった俺に心配して、妻が声をかけてくれる。その柔らかな声に、いつの間にか入っていた肩の力がふっと抜け落ちた。
午前いっぱい仕事して、それから運転してきたのだ。疲れているのは嘘じゃない。
「それでは藤島さん、今日はありがとうござました。また明日もよろしくお願いします」
「こちらこそ!夜遅くまですみません、楽しかったです!愛花ちゃん、また明日ね!」
「そういえば、おにいちゃんっておなまえなんていうの?」
「ああ、言っていなかったっけ?お兄さんの名前はね」
そういうと、愛花に向けられていた視線が一瞬こちらに跳ねた。
「藤島達生っていうんだ」
ふじしま たつき
「たつきおにいちゃん!」
「わあ!やっぱり名前で呼んでもらえると嬉しいな!明日も呼んでね、忘れないでね!」
「うん!たつきおにいちゃん!」
妻の「おやすみなさい」の声を聞き終わる前に、いてもたってもいられずドアを開けて先に出てしまった。部屋に着くと早くベッドに入るよう促された。その言葉に甘えて、アメニティの部屋着に着替え、愛花にもおやすみと伝えると、誰よりも先にベッドにもぐった。
愛花はまだ楽しくて眠れないのか、隣のベッドで、リュックに入れてきた小さいサイズの絵本を、読んで!読んで!と妻に渡した。
絵本の文字を追っていく妻の優しい声を聞きながら、俺の頭の中では、記憶から消すに消せない名前が、リピート機能がかかったかのように、ぐるぐると響いていた。
ふじしま たつき。涼二の同級生。
そして藤島達生のいう涼二は、佐藤涼二。俺の弟だ。
涼二は高校2年のとき、事故で死んだ。本当に突然の出来事だった。
ただ、あいつには親しい友人がいない。だから、死んだという事実が学校に伝えられても、誰の記憶にも残らず、ひっそりと消えていくのだと思っていたのに。
疲れているのに、「藤島達生」が眠りを妨げてくる。
いつの間にか、妻と娘の声が止んでいた。代わりに、穏やかな寝息と、波の寄せる音が聞こえてくる。この音に意識を集中しよう。そうすれば、眠れないとしても、この煩わしさから逃れられるはず。
俺はいつになく瞼に力を入れ、これ以上は何も俺の中に入ってこないようにと、布団をかぶり、自分を抱きしめるように体を丸めた。

カーテンから淡い明かりが滲んで見えた時に、絶望と疲労でようやく気絶するように眠れたものの、瞬く間に愛花に叩き起こされた。徹夜明けのような土色の顔をしていると驚いた妻は、応接室に用意されていた朝食を部屋まで運んでくれた。
「食べ終わった食器は廊下に置いておいてくれれば良いって。何時になってもいいから、ゆっくりしてくださいって」
藤島からの伝言を残して、妻は愛花と応接室に再び戻った。今日は朝食後浜辺でひと遊びした後、藤島から教えてもらったカフェに行って昼食をとる予定だそうだ。カフェに行く前に、一度戻ってくると言っていたから、それまでは一人、部屋にいることになる。
正直、有難い。今は彼の顔や声に平静でいられる気がしない。何なら今から一人で先に帰りたいくらいだが、こればかりはどうしようもない。ひとまずお腹に何か入れて、もう一眠りして。そうすれば少しは落ち着いて、いつも通りの俺に戻れるだろう。
朝食はサンドイッチだった。ハムレタスサンドに挟まっているトマトが瑞々しくて美味しい。添えてあるポテトサラダには粒マスタードが入っていて、程よい酸味が朝にちょうどよくて正直大好物だ。子ども用のメニューは何だったのだろう。後で愛花に聞いてみよう。
部屋のドア越しに、廊下で3人が会話している声が聞こえた。
愛花の楽しそうにはしゃぐ声が大きくて、大人の声がうまく聞き取れないが、今日の夕食の話をしているようだ。「またお肉焼く―!」という声が聞こえたから、またバーベキューに決まったのだろうか。昨日は結構良い肉を用意してくれていたように思う。脂身が甘くて、ただ俺には少々胃に堪えた。今日はちゃんと食べられるだろうか。
「ご主人、今日は魚介とかの方が食べやすいですかね?」
藤島の声が聞こえた。体調の悪い俺を気遣ってくれているのか。料理も上手いし、これで昨夜のことが無ければ、完全にリピート客になれたのに。

朝食を食べ終えた後、少し眠った。といっても、30分程度しか寝つけなかったけど。
食器を廊下に出し忘れていたことに気がついて、食器を乗せたトレーを持って、部屋の扉を開けた。
「うわっ」
藤島がいた。廊下の壁に寄り掛かって、足と手を組んで、出てきた俺をじっと見ている。思わず視線を床に落とした。
「体調はどうですか?」
「あ、その、問題ないです。ご迷惑をおかけしました」
持っていたトレーを床に置いて、そのまま部屋に戻ろうと思ったが、どんな顔をしているのか気になって、うっかり視線を上げてしまった。どうやら俺が一人でいる時は、彼の顔から笑顔が消えるようだ。言葉を選ばないと何をしてくるか分からない。そんな緊迫感が突き刺さってくるような、大真面目な顔だった。
俺はかがんでいた体を伸ばせず、彼を見上げたまま膝をついた。これから何が起こるか分からない恐怖に、思うように足が動かせなかったのだ。
しかし頭から降ってきた声は、予想に反し小さく、そして震えていた。
「ごめん」
「え、」
「予約の名前見た時から、落ち着こうってさ、頑張ってたのに…。やっぱり実際に見ちゃうとダメだな。焦っちまった」
「あせって…、え?」
「だって、本当に涼二が来てくれるなんて。もうさ、貯めた徳を使い果たしちまったと思って」
「予約の名前って、…だから!佐藤康介だって!」
「うん。佐藤康介」
「だったら!」
「でも、涼二だろ?」
「…、いやだから!」
「今、目の前に涼二がいる。それが全てだ」
しゃがんだまま動けなくなっている俺の傍まで来て、トレー越しに彼もしゃがんだ。より近づいた彼の視線に、瞬きしてもずっと俺を捉え続ける瞳の力強さに、離れて欲しいのに、離れてと声も出せない。逃げるように再び視線を落とした。
「ね、涼二。俺は涼二のおかげで、今こうしていられる。俺が俺のまま、したいことをして生きてる。幸せなんだ。」
俺のまま、したいことを?
「涼二、お前は?」
「……」
なんでそんなこと聞いてくるんだ。いや、俺もなんで言葉が出ないんだ。俺は幸せじゃないか。両親に愛され、周囲と良好な関係を築き、妻と子どもがいて、子どもはすごく可愛くて。文句のつけようのない、誰が見ても幸せな人生。
なんで、そう、こいつに言えないんだ。幸せな人生を歩んでいる俺を涼二なんて呼んで、幸せかどうか聞いてくるこいつに!
意を決して顔を上げた。視線に捕まった。その瞳は、ただ目の前の俺を映していた。
俺は言葉を失った。一刻も早く自分の姿をどこかに隠したくて、立ち上がろうとして、尻もちをついてしまった。情けない。恥ずかしい。早く、このドアを閉めて閉じこもりたい。
「やめて…、やめてくれ」
頭が混乱して、やっぱり足に力が入らない。すると、藤島はトレーを適当な場所にどかして、俺の横に片膝をついて座り、肩を貸してくれた。黙ったまま俺が動くのを待っている。俺は仕方なく、彼の肩を借りることにした。何キロも走ったかのようにふらふらと足をもつれさせて、ほぼほぼ、抱えてくれた彼の力だけで部屋に戻った。そのままベッドに腰を下ろす。
「…ごめん」
礼を言おうと口を開けたら、謝罪の言葉が降ってきた。
「ここにいるのが、ほんと、嬉しくて…それだけなんだ。本当にごめん」
「え、いやあの」
「もうすぐ、家族が帰ってきますよ!俺がお出迎えするので、お父さんはそのまま休んでいてください!」
そう言って、玄関を開けた時のあの笑顔を見せて、部屋を出た。
一瞬、ほんの一瞬だけ、ドアが閉じてしまうのを躊躇う自分がいた。

妻と娘が帰ってくると、ペンションの中はあっという間に賑やかになった。といっても、賑やかにしているのは娘一人で、いつになく興奮した様子で出迎えてくれたオーナーに話しかけ続けている。
妻はその間に荷物を置きに、部屋に入ってきた。朝食を食べたことを伝えたら、ホッとした表情を見せた。妻に楽になってもらうために提案した旅行だったのに、結局俺は役立たずで、情けない。それに、ずっとここに引きこもっていても、彼とのやり取りをずっと考えて余計に気が滅入りそうだ。俺も一緒に出ると告げて、外着に着替えた。黒のワイドTシャツと白のテーパードパンツ。妻お気に入りのコーデだ。
「楽しかった?」
「ええ。とっても。愛花すごいはしゃいじゃって!すっかり海が好きになったみたい。さすが、あなたの子ね」
―――康介さんは海なんか好きじゃない
昨夜のあいつの言葉が頭によぎる。
「教えていただいたカフェね、食事はもちろん、眺めもすごくいいみたい。9月だからそんなに混んでないだろうって」
「それは有難いね。是非行こう」
「ふふ。愛花喜ぶわ。やっぱりパパがいないと。実はね、浜辺で遊んでいる時、何度もペンションの方を振り返っていたの。パパ、元気かな?って」
「…そっか」
娘に寂しい思いをさせてしまった。同時に、心の底から温かいものが滲み出て、体中に染み渡っていくように感じた。
これが佐藤康介の幸せだ。今ならきっと、藤島にそう言える。
愛花と一緒に、藤島に「いってきます」と挨拶をした。藤島も変わらず笑顔で手を振った。

家族と部屋の外に出てみれば、なんと充実した時間を過ごせたことだろう。
今日もお膳立てされたかのような晴れ空で、海に太陽の光が当たってキラキラしている。カフェのテラスからそんな景色を眺め、海風に当たりながら食べたベーグルは、外はかりかり中はもちもちで最高だった。付け合わせのニンジンラペは蜂蜜の甘味が強く、ニンジンが苦手な愛花もぱくぱく食べて、妻の分にまで手が伸びるほどだった。妻と俺は生ハムとチーズの盛り合わせも頼み、シャンパンで乾杯した。俺たちは二人ともお酒が好きだが、子どもがいると、夜にゆっくり飲むのは難しい。「昼間から贅沢ね」と、海を眺めながら嬉しそうにグラスを傾ける妻の横顔は美しかった。
ペンションに戻っての夜は、愛花の希望通り、バーベキューが用意された。今夜は魚介が多めに置かれている。俺は知らないふりをして、「助かります」と伝えると、藤島は「遠慮なく」と笑顔で返してきた。
愛花は得意げにトングを握りしめ、野菜そっちのけで肉を焼こうと飛び跳ねているし、お風呂上がりのアイスの味をもう考え始めている。そんな愛花を、妻は愛おしそうに見つめていた。
ウーロン茶の入ったグラスを片手に、俺はテラスの柵に肘をついて寄り掛かった。
昨夜と今朝の出来事はなんだったのだろう。疲れていた俺が見た幻覚なのではないか。そう思うほどに、穏やかで温かな世界がここには広がっていた。涼二も、生きていればこんな世界を誰かと見ることができたのかもしれない。報われなかった涼二の分、もうしばらくこの海を眺めていよう。持っていたグラスを、仏壇のリンを鳴らすように、柵に軽く当てた。カツンと響いた音は、海風に乗って飛んでいった。
妻と娘が、野菜を食べる食べないの応酬をしている合間に、藤島がこちらにやってきた。今は家族がいる。変なことは言ってこないだろうし、俺もおかしな態度をしていたら妻に気づかれてしまう。努めて普段通りの顔で、彼の方を振り向いた。
横に立って、藤島も柵に肘をついた。右手に持つグラスには、愛花が注いだオレンジジュースが入っていた。
「俺、本当は海なんて興味なかった」
海を眺めながら、俺にしか聞こえない程度の小声で、そう話しかけてきた。
「え、」
「でもここに住んでみたら、俺も海にハマっちゃって。確かに、波の動きって、ずっと見ていられる。海風も…」
波の音がした。風に煽られて、浜に打ち上げられる。
「涼二に、伝えてください。俺はずっと、ここにいるって」

日曜の朝。朝食をいただき、荷物の確認をしたら、ついにこのペンションとお別れをする。
荷物を出して、一旦応接室に運びこんだ。妻と娘が応接室にいる間、俺はもう一度部屋に戻って、忘れ物がないか確認した。
応接室に戻ると、愛花はぴょんちゃんをぎゅっと抱きしめながら、「がえりだぐないぃ」と号泣している。その姿に、妻は困ったような面白いような、眉をハの字にして愛花の前にしゃがんでいた。
「愛花、明日からまた幼稚園よ。きっと大好きな壮太君も待っているよ」
「え、そうたくん?」
思わず反応してしまった。その男の名は初めて聞いた。
「ソウタクンって誰?」
「いやだパパ!愛花は幼稚園生よ?壮太君は愛花が気になっている同じクラスの子なの。とても明るくて、やんちゃなんだけど、愛花にだけは優しいんですって」
愛花が言っているだけで、本当かは分からないけどね、と小声で付け足された。
「…先生に言って、クラス替えてもらおう」
「ええ~!もう~!」
妻は俺の態度が面白いのか、両手で口元を抑えながらケタケタ笑っている。妻と俺のやりとりを途中から聞いていたのか、愛花はすっかり泣きやんでこちらをじっと見ていた。
「そうたくんに、あう」
「やっぱりもう一泊…」
「あなた」
途中から俺たちのやり取りを聞いていたらしい藤島が、応接室の入り口で吹き出していた。
お父さん、心配性だな~なんて言われる始末だ。いやいや、男はみんな狼。一度狙いを定めれば、諦めず必死に食らいつく。何が起きるか分からないものだろ。それがたとえ4歳であっても、30代であっても。

駐車場に停めている車まで荷物を運んでくれた藤島にお礼とお別れを告げて、俺たちはペンションを後にした。
ソウタクンに会いたくなっている愛花は、すっかり晴れやかな顔で藤島に「ばいばい!」と元気よく挨拶をした。藤島も初日に見せてくれた飛びきりの笑顔で、「また来てね!」と手を振ってくれた。
それでおしまい。思ったより、藤島との別れはあっけなく終わった。帰りの運転中、見慣れた景色の高速を飛ばしながら、彼とのやり取りを思い返す。
「最高に楽しかったわ。でも、忙しいだろうから、今度は無理に旅行なんてしなくていいからね」
「え、ああ…いや、悪かったな。でも、俺も楽しかった!次はそうだな、少し落ち着いたら、また計画を立てよう」
「まなか、またあのペンションいく!」
「ははは!愛花はあそこが気に入ったんだな」
じきに秋が来て、冬が訪れる。海辺は寒いから、また暖かくなったらな。愛花とそう約束をした。

家に到着した時には午後4時を回っていた。今日はみんな疲れているから、近所の蕎麦屋で出前を頼むことにした。それが到着するまで、各々旅行の荷物を片づける。
書斎で片づけと、明日の仕事の準備をしていると、突然愛花の大きな泣き声が聞こえてきた。あまりに大きかったので心配になって、2階のリビングに向かった。
「どうした?」
「みーちゃんが無いのお!」
みーちゃん。行きに愛花がリュックに入れていた、猫のぬいぐるみだ。
「あなた最後に部屋を見てくれていたけれど、部屋にはなかったのよね?」
「いや……、見てない、な。ただオーナーに見せていた記憶はあるから、ペンションにあるのは間違いないと思う」
「やだやだ!みーちゃああん!」
「だからぬいぐるみはひとつでよかったのよ…もう。藤島さんに連絡して、取りに行くしかないけれど…」
「あー……、俺、行ってくるよ」
「え?あなたが?」
「実はさっき出張の予定が入ってさ、そこから近いから、車でついでに寄ってくるよ」
そう?と妻が言うと、みーちゃんが戻ってくると分かった愛花は、涙でぐじゃぐじゃになった顔を綻ばせ、パパありがとう!と思いっきり抱きついてきた。
早速、妻がペンションに電話をした。あった。俺たちが出たあと掃除をしていたら、応接室のソファの下に落ちているのを見つけたらしい。プライバシーの観点から、客の忘れ物があっても宿側からは客に連絡しない。こちらが気づいて連絡が来るのを待ってくれていたようだ。妻が俺の訪ねる日時を伝えると、通話を終えた。
「お待ちしています、だって。ごめんなさい、よろしくお願いします」
「パパ、ごめんなさい…」
ママの言葉にハッと気がついて、自分から謝ってきた。そんな娘の頭を優しく撫でていたところで、ちょうど出前が届いた。
夕飯の後、愛花をお風呂に入れてから、俺は早めに休ませてもらった。正直、夕飯に食べた鴨南蛮の味が全く分からなかった。お風呂に入っている時も、愛花に話しかけられている時も、ずっと心臓がうるさかった。
3週間後の金曜日。“出張”の日に、俺はひとりで、藤島のもとに行く。


『え、泊まり?』
思わぬ言葉に、妻の声は少し不安な気持ちをにじませていた。
「悪い。出張先で少し業務が発生してさ。時間がかかりそうだから、こっちにいることにした。愛花に、申し訳ないと伝えてくれる?」
『それなら仕方ないけど、……うん、体に気をつけてね』
「ありがとう。戸締り気をつけてな」
電話を切った。大きく深呼吸をする。スマホを握る手に、無意識に力が入った。
会社の駐車場に停めている車に乗り込み、もう一度スマホで電話をかける。仕事が押してしまったため、予定より1時間ほど遅く到着すると伝えると、相手は『大丈夫』と答えた。
キーを回そうとして、ふと気になり、ペンションの予約ページを開いた。カレンダーを見ると、今日から日曜日まで、✕がついていた。
俺はもう一度大きく息を吸って、思いっきり吐き出すと、改めて車のキーを回した。
そこからは、ただひたすらに無音のまま夜の高速を飛ばし海に近づいた。吸い込まれそうなほどの暗闇が広がっている。少し窓を開けてみると、冷たい風が勢いよく吹き込んできた。家族で泊まったあの日から3週間。もう10月になった。特に夜は肌寒い。でもこの冷たさが、今はとても心地が良い。
ペンションに到着した。客用の駐車場に停め、リュックを背負って降りた。出張が日帰りの予定でも場合によって泊まりが発生することも少なくない。そのため出張の日は毎回最低限の荷物をリュックに入れて出社するようにしていた。普段通り。
テラスから漏れるオレンジの灯りが、暗闇の中ペンションの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。ヤシの木は暗くてよく見えないが、風に揺れて葉っぱ同士のこすれる音が聞こえる。そして、波の音。
玄関の前に立ち、あの日と同じように、鐘を鳴らそうと紐に手をかけたとき、ガチャという音がして、ゆっくりとドアが開いた。
心の準備ができないまま、あの顔が目の前に再び現れた。
「……いらっしゃい」
あの日とは打って変わって、静かな、しかし明らかに喜びが滲み出ている声だった。
「仕事、お疲れ。入って」
「……ああ」
俺はわずかに視線を逸らし、促されるまま中に入った。
俺たち二人以外誰もいない、静かな空間。お客を招くわけではないためか、以前より廊下の照明が落とされているように思う。
「暗いな」
「人がいないときはね。節電だよ。少し暗い方が好きだし」
応接室に通された。電気をつけると、3人がけのソファの真ん中に、みーちゃんがお行儀よく座らされていた。
「これだろ?」
「ああ。助かったよ。ありがとう」
軽く礼を言って、みーちゃんを取ろうとソファに向かった。その後ろから、小さいながらもはっきりとした声を投げられた。
「わざとだろ」
俺は立ち止まった。
「このぬいぐるみ、泊まった部屋の、サイドテーブルの下に落ちていたよ。確かここを出る前に、一人で部屋の中確認していたよな?それで気づかないわけがない」
振り向かないまま、会話を進める。
「応接室のソファの下、じゃなかったのか?」
「奥さんからの電話だったから。…気づいたんだよ」
振り向かず立ち止まったままの俺に向かって、ゆっくり近づいてくる音が聞こえる。スリッパで床を踏みしめる音。
「もう一度来るために、わざと忘れたんだって」
そう言って、藤島は俺の真後ろで足を止めた。
「そうだろ?…涼二」
俺は振り向かない。心臓の音がバレないように、俺の今の顔を見せないように。背中のリュックが、俺とこいつを隔てる唯一の壁になってくれていた。
藤島の言う通り、わざとこのぬいぐるみを置いてきた。テーブルの下を見た時、俺はその時初めて、この世に神様は本当にいるんじゃないかと思った。人生でたった一度、逃したら二度とないチャンスを与えてくれたのかもしれないと。だから、俺はどうしても娘のぬいぐるみを拾えなかった。
「なんで」
あの時、本当は聞きたかったことを。魚の小骨のように、喉の奥で引っかかったまま、どうすることも出来なかった言葉を…。
神様。チャンスを与えてくださったのなら、今だけはどうか、僕を見ないで。後ろを向いて、耳をふさいでいてください。
「なんで、涼二だって分かったの?」
「俺を舐めるなよ」
間を置かず返ってきた答えに驚いて、僕は思わず振り向いてしまった。
達生は、ただただ静かに笑ってみせた。
そのあまりの優しさに、ずっと堪えていた涙が溢れた。
「お…、ぼく、りょ…じでも、いいの?」
「涼二がいいんだ」
向かい合う腰に両手を回し、ゆっくりと僕を包み込むように抱きしめる。
「おかえり。涼二」
止まらない涙で藤島の肩を濡らしながら、絶叫に似た声を上げていた。
佐藤康介として生きていくことが、僕の人生だと思っていたのに。
涼二のままに抱きしめられる温もりが、僕の覚悟を揺るがそうとしていた。


僕は、佐藤涼二。佐藤康介の弟だ。
僕の兄康介は、小さい頃から運動も勉強も難なくこなし、快闊な性格で友人に困ったことはなく、ほどほどにモテた。両親は、理想の子ども像を体現したような兄を溺愛した。そんな環境にいるものだから、兄は、両親から愛されること、周りから好かれることが、まるで普通のことのように思っていた。当たり前すぎて、そうではない人間が不思議な生き物に感じているようだった。
僕はそんな、兄の言うところの不思議な生き物だった。引っ込み思案で、人と上手く会話ができず、一緒に遊ぶ友人なんていなかった。運動も勉強も苦手。だから、両親からは疎ましく思われていた。気持ちは分かる。後から生まれてきた子が、第一子よりもはるかに劣るなんて、まるで産み損だ。周囲から見放されていた僕は、家でも学校でも、一人でひたすら静かに本を読む。そんな日々を送っていた。
どこにいても、僕以外の誰かが、僕以外の誰かと笑顔を向け合っている。世界が回っているのを、外から一人で眺めているようで、惨めだった。いや、もはや惨めも通り越した。僕は空っぽな、単なるハコなのかもしれない。
時々、気まぐれのように兄が僕の部屋に入ってきて、一言二言話しかけてきた。でもそれは、壁に話しかけるのと同じくらい中身のない、独り言のようだった。映画のチケット代金が高いとか、部活がしんどいとか、友達に彼女ができたとか。
もしかしたら、孤独に過ごしている僕へのささやかな気遣いなのかもしれないが、話の内容が何もかも、僕に縁のないことばかりだった。僕は毎回返答に困って、適当に相槌をうち、兄はそれでも満足そうに部屋を出ていく。真意はどうであれ、正直目障りだった。
どうして僕は、兄のように生まれなかったのか。兄のように生きられないのだろうか。
兄が高3になり、受験生として忙しくなると、両親は兄のサポートに全力を出した。それ以外はまるで見えていない。自分が産んだ、もう一人の子どもでさえ。
高2の僕は相変わらず成績が上がらず、進路をどうしようか迷っていた。そもそも大学に行きたいと言って、親はお金を出してくれるのだろうか。今からバイトをするか。でも、ただでさえ勉強がヤバいのに、バイトなんか始めたらもう追いつける自信がない。
じゃあ、就活?部活も何も経験実績のない僕が、一体どんな自己PRをできるというのか。
ある日、なけなしの小遣いで、訳も分からないまま就活の教本を買って帰宅した。廊下を忍び足で歩く。別に兄の集中を妨げないためじゃない。小さい頃から、なんとなく癖づいてしまったものだ。洗面所の前までくると、腰にタオルを巻いている兄がいた。ちょうど風呂上がりのようだった。部活のバスケで鍛えられたしなやかな筋肉を備えた上半身が、男の色気を醸し出していた。
目が合って、咄嗟に逸らした。
「おーおかえりー」
「…ただいま」
「お前就活すんの?」
「へ?!」
何も言っていないのに気づかれて、素っ頓狂な声が出てしまった。
「な、なんで?」
「その表紙有名じゃん。で?すんの?」
コンビニで貰った薄手のビニールからうっすら表紙が見えていた。恥ずかしくて堪らなくて、本をビニールごと胸元に両手でギュッと抱きしめた。今日は珍しく両親が揃って不在にしている。仕事で帰りが遅くなるらしい。だからなのか、兄はいつも以上に僕に絡んでくる。僕は戸惑いながらも、何か特別なイベントが発生したみたいで、緊張しているというのか、興奮しているというのか、説明し難い感情に心臓が飛び跳ねていた。
「だって、その…、勉強、できないし」
「そうか?お前頭悪くないと思うけど」
「そんなことない。点数全然上がらないし」
「やり方が悪いんじゃね?俺がみてやろうか」
「え?!で、でも、受験…」
「今めっちゃやる気起きなくてさ、気晴らしに風呂入ってたの。それになんか、人に教えると?自分の知識が定着する…らしいし?ちょうどよくね?」
そう言って、人ウケの良いニカッとした笑顔を俺に向けた。僕が兄に勉強をみてもらうことも、この笑顔が僕に向いていることも、夢を見ているようだ。夢なら、夢でいいからこのチャンスを大事にしたい。なんか本持ってこいと僕に言ってから、黒のジャージに着替えた兄が部屋に戻っていく。僕も慌てて自室に戻り、参考書をあるだけ抱えて兄の部屋に転がり込んだ。
結論からいって、兄の教え方は、今まで出会った教師の中でもダントツで最高だった。一度問題を解かせて、僕の躓いているポイントを的確に見抜き、理解できるまで徹底的に解説した後、フォローできる問題を複数問、迷いなく提示してくる。一人で机に向かっていた時はたった一教科でも、どんなに時間をかけても進まなかったのに、効率よく5教科程回してあっという間に終わった。
「その問題は解説あるから、あとは自分でやってみな」
「あ、ありがとう…こんなに分かったの、初めてかも!」
理解できれば、勉強はこんなに楽しいものなのか。僕は感動と興奮を覚えていた。
「早速部屋に戻ってやってみる。ほんとにありがとう!」
兄の部屋のローテーブルに散乱していた本をかき集める。教えてもらったことを忘れないうちに、早く問題を解きたい。焦っていたせいか上手く抱えきれず、持ち上げた瞬間に腕から2、3冊零れた。そのうちの1冊の角が僕の足の甲に直撃して、たまらず声を上げてしまった。
「いった…!」
「おいおい、大丈夫か?あせんなって」
両手に本を抱えたまま固まった僕を見かねて、代わりに本を拾おうと兄がかがむ。僕の足の甲を見て、その手でさすってきた。
「おわ!赤くなってるぞ。痛かったなー」
笑いながら見上げてきた。その目と、目があった。
心臓が、ギュッと掴まれたように痛んだ。忘れていた感情…、いや、忘れようとして意識から払いのけた感情が、再び頭の中で波打った。
そうだった。僕は、兄に憧れていた。両親に愛されて、勉強も運動も卒なくこなして、友達もいて、いつも笑顔で。そんな兄が、僕のことを弟として気にかけてくれている。
僕はそんな兄に喜びを感じると同時に、悲しくてどうにかなりそうだった。
どうして僕は、兄のように生まれなかったのか。
どうして僕は、女性が好きになれなくて、兄のことが好きになってしまったのだろうか。
兄を目障りと思うようになったのは、この感情にこれ以上翻弄されたくなかったからだ。ただでさえ何の取り柄もないことを理由に両親から疎まれているのに、加えてゲイで、実の兄が好きだなんて。親からは確実に絶縁されて、そうなれば兄との繋がりがなくなってしまう。僕の存在は決定的に無になる。それが怖くてたまらなかったのだ。
僕は大丈夫と小さく応えて、足早に兄の部屋を出た。
早く、一刻も早く、この感情をもう一度取り去らなければいけない。僕はその夜から、兄に教えてもらったやり方を思い出しながら、ひたすら机に向かった。


「佐藤、どうした」
中間テスト返却時、数学の先生からそう聞かれた。
いつも無言なのに。気になって、自分の答案用紙を見た。
左上に赤字で大きく描かれた数字。僕は多分、3度見くらいした。
91点?
今度は自分の名前を凝視した。どの角度からみても僕の名前だった。
僕は興奮を隠しきれず、席に着いてから答案用紙に隠れて小さくガッツポーズを決めた。でも分かっている。確かに努力したのは僕だ。でもこの努力の仕方を教えてくれたのは、兄だ。この点数は、誰でもない、兄のおかげだ。
兄さんに報告したいし、お礼を言いたい。でも、家で話す機会が無いかもしれないから、僕は高3がいる一階上の教室に足を運んだ。図書委員の用事で3階に行くことは時々あっても、兄を訪ねに行くのは初めてだった。答案用紙を握る手に力が入る。確かクラスは2組だった。「3-2」と書かれたボードを確認して、窓から教室をのぞいた。
兄がいた。4、5人が囲む輪の中に、あのニカッとした笑顔を見せながら立っていた。
「康介!お前、また総合成績10位の中にいんのかよ」
「いやでも英語が足引っ張ってんだ。誰か教えてくれよ~」
「オメーにはぜってー教えねー!英語サマ、どうかそのまま康介の足首を離しませんように!」
「…私、英語なら教えられるかも」
「やめとけって。彼女に正面から刺されるぞ~」
ガハハハと、ひと塊が笑いに包まれた。僕はその会話を聞いて、教室を後にした。
兄は、いつも当然のように友達の輪の中にいて、なんてことなく談笑して、みんなから憧れられて、男女関係なく楽しそうで。その中に飛び込む勇気なんて、僕にはなかった。
僕は駆け足で教室に戻り、答案用紙を鞄にねじ込んで学校を飛び出した。そのまま最寄りの駅から電車に乗り、海を見に行った。
辛いことがあると、僕は決まって海を見に行った。当時、電車に乗って数駅進めば海が広がっているような町に住んでいた。自転車は持っていなかったし、歩くには少し遠い。だから移動手段は電車。思い立ったら昼夜関係なく、電車に飛び乗った。
今日のように学校を抜け出して行くこともあった。なにせ僕のような落ちこぼれは、学校にとっても、いてもいなくても問題ない。誰も気にも留めないから、行きたい放題だった。
浜辺に座って、満足するまで海のそばにいた。寄せては返す波の動き、磯のにおい、少し湿気を孕んだ海の風。昼は天気によって表情が変わり、夜は漆黒が僕の存在を包み込んでくれる。海の全部が大好きだった。そして、散々海を堪能して心が落ち着いたら、帰路につく。この繰り返しだった。
兄からは、「海の何が面白いんだ?」と本気で分からないという顔をされたことがある。兄はビーチで遊ぶことは好きでも、海自体には全く興味がないそうだ。
橙色に輝く太陽が、少しずつ水平線に沈んでいく。
浜辺に腰を下ろし、その光をぼおっと眺めながら、学校でのことを思い返していた。
3階から逃げるように階段に向かって走っていた時、僕の姿を見た高3の会話が聞こえた。
「あいつ、佐藤の弟だろ?」
「相変わらず暗そう。なんでこうも正反対なんだろうな。顔だけ見れば結構似てるのに」
兄と僕の顔は、双子みたい、とまでは言わないが、かなり似ている。でも言われた通り、性格は全然似ていない。兄は大げさではなく、太陽のような人間だと思う。僕には眩しすぎる。何も映さない暗闇の中で、静かに生きていたい。
太陽なんて、早く沈んでしまえばいいのに。
愚痴をこぼしながら無為な時間を過ごしているうちに、待ち望んだ闇に包まれていた。
僕は立ち上がり、尻についた砂を適当に払い落として、家に帰ることにした。
電車に乗り込み、ドア前に立った。外が暗いと、ガラスに自分の顔がよりはっきり映し出される。
あまり人がいないことをいいことに、ガラスの前で前髪を上げて、口角を上げてみた。重たい印象の黒髪と二重の大きな目は兄と同じ。ただ僕の目はほんの少しタレ気味で、だから眠そう暗そうと言われてしまう。でも、前髪や口角を上げるだけで、兄に似て、近づきやすい印象に変わる気がする。
もしかして、僕も兄のようになれるのだろうか。学校の成績も、もっと勉強して頑張れば兄のレベルに近づけるかもしれないし。
そうだ、僕は所詮、虚しい空っぽのハコのような存在。それなら、いっそ兄の人格をハコに入れてみてはどうだろうか。まずは勉強。次の期末試験、ほかの教科も成績を上げてみよう。兄に教えてもらった勉強の仕方を生かせば、兄みたいな成績がとれて、先生がまた声をかけてくれて、それに気づいた誰かが声をかけてくれて―――…。
どうせ予定は無い。時間はたくさんあるし、僕が部屋に引きこもっていることで誰も困らない。なんだ。勉強するには最高の環境じゃないか。早く家に帰って勉強がしたい。こんなに家に帰りたいと思ったのはいつぶりだろう。
その日から僕は勉強に明け暮れた。休み時間はずっと机に向かっていたし、放課後は図書室の隅っこにある一人席を確保して、閉門ギリギリまで粘った。時々は海に寄って、家に帰ってごはんを食べたら部屋にこもる。頭の中では常に勉強したことがグルグル回っていて、家族や学校の人のことを気にしている余裕はないし、興味もなくなっていた。
数学や英語の授業中に行われる小テストで、満点近い成績を出せるようになった。名前を呼ばれて答案用紙を返されるときに、先生から賛辞の声をかけられるようになった。かつての空気に向かって紙を放り投げるような返し方から、180度の変わりようだ。それを見ていたクラスメイトからも、すごいな、なんて、感心してもらえるようになった。
今まで存在を認識されていなかったような僕が、今では皆が一目置いてくれている。勉強ができるようになるだけで、こんなにも自分を取り巻く環境は変わるのか。
必死にやっていた勉強がいつからか楽しくなって、机にかじりついていたが、それでも、休み時間に雑談をするとか、学校で人と関わる機会は少しずつ増えた。対応に困ったときは、兄を思い出していた。頻繁に関わりがあるわけではないから、記憶にある限りの色々な兄を引っ張りだしてきて、兄のように振る舞ってみる。すると相手は、一瞬間が空くけれど、「今の兄貴みたいだな」と面白がってくれて、なんとか乗り切ることができた。
やはり兄は偉大だ。兄のおかげで、やっと、世界の一部になれた気がした。
そんな僕には、夢ができた。進学する。お金がないから、卒業したらまずはバイトをする。バイトをしながら勉強も続けて、お金が貯まったら受験をする。どこを受験するかはまだ考えていない。やりたいことが分からなくて、高校にいる間に見つけようと思う。でも、とにかく家から遠いところがいい。僕のことを誰も知らない場所で、一人暮らしして、学校に行って、友達と勉強したり、遊びに行ったり。今まで願ってもできなかったことを、たくさん経験したい。今の僕なら、…いや、僕の中にある兄となら、きっと叶えられる。誰にも言えない密かな夢だけど、こうして将来を明るく想像できるようになったことが、僕自身、嬉しくてたまらなかった。

中間テストから決意して2か月弱。ついに来週は期末試験。緊張はもちろんあるが、楽しみもある。どんな問題が出るのだろう。今度はどんな点数が取れるだろう。試験でワクワクする時が来るなんて、信じられなかった。
母親が用意してくれた朝食のパンを咀嚼しながら、頭の中で覚えた英単語を回していると、廊下をドタドタと走る音が聞こえてきて、集中力が踏み倒された。
「やべえ!遅刻だ!」
兄がリビングのドアを開けて、大声を上げながらバタバタと支度をしている。キッチンカウンターに置かれていたお弁当を鞄の中に押し込み無理やりチャックを閉めると、父が座る席に無造作に置いて、隣の兄のランチョンマットに置かれていた、兄専用のマグカップに入ったコーヒーを流し込む。熱めが好きな兄の為に用意されていたコーヒーは、流し込めるほどぬるくなってしまっていたようだ。
「なんで誰も起こしてくれなかったんだよ!」
「ごめんねえ、康介。昨日も遅くまで勉強していたから、眠いかと思って」
「遅刻したら意味ねーじゃんか!」
尊敬する兄の唯一の悪いところ。人に助けてもらえることを当たり前と思っているところだ。特に親。でもこれは仕方がないのかもしれない。なにせ小さい頃から、兄は両親に溺愛されてきたのだ。もちろん自立できるようにと、両親はしつけも教育もしてきたつもりだろうけど、なにかと兄に関わりたがっていた。靴下を上手く履けないとき、こぼした飲み物を拭くとき、僕だったら一人でできるまで放っておかれていたのに、兄の時は、両親の方が嬉しそうに助けに入っていった。朝もそう。夜更しが大好きな兄は朝に弱い。それなのに、自分でどうにかしようとしないのは、朝の弱い兄の為に、母親が毎日優しく起こしてくれるからだ。
大好きなミニトマトとソーセージを口に放り込み、しっかり丁寧にバターの塗られているパンを咥えると、鞄をひったくり、またバタバタと走っていった。そんな兄の背中に向かって、母親は微笑みながら「気をつけてね」と手を振った。振り返って「いってきます」と返してくれるわけでもないのに。
高3になると毎朝一限目の前に小テストが行われるらしく、兄が僕より早く家を出るのはそのためだった。僕はといえば、母親の邪魔と言わんばかりの視線にも気づかず英単語を脳内で回し、しっかりと完食した。身だしなみも整えたし、そろそろ行こうかとリビングのドア横に置いておいた鞄を見た。
「あれ、ない…」
頭をあげた。父の席に鞄が置かれている。
兄だ。間違えて僕の鞄を持っていってしまった。一応確認のために、生徒手帳を探した。チャックを開けると、先ほど押し込んでいたお弁当が飛び出してきた。お弁当の下には、タオルやら教科書やらがぐちゃぐちゃに詰め込まれている。これじゃあ入らないだろう。奥まで手を突っ込んでやっと見つけた生徒手帳は、やはり兄の顔写真と名前が入っていた。僕は大きなため息を吐いた。どうして自分で自分の隣に置いた鞄を忘れるかな。とはいえ愚痴をこぼしても仕方ない。僕も自分の鞄じゃないと困るから、すぐに行って兄と交換しなければ。キッチンで後片付けをしている母親に「いってきます」と声をかけた。返事はない。分かっているから、返事は待たずにリビングを出た。
でも、まさかこの後、初めて母からの電話に出ることになるとは、思いもしない。
通学中の電車の中だった。家から10分程度歩いたところにある最寄り駅から7つ先の駅で降りる。30分程度の貴重な時間、この時間だけは勉強ではなく、大好きな本を読むようにしていた。いつもはラッシュで、ギリギリ一人分のスペースを作り、片手でページをめくっているが、今日はいつもより少し早い電車に乗れたのもあり、幸運なことに席に座れた。嬉しくて鞄を開けたが、そういえば今日の鞄は兄のもの。読みかけの小説は兄が持っていった僕の鞄に入っている。ものすごくテンションが落ちて、チャックを閉めようとしたところで、鞄の中のスマホが鳴った。これは家を出る直前鞄に入れた、僕のスマホだ。ディスプレイには、母と表示されていた。親から電話がかかってくることなんてないから、緊張で指が震えて、通話ボタンを2回ほど押し損ねた。
口元に手を添えて、周りに迷惑にならないように小さく「もしもし」と出た。
耳からは間違いなく母の声が聞こえるのだが、言葉になっていない。ハアハアと荒い息をして、何か喋ろうとしているみたいだが、震える声で、あ。あ。としか聞こえない。
僕に連絡してくるくらいだ。何かとんでもないことが起きたのかもしれない。僕は席を立ち、車内を背にドア横に立って、小声でもう一度母に呼びかけた。
「もしもし?大丈夫?どうしたの?」
呼びかけに応えない。母の奥の方から男性の声が聞こえて、ガサガサと雑音がした。
「私だ。今から医療センターに来なさい。学校にはこちらから連絡しておく。詳しい話はあとで」
突然父親の声がしたかと思うと、要件だけ手短に伝えられて通話が切れた。
父までいるのか。この地元で医療センターといえば、一番に救急を受け入れてくれる有名な病院だ。そういえば、身支度をしている時、大きめのサイレンが聞こえていた気がする。
朝聞こえたのは、もしかして…。
鼓動がどんどん早くなる。自分の体が揺れるほどに激しく脈打っている。震えの止まらない手でスマホをぎゅっと握りしめ、次の停車駅で降りた。改札を出て、たまたま目の前に停まっていたタクシーを捕まえて行先を告げた。努めて震えを抑えていたが、いつも通りの声が出せていただろうか。運転手は淡々と了承してメーターを回し始めた。自分と運転手の様子の落差に、孤独を感じ、手の震えが一層強くなる。
どうか、どうか最悪の事態だけは―――…。

「残念ですが…」
告げられた事実は、まさに最悪の事態だった。
でも、無理もない。速度超過の自動車に横から追突され、そのまま自動車と一緒に電柱に激突したらしい。遺体はボロボロ、飛び散った部品やガラスの破片で顔も傷だらけになり、誰だか判別が難しいほどだった。脱力して廊下の椅子に座った。言葉を失い、自分まで息が止まる思いだ。父はその隣に無表情で座り、母の背中をさすっている。普段から感情の読めない顔をしている父だが、今日はそれでも、混乱と悲しみが滲み出ているようにみえた。僕は常に蚊帳の外だけれど、それでも家には笑顔で語り合う家族の姿があった。寂しくも、その温かな雰囲気は嫌いではなかった。それが一瞬で壊されてしまった。運転手も死んでしまい、拳を振り上げることすらできない。それが余計にこの事故の理不尽さを際立たせていた。
項垂れている僕の前に、警察が歩いてきた。目が合うと、僕に軽くお辞儀をした。神妙な表情を浮かべていたが、同情しているというよりも、職業柄使い慣れた表情筋を動かしているという印象だった。
「今回のことは、誠に残念でした。突然に弟さんを亡くされて、ショックでしょう」
……、え?
「お、え、…おとうと?」
「え?あなたの弟さんですよね?佐藤涼二さん。…あ、まあ記憶が混乱するのはよくあることです。とにかく今日は無理せずに」
もう一度、今度は深く僕にお辞儀をすると、では、と足早に去っていった。僕は警察の後ろ姿を見送って、それからゆっくりと、見てはいけないものの存在を確認するかのように、横に座る両親を見た。警察と僕との会話を聞いていた父親は、僕と目が合うと、耐えられないとでもいうように目を瞑って俯いた。
僕は、聞いてはいけないことを聞いてしまう怖さに震えながらも、話しかけた。
「どういうこと?」
「……ほんとうに、すまないと思っている」
「いや、謝るんじゃなくて。どういうことなの?」
さすがにイライラして語気強めに聞き返すと、父の肩がビクッと震えた。しばらくの沈黙の後、意を決したのか漸く口を開いた。
「今日、鞄を、間違えて持っていったようだな」
「うん。兄さんが僕のを持っていっ……え、え?うそでしょ?」
「身元を聞かれたんだ。所持していた鞄から見つかった生徒手帳を見せてきて、本人に間違いないか?と」
「それで?」
「母さんが、はい、と」
「ああああああああああああああああ!」
母が突然叫びだした。頭を抱えながら、普段聞いている声の何倍もの大きな声に、父親の肩がまた震えた。
「ごめんなさい!ごめんなさい!涼二を死なせてしまったのは私のせい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」
何度も何度も、頭を抱えながら床に向かって謝罪の言葉を叫び続けている。僕はそんな母の姿が、今まで見た中で一番醜く見えた。おぞましい怪物が暴れまわっているようだった。
その時に、僕の心は死んだ。…いや、本当に死んだのだ。兄と同じく、他者の手によって、突然に。
佐藤涼二は、この世を去った。そして残った僕は、佐藤康介となった。
その日は一日何もできなかった。何も考えられなかった。どうやって両親と家に帰ったかも覚えていない。ただ、家に着いて僕はすぐ、取り憑かれたかのように兄の部屋に入った。勉強道具やら部活の道具やら、服や何やらがぐっちゃりと置かれている部屋。ローテーブル周りの床だけ、少し綺麗になっている。いや、物がないようにどけられていると言う方が正しいか。一度だけ勉強を見てもらったあの時を思い出した。あの時はローテーブルも周りもぐちゃぐちゃで、僕が部屋に入る前に、足で物を蹴り上げながら急いでスペースを作ってくれていた。どうして今は物が置かれていないのか。もしかして、また僕が来ても大丈夫なように、用意してくれていたのだろうか。
そんなこと、一言も僕に言ってくれなかった。教えて欲しいこと、たくさんあったのに。迷惑かなって、我慢していたのに。僕から声をかけてくることを待っていたのかな。
不器用な優しさを感じた。豪快な笑い声が頭の中で響く。
『お前頭悪くないんだから、頑張れよ』
勉強中、そう言って叩かれた背中の痛みを思い出す。力が強いから、しばらく痺れたっけ。
無神経ともとれる言葉もあった。無様に親に甘える姿もあった。でも、それもひっくるめて兄だった。兄の魅力だった。僕は、そんな兄が大好きだった。大好きだったのに…。
ベッドに乱雑に置かれていたジャージを手に取った。今朝はまだこれを着ていたんだ。堪らず顔を埋めると、兄の匂いがした。もうダメだった。涙が止まらない。我慢していたわけではなかったが、ショックが大きすぎて感情が入り乱れていたせいか、今ようやく、悲しいという気持ちにたどり着けたみたいだ。今はこの悲しさに身を任せて、思いっきり泣くことにした。

ジャージから顔を上げると、窓から差し込む光がオレンジ色に染まっていた。もう夕暮れなのか。ひとしきり泣いて、そのまま意識が飛んだようだった。
起きた出来事に変わりはない。大好きな兄は死んだ。もう、この部屋の主人が戻ってくることはない。それでも、枯れ果てるまで泣いたおかげか、少し冷静に事実を受け入れ始めている自分がいた。
もう一度辺りを見回す。さっきは乱雑としか思えなかったものが、夕暮れの明かりに照らされることで、温かみを感じとることができた。
机に積み上げられた参考書の山は、兄の努力の跡。
バスケットボールやユニフォーム、私服の散らかりは、兄の青春の軌跡。
そして、ベッドサイドに置かれている家族写真は、兄が家族を愛していた証。
小さい頃の数少ない、僕も家族の一員として写っている写真。確か昼間、どこか外食に行った帰り道、公園の噴水を見て、兄が撮ろうとせがんだんだったかな。兄は母に、僕は父に肩を抱かれて、皆が笑顔で寄り添うように写っている。誰が撮ってくれたのだろう。覚えていないけれど、きっと通りすがりの誰かに、母が声をかけたに違いない。
もっとたくさん思い出深い写真を持っているはずなのに、飾られているのはこの写真だけだった。兄はもしかしたら、この写真のような、僕も含めた家族団欒を望んでいたのだろうか。だから兄だけは、僕に話しかけてくれていたのか。家族としての望みから…。
兄はやはり、太陽のように温かな人なのだ。こんな人をみすみす失うわけにはいかない。
僕は佐藤康介になった。それなら、僕の大好きな佐藤康介の人生を、この世で続けよう。
小さい頃から運動も勉強も難なくこなし、快闊な性格で友人に困ったことはなく、ほどほどにモテた、あの佐藤康介を。大丈夫。僕というハコの中には、兄がいる。これまで学校でやってきたように、箱の中にいる兄と生きていけば大丈夫。
こうして僕は、兄が死んだその日から、佐藤康介を受け入れた。
とはいえ、そのまま学校に行くのは無理があった。父親と学校側で話し合った結果、佐藤涼二は死亡、佐藤康介はそのショックで体調を崩し、しばらく休みをとるという形でおさめた。幸いにも、三学期は受験のためほとんど学校がないことに加え、兄が今までほとんど休まず登校していたことから、出席日数は足りていたため、欠席のまま同級生と会うことなく卒業に至った。学校では、みんなどんな反応をしていたのだろう。でも、日も経てば落ち着いて、それぞれ自分の日々を淡々と過ごしていただろう。
僕といえば、両親がお金を出してくれたことで、卒業後は浪人として家と塾の往復に明け暮れ、無事兄の第一志望だった大学に合格した。
何故お金を出してくれたかと言えば、母が狂ったからだ。自分の願望と、やってしまったこととの狭間で完全に心が壊れたのか、兄が死んだ次の日から、僕のことを完全に康介と思って接してきたのだ。徹夜で兄の部屋を片付けていた僕のもとに、朝だから起きるよう声をかけてきて、食卓には熱々のコーヒーと、しっかり丁寧にバターの塗られたパンとおかずが用意されていた。隣に座って既に食べ始めていた父は、普段通り抑揚のない声で「おはよう」と僕に挨拶して、黙々と食事を続けた。
向かいに座った母が、「体調が悪いのに起こしちゃって大丈夫だった?」と、見たことのないとびきりの歪んだ顔で僕を労わってきた。後で父から聞いた話、どうやら、学校側と話をつけた父親が、そのシナリオをそのまま母に事実として言い聞かせたらしい。一種の洗脳だろう。それでも、既に狂っていた母には都合のいいシナリオだった。大好きな息子の康介が、ちゃんと生きているのだから。
それからずっと佐藤家は、温かな家族としての日々が続いた。僕としては、正直、こんなに幸せな人生はなかった。両親に構ってもらえるし、何の不安も不自由もなく勉強を続けられるし、大学に入ってからは友達ができて、サークル活動にも精を出した。希望の企業から内定をもらい、社会人になってから参加した合コンで、妻に出会った。子どもにも恵まれた。
根暗でゲイの佐藤涼二だったら絶対に経験できなかった、日の当たる人生を歩んでいる。
これ以上の幸せが、あるわけないと思い込んでいた。


僕は藤島達生の肩で、ぽつぽつと自分のことを打ち明けた。
時々相槌を打ちながら静かに聞いてくれている姿に、胸が張り裂けそうになった。
散々泣いたせいで、藤島の左肩がべちょべちょになってしまった。今更に気がついて、慌てて離れようとしたが、腰を抱かれていて身動きが取れない。
「あの、さ、もう大丈夫だから…、その、」
「達生って呼んでよ」
「え、あ、ごめん…、たつき」
恥ずかしすぎて、びっくりするくらい声が小さかったが、達生はちゃんと聞き取ってくれたようで、満足したのか、ようやく腕を離してくれた。
「にしてもさ」
「え?」
「驚かないのな。ほかに客がいないこと」
「…。前と同じ手だろ」
「え?」
今度は達生が驚いてみせる番だった。切れ長のクールな印象の目が見開かれ、でも動揺するわけではなく、ははっと笑った。
「そっかあ。バレてたか。これが、オーナーの特権ってな」
達生は、佐藤康介の名前を見てすぐに、予約された日の残りの枠を潰したのだ。あの時おかしいと思っていた。当日確認すると、僕らの訪れた日は予約で埋まっていたのに、実際来てみると僕ら以外誰もいなかったから。
「権利濫用っていうんだ」
「良いんだよ。使えるものは使うさ。だってここは、涼二のための場所なんだから」
そう言ってみせた笑顔が心底嬉しそうにみえて、胸の奥からまた、つんとしたものがこみ上げてくる。
「そっかそっか、分かってたのか。んでさ!分かってて来たってことは、そういうことって思っていいんだよな?」
「そういうこと?」
「俺を、受け入れてくれるってことだろ?」
「?」
「え、いや、『?』じゃなくて!」
「受け入れるって、なにを?」
「えぇ……ええ?」
今にも崩れ落ちそうに肩を下げ、情けない声をこぼしている。
「おま、おまえさ、ゲイだよな?!」
「えっ!そ…なに?!」
「俺はお前が好きで、お前はそんな俺のところにひとりで乗り込んできたんだ!そういう意味って思うの当然だろ?!」
「す…!!いやいや!急になに?!そういう意味じゃなくて…いやそういう意味じゃないというか…!と、突然なんだよ!アホ!」
「ア…え?バカより上?!」
「確かに俺はゲイだよ!ゲイだけど、なんで知って…、いやそうじゃなくて…、知らないんだ、男と、その…」
恥ずかしくて堪らなくて、それ以上に言葉が出てこない。ゲイとして経験する前に、ノンケの兄としての人生を歩み始めたから、女性としか経験がない。そう考えると、今更ながら、自分のセクシャリティを騙して付き合った妻に対して、後ろめたい気持ちになった。でも仕方ない。親もいる手前、ノンケの兄をゲイにするわけにはいかなかった。
「…、涼二、『俺』になってたぞ?」
「え?…あぁ…」
「はは。悪い。どうでもいいよな。今は、ありのままの涼二でいてくれよ」
「…ありの、まま?」
達生はそういうと、僕の頭を撫でてくれた。涼二の頭を撫でてくれた人なんて、記憶の限りでは誰もいない。心がむず痒い。おっさんがそれで微笑むのもなんだか気持ち悪いし、きっと今僕は、複雑怪奇な表情をしているんだろうな。
「なあ。明日、何する?」
頭に手を置いたまま、達生が聞いてきた。何か提案をしてくるわけではなく、ただ、僕の言葉を静かに待ってくれている。
ここには、達生と、涼二。ふたりだけ。
「じゃあ…、海がみたい」


瞼の向こうに光を感じて、ゆっくりと目を開けた。白いカーテンから淡く差し込む朝日だ。
サイドテーブルに置いておいたスマホで時刻を確認する。6時32分。日が昇って少し経ったくらいだろうか。
昨夜、達生とはあれから「おやすみ」と挨拶をして、達生が用意してくれた部屋に入った。そしてシャワーを浴びた後、部屋着に着替えて、持ち込んでいた仕事を少し片づけた。出張という嘘で飛び出してきたが、休めるわけではない。いつも通り仕事は溜まっている。家にいるのと同じように、淡々と処理をしていった。
…淡々と、していたつもりだったが、キーを叩きながらも、達生に抱きしめられた時の腕の感触が体から離れなくて、頭が軽くパニックを起こしていた。今だけは忘れようとすればするほど、神経が過敏になって、記憶の中の感度が高まる感じがした。
こんな経験は初めてだ。戸惑いが強すぎて苛立ちすら覚えた。
仕事を終えても気持ちが収まらない。
昨夜、達生は僕に「好き」と言ってくれた。死んだはずの僕を、ずっと待ってくれていた。全てがどんくさい僕に対して達生は、常に成績優秀で、スポーツもできて、しかも明るくて誰に対しても分け隔てなくラフに接してくれるようなタイプで、いつも友人とつるんで他愛のない会話を楽しんでいた。イケメンだから女性からもモテていて、女遊びが激しいなんて噂も聞いたことがあったくらい。それなのにまさか、男の僕を好きだったなんて。一度くらい言葉を交わしたことはあるかもしれないけれど、僕が達生に好かれるような接点が、果たしていつあっただろうか。思い出そうとしても、思い出せない。
気づけば日付が変わっていた。別れ際、明日は7時30分頃に朝食を用意すると達生が言っていた気がする。体調を崩さないように、目を閉じた。僕以外に誰もいない部屋で、波の音が静かに響く。やっぱり海はいいな。しばらく耳を傾けていたら、あれほどざわついていた心が嘘のように落ち着いて、僕は深い眠りについた。
お蔭で、思ったよりもすっきりと目覚めることができた。
テラスに用意された朝食のサンドイッチを食べながら、達生からここのペンションの話を聞いていた。目を輝かせながら身振り手振りを交えて淀みなく語る姿は、若い頃からの夢を実現させた、経験という中身の伴ったオーラを纏う男そのものだった。接客時とは違い、ヘアセットせず前髪を垂らしたままだが、その崩し方が余計に自信を感じさせて、朝から眩しいイケメンぶりだ。
僕が昨夜「海がみたい」と言ったから、希望通り海が見えるようにと、朝食をテラスに用意してくれていた。朝日を浴びた海面は、気配り上手のイケメンに負けず劣らず、ダイヤのようにキラキラと輝いている。この時期の海沿いの朝はかなり冷える。着替えた黒のチノパンと白Tだけでは堪えるが、ブルーグレイのカーディガンと温かいコーヒーがあれば、いつまででもこの景色を堪能できそうだ。
この土地と建物を紹介してくれたのは、当時のバイト先のオーナーだったそうだ。
「当時は静岡にあるペンションでバイトしててさ、そこのオーナーに経営のノウハウを教えてもらって、そんで、独立したってわけ」
「料理も教わったの?」
「まあね。上手いだろ?」
「めっちゃうまい!俺、このポテトサラダ大好きでさ!…、あ、」
「ははは!なんか、涼二が頑張って涼二になろうしているみたいだな」
「し、仕方ないだろ!もう、兄でいるときの方が長いから」
僕は16歳で僕を封じた。それから35の今日まで、ずっと佐藤康介としての人生を歩んできた。涼二がどんな人物像だったか、自分でもあまり覚えていない。根暗でゲイ。その印象しか残っていない。
「でもさ、お前、全然兄貴に似てないよな」
「……、え?」
「俺、何回か康介さんと関わったことあるけど。全然だぞ。確かに明るくて楽しい人だったけど、ガサツで気ぃ回らなくてさあ。でもここにいる康介サンは、明るいけど、それだけじゃなくて、相手の気持ちを汲んで動けるタイプ。な?全然だろ?」
「そんな…、何でそんな兄を知ってるんだよ」
「部活。俺バド部で、バスケ部とバレー部とシフト決めて体育室共有してたんだよ。倉庫の備品ぐっちゃぐちゃのままだったり、平気でシャトル踏んづけたりするの、大体犯人康介さんでさ!でも先輩だから強く言えないし、よくバレー部のやつと愚痴ってたわ」
「あー、あー…、ブッ」
凄く分かる。実際に現場を目の当たりにしていないのに、その光景が鮮明にイメージできて、思わず吹き出してしまった。確かに兄は、自分の気持ちに正直に動くことはできても、相手の気持ちを汲んで動くことはできない。そんな欠点が、僕には少し愛しくも思えていたのだが、見る人にとっては、まあそう受け取るのも無理はない。
「だからさ、目の前に佐藤康介が現れても、ああやっぱり涼二だ、って思えたんだよ」
「でも僕、死んだって聞かされたんだろ?」
「まあな。最初はさ、ショックだったよ。突然じゃん」
達生も同じハムレタスサンドにかぶりつきながらも、目の前の海ではなく、それよりもずっと遠くを見ているようにみえた。
「でも、俺さ、実はお前を見たんだよな」
「え、どこで?」
「電車ん中。電話に出て、そしたら次の駅で降りちゃっただろ。忘れ物でもしたのかなって」
「あの時、いたんだ」
「まあな。それで、家に戻る途中で事故にあったのかなって。でもよくよく聞いてみたら、おかしいんだよな。学校に向かう途中に事故ったって聞いてさ。正確な時刻は分からなかったけど、結構早いの。高3が小テスト受ける前くらいなわけよ。それでさ、もしかしたら、死んだのは涼二じゃないんじゃないかって」
「その情報で、よく僕が死んでない説出せたね」
「まあ、仮説よ?仮説。なにせ結局生きてるはずの兄貴にも一度も会えず仕舞いで卒業しちまったからな。顔を拝めれば分かったかもしれないけど。でも拝めなかったからこそ、もしかして何か隠されてるのかなって。学校もグルでさ」
「…やっぱり、達生は頭良いんだな」
「あたり?はは!無駄にな」
早食いな達生は喋りながらもあっという間に朝食を平らげ、カップに残っているコーヒーを一気に飲み干した。僕はサンドイッチを食べ終わっていたものの、大好きなポテトサラダを食べきることに躊躇して、中途半端に残したまま耳を傾けていた。
「だからさ、死んだって事実を、受け入れつつ?ほんの少し夢を見ていたんだ。海のそばにいたら、いつかお前に会えるかもしれないって。それが生身でも、幽霊でも、さ」
僕の何が達生にそこまで思わせたのだろう。僕の知らないところで、涼二のいない世界で、藤島達生という人間が、康介ではなく涼二を、こんなにも想ってくれていた。下瞼にぐっと力が入る。視界が滲むのを、何度も瞬きをしてごまかした。
「まさか。もし幽霊の方だったらどうするつもりだったのさ」
「そうだな、…連れてってもらいたかった、かな」
「は?」
「やだな。冗談だよ」
冷たい風と共に、波の音が寄せてくる。今日も穏やかなその音に紛れ込んだ「半分な」という声を、僕は聞き逃さなかった。

朝食の後は、昼まで仕事をすることにした。本当は食器の片づけや何やら、達生の手伝いをしようと思っていたのに、仕事のメールが容赦なく入ってくる。スマホが何度目か震えた時はさすがに達生も半笑いで、テーブルの上はそのままに僕を部屋に押し込んだ。僕が仕事を片づけている間に、達生は掃除やら何やら、自分もやるべきことを片づけちゃうと言っていた。11時頃に玄関前に集合。それまでは、お互い頑張る。
通知の中には、妻からのメッセージもあった。『お疲れさま』の一言と、画像も送られていた。珍しく愛花が早起きしたのか、一緒に朝食を作ったらしい。黄身のはみ出た目玉焼きと、つやつやのソーセージ、そして焼き目の濃いトースト。プレートの後ろにはガラスのボウルに盛られたレタスとトマトのサラダと、小さな手のピースサインが写っていた。
これは、世界一美味しい朝食に違いない。『絶対うまい!今度はパパの分もよろしく』と返信した。達生の不穏な言葉に、気持ちが少し乱れていたが、愛花のおかげで落ち着いた。
まずは11時まで。僕は作業用の眼鏡をかけて意識を切り替えた。

進捗メールを打っていると、画面の背後からバッと顔が飛び出してきた。
「うえぁあ!?」
突然顔が目の前に現れるから、あまりにも驚いて変な声が出てしまった。
「あははははは!」
予想以上に情けない声だったのか達生が大ウケしている。ヒーヒー言いながら呼吸を整えると、部屋の壁時計を親指で突く様に指してみせた。約束の時間を10分以上過ぎている。
「時間になっても来ないから過労でぶっ倒れてるのかと思ってさ」
「わ…気づかなかった、ごめん。てか、いつから部屋にいたの?!」
「ついさっき。いやだってお前、ドア開いても近づいても全然気づかないんだもん。大体鍵かけてないし」
「え、だって達生と僕しかいないから、別にいいかなって」
「こうやって入ってきても?」
「何か盗まれるわけじゃあるまいし」
「貞操は?」
「て…、へ?!」
「あはははは!」
真っ赤になって目が開きっぱなしの僕の顔を見て、また腹を抱えて笑い出した。
達生の催促が喧しいから、ささっとメールを送ってパソコンを閉じて、昼食を取りに出かけることにした。玄関のドアを開けて出ると、地面から反射された自然光に思わず目を伏せてしまった。人工的な光に目が慣れると、太陽の光はきつく感じてしまう。手で光を遮ろうとして、何かが指にカチッと当たった。眼鏡だ。眼鏡をかけたまま出てきてしまった。
「しまった、眼鏡外し忘れた」
「え?なんか問題ある?普段コンタクト?」
「いや、裸眼。別に日常生活に支障はないんだ。パソコンとか画面を見ると疲れちゃうからかけてるだけ。ああもうケース無いから外せないや」
「そんな嫌?」
「だって、ちょっとダサいじゃん。僕あんまり眼鏡似合わないから」
「なにそれ誰に言われた?全然似合ってるよ!知的な薄幸美人って感じ」
「幸薄いのかよ」
「んーじゃあ、唯一無二な表現使いで有名な素性の知れない小説家?」
「急に世界観独特」
「まんま涼二って感じ」
真横を歩いていたのに向かいに立ち、目の近くまで伸びてきたセットしていない僕の前髪を指で払ってみせた。長くて節くれた男の指だが、動作はゆっくりで、優しい。甘い不意打ちに、顔も体も固まってしまった。
「そのままでいろよ」
そういうとふっと笑顔を見せて、僕の数歩先を歩き始めた。僕だけに見せる柔らかな微笑み。髪に触れられた感覚が戻ってきて急に恥ずかしくなり、犬みたいに顔を2,3回振った。
数歩先を行く達生の後に続き、浜辺を散歩しながらお目当てのお店に向かう。前回達生の紹介で家族と行った、ベーグルの美味しいカフェだ。他にもおススメのお店を何軒か教えてくれたけど、あのベーグルが忘れられなくて達生にリクエストしたのだ。
「でも考えてみたら、達生もなかなか外食行けてないよね。行きたいお店あったんじゃない?」
少し不安になって、目の前の背中に向かって聞いてみた。
「気にすんな。俺は店じゃなくて、涼二と飯食うのが目的だから」
「そ、そう…?」
「それに、俺もベーグル久々なんだよ。だから楽しみ」
インディゴのワイドデニムのポケットに両手を突っ込みながら、前を向いたまま、ゆっくりと歩を進めていく。目の前の半袖白Tに寒さを覚える10月。海沿いの飲食店は土日でも空席が見られるようになった。海も同じ。前回は僕たちと同じ家族連れを何組も見かけたが、今は地元の人が散歩しているくらいで、実に静かなものだ。
ここは妻とも歩いた。同じ道、同じ景色のはずなのに、この静けさのせいか心が落ち着かない。浜に打ち寄せる波の音が、まるで自分の胸のざわつきのようだ。達生が目の前にいるのに、何故か一人で当てもなく彷徨っている錯覚がした。
ポケットに隠れている両手がもどかしい。隠れていなければ、今頃……。
「涼二」
名前を呼ばれてハッと顔を上げると、先を歩いていたはずの達生がこちらを向いて止まっていた。
「なにボーっとしてるんだ。早く行こうぜ」
そういって、いつの間にかポケットから出ていた達生の手が僕の手を握った。「腹減ったー」なんていいながら、繋いだ手を引っ張っていく。達生の手が温かくて、このままくっついてしまえたら…。気づかれない様に、小さく小さく握り返した。

「涼二」と呼ばれるたびに、頭に靄がかかったように思考が鈍くなる気がする。
画面に映した添付資料の文字が全く頭に入ってこない。意味が理解できない。それほど急ぎの案件ではないが、仕事の量を減らすために、これだけは処理してしまいたかったのに。
ついに諦めてラップトップを閉じた。こんなに進みが悪いのは初めてだ。お手上げだ。どうしようもなくて席を立ち、サイドテーブルに眼鏡を置いてベッドにダイブした。
康介は、兄はこんなことありえない。一度決めたことが揺らぐことはないのだ。目的意識が高いっていうのだろうか、自分で立てた目標の邪魔になるものは目に入らないし、入っても切り捨てる。それが他者であっても、自分自身であっても。そういう性格の一面がより一層気が利かないとか、無神経とか、そういう評価に繋がってしまったのだろうけれど。
兄がなんでも卒なくこなせる理由はここにある。僕はそんな兄のストイックさも大好きだった。何にでも左右されて心が揺れてしまう僕と対極な兄は何度も言うが僕の憧れだった。康介として、この点はかなり本人に近づけたと自負していたのに。
「涼二」と呼ばれるたびに、死んだ涼二が息を吹き返す。達生という存在に気持ちが揺さぶられて、すべき仕事が手に着かない、軟弱な涼二。
ベーグルを食べている時もそうだった。名前を呼ばれて、手を繋いで、それだけで頭の中が熱くなって、達生に何を話しかけられているのか全然理解が追い付かなくて、変な返しをしては達生に苦笑いされてしまった。
「夕飯はなにがいい?」って聞かれて、咄嗟に「なんでもいい」って答えてしまった。ベーグルはお腹にたまるから、夜は軽く終わらせてもいいかな、なんて考えていた最中だったのに、達生の声が聞こえたら慌ててしまった。夕飯の返しだけでこんなに上手くいかないものか。妻とは今まで何百回としてきたやりとりなのに。
そういえば、夜は18時ぐらいにテラスに来るよう言われていたっけ。日が沈むのが早くなって、その時間はもう暗いし寒い。応接室も考えたが、ヒーター出せるよ?なんて言ってくれたから、テラスを希望してしまった。朝、昼、夜、一日の海の顔を見ることができるなんて、贅沢な一日だ。
残った仕事は目を瞑って、軽くシャワーを済ませた。時刻は17時41分。風邪を引かないように髪を乾かして、朝羽織っていたカーディガンを着て、テラスに向かった。
いつものオレンジ色の優しい外灯と、足元のヒーターが、中秋のテラスを温かく包み込んでくれていた。バーベキューの時には邪魔になるからと出されなかった、アルミ製のベンチとローテーブル。テーブルには、トマトや生ハム、チーズ、アボカドなどが串に刺さったピンチョス、サーモンのカルパッチョ、スナック類の盛り付けられたバスケットが置かれており、ビールや酎ハイなど何種類かのお酒とグラス、食器も用意されていた。
僕が想像していた、軽く終わらせる夜ごはんが目の前に広がっていた。
「え、え、すごい」
「気に入ってくれた?昼のベーグル結構腹にたまったろ?俺もだけど、涼二もこんな感じの気分かなーと思ってさ」
「いや、そう。ほんとうに。しかも男二人なのに、こんなにオシャレ…」
「いいだろ?涼二と食べたくてさ。あ、そいや朝のポテサラも残ってるんだけど」
「食べる!」
「ははは!本当に好きなんだな」
分かったよって笑いながらポテトサラダを取りに階段を下りていった。僕はその間に、取り皿と割りばしをセットにしてテーブルに並べた。
そういえば、妻と同棲を始めた頃も、こんなことあったな。休みの日、仕事で部屋にこもっていて、やっと終わって部屋を出たら食卓に食事が並べられていた。外出どころか一緒に過ごせなくて申し訳なかったのに、『康介さんの好きなものを作っていたの』って、笑いながら洗い物をしていた。
『時間があったから、のんびりと作っていてね、そしたら、なんかいっぱいできちゃった』
2人で食べるとは思えない品の数々と、前の休みに二人で選んで買ったワインが置かれていて、おかしさと、嬉しさで、その時は泣きながら笑っちゃって、妻を困らせたっけ。
妻と食器を並べながら、兄に感謝したんだ。あれは、『康介さん』だから作られた幸せ。『康介さん』のおかげで……。
「涼二」
振り返ると、小ぶりの木のボウルを二つ持った達生がいた。
「お待たせ。食べよう!」
達生はそうやって、律儀に僕の名前を呼ぶ。何故か僕が兄を思い出している時は、特に。まるでそれに気がついていて、僕が兄を意識しないように、わざと名前を呼んでいるかのようだ。全てを見透かされているようで、落ち着かない。
達生の持っているボウルの片方を半ばひったくるように両手で奪った。
「い、いただきます!」
「好きなだけ食べろよ」
達生が皿に僕の分を取り分けてくれている間に、奪ったポテトサラダを箸で摘み、口に入れた。今朝ぶりの味。やっぱり大好きだ。あっという間に平らげて、取り分けてくれたサーモンに箸を伸ばした。
「おいおい、涼二。俺の料理が美味しいのは分かるけど、コレ、忘れてるぞ?」
ビールの缶を持って、ウィンクを投げてきた。夜空に浮かぶ星に負けない輝きを放っている。がっついていた自分が恥ずかしくなって、箸をそっと置いた。空のグラスを二つ持って、達生にビールを注いでもらい、改めて、乾杯した。
「今更だけど、やっぱり達生はイケメンだよな」
「知ってる」
「ムカつく」
「仕方ないだろ~、事実なんだから」
「高校の時から20年近く経ってるのに、衰えるどころか男らしくなっててさ」
「そんなに褒めなくても俺のポテサラやるよ」
「違うよ!貰うけど」
「どんだけだよ!」
「良いじゃん、好きなんだから。これなら毎日食べられるからなあ」
「食べさせてやるのに」
「え?」
「俺のそばにいれば」
波の音が大きく響いた。次の言葉が咄嗟に出てこなくて、慌ててサーモンのマリネを箸でつついて、口に放り込んだ。マリネされた玉ねぎのまろやかな酸っぱさと、サーモンの甘さが口に広がって、緊張した肩の力が少し抜けた。
「今更聞くけど、達生って、なんでそんなに僕に…その、…こだわるの?」
「今更なことが多いなあ。あと言い換えなくていいぞ。愛してるから」
「な!?恥ずかしいから言い換えたのに!」
「涼二はな、初めて俺に気づいてくれた奴なんだ」
「…気づいた?」
「そう。お前忘れてるみたいだから、語っちゃおうかな~」
グラスに残るビールを一気に流し込み、ベンチの端に腰掛けた。僕も一度箸を置いて、達生と少しだけ間を空けて隣に座った。
「俺さ、親父が大学病院の院長だろ?だから親からは、院長の後継ぎとしか見られてなくてさ。医学部行って、医者になって、結婚して子ども作って。それが俺の全てって感じで」
藤島達生といえば、地元で知らない人間はいない。誰もが皆、院長の一人息子として彼と接していた。そうとしか見ていなかった。
「ただでさえ窮屈な環境なのにさ、加えて、…俺も、ゲイだったんだ。周りの奴らが、俺がちょっと男友達と距離近いだけで『女に勘違いされるぞ』なんて囃し立ててきてさ。ああ…受け入れられないんだって。俺が俺のままであることは、何一つ受け入れてもらえないんだって、思った」
「そう、だったのか」
達生も僕と同じように、自分の居場所がなかったのか。僕と違って、世界と繋がっている人なのかと思っていたけれど、繋がっていたのは、周りが勝手に作り上げた別の人格だったわけだ。
「毎日毎日、家でもどこでも、自分の行動を監視されている気がして、イライラがすごくてさ、そんである時、海に行ったんだ」
「海…」
「普段思いつきもしないのにな。その時も秋だったかな。夕方で、とにかく誰もいない静かなところに行きたかった。海みながらボーっと歩いてたら、お前がいたんだ」
「ああ。思い出したかも」
何度も海に足を運んだが、たった一度だけ、誰かと海辺で会話をしたことが確かにあった。記憶がぼんやりとしていたけれど、あれは達生だった。
「達生から話しかけてきたんだよな」
「そうそう。涼二、いつも教室で俺のこと見てただろ?その目見て、何となく、お前も実は俺と同じなんじゃないかって」
「それで…」
確かに、達生の顔は昔から好きで、ついつい目で追ってしまっていた。
「だから興味湧いてさ。でも、海が好きってこと以外、全然話続かなくてさ。何かっていうと『僕じゃあダメだから』『兄さんみたいじゃないから』って、卑屈で。ちょうどお前が兄貴の真似みたいなのし始めたときじゃないかな。お前にも良いところいっぱいあって、俺みたい自分を隠す必要なにもないのに。なんで?って、イライラして。…お前を、押し倒したよな」
「そう…だったっけ」
思い出した。僕は突き飛ばされた。そのまま覆いかぶさってきて、『抱いてやろうか?』って言われたんだ。ドキッとした。好きな顔が近くにあって、思いもよらない言葉をかけられて。でもそれ以上に、心配だった。挑発的な言葉とは裏腹に、あの時の達生は泣きそうな顔をしていた。それで。
「『つらかったんだね』って。言ってくれやがって」
いつも顔を見ていたから、何となく気づいていた。友達といるときの達生は、笑っているようで、目が笑っていなかった。楽しいはずなのに、つらそうで、ずっと何かに耐えているような気がした。だから、発散できる場所を求めているのだと思った。
「そんなこと言われたの、初めてだった。正直すっごい嬉しかった。俺を、ちゃんと気づいてくれている人がいたんだって。こんなに人に気づける凄い奴なのに、当の本人は兄貴なんかになろうとして、だから俺、『それでいいのか?』って。でも返事は同じ。お前は頑固だったな。ま、当時のお前にとっては、切実だったのかもしれないけど。それから俺、お前のこと気になって、でも話しかけられなくて、うだうだしてたら、死んだって」
無意識に手に力が入って、拳を握った。自分が死んだ話は、何度聞いても聞き心地が悪い。
「もうさ、ショックだった。お前の存在が心の支えになってたのに、置いてかれた。虚しかった。お前の言葉が頭から離れなくて。でもその言葉が、俺の背中を押してくれたんだ。こんなにつらいの耐えて生きてるのに、人はいつか死ぬ。それも突然に。涼二の死は理不尽そのものだ。だから、もういいんだよって、お前が言ってくれている気がしたんだ。そしたらどうでもよくなってさ。俺は好きに生きる。親も何もかも全部捨てて、俺らしく生きていこうって。そんでその姿を、涼二に見てもらおうと思ったんだ。俺、ちゃんと毎日楽しく頑張ってるぞ!って」
拳を上げる達生に思わず顔が緩んだ。きっと両親と大喧嘩しただろう。それからの今に至るまで、色々な苦労があっただろう。自分らしく生きる代わりに背負う覚悟や責任から逃げず、達生は頑張ったんだ。
「卒業までの残り一年は授業料払ってくれたから、その一年で勉強しながらバイトして、貯めたお金で静岡に飛んだの。あとは、前に話したとおり」
「そのままそっちに、とはならなかったのか?こっちだと、親が近くにいるのに」
「それも考えたんだけどさ、たまたまあっちに良い物件がなくてな。それでオーナーが知り合いの紹介でここ教えてくれて。でも、ああ、運命だなって」
「運命?」
「涼二の近くに行けって、神サマも言ってくれてるんだな~って。そんで頑張ってたらさ、こうして、本物の涼二に会えた」
ははっと笑った顔は、含みのない、すっきりしたものだった。確かに思い出してみれば、高校時代の達生は、こんな風に笑っていなかった。今の達生は、本当に自分らしく生きられているのだろう。昔より、ずっとかっこいい。
思わずじっと顔を見つめてしまったが、達生もまた僕の目をじっと見つめていた。瞳の奥に宿る熱に気づいたら、目が離せない。達生は静かにグラスを置いた。
「俺、あの時救われたんだ。お前のおかげだ。今度は、お前を救いたい」
「達生…え、あっ」
抱きしめられた。弾みで、皿に置いておいた箸を落としてしまったが、どちらも動かない。冷えてきた体に、達生の熱は抗えなかった。
「あの時押し倒すんじゃなくて、こうやって抱きしめるべきだったんだよな。お前のままでいいんだって」
「たつき…」
「なあ、涼二。…お前が欲しいよ」
さらにぐっと力が入り、達生の身体と密着した。心臓が跳ね上がる。息が苦しい。でも、嫌ではない。
頭に残っていたあのセリフは、達生だったのか。あの時からずっと、お前も僕のことを気かけてくれていたんだな。
怖くないと言えば嘘になるけれど、それでも、今の達生に全部、委ねてもいいと思えたから、腕の中で小さく頷いた。
少し体が離れ、顔がゆっくり近づく。冷淡な印象の顔つきなのに、意外に唇は厚くて、僕の唇を包み込むように食んできた。
小さく角度を変えては吸い付いてきて、少し息苦しくて気を抜いた隙に舌が入ってきた。びっくりして思わず両手で押し返そうとしたが、構わず達生の身体に引き寄せられ、頭を抑え込まれた。逃げ場を無くして、為す術なく、僕の舌は達生に弄ばれた。絡めとられ、うねる様な動きに舌が擦られるたび、ひっと声が出てしまう。恥ずかしい。熱い。でも、この熱から離れたくない。
身体が痺れて息も荒くなってきた頃に、ゆっくりと舌が抜かれて、解放された。頭がボーっとする。自分で立つ気力がなくなり、僕はそのまま達生の肩にもたれかかった。
「かわいい」
頭をぽんぽんと撫でられた。恋人のそれというより、子供をあやすような優しいタッチ。
「ここじゃあ寒いな。中でシよ」
「…あ、かたづけ…」
「俺がしておくから。部屋で待ってて」
ウィンクをしてみせて、本当にそそくさと片づけを始めてしまった。寒空の中放置された僕は自分のこの状態をどうすることもできなくて、言われた通りに部屋に戻ることにした。

ドアを開けると、いてもたってもいられずベッドに飛び込んだ。この昂ぶらされた熱を何とかしたい。片づけてから来るというなら、2,30分はかかるはず。それまで待つのは、生殺しというものではないか。
「なに考えてんだ…ちくしょう…」
なにが寒いな、だ。それなら最初からあんなところで始めるなよ。頭がおかしくなって、何も考えられない。布団をかぶって、身体をこれでもかというほど丸めて縮こまってみた。
落ち着かない。気が一点に集中してしまう。体勢を変えようとして脚を動かしたら、それが太ももとこすれてしまった。
「ひ…うっ」
もうダメだ。あいつが悪い。全部達生が悪い。僕はすべての責任を達生にかぶせて、自分の昂ぶりに手を伸ばした。30も後半になって頻度は下がったが、自分の好きなポイントは覚えている。久しぶりに扱くと顔に熱がこもり、息が自然と荒くなっていく。
でも、いくら扱いても果てが見えても、そのたびに頭の中でストッパーがかかってしまう。達生とのキスが忘れられない。達生の手に包まれて果てたい。はやく達生に触れて欲しい。
「たつき…」
「おまたせ」
ガバっと布団を外され、耳元で囁かれた。冷気が入り込んできたかと思うと同時に、別の熱が覆いかぶさってきた。驚く僕を無視して身体を仰向けにすると、素早く僕の手を払ってパンツごと下着を剥がされ、晒されている僕のそれをその大きな手で包み込んでくる。
「たっ…あっ…―――!」
達生はそれ以上何も言わず、そのまま続けて真似をするように扱いてきた。擦られるたび上がってくる快感に加えて、ぐちゅぐちゅとした水音に聴覚を犯されて、僕は抵抗の余地なく果ててしまった。荒ぶる呼吸を必死に整えながら、嬉しいような悔しいようなで、達生をじっと睨んでやる。
「おこんなよ。…待ってたんだろ?」
達生は余裕だ。余裕の笑みを浮かべて、息が整わないうちにキスをしかけてきた。今度は当然とばかりにすぐ舌が入り込んで、我が物顔で口内を暴れまわり、侵し、僕の舌を弄ぶ。
酸素が足りなくて唇を離すのに、離れるたびめげずに吸い付いてくる。
「もぅ…はっ……しぬ」
「わりぃ、とまんね」
絡めとり、散々に舐めしゃぶり食いついてくる。僕の舌は、達生によって瞬く間に立派な性感帯となってしまった。香奈江とのキスとは全然違う、野獣のように激しくて、熱くて、気持ちが良すぎた。
漸く解放された時には、再び果てたと勘違いするほどに身体が震えていた。初めての僕にとっては十分すぎる刺激だ。焦点の合わない目をじぃっと見つめて、達生は小さく笑う。
今度は啄むような優しいキスを繰り返す。小さく響くリップ音がいじらしくて、くすぐったくて、僕も思わず笑った。
その瞬間、僕の秘部に冷たいぬめるものが当たった。優しい時間から一転して、背筋に寒気が走った。
「え、た、つき?」
「傷つけない、絶対」
それが愛液に濡れそぼった達生の指だと気づくと同時に、ぬぷ…と内部に入り込んでいた。
「―――っ!」
経験のない違和感に恐怖すら覚えた。男性同士の行為がどんなものかは知っていたけど、知識と経験は全くの別物だ。何かが入り込む場所ではないと、身体が反射的に硬直する。
「いやっ…」
指がゆっくりと歩を進めてくる。一本ですら内側からの圧迫感に耐えがたい。冷や汗をかく僕の様子を見て、達生は一度立ち止まり、頬や首、肩などに柔らかいキスを落としていく。徐々に移動する唇が、Tシャツをめくり上げて、ついに乳首を捕らえた。
さっきまで僕の舌を好き勝手にした達生の舌が、今度は乳首を弄び始めた。周囲を回るように嘗め回して、じれったいと思わず腰をくねらした様を逃さず、突起に襲い掛かる。コロコロと転がすように遊んでいるかと思えば、突起のくぼみを舌の先端で容赦なく突いてきて、その不規則な動きに僕の口は嬌声を漏らす他なかった。
長らく続いた乳首への攻撃に身体が負けて、とうとう硬直が解かれた。だらだらと垂れ流されていた愛液を絡めとった二本目が、一本目のところまで一気に昇ってきた。
「あぁ…!だ、やぁ…」
先ほどとは打って変わって、二本同時に激しく抜き差しを繰り返される。不思議なことに、最初の恐怖や圧迫感は遠のいて、脳が快感に貪欲になっていた。自分ですら触れたことのない内部を、達生の指がどんどん押し進みこじ開けていく。広げるようにバラバラ動かされると、指の腹や節くれ立った関節が、ぐにぐにと内壁を刺激してくる。僕はその指がいつの間にか三本に増えていることも気づかず、小さな頂に何度も達しながら、だらしない声をあげ続けていた。
「りょう…じ」
ずっと沈黙だった達生が、指の動きはそのままに声をかけてくる。
「りょ、じ、…も、いい?」
耐え忍ぶような声がして、ちらと達生を見た。今までずっと、僕の為に我慢してくれていたのがよく分かる。
「ん…うんっ……あ、…たつき」
僕もそうだった。お互い、自分を解放したくてたまらない。
達生の指がまばらにゆっくりと動きを止めて、静かに抜かれていく。最後の指先がすっと引かれると、急に中が空っぽになって、どうしようもない寂しさに襲われた。
「たつき…、たつき」
早く、この寂しさを埋めてほしい。切なさにきゅぅっとすぼまるのが分かる。気持ちが逸り、達生の首に両腕を絡ませ、こちらに引き寄せようとした。
「りょうじ」
どこからか隠し持っていたゴムを被せ終えると、僕の目を見て、不敵な笑みをこぼした。
「俺、今から死ぬほどお前の名前呼ぶから」
「え」
「好きだ、りょうじ」
「えっ…!んぁ!?」
「いくよ」
ひたりと硬いものが当たった直後、ズンとこじ開けられる感覚に思わず腰が引けた。見逃さなかった達生はその腰を両手で掴み、固定すると、大きく息を吐いて、また進んでいく。指とは比べ物にならない質量と痛みに、遠のいていた恐怖が踵を返してきた。でも、一刻も早く中を満たしてほしくて、恐る恐る、力を入れては抜き、入れては抜いてを繰り返した。達生が焦らず僕の動きに合わせるように進んでくれる。奥まで徐々に近づき、ぴたっと達生が止まった。
僕の下瞼に指でそっと触れてきた。千切れそうな痛みに耐えてこぼれた涙を拭いてくれた。
「だいじょうぶ?」
「…うん」
「全部、はいったよ」
「…はは、…あつい」
達生が強く抱きしめてくれた。僕も首に回した腕でそれに応える。ぎゅっとすると、僕の中も一緒にぎゅっとなって、達生が「うっ」と小さく悲鳴を上げた。
「りょうじ…わざと?」
「ちがうよ、うれしかっただけ」
「…もう、むり」
僕の両足を肩に乗せると、腰が少し浮いた。その腰を掴んだまま、大きく動き出した。
「ああっ!」
中にあるこの質量が、生き物のようにうねり、何度も何度も抜けるギリギリまで引いては奥に打ち突きつけてくる。その動きに、信じられないくらい甲高い声が、あられもなく漏れ出て止まらない。
「ああっ…や、っうぁ…はぁぁ」
僕の腰を少しずつ動かして、角度を変えてくる。もう十分すぎるくらい感度がおかしくなっているのに、こつんとある場所に当たった瞬間、背中から脳天にかけて一気に電流がかけあがった。
「あぁああ!」
「ここね」
「まっ…や、だめぇ…ああああ」
その一点目掛けてひたすらに責められる。奥に迫るたびに、名前を呼ばれ続けた。
りょうじ…りょうじ…
「りょうじ、俺を選んで」
ガクガクと腰を揺さぶられる。汗が噴き出る。声が止まらない。中からビリビリと突き上げられる快感以外に何も考えられない。
僕の昂ぶりが、ぶるりと震えた。もう限界だ。この快楽に浸っていたいが、終わりが見えてきた。達生も同じようで、余裕に構えていたあの顔は見当たらず、汗だくで、快感に押しつぶされそうな表情をみせていた。僕のに、達生の手が伸びる。
「やぁ…!だめっ…もぅ…っ、たつきぃ」
「りょ、じ…!」
扱かれながら何度目かの名前が聞こえて、達生も僕も絶頂を迎えた。2人とも溜め込んだ欲望を吐き出しきれず、達生は幾度も小さく僕の中に打ちつけて、僕のは達生の手の中で、幾度も小さく脈打っていた。
昂ぶりがなかなか鎮まらず、肩を震わせていると、達生はその肩を甘く食んで、口づけて、笑ってみせた。
「りょうじ、人魚みたい」
「へ…?なに言ってんの?」
「ずっとぴちぴちしてるんだもん。かわいい」
そう言って、僕の胸やお腹に優しくキスを落としながら、中から出ていこうとする。
またあの寂しさに襲われる…。そう思った僕は、咄嗟に脚で達生の腰を留めた。
「や……」
「……、りょうじ」
「ん?…んぁ?」
途中で止まった達生のが、ぐんっと膨らんだ気がした。
「俺の人魚姫は、ほんとうにかわいいな」
「お、おっさんに向かって姫って…っ、あぁ」
引き抜かれ、全部いなくなってしまった瞬間に、自分でも予想しなかった切ない声が漏れてしまった。恥ずかしくて咄嗟に口を両手で覆ったが、その手が達生の片手に囚われ、頭上に押し付けられた。僕を捕らえている間に、達生は手際よくゴムを付け替えて、もう片方の手で僕の腰を再び掴んだ。気のせいだろうか、さっきより掴む力が強い。両手を押さえつけてくる手も、ぐっと力が入って痛い。
「たつき…、なに、を」
「お姫様に煽られたんじゃあ、全力で応えるしかないよな」
「え、うそっ、ちょっ」
「りょうじ」
その声を聞いただけで、身体がビクッとなってしまう。僕は達生に名前を呼ばれるだけで、快感を覚える体に変えられたのか。もはやパブロフの犬だ。身体が小さく震えたその隙に、達生が深いキスを仕掛け、そしてまた奥へと深く潜り込んでいった。
いつもは波の音が聞こえるこの部屋で、シーツの擦れる音と、二人の荒い息遣いが響き続けた。


「色気がない」
キーを叩く音に紛れて聞き取りにくかったが、多分そんなことを言ったんだと思う。
素っ裸を全く意に介さず太々しくベッドで横になったまま、仕事をしている僕の後ろ姿をじとっと見てくる。用意されている椅子に背もたれが無いから、余計に強く視線を感じる。
朝、目を覚まして時間を確認しようとスマホを見たら、昨夜から放置していた大量の未読メールに飛び起きてしまった。隣で寝ていた達生は昨夜の余韻に浸ろうと思っていたために、僕がベッドから離れ、慌てて作業デスクでパソコンを立ち上げる姿を見てから、ずうっとこの不貞腐れようだ。
「昨日の涼二はどこにいったんだよー」
「ここにいるよ」
「俺を見て、夜の交わりを思い出し、照れくさそうに微笑む涼二…とかいう展開はどこにいったんだよ」
「なにその官能小説みたいな一文」
「照れないのかよ」
「…っ、照れてるよ!」
ひとまず急ぎの件は片づけたが、後ろを振り返れなくてパソコンから目を離せない。達生の裸は、それこそ昨夜の交わりを思い出させる。達生の熱や、自分の声。お互いの記憶に残ったと思うと、いたたまれない。
「恥ずかしくて、顔、見れない」
「…りょうじぃ~!」
ベッドから飛び降りて僕を後ろから抱きしめてきた。大の男に突進されてつんのめってしまう。余裕のない僕に構わず、腰にしがみついたまま、耳に首筋にとキスを落としていく。昨夜の一幕が脳裏によぎり、身体がじりじりと熱を帯びてきた。
「ちょっ…もう、いいかげんに」
「お前さ、急いでたとはいえ、パンツにカーディガンは変態じゃない?」
飛び起きた時、自分も全裸のまま寝入ってしまったことに気づいて、床に散らばっている服をひったくって、とりあえず着られるものを着たら、こうなった。
「仕方ないだろ、急いでたんだから」
「ま、いいんだよ?こっちの方が断然エロいから」
俺、着衣派なんで。というと、相変わらず首筋に吸い付きながら、左の手がカーディガンの下に入り込み肌を撫ぜだした。指の腹が胸をなぞるように這いまわるが、肝心なところはわざと外していく。それが堪らなくて、快感から逃げたいのか、追いかけたいのか、身体をくねらせてしまう。
「んふふ、えっろ」
「もぅ…、ふぁ…あ」
「ここ?」
「ぁああ!」
赤みのさした突起を弾かれた。突然の強い刺激に、腰がびくっと反り上がった。ツンと立った乳首が露わになり、ここぞとばかりに責め立てられた。
カリカリと爪でへこみを擦られる。ココが気持ち良いと覚えた僕の身体が、昨夜より快感を拾うのが上手になってしまったせいで、乳首だけで頭がおかしくなりそうだ。
「そんなに腰反って胸張って、触ってほしくてたまらないってか」
右手も伸びて、両方を同時に弄ばれる。いつの間にかカーディガンは肩からずり落ちていて、触れる冷気すらチリチリと感じてしまう。
下にじんじんと熱が溜まり、痛みすら感じるほどだ。達生も気づいているはずなのに、触れてくれない。胸ばかりに執着されて、我慢できず手を伸ばそうとした。
その時、聞き覚えのあるメロディが流れた。人魚姫のアニメの劇中歌。有名な曲で、愛花が大好きな曲。
家族からの着信音だ。聞きなれた陽気なリズムに、一瞬にして熱が引いた。
「でんわ、…電話出なきゃ」
「放っとけよ」
「でも、」
「涼二」
「やっ!?」
達生の右手が僕の下着の中に突っ込んできて、着信音で少し頭を垂れたそれを鷲摑み下着から引き出すと、一気に追い詰めてきて、あっという間に昂ぶりが戻ってきた。扱かれる度にじゅぶじゅぶと容赦なく水音を立てられる。同時に左手で乳首を、達生の舌は右耳を蹂躙してきて、あまりの快感の激しさに、少しと経たないうちに身体をのけ反らせあっけなく果ててしまった。
呼吸が整わない。それでも僕の顔を後ろに向けさせ、お構いなしにキスを落としていく。脳みそが炭酸水に漬け込まれていくような、シュワシュワとした痺れを感じた。
着信音が途絶えたことも、そもそも電話が来ていたことも、何もかもが抜け落ちていった。

結局あのままもう一戦交えて、ベッドで寝入ってしまった。
目を覚ますと、横に達生はいなかった。もう朝の10時を過ぎている。さすがに空腹だ。もしかしたら達生が何か用意してくれているのかもしれない。床に散らばっている服を拾おうと体を動かしたら、腰にピリッとした痛みが走った。尻も痛い。ヒリヒリするところを恐る恐る指で触れると、明らかに人工物のようなベタつきを感じた。軟膏?僕が寝ている間に、薬を塗ってくれていたようだ。ベッドのサイドテーブルには、その薬と、ペットボトルの水。あんなに激しく好き勝手やってくれたくせに、最後はちゃんと気遣ってくれる。達生の愛情を感じた。ありがたく水を頂戴して、シャワーを浴びた後、昨日のチノパンと、新しい白Tにいつものカーディガンを羽織った。
カーテンを開けると、今日も海が迎えてくれる。今日は生憎の曇り空。空の色を受けて海も鈍色になっている。風も少し強いのか、波が高く、昨日より荒く飛沫をあげて打ち寄せている。雨でも降るのだろうか。
しばらく眺めていると、メロディが流れた。あの着信音だ。
僕は慌てて電話に出た。
「も、もしもし」
「パパ―!やっとでたよー!」
おはよー!と、愛花の元気いっぱいの声が聞こえてきた。さっきも、こうして朝の挨拶をしようと電話をかけてくれたのか。ちくりと、罪悪感が胸を刺した。
「げんき!?」
「げんきだよ。さっきは出られなくてごめんね、お電話ありがとう」
返事をしたが、愛花が急に黙り込んだ。
「え、愛花、どうしたの?」
「だれ?」
「え?」
不思議そうに聞いてくる。何が起きたのか分からなくて、「パパだよ」と一生懸命呼びかけるが、納得していない様子が沈黙から痛いほど伝わってくる。
「週末会わないから、忘れちゃった?」
「…だって、パパのこえだけど、…パパじゃない」
語尾に不安の色が混じっている。衝撃が走った。何て言葉を返せばいいか分からない。
愛花の後ろの方から妻の声が聞こえた。愛花のやり取りを聞いて心配になったのだろう。どうしたの?と愛花に聞いているようだった。
ガサガサという音がしたあと、もしもし?と声がした。
「康介さん?」
康介…。
「康介さん?よね?えっと…、どちらさま?」
「香奈江、俺だよ!」
「え、や、やだ!あなたじゃない!びっくりした~。愛花、ちゃんとパパよ?驚かせないでよ~」
横にいるであろう愛花に伝えているようだ。愛花はまだ納得していないのか、安心したような声が聞こえてこない。
「ごめんなさい。忙しいのに変な電話しちゃって」
「いや、いやいや。なんか疲れた声でも出ちゃったかな。ごめんな。愛花にも、謝っておいて」
「気にしないで、でも伝えておくね。お仕事頑張ってね」
じゃあね、と、香奈江との通話を切った。僕の両手が、恐ろしいほどに震えていた。通話中、声も震えそうなのを必死に抑えた。
康介さんと呼ばれて、はっとした。僕は佐藤康介で、康介には妻と娘がいる。なのに、家族の前で、康介に戻れなかった。いつも通りに出たはずなのに、涼二のままだった。そのことに僕自身が気づけなくて、娘が気づいた。
康介じゃないとバレてしまう。皆が、娘が求める佐藤康介が、本当は存在しないと気づかれてしまう。吐きそうだ。恐怖が鉛のように伸し掛かってきて、その場でしゃがみこんだ。
「涼二?!」
後ろから達生の声がした。僕に駆け寄ってきて、肩に手を添えた。
「どうした?」
僕のこの状態に、ただ事じゃないと思っているのだろう。優しい声で、背中をさすってくれる。僕は震える手でスマホを握りしめたまま、呼吸を何とか整えた。
「愛花が、…パパじゃないって」
「……。」
「声は、同じなのに、パパじゃないって。僕、兄さんじゃなくなってる…」
背中をさすりながら、達生は静かに聞いている。
「ぼく…、僕、帰る。ここにいたら、兄さんに戻れなくなってしまう!」
居ても立ってもいられなくなり、立ち上がろうとした僕の両肩を、達生が抑え込んできた。
力の強さに尻餅をついてしまい、何が起きたのか分からず達生の顔を見上げた。
「ここにいろ」
達生の顔は、今まで見たことないくらい真剣な表情をしていた。
「え?なんて」
「ここにいろよ」
「でも、兄さんが」
「お前は涼二だろ?佐藤涼二なんだろ?!」
「…っ、でも、兄さんの人生を!」
「じゃあなんでここに来た」
「?!」
「俺がいるここに、なんで来た。涼二に戻りたかったからじゃないのか?涼二として受け入れてくれる場所が欲しかったからじゃないのか?!」
「それは…」
達生の剣幕に圧倒されて、次の言葉を引っ込めた。何を言っても、今の達生には醜い言い訳に聞こえる。それくらい、今の僕の思いには真実が無くて、薄い。
「お前がここにいるって言ってくれれば、俺は何でもする。家族のところに行って、一緒に土下座してやる。こいつは康介じゃない。康介を演じていた涼二だ。涼二としての人生を歩ませてほしいって」
「そんな」
「卵でもなんでも、投げつけられたって構わない。お前の代わりに殴られたっていい。それでも俺は、涼二を救いたい。涼二が涼二として幸せになれるなら、ずっと傍にいたい。俺はその覚悟を持ってお前を迎え入れた。…お前はどうなんだ、涼二」
尻餅をついたままの無様な姿で、固まってしまった。娘の忘れ物を利用して達生の懐に飛び込んで、今度はお前の恋情を利用して、お前が与えてくれる居心地の良さだけを享受していたんだ。この後どうなるか、どうするかも、何も考えずに。
達生は一度部屋を出て、数分も経たないうちに戻ってきた。手に持つお盆には、用意してくれていた朝食のプレートが置かれていた。薬と水をどかして、お盆ごとサイドテーブルにそっと置くと、未だに動かないでいる僕を見下ろした。
「今のお前は中途半端だ。考えてみてくれ。それで、…教えてくれ」
よく見ると、達生の肩も、少し震えていた。
「俺は、涼二の答えを受け入れるよ」
達生はそう言って、部屋を出ていった。ドアの閉まる音が室内に響いて、気が抜けてついに床に寝転がった。
波の音が聞こえない。
神様、もう、時間なのですね……。


太陽が水平線に沈み、辺りは冷気を纏った闇に包まれた。ここにきて、最後の夜が訪れた。
階段を上ると、空は厚い雲に覆われていて、昨日見えていた星は隠れてしまっていた。それでも変わらずテラスは温かな橙の灯りに照らされ、ヤシの葉が風で擦れる音、波の音に包まれている。このペンションを初めて来たときから、お気に入りの場所だった。
折り畳み式の木製ガーデンチェアに、静かに腰を鎮めている姿が見えた。
ここにいると思った。こんな状況になっても、最後の最後まで、「海がみたい」をかなえてくれる。達生の愛が、嬉しくて、苦しい。
達生と向かい合うように、もう一脚同じ椅子が用意されていたが、僕はその後ろで立ち止まった。今の僕が向かい合って座るなんて、対等な立場でいる資格も勇気もなかった。
背を丸くして自分の膝に肘を置いていた達生は、そんな僕の様子を見て、まるで予想していたかのように、ふっと笑った。
「決まったか?」
声を出そうとして、かすれてしまった。代わりに、頷いてみせた。
緊張で喉が震えている。堪えるように、ぐっと拳を握りしめた。考えて用意した答えをきちんと言葉にできるように、要らない雑念を振り切って達生に答えた。
「僕は、……、帰るよ」
達生は黙ったまま、僕を見つめている。
分かっている。僕は裏切った。達生が向けてくれた好意も、与えてくれた熱も、一度全部受け取って、でも全部振り切って、ここを離れようとしている。
分かっていたんだ。涼二には戻れないことを。康介として築き上げてきたものがあるのだ。
その最たるものが、家族だ。佐藤康介の責任で、香奈江を妻として迎え、娘を授かった。今更、涼二になりたいから捨てるなんて、許されるわけがないのだ。
そして、改めて気づいたことがある。愛花は、僕を引き継いでいた。他者に鈍感な康介ではなく、他者に敏感な涼二を。愛花は康介の名で授かった子どもだけれど、その遺伝子は間違いなく涼二のもの。僕の子どもなのだ。親に愛されないまま生きて死んでいった涼二を、その孤独から救い出して、この世に繋いでくれる存在。
親に捨てられる悲しみや孤独を、この子にまで背負わせてはいけない。
僕はきっと、ずっと前から、涼二でも、康介でもなくなっていた。
生まれていたんだ。愛花の父親という新しい人格が。
しばらくの間にらみ合いが続いたが、達生が静かに目を閉じた。そして肩の力を抜きながら、また、ふっと笑った。
「愛花ちゃんの話を聞いてから、覚悟は決めていたんだ。お前は、ここを出ていくだろうなって」
答え合わせをするように、達生の声は穏やかだ。この場に不釣り合いなほどに穏やかで、たじろいでしまう。
「ど、して?」
「愛花ちゃんは、涼二にそっくりだ。一緒にいてよく分かった。他人への気遣いを忘れない子だった。お前が体調崩してる時ずっとお前のこと心配していたし、俺に肉を焼いてくれたのもな、俺が食べてないのに気づいたからなんだ。『おにいちゃんもいっぱいたべなきゃ』って。…、俺、愛花ちゃんが怖かった」
「こわい?」
「…最初から、涼二の子どもなんかに、勝てるわけがないのに。俺、愛花ちゃんをライバル視してたんだ。こんな良い年したおっさんがな。バカみたいだろ?」
達生はやっぱり、何もかも分かっていたんだ。分かっていて、僕が忘れ物を取りに来る機会に博打を仕掛けたのだ。ほんのわずかでも、僕がここに残る選択をする可能性に。
「達生は、頭良いな」
「はは、…無駄にな」
湿った風に煽られて、顔に髪が貼り付いてくる。達生の前髪も湿気を帯びて重く垂れさがり、達生の表情が見えない。
再び落とされた沈黙の中、達生が顔を上げた。大きく伸びをして、息を吐いた。相変わらず前髪が下がったままだが、向かい合っているのに僕の方を見ていないのは分かる。
この状況を、必死に受け入れようとしている。達生の心が幕を引こうとしている。
やっぱり嫌だ!と、子どもみたい泣き叫べたらどんなに良いだろう。今まで築き上げてきたものを一蹴して、何もかもを放り出して、目の前の胸に飛び込めたら。傍らでずっと、死ぬまで「涼二」と呼んでもらえたら。どんなに、……。
それでもきっと、ずっとちらつくのだろう。あの笑顔が。パパと呼ぶ声が。
鼻の奥がつんとする。そう思った時には、もう視界が滲んでいた。達生の輪郭がぼやける。
「僕だって、分かっていたはずなのに…それなのに、達生を、利用、して」
今更こんな悔いるような言葉を吐いてもどうしようもないのに。そんなことないよって言ってほしいのか。お前は悪くないと、この期に及んで慰めてほしいのか。それとも、達生の方から、離れたくないと泣きついてほしいのか。あまりに身勝手な感情が大きく膨らんで、消えゆくはずの涼二が暴れている。ダメだ、もうお前は終わりだと、心の中で必死に抑え込む。攻防の激しさに、胸が痛い。あまりに痛くて、その場に崩れ落ちた。
椅子のきしむ音が聞こえた。足音がこちらに近づく。ぐちゃぐちゃに濡れた顔を袖で雑に拭いて、見上げると、膝をついて向かい合う達生と目が合った。
前髪を掻き上げられて見えたその顔は晴れやかで、穏かな笑みを浮かべていた。
「でも、思い出ができた」
「…おもいで」
「お前が生きていて、俺の前に現れてくれて。思い出を貰えた。…十分だ」
金曜の夜から、今まで。たった二日程の時間。それでも、じっくり思い返せるだけの思い出ができた。優しくて、時には激しくて、そして思い起こされるどんな場面でも、達生の温かさを感じた。涼二をありのままに受け止めてくれる、達生の笑顔がそこにあった。
達生の思い出に浮かぶ僕は、どんな姿をしているだろう。お前がずっと求めてくれていた涼二が、ちゃんとそこにいただろうか。同じ時、同じ場所で、同じ想いを共有できていたのなら、こんなに嬉しいことはない。
「…最後に、抱きしめてもいいか?」
僕は頷く代わりに、上半身を浮かせた。瞬間、達生が力強く抱き寄せてくれた。
身体が軋むほどに痛い。でも、これが最後の思い出。もう二度とないこの時間と感触を、身体に刻みつけて、流れていかないように。僕も、達生の身体に手を回して、強く抱き返した。

なあ、達生。僕はここに、涼二を置いていくよ。涼二はこれからきっと永遠に、達生の腕の中で幸せに眠っていると思う。
でも、もし手放したくなったら、海に放ってくれ。そして、新しい温もりを抱いてくれ。
涼二ならきっと、それを望むから。



今から泊まれるビジネスホテルの部屋を押さえた。そこに向かうため、荷物を片づけた。といっても、数枚の衣服と、パソコン、そしてみーちゃんをリュックに詰めれば終わる程度の持ち物しかないのだけれど、いつもより丁寧に服を畳み、いつもよりそっとパソコンを入れて、みーちゃんを仕舞った。
初日に着ていた濃紺のスーツに身を包み、最後に忘れ物がないか確認をする。今度こそ、何も残さないように。
海と朝日の拝める窓、作業デスク、サイドテーブルに、ベッド。この空間には、二日といなかったとは思えないほどに、たくさんのシーンが詰まっていた。
その全部は、脳の一番奥に、深く刻みこまれている。もう大丈夫。
リュックを背負い、部屋を出て廊下を歩く。玄関には、達生が立っていた。
「忘れ物は?」
「うん、大丈夫」
「…そっか」
「あ、これ」
内ポケットから封筒を出して、達生に差し出した。宿泊費。一応単身用の料金を調べて、少し上乗せた分を入れておいた。
達生は封筒をじっと見つめ、手で軽く押し返した。
「そういうんじゃないから」
「でも、」
「いいから。それで家族と飯でも行けよ」
「…ありがとう」
内ポケットに戻しながら、達生からの「ありがとう」も、しっかり受け取った。
襟を正して、改めて達生に向かい合う。
「お世話になりました」
「気をつけて、な」
「ん。…元気で」
ありったけの優しさに溢れた達生の笑顔を最後に、玄関のドアを閉めた。
いつの間にか雨が降っていた。駐車場までの短い距離、折り畳み傘を出すのも面倒で、両腕で頭を覆いながら走って向かった。
夜の高速を飛ばし、予約したホテルのある市街地に向かう。締め切った車内に、興味もないラジオ番組を爆音で流し続けた。


こうして俺は、佐藤家の父親としての日々に戻った。
あれから、家族の中であのペンションに行こうという話は出てこない。
愛花が、「みーちゃんを忘れてしまう危ない場所」と認識してしまったらしく、妻が行こうと誘っても、首を縦に振らないそうだ。
代わりに、山や、遊園地や、初めての場所を開拓して、家族の思い出を増やしていった。あのペンションは、家族にとっての“懐かしい場所”として、少しずつ風化していくのだろう。それでいい。前を向くためには、背後の景色が色鮮やかではいけない。
平日。小学校にあがった娘と一緒に家を出た。まだ電車通学に慣れていないから、しばらくは早く起きて、学校の最寄り駅までついていくことにしている。
手を繋ぎながら、愛花はご機嫌で、音楽の授業で習った歌を鼻歌交じりに歌っている。いつかこの手を離すときが来るのだろう。自立して、姿を見せなくなるのだろう。それでも俺は死ぬまで、佐藤愛花の父親として、娘を守っていく。
今日は曇り。鈍色の空を見上げた。
吹いてきた風に混じって波の音が聞こえたのは、きっと、気のせい。




 

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