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メリバ小説部門 選考通過作品 『その咬傷は、掻き消えて。』

2025/11/07 16:00

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『その咬傷は、掻き消えて。』作:北月ゆり

 

 

あらすじ
 アルファ以上にハイスペックな完璧ベータ・千谷蒼は、高校時代からオメガである佐渡朝日に思いを寄せていた。アルファでない自分と結ばれることはない、と大学に入学してからも蒼は想いを隠し続けていたが、ある日酷い顔をした朝日がやってきた。
「噛まれ……ちゃった」「……番にされた、ってこと?」
 朝日が片想いしていたアルファの瀬良という男と一夜の関係を持ってしまった挙句、頸を噛まれてしまったという。朝日は瀬良と付き合うことになるが、数年後完全に捨てられてしまう。
 番に捨てられたオメガは、ヒートのたびに耐え難い苦しみを味わうことになる。番の契約は、片方が死ぬまで継続するからだった。日に日に衰弱する朝日を見て、蒼は決意する。──瀬良を殺そう、と。

 ※こちらの作品は性描写がございます※


「あ……うっ、ぐ。せ、瀬良く……瀬良くん……」
 
 粥を作り終えた千谷 蒼(ちたに あおい)が、冷蔵庫の中のスポーツドリンクを探していると、部屋の奥からくぐもった声が聞こえてきた。意を決して、ちらりと声のする寝室の方を見る。
 
 蒼の部屋のベッドの上、こんもりとした衣服の山に顔を埋めている彼――佐渡 朝日(さわたり あさひ)は、一人それに縋りつきながら、違う男の名前をうわごとのように呼んでいた。オメガである彼は、ヒート、すなわち発情期に苦しんでいたのだった。
 その頸に忌々しくも居座るのは──違う男がつけた咬み傷。
 
 朝日が喘ぎながら呼んだ名は、彼が想いを寄せているアルファの名前であり、その傷を残した男だった。
 
 盆の上に載ったスポーツドリンクと先程作った卵粥。それらをローテーブルに置くと、ベッドに近づいて涙で酷いことになっている朝日の顔をティッシュで拭いてやる。

 顔の下に埋めるように敷いていた衣類に涙を吸わせていたとは思えないほどに、彼の顔は水分でぐしゃぐしゃだ。
――瀬良、か。
 
「ごめんね、俺で」
 
 蒼は、拭えど止まらない朝日の頬の涙を指で掬うと、背中を優しく摩る。
 うつろな朝日の目が見ているのは目の前の蒼か、違う男か。分からないまま慰めるように、彼の湿った唇に口付けた。

 
 *

 
 二人が知り合ったのは、とある高校だった。クラスは違ったが、ある朝、たまたま校舎の隅で倒れている朝日を見つけたのが始まりだったのだ。

 ある日の朝のこと。
 蒼は校舎の隅で、苦しそうに息をぜーぜーとさせている男子生徒を見つけた。落ちていた彼のものと思われるリュックごと、そのまま保健室に運び込むと、女性の保険医が慌てて駆け寄ってきた。
 
「すみません、そこで倒れてて」
「あら大変! ベッドに寝かせるの手伝ってくれる?」

 指示されるがまま、保健室のベッドにその男子生徒を横たわらせる。保険医が「おーい」と声をかけたが、ベッドの中の彼は唸るだけで、まともな言葉を発していなかった。

「うーん、話せる状態じゃ無さそうね。あなた、悪いんだけど、この子の学生証探してくれる?」

 蒼は頷き、リュックを漁る。学生証は財布の中から容易に見つかった。『佐渡 朝日』と書かれた名前の下、バース欄には『オメガ』と刻まれていた。

「……ヒートですかね」
「だろうね、たまにあるのよ。抑制剤、飲ませてお具から」

 保健室の壁掛け時計を見上げる。既に朝のホームルームが既に始まっている時間だった。
 蒼の視線に気づいた保険医が尋ねてくる。

「あなた、所属クラスと名前は?」
「二年C組の千谷蒼です」
「ちたにくんね。オーケー、あとで担任の先生に一応言っておくわね。連れてきてくれてありがとう」

 特に他に出来ることも無さそうだったため、蒼は会釈してその場を離れたのだった。

 
 蒼が通っていた高校では、第二の性であるアルファ、ベータ、オメガ、それぞれクラスが分けられていた。

 アルファとオメガに関しては、互いに最も遠いところに教室が位置される。
 これは校内事故を防ぐという目的によるものだったが、アルファは正門から近いいわば学内の一等地、オメガは裏口近くの学校の隅に教室が置かれ、ある種学内でもカーストを決定づける要因にもなっていた。

 この第二の性、バースによって差別や待遇差をつけることを禁じる”バース差別禁止法”が施行されて、およそ二十年ほどが経つ。しかし、いまだにバースによって上下関係が決まる風潮は社会に残っていた。
 
 それなりの進学校であるためか、蒼の高校ではクラス数もアルファが三クラスで最多、ベータが二クラス、オメガが一クラスという人口分布になっていた。
 その中でベータでありながらも成績最上位層に食い込んでいた蒼は、アルファからも一目置かれている存在だった。
 
 次の日の昼休み。
 いつものように蒼は勉強をしていた。友達がいないわけではないが、何となく勉強が日課になっていたのだ。
 黙々と進めていると、クラスメイトから「千谷、呼ばれてるよ」と肩を叩かれる。
 
 扉の方に顔を向けると、ひょっこりとこちらを覗きこんでいる、さらさらした黒い頭が見えた。昨日はそもそも苦しそうだったためよく分からなかったが、下がった眉と丸めの垂れ目、いかにも気弱そうな顔だった。

 (女子からマスコット的にちやほや愛でられるタイプだろうな)というのが最初の感想だった。
 
「君、昨日の」
「は、はい! 僕、佐渡朝日と言います。あの、保健室の先生からクラスを聞いて……助けていただき、ありがとうございました! 抑制剤を飲み忘れていたみたいで……」

 アルファとオメガがそれぞれ十五パーセントずつ、ベータは残りの七十パーセントというのがこの世界における人口比。どういうわけか、どの世代でもこの割合は一定だった。
 その仕組みは解明されていないが、働き蟻の法則のようなものだろう、というのが一般的な見解だった。
 
 「抑制剤」という言葉が聞こえたのか、何人かが視線を二人に向けた。話の流れから朝日がオメガであると気づいたのだろう。
 校内でもオメガは特に珍しい存在だ。二人はクラスメイトから静かに、だが確実に好奇の視線に晒されていた。
 
「ここじゃ何だから……ちょっと来て」
 
 いたたまれなさそうにしている朝日を見て、横長の廊下の端に位置する階段の前に連れて行く。隣に連れる彼に目をやる。薄い身体だな、とぼんやり思った。
 
「俺は千谷蒼。あの後どうなったか心配だったから、佐渡くんが来てくれて良かったよ。たまたま通りかかっただけだったけど……俺がベータで良かったね」

 もし蒼がアルファだったら、あるいは別のアルファが彼を先に見つけていたら、ヒート中の彼が無事だったとは思えない。考えてみれば、あの時相当危険な状態ではあったのだ。
 
「えっと、はい。でも、千谷さん、あまりベータって感じがしなくて……なんだか落ち着いてるし、雰囲気がアルファみたい」
 
 朝日は不思議そうな顔をしてそう言った。

 アルファみたい。
 その言葉は、今までの人生で何度も言われてきていたものだった。蒼は自分が一般的に見て容姿が優れているらしいことには気づいていた。とはいえ自他の見た目に頓着は無かったが。
 また勉強もアルファと競えるほどに得意で、運動も勉強ほどではないが出来る方だ。これら様々な要因が蒼をアルファらしく見せているのだろう、と自分で結論づけていた。
 
「よく言われる。正真正銘のベータなんだけどね」
 
 実際のところバース検査で確認された性別はベータであり、これは疑いようもない事実だった。社会的にはアルファの方が有利だと分かっていたが、蒼自身自分の能力には満足していたため、自分の第二の性別にがっかりしたことなどは特に無かった。
 
「あー、……同学年だし、敬語やめない? あと千谷さんじゃなくて、蒼で良い」
「はい、じゃなくて、うん! 僕も朝日で良いよ」
 
 蒼は特に社交的なたちでは無いし、友達を多く望んでいるわけでもない。昼だってこうして一人で過ごすくらいだ。にもかかわらず、朝日との会話を続けたいと思っている。ほとんど初対面にも関わらず名前を呼ばせていることが、自分でも不思議に思った。
 
 朝日と目が合う。ふにゃりと笑った彼を見て、胸の奥が一瞬、ざわりとした。心臓を直接撫でられでもしたような初めての感覚に、なぜだか鼓動が高鳴る。
 
 その後、連絡先を交換した二人は、たまに一緒に帰るようになった。家の方向もほとんど一緒だったからだ。

 どこか儚い雰囲気を纏う朝日が無邪気に笑う顔を見るたび、胸が締め付けられる。蒼がその感情に名前をつけるまでに――これが恋と呼ばれるものだと気づくまでに、数ヶ月も掛からなかった。


***

「あおい……」
「ほんと朝日って、酒弱いね」
 
 蒼と朝日は、居酒屋の二人席で向き合っていた。

 一杯目のレモンサワーで顔が真っ赤になり、二杯目のカシスオレンジを飲み終わるかというころにはもう既に、朝日は軟体動物になっていた。タコですらもう少し真っ直ぐに静止できるだろうに、という有様だ。まだ飲み始めて一時間なんだけど、と苦笑いする。
 
 二人が出会ったのは高校二年の春。
 そして、蒼が恋心を明確に自覚したのが高校二年の秋だった。そこから月日は流れ、高校を卒業した二人は同じ大学に進学した。

 蒼は薬学部、朝日は理学部。

 恋をしてから、蒼の人生には目的ができた。
 ベータである蒼では、オメガである朝日の番にはなれない。だから、この想いを成就させることは恋心を自覚した瞬間からもう諦めていた。その代わり、彼がオメガという性のせいで辛い思いをしないように、そばにいたいと思ったのだ。
 
 蒼が薬学部を選んだのもそれが理由で、いつか彼のヒートの症状を和らげる薬を開発できたら、そう思ってのことだった。
 
「そういえば朝日、急に飲みたいだなんて珍しいね。前飲んでからそんなに時間経ってないし、俺は嬉しいけど……何かあったの?」
 
 蒼の問いに、朝日の顔がぽぽぽ、と更にもう一段階赤くなる。
 
「相談、というか」
 
 朝日は高校から大学二年の今に至るまで、何でも蒼に相談してきた。やれ友達ができないだの、バイト先で店長に怒られてもう行きたくないだの、その内容は些細なものばかりだった。
 その度に、蒼は彼を慰めては(朝日が泣きつくのは自分だけだ)という優越感に満たされていたのだった。

 しかし、今回はいつもよりももじもじとしている気がする。嫌な予感がした。
 
「何の?」
「えっと……恋愛、の」
 
 恋愛。恋愛って、あの。
 心地の良かった酔いが一気に覚める。朝日と一緒にいられることによるふわふわとした高揚感に、頭から冷水を浴びさせられたような感覚だった。内心の動揺を隠しながら、気づかれないように、深く息を吐き出す。
 
「つまり……好きな人ができたと」
 
 一瞬躊躇った朝日はこくり、と頷く。
 
「どんな人?」
「アルファの、瀬良くんって人。ピアスとかいっぱい付けてるし、今まであまり関わったことないタイプだから最初は怖かったんだけど。実験で同じ班になったんだけど、僕なんかにも優しくしてくれて……」
 
 アルファ。アルファか。
 蒼は歯噛みした。ぎりぎりと音がなったが、眼前の想い人はそんなことには一切気付いていないようだった。

 僕なんか、というのは彼の口癖だ。聞くたびに否定しているが、一向に直る兆しはなかったし、今回に至っては蒼も否定する余裕がなかった。

「気づいたら彼のことばかりで、頭がぼうっとしちゃって。恋、なのかなって。でも別に、付き合いたいとかじゃないんだ。そんな、高望みをするつもりはないし。ただ、どうすれば良いか分からないんだ」
「……そいつは恋人とかいるの?」

 その男に恋人がいればいい。出来ればその恋人は、朝日と似ても似つかない、自信満々な女であれ。そんなバカな現実逃避まがいのことを思った。
 
「わかんないけど……イケイケって感じの人だから、多分恋人もいるんじゃないかなぁ」

 朝日は長い睫毛を伏せた。同性間の恋愛はさして珍しいものでも無い。特に特殊なアルファとオメガにおいては、男女という性に縛られず行為や生殖活動が可能であるため、ベータに比べて尚更のことだった。
 
 蒼だって――朝日に想いを伝えないのは、何も男同士だからではない。ひとえに、自分の第二の性がベータであるためだった。

 蒼の初恋が朝日であったために、失恋というものを経験するのもまた初めてのことだった。目を瞑ってもよく眠れない。そんな夜を誤魔化すために、飲み会以外で飲んだことのなかった酒を、家で一人の時でも飲むようになった。

 気づけば部屋の中にアルコールの缶が散乱していた。酷い有様だ。ゴミの日はいつだっけ、と回らない頭で考え、あぁ木曜か、と思い至ったあと、片付けもせず床に倒れ込む。そうするといつの間にか朝になっているのだ。

 真面目な自らの性質からか、眠りの浅さが原因で授業を欠席するようなことはなかった。特に薬学部生は一つ一つの授業が重い。一度休むだけで、いくら優秀な蒼といえど、追いつくのは面倒なことなのだ。
 
 今日もカーテンの隙間から漏れ出る光で目が覚める。この陽の光のように、朝日も自分の胸に降りてくればいいのに。なんて、くだらないことを毎日願いながら、浴室で冷たいシャワーを頭から被るのだ。

 朝日の恋愛相談からちょうど一週間後の土曜日。
 蒼は所属していたテニスサークルの飲み会で、酒を飲みまくっていた。
 その二次会で蒼は初めて、飲み過ぎが原因で、居酒屋のトイレに嘔吐した。今まで若干馬鹿にしていた愚かな大学生のような自分の行いに我ながら呆れる。しかし際限なく酒を入れることくらいしか、胸の痛みを紛らわせる方法を知らなかった。

 基本的に穏やかで冷静な蒼が、いつになく荒れた酒の飲み方をしている。その姿が他のメンバーに珍しがられ、おおいに囃し立てられるのも必然であった。

 これがチャンスとばかりに、普段は誰とも一定の距離を置く蒼の周りに、女が集まって来る。さながら砂糖に群がる蟻、あるいは死体に群がる蠅のようだ。死体に群がる蠅、言い得て妙かもしれない。失恋は死とそう変わらないだろうから。詩に詳しくもないくせに、酔った頭で自嘲する。
 
 蒼のぼやけた視界の中で、いつの間にか横にぴったりとくっついてきた女が何か、しきりに話しかけていることに気づく。

「ねぇ、千谷くん……蒼くんって呼んでいい? あたし、理学部の加藤美央(かとう みおう)。あんまり話したことなかったよね」

 蒼は「うん」とも「あー」ともつかないようなおざなりな返事をひたすら返すが、彼女はめげなかった。心なしか、密着面積が広がっている気がする。彼女は蒼の腕を取り、自分の胸に抱えるように押し付けていた。短絡的なセックスアピールだが、蒼は一ミリたりとも興味が湧かなかった。当然だ。だってくっついて来ているのは、朝日じゃない。

「蒼くんは付き合ってる人とかいるの?」
「いない」
「じゃあ……好きな人は?」
「いる」

 美央や周りの人間が息を呑むのが聞こえた。次の瞬間からざわざわと声が波になって広がる。
 余計なことを言ったかもしれないと気づいたが、まぁ、どうでもいい。好きな人か。生まれてこの方、好きになったのは朝日だけだ。

「えっ、誰、誰?!」
「高校の同級生」

 質問攻めになりそうな雰囲気を察して、適当な言葉で濁す。嘘ではない。朝日は高校の同級生であり、大学の友達でもある。それからも相手はどんな人か、なんて質問が雨のように降って来たが、蒼は一切答えなかった。

 予想外なことに、好きな人がいると言ってもなお、美央はひっつくのを辞めなかった。それどころか、周りを巻き込んで強引に連絡先を交換してきた。良い加減鬱陶しい。いくらどうでも良い相手とはいえ、限度というものがある。

「ねぇ、蒼くんは運命の番とかって信じるタイプ? 好きな人もやっぱオメガだったりするの?」
「あのさ。勘違いしてたら悪いんだけど。俺ベータだよ」

 面倒だったので『ベータ』と刻まれている大学の学生証を見せてやる。美央はおそらく、蒼をアルファだと勘違いしているのだと察したからだった。将来有望なハイスペックアルファが狙われるのは、よくあることである。まぁ蒼は残念ながら、ベータなのだが。
 
 何かあった時のため、学生は小学生から大学院生まで、身分証に第二の性が記されるのだ。これを偽造するのは犯罪になる。よって学生証はほぼ完璧な証拠となるのだった。
 
 沈黙した彼女を放って、グラスを一気に開ける。もう美央が話しかけてくることはなかった。そうこうしているうちに、時刻は二十一時半を過ぎ、二次会の会計が始まる。明らかにいつもよりもペースが早く、受け答えがおかしい蒼を面白がる周囲は、勿論彼を離そうとはしなかった。
 
「おい千谷。三次会行こうぜ」
「あぁ……行こうかな」
 
 普段は二次会すら行かないことの方が多い蒼だが、今日は悪酔いしていた。同期の誘いもいつもは億劫がって断っていたが、たまには良いかと思った。日付が変わっても営業している近くの居酒屋に、十人程度で向かった。
 
 そこでも馬鹿みたいに酒を飲んでいた蒼は、喧騒と酩酊の中、着信に気づかなかった。腕時計の針は二十三時半過ぎを指している。そろそろ終電を調べようと自分もスマートフォンを見た蒼は、ようやく朝日からの着信に気づく。
 
「ちょっとごめん、電話」
 
 財布を置いた蒼は店の外に出て朝日にかけ直すが、出ない。自動でコールが切れてもなお、二、三度掛け直したが、これ以上掛け直すのも気持ちが悪いかもしれない。なんせただの友人だ。そう自嘲した蒼は『どうした?』とメッセージだけ入れて、店内に戻る。
 
 幸か不幸か、着信のせいで酔いが覚めた。自分の分の会計を支払った蒼は、二次会終わりよりもしっかりとした足取りで帰路に着く。シャワーを浴び、そのまま眠りについた。
 その次の日は日曜だったが、月曜提出の課題が残っていた。昼過ぎに起きて課題をこなす。そうして週末が終わった。
 昨日の着信について、朝日からは『間違えただけ、なんでもない』と返信が来ていた。そんなものかと思った蒼は、一限から入っている月曜を迎える。

 大学生活三年目であっても多忙な薬学部に、自分で選んだとはいえど少しうんざりする。
 朝日を楽にする薬を作るという将来の夢は揺らいでこそいなかったが、酷く滑稽だとも思う。告白するつもりもなかった想い人に想い人が出来た。それだけの話だが、思いの外ダメージは大きい。
 
 昼休み、学内のコンビニエンスストアに寄ろうと歩いていると、朝日とすれ違う。
 彼は一週間前のきらきらした顔とは違い――明らかにやつれていた。

「朝日!」
 
 思わず声をかけると、彼はゆっくりと振り向いた。その目の下には酷い隈ができており、普段の可愛らしい垂れ目を陰鬱な雰囲気にしていた。

 瞼はほんのりピンクに腫れている。一目で泣いたのだと分かる顔だった。朝日の腕を引き、人気のない端の方に連れて行く。
 
「その顔、何があった。もしかしなくても、電話の日?」
「何でも……」
「何でもないわけ、ないだろ」
 
 蒼は譲らない。見るからに様子のおかしい彼を放っておくことなどできるわけがない。目線の合わない朝日は、ぼそりとつぶやく。
 
「……ちゃった」
「何?」
 
 聞き取れず、眉をひそめた蒼は聞き返す。朝日は伏せていた顔を上げ、今にも消えてしまいそうな、下手くそで引き攣った笑顔で、笑う。
 
「噛まれ、ちゃった」
 
 頸、と続く声に、頭が真っ白になる。だって朝日は、オメガなのだ。頸を噛む、それが指すものは、たった一つ。
 
「……番にされた、ってこと?」
 
 彼は静かに頷くと、後ろを向いて頸の傷を見せた。アルファに頸を噛まれたオメガは、そのアルファの番となる。アルファは何人でも番を持つことができるが、オメガはどちらかが死ぬまで一生、その番に縛られる。だから本来は、お互いの同意のもと、結婚よりも深い覚悟で成されるものなのだ。
 
「誰に」
 
 知りたいけど、知りたくない。それでも聞かずにはいられなかった。
 
「瀬良くん。前……相談した人」

 目の前が暗くなる。頭が白くなったり、視界が暗くなったり。忙しないな、なんて現実逃避をしたくなるが、目の前の朝日はまた口を開いた。

「あの日……電話した日。瀬良くんの家で飲むことになって、段々良い雰囲気になって。僕も嬉しかったから、嫌って言えなくて、それで、頸を……」
 
 蒼は顔を顰める。頭の中なのか視界なのか、もうよく分からないが、とにかく世界が一気に赤く染まる。どうしようもない激情を抑えられず、今までにないほど声を荒げた。
 
「この、馬鹿! 意味分かってて……意味が分かってて、そんなこと」
 
 怒気を孕んだその問いには答えず、朝日は力なく笑う。こんな笑い方をする朝日を、蒼は知らなかった。
 
「でも彼、何も覚えてなかったみたい。それで今、気まずくなっちゃってる」

 最悪だ。瀬良という男は、最低の行為をしておいて、最低限の責任も取っていない。深く、深く息を吐く。

「朝日。今日バイトは?」
「ない……」
「そう、俺もない。丁度良い。五限終わったら、その男の家に行くから」

 そう一方的に決めた蒼はそう言って彼の前から去ると、学部棟のラウンジで、先程コンビニで買った鮭むすびを無理やり胃に流し込む。もちろん味なんて分かるわけがない。脳を焦がしそうなほどの怒りで余計に胃がむかむかと気持ち悪くなる。いっそ吐いた方が楽かもしれないとすら思ったが、原因は胃の中ではないのだから、何とかやり過ごした。講義に集中できるはずもなく、三限から五限までの内容は全く覚えていなかった。
 
 そして五限が終わり、朝日と合流した蒼は、まず瀬良に電話を掛けさせる。しかし四回かけても繋がらなかったため、当初の予定通り、瀬良の家に突撃しに行くことにした。
 そのアパートは大学から歩いて十五分ほどの場所にあった。チャイムを押すが、気配は無い。蒼は隠そうともせず、大きく舌打ちをした。
 
「バイトかも。平日は居酒屋バイトしてるって前言ってた」
 
 朝日の言う通りなら、まだしばらく帰ってこないだろう。近くのコンビニエンスストアに行き、夕飯代わりの飲み物とパンを買う。そしてまたアパートに戻って、待ち伏せを続けた。
 
「なんか……刑事さんの張り込みみたいだね」
 
 平和ボケした発言をする朝日が、無理しているのは明白だった。落ち着かないのだろう。背中でもさすってやりたいと思い、ふと自分の手を見ると、手のひらには血が滲んでいる。強く拳を握り過ぎていたのだ。痛みを感じている余裕もなかったため、気づかなかった。
 仕方なく先程コンビニで貰った手拭きで血をを拭う。蒼の行動に気づいた朝日は申し訳なさそうに眉を下げる。
 
「ごめんね……こんなことに、巻き込んで」
「正直、朝日にも、その男にも。怒ってるし許せないと思ってるよ。だけど……この状況を知らなかったらと思うと、そっちの方が怖い」
 
 無理に取り繕う自分が気持ち悪い。自分の口から発された言葉が本音かそうで無いのか、蒼自身にもわからなかった。蒼を見つめる朝日の瞳が涙で盛り上がる。溢れる、と思った瞬間にはもうその雫が頬を伝っていた。ほろほろと静かに泣く朝日を抱きしめる。胸の中にいる朝日の頸の傷が見えた。蒼は目を瞑り、低い声で問う。
 
「朝日は、どうしたい」
「わ、分からない……けど。蒼まで巻き込んじゃったんだ……告白、する」
 
 やや小柄で華奢な彼は、哀れなくらいに震えていた。
 頸さえ噛まれていなければ、蒼だって応援するふりなんか辞めて、どうにか朝日を言いくるめてその男と縁を切らせていただろう。しかし一度番になれば、どちらかが死ぬまで解消されない。一生のものなのだ。こんなところでそれを使うなんて。ぎりぎりと内臓が嫌に軋む。
 
 しかし、その瀬良という男と関係を切らせてしまえば、その後の人生で辛い思いをするのは朝日だ。アルファの瀬良ではなく、オメガの朝日だけなのだ。今できることはその男をとっ捕まえることだけ。この第二の性とやらは、つくづく忌まわしい。せめて自分がアルファであれば、あるいは朝日がベータであったならば。
 
 これまでアルファだのベータだのの社会的地位にはとんと興味が無かった。だけど、朝日がオメガであるというその事実だけが、蒼のベータという性をこれ以上なく苦しめる。恨めしいどころの話では無い、この世界全てが憎かった。

 しばらくして朝日が一通り泣き止むと、腕の中から解放してやる。このままでは朝日の肋骨を折りかね無かった。それに、瀬良を待つにあたって、彼に二人が抱き合っている姿を見せるわけにはいかない。

 瀬良は二十三時過ぎに帰ってきた。暗闇の中、アパートの影から出てきた二人にぎょっとする。
 
「佐渡……」
 
 彼は朝日を「佐渡」と呼んだ。苗字で呼ぶ程度の間柄でよくも頸を噛んでくれたな。掴み掛かりたいのを必死で我慢する。
 ぎゅっと拳を握った朝日は、瀬良の前に出た。アパートの入り口の蛍光灯が、朝日の顔を白く照らす。その姿は本当に、この世から消えてしまいそうな儚いものだった。
 
「昨日、何も覚えてないって、言ってたけど。でも、僕は、瀬良くんが好きだよ。付き合ってください」
「昨日は、ごめん。少し思い出してきた。俺、頸を……そうだろ?」
 
 こくり、と静かに朝日は頷いた。瀬良は朝日の背後にいる蒼と目が合う。蒼は刺すような視線で睨みつけていた。付き添いまでいて、逃げられないと察したのだろう。視線を朝日に戻した瀬良は、躊躇いを殺すように息を吐いて、そして言った。
 
「うん――付き合おうか」
 
 その後、瀬良は「ちゃんと話したい」と言って、朝日を部屋に連れて行った。話し合いは大事なことだ。それに、蒼にはそれを引き留める理由も権利も無い。

 それでも、部屋に入った二人がどうなるのかと考えると、最悪な気分でしかなかった。数刻前に張り込み用のパンを買ったコンビニで、度数のなるべく高い缶の酒を買って、それを飲みながら歩く。どうやって帰宅したのかは覚えていなかった。


***

 次に会ったとき、朝日の顔は随分と良くなっていた。

 学校でたまに会うと、横に瀬良を連れて幸せそうな顔をしていることもある。蒼と飲みに行くことはめったに無くなったが、仕方がないことだと分かっていたし、惚気話を聞かされるのも嫌だった。
 蒼は仕方なく、ますます学業にのめり込んでいった。

 一般的にオメガのヒートの周期は三ヶ月に一度である。現代では製薬技術の進歩により、抑制剤さえ飲んでいればオメガのフェロモンは他の性にそこまで効かない。

 とはいえ高校時代から朝日のことを好いている蒼はそのフェロモンに当てられることがよくあった。表情にはおくびにも出さないが、何もしなくても愛らしい、好きな相手に欲を呼び起こされるのは辛いものだ。高校時代も、横で無邪気に笑う朝日の首に跡をつけたい衝動を堪えるのに苦労していたものだ。
 
 兎に角、そのせいで蒼は朝日のヒート周期をほぼほぼ把握していた。朝日のヒート周期は比較的安定しているため、「あぁ今ヒートの時期だな」と蒼が気づくたび、瀬良に慰められている朝日の痴態が否応なく想像される。あの可愛らしい声で、可愛らしい顔で、縋り付くのだろう。妄想の朝日を使って自らを慰めるのは今に始まったことではなかったが、「疼くんだ、助けて」なんて涙を流して体を寄せる朝日を想像するだけで、これ以上ないほどに死にたくなる。
 
 それでも、あんなに辛そうにしていた朝日の症状が番を得て楽になるのなら。そう必死に自分を納得させようとする日々だった。

 
 正直、瀬良が別の女とも親しげにしているのには蒼も気づいていた。偶然見てしまったのだ。理学部棟からは離れている薬学部棟の、すぐ近くの木々の裏。男と女が抱き合って深いキスをしていた。何というか、今にも始まってしまいそうな雰囲気だった。

 瀬良を探していたわけでは全くなかったのだが、(馬鹿な大学生の典型だな)と思って何となく顔を見たら、男の方が瀬良だったのだ。発見したその瞬間は、もう怒りを通り越して呆れていた。
 しかも驚くことに相手の女は、飲み会の日に蒼にべたべた付き纏って来た加藤美央だった。最近サークルで見かけないと思っていたら、こんなところでくだらない男に引っ掛かっていたのか。

 明らかに二股現場であるし、何なら他にも浮気相手が瀬良にはいるのかもしれない。蒼が乗り込みに行くか迷っているうちに、二人はその場を離れてしまった。

 これを知ったら朝日は悲しむはずだ。

 しかし考えてみれば朝日は、たとえこの裏切りを知ってももう、番である限り逃げられないのだ。それならば知らない方が良いのではないか。それに、瀬良も番を作り交際を決めた以上、他の女とはあくまで一時の遊びだろう。

 それも蒼からしたら理解はできなかったが、とりあえず朝日に相談されるまでは沈黙を選ぶことにした。

 蒼は苛立ちと苦しみから束の間だろうと逃れるために、彼女を作ってみたこともあった。告白してきたのは、同じ薬学部で、実際のグループが一緒だった、ベータの女。

 そもそもどの女だろうと蒼は興味がなかったが、どうせ朝日とは付き合えないし、何より彼は瀬良と付き合い始めてしまった。朝日以外を恋愛対象や性的対象として見ることが出来るのか蒼には分からなかったが、断る理由も特に無かったため、とりあえず試してみたのだった。

 蒼はそこそこ器用な男だ。一通りのデートやら行為やらをつつがなく行うこと自体はできた。
 
 ただデート先で「これ朝日が好きそうな味だな」「朝日と行きたいな」など考えていたり、行為中に名前こそ呼ばなかったものの相手を朝日に見立てて抱いたりしていたことが、見透かされてしまったのかもしれない。

 半年経つかというところで、「私のこと好きじゃないよね」と振られたのだった。その通りでしかない。彼女のことは正直言って好きでも何でもなかった。

 勿論自分の元彼女への行いが相当に失礼だったことも理解していた。無理なんてするもんじゃないな、というのがその交際から学んだ教訓だった。


 ***


 朝日が四年で卒業した後も、蒼は六年制の薬学部で順当に進級して行く。社会人となった朝日と、五年生になった蒼では飲みに行く頻度は減っていった。しかし、最後に飲んでから三ヶ月がたったある日の夜、蒼は彼に呼び出される。一杯目は二人とも生ビールを頼んだ。
 
「朝日、ビール飲めるようになってたんだ。知らなかった」
「あぁ……会社でほら、一杯目は生ビールって風潮があるじゃない。最初は不味いなーって思ってたけど、慣れてきたんだ」
 
 そう返す声には若干の疲弊が滲んでいた。彼はまたいつかほどではないにせよ、酷い顔だった。仕事が相当に大変なのか。あるいは、まさか、番の瀬良と別れでもしたのだろうか。
 
 もしそうなら、オメガの朝日はどうなるのだろう。
 卓に届いたビールでとりあえず乾杯をし、蒼は切り込んだ。
 
「顔、すごいよ。どうしたの」
 
 少しの沈黙のあと、意を決したように朝日は顔を上げた。
 
「……わ、別れたんだ。瀬良くんと」

 予想は当たっていた。しかし、付き合って二年くらい経つだろうに、まだあいつを苗字で呼んでいたのか。呼び名から二人の距離感に違和感を覚える。
 
「今までずっと、あいつのこと苗字で呼んでたの?」
「うん。下の名前呼ぶと、怒られるんだ。僕のことも、ずっと苗字で呼んでいたし」
 
 それが瀬良が朝日に引いた境界線だったのだろう。これ以上は立ち入らせないし、立ち入りたくないと。
 番と言っても、あくまで気まずさや義理に快楽を上乗せしただけの関係だったのだ。それなら、ただ情欲に浮かされて番にしたというのか。
 その程度の気持ちで、よりによって頸を噛むだなんて。
 
「瀬良くんは、別に元々僕のこと好きじゃなかったんだ。そんなの分かってたし、それで良いって言った。だけど二週間前、『別れよう』って連絡が来て……連絡取れなくて。それきり」
「あの――屑! 番を、捨てたってことかよ」
 
 普段は落ち着いている蒼の口調が荒くなる。決して消えることのなかった怒りが、また轟々と音を立てて燃え始めた。

 番に見捨てられた朝日はどうなるのだろう。一度番を得たオメガの情動は、番以外のアルファをもってしても宥めることは出来ない。瀬良のあまりに不誠実な対応に反吐が出る。
 現状、番を捨てたアルファを罰することのできる法律は無い。差別が無いなどと言いながら、つくづく腐った世の中だと思う。
 
「元々彼と付き合う条件は、他の人と遊んでも怒らないこと、って。でもそれで良かった。人気者の彼と釣り合うわけがないって思ってたし、それに……あの時は、頸を噛まれたのに付き合えない方が怖かったから」
 
 瀬良を待ち伏せたあの日、二人で部屋に入って行った後にそのような会話をしていたのか。
 
「だから、浮気は仕方ないってずっと我慢してた。彼、あれでもたまに優しかったから……ヒートの時期だけは優先的に会ってくれたし」
 
 ヒートの時期だけ番を構う。そんなものが優しさなわけがない。「優先的」という言葉もまた酷いものだった。
 だけど、朝日は形だけ付き合った当初から瀬良にそのような扱いをされたせいか、おそらく何が異常かにも認識していない。瀬良の浮気にも気づいていながら黙っていたのか。
 
「どうする。どうしたい。どうにかしてまたアイツを……引っ張り出す?」
 
 朝日が頸を噛まれた当時のことを思い返す。しかし、朝日は項垂れるように、ふるふると首を横に振る。
 
「ううん、もう無理なんだ、どうにもならない。随分前から、そんな雰囲気だったし。それに、Y製薬の新薬。結構僕にあってるみたいで……ここ最近はそれで何とかなってるから」
 
 Y製薬は有名な外資系製薬会社だ。そして今のところ、蒼の第一志望の企業でもある。その会社は約一年前、従来より効果の高いヒートへの抑制剤の発売を新たに始めていた。
 
「……とにかく、俺に出来ることがあれば言ってよ」
「うん、蒼に聞いてもらって、しかも代わりに怒ってもらえたおかげで少し、楽になったかも」
 
 朝日は控えめに笑う。口を開くたびにちびちびとビールを流し込んでいたために、残りはジョッキの三分の一ほどになっていた。彼は一気にそのまま飲み干すと「すみません」と店員を呼び、二杯目にピーチウーロンを追加で注文したのだった。

 こんな時ではあるが、注文する酒の種類も可愛いんだよな、と思う。ビールは飲めるようになっただけで、まだ美味しいとまでは思わないのだろう。朝日の顔は店に着いた直後よりも、だいぶ強張りが解けていた。蒼は息を吐くと、卓に来ていた店員に「生ビールももう一杯お願いします」と付け加えた。
 
 蒼と話して張り詰めていた糸が切れたのか、そこから朝日の酔い方はいつにもまして酷かった。カルーアミルク、ファジーネーブル、ミモザ。飲みやすいカクテル系の酒をぐびぐびと次々に飲み干す。

 そんな朝日を見かね、チェイサーに水を注文したが、彼はなかなか手をつけようとしなかった。そうして完全に出来上がった朝日は店を出ても、まっすぐ歩けず、ふらふらしては壁に手を付くことの繰り返しだった。

 居酒屋は蒼の家の近くだったが、失敗したなと思う。

 この状態の朝日が無事に家に帰れるとは思えない。タクシーに放り込むことも考えたが、下手をすると車を降りたその場で寝落ちかねない。
 幸か不幸か、朝日が次の日は休みであることは、酒を入れる前に確認済みだった。仕方なく歩いて十分ほどの蒼の家に連れて帰ることにした。
 
(仕方ない、か)
 
 まともに歩けていない朝日を肩に担ぎながら、彼のペースに合わせて酔いの回った頭で蒼は考えた。自分は単に彼の身を心配しているのか、それとも薄汚い下心があるだけなのか。自分でさえも分からなかった。
 
 意識がほとんど飛んでいる人間を運ぶのは、高身長の蒼といえど案外大変なものだ。朝日は小柄で軽い方だったが面倒なことに、意思のない体重の手放し方をしていた。とりあえず自分のアパートの二階まで階段を登り、鍵を開ける。
 
 朝日の大学在学中、彼をこの部屋に入れたことは何度もあった。しかし、彼が瀬良と付き合うようになってからは一度も入れていなかった。それはある種、蒼の防衛本能だった。
 
(まさかまた、部屋にあげることになるとは)
 
 今自分に寄りかかってきているのは、つい先日恋人と別れたばかりの長年の想い人。ただでさえ愛くるしいのに、現在はべろべろに酔っ払っている。アルコールを摂取するとふにゃふにゃするのはいつものことだが、彼氏と別れたとなっては話も変わってくるだろう。
 
 ベッドの上に、ゆっくりと横たわらせる。まるで手荒く触れたら壊れてしまう、宝物のように。

 彼の体から手を離した瞬間、華奢な手が伸びてきて蒼を引っ張り込んだ。そもそも非力な朝日だ。決して抵抗できないような力ではなかったが、どうすれば良いのか蒼はとっさにわからず、そのまま共にベッドに沈んだ。
 
「瀬良くん……」
 
 心臓がまた、ぎしりと嫌な音を立てた。これ、もしかしなくてもベットに引きずり込んだ相手を瀬良だと勘違いしているのか。
 
 違う。瀬良じゃない。
 そう言いたかったが、もし言ってしまえば、こうして同じ布団に倒れ込む理由も無くなってしまう。どうしたものかと考え、とりあえずこの酔っ払いの頭を、撫でてやることにした。

 きっと朝日は寂しいのだ。誰にでも良いから縋りつきたいのだろう。その中で自分に頼ってくれたのであれば、まぁ、悪くはない気もしてきた。潤んだ瞳の朝日と目が合う。心なしか、良い匂いまでさせている気がする。

 吸い寄せられるような熱を帯びた視線と彼から漂う甘い匂いに、くらくらしそうだった。――匂い?
 
 すん、と鼻を鳴らしながらその匂いを嗅ぐ。この匂いを蒼は知っている。オメガのフェロモンだ。だけど、朝日のヒート周期はあと一カ月は先のはず。番に拒絶されたことでホルモンバランスが崩れ、周期が乱れているのだろうか。番の影響でヒートの周期がずれるというのは、たまに聞く話である。

 そこまで思考を巡らせてから、朝日のヒートの周期をいまだに覚えている自分も気持ち悪いなと思う。
 
 ため息をひとつ吐いて、朝日の首筋に鼻を寄せると、彼は甘えるような声を出した。
 
「ん……」
 
 匂いが段々と濃くなってくる。それに伴って朝日はもぞもぞと落ち着かないように――あるいは発情しているかのように、体を捩らせ始めた。
 
(嘘だろ?)
 
 このままでは不味い。本能的に察した蒼は、身体を無理やり朝日から離すため、自らベッドから転げ落ちた。大して高い位置からでは無かったので少し身体を打ちつけただけで済んだとはいえ、それなりに痛かった。その時の痛みのおかげでなんとか正気を保ち、朝日から距離を取る。
 
 急いでキッチン側に向かうと、匂いから遠ざかったことで少し思考がはっきりとしてきたのを感じる。

 こういうときどうすれば良いのか分からないが、もしヒートが先行しているなら、アルコールが回った状態は望ましくないだろう。朝日のキャパシティから言えば、先程は酒を浴びるほど飲んだのと同義だった。

 とりあえず水、いやスポーツドリンクの方が良いか。確か冷蔵庫に常備していたはずだ。そう考えた蒼はゆっくりと立ち上がった。

 ついでに粥でも作ってあげれば落ち着くのではないかと思いつき、冷蔵庫から昨日炊いた米と卵を取り出す。ごそごそと寝室から変な音がしている気がしたが、今はまだ、朝日の顔を見るだけでおかしくなってしまう気がしたため、確認はしないことにした。
 
 きっと今少しでも気を抜けば、朝日のフェロモンにやられてしまうだろう。そうなれば、自分がどんな碌でもないことを仕出かすか分からない。
 
 とりあえず粥を作ってから考えよう、とコトコト調理を始めた。鍋から漂うほんのりと甘い匂いで、先程嗅いだフェロモンを誤魔化してみる。無心で鍋をかき混ぜ、粥が出来上がった。

「あ……うっ、ぐ。せ、瀬良く……瀬良くん……」

 そして聞こえてきたのが、この声だ。
 
 粥とスポーツドリンクを手に戻ってきたら、ベッドの上にどこから見つけたのか蒼の衣類を散らかし、顔を埋めている朝日がいた。
 
 自らを捨てた別の男の名を呼び、蒼のベッドで、蒼の服で巣を作る。蒼の恋心を知らないとはいえ、酷いことするなと思う。
 
 もう、手を出して良いのではないか。蒼は開き直った。せっかく作った盆の上の卵粥はまぁ、また温め直せばいい。
 
 「ごめんね、俺で」

 憐憫と自嘲と、少しの復讐心。
 そう言って涙を拭ってやりながら、ふやけた朝日の唇に何度も口づける。

 朝日が自分越しに見ているのは瀬良なのかもしれない。「かもしれない」というか、おそらくそうだ。どんなに状況を肯定的に見ようが、「瀬良くん」と声に出していた時点でその結論に至るしかない。
 たとえ瀬良に見立てられているのであっても、それでも良かった。

 クローゼットだか箪笥だかから自分の服を引っ張り出して擬似的な巣を作っている朝日は、どうしようもなく蒼の欲を揺さぶった。
 朝日を好きになってから、何度この光景を夢想したことだろうか。蒼のベッドが音を立てて軋む。
 
 ちゅ、ちゅ、と連続して吸っていた口を離すと、朝日は自分の唇をぺろりと舐める。あまりに扇状的な舌の色に、身体が疼いた。そのまま朝日は、強請るように蒼に両手を伸ばす。
 
「もっと……」
 
 蒼の喉がごくり、と鳴る。きっと朝日にも聞こえていただろう。
 朝日の瞳から溢れる涙は、蛍光灯を受けてきらきら光っていた。蒼は伸びてきた朝日の両手を左手で掴み、彼の頭上で固めた。そしてそのまま右手をほんのり赤く染まった頬に添え、噛み付くように乱暴に、また口付けた。
 
「ん……あ、んっ……んん」
「……はっ」
 
 朝日の口内を犯すように、蒼の舌が好きに這い回る。妄想の中ではもっと丹念に、朝日の善いところだけ探っていたものだが、現実はただ感情が先走ってしまうことを知った。このまま息ができず、唾液で溺れて仕舞えば良い。そう思うくらい、互いの唾液を飲み込むごとに、どうにもならないほどの興奮が頭を支配していた。

 ベータの蒼ですらこれなのだ。アルファの瀬良には、もっと強烈な、本能的な刺激を呼び起こしたに違いない。
 大して相手を知らないのに頸を噛むなんて、とずっと憤っていたが、この昂りには誰だって到底抗えやしないとも思う。瀬良が噛んだあともヒート中は何だかんだ朝日を相手にしたのも、このフェロモンの虜になったからだと言われれば納得だ。
 そうだとしても許すつもりは全くないが、蒼もまたオメガのフェロモンの苛烈さをこれでもかと味わっていた。

 息継ぎの隙間に溢れる荒い息は、一体どちらのものなのだろう。両手を拘束されている朝日は、唯一自由なその脚をのしかかる蒼の身体に巻きつけた。そして、蒼の硬くなったそれに、媚びるように自らの腰をすりすりと擦り付けた。

(こんなやり方、どこで覚えたんだよ)

 十中八九、瀬良相手の時だろうなと思うと、脳も身体も苛立った。

 衣服越しに擦れ合う互いのそれに、さらに二人の息が荒くなる。自分に当たる朝日のそれの硬さに、蒼も察した。朝日も同じように、興奮しているのだ。

 その事実で蒼の迷いは完全に消え去った。素早く自分の服を脱ぎ捨て、口付けを続けたまま蒼の服も全て剥いでやる。
 
「おね、がい。いれて……っ」
 
 はやく。聞いたこともない、だけど何度も妄想した、朝日の甘い声。瀬良はこの声を何度聞いたのだろう。そんなことを考えると気を違えそうだった。

 正直、もう蒼の頭には抱かないという選択肢は無い。ただ、流石にそのままいただくのは些か問題がある。お腹でも壊したら可哀想だ。
 確かベッドサイドかどこかに、一瞬付き合った、例の元彼女との使いかけではあるが、スキンが入れたままだったような気がする。
 手探りでベッドサイドの小棚を引くと、案の定その箱が見つかった。中から一袋取り出し、自らに装着する。
 
「……持って、たんだ」
 
 しかも、使いかけ。朝日がぽつりと呟くように言った。

 (なんだ、その言い方)

 まるで、誰と使ったのか気になっているとか、嫉妬しているかのようではないか。
 
「……そうだけど? その様子だと朝日、今から誰に抱かれるのかちゃんと分かってるんだ?」
 
 てっきり瀬良だと勘違いされているか、瀬良に見立てられているのかと思っていた。しかし、相手が蒼だと分かっていて誘ってきていたのか。

 暗い悦びと支配欲が蒼の心を占める。挑発的に口角を上げ、柔らかい髪質の朝日の頭を優しく撫でてやる。
 
「悪いね、瀬良じゃなくて。だけど多分、あいつより優しくしてあげられる」
 
 朝日、と。名前を呼び、顔を近づけると、彼は従順に瞼を閉じる。

 こうして朝日の作った巣の上にて、蒼にとっては夢のような――あるいは悪夢のような、そんな夜が幕を開けた。

 荒々しく唇に噛みつき、そのまま朝日の服を剥ぎ取る。そして自分の服も適当に脱ぎ捨て、汗ばんだ彼の肌に吸い付いた。

「んっ……うぁ!」

 長い指で胸の先端を摘んでやれば、朝日は面白いくらいに身体を震わせた。引き寄せるように、朝日は両脚を蒼の腰に巻きつけた。互いの興奮し切った昂ぶりが強く擦り合わせられる。

 我慢などできるはずがない。一刻も早く己のものを朝日の中にいれてしまいたかった。朝日の身体を撫で回していた手のその長い指を、一本入れる。
 ヒートのせいか、朝日の後孔はもう既にほとんど用意が出来ていた。つぷり、と二本目も易々と入ってしまう。

「本当にっ、だいじょぶ、だから! はやく!」

 そう叫んだ朝日の瞳から零れ落ちた雫を舐めとる。そのまま蒼はゆっくりと、薄い膜が覆った自らのそれで想い人を貫いた。

 朝日の中は、待ち侘びていたその異物を締め付ける。ぴくりぴくりと動く腹を押さえるように、蒼は体重を掛けて動いた。

「は、あぁっ! だめ、あっ!」
「はっ……」

 ずっとこうなることを夢想していたのだ。腰が止まるはずもない。荒い息を吐いて、蒼は朝日を貪った。

「いやっ! も、むり!」

 嫌だというその顔は蕩けきっていた。蒼は思わず笑う。そんな表情を見たら、虐めたくなってしまうでははないか。
 
「は、朝日……ふふ、嫌なの?」
「んっ、い……」
「動くの、辞めようか?」
「いっ、いやじゃ、ない! やめ、ないっ、で!」

 必死に首を横に振る朝日が可愛くて、ますます律動が速まる。

 先程弄ってやった胸の飾りに吸い付き、同時に昂ったままの前も触ってやれば、朝日は啼くことしかできない。
 やりすぎたかと思って頭上の顔を覗き込めば、もう朝日の目の焦点は合っていなかった。

「あっ……ふ、ぁ! だ、め!」
「ねぇ朝日、ちゃんと今、誰に抱かれてるか分かってる?」
「ん、はっ……あぁ」
「ねぇ、答えて」

 顎をもちあげて掴んでやっと、瞳が合った。

「わかっ……あお、い! あおいっ!」
「そうだよ、朝日」

 よく出来ましたとばかりに、優しく唇を食んでやる。

「も、あ、あおい! はぁ、い、いっちゃ……!」
「……ふ、いいよ」

 互いの荒い息づかいと、肌が打ち付けられる音が部屋に響く。欲望のままに蒼が腰の動きを早めると、また朝日の瞳の焦点が失われていった。

「いっ、いく! あ、ああ!」
「はっ……好きだよ、朝日」

 大きく一度剛直を突き立てると、びくりびくり、と朝日の身体が大きく震えた。搾り取ろうとするかのような粘膜の蠢きに、蒼もそのまま吐精した。
 
 抱えていた身体を横たわらせてやれば、蒼の胸と朝日の腹に白いものが飛び散っていることに気づいた。朝日が前でも絶頂していたのだ。
 
「はぁ……はっ……」

(可愛い)

 いまだに息を切らして頬を染めている朝日に、また腹の奥が熱くなる。再び硬度を増し始めたそれを見て、朝日は妖しく口角を上げた。

「ね、もっかい」

 そして二人は初めての夜、何度も何度も獣のように肌を重ねたのだった。
 
 *

 朝、柔らかな日差しで蒼は目が覚めた。ふと横を見ると、裸の朝日が眠っている。

(……え?)

 思考が一瞬停止したが、思い出した。昨日、朝日との 飲んだ後、酔い潰れた彼を部屋に連れて来たのだった。そして急にヒートになって蒼の服で巣を作った朝日に、思いっきり手を出したのだ。
 周りを見れば、巣の残骸と思われる蒼の服がベッドの周りに散らばっていた。

 酒が入っていたとはいえ、遂にやってしまった。しかも何度も。頭を抱えていると、横で朝日もむずむずと動き始めた。眠そうに目を擦った朝日が、掠れた声を出す。

「ん……蒼……?」
「……朝日、おはよう」

 苦笑いを見て、朝日がバッと起き上がり、顔を真っ青にする。

「あの、僕たち……」
「朝日、昨日のこと覚えてる? 俺は全部覚えてるけど」
「お、覚えてます……」

 蒼は安堵した。これで覚えてなかったらどうしようと思った。
 
「身体、痛くない?」
「え、身体? 痛くないよ」

 なぜか顔を赤くし、はにかんだ。

「優しいね、蒼は。瀬良くんには、体調なんて聞かれたこと無かったし……」

 幸せな朝を享受していたというのに、その言葉でまた殺意が湧いてきた。瀬良は、好き放題朝日を貪っておいて、事が済めば放っていたのか。だけどそういう蒼だって昔の彼女との行為の後、まともに気づかってやった覚えが特になくて、改めて自分も最低だったよなと思った。

 とりあえず、ヒートが始まっているなら色々確認しなければならない。

「朝日、抑制剤持ってきてる?」
「来ると思ってなかったから……常備してるやつはあるけど、二回分くらいしか手元には」
「薬局行く? それとも家に帰る?」
「家にはまだ結構ストックあるから、帰ろうかな」

 長年の想いを朝日の身体にぶつけた記憶が蘇る。多分彼の身体の至る所が、色々な液体で汚れているだろうことは想像に易い。このまま返すのは居た堪れなかった。
 
「シャワーだけ浴びてからにしたら?」
「あ……じゃあ、お言葉に甘えて」

 朝日も全身がベタついていることに気づいたらしい。また頬を染めた彼にタオルを押し付け、脱衣所に替えの服と新品の下着を置いてやった。流石に蒼が普段使っている下着を貸すわけにも行かなかったため、ちょうど手元にあって良かったと思う。

「下着、新品のやつ使って良いから」
「ありがとう! さっと浴びて帰るから!」
「待って。また急にヒートが来ても困るでしょ。絶対に送ってくから上がったら大人しく俺のシャワーを待ってて」

 そう言い含め、朝日がシャワーから出た後も再度念押しした。蒼も手早くシャワーを浴びると、朝日はソファに横になっていた。しかし、何だか顔色が悪い。

「朝日? どうした」
「わ、分かんない……ここで待ってたら、急に頭が痛くなって、身体が重くて……」
「……もしかして、昨日俺が無理させた?」
「ち、違う! 昨日は気持ち良かった、し……じゃなくて! 本当に今さっきからなんだ、ヒートのせいかも」
「いつもヒートの時そうなるってこと?」
「いや、そうじゃない、けど」

 蒼はスマホで時刻を確認する。十時三十七分。土曜診療でもまだギリギリ間に合うだろう。
 すぐに配車アプリをインストールし、支払い設定をすると送迎予約をする。そして朝日からかかりつけ病院を聞きだし、電話で予約を入れる。

「病院行くよ。辛いと思うけど、俺もついてくから」
「いや、悪いよ……大丈夫、自分で行ける。ちょっと休めば」
「ダメ。心配だから今日も泊まっていって。勿論手は出さないから」

 有無を言わさぬ口調に朝日は黙った。肩を貸しながらタクシーで病院に着く。予約をしていたおかげですんなり医師に掛かることが出来た。医師には番と連絡が取れなくなったこと、昨日ヒートの症状が出てベータの蒼と性行為を行ったこと、詳細に全てを話した。

「番に逃げられた絶望から、付き添いの君に打ち明けられた安堵、さらに性行為による興奮、と感情が急激に動いたことで心身のバランスが崩れたってところかね」
「俺のせいでしょうか。散々に手を出したから……」

 蒼が深刻な顔で尋ねると、医者は首を横に振った。
 
「いや、むしろそれで良かったよ。ヒートの症状が出たら、その都度発散させてやるべきだね」

 蒼は息をついた。自分の身勝手な欲で朝日の身体に悪影響をもらたしていたとしたら、死んでも償いきれないところだった。
 
「こんな感じで駆け込んでくるオメガの患者はたまーに居るんだけど、その後どうなるかは個人差があるからなぁ。ヒートが多少悪化するのが大半ってところだけど、稀に狂ってしまったり、衰弱してしまったりする患者もいるし」
 
 「まったく、酷い話だよね」と、医者はため息をついた。
 薬を貰い、二人で蒼の部屋に戻る。とりあえず朝日を寝かせ、その間に蒼はY社の抑制剤を買いに行ったり、鍵を借りて朝日のアパートから通勤の荷物や着替えを回収したりしてきた。

「ごめんね……明日には帰るから」
「無理に決まってるだろ、しばらく俺の部屋で過ごして。せめてヒートが終わるまでの一週間だけでも」
「……ありがとう、じゃあ、一週間だけ」

 この状態の朝日を放っておけるわけがなかった。こうして蒼は、申し訳なさそうな顔の朝日を説得することに成功したのだった。

 一日寝て起きた朝日は回復したように見えたが、その夜また強いヒートの症状が出た。病み上がりに手を出すのは迷ったが、医者は発散させるべきだと言っていたため、負担をかけないように気をつけながら二度ほど抱いたのだった。

 蒼の一週間にも渡る多様な献身とY社の抑制剤、そして病院で処方されたいくつかの薬によって、朝日はその週のヒートを何とか乗り切ったのだった。


 しかし、それで一件落着とはならなかった。それから一ヶ月半後、授業を終え帰宅したばかりの蒼のスマートフォンに着信があった。朝日だ。

「もしもし、朝日。どうしたの」
「半年間、休職することになったんだ」

 朝日の、空っぽな声が聞こえた。

「……どういうこと?」

 面食らった蒼が問うと、朝日はぽつりぽつりと言葉を発した。
 
「まだ次のヒートまで一ヶ月以上あると思ってたのに……上司の前でヒートになりかけたんだ。何とか急いで薬飲んで、タクシーで早退させてもらったから良かったけど。それで仕事、しばらく休んだ方がいいって」
「それは……いや、詳しいことはあとで聞く。今の状態は?」
「……正直、しんどい。身体が熱くて」
「分かった、なるべく早く向かうから待ってて」
「ごめん……ありがとう」

 最後のそれはほとんど泣き声だった。
 朝日のアパートは大学時代から変わらないため、蒼の家からは然程遠く無かった。急いで向かい玄関を開けてもらうと、朝日は壁に体をもたれ掛けさせていた。
 
 蒼が担ぐように肩を貸すと、朝日は大人しくされるがままに動き、そのままベッドに座った。目を伏せる朝日を見て、口を開く。

「それで、休職って」
「あはは、そりゃそうだよね。番に……捨てられて。ヒートの時期だって不定期だし、薬を使っても制御できないんだ。会社にとって迷惑でしかないよ」
「事情は、同僚全員知ってるの?」

 朝日は虚な表情で、首を横に振る。

「このことを知ってるのは……直属の上司と、更にその上の人だけ。他の人には、心身の不調って」
「それで、上の人は何て?」
「とりあえず半年休んで、何か制御の手立てを見つけるか、元番との関係を修復するかしよう、って。だけど制御しようにも、薬は明らかに効いてないんだ。かといって瀬良くんは……音信不通だし」

 瀬良。そう、あいつが全ての元凶だった。蒼は床に拳を叩きつけたくなるような衝動を堪える。
 
「あいつの職場は知ってるんだろ。連絡入れる?」
「……瀬良くんを捕まえてさ、ヒートの期間だけ彼に抱いて貰えたとしても。それをこれから一生? そんなのって、無理だよ……」

 首を横に振った朝日の瞳からは、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「まだ一年目なんだよ、僕。だけど職場の人、みんな良い人でさ……『休んで元気になってね』って言うんだ。しかも嘘じゃないって分かるんだ、本当に、良い人たちなんだ……」

 蒼は思わず朝日を強く抱きしめる。そうしなければ、腕の中で震える彼が、そのまま消えてしまうんじゃないかと思った。

「やっと馴染んで、仕事だって少しずつ覚えてきたんだ。だけど迷惑を掛けるなら、休職じゃなくて辞めるべきなのかもしれない。だって僕のこれは……もう治らないんだから!」

 それは慟哭だった。
 
「いっそのこと皆が迷惑って顔してくれれば……辞める決心もついたかもしれない。だけど皆……『いつでも場所作っておくから』って……そこまでさ、言ってくれて……もう僕……罪悪感で死にそうだ」
「朝日は会社、辞めたくないんだろ?」

 こくりと頷く。
 
「辞めたくないよ。だけど上司の前で醜態を晒しかけたのだって、恥ずかしかった。もし会社に復帰したとして、大勢の前で発情してしまったらと思うと……怖くてたまらない……」

 朝日の嗚咽を全て吸うように、自分のワイシャツに彼の顔を押し付ける。そして、震え続けるその小さな背を摩った。

「大丈夫、大丈夫だから。俺がいる、俺が何とかするから」
「……瀬良くんの会社に連絡するのは、最後の手段にしたい。半年ギリギリになるまで、したくない」
「分かった。大丈夫、きっと方法があるはずだ」
 
 蒼は「方法があるはず」と言ったが、それを見つけるのが至難の技であることは自分でも理解していた。朝日だって、薬が効かないと分かっている以上、最終的に瀬良に連絡を取らざるを得ないと内心では思っているのだろう。

 日に日に、目に見えて衰弱していく朝日を見ていられなかった。その週のヒートが終わってからも回復することはなく、弱々しい足取りで歩くことしかできない彼を一人暮らしの家に返すことはできない。
 
 何とか説得し、休職する半年は蒼の部屋に住まわせることにしたのだった。

(どうにか、しないと)
 
 朝日はこれから一生、ヒートのたびに死んだ方がマシだと思えるような強制力に支配され、苦しめられるのだ。かといって自分を捨てたアルファに縋りついてどうにか生きていくだなんて、そんなの人間としての尊厳が失われることに等しい。
 
 番に捨てられたオメガに安息の時はない。
 許せなかった。百歩、いや一億歩譲って、朝日が優れたアルファと番って幸せになれるのなら長年の恋を隠したまま、祝福ができたはずだ。ベータの蒼では、どう足掻いても番になることは不可能なのだから。

 しかしこうなってしまえば、もう黙っていられるわけがない。
 このままでは朝日が衰弱してしまう。かといって、あの瀬良に縋ってこれから先の生涯を送れば、朝日は心を病んで廃人になってしまうかもしれない。
 
(――殺そう)

 そうだ、それが一番だ。朝日がこの先の人生を、幸せに生きるために。
 
 アルファかオメガの片方が死にさえすれば番の契約は、破棄されるのだから。


***

 決意してからは早かった。およそ二か月間、蒼はその優秀な頭脳で、瀬良の殺害方法を徹底的に考えた。あの屑のために、自分の人生を棒に振る気はない。求めるのは完全犯罪のみだった。それに――。
 
 隣で眠る朝日を見遣った。彼を一人にするわけにはいかない。自分が捕まってしまったら、朝日は誰に頼るというのか。
 もし仮に頼る相手が出来たとて、朝日が大丈夫でも、蒼の方が大丈夫じゃない。刑務所から出てすぐ、朝日がそばに置いている人を殺害してしまう自信があった。

 朝日が頼って良いのは、自分だけなのだ。
 
 ずっと支えていればいつか、番になれなくとも、蒼を人生のパートナーにしてくれるかもしれない。現に朝日は、今隣で蒼の袖を握りながら眠っているのだから。一緒に暮らすうちに彼からの好意の色が、少しずつ甘いものへ変容していっていることにも気づいていた。
 
 すやすや規則正しい呼吸をしている朝日の、目にかかった前髪を避けてやる。蒼の頭の中にはいくつものアイデアが浮かび、それを同時並行で検討し始めていた。
 どんな手を使ってでも。
 
「必ず、やり遂げるから」

 
 その日、蒼はある人物に連絡を取っていた。

 休日の昼、呼び出したのは大学から数駅先の大きな森林公園。
 二人きりで話がしたかったが、店の中では人目がある。かといって個室を選べば警戒されるだろう。落ち合う場所として選んだのは、広くて人と距離が取れる、しかも開放的な緑の公園だった。

「久しぶり、千谷くん」
「加藤さん、久しぶり。来てくれてありがとう」

 そう。連絡を取ったのは既に社会人となっていた、加藤美央だった。

 朝日からの着信に気づけなかったあの飲み会の日、強引に連絡先を交換させられていたことを思い出したのだ。その後一文字たりともやりとりしたことは無かったが、まさかこんなところで役に立つとは。

 これから話す内容が内容である。人のいない場所探し、ベンチに二人で腰掛けた。

「いきなりで悪いけど、もしかして瀬良と付き合ってる?」
  
「……千谷くんって、隼人と友達だっけ? 彼、何か言ってたの?」
 
 瀬良隼人(せら はやと)、あの男のフルネーム。
 彼女は平静を装っていたが、少し声が震えていた。彼女は肯定も否定もしなかったが、朝日には呼ばせなかった瀬良を下の名前で呼んでいた。それなりにお互い本気で瀬良と付き合っていたのかもしれない。

 ただ、今も交際を続けているなら即答するはず。この時点で、すでに別れていることが推測できた。
 
「友達というかまぁ、知り合い。昔、加藤さんと瀬良が……なんというか、一緒にいるところを見たことがあったから」
「あー……ね。そっか」
 
 薬学部棟の近くでキスしてたよね、とは言わずに言葉を濁す。美央は心当たりがありそうに、目を泳がせた。
 彼女に連絡を取ったのはあくまで直感によるものだったが、彼女の反応を見る限り、真実に近づいているような気がしていた。蒼は一つの仮説を立てていた。
 
「単刀直入に聞くよ。加藤さんって、もしかしてオメガ?」

 美央は面食らったように口を開けた。出会ってすぐ、交際相手だけでなく第二の性まで聞かれるなど露ほども想定していなかっただろう。しばしの沈黙をおいて、彼女は息を吐いた。
 
「……そうだよ。言わないでね、誰にも」
「もちろん」
 
 仮説は当たっていた。これなら合点がいく。ベータだと分かった途端蒼から引っ付くのをやめたのも、あの明らかに手癖の悪そうな瀬良とラブシーンを繰り広げていたのも。てっきり単にハイスペックが多いアルファを狙っているのかと思っていたが――実際の彼女はオメガで、番となる男を見繕っていたのだ。それにしても趣味は最悪だが。

「実は、俺の友人が瀬良と付き合っててさ。最近手酷く振られたみたいで、落ち込んでるんだ。復縁の手伝いってわけじゃないけど、瀬良と親しそうだったから――」

 蒼が言い終わらないうちに、目をかっと開いた美央は声を荒げた。

「あたしも! あたしも、隼人付き合ってた! でも、捨てられた。あたし――隼人の、つ、番だったのに……!」
 
(は、番?)
 
 彼女の言葉に、思わず耳を疑った。嘘だろう。あの男、朝日以外にも番を作っていたのか。信じられない気持ちだった。驚愕を隠せないでいる蒼に、証拠を見せつけるように首を後ろに捻って、長い髪を上げた。
 
「ほら! この、傷」

 間違いない、番の噛み傷だった。愛し合う番、特に結婚した番にとって噛み傷は指輪と同じくらい神聖なものだ。
 しかし、未婚、それも関係を一方的に終わらせられたオメガにとって、噛み傷はそのまま「傷物」の印である。他人に見せるには、後ろ指さされる恐怖が先行する代物である。

 そして彼女は自らの手で髪を下ろし、ぼろぼろと大粒の涙を溢す。彼女を哀れだと、しかしそれ以上に使えるかもしれないと思った。横に座る彼女の背にゆっくりと手を回す。

「あいつ、加藤さんまで。しかもオメガの首を噛んでおいて、捨てるだなんて」

 蒼の耳には自らの言葉が、白々しく響いた。
 彼女は思ったよりも不憫な状況であった。言ってしまえば、ほとんど朝日と同じ状況である。だけど、当たり前ではあるが彼女は朝日ではない。自分でも酷い人間だと思う。しかし、蒼にとって重要なのは今も昔も朝日なのだ。

(加藤美央は、瀬良の情報を掴むために連絡を取っただけだったけど……もしかすると、それ以上の価値があるかもしれない)

 よく回る蒼の頭は、あらかじめ考えていたいくつかの選択肢を修正していた。
 
「可哀想に」

 これは蒼の心からの言葉であった。瀬良に弄ばれ、番にされた挙句捨てられた彼女への同情。そして、これから蒼に利用される彼女への憐憫。

 蒼の言葉を慰めと受け取った美央は震え、嗚咽をあげ始める。その泣き声は引き攣っていて、もはや過呼吸になりかけていた。
 ここで彼女に「友人もあいつの番だった」と伝えるのは、おそらく得策ではない。
 
「落ち着いて、大丈夫だから。息は吸うんじゃなくて吐くんだ」

 優しい声ってこんな感じだったっけ。普段自分の声色など気にしたことがなかったから、よく分からない。

 美央を横から抱きしめ、その背を摩ってやる。それでも彼女の息はますます速まって行っていたため、蒼は片手で鞄から小さなビニール袋を取り出した。そして、息を吸いすぎないように彼女の口に当てる。ビニールが呼吸のたびに音を立てた。

 確かこのビニール袋は、以前飲み過ぎて吐いた帰り道、近くにいたサークルの仲間が鞄に突っ込んできたものだったか。何事も、何人も、思わぬところで役に立つものだ。

 しばらくして呼吸が落ち着いた彼女は、蒼を見上げる。

「あ……ありが、とう。優しいね……蒼くん」

 そしてあの飲み会の時のように、彼女は蒼のことを下の名前でまた呼び始めた。先程まではずっと苗字呼びだったというのに。
 蒼はまるで好青年かのように笑う。

「いや、人として当然のことだよ。何かあったら俺に言って……助けたいんだ」
 
 どんな手を使ってでも。
 それは実のところ、彼女に向けた言葉ではなかったけれど。
 


 それから美央は、毎日と言っていいほど頻繁に連絡を寄越すようになった。蒼はほぼ全てのご飯や飲みの誘いに頷き、一週に一度は顔を合わせていた。

 連絡を取り始めて二ヶ月ほど経ったとき、美央から家で夕食がてら宅飲みをしないか、との誘いがあった。きっとそれだけでは終わらない。その予感は見事に的中した。

「あ……蒼くんっ。あたし……なんか、熱い……」
「大丈夫?」

 夕食を食べ終え、缶酎ハイを開けて少しした頃。しなだれかかってくる美央から、かすかにフェロモンの匂いを感じた。ヒートの症状だ。

 彼女のフェロモンは、朝日とは全く異なった。朝日のフェロモンは仄かで、それなのに苛烈に欲を揺さぶる匂い。しかし彼女のものは、電車で匂う迷惑な香水みたいで、蒼はあまり好きな匂いではなかった。

 美央は瀬良と連絡が取れなくなってからも、つまり捨てられてからもヒートの周期は変わらず、その症状も多少強まった程度なのだという。
 最初に朝日を病院に連れていったとき医者が「個人差」と言っていたが、美央は比較的影響が小さい方で、朝日は影響が相当に大きい方なのだろう。
 それを聞いてますます朝日を支えなければという決心が強まったのだった。

 ヒートの時期に人を呼んで、さらに抑制剤を飲まないのは通常あり得ない。
 彼女は意図的に抑制剤を飲まなかったのだろう。「優しい蒼くん」なら、ヒートに苦しむ女を放っておかないだろう、と。

(浅はかな女だな)

 あまりに見え透いた色仕掛けである。思い返せば、飲み会の時も胸を押し付けてきたような気もするから、何一つ変わっていないなと思う。しかし今回、彼女の行動は蒼にとって好都合だった。
 頬を染める彼女にすっとぼけてみた。

「もしかして、ヒート?」
「こんなに早く来ると思って無かったのっ、あつ……苦しい……あ、ん」

 脚を擦り合わせて、暑くてたまらないというように、服を脱いだ彼女は下着姿になった。桃色のレースがついたその下着は上下セットになっているものだった。溢れんばかりに豊満な形を作り、際どい露出をさせているそれがいわゆる勝負下着であることは、想像に易かった。
 
 縋りつかれるままに彼女を腕の中に抱きしめ、その首に顔を埋めてやる。好きでも何でもない女でも抱けるのは昔の彼女で実証済みだった。

 こんな最低な自分を知ったら、朝日は失望するだろうか。他の女を腕の中に入れてもなお、浮かぶのは朝日のことばかり。きっと今自分は人の表情をしていない。自嘲するようにひっそり笑って、目の前の女を引き倒し、ただ彼女が求めることをしてやるのだった。


***


 気持ちの良い昼下がり。カーテンの隙間からは太陽の光が暖かく差し込み、朝日の部屋を照らしていた。着替えを交換するため、蒼の休日は二人で朝日の家に泊まることが多かった。

 にもかかわらず、陽の光と同じ名前をした彼は椅子に座りながら、頸に残る番の噛み傷を抉るように一心に掻きむしっていた。

 だってこれは忌まわしい傷。自分を騙して弄んだ男がつけた、消えない跡。もう瀬良への恋情も未練も一ミリだって残っていないというのに。むしろ――。

「こら。朝日、駄目だって言っただろ」

 朝日の右腕が宙に取られる。彼は朝日が頸の傷に爪を立てるのを見るたび、優しく掴んで止めてくれるのだ。そしてその毎に、蒼はちゃんと自分を見ているのだと安心してしまう。

「ああ、ほら。また血だらけ。痛くなるし、血だって白いワイシャツについたら困るだろ」
「……別に痛くないよ」

(そりゃあ、ワイシャツについたら、困るけど)

 でも本当に痛くないのだ。むしろこの傷がずっと同じ形で、自分の頸に居座っているままのほうがよっぽど朝日には耐え難かった。

 それに、蒼だって。この頸に残る咬み傷を見るたびに、人でも殺しそうな目でそれを睨んでいることを朝日は知っていた。

 先程まで頸を引っ掻いていた爪にこびり付いた赤黒い血が、蒼の持つウェットティッシュに吸われていく。自分の手に血が付くのも厭わず、蒼は毎回傷の手当てをしてくれる。丹念に拭き取られる間、朝日は大人しく待つだけだ。

 爪の先を拭き終われば、次は頸の番だ。コットンで押し当てられた消毒が沁みるのには、いつまで経っても慣れない。
 
「沁みるの分かってるんだから、掻かなければいいのに」
「でもっ……ううん、そうだね」

 朝日は言いかけて、口を閉ざす。本当にこの自傷を辞めさせたいなら、蒼はこんなふうに優しく手当をするべきなんかじゃあ、ないのだ。
 
 傷の上、髪の生え際をするりと蒼の指が撫でる。細長くて、すこしだけ関節が張っていて、いつも短く爪が整えられている、綺麗な指。

 朝日は頸から広がる快感に、肩を震わせそうになるのを必死で堪えた。あくまで、これは手当て。処置に過ぎないのだ。決して、邪なことを考えてはならない。
 
(あぁ、でも)

 朝日はこの指で触れられた夜を思い出す。昨夜だってそうだ。蒼の家で巣を作った日に初めて関係を持って以来、二人は何度も一緒に夜を過ごすようになった。

 体調がずっとすぐれない朝日を気遣って頻度こそ高くないものの、彼の手つきはいつだって優しくて、情熱的だった。彼にかかれば、実験で薬剤を投与されるラットだって恍惚の表情を浮かべることだろう。
 
 どうか、今夜もまた触ってくれないだろうか。そんなことを朝日が考えている間に、いつのまにか首の傷には大きな絆創膏が貼られていた。その絆創膏の上から、軽く音を立てて口付けられる。
 
「んっ」

 蒼の立てた音と彼の息が首を掠め、思わず声が出てしまう。もともと頸は朝日の感じやすい弱点でもあった。そんなことをされたら、また体が疼いてしまう。すり、と腰が無意識に揺れた。
 
 ふざけているのだろうか、それとも朝日の声に当てられたのだろうか、首周辺に蒼のキスがたくさん降ってきた。

「あっ、ん、蒼……」

 明らかに朝日の声は、蒼を求めていた。はぁ、と首元で蒼のため息が落ちてきたと思ったら、彼は急に絆創膏の上から噛みついてきた。

 ぐりぐり、とせっかく塞いだ場所をその上から傷つけるように。朝日はもともと、痛いことは何だって嫌いだった。瀬良が痛くするときは、いつも怖かったからだ。だけど、蒼がもたらす痛みだけは、何だか彼の執着を感じて愛おしく思える。
 
 どうか、布の下にある傷を上書きしてほしい。そんな朝日の強い願いが伝わったのか、蒼に背後から抱きしめられる。

 ちゅ、ちゅ、と首筋や鎖骨に口付けられ、その合間に頸の傷を噛まれていく。いよいよ朝日の身体はその快楽のせいで力が入らなくなってきた。
 
(こんなの、もはや前戯じゃないか)

 朝日はそう思った。きっともう今日は、一日中何も手につかない。
 無意識のうちに、鼻にかかった媚びるような声が出る。いや「媚びるような」、ではない。完全に媚びていた。
 朝日は蒼に傷の上を噛まれるたび、それが慈愛と独占欲の表れだと思うことにしていた。だってその方が、嬉しいから。蒼の腕に縋り付いて頬擦りしてみる。

「ねぇ、蒼。まだ明日も休みでしょ? 今夜もさ……僕の部屋に泊まってったら?」

 しかし、朝日の軽薄な願望とは裏腹に、蒼の反応は芳しくなかった。
 
「……うーん、そうしたいところだけど、今夜は帰ろうかな。大学の図書館で調べ物をしたくて」
「そ、そっか。大変だね」

 帰宅の支度をする蒼に駅まで送ると言ったが、彼は頑なに許してくれなかった。問答の末、折れた朝日は蒼を玄関で見送るに留めたが、朝日の体は先ほどの触れ合いの中で完全に熱を持ってしまっていた。

 朝日は昨日、蒼に抱いてもらったベッドの上に乗り、彼が使っていた枕に顔を埋めた。

「ふ……あっ」

 既に硬くなっていた朝日のそれを、昨夜蒼に乱されたシーツに擦り付ける。我慢できなくて、枕で蒼の残り香を探しながら、自らを扱いた。

「んん、はっ、あ」
 
(ほんとは、さっきもまた……抱いて欲しかったのに)

 慣れ親しんだ前の刺激は確かに気持ちが良い。だけど本当に欲しかった刺激はそれでは無かった。思わず後ろにも反対の手が伸びる。

「うぁっ……蒼……」
 
 瀬良と付き合っていたときは、自分では最低限慣らすためだけにしか触っていなかった。しかし蒼とそういう関係になってからは、ヒート中じゃない家で一人の時も、自分で練習するようになっていた。その甲斐あってか、ヒート時以外の行為でも、朝日は後ろだけで強い快楽を得られるようになってきていたのだ。
 だけど、それでも、後ろだけでは。
 
(まだ一人じゃ、上手くいけないのに)

「あ、あお、いっ!」

 仰向けに体勢を変えた朝日は両方触りながら、前で果てた。白濁の飛び散った腹部を見て、昨日はここに蒼が入ってたんだな、と思う。そして大人しく汚れた腹部をティッシュで拭って、それをゴミ箱に放った。

 
 最近、蒼は忙しいらしい。研究室に泊まったり、大学により近い友人の家とやらに泊まって帰ってこないことが増えた。本人曰く、卒業研究が良いところなのだそうだ。朝日は既に大学を卒業しているとはいえ、自分と異なる薬学部の蒼が何をやっているのかは正直よく分からない。ヒートが落ち着いたこともあり身体的な問題はほぼなかったものの、朝日は寂しかった。
 
 彼が研究で忙しいというなら、きっとそうなのだろう。薬学部は理系の中でも忙しいとよく聞く。
 たとえ、女の人からの親しそうなメッセージが頻繁に、彼のスマートフォンに写りこもうと。
 
 朝日だってわざわざ蒼のスマートフォンを覗き込んでいる訳じゃない。それほどその女のメッセージが多くて、しつこいのだ。それに、通知を切っていない蒼も悪いと思う。朝日はずっと、モヤモヤしていた。これが不相応にも嫉妬であることには気づいている。
 
 何回か見てしまったときに遠回しに誰か聞いてみたことがあったが、「サークルの元同期」としか言ってくれない。蒼とはただたまに寝るだけの関係で、恋人でも何でもない以上、それ以上深堀りする権利は与えられてないのは朝日も分かっていた。

 恋人。もしも蒼が恋人だったらなぁ。ここしばらくはずっと、そんなもしもの空想ばかりしている。蒼は優しくてかっこいい。迷惑だろうに、いつも自分なんかことを助けてくれる。高校時代からずっとだ。

 それに……蒼とするのは、気持ちがいい。瀬良のおざなりな愛撫などは比べものにならないくらいだ。いつも彼が朝日を気遣ってくれるのを肌で感じる。そしてそれに朝日は幸せを感じ、快感にいっそう繋がるのだ。
 
 しかも蒼は、瀬良と違って、ベッドの上で愛を囁いてくれる。「好き」、「可愛い」、「愛してる」と。

 もちろん夜の睦言を間に受けるほど、もう朝日は単純で世間知らずで、愚かではない。よく聞く話だ、それは単なる、行為を盛り上げるためのスパイスにすぎないのだ。
 それでもその言葉を耳にするたび、胸が高鳴ってしまう。いつかベッドの外でもそう言ってくれたら……なんて甘く幼い願望は、頭を振って掻き消すしかない。

 この関係は果たして何なのだろう。あの日、蒼を連れ込んだ日。どうしようもなく身体が疼いて、でも他でもない蒼に慰めてもらいたくて、少々狡いことをした自覚は朝日にもある。
 
 二人ともそのままずるずるときてしまったが、もう朝日は完全に、蒼に恋をしていた。
 あれだけ献身的に支えてもらって、恋に落ちないわけがない。しかし彼はアルファ以上に優秀なベータで、自分は番のアルファに捨てられた傷物のオメガ。釣り合わないどころの話ではない。

 これ以上蒼の負担になりたくはないし、もし想いを伝えることで、この温かな関係が終わってしまったらと思うと、何よりも恐ろしかった。

 例え今、彼に良い仲の女の人がいて、この後朝日に黙ってその人に会いに行くのだとしても。朝日を触った手で、その女の人を慈しむのだとしても。それは蒼の勝手なのだ。

 むしろ、その女の人の方がよっぽどお似合いなはず。そう思うと、朝日はやっぱり少し、泣きそうになった。


***


 美央は後ろに座る蒼の胸板に、しなだれかかっていた。

「ねぇ、好き、大好き。蒼くんも、あたしだけだよね?」
「当たり前だよ、美央」

 この茶番を始めてしばらく経つが、いまだに馬鹿らしく感じる。ただ、後ろから抱き抱えているのが朝日だと想像すれば、心底愛おしいという演技もそう難しくはなかった。

 もはや美央は完全に蒼に依存している。番に捨てられて精神を病んでいるところに、身も心も慰めてくれる男が現れたのだ、当然といえば当然だろう。
 
 美央には「友人とルームシェアをしている」と説明しているため、決して彼女を蒼の部屋に入れることはなかった。それは実際真実ではあったが、だからこそというのか、彼女は蒼が自身の部屋を離れるたび、情緒が不安定になっていっていた。

 「あたしだけ」という確認ももう何百回目だろうか。内心辟易していたが、しかし適当な笑顔で蒼が肯定してやれば、すぐに安心しきったような様子を見せるのだ。
 
(そろそろ、か)

 蒼は駒を進めることを決めた。

「ごめんね、俺、ベータで。アルファだったら……あいつが美央を噛む前に、番にしたのに」

 心にもない。しかし本心はおくびにも出さないように、彼女の耳元で囁いた。
 
(下手したら俺、瀬良と同じくらい碌でもない男なのかもしれないな)

 そう思いながら彼女に頬を寄せ、目を伏せていると、美央は回されている蒼の手を強く己の胸に抱き込んだ。眉を寄せた彼女の瞳に映る光は、真摯なものだった。

「そんな! 謝らないで。全部あいつが……悪いんだから」
「本当に許せないよ。苦しんでる美央をもう見たくないのに、番じゃない俺は、完全にはそのヒートを終わらせてあげられないし。これが死ぬまで続くんだろ? そんなの、あんまりじゃないか」

 美央は顔を歪め、諦めたように首を振る。終わらないヒートについて彼女がもう受け入れていたのは、蒼も理解していた。彼女は毎回蒼に慰められるたび、「蒼くんがいれば、耐えられる」と言っているのだから。

「......うん。でも、何とかなってるから。蒼くんさえいてくれれば、あたし、」
「それに、番を持ったオメガは――番以外と結婚できないし」

 ぴくり。美央が肩を揺らす。その単語を耳にした彼女は、上目遣いで背後にいる蒼を見上げてくる。想定通りだ。

「結婚……? 蒼くん、あたしと結婚したいって……思ってくれてたの?」
 
 現行の法律では、オメガは番がいる場合、番以外と結婚することが禁じられている。一方アルファは頸を噛んでさえしまえば番を何人も持てるし、番がいても番以外とも結婚できる。つくづく不平等な法律だと、蒼も思う。
 
「勿論。だけど法改正は、きっとまた十年はかかるだろ?」
「そんな……」

 美央の指が震える。蒼は仕掛けるタイミングを見計らっていた。まるで酷い結婚詐欺師になったような気分だったが、しかし罪悪感は驚くほどに無かった。
 蒼はさらに口を開く。

「番になったらオメガ側だけが一生縛られるなんて、不公平だ。どうにか……番を解消する方法はないのかな」

 腕の中で蒼に真っ直ぐ見つめられ、美央はたじろいだ。

 ベータでありながら周りのどのアルファよりも美しい、蒼のオニキスの瞳。囚われてしまえば、吸い込まれて行くだけ。

 彼女の頭を撫で、蒼は視線を前方に移す。それに釣られて美央も、眼前のテレビに目をやる。

 都合良く――いや、偶然。
 彼女の部屋のテレビでは東尋坊の特集なんかがやっていた。美央は先ほど気味悪がって変えようとしたが、蒼がなんとなく、本当になんとなく悪趣味なものを見たい気分だったために、リモコンを奪ってそのまま彼女を腕の中に閉じ込めていたのだった。

「解消する、方法。ないことも……ないけど……」
「あぁ、どちらかが死ぬまで、ってやつだっけ」

 こくり、と美央が頷く。蒼がとぼけるまでもない、番の破棄条件は常識だった。それにしても、サークル時代、ほぼ初対面の飲み会では肉食獣のようだったというのに、今では彼女も随分しおらしくなったものだ。
 
 蒼は大きく一つ、息を吐いた。耳元に息がかかった美央は、くすぐったそうに身を捩る。そのまま耳元に口付け、脳に直接届くように、魅惑的な毒を盛ってやる。
 
「そっか。いっそあいつが――死ねば良いのに」
「……あいつが、死ねば、?」
 
 美央の目がすぅっと、仄暗い光を孕んだ。蒼の口角が思わず上がる。

(――かかった)

 蒼も当初は彼女とここまで密接に関わる予定では無かった。計画を変更したのは、彼女も瀬良の番だったと知ってから。

 最初は分の悪い、賭けにすらならない、馬鹿な策略だと思った。当然ほかにもいくつか次策以降も立てていたが、しかしいずれもリスクが高く、発覚すればそのまま足がついてしまう。

 蒼は目的を遂行するための第一の策に、最も可能性が低くて、最も遠回りで、最も倫理観に欠ける方法を選んだ。そしてそれは、笑えるほどに上手くいってしまった。思い返せば昔から、朝日のこと以外であれば何をやっても上手くいっていたが、まさかここまでとは。
 
 既にあとは時間の問題というフェーズに入っている。勿論、上手くいかない可能性もまだ残っていたが、蒼は実のところ勝利を確信していた。もはや自分の罪状は、結婚詐欺どころではない。

 アルファはベータよりも優れている。この世界においてそれは「常識」だが、蒼はたまに思う。本当にそうだろうか。

(他人を操るのは、こうも簡単だっていうのにね)

 ──アルファよりも優れたベータが、存在するとしたら?
 しかしそんな特異な例、蒼の知ったことではない。

「ねぇ、蒼くん――もしも……んっ」

 彼女の頭を掴んで、言わせまいと唇を塞ぐ。例えば悪い相談があったとして、聞かない方が蒼にとって都合が良いなら、言わせなければいいだけなのだ。
 
 あくまで彼女が勝手に、彼女の意思で選択し、行うことなのだから。適当に唇を合わせているだけで、美央は蕩けたような顔をするが、蒼の心はずっと冷え切ったままだった。酷い人間だと自覚はあるが、朝日以外との接触は、やはり心が動かない。

「蒼くん、好きだよ……?」
「愛してるよ。結婚したいのに、なぁ」

 朝日と。こんな場でも、気をつけないとすぐに朝日のことを考えてしまう。

 自分でも不思議だと思う。どうして、こんなに酷いことを出来るくらいに、朝日に執着しているのか。

 恋に落ちたのはきっと一目惚れだった。それでも彼と時を重ねるごとに、その執着具合は悪化している気がする。
 

 朝日には「好き」も「愛してる」も閨の中でしか言えていないのに、美央相手に真っ赤な嘘ばかり上手になってしまった。

 だけど、全てが終わりさえすれば名実ともに朝日を手に入れられるはずだ。朝日との結婚だって、夢物語ではなくなるだろう。

 蒼は、朝日も既に自分を好いてくれていることに気づいていた。自分の愛情とはまだまだ重さに差があるが、その程度、一向に構わない。

 腕の中の美央は、昏い瞳でテレビの特集を見つめている。内容は東尋坊から、富士の樹海に移り変わっていた。まぁ、蒼にとっては同じことだ。
 
(もし死後に、天国と地獄があるのなら。朝日と一緒に天国へ……は、行けそうにないな)

 だけど蒼が欲しいのは今世の朝日だ。
 まぁ、来世でもどうせ朝日が欲しくなるだろうけれど……それはきっと、来世の自分がまた解決するだろう。


***


 朝日がソファでくつろいでいると、玄関のチャイムが鳴る。ダッシュでインターホンを押すと、見知った美丈夫が見えた。
 そのまま鍵を開ければ、両手にコンビニのコーヒーを持つ蒼が笑っていた。

「暑いのに、来てくれてありがとね」
「朝日に会えるならどうってことないよ。これ、朝日の分」

 蒼の甘い台詞が擽ったくて、渡されたアイスカフェラテをストローで啜る。
 それにしても、最近のコンビニコーヒーはクオリティが高い。蒼と違って、朝日はブラックコーヒーが飲めない。ミルク多めのカフェラテが朝日の好みだと、蒼が覚えていてくれたのも嬉しかった。
 
 蒼と会うのはおよそ三週間ぶりだ。蒼は夏季休暇前の期末期間で夜遅くまで作業をしなくてはならなかったため、朝日はここしばらく自分の部屋にて一人で過ごしていた。よって、これが久しぶりの逢瀬なのだった。
 
 まだ八月は始まったばかりで、十分歩くだけで汗が止まらなくなるような猛暑が続いていた。最終期末レポートを書き終えてすぐ、朝日の待つ部屋まで赴いてくれるばかりでなく、冷たい差し入れまで持ってきてくれる、自慢の彼氏に笑みが溢れる。

 そう。彼氏。

 蒼と朝日は前回の逢瀬である三週間前から、付き合うことになったのだ。お洒落なレストランでディナーに誘われたあと、『高校の頃からずっと朝日のことが好きだった。俺と付き合ってください』、そんな台詞とともに、美しい夜景を背にした蒼に告白されたことを今も鮮明に覚えている。
 二つ返事で告白を受け入れ胸の中に飛びついた朝日を、蒼は優しく抱きしめ返してくれたのだった。

 思い返すだけで頬が緩むが、いまだに舞い上がっているのも恥ずかしくて、残りのカフェオレを一気に飲み干した。
 すると飲み終えるのを見計らったのか、蒼が朝日の顎を掬い、そのまま口付けてくる。

「朝日、愛してる」

 はじめは戯れるかのようだったキスはどんどん深まっていき、気づいたら互いの唾液で唇がべとべとになっていた。
 とろとろになった朝日は、うっとりとした視線で見上げる。
 
「ねぇ、蒼……だめ?」
「欲しそうな顔してる。すごく可愛いんだけど……俺いま、汗かいてるから」
「外から来てくれたばっかだもんね。じゃあ、シャワー浴びよう? 一緒に」

 ワンルームアパートにしては広めの浴室で、身を寄せ合った二人はいつものように、互いに髪と体を洗い合う。そして湯を溜めていた湯船に浸かる。少なめに入れていたとはいえ、男二人分の体積が増えれば湯は大量に溢れ出た。

 そのまま湯船の中でも触り合い、飽きもせずキスをしていれば、そういった気分になるのも当然だった。

「蒼、好き、好きだよ」
「可愛い。俺も好きだよ、朝日」

 朝日はずっと期待しているような顔をしていたが、蒼はその可愛い表情をもっと見ていたかったため、気づかないふりをしていた。
 
 するとしびれを切らしたのか、朝日が湯船から立ち上がる。シャワーの横にある小さな洗面台の方を向いて手をつき、顔だけ後ろに向けた。双丘をゆらゆら揺らしながら突き出すような姿勢は、後ろから入れろと言わんばかりだった。
 
「あおい。ね、いれて?」

 肌色の誘惑に喉が鳴りそうになり、目を逸らした。

「風呂上がってからね。ゴム無いし」
「そんなの着けなくて良いから! 今ほしいのに」
「………………いや、ダメだよ」

 蒼は下腹部に込み上げた熱を逃すように息ついた。正直、魅惑的な言葉に一瞬揺らいだのは事実だったが、受け入れるわけにはいかない。

「そんなことしてお腹痛くなるのは朝日だし。それにもう、のぼせそうだろ」
「すぐ掻き出せば良いし、のぼせないから! 早く」

 朝日はまだ浴槽に座り込んだままの蒼を引っ張って、立ち上がらせる。

「ほら、蒼だってこんなになってるくせに」

 そう言って朝日は蒼の中心に立つ剛直に触れた。浴室で濡れた朝日の手ですりすり、と誘うように摩られば、それは更に硬度を増す。

「うるさいな。仕方ないだろ、一ヶ月ぶりに会えたんだから」

 少し息が荒くなっている蒼を見て、朝日の鼓動も速くなっていった。
 朝日は浴槽外のスペースに蒼を引っ張りだし、腹に付きそうなほどそそり立ったそれを目の前にしてしゃがみ込んだ。

「ねぇ、舐めてあげようか?」
「ダメ。汚いし」
「洗ったばっかなのに汚いわけないでしょ! ほら、今すぐ僕にいれるか、僕に舐めさせるかの二択だよ」
「何、その二択」

 朝日を立ち上がらせようとする蒼の手を軽く払って、そのまま彼の屹立を両手で包む。口元に寄せてしまえば、蒼も大人しくその光景を見つめた。抵抗を諦めたのか、それとも期待したのか。とにかく蒼の視線が熱くて、朝日はちろりと出した舌で、それを見せつけるように舐め始めた。

「朝日……ダメだよ」

(蒼、可愛い)

 ダメだなんて言う割に、彼は朝日の髪を右手で掴んでいる。いつも格好良い彼の珍しい姿が見られて、朝日は胸がどきどきした。同時に手を動かしてやれば、蒼の口から声がほぅ、と息が漏れ出る。

「ひほひひ?」
「……うん、気持ちいいよ」

 蒼はしばらく下腹部の前にある柔らかな髪を撫で、体が冷えないように朝日の身体にシャワーを掛け流した。朝日は(こういうところが好きなんだよな)と思って、より一生懸命奉仕をした。
 しかし朝日の舌と手の動きが速まると、蒼は思い切り彼の頭に腰ごと自分のそれを、押し込んだ。

「んっ、ぐ!」
「ごめん、苦しいね」
 
 くぐもった声を上げた朝日の喉が締まる。しかし蒼は止めるどころか、腰を振り続ける。

「出すね」

 そしてそのまま腰を突き出すと、朝日の喉元に勢いよく吐精した。その量を飲み込み切れず、朝日の唇からはぽたぽたと白濁が溢れる。

「朝日、ごめん。吐き出して良いから」

 しかし朝日は首を振り、何回かに分けてそれを飲み込んだ。蒼のなら、喜んで。そんな内心を伝えるように舌を出し、空になった口内を見せつける。

「ほんと……朝日は俺を煽るのが上手いね」

 褒めるように頭を撫で、立ち上がらせてキスをすれば朝日の目はとろんと溶けていく。

「ね……こっちも」

 朝日は蒼の腕を掴み、自らの背中から下に降りるように誘導する。

「蒼が来る前に、準備したから。いれて?」

 それを聞いた蒼は愛おしい恋人を浴室から連れ出す。タオルで身体を拭くのもそこそこに、二人はベッドにもつれ込んだ。ベッドサイドに置いてある新品の箱から一袋取り出し、スキンを着ける。
 
「いい?」
「うん、はやく」

 指を差し込み一周回すようにしてその場所を開くと、再び完全に張り詰めていた欲望で貫いた。

「あおいっ……ん、ぅ!」
「さっきは気持ち良くしてもらったから。今度は、朝日の、番だよ」

 蒼は抽送をゆるめ、胸の飾りに両手を伸ばす。中心の回りをくるくると触り、ぷっくりと立ち上がった頂点を焦らす。

「ねっ……それ、やだっ」
「嫌だ? 触るの辞めようか?」
「ちがっ……! は、はやく、動いて!」

 必死に腰を動かそうとする朝日に嗜虐心がそそられたが、浴室での彼の献身を思い返し、焦らさず望みに応えてやることにした。

「仕方ないな」
「あ……あぁぁっ!」
「朝日も、気持ち良い?」
 
 突如速くなった律動と、胸の頂きを抓まれた刺激に、朝日は悦びの色を乗せた悲鳴を上げる。

「きもち、いいっ!」

 片手でそのまま胸を愛撫してやり、もう片方の手で浴室から立ち上がっていた朝日の昂ぶりを扱いてやる。

「んっ、や、ひっ……だ、だめっ!」

 限界を超えた快楽に朝日はひたすら嬌声を発することしかできない。蒼は目を細めた。
 
「こんなに善さそうなのに、はっ、何が、ダメなんだよ」
「し、しんじゃう! か、らっ!」
「はは……! 朝日が死ぬのは、困るな」

 浮き出た鎖骨の下に吸い付き赤い跡を残せば、朝日は身体をのけ反らせた。

「い、いっちゃ、う!」
「俺も」

 そう言って蒼はさらに抽送を速め、喘ぎ続けていた朝日の唇を塞いだ。

「朝日、好きだよ」
「あ、あおい! だい、すき!」

 そして朝日の中が一際大きく震えて、それに合わせて己を思い切り突き立てた蒼も精を吐き出した。
 

 
***

 
 朝日の休職期間の半ばに差し掛かるあたりで、蒼は「期間伸ばして貰ったら?」と提案してきた。それは申し訳ないと渋る朝日を何度も何度も説得して、結局折れた朝日は会社に連絡したのだった。恐る恐るかかってきた電話に出ると、意外にも上司はその申し出を快諾したのだった。
 
 蒼が大学最後の学年である六年生に進級してからも二人は蒼の部屋で過ごしたり、朝日の部屋で過ごしたりしていた。

 夏季休暇中も蒼が大学の研究室に頻繁に顔を出すため、朝日はまた自分の部屋で一人過ごしていたものの、その後はまた朝日のところによく顔を見せるようになった。彼曰く、卒業研究の峠を越えたらしい。他の人――あの女の人に関心が移ったんじゃないか、なんて心配していたが、杞憂だったらしい。付き合ってるわけでもないのに馬鹿な被害妄想をしていたものだ。
 
 それから二度ヒートを迎えた朝日は、症状が随分と軽減されていることを自覚する。それはまるで、瀬良と番になる前のようで。最初は偶然かと思ったが、多少不定期だったヒートがまた安定し始め、それが続いたことで身体の変化にも気づいた。
 
「ねぇ、蒼……なんか最近、楽になったかも。ヒート」
「そう? 良かったじゃん」
 
 蒼の慈愛の眼差しが向けられる。それはそれは、穏やかな笑みだった。彼が優しいのはいつものことであったが、しかし朝日はわずかな違和感を覚えた。
 
「あの、あのさ……」
「そういえば、内定出たよ」
 
 唐突に蒼はそう言った。まるで聞きたくない言葉を遮るかのように。あるいは、何らかの疑いから逃れるように。
 
「えっ……おめでとう! どこ?」
「Z製薬。Y製薬も内定は貰ったんだけど、Z製薬の方が面白そうかなって思ってね」
「そっか! 良かったねぇ」
 
 Y製薬はオメガのヒート抑制剤で有名な会社だった。効果はかなり弱まったとはいえ、朝日も愛用しているものだ。そしてZ製薬は、アルファやオメガをパートナーに持つベータ向けのフェロモンの誘導剤のパイオニアたるメーカーだ。投資家の間では、新たなバース時代の牽引者となる会社なのではないか、と期待されているらしい。
 熟考の末、蒼はZ製薬に内定承諾の連絡を入れたのだった。
 
 蒼はもう朝日を手放すつもりは微塵もなかった。たとえこれから瀬良とは正反対の真面目で優しい一途なアルファが出てきたとしても、譲る気は一切ない。とっくに覚悟は決まっていた。それこそ、手を汚しても良いくらいに。

 もとより約八年間、伊達に高校から思い続けてきたのではない。人生をかけて朝日のそばにいるつもりなのは、今後の人生においても変わることはない。
 
「今度お祝いしようね、僕奢るから!」
「はは、楽しみにしてるよ」
 
 抱きついてきた朝日をすっぽりに手の中にしまい込む。もう誰にも奪われないように。朝日の後頭部を撫でる。左回りなんだよな、と彼のつむじを指でなぞって遊ぶ。

 静かな部屋で、二人の柔らかな声だけが互いの耳をくすぐる。今どきの若者らしく、朝日の部屋にテレビは無い。休職中のため暇ではないかと思ったが、映画などの娯楽を見るにもスマートフォンで事足りるらしい。
 
 だから例えば番を捨てた男が自殺に見せかけて殺されたとか、例えばその捨てられた番の女が捕まったとか。そんな物騒な話はたまたまネットで目にでもつかない限り、朝日には知るよしもないのである。
 
「ねぇ、そうそう。この前気づいたんだけど。僕の頸、噛み跡消えてる、よね?」
「――本当だね」
 
 朝日が頸を指差した。やっと、頸の傷が消えたことに彼も気付いたのだ。あれだけ消そうと掻きむしっていた傷。蒼がしばらくの間、朝日の家から離れているうちに、その悪癖自体は治っていたが。

 蒼はあたかも、今初めて気づいたかのように嘯く。実際今まで背後からだって何度も朝日を抱いていたんだから、気づかないわけがないだろう、と笑いたくなる。

 傷を隠すためとはいえ、外出時は夏でさえシャツをきっちり締めているの姿は見ているだけで暑苦しいものだった。来年の夏からもっと開けた襟で過ごせるというのは、さぞ嬉しいことだろうと思う。
 
「どういうことだろ……もう、番じゃなくなったって、こと? 瀬良くんは……」
 
 気付いているのか気付いていないのか。分からないが、核心をつくような質問だった。しかし、真っさらなその頸――自らの罪の証拠を眼前にしてもなお、蒼の心は非常に凪いでいた。

 熱い胸板の中で朝日は首を傾げる。正面から彼を抱き込んでいた蒼は、朝日を百八十度前後にひっくり返した。後ろからすっぽりと収める。小柄な彼は収まりが良い。再び彼の頸を見つめる。まるで今まで何にも汚されたことのない雪のような、白い頸。
 
 振り向いて蒼の顔を見ようとする朝日の顎を掴み、強引に前を向かせるとそのまま、彼の新雪に顔を寄せ――思い切り噛みついてやった。
 
「いっ! んぐ、痛い、よ……!」

 角度的に見えないが、きっと朝日は苦悶の表情を浮かべているのだろうと予想がつく。油断していたなら痛みは殊更のものだろう。

 形の良い、ただでさえ下がり気味の眉を寄せて、歯を食いしばって瞳を潤ませる、そんな表情が目に見えるようだ。しかし、朝日の悲鳴にもつかぬ彼の抗議は聞き入れてやらない。蒼は歯から自らの口内に滴る血の味を、喉に流し込む。
 
 可哀想な朝日。せっかく綺麗になった頸に、また傷がついてしまった。震えるむきだしの背に流れ落ちる赤を、舌で舐め取ってやる。

(ねぇ、朝日。君に尽くしていた男がずっと何を望んでいたか、知ってる?)

 ちゅう、と慰めるように彼の首筋や頬をに音を立てて啄んでやれば、蒼の凶行を責めるような朝日の視線もすぐに蕩け始める。

(その頸に、自分の咬傷をつけてやることだよ)

 そして朝日が強請るように目を瞑って顎を上げるから、望み通り唇を奪ってやった。
 優しく触れるだけにとどまらず、口内も唾液も、文字通り朝日の奪い尽くすようにキスをする。腕の中の朝日は全身から力が抜けて、すっかり蒼のされるがままになっていた。
 
 そうだ、先程朝日は何と言っていたか。あの男がどうなったか? 
 蒼にはもうどうでも良いことだったが、返答くらいはしてあげよう。

「さぁ? もしかしたら、どこかで」

 朝日の頸の上。新たに自らが作った咬傷に、今度は優しく口付ける。
 
「――くたばったのかも、しれないね?」

 

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