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メリバ小説部門 選考通過作品 『紅を引く』

2025/11/07 16:00

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『紅を引く』作:仲町葵

 

 

あらすじ
世界中に熱心なコレクターを持つ著名な天才画家、片桐秀一は自他ともに認める稀有な才能の持ち主だった。そんな片桐に突如、感覚の鈍化というスランプが襲う。才能が枯渇するなど夢にも思っていなかった片桐は、どうにか失った感性を取り戻そうと躍起になるもうまくいかない。
 そんな中、片桐の元へ浅川春彦と名乗る美青年が訪ねてきた。青年は片桐を崇拝し、作品作りを手伝いたいと申し出る。それは自身の命が潰える瞬間の情動を描く糧にして欲しいという、狂気に満ちた提案だった。藁をもすがる思いの片桐は、春彦を神が遣わしたミューズだと思い、描き上げるまで一緒に暮らすことを提案した。
 歪に始まった二人の同居生活の中、片桐と春彦の心境は様変わりをしていく。才能に飢えた片桐と死を纏う春彦の愛の行く末とは。

 ※こちらの作品は性描写がございます※


一九五九年夏。
噴出した汗が耳の中に流れ込むのを、鼓膜を劈くような蝉の声に苛立ちながら、片桐は着物の袖で乱暴に拭った。
「あついっ」
唸るように吐き出した独り言に振動して、顎先に留まっていた汗の粒が紙の上に鈍い音を立てて落ちていく。忌々し気に見やると、思わずため息が零れた。線が滲んでだらしのない黒い円を描いている。
「ああ、もう……」
浴衣の袖でこすると、円がぐにゃりと伸びた。描かれた下絵もさることながら汗の滲んだ水滴さえ醜くい。不快な暑さが肌に絡みつき、蝉の声が一層けたたましく聴こえる。
冷暖房機の電源を入れれば多少の苛々はどうにか出来るだろうけれど、それはできなかった。この不快すら感じ無くなってしまったらきっと、この筆は一層進まなくなってしまう。
 片桐秀一は画家だ。それも、ただの画家ではない。十九歳で描いた処女作で大賞を受賞し、その後、国内外の個展は勿論商品化やメディア化もされる有名な作品をいくつも発表してきた才能に恵まれた画家だった。
片桐の絵画の売りは、メッセージ性が明確なモチーフにあった。人物画ならモデルの精神性まで暴くように。静物画ならその物に宿る過去や現在の背景まで伝わってくるように。破廉恥だと揶揄されそうなギリギリの、時にタブーとされるような題材をも迷いなく描き、何を描いても片桐の右に出るものは居なかった。
一方、私生活はどうかというとよく言えば無頓着、言葉を選ばず言えば滅茶苦茶だと表現できる。数年前までは同居していた祖母のお陰で何とか人並に生きていたけれど、祖母は急な病で他界。以降は私設秘書のように動いてくれているギャラリーの人間が片桐の面倒を見てくれている。
おまけに対人関係も希薄で、友人はいない。恋愛と呼べるような経験も片手どころか指二本で事足りる。その二回の交際もそれぞれ数週間と短く終わり、プライベートの人間関係が片桐の心を満たしてくれることは無かった。きっと他人への興味が薄いのだと、片桐はまるで他人事のように自分を分析している。
なのにどうして、生々しいほど美しく情緒豊かな作品を描けるのかといえば、魂からくる衝動が、人を強烈に突き動かすということを肌感覚で理解しているからだった。
少年の頃、父は外に女を作り、縋る母を何発も殴りつけて家を強引に出ていった。
自分の不貞を棚に上げて女に手を上げる男などろくな人間ではない。いっそのこと出て行って貰ってよかったとすら思っていたけれど、どうやら母は違ったらしい。
精神不安で日に日に衰弱する母を片桐一人で支えるのは難しく、田園調布にある祖母の家に移り住んだ。
田んぼや川に囲まれた長閑な景色と穏やかな祖母の愛が、じきに母を癒してくれるはず。片桐は幼心にそう暢気に構えていたけれど甘かった。ほどなくして母は自死を選んだのだ。
一度は愛したはずの女を傷つけてまで愛人を選んだ父。屑のような父を愛し続けて命まで削ってしまった母。そんな二人を傍らでみてきた片桐だからこそ、人の情動を理解し、この唯一無二の才能を開花させることができたのだと思う。
ひとたび作業に没入していけば、体の底から感情が溢れ出し、いくらでも描くことができた。この感性は実生活には何の役にも立たなかったけれど、才能は才能。公人として、申し分のない人生を送っているし、生涯送っていけると思っていた。
けれどその才能が今や風前の灯火になっている。まるで、全ての感覚が閉じてしまったように無感情なのだ。何をしていても何を見ても、心が震えない。深淵からこみ上げてくるものが感じられない。今はこの、暑さと蝉の声と汗に募る苛々だけが、片桐に残された唯一の希望だった。
「先生、新作の構想は如何でしょうか」
ふいに、羨望の眼差しでこちらを見つめる関の顔が脳裏にちらついた。
関は片桐の絵画をきっかけに東京では有名なギャラリーの運営もしている会社の社員で、片桐を崇拝している。四年前、フランスでの個展の成功を祝したパーティーで出会い、まだ新人だった関を自分の世話係にと指名した。
周囲からは、新人をつけるわけにはいかないと渋られたけれど、押し切る形で無理やりつかせて今に至る。関の瞳の奥にうつる情熱の色が好ましかったのだ。
けれど、完全に筆が止まったこの数か月、片桐は関のことが急に疎ましくなり、用事は全て電話で済ませるように言付けた。あれほど気に入っていた関の熱量をもってしても何も感じない自分が腹立たしくて、半ば八つ当たりのようなものである。
今までは二日に一度は家へきて、身の回りの世話をしてくれていた関が来なくなると、独り身には広すぎる平屋の家は荒れ、閑散とした。まだ若い彼に美味しいものを食べさせようと、週に一度は必ずとっていた江戸前寿司の味も、連れ立って行った日本橋のうなぎ屋の白焼きの香ばしさも、もう覚えていない。
来訪は控えて欲しいと伝えた時の関の声は、電話口からも分かるほどに落胆していた。きっと、何か粗相をしたのではと思い詰めていることだろう。けれど関の心中を察する余裕など、今の片桐は持ち合わせていない。
才能は有限だなんて知らなかった。感覚が鈍化するなんて聞いていない。
片桐はむくりと起き上がると、よれよれになった紙を丸めて力任せに投げ捨てた。紙は乾いた音を立てながら転がっていき、縁側を飛び出して庭に落ちていく。無能な白紙を戒めるように、太陽が照りつけている。
干からびた地面に紙屑の影がぽつりと落ちているのを空しい気持ちで眺めていると、ふと、砂利を踏む足音が聞こえ、片桐は視線をもち上げた。
「あの、ごめんください」
見ると庭に知らない青年が立っていた。真っ白なボタンダウンのシャツに、黒のスラックス。黒々と艶やかな髪を微かになびかせて、今の今まで太陽に一切晒されることなく生きてきたかのように透き通る白い肌が、電気もつけずに酷使していた目にはひどく眩しく見えた。
幼さの残る大きな双眸に、遠目から見ても整った美しい面立ちは、まるで片桐の絵画から抜け出てきたモデルのように耽美だ。
「すみません。玄関でお声掛けをしたのですがこちらから音が聞こえてきて、つい庭に」
「いや、こちらこそ気が付かず申し訳ない」
「いえいえ。とんでもございません。あの、僕、浅川と申します。片桐先生でお間違いないでしょうか」
(片桐先生、か)
片桐はまたかと一瞬眉を顰めてから、はい、と短く返した。熱烈なファンが時々訪ねてくることがある。
祖母が健在だった頃は近所付き合いも活発で、片桐がこの家で生まれ育ったことは有名な話だった。今では、片桐を少し知るものであれば住まいは容易に特定できる。
関からは安全性のためにも引っ越しをするか、せめてセキュリティの強化をと何度も忠告を受けてはいるけれど、どちらも気乗りがせずにそのままになっていた。
「どのような御用でしょう」
淡々とした声色で聞くと、浅川と名乗る青年は深々とお辞儀をした。礼儀正しい所作を見るに、ひとまず危険人物ではないだろうとぼんやり思う。
「突然すみません。先生に依頼したいことがあり、失礼を承知で押しかけてしまいました」
「依頼ですか?」
片桐は持っていた筆を置いて立ち上がると、はだけた浴衣の裾を直しながら縁側に出た。浅川は頭を上げて、こくりと頷いている。
「というと、浅川さんは画廊かイベント関係の方ですか?」
「い、いえ」
浅川は申し訳なさそうな表情を浮かべ首を横に振り答えた。額の汗をハンカチで拭いながら、零れ落ちそうな大きな瞳で片桐を見上げている。
「あの、僕、ずっと先生の絵画のファンで……」
しどろもどろになりながら必至に語り掛けてくる浅川に、なるほど、と独り言ちた。ファンだというから記念撮影か、サイン希望かそんなところだろう。
依頼と言うから仕事絡みだと思ったけれど違ったらしい。とはいえスランプ中に仕事を受けられるわけもなく、内心ホッとしながら、片桐は浅川の要求を待った。
けれど、彼はひとしきり片桐への称賛を伝えると押し黙り、庭に立ち尽くしたままもじもじと肩を竦めたまま突っ立っている。
「あの、要件を……」
沈黙はほんの数秒だったと思うけれど、悠長に付き合ってもいられない。片桐は頭を掻きながら促すと、日の光に目を細めながら浅川を見た。
黒々した双眸を見つめていると、まるで吸い込まれるような感覚に襲われた。見れば見るほど不思議な雰囲気を纏う青年で、自分が好調であれば彼からいくつもインスピレーションを得られたことだろう。
内心ため息を吐きながらその瞳に釘付けになっていると、突如全身が粟立ち、冷ややかなものが駆け抜けた。
(なんだ、これは……)
黒々した瞳の奥底に、美しい青年には似つかわしくないほど強烈な絶望がとぐろを巻いている。片桐は思わず、こくり、と生唾を飲み込んだ。
浅川から視線を外し、庭に転がった紙屑を見やった。原稿用紙は今も、灼熱の太陽に焼き尽くされそうになっている。
「……立ち話もなんですから上がって下さい」
気付けばそう口走っていた。見たところ十代後半程の、まだ世間もろくに知らないであろう若い浅川の持つ絶望に興味を惹かれたのだ。久しく感じることがなかった、込み上げるような熱の片鱗をたしかに感じる。
浅川を居間にあげ、台所へ向かった。氷を入れたグラスに麦茶を注ぐと涼し気な音が家中に響く。茶箪笥を開けて、お中元で貰ったクッキー缶を探した。ふたを開けて中身を確認すると、全種類が手つかずのままぎっしり詰まっている。
「缶のままですみません。男の一人暮らしだとこういうのはからきしで」
お茶とクッキー缶をテーブルに並べると、浅川は、お気遣いなく、と心底恐縮しながら言った。
「遠慮なくどうぞ。この暑さだし喉も渇いたでしょう」
片桐がすすめると、浅川は恥ずかしそうに肩を竦め、麦茶のグラスに唇をあてた。ガラス越しに桃色の唇がぬらぬらと光っている。喉が渇いていたのか浅川はそれを一気に飲み干した。麦茶は、彼の筋張った喉仏を上下させながらするすると胃の中に落ちていく。氷の崩れる音がカラリと鳴ったところで、片桐はおもむろに切り出した。
「お話を聞かせてくれますか?」
「有難う御座います。まさか本当に聞いていただけるとは思っていなくて、すみません」
浅川はそわそわと、僅かに頬を紅潮させながら言った。
「それでもこの暑い中来てくれたのでしょ? どちらからお越しで?」
「北海道です」
「そんな遠くから!」
思わず目を見張ると、浅川は苦笑いを浮かべた。
「居ても立っても居られず飛び出してきてしまい……」
「そんな無茶な。もし僕が門前払いをしていたら、とんぼ帰りするつもりだったんですか」
「そうですね。その時は、そうしていたかも」
「かも?」
「はい。ちょっと分からない、です」
浅川はたどたどしく言葉を紡ぐと、困ったように笑っている。
旅の予定がわからないなんてことがあるのだろうか。含みのある言い方に違和感を覚えつつ、そのまま耳を傾けた。
「先生。僕は先生の作品に出会えて救われました」
「あはは。そんな大層なものではないですよ」
建前の謙遜も、浅川の熱を真っ向から浴びると、なぜか恥ずかしく思える。この手の賛美は言われなれているはずなのに、彼に言われると胸の奥がむずむずして居心地が悪い。
「先生の絵画を励みに生きてきたと言ってもいいくらい」
片桐は、浅川の熱狂に押されながら額をぽりぽりと掻き、それはどうも、と控えめに言った。
「それに先生は想像通りの素敵な人でした。得体の知れない僕の話をちゃんと聞いてくれる。やっぱり僕の勘は正しかったです……」
しばらく作品の感想などを述べたあと、浅川は徐に立ち上がった。片桐の視線はその細い体躯をなぞるように持ち上げられる。
「ごめんなさい。本題に入る前に、お見苦しいものをお見せします」
そういうや浅川は唐突にシャツの裾をめくり上げた。
「えっ……」
白肌の体躯にうっすらと線の入った腹筋。少し骨の浮いたあばらが繊細さを醸し出す儚げで美しい裸体が視界に飛び込んでくる。
(これ、は……)
けれど、そのどれもを無視して片桐の視線はただ一点に注がれた。絹のような滑らかな肌に刻まれた大きな傷だ。まるで紅を引いたように真っ赤な蚯蚓腫れが下腹から一直線に伸びている。
「なっ、なっ」
「大変失礼しました。でも、見て頂いた方が早いと思い」
 動揺して口ごもる風間を尻目に、事も無げに身なりを整えると、浅川は再び腰を下ろした。
「だっ、だからっていきなりそんな」
ひどく声が上ずった。喉が震えているのが分かる。唾がひっかかってむせそうだった。
「この傷は、自分で切ったものです」
「腹を・・・・・・切っただって?」
「はい」
浅川は、まるで髪を切ったとでも言うような口調で言った。至って淡々としている。一人慌てふためいている自分の方がおかしいような気さえしてきた。
片桐は、じっとり汗をかいた手で湯呑を掴むと麦茶を無理やり流し込んだ。鼻で荒い呼吸を繰り返し、どうにか少し落ち着けると、再び浅川と向かい合う。
「どうして、そんなことを」
「それは……これを話すのにはまだ勇気がなくて」
「身勝手な。突然一方的にそんなものを見せられて。僕には聞く権利があるはずだ」
「はい。不躾は承知です。依頼を聞いていただけたら、いつか必ずお話します。ただ今はまだ……」
「じゃあ。その依頼というのは一体なんだ」
苛立ちを隠さず荒々しく言い放つと、浅川はしばらく沈黙し、申し訳なさそうに口を開いた。
「先生、このところ活動を休止されていますよね。新作も挿絵も、新しいものは出ていません。先日はついにスランプだと騒ぎ立てる週刊誌も見ました」
「ぼっ、僕の話はいいだろう。それに、そんな記事、事実とは異なるよ……」
吐き捨てるように言うと、浅川は気づかわしげにこちらを見た。その憐れみを含んだ眼差しが、一層心をかき乱してくる。
「僕もそう信じています。でも僕にとって、先生の作品はただの絵じゃないんです。人を救ったり助けたり、寄り添ったりできる尊いものなんです。だから湧き水のように絶えずこの世界に生み出されるべきだと思っています」
(そんなこと分かってるよ!)
 思わず叫びそうになるのを必死に押し殺し、片桐は拳を握りしめる。この世では何一つ変わらないものなどないと説く仏教をも越える不変の才能が自分には備わっていると信じていた。こんな若者に言われなくてもわかっている。
「……。僕は描きたい時に描きたいものを描きたい。そ、それに、そうだ。ただ出せばいいってわけでもないだろう。つまらない、望まないものを出すくらいなら描かない方がいい。僕のファンだというなら、僕の美学を理解してくれているはずだ」
そうだ、と片桐は心の中で独り言ちた。描かないという選択は別に悪ではない。片桐は浴衣の帯をさすりながら、浅川に言ったことを内心何度も反芻する。
「もちろんです。でも、だからこそ来ました。僕ならきっと、先生に描きたいと思ってもらえるだろうと思ったからです」
 片桐は奥歯を噛みしめた。この才能の枯渇に、毎日毎晩どれほど苦しめられたことか。ありとあらゆることを試した。試して、試して、それでも駄目で、何度絶望したことだろう。それを、ほんの少し見目が良いだけの若者が簡単に取り戻せるなどあり得ない。
「……はあ」
 もう、とても聞いていられなかった。これ以上話していたら、頭がどうにかなりそうだ。なんて無神経な奴なんだと怒りが込み上げそうになった時、凛とした声で浅川が言った。
「ぜひ、僕を題材に絵画を書いてください」
「……はい?」
「言葉の通りです。僕は一度、死に損ないましたが死ぬことを諦めたわけではありません。僕は欠陥だらけの人間ですが、先生のお役に立てるならマシな人生として終われると思うんです」
「つまり、君はもしや……」
「はい。僕は先生のために死んでみせます。もちろんご迷惑にならない形で。創作には込み上げる衝動的な熱が必要だと先生のインタビューで読みました。ぜひ僕の命を、熱量を、潰える瞬間の情動を、先生の才能の糧にして頂きたいのです」
片桐は、その時初めて自分が恐怖で震えていることに気がついた。激しい動悸がして、背中を冷や汗が伝い落ちていく。
浅川の瞳の中に見た絶望の正体は死だった。そんなものに好奇心を抱いて軽率に彼を家に上げた自分を呪いたい。後悔の念が押し寄せる。
けれど一方で、恐怖の底からふつふつと湧いてくるものを、片桐は見逃せなかった。高揚感だ。浅川と話はじめてからというもの、自分の中に様々な感情が湧き起こっていることも奇跡と言っていい。
彼はとても正気とは思えない。今時切腹自殺なんて惨たらしい方法を選んだことも、自分のために死ぬことで存在価値を証明したいという論拠もすべて常軌を逸している。
しかし、この頭のおかしな青年こそ、唯一無二の才能を取り戻せるように神が遣わしてくれた贈り物ではないだろうか。そう考えれば、彼を描くことは何より必然のことに思えてくる。
「わかり、ました」
片桐は、僅かに震える唇に力を込めながら答えた。
「本当ですか! 有難う御座います。先生、有難う御座います」
浅川は大きな目からぽろぽろと大粒の涙を落として泣いていた。自分のために死ぬことが泣く程嬉しいことらしい。片桐は塵紙を数枚引き抜き、涙を拭ってやった。
「一先ず、友人の息子ということにしよう。近所の人や来客に何か聞かれたらそういいなさい」
「はい!」
「今はどこに泊ってるの?」
「あ、えっと……。まだこれから探すところで」
「そうか……。本当に見切り発車で上京したんだね」
 若さゆえの無鉄砲か、それとも生への執着の薄さがそうさせているのか。片桐はしばし思案したのち、思いついたように言った。
「幸いうちには僕しか居ないし、家事に手が回らずに困っている。君さえよければ描き終わるまで家事手伝いとしてここに住むむのはどうかな」
「本当ですか? 先生と一緒に暮らせるなんて夢みたいです。何でもします」
「それは助かるよ。えっと、名前は……」
「春彦です!」
 浅川春彦、か。片桐は頭の中で彼の名前を反芻した。所作も見目も麗しく、虫も殺せないような繊細な雰囲気を持ちながら、切腹という惨たらしい方法で自死を図ろうとした不思議な青年。ファンとはいえ、初対面の自分のために命を捧げようとしている可哀想な子。
「春彦、荷物を持っておいで。客間に案内するよ」
春彦は慌てて立ち上がると、縁側に置いてあった大きな旅行鞄を持ってきた。片桐は、重いだろう、と遠慮する春彦から荷物を受け取ると廊下の突き当りの部屋へと案内する。
「ここを自由に使って」
「素敵なお部屋ですね」
この家にはセミシングルほどの天蓋ベッドが備え付けられた洋室が一室あり、そこを客間として使っていた。ボルドーカラーの絨毯が敷かれ、障子の代わりにモザイクのガラス窓がはめられた部屋は、アメリカ人の曾祖父の自室だったと聞く。
レトロな洋間が珍しかったのか、春彦はベッドの柱を撫でながら部屋中をきょろきょろと見渡していた。彼の耽美な出で立ちとこの部屋はよく合う気がする。
片桐はざっと設備を説明すると、鞄を丸テーブルの上に置き客間を後にした。春彦の荷物は大柄の鞄に見合わないほど軽かった。



片桐の家に居候をはじめて一週間がたった。今のところ何の粗相もなく、家事は勿論、片桐の身の回りの世話も全て完璧にこなせていると思う。
崇拝している存在に自分を題材に描いてもらえるなんて未だに信じられない。もちろんそうなって欲しいと決死の覚悟で上京したわけだけれど、まさか同じ屋根の下で暮らせることになるなど夢にも思っていなかった。
片桐秀一という人は、想像通り完璧だった。西洋の血が感じられる彫刻のような面立ちに、色素の薄い瞳と栗色の長髪が艶やかで美しい。和服をさらりと着こなし立ち居振る舞いも気品に満ちていて何から何まで洗練されている。
若くして一流の芸術の世界に入ったからか、そもそも早熟だったからなのか、年齢はまだ三十前半だと聞くけれど、春彦にとって片桐はまるで全知全能の神様のように思えた。
「先生、少しいいですか」
作業部屋のドアをノックして春彦は控えめに声をかけた。中から、ああ、と優しい声が返って来るとそっとドアを開けて、失礼しますと頭を下げる。こちらへ振り返った片桐は少しやつれて見えた。
この家を訪ねた日、立派な冷暖房機を持っているのに使おうともせず、居間の、しかもわざわざ日の当たる場所に突っ伏して鉛筆を走らせる片桐の様子は異様だった。
翌日、仕事に口を出すのはいかがなものかと思ったけれど、このままでは体に障ると思い、家の掃除を口実に、せめて作業部屋で作業して頂けるようお願いをした。
「春彦。明日からは早朝八時までに作業部屋の冷房を効かせておいてほしい。調子が出てきたんだ」
 ある日突然、そう言付けられた。筆が乗るのと冷房と、一体何の関係があるのだろうと不思議に思ったけれど、そう話す片桐の表情が明るくみえて、春彦は片桐からの言いつけを毎日しっかり守っている。ひとまず熱中症の懸念はなくなったと安堵した。
にも関わらず、相変わらずやつれ顔の片桐をみるに、今度は作業に夢中になって、ろくに睡眠をとっていないと見受けられる。春彦は夕飯の献立に何か精のつくものを加えようと考えながら、片桐の方を見やった。
「先生。食材を買い足しに行きたいのですが」
「冷蔵庫はもう空っぽか」
片桐は苦笑しながら机の引き出しを開け、黒い革の財布を取り出しこちらへ差し出した。
「お財布ごと?」
恐縮しながら訪ねると、片桐は首をかしげてから、ああ、と頷いて笑っている。
「春彦は浪費家にも泥棒にも見えないからね」
「そっ、それはもちろんです」
春彦は控えめに財布を受け取ると、ぺこりと頭を下げた。
「知り合ってまだ間もないけれど、僕はちゃんと君を見ているつもりだよ」
(先生、僕を信頼してくれてるんだ……)
思わず涙が込み上げそうになるのを堪えて頷くと、受け取った財布を両手で抱きしめた。
「いってきます」
小さくお辞儀をすると、作業部屋をあとにする。急いで部屋に戻り、手持ちの中で唯一のお洒落着であるシャツとスラックスに着替えた。
もしも外で近所の人に出くわした時、みっともない服を着ていては片桐の心証を悪くしかねない。家からほんの十数分の距離であっても気は抜けない。春彦は手早く身だしなみを整えると、足取りも軽く外へ飛び出した。
家を出てすぐ、隣家の老人が打ち水をしているところに出くわした。ぎゅっと握り拳を作り、自然な笑みを作ると爽やかに挨拶をする。確か前に表札を見たとき、自分と同じ浅川という苗字だったことを思い出す。挨拶から会話が続いたら、自分も同じ浅川といいます、などと自己紹介をしようと考える。
けれど、そんな春彦の思いもむなしく、老人から挨拶は返ってこない。それどころか春彦の声を疎ましいとでもいうように只管打ち水を繰り返している。
聞こえなかったのかもしれない。春彦は恐る恐るもう一度声をかけた。先ほどよりもずっと小さな声になってしまったからか、やはり老人は春彦に見向きもしない。
容赦ない日差しが春彦を焼き尽くそうとしていた。いっそ、このまま焼き殺されてもいいと思った。けれどすぐに片桐の顔が浮かんで、自分はまだ死ぬまいと言い聞かせる。
地面に根をはったように動かなくなった足元に、大丈夫だ、と呟いた。嫌な汗が背中を伝い落ちていくのが分かる。
腹に横たわる古傷がぬめぬめと重たく疼いた。自分の惨めさを何度も刻み付け、知らしめてくるようだ。春彦は唇を噛みしめ、重い脚を前へ、前へと押し出した。
片桐と、片桐の絵画と、夏バテにも負けないとびきりの献立と、片桐に預けて貰った財布の革の柔らかな肌触りに集中しながら足早に歩いた。



春彦が来てから数日。片桐の筆は徐々に勢いを取り戻しつつあった。下絵を数パターン描き終えると、買い物を終えた春彦が丁度帰宅したようだった。
春彦は、本当によくやってくれている。言いつけたことはもちろん、言いつけていないことも完璧で、痒い所に手が届くというのはまさにこういうことを言うのだろう。多くを語りたい時、語りたくない時、そっとしておいてほしい時とそうでない時を、春彦は絶妙に嗅ぎ分けて接してくれる。
「ただいま帰りました」
溌溂とした声が聞こえて出迎えに行くと、春彦は両手にいっぱいに大きな袋を下げていた。暑さに体力を消耗しただろうに、それでもなお春彦の笑顔には瑞々しさが宿っている。
「すみません。少し遅くなってしまいました」
「大丈夫だよ。それより、そんな大荷物になるなら一緒に行くべきだったね」
片桐は遠慮する春彦から買い物袋を受け取ると、こんなに重たいじゃないか、と気遣ってみた。
「お米とお味噌が安かったので、つい」
 そういって春彦はへらりと笑っている。
片桐は、靴を脱ぐ春彦の手元を見た。真っ白な春彦の指は、ビニール袋が食い込んで跡になり、紫色に変色している。こんな紫を使ってみても良いかもしれない。そう思案しながらふと袋を見ると、近所の商店街のものとは違う店のロゴが印刷されていた。
「駅前の方に行ったの?」
「以前散策がてら立ち寄った時、駅前の方が安いものがあったなって思い出して」
「そんな気を使わなくてもいいのに。とりあえず、今度買い物に行く時は僕も一緒に行くよ」
春彦は暑さで火照った頬を一層赤らめ、ぺこりと頭を下げている。台所で一緒に荷ほどきをすると、片桐は夕食の時間まで仮眠をとることにした。
 夜になり、夕食の支度が整ったと春彦が呼びに来た。ほんの数時間の仮眠だったけれど、思いのほか頭がすっきりしていて心地よい。丁度腹も減ってきた。居間に向かうとテーブル一杯に料理が並べられている。
きっと精がつくものを、と考えて献立を決めてくれたのだろう。ボリュームがありながらも油は控えめに調理された夕食は格別だった。きれいに食べ終え、淹れなおしてくれたお茶を飲みながら、片桐は台所で食器の後片付けをしている春彦の後姿をぼんやりと眺めた。
一般的な成人男性と比べるとやや小柄な春彦が食器棚に手を伸ばしたり、爪先立ちになって高いものをとったりするたびに、華奢な腰が突き出されてエプロンの蝶々結びが左右に揺れ動いている。優しい衣擦れの音が耳元に囁くように聞こえた。
「春彦」
名前を呼ぶと、春彦はぴたりと作業の手を止め、片桐の方を軽やかに振り返り小首をかしげた。春彦の一挙一動が家中の空気をコロコロと軽やかに揺らしている。
「細かな構想が出来上がったんだ。明日から本格的に書き始めるつもりだよ。君を中心に描きたいから時折モデルを頼む」
「本当ですか!」
ああ、と相槌を打つと春彦はガラス玉のような瞳を一層輝かせて喜んでくれた。
「今回は油彩で考えている。少々モデルを頼むこともあると思うからその時は協力してほしい」
 片桐は、何を描く時もモデルやモチーフを長時間観察することはしない。フォルムを捉えた後は、自然とデッサンが訴えてくる感情やエネルギーを抽象的に描くようにしていた。
「そうだ。それと、明日来客がある。僕の私設秘書のような奴で君が来る少し前まではよく家に出入りしていたんだ」
「そう、なのですね」
「完成するまではまた前のように度々来ると思う。夕食も一緒にとる日もあるけれど、構わない?」
「もちろん大丈夫です。僕のことはお構いなく」
「ありがとう」
「そんな……。居候の身で恐れ多いです」
そう言いながら、春彦は手に握ったフキンの角をしきりにいじっている。
「なにか、不安かな」
「いえ、あの……」
春彦は困ったように眉を寄せると、そのまま俯いてしまった。
「思う事があるなら言っていいよ。迷惑なことないんだから」
「僕、初対面の方にうまく振舞えるか不安で」
なるほど、と片桐は独り言ちた。
「すまない。何の説明もなしじゃ不安に思って当然だよ」
「いえ。僕が至らず気弱なだけで」
 そういって春彦は困ったように笑っている。
春彦と過ごして数日、新たに気付いたことと言えば春彦にはどうも卑屈なところがあるということだった。そもそも、こうでもなければ自分の命を差し出すことで生きた価値を見出したいなどという発想は浮かばないだろうけれど、それでも、あまりに自尊心が欠落していると感じる。
 空気を読む力も長け性格も良く、見目も整い、家事も頼まれごとも完璧にこなす春彦のどこに、これ程の劣等感を抱かせるのかと思うと不思議だ。
「関といって年は君とほぼ同年代かな」
「ずいぶんお若いんですね。僕、先生のような方にはベテランというか、もっと年配の方がつくものかと思っていました」
「本来はそうだね。彼は僕がスカウトしたんだ」
「スカウト?」
「そう。僕のファンでこの業界を目指したらしくてね」
「先生のファンの方……」
「その熱意に心打たれて無理を言って担当にしてもらったんだよ。ほら、僕は人の情熱や衝動的な熱を感じるのが好きだから」
「そう、だったんですか」
「はじめは戸惑うかもしれないけれど、関の人間性は保証するし、僕も一緒に居るんだ。うまく振舞えるかなんて心配しなくても大丈夫だよ」
春彦の隣に並ぶようにして立つと、片桐はその小さな頭をぽんぽんと優しく撫でてやった。黒々した瞳が片桐を絡めとるように見つめている。
「……でも、彼ではだめだったんですよね?」
そう、春彦の唇が動いた気がした。呟くような声に、はっきりと聞き取ることはできなかったけれど、きっとそう言ったように思う。
「さてと。お風呂、先に頂くよ」
ひとまず今日はこれくらいでいい。そう内心独り言ち、片桐は踵を返す。春彦の笑顔に見送られながら風呂へむかった。

丁度よい加減の湯船につかりながら、片桐は春彦と過ごしたこの数日を思い起こした。
春彦が訪ねてきたあの日。瞳の中にみた闇と、彼が差し出すものに画家人生の起死回生をかける思いで家に置くと決めた。それから数日、彼の献身のお陰で充実した日常を取り戻しつつある。
しかし、だ。元々春彦の存在も彼との約束も、とても正気とは思えない狂気じみたものだった。
穏やかな日常など、何をぬるま湯につかっていたのだろうと思う。ただ筆が乗ればいいという、そんな甘いものを求めて彼をこの家に置いたわけではない。あの唯一無二の才能を今一度取り戻したいのだ。
春彦も春彦だ、と急に苛立たしく思えて、片桐は浴室の壁にだらしなく付着する水滴を掌で払いのけた。あれほど強烈に死を匂わせ、生々しい傷まで見せておいて、それからというもの切腹をはかった経緯を話すでもなく何事もなかったように過ごしている。
もちろん、申し分ないほどに尽くしてくれている。実際、構想もまとまり仕事の流れも上向きになってきたのも感じる。
でも、そうじゃない。春彦は片桐を再び蘇らせてくれる天から与えられたミューズなのだ。
「彼ではだめだったんですよね?」
そう言ったかもしれない春彦の声が勝手に脳内再生されてぐるぐると駆け巡る。
(ああ、ダメだったよ。僕には君しか居ないんだ)
ゆらゆら揺れる湯面に映った自分の顔を見た。少し前までひどくやつれていた顔が、今は多少まともに見える。春彦が食事のバランスや夜食の調整、質の良い睡眠がとれるような工夫をあれこれ先回りをして世話をしてくれるからだ。
片桐は掌で湯面をばしゃばしゃとかき回した。たとえそれがどれ程不摂生なものであっても、片桐が欲しているものは、もっと感情が掻き乱れるような何かなのだ。
「先生? 大丈夫ですか」
浴室の外からふいに春彦の声が聞こえて片桐はぴたりと手を止めた。
「あの……タオルこちらに置いておきますね」
「ありがとう。ちょっと考えに煮詰まって」
「何か僕に手伝えることはありますか?」
春彦にできること? 死んでみせてくれと今言うべきか。一瞬そんな考えが浮かんだけれど、いや、それは今ではないと思いなおす。まだ足りない。片桐はふうとため息を吐いて事も無げに言った。
「そうだね。じゃあ背中を流してほしいな」
「背中、ですか? 僕でよろしければ」
湯船から上がりドアを開けると、春彦は顔を伏せながら慌ててタオルを差し出してきた。
(こんなことでいちいち頬を赤らめるのか)
タオルを受け取ると腰に巻き、石鹸をたっぷり泡立てたスポンジを渡して椅子に腰かけた。春彦はスポンジを受け取ると片桐の背中を恐る恐るといった強度で撫でていく。
「洗い足りないところはないですか?」
「大丈夫。気持ち良いよ」
耳まで真っ赤になりながら、緊張した様子で洗体している春彦の様子が、鏡越しに見受けられる。丁寧に湯をかけられて泡をすっきり流し終えると、片桐はいつになく穏やかな面持ちで春彦を見やり、労いの言葉をかけた。
「やっぱり、たまには人に洗ってもらうのもいいね。ありがとう」
「……普段はどなたかに洗ってもらっていたのですか?」
そう聞かれて、片桐はわざとらしく思案顔を浮かべる。
「身の回りの世話は関に頼むことが多かったかな」
「関さん、ですか」
片桐は再び湯に浸かると、手短に礼を告げた。
「今朝届いたお中元のフルーツゼリーがあっただろ? ゆっくりしながら好きに食べなさい」
もう下がっていいと圧を含んで言うと、小さな頭をぺこりと下げて春彦は出ていった。思わず緩みそうになる口元を引き締める。
関に身の回りの世話をしてもらっていたことは事実だけれど、もちろん湯の世話まで任せたことはない。そんなしょうもない嘘を真に受けて、明らかに動揺していた春彦を思い出すと天井に点在する水滴が星空のように煌めいて見えてきた。ふつふつと、何とも言えない感情で満たされ、何もかもが整っていく気がしてくる。片桐の心はいつになく高揚していた。



 何の変哲もない、いつも通りの午後。昼食休憩を取ったあとのまどろんだ空気の中で、関はパソコンに向かいながら、先輩が担当する企画展向けにと頼まれた調べ物をしていた。
片桐から長い暇を貰って以来、自分の仕事は社内の何でも屋のようになっている。片桐の家に足しげく通い、審美眼を学びながら仕事に励んでいた頃を思うと、関は時々、所構わず深いため息を漏らしてしまう。
それでも腐らずになんとか居られているのは、この何でも屋業が後々片桐の役に立つはずだと言い聞かせて自身を奮い立たせているからだ。
アート業界を目指したきっかけの憧れの人が新人の自分を公私ともに可愛がってくれている。関にとって片桐は仕事上でも特別な存在であるのは勿論のこと、尊敬する兄のようにも思っていた。その恩に応え続けなければいけない。
関はヒンドゥー教について書かれた、時々不気味な絵が掲載されている分厚い本を、これもいつか役立つはずだと思い込みながら必死の思いで読んでいた。
(だめだ。眠気が……)
 うつらうつら、船を漕ぎそうになっていた時。同僚の大きな声に肩がびくりと揺れた。
「関! 内線一番に片桐先生からお電話だ!」
「えっ!」
眠気も一瞬で吹き飛び、勢いよく立ち上がると、関は慌てて受話器をとった。
「せ、先生! ご無沙汰しています」
「久しぶりだね。連絡が遅れて申し訳ない」
久しぶりに聞く片桐の声は穏やかで、落ち着きと気品に満ちていた。最後の電話は片桐らしくない、つっけんどんな雰囲気で終わっていたからか、関は思わず椅子に崩れ込むと心底安堵する。
「朝一も掛けたのだけれど誰も出なかったから居てよかったよ」
「すみません。僕は朝一で出勤していたのに」
関は机の上を占領している本の中ですまし顔をしているシヴァという神を思わず睨みつけた。いつも通り、誰よりも早く出社していたけれど、昨日郵便で届いていたはずの資料を探しに行って離席していたのだ。
「責めたわけじゃないよ。君のことだから調べものか何かだろ」
「流石先生。その通りです」
「ちなみに何を?」
「ヒンドゥー教の神様やら魔物やらについてです」
「なんだか禍々しいものを調べているね」
ページの隅に不気味な形相で描かれている魔物と目があった気がして、関は思わず苦笑う。
「長い間いい仕事をさせてあげられずに申し訳ない」
「そんな! 先生、とんでもないです」
「でも、やっと前に貰った企画展の話に取り組めそうなんだ」
「ほっ、本当ですか!」
関は思わず身を乗り出した。
「さっそく今日家へ来てもらえるかな。寿司でも食べながら話がしたい」
「もちろんです!」
関は、今にも込み上げそうになる涙を堪えながら言った。どれほどこの日を待ちわびていたことか。
「何時に来られるかな?」
「十九時頃になるかと思います」
「わかった。いつもの寿司を準備しておくよ」
片桐はいつも、自分では決して口に出来ないような美味しいものを、社会勉強だといって振舞ってくれる。一流料亭や有名店の食事もありがたかったけれど、片桐の家で仕事の話をしながら食べる江戸前寿司が、関は一番好きだった。
「ありがとうございます。神々と魔物、さっさと片付けて駆けつけますのでっ」
じゃああとで、といった片桐の声はいつになく調子が良さそうに聞こえた。きっとまた名作が生まれるに違いない。電話の余韻を名残惜しむように、関はしばらく受話器を耳に当てたまま話中音を聞いていた。



 春彦が床を雑巾で磨いていると、片桐の楽しそうな声が廊下から漏れ聞こえてきた。
今日の夜、片桐の秘書である関という男がくるらしい。同年代だというからおそらくはほぼ同時期から片桐の絵画に触れ、崇拝し、愛してきた者同士だろう。
けれど、関はまっとうに仕事で繋がり、作品を生み出す片桐を献身的に支え、片や自分は腹にみっともない傷を作って片桐のスランプに付け込むようにこの家へ転がり込んだ。その差は天と地ほどあるように思う。
昨夜、風呂場で片桐の一糸まとわぬ姿を見た。広い肩幅に均整の取れた体躯には、春彦にない逞しさがあった。片桐は普段、涼やかに浴衣を着こなし、丁寧な口調であるからか、どことなく中性的に見える。けれど、その体躯にはたしかに男の雄々しさが宿っていた。
関は何度片桐の裸を目にし、その背中に触れたのだろうと思うと、胸がじりじりと痛んで昨夜はよく眠れなかった。
最初はただ片桐の役に立つためだけに、自分を供物のように差し出す思いが強くあった。けれど実際に対面し、共に時間を過ごすうちに、片桐への敬愛や崇拝の気持ちだけではない感情が心に芽生えはじめているのを、春彦はひしひしと感じている。
「わかった。いつもの寿司を準備しておくよ」
片桐の声はいつも優しい。耳触りがよく、春彦はすぐに大好きになった。けれど今は、関に向けられるその声がもどかしく感じる。出過ぎた感情だと分かっているけれど、気持ちがどうしても割り切れない。
(冷静にならなきゃ。僕なんかが嫉妬なんて烏滸がましい)
ふう、と小さくため息を吐くと、春彦は雑巾をゆすいだ。灰色の水が透明な水を濁しながらバケツの中を侵食していく。
「春彦」
電話を終えた片桐に呼ばれて顔をあげた。
「はい!」
努めて明るく返事を返すと片桐の手が頭の上に落ちてきて、ポンポンと軽く触れるように撫でられる。二十歳過ぎの男が、頭を撫でられて赤面するなどみっともないと思うけれど、片桐にしてもらうこと、かけて貰う言葉、何から何までが春彦の心を鷲掴む。
「今日、関が来るんだけどね」
「はっ、はい」
頭から離れた手と共に急に現実に引き戻されて、春彦は慌てて頷いた。
「夜は寿司を取ろうと思う。馴染みの店があるんだ。あとで注文を頼んでもいいかな」
「はい」
「ありがとう。これが店の電話番号と注文内容。時間は十九時にと伝えて。片桐と言えばあとは向こうでわかるから」
「わかりました」
達筆で書かれたメモを受け取ると、春彦は頭を下げて掃除に戻った。
漏れ聞いた会話から察するに、寿司は二人の定番メニューなのだろう。関の好物なのかもしれない。春彦はふつふつと込み上げるほの暗い感情を押し込めるように雑巾がけに集中した。
 
「おじゃまします!」
十九時を少し回った頃、玄関から溌溂とした男の声が聞こえた。
「関が来たね」
優しい笑みを浮かべて玄関へ出迎えにいく片桐のあとについていくと、体格の良いさわやかな風貌の男がスーツ姿で立っていた。
「先生、本日はおめでとうございます。一同、心待ちにしていました」
関は恭しく頭を下げながら、時折涙を堪えているのか震えた声で言う。
これが関という男か、と春彦は片桐の後ろから控えめにその姿を観察した。スポーツマン風の出で立ちで、まるで陽だまりのような親しみやすさを感じさせる関には真っすぐな心根を感じる。
「おめでとうって。まだこれから始めるところだよ」
「そんなの最高傑作に決まってますっ」
食い気味に言う関に、片桐は照れたように笑っている。春彦は片桐の浴衣の袖を軽く引っ張ると、居間の方へちらちらと視線を向けた。
「あ、あの。先生、立ち話もあれですから……」
「そうだね。気分が良くてつい」
「い、いえ。せっかくのお話し中に口を挟んでしまってごめんなさい」
 思わず俯くと、片桐に肩をぽんぽんと叩かれた。
「そんなに謝ることなんてないよ。行こう」
(割って入るなんて最悪だ……)
自己嫌悪に押しつぶされそうになりながら、二人の後ろを追うように居間へ向かった。
畳の真ん中に鎮座するヒノキのテーブルの上には、大きな寿司桶が二つ。先ほど届いたものを春彦が受け取り、テーブルセットしていた。
「うわあ。懐かしいなあ。僕、先生と頂くここの寿司が世界で一番好きです」
関が感嘆の声を漏らすと、片桐は満足げな表情を浮かべて言った。
「君がくる少し前に来たばかりだよ。そんなに喜んで貰えるなら頼んだ甲斐があったね」
「いつもご馳走様です。あ、これ社長から預かってきまして」
そういって関は手にもっていた紙袋から化粧箱を取り出した。
「メロンじゃないか。ありがとう。食後にみんなでいただこう」
春彦は背中越しに二人の会話を聞きながら、手早くお茶を入れ終えると、片桐から桐箱を受け取った。
「そうそう。こちら、浅川春彦君といって友人の息子さん。北海道から出てきてしばらくうちに居候しているんだ」
突然紹介されて、思わず肩が跳ねた。春彦は箱を抱えながら慌てて頭を下げる。
「はじめ、まして。浅川です」
「こちらこそ。僕、関正文と申します。先生のお世話をさせて頂いてます」
関はなんの混じりけもない純粋な笑顔を向けながら、春彦の方へ太くて大きな手を差し出した。春彦は控えめに関の手を取ると、再びぺこりと頭を下げる。
「いやあ、じつはずっと、どなたかなって気になっていたんですよ。先生一向に紹介してくれないから」
関は豪快に笑っている。
「あはは。ここにいる間、ぜひ仲良くしてあげてほしい」
「もちろんです。北海道から一人で東京へなんて大変ですよね。もし何かあれば先生同様僕を使ってください」
「それではまるで僕が君を無体に扱っているみたいじゃないか」
春彦は、片桐と関が笑い合っている様子をどこか遠くから見ているような気持ちで眺めていた。関は片桐に対して気負わず冗談も言えるのかと思うと、まるで足元から床が崩れていくような錯覚に襲われる。
関の表情からは、片桐への尊敬と親しみが色濃く見て取れた。仲の良い親族のような、そういった情だ。自分の持つそれとは違うのは分かる。
それでも、いい気分はしない。烏滸がましいと思っても、片桐の才能に息吹を吹き込むのは自分だけであって欲しい。
「それは、助かります」
なんとか絞り出すように言って笑顔を作ると、春彦は台所へ逃げ込んだ。二人が楽しそうに談笑する声が響いている。
「春彦、大丈夫かい。そろそろ食べよう」
冷蔵庫にメロンをしまい、流し台の前にぼうっと立ち尽くしていると、ふいに名前を呼ばれ、心臓がどきりと跳ねた。
溶け込む努力をしなければ、と自分に言い聞かせる。片桐、関、自分――。歪で醜い異分子は自分なのだ。
 居間に戻ると、関が三人分の醤油皿と箸を並べてくれていた。
「すみません。やっていただいて」
春彦はお茶の湯呑とビールグラスを並べながら関に言った。
「いいんですって。浅川君は先生に近い方なんですから、粗相があったら上司にどつかれますよ」
近い人と言われて、思わず春彦は目を見開いた。
「あれ、だってこの片桐先生と一緒に住んでいらっしゃるんですよね? それ、ものすごいことですよ」
「こら。余計なことを言ってくれるなよ」
片桐に窘められて肩をわざとらしく竦めると、関は春彦に小声で言った。
「自分のテリトリーを大切にする方ですからね、先生は。僕だって通いですし、どなたかが長居されていることも見たことがないですよ」
そうだったのか、と春彦は口をぽっかりと開けてちらりと片桐の方を見た。ふと視線がぶつかってぎこちなく笑うと、片桐は目尻を下げて穏やかな笑みを返してくれる。
談笑しながら食事も進み、寿司桶の寿司が半分以上平らげられた頃、そういえば、と思い立ったように関が言った。
「浅川君はどうして東京に?」
唐突に聞かれてしどろもどろになっていると片桐が助け舟を出してくれた。
「春彦は短期で仕事に来てるんだ」
「ああ。なるほど。わざわざ東京だなんて、もしかして芸能とかそういう系の仕事ですか?」
なぜ、と思わず小首を傾げると関はビールを飲み干しながら言った。
「僕、仕事柄芸能関係の人とも面識ありますけど、浅川君みたいに整った顔立ちの人見たことないですよ。モデルさんとかでしょ?」
鼻息荒くまくしたてる関に気圧されて、どう返したらいいか分からず困惑していると、片桐が背中を優しく撫でてくれた。
「まあそんなところだけれど、あまり詮索しないであげて。春彦も話せることとそうでないこともあるだろうから」
「たしかに。すみません浅川君。僕、人との距離感近くて暑苦しいってよく周りに怒られちゃうんですよね」
「いえ、全然。僕こそ人見知りでごめんなさい」
春彦は桶の隅に並んでいた綺麗な黄色の卵巻きを取ると、ゆっくり頬張った。出汁のきいた卵はふんわり舌触りも滑らかで美味しい。二人の想い出が詰まった寿司をまともに味わえるか不安もあったけれど、現金なもので上等な寿司はやはり美味しいと思ってしまう。
桶の中がすっかり空になると、春彦は冷蔵庫で冷やしていたメロンを切り分けて食卓に運んだ。テーブルに並べていると、関が居住まいを正し、片桐の方へ体を向けている。
「先生。そろそろ、新作のお話を伺わせて頂きたいと思いまして」
関は片桐の様子を伺いながら恭しくもみ手をしている。
「そうだね。これを見てみてほしい」
片桐は少し離れたところに置いていた用紙を関と春彦の前に置いた。
「先生?」
自分の前にも置かれたことに驚いて尋ねると、片桐はさも当たり前だというような表情を浮かべている。
「春彦もぜひ目を通してみて。君からも意見が欲しい」
真剣な面持ちで読み耽る関の邪魔にならないよう、片桐は春彦にだけ聞こえるような声量でそう言ってくれた。
「片桐先生……今回も最高です。連作になるんですね」
丁度読み終えた頃、関がため息交じりに言った。
「よかった。連作ははじめての試みだからどうかと思ってね」
「たしかに先生の作品は一つでバシッと主張する強さがありますけど、いいと思います。メインテーマはメメント・モリですか。こういう仄暗い感じもまた先生にしては珍しいですし、うん、話題性も抜群だと思いますよ」
「それを聞いて安心した。モデルの女をメメント・モリに沿って物語になるように描こうと考えている」
「いやあ、もう今から完成が待ち遠しいです。ね! 浅川君もそう思うでしょ?」
突然感想を求められてはっと我に返ると、コクコクと大きく頷いた。
「このメインモデルのイメージですけど、容姿とか雰囲気とか浅川君ぴったりですね」
「そうかな? 確かに、春彦は綺麗だけれど」
綺麗、と言われて心臓がどきりと跳ねた。気を抜いたら耳まで真っ赤になりそうで、何も言わず黙々とメロンを口に運ぶ。
「浅川君って儚い雰囲気あるじゃないですか。それがぴったりで……ってまさか片桐先生、浅川君からインスピレーション得たんですか?」
関は考察にすっかり夢中になっている。
「あはは。どうかな。ひとまずこの流れでよろしく頼むよ」
片桐は関を適当にあしらいながら言うと、事も無げにメロンを食している。銀のスプーンで瑞々しい果肉を掬う仕草一つ美しいだなんて反則だと思う。
気づけば二十二時を回り、一頻り打ち合わせを済ませた関は慌ただしく帰っていった。
(嵐のような人だったなあ……)
関のことをそう分析すると、春彦は洗った寿司桶を玄関先に出した。夜風に当たりながら空の寿司桶をぼんやり見つめていると、カラリという下駄の音が聞こえて振り返る。
「先生」
「春彦、今日は来客対応や家のことで疲れただろう。お疲れ様」
「そんな。僕は平気です。先生こそ、打ち合わせお疲れさまでした」
「ありがとう。気のいい奴だったろう、関は」
 気のいい奴、か……。春彦は心の中で呟いた。たしかに関は気さくで、初対面の春彦にも親切だった。真っすぐで飾らない、良い人だと思う。けれど、素直に、はいと言えない自分がいる。なんて自分は器の小さい人間なんだと思うけれど、言葉が詰まって出てこない。
「す、すごく明るい方でした」
 そうか、と呟く片桐の声が聞こえたあと、しばし沈黙が流れた。手持ち無沙汰にエプロンの裾をいじっていると、肩をぽんと叩かれる。
「……絵画の件だけれど、気に入ってくれたかな」
「もちろんです!」
「良かった。春彦に気に入って貰えないんじゃ意味がないからね」
そう言って、片桐は踵を返した。夏の夜風が、片桐の浴衣の袖をひらひらと揺らしている。春彦は袖の端をそっと掴んでみた。
(嫌がられて、ない?)
 恐る恐る様子を伺ったけれど、片桐は上機嫌のままに見える。心臓がどきどきして煩い。春彦は片桐の後ろを、控えめに歩いた。



 今日は実に良い一日だった。
 布団に寝転がり、天井から釣り下がる和紙照明の傘をぼんやり眺めながら、片桐は春彦の一挙一動を頭の中で何度も反芻した。
関の様子を伺うおどおどした目。和気藹々とした空気に馴染めず仄暗い帳を下ろした顔。そして展示の概要を目の前に置いてやった時の救われたような眼差し。
美しい春彦の、腹の底から沸きでる様々な感情のどれもが片桐を恍惚とさせてくれる。
関のことを気のいい奴だろうと尋ねると、春彦は否定も肯定もせずに明るい人だとだけ答えた。
春彦は真っすぐで優しい子だ。人を悪く言うなど出来ない性分だろう。それでも、春彦は関を気のいい人だと言えなかった。明るい人という差し障りのない言葉しか紡げなかったのだ。良い答えだと片桐は心底満足した。
深堀することなく踵を返すと、春彦は片桐の浴衣を遠慮がちに掴み、まるで雛が親鳥の後ろを歩くようについてきた。その愛らしさといったら思わずほくそ笑みそうになった程だ。
思い出すたびに心音がトクトクと早くなる。
心地よいリズムに感じ入っていると、ふいに部屋のガラス戸をノックする音が響いた。
「春彦?」
「夜更けにすみません」
扉を開けるでもなく、立ち竦んでいる春彦の影がすりガラス越しにぼんやりと浮かんでいる。
「大丈夫だよ。入っておいで」
片桐は夜着の衿を整えて半身を起こすと、春彦を招いた。扉が開くと、そこにはしじら織の紺の浴衣を着て枕を抱きしめた春彦が立っている。
「どうかしたかい?」
「あの、先生」
もじもじした様子で言い淀む春彦を手招きし、近くに座らせた。
「邪魔にならないよう隅に居るので……ここで眠ってもいいですか」
「いいけれど……ホームシックというやつかな?」
「そ、そうかも、しれません」
あえて深く理由を問うことはしなかった。春彦はただでさえ自尊心が低く遠慮がちなところがある。気が変わってしまわないよう、手早く枕を並べてやり寝支度を整えた。囁くようにおやすみと言うと、おやすみなさいとか細い声が返ってくる。
壁掛け時計の秒針がカチカチと心地よいリズムを刻んでいく。だんだん瞼が重くなってきた頃、春彦の詰まるような息遣いに、片桐は閉じかけた瞳を瞬いた。
(まさか……)
春彦が自身を慰めている。これは想定以上だ。思わず笑いが込み上げそうになるのを必死で堪え、決して気取られないよう片桐は息ひとつつくのも慎重にした。首筋がじりじりと熱くなる。
死と同居しながら生きている春彦が、死から最も遠い劣情に身を堕としている。あの細く美しい指で、行き場の持たない熱を自分で慰めているのだと思うと喉の奥が鳴った。
今すぐにでも筆をとりたい衝動に駆られながら、このまま見過ごすか、たった今目を覚ましたふりをしてみるか思案する。答えは明白だったと思う。
「春、彦……?」
片桐は目を擦る仕草をしながらむくりと起き上がり、春彦の名前を掠れ声で呼んでみた。掛け布団がめくれ、青白い月明かりに照らされた春彦の体が目前に晒される。
薄暗い部屋でもわかるほど、春彦の下半身は濡れそぼっていた。春彦ははだけた浴衣を慌てて整えると、目から涙をこぼしながら頭を下げている。
「すみま、せんっ。先生、ごめんな、さいっ」
春彦は布団におでこをこすりつけるように、全身を震わせながらひくひくと泣いていた。片桐は思わず横につれそうになる唇をきゅっと引き結ぶと、平常を装いながら言ってやる。
「謝ることなんかないよ。年頃なのだし」
「でもっ、僕……」
片桐は内心愉悦に震えながら、春彦の背中を優しくさすった。
「いいんだよ」
そう言って春彦の体を起こすと、向かい合うようにして座らせる。
「せ、先生……?」
「このままじゃ苦しいだろう。我慢しなくていいから達しなさい」
春彦は薄い唇をわななかせながら、明らかに動揺した様子で片桐の方を見ていた。
「僕を想ってしてくれたことだろう? なら手伝ってあげた方が早いじゃないか」
我ながらどおりが滅茶苦茶だと思う。通常の思考回路なら、即座に拒否もできるだろう。けれど、片桐の厚意を無碍にできない春彦は縋る様な視線を向けながら、何が正解なのかを必死に考えているようだった。
「はずかしい、です」
(まあ、そうだろうね)
 内心独り言ち、けれどここで引くつもりは毛頭ない。春彦の羞恥を引き出し、煽って、ぐちゃぐちゃにしてみたい。
「僕だって自慰くらいするよ」
「先生も、なさるんですか」
「そりゃあね。生理現象だから何も恥ずべき事じゃない」
生理現象だと言われて春彦は少し落ち着いたようだった。理性と欲望にかき乱されながら、ついに遠慮がちに浴衣の裾から手を差し入れると、恐る恐るその手を動かし始める。目を固く瞑り、頬を紅潮させながら下唇を噛みしめ、僅かな声も漏れ出ないよう必死に堪えているようだった。
「このままじゃ、夜着が汚れてしまうよ」
そう言って、片桐はそんな春彦の恥じらいにも容赦なく、浴衣の裾をめくり上げる。
「あっ」
春彦ははじめてはじけるような声を上げた。細い指が真っ赤に腫れあがった性器の先端を握り絞めるように扱いている様があられもなく晒される。
「みっ見ないでくださいっ」
慌てて裾を直そうとする春彦の手を静止して、片桐は囁くように言った。
「美しいよ。絵画のモチーフになる女もきっと春彦のように乱れるのかな」
片桐の言葉に、春彦がモチーフと自分を同化させたのがわかった。そこからはあっという間だったように思う。自身を扱く手の速さが加速すると、背中をのけぞらせるや春彦は果てた。片桐はチリ紙を数枚とると、熟れた春彦の先端に押し当てる。
「――っ」
噛み殺したような声が薄く開かれた桜色の唇から漏れた。
「頑張ったね。疲れただろう。ゆっくり休みなさい」
「せん、せ……」
極度の緊張と果てた疲労で急激な眠気に襲われているのだろう。春彦の大きな瞳が徐々に閉じていく。
今日はなんて良い日なんだと心の中で改めて呟いた。春彦はすうすうと無邪気な寝息を立てている。片桐はそっと布団をかぶせてやると足早に作業部屋へと向かった。



 窓の外から蝉の鳴き声が聞こえる。
「朝……?」
朦朧とする意識の中、何度か瞬きをすると、春彦は手の甲で目をこすった。全身に心地よい疲労を感じる。
段々と意識が輪郭を持ち始めると、天井にぶら下がった和紙照明が視界に飛び込んできた。自分にあてがわれた部屋は天蓋ベッドの洋間だ。和室ではない。
「……っ!」
春彦は勢いよく飛び起きると、並んだ二つの枕と、屑籠にはみ出るほど捨てられていたチリ紙の山を見た。昨夜の出来事が脳内を駆け巡り、徐々に指先が冷えていく。
 片桐と二人きりの世界に関という男が登場した。春彦にとって関はまるで別世界の、何もかもが光でできたような人に思えた。猛烈な嫉妬と馴染めない疎外感で心が潰れそうだった。
けれどそんな醜い感情は企画展の構想を見たらすっかり吹き飛んだ。自分と瓜二つのモデルが片桐の耽美な世界観の中で生きている。その事実に思わず涙しそうになった。
春彦に気に入って貰えなければ意味がない、と言ってくれたことも飛び上がるほど嬉しかった。だからこんな無謀をしてしまったのだと思う。甘やかな流れに絆されて、一緒に眠りたいと我儘を言い、この有様だ。
(先生の優しさに付け込んで浅ましい姿まで晒すなんて……)
込み上げる自己嫌悪にふさぎ込んでいると、ふいにガラス戸が開かれて片桐がやってきた。
「おはよう春彦。よく眠れたかな」
「お、おはようございますっ」
春彦は乱れた夜着を急いで整えた。片桐はにこりと微笑むと、ゴミ袋に塵籠の中のごみを事も無げな様子でまとめている。
「先生にそんなことさせられませんっ」
慌てて立ち上がるなり、片桐を制した。羞恥で全身茹蛸のように真っ赤になっているのが分かる。
「いいから、顔を洗って来なさい。一緒に朝食にしよう」
「ちょ、朝食! すみません! 僕、準備がまだ」
「大丈夫。今朝は早起きだったから先に準備を済ませておいたんだ」
(家事までおろそかにするなんて……)
卒倒して倒れそうになる体に力を込めた。散々迷惑をかけておいて動揺している場合ではない。蒼白した顔を両手でぱしりと叩くと、春彦は転がるように洗面所に駆け込んだ。
 急いで身支度を整えて食卓につくと、湯気の立った白米に味噌汁、焼き鮭とおろし大根の乗った皿が、目前に手早く並べられた。
「どう? 僕の腕も中々だろう」
 確かにどれも美味しそうではあるけれど、のうのうと頂くわけにもいかない。
「先生。今朝は寝坊してすみませんでした。もう合わせる顔が……」
意を決して片桐をちらりと見やると、焼き鮭を箸でつつきながらおかしそうに肩を揺らして笑っている。
「そんなに恐縮しなくても。久しぶりに料理をしてみて楽しかったよ。今度からたまには僕も台所に立とうかな」
片桐の様子はいつも通り、むしろいつも以上に穏やかで上機嫌に見えた。いっそのこと、昨日の出来事すべてが生々しい夢だったのでは、とさえ思いながら春彦はちびちびと味噌汁をすする。せっかくの片桐の手料理を味わいたい気持ちはあるけれど、気持ちがついていきそうにない。思わずため息が零れそうになったところで、ふいに箸を置く音が聞こえた。
「ところで……」
片桐の声に、春彦はおもむろに顔をあげた。
「昨夜のことだけれど、君はその……僕を恋愛として好いてくれているということで合っているのかな」
春彦は咀嚼しきれていなかった米をごくりと一気に飲み込むと、ごほごほと咳き込んだ。
「驚かせてごめんね。いや、僕の間違いなら申し訳ないのだけど、春彦の様子を見ているとそんな気がして」
そう言って、片桐は気づかわし気にこちらを見ている。
(僕は……)
狂信的な崇拝に近かった気持ちは、一緒に過ごした僅かな時間で確実に変化していた。春彦は片桐を画家としても恋愛としても猛烈に愛している。
けれど、素直に伝えたらどうなるだろう。厚意で置いた居候があとになって男色だったなどと知ったら、嫌な気持ちになるのではないか。そもそも、家に置く置かない以前に、同性愛に対して片桐がどのような見解を持っているかわからない。昔よりもいくらか開放的な時代になったとはいえ、迫害も多いのが現状だ。
しかし、だからといって好きではないなどと、たとえ嘘でもいえるだろうか。そんなこと、口が裂けても言えるはずはない。
「……先生のことをお慕いしています。黙っていてごめんなさい。しかも、あんな悍ましい形で知れてしまうなんて」
春彦は深々と頭を下げた。嫌われて侮蔑されたとしても仕方がない。
膝に乗せた手が震えていることに気が付いた。この期に及んで情けないと自嘲する。散々醜態を晒しておいて、嫌われるのが怖いだなんて自分はつくづく身勝手な人間だと辟易した。
どんな言葉が返ってこようと受け止めるしかない。春彦は勇気を振り絞り、片桐の言葉を待った。まるで判決を待つ大罪人のような気分だ。
「僕は、正直なところ恋愛感情自体がわからない。というのもね、今までまともに続く恋をしたことがないんだ。芸術家が何言ってると思うかもしれないけれど興味が長続きしない。だから、同性だとか異性だとか以前の問題を抱えているのだろうね」
思いもよらない返答に、春彦は思わず目をしばたいた。
 あんなに情熱的な作品を描くことのできる片桐にそんな秘密があるのだなんて思いもよらなかった。けれど、つまりは、拒絶をオブラートに包んで優しく伝えてくれたということなのだろうか。真意が掴めず呆然としていると、片桐はそんな春彦の様子を伺うように言った。。
「こんな奴が、情動がどうだの講釈を垂れていたなんて、幻滅した?」
「い、いえ! ただ想定していた反応とは違ったので少し驚いてしまって」
「どんな想定?」
「その……明確な拒否とか家を出なくてはいけない流れとか……」
あはは、と片桐は声を上げて笑った。いつも淑やかに笑う片桐が声を上げて笑っている様子につい呆気に取られてしまう。
「いや、ごめんごめん。君があまりにも可愛らしくて」
「かっ可愛いって」
「だってそうだろ。君ったら、そんな臆病が顔を出してしまうくらい、本当に僕のことを好いてくれているんだなって思えて」
「それはっ……そうですけど」
そわそわと視線を泳がせていると、片桐は居住まいを正しながら諭すような眼差しを向けてくれた。その瞳は自分の全てが許されたと思えるほど優しい。
「春彦。僕は同性同士の愛に偏見も差別もないよ。君からの感情を迷惑だとも思わないし、むしろ、君を可愛いとさえ思っている」
そういうわけだからどうだろう、と片桐はこちらの様子を伺うように言った。
「僕に恋愛を教えてくれないか?」
「恋愛を、ですか?」
 つい小首を傾げて尋ねると、片桐は深く頷いた。
「とても恐縮なことだけれど、君は僕を画家としても男としても好いていて、そんな僕に全てを捧げるためにここへ来てくれた。僕は君を少なからず好意的に見ていて、君との時間に心地よさを感じている。なら、作品が出来上がる間、作品の為にも僕自身の為にも君と恋に落ちてみたいと思ったんだ」
心臓が止まるかと思った。あの片桐秀一が、この恋心を受け取ってみたいと言ってくれている。そんな奇跡があっていいのだろうか。ふいに腹の傷を撫でさすると、涙が込み上げそうになる。
「僕でよければ、なんでもします。先生にもっと好きになって貰えるように努力します」
思わず声が震えた。最も尊い人に、公私で自分という命を活かして貰えるのだ。
「そんなに構えなくてもいいんだよ。君は君のままで可愛いのだから」
片桐の手が伸びてきて、頭を優しく撫でてくれた。嬉しい、あたたかい……。この幸せを忘れまいと全身に深く刻み込む。
「先生はとてもモテるし、恋愛豊富な人だと思っていました」
「全然だよ。過去に二人だけ交際したけれど、どちらもすぐ別れてしまった。単に女性の扱いが難しいだけだと思っていたけれど、どうやら僕が悪かったようだね。そういう春彦は?」
「一人です。学生時代の親友でした」
「そう、か」
ふいに頭上から片桐の温もりが離れていくのを、春彦は目で追った。
「春彦。これからも時々は一緒に眠ろう」
願ってもない申し出に、春彦はコクコクと頷いた。
「客間のベッドの方が大きいからね。僕が君の部屋を訪ねるよ」
「はっはい! 待ってますっ」
勢いあまって立ち上がり、大きな声で返事を返すと、片桐はこちらをにこやかに一瞥して作業部屋に戻っていった。
片桐の居なくなった居間は一気に静まり返り、セミの鳴き声が急に騒がしく聞こえはじめた。春彦は食器を片付けながらおもむろに右頬をつねり上げる。
「痛い……」
幸せと切なさが一気に押し寄せて胸が痛い。客間の掃除をいつも以上に念入りにしようと計画を立てながら、洗い物を手早く片付けた。



 作業部屋の前で足を止めると、台所の方へ耳を澄ませてみた。水の流れる音と一緒に春彦の鼻歌が微かに聴こえてくる。片桐はしばらく廊下に立ち尽くすと、こめかみを伝い落ちる汗を掌で拭い、作業部屋に入った。まっすぐイーゼルに向かい一息つくと、昨夜の春彦を思い出す。
青白い月光を一身に纏った彼が果てる様は、震えるほどに美しかった。生と死の脈動を感じ、あの後みるみるデッサンが仕上がったほどだ。あんなに手が止まらなくなったのはいつぶりだろう。だから、今朝はとても気分が良かった。告白を促し、自分を振り向かせるために努力すると言った健気な春彦にも好感が持てた。
そのままでいいなどと言ったけれど、才能のため、作品のために、これからももっと様々な顔を見せて欲しいと思う。努力を惜しまない春彦はきっと自分の期待通り、いや、むしろそれ以上のものをもたらしてくれると信じている。鼻歌交じりに洗い物をする春彦の上機嫌をみれば、何の問題もない、むしろ順風満帆すぎるくらいだと分かってもいる。
それなのに、片桐は今、腹の奥底をジリジリと不快に這い回る怒りに発狂しそうになっている。
過去、春彦に想い人がいたことが気に入らない。それが終わりを迎えたものだとしても、一瞬でも報われた事実が許せない。
しかも、親友だったという。つまり、大半の時を共に過ごし、思春期の危うさを惜しげもなく晒し合ってきた相手ということだ。春彦は、片桐の絵画に救われてきたと言っていた。まるで、自分には片桐の絵しかなかったというように。
けれど、実際はどうだ。愛する恋人がいたのではないか。自分の絵画はその男と同時期を、春彦と共に居たことになる。
片桐は今、春彦の全てを掌握しているといっても過言ではなく、彼はその純情な恋心まで差し出すと言っている。けれど、それはそうだろう、と片桐は思う。自分の才能は美しい春彦のすべてを享受するにふさわしい。だから神は彼をここに寄こしてくれたのだ。
気づくと、怒りに震える手で筆をしきりに走らせていた。吹き出す苛立ちとは裏腹に、繊細な描写が描かれていく。
途中春彦が昼食とお茶の乗った盆を持って作業部屋を訪ねてきた気がしたけれど、一心不乱に動き続ける筆は止まることはなく、気付けば時計の針は夜の二十三時を回っていた。
片桐は、のそのそと作業部屋から出ると顔を洗いに洗面所に向かった。冷たい水を顔に浴びると、次第に気分が落ち着いてきて、ふと春彦の様子が気になった。
洗面所から出て廊下を進み、突き当りの客間の前で足を止めると、控えめに扉をノックしてみる。もう眠ってしまっただろうか。そうよぎったところで、ドアが開き、春彦が飛び出すように出てきた。
「先生っ!」
勢いよく抱きつかれ、少し後ろにふらつくと、春彦は慌てて体を離した。部屋を訪ねることを期待して待っていてくれたのだろうか。
「今日は済まなかったね。春彦のお陰で驚くほど進んだのはいいけれど、朝から君をほったらかしてしまった」
 思っても居ない言葉をつらつら並べたてると、春彦は小さな頭をぶんぶんと振った。
「そんなこと気にしないでください。作業が進むことはいいことなので」
「ありがとう。没頭すると周りが見えなくなってしまうんだ」
「それは先生が才能を持った人だからですよ。でも、食事は少し心配かも……いくら冷房がきいていても水分補給も忘れずして欲しいです」
春彦に招き入れられ二人でベッドに腰を下ろすと、片桐は相槌を打って苦笑した。こうして自分を気遣ってくれる様子は見ていて心地よい。
「片手が使えるようおにぎりを置いておいてくれただろ? ちゃんと頂いたよ」
具は何が入っていたか、正直味も良く覚えていなかった。けれど、消費した熱量を辛うじて補給したことは薄らぼんやり記憶している。
「安心しました。今後も食べやすいものを用意しますね」
そういって春彦は笑った。この笑顔は今自分だけに向けられている。自分だけだ。
絵具の染みついた手で小さな輪郭をなぞると、春彦は微かにぴくりと肩を震わせた。
「春彦。昨日のようにして見せてくれないか」
「へ?」
春彦は大きな双眸を見開き、気の抜けた声を上げた。
「僕に裸を見られるのはいや?」
「い、いやなんてそんなことは。でも突然どうされたんですか」
ふうむ、と片桐は小さく唸った。
「デッサンさせて欲しいんだ。制作のヒントにもなるしね。それに、僕は君に恋愛対象としても興味があるだろ? 春彦の全部を知りたいんだ。そう思うのはおかしいことかな」
「……おかしくないです。僕も、知ってほしいので」
だから少しでもいいから好きになってほしい――。春彦の縋るような眼差しがそう言っている。
片桐は、すずらん照明を落としてサイドテーブルに置かれたランプの灯りだけ残すと、春彦の夜着をするすると脱がせた。
「こっちへおいで」
天蓋ベッドの柱の前に立たせ、脱がせた浴衣の帯紐で両手を高く括り上げる。
「せ、先生?」
春彦の動揺に気づかないふりをしながら、手がほどけないようきつく紐を縛り上げた。
「……本当に綺麗だ」
片桐はそのままベッドから離れると、備え付けのスツールに腰をおろす。用意したスケッチブックを広げると鉛筆を走らせた。
「僕、どうしたら……」
春彦の表情が不安に揺れている。片桐は何も言わず、ただじっとその全身をくまなく見つめた。
下着だけの心もとない格好で柱に囚われている春彦は、まるで聖セバスチャンの絵画のように美しい。
ふと、春彦はつま先立ちするように体をにじらせた。春彦の性器が真っ白な綿の下着をじわじわと押し上げている。足をくねらせて隠そうとする春彦の動きを静止させると、片桐はようやく椅子から立ち上がり、ベッドの方へ歩み寄った。春彦の頭を慈しむように撫でると、大きなシミを作っている下着をそっと取り除く。
「あっ」
下着がこすれたのか、春彦が小さく声を上げた。春彦の性器は下着の圧から解放されるや、下腹の傷に届くほど起立している。先端からは透明な雫があふれ、竿を伝い落ちていた。
「なるほど。何もしなくてもこんな風になるんだね」
片桐は改めて間近で春彦の全身をくまなく観察した。
「ちがっ。先生がじっと見てくるから」
「それは君を描いていたからね。他の男に見られてもこうはならない?」
「なりませんっ。他の人に欲情なんて絶対しません」
春彦は大きな瞳を潤ませている。
「僕に欲情しているの?」
「……して、ます」
桃色の唇を震わせながら春彦は言った。片桐は、それを良いとも悪いとも言わず、おもむろに胸の突起に指を這わせる。
「あっ」
春彦の体がびくんと跳ねた。
「ここも気持ちいいのかな」
核心的な刺激は与えず、不器用に愛撫しながら聞くと、春彦は唇をかみしめながらコクコクと頷いた。
「同性同士の交わりは、どうやったらいい? 春彦は僕にどうされたい?」
「僕は……」
羞恥に言い淀む春彦を窘めるように、片桐は頬を撫でた。
「教えてくれると言っただろ?」
優しい手つきと裏腹に、有無を言わさない圧力を言葉に込めて言う。
「……先生に触って欲しいです」
「それだけでいいの?」
「きょ、今日はそれだけで、いいです……」
片桐は思わず笑みが零れそうになるのを噛み殺しながら、わかった、と努めて優しく囁いた。
「そうはいっても僕はうまくないからね。君が好きに動くといい」
そういって、片桐は春彦の性器を握るでもなく、ただ手のひらを下に添わせるように添えてみた。
「……え?」
困惑した表情の春彦に、さあ、と視線で促してみる。ようやく意味を察したのか、春彦は胸まで真っ赤に紅潮させて羞恥の色を滲ませた。春彦の性器はもどかしく小刻みに震え、片桐の手には先走りの雫がぽたぽたと糸を引いて落ちている。
「どうしたの? 僕の手を好きに使ってくれていいんだよ」
春彦は両目をきゅっと瞑ると、徐に腰を前後させ、片桐の手の平に自身をこすりつけた。
「んん、んんっ。っん」
唇を嚙みしめ、詰まったような喘ぎを漏らす春彦の口にもう片方の手をそっと這わせると、ぴたりと閉じ切った唇を押し開く。
「ふぁあっん」
指で口内を蹂躙すると、春彦は片桐の指を愛おしげに舐め上げた。遠慮がちに前後していた腰は、いつしか片桐の手のひらに押しつけるように動いている。
掌は春彦の蜜で艶めかしく濡れていた。両手を縛られ、不自由になりながらも快楽を求める春彦のすべてが片桐の心を刺激する。
「せん、せいっ。僕、もうっ」
口から唾液を滴らせ、片桐の指に舌を絡ませながらくぐもった声で春彦が鳴く。
「いいよ。達して。春彦の一番気持ちいい瞬間を見せて」
春彦の口から指を引き抜くと、胸の突起に指を押し当て、強い快楽を助長した。
「ああっ」
大きな声をあげながら、春彦は腰の速度を上げている。
「あん、はぁっ、あっ。せん、せ。片桐先生っ」
片桐の名を呼ぶ春彦の声が苦しそうに喘いでいた。指と指の隙間を性器の先端が滑り、擦れている。ふと気まぐれに、指を折り曲げ先端に触れてやった。
「あっ」
張り詰めた声と共に、春彦は大量の精をはじけさせた。
くたりとしなだれるように倒れこむ華奢な体を受け止め、縛り上げた帯をほどく。そのままベッドに横たえると、放心する春彦の体を丁寧にタオルで拭い、浴衣を整えた。
「おやすみ。春彦」
 優しくそう囁いた唇が横に攣れる。春彦の大きな瞳はすっかり閉じられ、小さな寝息が聞こえてきた。片桐はサイドテーブルに置かれたスケッチブックを横目でみやり、ページを破くや、くしゃりと丸めて屑籠へと放り投げた。春彦の汗ばんだ小さな額をそっと指を這わせてみる。風間は事も無げにベッドへ横たわると、瞳を閉じた。



 九月に入り、うだるような夏の暑さが少しずつ和らいできたように思う。
春彦は茹でた素麺を氷水にくぐらせながら廊下の方を見つめた。
羞恥に晒されながら達してしまったあの日以来、片桐が夜、春彦の部屋を訪ねてくることはない。春彦の痴態に幻滅したのか、やはり男との恋愛など無理だと思われたのか。
最初の数日は気を揉んだけれど、片桐の様子を見ていると、どうもそういうわけではないと分かった。
片桐は連日、朝も昼も夜も、言葉通り一日中、食事や排泄、風呂などの最低限の時間以外を作業部屋で過ごしている。
三食ままならないときもあり、そうした日には夜食の握り飯を用意して作業部屋の外に蠅帳をかぶせて置いておいた。朝に見ると、中身は綺麗に平らげられているので、今のところは安心して片桐の仕事を見守っている。
そんなこんなで片桐とはまともに話せていないわけだけれど、春彦の心は満たされていた。
朝の洗面所や廊下で時々顔を合わせた時は春彦の頭をぽんぽんと撫でてくれ、何より片桐が心血を注いでいるものは自分の分身ともいえる絵画の作業なのだ。嬉しくないわけがない。
片桐の作品には、心に寄り添うような深い愛がある。誰からも理解されない想いや醜い感情ですらそのままで良いのだと、絵を通して教えてくれるのだ。
春彦はこれまで、片桐の絵画に救われながら辛うじて生きてきた。物に救われるなんて大げさだという人もいるかもしれないけれど、それは他人に共有できるような小さな欠陥しかない、たとえば関のような真っ当な人だから言えることだと思う。
春彦のように何から何まで至らないところだらけの、人目も憚るほど強烈な闇を抱えた人間は、一人の世界で完結されるものの中に光を見出すよりほかない。
だからこそ、なんとしても片桐の才能を枯渇させるわけにはいかないと思った。自分のように生きる人たちの光が潰えませんように、と。
素麺の入った皿とみそ汁の碗をお盆に載せた。蠅帳とお盆を持って作業部屋の前までいくと、軽くノックをしてみる。素麺は長い時間置いておけないから、すぐに食べられそうになければおにぎりを握りなおそう。片桐のためを思うとどんなことも苦にならないし、家事も何もかもが楽しいから不思議だ。つい鼻歌交じりに様子を伺っていると、ガラリとドアが開き片桐が顔をだした。
「先生! お疲れ様です」
「ありがとう。昼食は素麺か。いいね」
「はい。作業部屋で食べますか? それとも居間で?」
「久しぶりに一緒に頂くよ。メインの絵が概ね仕上がってきたんだ」
「もうそんなに! じゃあ居間の方にお食事準備しますね」
片桐の表情はとても晴れやかで、心身共に調子も良いように思えた。春彦はほっと安堵して踵を返す。久しぶりに共に囲む昼食に心が躍る。
すみやかに配膳を整えると、そろそろと片桐が着席した。片桐の正面に座るといただきますと軽く手を合わせる。
「うまいなぁ。久しぶりに食事を味わえている気がする」
片桐は素麺をずるずるとすすりながら言った。少し伸びたひげに麵のつゆが飛ぶと、片桐は目尻を下げて笑っている。
「食事が終わったら剃らなくちゃね。毎日風呂も洗面も欠かしてはいなかったけれどこんなになっていたなんて今気が付いたよ」
「ふふ。髭をたくわえた先生もかっこいいです」
「そうかな。なんだか巨匠気取りで恥ずかしいよ」
気取りどころか巨匠そのものですよ、などと内心思いながら昼食を平らげる。
「春彦。一度関に確認してもらおうと思って呼んであるんだ。彼がきたら作業部屋に通してあげてほしい。僕は少し自室で仮眠を取るよ」
「わかりました!」
「君も同席したらいい。一緒に見てもらって構わない」
「いいんですか?」
「もちろん。じゃあ、あとは任せていいかな。十四時過ぎには来られるといっていた」
「ありがとうございます。わかりました」
気が抜けたのか、少しふらふらした足取りで自室に戻っていく片桐の後姿を見送ると、関が到着するのを今か今かと待った。途中うとうと転寝をしていると、玄関先からお邪魔しますという関の声がして立ち上がる。
「こんにちは! お待ちしていました」
「こんにちは。お邪魔します。浅川君、なんだか以前と雰囲気変わりましたね」
春彦は思わず小首を傾げると、関は何かひらめいたように、ああ! と声を上げた。
「慣れたんですかね、こっちの生活に。前よりなんだか活き活きしてるから」
「そ、そうでしょうか」
関は、元気が一番ですなどと言って頷いている。関とはあれから度々夕食を共にして、差しさわりのない会話程度なら気負わずにできるようになっていた。確かに、慣れたと言えば慣れたのだろう。
「ところで、先生の姿が見えませんが……」
居間へ移動し、茶菓子と湯呑を手早くテーブルに並べていると、不安げに関が言った。
「先生、連日こもりきりでしたので休んでいらして」
「なるほど。いやあ、片桐先生の集中力って凄まじいものありますよね。ああいうのを鬼才っていうのかなぁなんて」
「わかります。僕も近くでみていて改めて先生のすごさを思い知りました」
「あれ。浅川君って、先生のファンでもあるんですか?」
「はい! ファンというか大ファンで」
「そうなんですか! 僕は学生の時に『絹』をはじめて見て、衝撃を受けて」
「ぼっ僕もです! 関さんはどれが一番お好きですか?」
「選べないけど……強いてあげるなら『陽だまりの愛』かな」
「いいですよね。僕も何回美術館へ足を運びました」
「わかります。先生の作品は何度も見ることで味わいが増すというか、染みてくるんですよね」
「同感です。凄まじく美しくて愛しかなくて」
言葉が溢れて止まらなくなっていると、関の笑い声が聞こえた。
「なんか浅川君の印象変わりました。こんな熱い人だとは思わなかった」
誰かと片桐について語り合う機会など今まで無かったものだから、つい喋り過ぎてしまった。
「ぼ、僕ったら。すみません」
「いやいや。同志に出会えて嬉しいです」
 同志、か。なんだか胸の奥が温かく感じる。
「えっと、では作業部屋へいきましょうか。許可を頂いていますので」
 そわそわしながら、言うと関を連れ立ち作業部屋へ向かう。ドアを開けるや百号だろうか? 大きなキャンバスが視界に飛び込んでくる。
「おお……」
 隣から感嘆の声が聞こえた。
「っ……」
 胸が詰まって言葉がでず、立ち尽くしていると関は絵の前に置かれたタイトルやイメージがメモされていた用紙を手に取った。
「あれ? 束が二つある。内容は同じみたいだけど……」
春彦はハッとして関の手元をみた。一緒に見て、とは言われていたけれどまさか自分の分まで用意していてくれたなんて。
「先生が、僕も一緒にと。なので恐らく僕の分かと……」
「え! 手書きのものを二つ用意するって相当労力ですよ」
「そうですよね……。ごめんなさい」
「いや、すみません。言い方が悪かった。浅川君を責めてるんじゃなくて、あの片桐先生がそこまでなさるなんてすごいことだなと思っただけです」
春彦は受け取った用紙をまじまじと見た。申し訳なさもありながら、それ以上に嬉しさが込み上げて泣きそうになる。
 メメント・モリ。死は必ず訪れる。死を想え。
 ジリジリと刺すような赤と紫の、まるで炎のような歪みの中で、裸婦は両手で自身を抱きしめるように溶けていた。



 居間の方から春彦と関の話声が微かに聞こえて目を覚ました。気を抜けばすぐに閉じようとする瞼をこすり、体を伸ばすと、少しずつ意識がはっきりしてくる。
体はまだ鈍い疲労を残しているけれど、不思議と思考は鮮明で清々しい。やっと昔を取り戻せた気がしている。片桐は満足げに絵具で汚れた手を天井に翳した。
「春彦……」
猛烈に春彦の顔が見たくなった。作業部屋から出ると、二人の賑やかな笑い声が聞こえてくる。居間に顔を出すと、関がこちらに向かって頭を下げた。
「あ! 先生、おはようございます。お邪魔してます」
関の声につられるように春彦が振り向き、まるで花が咲いたような笑顔を向けてくれる。ひとまず絵画は気に入ってくれたと見える。
「おはようございます。調子はいかがですか?」
「ありがとう。すっかり疲れも取れたよ」
片桐は満足げに答えてテーブルについた。すぐに春彦がお茶を用意して置いてくれる。
「メインはどうだった? このまま他の作品に取り掛かっても問題なさそうかな」
「素晴らしかったです! 今はまだちょっと感情を消化しきれていなくて言語化が難しいのですが、これが連作になるんですよね……。どう展開するのか今から楽しみでなりません」
「よかった。ひとまず問題ないようでよかったよ」
関の眼差しを素直に受け取れている自分に安堵する。
「よかった。励みになるよ」
テーブルの上にこんもりと盛られたせんべいやクッキーの山から小袋を取ると、しょうゆ味の小さなおかきを口に放り込んだ。
「先生、こちらもどうぞ。関君が持ってきてくれたんです」
春彦が差し出してくれたのはたい焼き屋の袋だった。古書店街にある有名な店のもので、片桐の好物でもある。
「片桐先生の好物といったら蔵谷(くらたに)のたい焼きですからね。春彦君にも場所を教えておきました」
「いつでもお使い行けるので、先生が食べたい時は言ってください」
「そう、か。ありがとう」
片桐はたい焼きを袋から取り出し、頭からかぶりついた。首筋がジリジリと痛みはじめる。きめ細かいこし餡の舌触りに集中しようとしたけれど、何とも言えない不快感が込み上げてきて拭えない。
二人はそんな片桐の異変に気が付くことなく楽しそうに談笑している。その話題といえば、自分の絵画についての賛美ではあるけれど、この苛立ちは一体何なのだろう。
ふと会話の中で春彦の綺麗な声が、関君、と呼ぶ声が脳内にけたたましく響いた。目の下が攣れるようにひくつく。
「盛り上がっているところ悪いけれど、関。夕飯を食べていくだろ? そろそろ準備しないと帰りが遅くなってしまうよ」
「確かに。頂いて帰ります」
「僕急いで支度しますね」
「春彦、大丈夫だよ。今から三人分作るのは大変だし出前にしよう。久しぶりに鰻でも取ろうか」
 そう言うと、関がパッと破顔させた。
「やった! ありがとうございます。いつも通り鰻重に肝吸い付きでよろしいですか?」
「ああ。それを三人分」
「あ、では、注文を……」
「大丈夫大丈夫! 慣れてるので僕がするよ。春彦君は先生とゆっくりしてて!」
そう言って関は電話の方へかけていく。
「春彦。絵はどうだった?」
頬を綻ばせながら小さな口で栗鼠のように菓子を食べている春彦に尋ねた。二人きりになり、ようやく春彦の顔をまともに見られた気がする。
「あのっ。感極まって泣いちゃったくらい素敵でした」
春彦は耳まで赤らめながら言った。
「泣いたの?」
関の前で、と続けそうになって口を噤んだ。
「お恥ずかしながら。関君にも笑われちゃいました。次の作品も心待ちにしています」
「……そうか。春彦にそう言って貰えると僕も頑張れるよ」
片桐は、ジリジリと疼く首筋を掻いた。しばらく無言でお茶を飲んでいると、ふいに春彦が口を開く。
「先生。僕の分まで資料を用意して下さって、本当に幸せでした。でも、くれぐれも無理はしないで欲しいです」
気づかわし気にこちらを見つめる春彦と視線がぶつかった。心配で、今にも泣きだしそうな色が瞳の奥に滲んでいる。
春彦はいつにも増して片桐を一番気に掛けているし、他の誰より大切に想ってくれているのが伝わった。分かってはいるけれど、笑顔で応えてやる余裕がない。ああ、と辛うじて柔らかな声音で言葉少なに返す。
注文を終えた関が戻ってくると、居間は再びにぎやかな雰囲気に包まれた。
ほどなくして届いた鰻を食べながら、盛り上がる春彦と関の様子を眺めているうちに、あっという間に時計は二十三時を回っている。久しぶりに食べた鰻はたぶん美味しかった気がするけれど、まともに味わうことは出来なかった。
慌ただしく関が帰ったあと寝支度を整え、片桐は久しぶりに春彦の部屋を訪ねた。
並んで横になり、今日の出来事を楽しそうに話す春彦の声を聴きながら、込み上げる不快感を誤魔化すように時折寝返りを打ってみる。
「鰻、美味しかったですね」
「そうだね。日本橋にある老舗でね。今度店に食べにいこう」
「はい! 行きたいです。先生と一緒にお出かけなんて楽しみ」
「春彦はなんでも喜んでくれるから僕まで幸せな気持ちになれるよ」
「先生と一緒に居ると、本当に何でも幸せなんです。楽しみだなぁ。関君もあそこの鰻が好きって言ってたから大喜びしそう」
春彦は布団を口元まで引き上げコロコロと可愛らしい声を上げて笑っている。胸の奥がジクジクと痛み、瞼が鈍く痙攣しはじめた。
「……随分、親しくなれたんだね。関も春彦のことを名前で呼んでいたし」
「は、はい。ファン同士、先生の話で盛り上がって」
「ずっと僕の話をしていたの?」
「はい。感想を言い合っていたら時間があっという間でした」
「……。気のいい奴だろう? 関は」
「はい! 実は最初、勝手に苦手意識があったんです。でも、すごくいい方で。さすが先生の秘書さんです」
春彦はそういって嬉しそうに笑った。
サイドランプの暖色が、春彦の大きな瞳の中に星屑を散りばめたように輝いている。片桐は体を起こすと、窓の外を見た。月は隠れ、今日は夜の闇が一層濃いように思う。
「春彦。連作の構想だけれど、最初のままでいいと思う?」
「構想、ですか?」
「僕は春彦が差し出してくれた命をリアルに美しく残すことだけを考えてここまで書いてきただろ。言うならこの作品は君と約束したあの日から結末だけは決まっていたじゃないか」
「それは……そうですね」
「けれど今とあの日は違う。実際に走り出したこの物語はあの日の僕が思い描いただろう物語とも変わっていると思うんだ」
 そこまで言い終えると、片桐は天井を仰ぎ見ながら横目で春彦の様子を伺った。春彦は、落ち着かない様子で掛け布団を握りしめながら目を瞬いている。
「だから君にも聞いてみたくてね。今の春彦なら、どんな結末を望む?」
「それは……えっと……」
 何度も言い淀みながら助け舟を待つ春彦を突き放すように、片桐はいくらでも答えを待つという姿勢を無言で示した。
「……当初通りの結末が良いと思います」
 一瞬躊躇うような間があった気がしたけれど、春彦の声は揺るぎなく凛として聴こえた。
別に何が悪いわけでもない。メメント・モリ。死を描くテーマとしてはいささかありきたりとはいえ連作で描く深みは相当なものがあると思う。絶賛を受ける未来しか想像できない。
けれど、片桐は喉の奥に異物が詰まったように息苦しかった。片桐は、そうか、と呟くと春彦に背を向けるように起き上がる。
「春彦」
おもむろに布団をはぎとり視線で促した。片桐の意図を汲んだのか、春彦は細い体を緊張させている。しばし硬直したのち、ゆっくりとした仕草で夜着を脱ぎ捨て、下着姿で膝を抱きかかえるように座った。
作品の中でさえ幸せな結末を望まず、片桐の視線一つで心もとない姿になる春彦の健気さが、今は無性に苛立たしい。
片桐は、春彦に膝立ちのまま両腕を後ろで組ませると、浴衣の帯で手首を二重に縛り上げた。帯の布地が軋む音が部屋に響く。
「春彦は可愛いね」
(本当に、愚かで)
下着を取り除くと、これから与えられるはずの快楽に期待した春彦の下半身は既に膨らんでいた。長く垂らした帯を華奢な体にくるくると巻き付けていくと、春彦の体は緊張に汗を滲ませていく。そのまま起立した性器の根元まできつく縛り上げると春彦の体が跳ねた。
「ひゃぁ。せ、先生っ?」
 上ずった声を上げ、戸惑いをあらわにする春彦を無視して片桐は帯をじりじりと締めあげる。
「春彦は関のことも特別な意味で好きになるの?」
息を呑み大きく目を見開いた春彦と視線がぶつかった。春彦は血相を変えて必死に首を振っている。
「そっ、そんなわけないです」
「二人があまりに親しげで、少し気になってしまったよ」
そう言って目を伏せてみると春彦は慌てて体を動かした。上半身を縛られ不安定な春彦は、いとも容易くマットレスの上にころりと転がった。まるで屠殺前の家畜のようだ。春彦は苦しげに顔を上げて片桐の方を見ている。
「僕、男なら誰でもいいわけじゃありません。先生が好きです。先生じゃなきゃだめなんです」
春彦の目にじわりと溜まった涙がぽろぽろと零れ落ちていく。それはまるで月夜に照らされた露雫のように美しい。
「嫌な言い方をしてごめんね。でも、僕に全て差し出すと言ってくれた君の気持ちが少し分からなくなったんだ」
片桐は倒れた春彦の体を起こすと、恭しい仕草で涙を指で拭ってやった。
「僕が身も心も全て捧げるのは先生です。今僕が生きている理由も先生だけ……」
そう言うや春彦は自らベッドに倒れこみ、這うようにして片桐の浴衣の裾を口で咥え寛がせた。
 その光景を黙って観察をしていると、春彦は体を捩り、片桐の下肢に頬をこすり付けてくる。
「くっ」
突然与えられた鈍い刺激に喉が鳴った。春彦の熟れた舌から絶えず溢れる唾液で、下着がじわりと濡れていくのが分かる。
片桐は春彦の奉仕を一度静止させると下着を取り去り、すっかり立ち上がった自身を晒した。春彦は恍惚した眼差しでそれを見つめると、根本から丁寧に舐め上げていく。時折ぶるりと体を震わせながら、片桐は春彦の舌の感覚に酔いしれた。
「もっと、深く」
もどかしい刺激に耐えられなくなり、春彦の口の中に自身を押し入れてみた。
「んくぅっ」
口内いっぱいに主張する片桐のそれが喉奥をついて、春彦はむせそうになっている。出来る限り喉を大きく開きながら頭を前後させ、性器の先端を刺激しているようだった。
強い刺激に片桐の腰は震えた。快楽に酔いしれながら、片桐は春彦の頭を掴むと自身の腰に押し当てる。
「うくっ」
春彦の嗚咽が下肢にかかると、何とも言えない征服欲に背筋がぞくぞくした。
この健気で美しい青年の全てが自分のものなのだ。そう実感すると、心の底から満たされる。もっと求めさせ、懇願させ、虐げるように暴きながら甘やかに繋ぎとめていたい。
「春彦っ、もう……」
片桐は春彦の口から自身を抜き出そうと腰を引いた。春彦はそれを逃がすまいというように口を押し当ててくる。刹那、先端が晴彦の喉奥に擦り上げられ、片桐は口内に大量の精を放った。ドクドクと脈打つ性器を引き出すと、春彦の口元からはどろりとした白濁が僅かに流れ落ちていく。その淫猥な光景に視線が縫い留められて動けずにいると、ごくり、と精を咀嚼した音が聞こえた。
自分の精が春彦の喉をするりと通り、胃の中に落ちていく。春彦は涙の滲んだ瞳で片桐を見やり、目尻を下げて微笑んでいた。
満足げな笑みとは裏腹に、潤み切った瞳の奥底には、いつか見た深い闇が蜷局を巻いている。さっきまであった征服欲がしゅるしゅると音を立てて消えていくのが分かった。
片桐は居ても立っても居られない焦燥に駆られ、縛り上げていた帯紐をほどくと春彦の口を拭い、浴衣を肩にかけててやった。
「春彦……。テーマはやはりあのままを望んでいるかい?」
声は無様にも掠れていた。どうしてまた同じことを聞いてしまったのか自分でもよくわからない。
ようやく息を整えた春彦の瞳は、サイドランプの光を宿してただきらきらと輝いている。
「先生……。僕の旅行バッグの中にある縮緬の小袋を取って頂けますか」
片桐は部屋の隅に置かれたバッグをあけ、数枚の着替えの中に薄紅色の小さな巾着袋を見つけて取り出した。手触りの良い縮緬生地に上品な染が施され、一目で上質なものだと分かる。
春彦は片桐から巾着袋を受け取ると中から漆塗りの小さな丸い容れ物を取り出した。それを徐に開けると小指で掬い、下唇に線を引くように滑らせていく。
口紅だった。
「僕にはなぜだか昔から、自分を女性だと思いたい気持ちがあります。気のせいだと何度も言い聞かせてきたけれど、想いを打ち消すことは出来なかった。これは生まれつきの欠陥なんだと理解しました」
春彦の清楚な面立ちには派手過ぎる真っ赤な紅がぬらぬらと動くのを、片桐は頭を鈍器で殴られたような衝撃の中聞いていた。
「決定的に自分という存在の無能を自覚したのは、親友に恋をしてからです。彼は僕の欠陥を受け止めてくれたけれど、うまくはいきませんでした」
春彦は浴衣を着直すと、呆けたまま固まっている片桐の浴衣の袂を丁寧な手つきで整えてくれた。片桐の心臓は早鐘のように鼓動し、額には汗が滲んでいる。
同性愛はおろか性同一性など滅多に耳にしない。ドラァグという、男性が派手に着飾る文化もあると聞くけれど、暴力的な迫害や差別が絶えないと創作の知識として聞きかじった程度だ。それに果たして、春彦のそれがドラァグに位置づけられるものなのかも、片桐にはわからない。
「彼は僕を女性のように抱いてくれました。……先生。お腹の傷の理由をいつかお話しますと言いましたよね」
今もなお美しい春彦の面立ちに釘付けになりながら同意の意味を込めて瞬きをすると、額から冷や汗が流れ落ちた。僅かに震える声を絞り出すように、ああ、と短く呟く。
「僕の腹はどうやっても彼の子を身籠ることが出来なかったからです。そんなこと、当たり前だと思うかもしれないけれど、僕にはそれが許せなかった。だから腹を切りました」
 春彦の腹に、紅を引いたように真っすぐ伸びた傷痕。そうか、と心の中で片桐は理解した。あれは、ただ自死をしたくて切腹したのではない。子宮の位置を、切り裂いたのだ。
「でも僕は死ねませんでした。夜中の橋げたの下に、まさか医者が通りがかる可能性なんて想定していなかったので」
 そういって、春彦は自嘲気味に笑う。片桐は引き攣った唇を震わせた。何か言わなくてはと思うけれど、喋ることを忘れてしまったかのように言葉が出ない。
「退院後に知ったのは、僕が死んだと勘違いした彼が後を追って身投げしたということでした。彼は即死だったと聞きました」
あまりの衝撃に、喉がひゅっと鳴った。視界が歪み、春彦の姿がぼやけて見える。春彦が泣いているのかと思ったけれど、目に涙を溜めているのは自分だった。彼は涙一つ見せず淡々と、ぬらりと光る真っ赤な唇を動かしながら言葉を紡いでいる。片桐は震える体に力を込めると、春彦を抱きしめた。
(春彦っ……)
戸惑う春彦の体を強く抱きながら、自分の浅ましさに吐き気が込み上げた。つまらないプライドで、純粋な春彦を弄び、利用した。彼の縋るような眼差しが快感だった。
何が情動だ、人の深淵だ、と思う。そんな風にしか保てない才能などくだらないにもほどがある。
二人の愛ほど、真っすぐで純粋な愛がこの世界のどこにあるだろう。彼らの愛がこんな顛末しか迎えられなかったなら、この世のどこにも救いなどないと思わされる。
「僕は先生の絵画が大好きです。誰からも理解されなくても、傷ついても、愛を手放さないでと勇気を貰っていました。だから予定通り、そのままでいて欲しいです。自分の欠陥で親友の命まで奪ってしまったこんな僕が、多くを望むのは間違っている。愛する先生の血肉となって終われることだって、本来なら身に余る贅沢なんです」
最早、溢れ出る涙を拭う気力は無かった。片桐は何も言わず、辛うじて春彦の頭を撫でてやると、もう眠りなさい、となんとか絞り出した細い声で言った。
サイドランプの灯りを落とすと真っ暗な闇が辺りを包み込む。
暫く経つと、すうすうという穏やかな寝息が聞こえてきた。思わず安堵のため息が漏れる。片桐は重い体を引きずるようにベッドからはい出ると、客間をあとにした。



「先生お疲れ様でした! こんなに早く仕上げて頂けるなんて一同感謝してもしきれません」
台所でお茶を入れていると、背中越しに関の興奮気味な声が聴こえてくる。
「当初のものから大幅に変更したんだ。念のため以前見せた作品も含めて通しで見てみて欲しい」
「もちろんです。ニスかけが終わるのを楽しみにしています」
「ありがとう。ひとまず今日は仕事を忘れて慰労会にしよう」
二人の会話に聞き耳を立てながら、春彦は何とも複雑な気持ちで湯呑をテーブルに並べた。
「春彦君! お店の予約が十八時だから、もう少ししたら出発ですよ」
「わかりました。鰻屋さんまではどのくらいかかるんですか?」
「車で三十分もかからないくらいだよ。配車を頼んであるから大丈夫さ」
そう言って片桐は関の目も憚らず、春彦の頭を撫でてくれる。
紅を見せて以来、片桐は今まで以上に優しい。翌日からまた作業に明け暮れる日が続いたけれど、前のように作業部屋に籠りきりで顔を合わせないなどという日は一日もなかった。
朝食や昼食は一緒に取らないことも多かったけれど、夕食は毎日一緒に食べたし、朝起きると、夜中のうちにやってきたのか隣にはいつも片桐の姿があった。この家に置いてもらってから毎日夢のような日々だったけれど、今まで以上に片桐に甘やかされているように感じる。
「春彦君はもう全部みた?」
「ううん。まだ」
「春彦には完成したものを並べた状態見て貰いたくて」
「それがいいですね! 春彦君が先生の新作を最初に鑑賞するお客様だ」
(最初の……。役立たずの僕なんかが、なんて贅沢なことだろう)
春彦はぎこちなく笑うと恐縮してみせた。
「車がきたよ。二人とも」
片桐に呼ばれて外に出ると黒いハイヤーが止まっていた。乗り込むと、前方にはいつか会った老人が見える。車道すれすれのところに立ち、あの日のように打ち水をしながら玄関先の掃き掃除をしていた。ハイヤーがゆっくり走り出し、少しずつ距離が近づくも、老人は気にも留めず箒を動かしている。
「危ないですね。僕、降りて声かけてきましょうか」
関が言うと運転手が、自分が、と申し出た。
「お隣のおばあさん、耳が不自由なんだよ。腰も曲がっているし周りもあまり見えていないのだろうね。近くに言って肩でも叩いてあげないと分からないかも」
片桐の話を聞きながら、春彦は思わず目をしばたいた。あの日、無視をされたわけではなかったと知る。よかった、と思う反面、今は仄暗い気持ちの方が勝ってしまった。片桐のくれる言葉や時間、温もりすべてが春彦に許しを与えようとしている気がして胸の奥がざわざわする。
死ぬその瞬間を描いてくれるという約束は、その機会がないまま完成を迎えた。自分の存在意義が迷子のまま、暢気にも高級な鰻屋に向かう車に揺られている自分が情けない。
別に、自分の死など片桐の才能には必要なかったということなのかもしれない。けれど、そうだとしても、今この瞬間の穏やかな時間を、どんな顔をして、どんな大義名分をもって、生きていたら良いのか春彦にはわからない。
「春彦、大丈夫かい?」
気づかわし気な片桐にハッとして顔を上げた。無能の上に場の空気まで壊すのかと、自分の身勝手に辟易する。
「東京の街が珍しくて、つい景色に見入っちゃいました」
慌てて作り笑いを浮かべると、そうか、と安堵したように片桐が頷いた。その一挙一動すべてが春彦を包み込むように優しい。嬉しくて、幸せだと思ってしまう自分の浅ましさに、胸が抉られるように痛む。春彦は車窓を流れる景色を一瞥すると、固く目を閉じた。



 先日、慰労会と称して連れて行った鰻屋でのひと時は、思い返す限り片桐にとって今までで一番幸せな時間となった。
画家片桐秀一に全身全霊で向き合い、情熱を注いでくれる関。愛を教えてくれた春彦。二人を見ていると、片桐の心はいつになく満たされていた。
凪いだ波のようでありながら溢れ出るインスピレーションが止まらない。狂ったように自分を奮い立たせなくても、もう十分好きなことをただ好きだと思いながら描いていける気がする。
自分には狂気じみた情動が必要不可欠だと思っていた。けれど、それは間違いだったと今なら分かる。ただ愛があればいい。何に対してだっていいけれど、ただ愛さえあれば人は強く自分を生きることができるのだ。
 ジリリリリ、と黒電話の音が鳴り響き、片桐は受話器を取った。
「先生、お疲れ様です。早速企画展の広告案がいくつか上がってきているので、打ち合わせさせて頂きたいのですが先生のご都合いかがでしょうか」
「そうだな……」
カレンダーを見ながらしばし思案した。
「実は明日から数日家を空けるんだ」
「そうなんですね。お出かけですか」
「ちょっと温泉にでも行こうかと。仕事も一段落したしね」
「いいですね! 羽伸ばしてきちゃってください。戻られましたらご連絡頂けたらと思います」
お気をつけて、という言葉に、礼を言って受話器を置いた。
富士の近くに贔屓にしている定宿がある。思い立って問い合わせをしたところ、特に気に入っている離れが奇跡的に空いていて、二つ返事で部屋をおさえた。
紅葉にはまだ早いけれど、十分楽しめるだろうと思う。春彦を連れて泊りに行こうと考えている。
とはいえまずは、一刻も早く春彦に作品たちを鑑賞してもらいたい。片桐は夕飯の支度をしている春彦の元に向かった。
「いい匂いだね。今日の献立はなにかな」
台所に入ると、湯気の上がる炊飯器から米をよそう春彦の姿があった。
「栗ご飯を炊いてみました。匂いはいいけどちょっと薄味かも。ごま塩も一応置いておきますね」
「ありがとう。今日はやたらとお腹が減った」
ふふふ、と春彦が肩を竦めながら笑った。思わず頬が緩んでしまう。
「座って待っててくださいね」
ああ、と相槌を打つと片桐は半ば浮足立って食卓についた。春彦によって手際よく並べられた食事を眺めながら、片桐は改めて当たり前の日常の中にある幸せに思いを馳せる。
今の片桐には、ご飯やみそ汁から立ち上るおいしそうな湯気にすら創作意欲を掻き立てられる。次はこんな風に穏やかで取り留めもない情景を描いてみようと思い浮かんだ。
「さっき関から電話があってね。展示の広告案がもういくつか出来ているそうだよ」
「おめでとうございます。本当にお疲れさまでした」
春彦は、大きな瞳を輝かせて言った。蛍光灯の灯りですら、ひとたび春彦の瞳に映せば冬の澄んだ星空のように見える。ふとするとぬらぬらと蠢く闇がちらつくけれど、そんなものは見てみないふりをすると決めた。
春彦に、死など必要ない。純粋無垢で、清らかな愛そのもののような彼に、これ以上、不幸せを与えてたまるかと思う。
あの衝撃的な秘密を打ち明けられて以来、どんなに遅くなっても夜は必ず同じベッドで眠り、朝も一緒に目を覚ます生活を続けた。春彦に、生きる温もりを感じて貰いたい一心ではじめたことだった。
「急だけれど明日から一泊、富士の方まで遠出しよう」
「富士ですか?」
「仕事の疲れを取りたくてね。定宿があるんだ」
「素敵ですね。でも僕もご一緒していいんですか? 先生お一人の方が羽を伸ばせるんじゃ」
「何を言ってる。君無しでは仕事の完遂などあり得なかった。一緒に行こう。近くには綺麗な湖もある。紅葉の見ごろはまだかもしれないけれど、いいところだよ」
「……ならお言葉に甘えます。楽しみです」
楽しみだと思ってくれるのなら、と片桐はひとまず安堵する。
「春彦」
 愛しい名前を呼ぶと、春彦は目を瞬かせながら顔を上げた。
「今日は家のことは僕がするから、さっそく作品たちを見てみて欲しい」
「そんな。いいんですか?」
「もちろん。というか、僕がすぐにでも鑑賞して欲しいんだよ」
はにかみながらいうと、申し訳そうに何度も頭を下げながら春彦は作業部屋へ入っていった。遂に春彦に観て貰えると思うと、胸がドキドキしていても立ってもいられなくなる。
慣れない家事に手を焼きながら忙しなく過ごしていると、あっという間に夜になり、外からは鈴虫の音が聞こえ始めた。
いつも何かに追われ、頭を常に回転させながら過ごしてきたから、こんな長閑な時間を過ごすのも数年ぶりのような気がする。
少々手間取ったけれど、旅の支度も整い、風呂を済ませ、時計を見やると深夜十二時を回っていた。春彦の部屋からはまだ灯りが漏れている。
片桐は軽くノックをすると、部屋に入った。春彦は、手の甲で目元を覆うようにベッドに横たわっている。何も言わずにベッドの隅に腰を下ろすと、シーツの衣擦れの音が優しく響く。
「先生……?」
春彦の、少し掠れた声が聞こえた。
「本当に大幅に変更されたんですね」
「ああ。僕が心からそうしたいと思ったんだ。どうだったかな」
尋ねると、春彦は涙を噛みしめるように喉を震わせた。
「……幸せな気持ちになりました」
テーマはカルペ・ディエム。メメント・モリの死を意識できたからこそ感じられる、生の幸せがあること。今を生きよ、という意味の言葉だ。
色合いは、全て寒色に統一した。灼熱の業火に焼かれるように舞っていた裸婦はもう居ない。淡い水色と時折混じる黄金色の水に揺蕩うように、穏やかに横たえている。
片桐は泣き濡れた春彦の目を優しく拭ってやった。
「今日はもうこのまま眠りなさい」
部屋の電気を落とすと、春彦にそっと布団をかぶせ、自分もすぐ隣に横になる。
希望を持ってもらいたいと思った。春彦の分身である女に、許しと安らぎを感じて欲しいと思いを込めた。どんなに潔白に生きようとしても、人は過ちを犯す。それでも、人は何度でも許され、愛に生きることはできるのだ。醜い風間が春彦の愛に救われたように、春彦の体も、心も、その愛も、どこにも欠陥などないのだと伝えたかった。自分の描いてきた作品がずっと春彦に寄り添えていたのなら、今度も、この作品こそそうであってほしいと切に思う。
夜風が窓を叩く音に耳を傾けていると、いつしか二人、あたたかなまどろみの中、眠りに落ちていた。



「先生。朝ですよ」
体をゆるやかに揺さぶられ、春彦の優しい声で目が覚めた。
「おはよう。八時か」
眠気眼をこすりながら体を起こすと外はさわやかな快晴で、窓からは朝の陽ざしが差し込んでいる。
「お掃除も終わって、朝食の支度も整ってます。食べたらいつでも出発できますよ」
春彦はそう言うと軽やかな足取りで客間を出ていった。心なしかいつもよりも明るく見える春彦に、つい口元が綻んでしまう。
居間へ行くと焼き魚の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。いただきます、と二人同時に手を合わせると、勢いよくご飯をかきこんだ。綺麗に巻かれた卵焼きを口に頬張ると思わず、うまい、と呟いた。甘口だけれど、塩味もちゃんと感じられる丁度良い塩梅で箸が止まらない。
「僕、もう先生の味の好みは完璧にマスターしましたから」
得意げな春彦が可愛くて、片桐はくすりとほほ笑んだ。
食事を終え、二人の方が早いからと台所に共に立ち、後片付けを済ませると家を出た。頼んだハイヤーが来るまでの間、春彦は空気を大きく吸い込んでみたりその場でスキップするように歩いてみたりしている。
「僕、秋が一番好きなんです。空が高くて気持ちがいいので」
「そうだなぁ。言われてみれば、僕も秋が一番好きかもしれない」
春彦につられて深く深呼吸をしてみた。清く澄んだ冷たい風が体中を駆け巡る。
「あ! 車来ましたね」
 降りてきた運転手に荷物を預けると、車に乗り込んだ。東京駅へ向かい、電車にのって、だいたい三時間弱といったところだろう。
「眠くなったら気にせずに眠るといい」
そう伝えてはいたけれど、春彦は終始楽しそうにはしゃいでいた。うつらうつら船をこぐ片桐の肩をゆすると外を指さし、綺麗な景色や変わった建物に出会うたびに感嘆の声を上げている。
これほど無邪気な春彦を見るのははじめてで驚きもしたけれど、片桐はそれ以上に安堵した。まだ二十歳そこそこの青年だ。今までが異様なほどに大人び過ぎていたのだ。
最寄りの駅から送迎車に乗り込むと、いつしか窓の外は一面の緑で溢れていた。少し窓を開けてみると、清涼な風が車内に流れ込む。山道をぬけて玉砂利の道を進むと、木造数寄屋造りの宿が見えた。
「見えた。あそこだよ」
「うわあ。綺麗な旅館ですね」
門前には女将と数名の仲居が既に並んで待っていた。運転手がドアを開けると、片桐は女将に向かって頭を下げる。
「急な予約にも関わらずありがとうございます。お世話になります」
「片桐様、いつも御贔屓にありがとうございます。ごゆっくりお寛ぎください」
仲居に案内され、本館の奥にある離れに通された。美しい日本庭園や橋のかかった池が良く見える、お気に入りの離れだ。
部屋付きの露天風呂はもちろん、大きな土間もあり、夕食はそこで頂ける。裏口を出れば裏山のハイキングコースにもつながっていて、十五分ほど歩けば綺麗な湖が見えた。
「こんな素敵な宿泊ったことありません。本当にありがとうございます」
仲居に淹れてもらったお茶と茶菓子を味わいながら、春彦は興奮気味に言った。
「気に入って貰えてよかった。少しゆっくりしたら外に散歩へ行こうか」
「行きたいです!」
春彦は勢いよくお茶を飲み干すと、部屋中をあちこち見て回っている。しばらく思い思いの時間を過ごし、夕焼けのオレンジが濃くなってきた頃、裏口から外へ出て木々に囲まれた遊歩道を歩いた。青々したメタセコイアやカラマツが優しい音を立てて揺れている。
「やっぱり、まだ紅葉はしていないね」
微かに赤や黄みがかっているところもあるものの、まだ全体的に緑が濃い。
「そうですね。でも、風の匂いは秋って感じがします」
「風の匂い?」
「夏の野山って緑の匂いが強いけど、秋はカラっとしていて香ばしい香りがする気がします」
木々の隙間から差す茜色が春彦の白い肌をオレンジ色に染め上げている。どこにいても絵になる程に、春彦は美しい。ふいに視界がひらけると、目前に大きな湖が見えた。
「うわあ!」
春彦は感嘆の声を上げると小走りで湖の方に駆けていった。夕日に照らされて、湖面がきらきら星の波を作っている。短くかかった桟橋には手漕ぎボートがいくつかつながれていて、ゆるやかに波打つ速度に合わせてポコポコと涼しげな水音を立てていた。
「昼間は湖面に木々が反射して、それもまた風情があるんだ」
「そうなのですね。すごく綺麗だろうなぁ」
「今日はもう日も落ちてしまうけれど、明日少し早起きしてボートで沖まで出てみよう。晴れ予報だから、朝日がとても美しいはずだよ」
そう言って頭を撫でてやると、春彦は満面の笑みを浮かべて笑った。
 
夜になり、土間の囲炉裏に火を焚きながら、山の幸がふんだんに使われた料理を堪能した。パチパチとはぜる薪の音を聞きながら、座椅子に座りお茶を飲む。なんて贅沢な時間なのだろう。今日一日、春彦はずっと楽しそうで、旅行を満喫してくれていたように見える。
(連れてきてよかった。これで少しでも傷が癒えてくれたらもっといい)
物思いに耽りながら寛いでいると、ふいに春彦がやってきて片桐の浴衣の袖を引っ張った。
「どうかした?」
聞くと、春彦はもじもじしながら外を指さしている。
「先生。せっかくなので一緒に露天へ行きませんか」
離れには竹垣に囲まれ、石畳の敷かれた檜風呂が併設されている。春彦は耳まで真っ赤にしながら片桐の返事を待っていた。この一言を言うのにどれほどの勇気を振り絞ってくれたのだろうと思うと、今すぐにでも抱きしめたい衝動に駆られる。
「いこうか。きっと星が良く見えるよ」
春彦の手を引き外に出ると、空には満天の星空がひろがっていた。控えめな照明の灯りが、空を一層引き立ててくれている。
かけ湯をし、足元からゆっくりつかると炭酸泉のぱちぱちとした刺激が全身を包み込んだ。
「気持ちいいね」
「はい。星も綺麗だし気温も丁度いいです」
こうして横に並んで湯につかっていると、改めて、春彦の体は華奢だなと思う。
「君は本当に華奢だね。もっと食べないと」
片桐は春彦の腕と自分の腕を並べるようにしながら言った。
「細身は嫌いですか?」
「いいや。ただ、消えてなくなりそうなくらい細いから心配なんだ」
そういって笑うと、春彦は切なげに眉を下げて微笑んだ。
「先生……」
唐突に、春彦の唇が片桐に触れた。春彦の顎を指で少し持ち上げると、今度は片桐から口づける。
「先生。カルペ・ディエム、すごく嬉しかったです」
春彦の瞳は潤み、頬には濃い桃色がさしていた。じわりと滲む汗が、春彦の細い首筋を伝い、浮きでた鎖骨のくぼみに落ちていく。心臓が早鐘のように高鳴って、全身が脈打つように熱い。
「春彦、おいで」
春彦の手を引き風呂を出ると寝室に連れ立ち、布団にその小さな体を横たえた。覆いかぶさるように春彦を見下ろすと、瞳の奥に不安げな色が揺れている。
「怖い?」
聞くと、春彦は首を横に振った。
「僕は……先生の役に立てましたか? 中途半端じゃ、なかったですか」
春彦は唇を震わせながら言った。
「全てを捧げると言ったのに、そんなものなくたって先生は素晴らしい絵を描いてくれました。とことん無能の僕が、先生に優しくしてもらう価値はありますか……」
そういって、春彦は目を伏せた。長いまつげが白い肌に影を落としている。片桐は春彦を抱きしめた。
「僕が再び筆を取れたのは君のお陰だ。春彦」
強烈な闇に魅せられてはじまった関係は、片桐に本物の才能を授けてくれた。狂わせて縋られたいという独占欲も、幸せな結末を望んで貰いたいと思ったのも、何かしてあげたいと思う庇護欲も、ただ美しいと思う感情も、そのどれもがとっくに春彦を愛していたからなのだと、今ではわかる。
片桐は自身の浴衣を脱ぎ去ると春彦の帯を解いた。桃色の唇をついばみ、食むような口づけを繰り返しながらだんだんと深くする。
熱を帯びた舌を春彦の口内に忍び込ませると夢中で舌を絡めた。溢れ出る唾液が口角から伝い落ちていく。
はだけさせた浴衣の袂から手を滑り込ませ、小さな胸の突起に指を這わせると、春彦の体はびくりと跳ねた。片桐は、その華奢な体を隅々まで慈しむように愛撫する。
男だからでも女だからでもなく、ただ春彦そのものが美しくて愛おしい。そう伝えるように、首筋から少しずつ舌を這わせながら下っていった。
「せっ先生。あっ」
片桐の舌が小さな乳首を舐め上げると、背中をのけぞらせるように春彦は喘いだ。
「春彦、綺麗だ」
(だからもう自分を許してあげてほしい。愛してあげてほしい)
片桐は愛撫を続けながら、片手を春彦の下半身へと滑らせる。下着の上からでもわかるほど膨れ上がった性器を撫でると、春彦は腰をくねらせた。片桐は徐々に下へ移動し、下腹部の傷痕に舌を這わせる。
「ふぁぁんっ」
一際はじけたような声を上げて、春彦は片桐の腕を握りしめた。
「せん、せっ。そんなとこ、醜いのでっ」
春彦は、潤んだ瞳でこちらをみている。片桐は、汗でへばりついた前髪を小指でそっととかしてやると微笑んだ。
「醜いとこなんてあるものか」
おもむろに下着をはぎとると、先端から蜜を垂らしながら起ちあがる春彦の性器を口に含んだ。
「ぁん、はぁっ、あん」
舌を絡めながら上下させると、春彦は張り詰めた声をあげて息も絶え絶え喘いでいる。片桐は零れ落ちる蜜一滴も取りこぼすまいと、すべて飲み干し舐め上げた。
「せん、せっもう、でちゃ」
片桐の口を外そうと頭を押し返そうとする華奢な手を優しく絡め取り、舐め扱く速度を一層速めてみる。
「あっ、あっ、あっ、ふぁん」
徐々に声が張りつめていく。刹那、片桐の口内にあたたかな熱が放たれた。
こくり、と飲み込みゆっくり口を離すと、春彦のそれは未だ芯を残したままびくびくと震えていた。
片桐は自身の下着をはぎとり、何もせずともすっかり濡れそぼった性器に汁を絡めていく。痙攣する春彦の性器をなぞるように前後に腰を動かして刺激した。達したばかりで敏感な春彦は片桐の性器に撫でられるたびに震えている。 
「先生、きてっ……」
傷つけないようにゆっくり腰を動かしていると、切羽詰まった春彦の声が響いた。動きを止めて視線を持ち上げると、春彦は懇願するような眼差しでこちらを見ている。
「先生と一つになりたい……」
春彦は自分の指に唾液を絡めると、後孔に差し入れ、眉を顰めながら押し広げてみせた。間接照明に照らされて、春彦の後孔はぬらぬらと光っている。
片桐は思わず生唾を飲み込んだ。拡げられたくぼみに自身を這わせると、ゆっくり奥へと押し入れる。
「くっ」
みちみちと中を押し広げながら、肉壁に絡み取られるように奥へ誘われていくのが分かった。
「んっ、はぁっ」
春彦の苦しそうな吐息に合わさるように、片桐の口からも切ない喘ぎが漏れ聞こえる。
「先生も、きもち、いっ……?」
「ああっ」
息を詰まらせながら言うと、春彦は今にも泣きそうな表情を浮かべて笑った。
「うれ、しいっ……」
片桐は春彦に口づけると、ゆっくり自身をだし入れさせた。急な刺激に腰を浮かせるように春彦はよがっている。
「あっ、あん、はんっ」
体を密着させながら突き上げると、完全に固さを取り戻した春彦の性器を腹で刺激した。春彦の温かい蜜が滴るたびに淫猥な水音が響いている。
「くっ」
急に搾り上げられ、快楽が一気にせりあがってきた。
「はる、ひこっ。もうっ」
ふいに顔を引き寄せられ、深い口づけが落とされた。春彦の熱くはれた舌に吸い付くと、一層深く突き上げる。
「あっ――――」
唐突にはじけた片桐の精が春彦の中を満たすと、その熱に呼応するように春彦が透明の飛沫を放ちながらくたりと果てた。どちらともなく甘やかな口づけを交わし、強く抱きしめ合う。
「……僕に再び描く喜びを与えてくれて、ありがとう。出会ってくれてありがとう」
まどろみながら言うと、春彦は優しい表情を浮かべながら、ううん、と首を振っている。
脱力した腕で春彦の肩を抱き寄せると、薄い肩は汗をまとい、心なしかほんの少しだけ冷えていた。今にも消えてしまいそうな儚さに、一層力を込めて抱きしめる。
これから先、時代が変わればきっと春彦の生きやすい世界もくるだろう。それまでは自分が、何があっても守ってあげたいと強く思う。
彼の心に寄り添うことができるなら何枚だって絵を描きたい。あの家で二人、穏やかな日々を重ねていけるならなんだってしてみせる。
「……春彦。君を愛してる……」
急激な眠気に襲われ、重くなる瞼に抗いながらなんとか伝えると、片桐はぷつりと意識を手放した。

 窓から差し込む朝日の眩しさに目が覚めた。外からは野鳥の囀りが微かに聞こえてくる。
片桐は心地よい疲労が残る体を起こし、壁掛け時計を見た。朝の六時を回ったところだ。隣の布団には浴衣が綺麗にたたまれて置かれている。春彦はもう起きているらしい。
「風呂にでも行っているのかな」
そう独り言ち、片桐は寝室を出ると窓際のカウチソファに腰を下ろした。外には美しい日本庭園がひろがっている。朝食を食べたら春彦と庭園を散歩して、湖まで行ってみよう。昨夜は無理をさせてしまったから、手漕ぎボートに乗せてやり、美しい景色を堪能してもらいたい。
一緒にしたいことや連れて行きたい場所などをあれこれと思案していてふと壁掛け時計に目を向けた。十五分はゆうに経過している。
まてよ、と思う。風呂や洗面へ行くのに浴衣を脱ぐ必要はないではないか。
もしやと思い玄関へいくと、春彦の革靴が見当たらなかった。
「一人で外へ……?」
片桐は備え付けの草履をひっかけると、湖まで続く遊歩道へ急いだ。昨日、湖にさす朝日が美しいと話したことを思い出す。きっと見に行ったに違いない。
早朝の山間は、初秋とはいえ肌寒い。春彦は十分暖かくして出かけただろうか。あんな繊細な体で風邪でも引いたら拗らせかねない。
湖に到着し、片桐は息も絶え絶え辺りを見回した。けれど、春彦の姿は見当たらない。ドクドクと全身に響く心音がうるさく鳴っている。
片桐は桟橋を進んだ。ボートが揺れるたびにたぷたぷという気の抜けた水音がやけに耳につく。
白く輝く朝日に目を細めながら桟橋の際を見やると、黒い置物のようなものがぽつんとあった。目を擦り、顰め、何度も見直してみる。丁寧に並べられた春彦の革靴だった。
刹那、周囲からぱたりと音が止んだ。まるで真空の中を進んでいるように空気が重い。片桐は一歩、また一歩と歩みを進め、おもむろに膝を折った。靴の下には小さなメモ紙が置かれている。
『先生。僕を愛してくれて有難う。生まれてきた喜びをくれて有難う。魂からの愛を込めて。』
「はる、ひこ……?」
震える足に力を込めて手漕ぎボートに乗り込んだ。我武者羅にオールを漕ぐと、湖面に揺蕩う真っ白な塊へ漕ぎつける。
遠目には、湖面に映る白日の光に見えていた。光に包まれたその白は、春彦の一張羅のシャツだった。
片桐は布の端を手繰り寄せ、小枝のように細い腕をつかむとボートの上にいとも容易く引きあげた。
「春彦っ……」
 春彦の肌は青白く、瞼はぴたりと閉じられている。片桐は喉から絞り出すような嗚咽を漏らした。
傷つけないように、けれど力強く、その華奢な体を揺すり、抱きしめ、また揺すりながら泣き叫ぶ。
絵画など、描き上げない方がよかったのだろうか。恋愛がわからないと嘘をつき通し、必死にさせたまま、あの家に閉じ込めていた方が、春彦にとっては気が楽だったのか。浮かんでは消えていく問いの答えはもう知るすべもない。
ふいに滑らかな漆塗りの小物がカラリと音を立てながら、ボートの底を転げていった。春彦の口紅だ。
「君って子は……最後までなんて健気なんだ」
 亡くなるその時くらい、自分の好き勝手に着飾ったってよかったのにと思う。過去を許し、ありのままの自分を認めてあげたっていいじゃないか、と。
 でもその一方で、春彦らしいなとも思えた。春彦は生前、何度自分の唇に紅を引いたのだろう。中身が減っていない紅の器を見ながら、片桐は切なげに微笑んだ。
片桐は震える小指に紅を少し乗せると、青くなった春彦の唇にのせてやった。紅の赤が、青白くなった春彦に再び血の巡りを齎してくれた気がして涙が込み上げる。
「春彦。お礼を言わなくてはいけないのは僕の方だ」
 片桐は春彦と出会い、魂の奥底にある本物の熱を知り、正真正銘の画家になることができた。
絵を描き上げてよかった。愛に気づかないふりを続け、春彦の心をいたぶり続けなくてよかったのだ。
春彦は生きた意味を得て、片桐が注いだ愛を抱いて逝った。片桐もまた愛を得て、今この腕の中に春彦を抱いている。
春彦を表したあの絵の裸婦は、生きる喜びに包まれたまま後世まで残る。死を纏い、炎に包まれたまま残さなくてよかったと思う。
「春彦、愛してる。君と一緒に居られる僕は世界一の果報者だ」
来世は、春彦のような者たちが生きやすい世に産まれることができますように。そして叶うなら、そんな優しい世界で、この美しい人に再び巡り合い、一緒に歳を取りながら愛し合って生きたい。
片桐は春彦を抱きしめると、春彦の真っ赤な唇に口づけた。溢れる涙の熱で、重ねた唇が熱い。昨夜の熱と寸分違わない温もりが、たしかにここにある。
片桐は春彦の体を一層強く抱きしめ、帯の先を胴に括りつけた。そのまま一気に体を傾けると、大きな水音を立てながらボートが揺れる。
ふいに母の顔が脳裏を掠めた。片桐を抱き、仕事から帰宅した父を出迎えた時の笑顔だった。
(ああ、幸せだ……)
反転してゆく景色の中で、片桐は穏やかに微笑んだ。

 
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