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2025/11/07 16:00

あらすじ
孤島出身の伊神嶺 悠日(いがみね ゆうひ)は、大学進学を機に島を離れ、東京で暮らしていた。
そんなある日、祖母の訃報を受け、六年ぶりに故郷である「海乃祢島」へ帰ることに。そこで再会したのは、かつて異常な執着を向けてきた七歳年下の弟、千景(ちかげ)だった。
千景の話によれば、祖母が亡くなったことをきっかけに、次の「御子」を決める儀式が行われるのだという。因習が色濃く残る島の空気や、弟の執拗なまなざしに不気味さを覚え、葬式後、すぐに島を出ようとする悠日。
しかし不運にも嵐に見舞われ、船は欠航。悠日は島に閉じ込められてしまい…。
※こちらの作品は性描写がございます※
プロローグ
「にいちゃん、いかないで!」
連絡船に乗り込もうとした、まさにその時だった。
潮騒の音に混ざって、弟の悲痛な声が聞こえる。振り向くと、波止場の奥に小さな弟の姿を見つけた。
「お願いっ、置いていかないで!」
俺に向かって、弟が走ってくる。
とうに連絡船の出航時間は過ぎていた。これ以上待ってもらうことはできない。焦りながら弟の様子を見ていると、連絡船との距離が残り数メートルになったところで、弟は「あっ」と小さく悲鳴を上げ、勢いよく転んでしまった。
「千景! にいちゃんとはもうお別れしたじゃろ!?」
俺がなにもせずに立ちすくんでいると、追いかけてきた祖母が弟の側に駆け寄ってきた。祖母は弟の怪我に気づき、手を差し伸べる。
弟はうめき声をあげながら上半身を起こすが、アスファルトには真っ赤な血がこびりつき、白い左膝には大きく抉れたような傷ができていた。
弟はそれでも、俺から視線を外そうとはしない。
「にいちゃ……」
弟がこちらに手を伸ばして呼びかけようとした瞬間、俺は「ごめん」とだけ言って、船に乗り込んだ。
――それから先は、弟の顔は見ていない。最後に見たのは、絶望と悲しみに濡れた、真っ黒な弟の瞳だった。
伊神嶺 悠日(いがみね ゆうひ)は、そこではっと目が覚めた。黒い鞄を抱えながら伏せていた顔を上げると、潮風の匂いが鼻孔を掠め、波の音が聞こえてくる。たった十席の古びた連絡船の中には、他の乗客はいない。
「着いたのか……」
のっそりと立ち上がって船の外に出ると、かつての記憶と変わらない港が眼前に広がっていた。
嫌な汗が全身を伝う。潮風が吹くと、あっというまに肌がベタベタとして、ますます不快感が増していった。悠日は唾を飲み込み、己を奮い立たせてなんとか歩き出す。
そうして自らの生まれ故郷――海乃祢島(うみのねじま)の地に、六年ぶりに足を踏み入れた。
一
悠日が祖母の訃報を聞いたのは、茹るような暑さが続く八月初旬、大学院の夏休みの真っ只中だった。大学進学を機に島を離れて東京で暮らしていた悠日は、祖母の葬儀に参列するため、六年ぶりに島に訪れることになった。
真っ黒なスーツを着て、海沿いの道を歩く。波止場から数分も歩けば、悠日の実家である伊神嶺家に到着した。この島の中でも一層大きな日本家屋の庭には、喪服を着た人々が列を成している。
他の島民と同じように受付を済ませて家へと入っていくと、旅館の宴会場のように広々とした和室の奥には立派な祭壇が置かれ、その前には式の喪主である弟――伊神嶺 千景(いがみね ちかげ)が立っていた。千景は参列者である島民と、一言二言挨拶を交わしている。
(あれが、千景なのか……?)
悠日は六年ぶりに見る実の弟の姿に、襖のすぐそばで立ち尽くしてしまった。
まず目を惹くのは、すらっと伸びた身長だった。悠日の身長を完全に追い越していて、百八〇センチ以上はあるだろう。彼の容貌はぐっと大人びたものへと変わっており、綺麗な二重瞼に黒曜石のような瞳、すっと通った鼻梁、形の良い唇は完璧なバランスで配置されている。艶のある漆黒の髪が白い肌をさらに際立たせ、喪主として黒紋付袴を着た千景は、とても十七歳には見えないような落ち着きと気品があった。
悠日はしばらく呆然としていた。しかし千景に挨拶をしていた参列者が途絶えた時、千景は悠日を見つけて、すっと目を細めた。
「兄さん」
低めの、よく響く声だった。悠日は弟が変声期を迎えたあとの声を聞くのも初めてだった。なんともいえない気まずさを感じながら、祭壇前にいる弟へ歩み寄った。
「千景、久しぶり。なんでもお前に任せちゃってごめん。昨日も、その……間に合わなくて」
悠日は自分の代わりに葬式の手配を引き受けてくれた弟に、なんと言っていいのかわからなかった。しどろもどろになりながら言葉を発すると、千景は美しい笑顔を浮かべた。
「昨日? ああ、通夜祭のことね。気にしないで。天気のせいで欠航してたんだから、兄さんが悪いわけじゃないよ」
「でも……葬儀の手伝いとか、俺にもできることは……」
「ありがとう。実はばあちゃんが亡くなったあと、近所の人たちが手伝ってくれたんだ。色々と手配は終わってるから大丈夫だよ。兄さんこそ、東京から来るのは大変だったでしょ」
「いや、全然……。でも、それならよかった」
落ち着いた声色で話す千景に、悠日は緊張が解けていった。あの頃の、粘り着くような薄暗い視線は向けられることはなく、ほっと胸を撫でおろした。
周りを見回すと、再び参列者がぞろぞろと入ってくる。長話をするのもよくないだろうと、「それじゃあまたあとで」と言って、最前列の席に正座をした。
しばらくして、進行役の「只今より故伊神嶺 千代子殿の葬場祭ならびに発柩祭を執り行います」という言葉とともに、開式の旨が告げられた。悠日は滞りなく進んでいく式の中で、かつて海乃祢島で過ごした日々を思い返していた。
***
悠日と千景は、七歳年の離れた兄弟だった。両親は悠日が九歳、千景が二歳の時に水難事故で亡くなっており、それからは祖母との三人暮らしであった。
そのため千景にとっては、年の離れた兄という存在は想像以上に大きかったのだろう。千景は異常なほど、兄に懐いていた。
「にいちゃん。おかえり!」
六年前のとある日、悠日が学校から帰ってくるやいなや、千景はバタバタと駆け寄ってきた。弟はあどけない笑顔を見せて長い睫毛を瞬かせる。
「ねえ、今日も探索しに行こ!」
「千景、俺のことを待ってたのか? クラスの子と遊んできたらいいのに」
「やだ。僕はにいちゃんと遊びたいの!」
「わかったけど……勉強しなきゃいけないから、そんなに長く遊べないぞ」
悠日は呆れたようにため息を吐くと、弟に手を引っ張られながら再び家の扉を開けた。真夏の刺すような日差しが肌を焼いて、目が眩むような感覚がした。
当時高校三年生の悠日は、その年の冬に受験を控えていて、正直に言うと、早く涼しいところに行って勉強がしたかった。しかし一緒にいられないとなると弟がごねることはわかっていたので、付き合うしかないのだ。
(一体、千景はいつになったら友達ができるんだろう)
悠日は弟の小さな背中を見ながら気を揉んだ。今年で十一歳になる弟は、全く友達を作る気配がなかったのだ。島内にも学校はあって、一歳、二歳差の子どもたちはいる。しかし千景が彼らと遊んでいる姿は一度も見たことがなかった。
「にいちゃん。今日はここを探索しよう。ねっ?」
弟に導かれるまま訪れたのは、自宅から十分程度歩いたところにある森の入り口だった。島の三分の一程度は森に覆われているので、探索する場所はいくらでもあった。
「千景、あんまり奥には入らないようにするからな」
「わかってるよー!」
千景は悠日の腕に絡みつき、身体を密着させながら歩き出した。
森の中には本州ではめったに見られないような珍しい鳥や虫、草花が生息している。しかし悠日はあいにくそういったものには興味がないので、ただ緑に塗りつぶされたような景色を歩いていた。
「それで、今日学校でね……」
暑苦しいくらい密着して歩く弟は、にこにこと上機嫌な様子で悠日に話しかける。
千景も「探索」と言ったわりに周囲の景色や生き物に興味を示している様子はなく、ただ兄とのとりとめのない会話を楽しんでいるだけだった。
「千景。ここ最近、『探索』してるけど、楽しいのか……?」
「ん?」
「なんていうか、ただ歩いてるだけだし……」
千景は小首を傾げて、瞬きしながら兄を見上げた。
「にいちゃんといられるから」
「……えっ?」
「にいちゃんと二人でいられるから、すごく楽しいよ」
千景はさも当然のことだというように、はっきりと、兄をまっすぐに見て言った。
「森の中にいると、にいちゃんと二人だけの世界にいるみたい」
千景は表情を一変させて目を細めると、さらに身体を近づけて、白い頬を兄の腕にすり寄せた。
悠日は鳥肌が立つのを感じながら、ごくりと唾を飲み込んだ。胸の奥から這い上がってくるような不快感を打ち消すように軽く首を横に振り、千景の頭に手を添えた。
「もちろん二人で遊ぶのもいいけどさ。クラスの子の中にはゲームを持ってる子もいるだろ? みんな学校終わったらその子の家に集まって遊んだりしてるらしいし、千景もたまには参加してみたら?」
なるべく穏やかな口調で言ったつもりだったが、千景の顔が一瞬にして暗くなった。
「なんで? にいちゃんは僕と一緒にいるのが嫌なの?」
「いや、そういうわけじゃなくて」
「じゃあ、なんでそんなことを言うの」
「お前には、もっと友達がいたほうが楽しいんじゃないかと思って……」
「必要ない。僕にはにいちゃんだけがいればいいの」
千景は低い声できっぱりと告げた。精巧な人形のように表情がごっそりと抜け落ちた顔に、悠日はびくりと肩を震わせた。
――千景は特段、周囲の子どもたちに比べて幼いというわけではない。
むしろ祖母と会話している時はしっかりとした受け答えをしていて、かなり大人びているほうだろう。それなのに、悠日と一緒にいる時の彼は、親と一時も離れたくない幼子のような振る舞いをする。それは千景が成長するにつれて酷くなっていき、悠日はなぜか、実の弟である千景から名状しがたい恐怖を感じていた。
悠日がなんと言っていいのかわからずに黙っていると、数分歩いたところで、千景が明るく声をかけた。
「あ! にいちゃん、今度はこっち入ってみようよ」
沈黙の間を破るように、千景は二股に分かれた道の片方を指さした。悠日は「そうだな」と相槌を打ち、そのまま弟に導かれるようにして森の奥に進んでいく。
「にいちゃん見て。あれ……」
しばらく歩いてから、悠日は千景の声にぱっと顔を上げた。千景の視線の先には、ぽっかりと黒い穴が空いたような洞窟があった。
洞窟の左右にある木には黄色いテープが巻かれて、洞窟への立ち入りを禁止しているようだ。そのなんともいえない不気味な雰囲気は、悠日の足を立ち止まらせるには十分だった。
(なんだ、この異様な雰囲気は……)
その洞窟の周囲だけはぞっとするほど冷たい空気が漂っていて、胸を押しつぶすかのような重圧があった。
千景はこの異様な雰囲気を気にしている様子はなく、呆然とする兄を見上げた。
「にいちゃん、もしかしてあの場所って、『八碑様(はちひさま)』の洞窟かな?」
「『八碑様』って、言い伝えの……? たしか、海にいた神様だっけ?」
「なんでそんなにうろ覚えなの? そんな人初めて見たよ。しかも伊神嶺家の人間なのに」
千景は瞠目し、少し呆れたように言った。
――ここ海乃祢島には、「八碑様」という土着神がいるらしい。
悠日はその存在を祖母や島民から教えられてはいたものの、全く興味が湧かず、聞き流していた。
「えっと……『八碑様』の言い伝えって、どんな話だったっけ?」
「もう、仕方ないなあ。僕が教えてあげるね」
千景は兄に頼られて嬉しかったのか、顔を明るくした。
悠日は軽く聞いたつもりだったが、千景は意気揚々と「八碑様」について語り出してしまった。途中で話を遮るわけにもいかず、悠日はただ黙って弟の話を聞いていた。
――「八碑様」の信仰は、この島に伝わる古い昔話に由来している。
その昔、海乃祢島の漁師が海に出た時、蛸のような見た目の巨大な怪物と遭遇してしまった。船首に怪物の触手が巻きつき、海面から真っ黒な目で覗き込まれていると気づいた漁師は、怪物の手足の一部を刀で切り取り、命からがらその場を逃れた。
漁師は家に帰ったが、その日は漁ができなかったため、代わりに切り取った怪物の手足を、妻と娘と共に食べることにした。
しかし、翌日から海乃祢島に異変が起き始める。来る日も来る日も大嵐が続き、海が荒れ果て、死者が多数出てしまったのだ。
このままでは生きていけないと悟った島民は、なにが起こったのかを探った。そうしてわかったのは、漁師が遭遇したのは「海を鎮める力」と「海を荒らす力」の両方を持つ神であったということ。さらに漁師が神の手足を切ってしまったことで、力の一部である「海を鎮める力」を奪ってしまったということだった。
島民は神の力を取り戻すため、漁師とその家族――伊神嶺家のうちから一人を、「御子」として神に献上することにした。
「御子」に選ばれたのは伊神嶺家の美しい一人娘だった。神の手足を食べていた娘は、海を鎮める力をその身に宿していた。神は娘を御子にすることで、ようやく両方の力を取り戻すことができたのだ。
こうして島には平穏な日々が訪れたが、娘を差し出すことになってしまった漁師は悲しみに暮れた。そして神への畏怖を示すように、神を「八碑様」と呼び、祠を作って祀ることにした。その祠には、あのとき漁師が切り取った神の一部が保管されているという。
「ああ……。たしかそんな話だったな」
千景の話を一通り聞いて、悠日はようやくこの昔話の全容を思い出した。
「今はばあちゃんが『御子』なんだから、絶対忘れちゃいけない話でしょ」
「御子、ねえ……」
一応形式的には、今は祖母が伊神嶺家を代表して「御子」ということになっているらしい。
(まあ、よくある地方の昔話だよな)
悠日はそう思っていたが、幼い弟が真剣に説明をしてくれたので、「教えてくれてありがとう」と頭を撫でた。
そしてべったりと兄に引っついたままの千景をよそに、悠日はもう一度洞窟を見た。先ほどまで「八碑様」の昔話の内容は忘れていたものの、あの洞窟が立ち入ってはいけない場所――禁足地であることは、祖母から言われていたはずだ。
(たしか、「八碑様の安息の地に、軽々しく立ち入ってはならない」とか、そんなことを言っていたような気がする)
そうでなくても、寒気がするほどに異様な雰囲気が漂っているので、入りたくはなかった。
「千景。帰ろう」
悠日は弟の手を引いて、踵を返そうとした。しかし千景はその場から動こうとしない。
「ここ、入っちゃいけないところだよ。お前もばあちゃんに言われてただろ? それに、そろそろ暗くなってきたし、俺も勉強しなきゃいけないから」
「もうそんな時間? ちょっと入るだけでも」
「駄目だ。帰るぞ」
珍しくぴしゃりと言い放った悠日を見て、千景は頬を膨らませながらも兄の背中についていった。
「まだにいちゃんと遊びたかったのに」
千景はぽつりと呟いたが、悠日はあえて聞こえないふりをした。
それから悠日と千景は、来た道をとぼとぼと戻っていく。想定していたよりも奥のほうに入っていたようで、自宅を出てから数時間が経ってしまっていた。周囲をほんのりと赤く染める夕日は、二人の兄弟の黒い影を長く伸ばしている。
帰り道では、千景は一切口を開かず、静かに黙っていた。そのくせ時折思い出したかのように後ろを振り返り、洞窟のあった方向をじっと見つめていたので、悠日は思わず声をかけた。
「千景。気になるかもしれないけど、もうあの洞窟の近くには行くなよ」
悠日は「八碑様」の言い伝えなんて、正直馬鹿馬鹿しいとは思っていた。だけどあの異様な雰囲気といい、少なくともあの場所に近づいていいことはなにもない。
それに千景はまだ十一歳の子どもだ。あんな洞窟に一人で行ったりしたら、「八碑様」の言い伝え以前に危険が多すぎる。ここは兄として念を押しておかないと。そんな思いで忠告をした悠日をよそに、千景はきょとんとした表情を浮かべた。
「うーん、入っても大丈夫そうだったけどなあ。今度一緒に行こうよ」
「なに言ってるんだよ。ばあちゃんも島のみんなも、危ないから入るなって言ってただろ」
「でも、八碑様は入っていいって言ってたよ」
「は……?」
(今、なんて言った?)
悠日は弟に聞き返そうと口を開いたが、その言葉は遮られてしまった。
「あ、ばあちゃん!」
千景が庭先にいる祖母を見つけて、大きな声を出したからだ。
(聞き間違いだよな、きっと……)
再度千景を問いただすこともできただろう。しかし悠日はぞわぞわとした感覚が湧き上がり、千景に確認する勇気が出なかった。
***
悠日の進学先が決まったのは、それから七か月後のことだった。第一志望であった都内の大学の合格発表が終わったあと、悠日は入学手続きから引っ越しの準備まで、日々慌ただしく過ごしていた。
その日は、いつも通り祖母と悠日と千景の三人で夕飯を囲んでいた。目の前の机には、祖母が作ってくれた一汁三菜の食事が並んでいる。しかし悠日はどうしても食欲が湧かず、変に喉が渇いたような感じがして、箸が止まってしまった。隣に座っている弟が味噌汁をすする、そんな微かな音がやけに耳につく。
理由は自分でもわかっていた。今日は家族に、「引っ越し日が正式に決まった」ことを言わなければならないからだ。
「あの。ばあちゃん、千景。ちょっと話があるんだけど」
散々口を開いては閉じてを繰り返したあと、ようやく意を決して声をかけた。悠日の前に座る祖母は静かに悠日を見て、弟は「なに?」と無邪気な声で反応した。
「俺、三月二十四日にここを出るから」
悠日が話を切り出した途端、その場がしん、と静まり返った。そして数秒経ってから、祖母が「引っ越し日、決まったんやな」と言葉を返した。
「うん。あっちに慣れるためにも、早めに住んでおこうと思って」
「ええやない。島のみんなにも伝えといてな」
「わかったよ」
祖母は少し訛った言葉で淡々と言った。彼女は表情一つ変えなかったが、この反応は想像通りだった。祖母には二年ほど前から、学びたいことがあるからどうしても大学に行きたいこと、そして当然島には大学はないので、島を離れなければならないと伝えておいたからだ。
「悠日。大学卒業したら、島に戻ってくるんじゃろ?」
「……もちろん」
悠日は咄嗟に返答をするが、心臓がうるさいくらいに脈打っていた。
――島に戻るなんて、嘘だからだ。
この島から一歩も出たことがない祖母は、「卒業後は島に戻る」と言わなければ、進学を許してくれなかった。しかし悠日は、大学を卒業したあとは、なんとかして東京で就職をするつもりだった。この島に戻るつもりなんて毛頭ない。
「ほんなら八碑様も許してくださるわ」
祖母は安心したように微笑んだ。優しい口調は慈愛に満ちていたが、こんな時でも「八碑様」と口にする気味の悪さに苦々しい笑いが漏れた。
――早く、この島から出たい。
両親を亡くしてから抱き続けてきた気持ちをようやく成就できるのだと考えると、胸がすくような思いがした。
「にいちゃん。どういうこと……?」
ふと気がつくと、千景が悠日の袖を引っ張っていた。千景は兄を見上げながら、「にいちゃん、島を出るの?」と続けて質問をした。
悠日はやっぱりこうなるよな、と思いながら、弟の肩に手を置いた。
「うん。俺、大学生になるから、島を出なきゃいけないんだ」
「だ、だいがく? なんでにいちゃんが、わざわざ島を出なきゃいけないの」
「島には大学がないから、仕方ないんだよ」
悠日はなるべく千景を刺激しないように、これはどうしようもないことだと言い聞かせた。千景は悠日が大学生になるということも、島には大学がないから外に出るしかないということも、理屈ではわかっているはずだ。
「な……、なんで……やだよ」
「千景……?」
「島から出るなら、僕も連れていってくれるんだよね?」
「いや、そういうわけには……」
「どうして!?」
千景は「やだ」「どうして」と拙い口調で繰り返し、真っ黒な瞳を潤ませた。袖を掴んでいた手は悠日の腕に移動して、子どもとは思えないほどの力でぎりぎりと握ってきた。
「にいちゃん!! やだ!! 僕から離れるの!?」
ついに千景は悠日が痛みで顔を顰めるほどの力で縋りつき、暴れるようにして立ち上がった。悠日が弟の腕を振りほどこうとしても、千景が泣きながら抵抗して離さなかった。千景が暴れた拍子に机上のコップが倒れて、大きな音を立てる。
「千景! やめんか!」
祖母も立ち上がり、千景を必死に止めた。祖母は抱き込むようにして千景を制止し、なんとか弟の腕を離した。
「千景……」
「悠日。ここはええけん、一旦部屋に戻りな」
「ばあちゃん、ありがとう」
祖母が気を利かせて、一度千景と離れるように促してくれた。悠日は急いで居間を出て、自室に籠もった。
(やっぱりこうなったか……)
悠日は自室の襖を閉めて、ため息を吐いた。
――こんな弟の姿を見るのは、悠日も祖母も初めてではない。
千景は昔から、悠日がその場からいなくなったりすると、パニックになったかのように取り乱すことがあった。きっとこうなるだろうと予想していただけに、島を出ることも中々言い出せなかったのだ。
「やだあ!! にいちゃん!!」
居間からは千景の絶叫と、彼を必死に落ち着かせようとする祖母の声が聞こえてきた。その声を聞いているだけで、こちらまでおかしくなりそうだ。
ふと部屋の壁掛け時計を見ると、時刻はまだ十九時半だった。完全に手持ち無沙汰になった悠日は、気持ちを切り替えて荷造りを進めることにした。
(持っていくのは服くらいしかないか?)
悠日は部屋を見回しながら考えていた。いかにも昔ながらの和室といった自室には、布団と、学習机と、箪笥くらいしかない。いかんせん部屋もどこかの旅館のようにだだっ広いものだから、余計に物がないように感じる。一人暮らし用の家具は上京してから揃える予定で、引っ越しの荷物といってもボストンバッグ一つで収まってしまいそうだった。
悠日はまず、学習机を整理し始めた。棚に所狭しと並べられた参考書を捨てるため、畳の上に重ねていく。
「あ……」
次に机上の本を綺麗にしようと手を伸ばした時、悠日の視界に木枠の写真立てが映った。それは、生前の父と、母と、幼い自分が海辺で遊んでいる時の写真だった。この当時は、まだ千景は生まれていない。
写真の両親は、砂浜で船の絵を描いた自分を取り囲むようにして笑顔を向けていた。
両親はよく、海に連れていってくれた。悠日はその時のことを、今でも鮮明に思い出せる。
『お父さんとお母さんと一緒に、色んなところに行きたいな』
悠日は幼い頃、もはや口癖のように両親にそう言っていた。それは他でもなく父と母が、島の外のことをよく話してくれたからだ。
父は海乃祢島の出身だが、一度島を出て就職をしており、母とは東京で出会っていた。それから父は母と共に島に戻ったものの、息子には海乃祢島だけではなく、外の世界も見てほしいと思っていたようだ。しきりに島の外の話をしては、「いつか他のとこに引っ越すのもええなぁ」と言っていた。
悠日は、そんな日が来ることを心待ちにしていた。島民たちは優しくて大好きだったが、稀にこちらを監視するような、じっとりとした目つきをすることがあった。両親や悠日がなにをしたか、どこに行ったのか。誰にも言っていないはずなのに、島民に筒抜けだったこともある。幼い悠日でも形容しがたい居心地の悪さを感じていたのだから、両親はもっと強く感じていたのかもしれない。
「この写真は持っていこう」
悠日は過去を思い出しながら、写真立てをボストンバッグに入れた。
しばらく荷造りを進めていると、いつからか千景の声は聞こえなくなっていた。机や箪笥も一通り整理が終わって一息つくと、さすがに眠気が襲ってきた。
時計を見ると、寝るには少々早すぎる時間ではあったが、他にやることもない。悠日はぐっと伸びをして床に入った。
悠日が就寝してから、数時間が経過した頃だった。
布団をすっぽりと頭から被り、それまで寝入っていた悠日は廊下から聞こえてくる音によって目を覚ました。ギィ、ギィ、と木造の床が軋むような音は、きっと誰かの足音だろう。
(こんな夜中に……。トイレでも行ってるのかな)
ぼんやりとした頭でそう考えた悠日は、特に気にせず再び目を閉じた。しかしその足音は遠ざかることはなく、悠日の部屋の前でぴたりと止まった。
(えっ? なんだ……?)
足音の主は、祖母か千景のどちらかしかない。しかしこんな夜中にわざわざ用があるとは思えず、困惑してしまう。
この家は全て襖で仕切られており、鍵のある部屋は一つもない。だから入ろうと思えばいつでも入れるのだが、襖を隔てて向こう側にいるはずの人間は、なにを逡巡しているのか、悠日に声をかける様子もなく、部屋に入ってくることもしなかった。
悠日は薄気味悪くなって、部屋の電気をつけてから襖に近づいていく。
「うっ、……ひっ、……く」
ちょうどその時、嗚咽のような声が漏れ聞こえてきた。恐る恐る襖に手をかけて開けると、そこには肩を震わせて顔を手で覆い、泣いている千景の姿があった。
「ち、ちかげ……?」
悠日が声をかけると、千景は顔を覆っていた手をどけて、真っ赤になった目元で悠日を見上げた。
「にい、っ、ちゃん……」
もしかしてあれから泣き続けていたのだろうか。ひっ、と嗚咽を上げながら話す千景の声は、可哀そうなほどに掠れていた。さすがに悠日も胸が痛んで、千景をとりあえず部屋に入るように促した。千景を布団の上に座らせて、悠日も腰を下ろす。少しでも落ち着くように、小さい弟の背をさすっていた。
しばらくしてから、ようやく千景の嗚咽が収まってきた。涙は乾いても、大きな黒目は虚ろに揺れていた。
「にいちゃん。行っちゃ、だめだよ」
「……ごめん」
「行っちゃ、だめなの」
千景はそれから、何度も「行っちゃだめ」と繰り返した。
「わかってくれって。これは仕方のないことなんだから」
悠日は思わずため息を吐いて、言い聞かせた。しかし千景は「だって」と続ける。
「もし島から出ていったら、お父さんとお母さんみたいに八碑様の祟りに合うかもしれないんだよ」
「……は?」
「だから、ね。ここにいて。僕、にいちゃんが事故に遭ったりしたら嫌だよ」
悠日は大きく目を見開き、唖然とした。
(一体、なにを言ってるんだ? まさか、千景は……)
「千景。お前、父さんと母さんが事故に遭ったのは、八碑様の祟りにあったから……ばちが当たったからって言いたいのか?」
千景は頷くと、縋りつくように悠日に抱き着いてきた。
一方で悠日は、抱いてはいけない怒りがふつふつと湧いてくるのを感じていた。
「だって八碑様が言ってたんだもん。お父さんとお母さんは家族全員連れて、二度と帰ってこないつもりだったから、制裁したんだって」
「制裁?」
「そう。家族全員連れていっちゃったら、『伊神嶺家の血が絶える』から」
意味がわからないことを喚く弟に、悠日は全身が総毛立った。千景の肩を掴み、彼の身体を引き離す。
「さっきからなんなんだよ! それならお前には、八碑様とやらの声が聞こえるって言うのか?」
「うん。ずっと頭の中で喋りかけてきてるでしょ?」
「はあ!? お前、おかしいんじゃないのか。気持ち悪い……ッ」
悠日は立ち上がって、千景を見下ろすようにして吐き捨てた。弟に感じていた気味の悪さに、見て見ぬふりができなくなった瞬間だった。
「八碑様」という、ただの田舎によくある言い伝えを信じて、その神の声が聞こえるのだと言い切っていること。いや、それだけならまだいい。
悠日にとって許せなかったのは、両親が亡くなったことを祟りだと口にしたことだ。大好きだった両親の死を冒涜されたような気がして、いくら幼い弟であったとしても許せなかった。
「俺の部屋から出ていけ。今はお前と話したくない」
「えっ……にいちゃ」
「早く」
あたふたとする弟の背中を強く押して、無理やり部屋から追い出した。
襖を締めると、すすり泣くような声と、ぺたぺたと遠ざかっていく足音が聞こえた。
「くそ……っ、最悪だ……」
悠日は頭から布団を被って目を閉じる。弟の不可解な言動も、幼い弟に強く当たってしまった自分も、なにもかもを頭の中からなくしたかった。
翌日。悠日は祖母の焦ったような声で目を覚ました。
「悠日。千景を見とらんか?」
襖を勢いよく開けられ、悠日は寝起きでぼんやりとしたまま、祖母の問いかけに答えた。
「え、なに。どうしたの」
祖母は眉間に深い皺を寄せた。
「それが、千景の姿が見当たらんで」
「えっ?」
ぼんやりとした頭が一気に冴える。詳しく話を聞くと、朝から千景の姿が見えず、家中をくまなく探してみたがいないらしい。
「外に出かけてるんじゃ? 島の皆にも、千景を見なかったか聞いてみるよ」
悠日の提案に、祖母は深刻そうな表情で頷いた。
この小さな島では、勝手に外へ出てたとしても、大体は島民の誰かが見ているものだ。悠日と祖母は早速、近隣住人から声をかけ始めた。
――しかし結局、夕方になっても千景は見つからなかった。
森のほうへ向かっているのを見た、という目撃情報はあった。けれど千景が歩いていったという森の中を探しても、全く見つからない。
もはや捜索は島民全員をかり出す勢いで行われていた。
捜索を始めて半日が過ぎ、外は薄暗闇に包まれていた。さらに海は荒れ始めて、空には分厚い灰色の雲が伸びている。
悠日はどうしようもなく焦っていた。暗くなったら余計に千景を見つけ出すことは難しくなる。千景は今どこかで怪我をして、動けなくなっているんじゃないか。そんな不安が脳裏を過り、昨日、なぜあんなに酷い言葉を浴びせてしまったのだろうという後悔が押し寄せる。
なんとなくわかっていた。千景が家を出たのは、弟を冷たく遠ざけたからだろうと。
(俺の責任だ。なんとかして、千景を見つけないと……)
焦る気持ちとは裏腹に、ついに大きな雨粒が悠日の頬を濡らした。どんどん冷たくなっていく外気に身体の熱を奪われながら、悠日は必死に考えた。
まだ皆が探していない、千景が足を運びそうな場所があるんじゃないか。
そうしてようやく気づく。全てに当てはまる場所が一つだけあることを。
「まさか、あの洞窟……」
悠日はぽつりと呟いて、すぐさま「禁足地」へと向かっていった。
黄色いテープが行く先を阻む洞窟の入り口に、悠日は立ち尽くしていた。
ごくりと唾を飲み込み、「立ち入り禁止」と書かれたテープの下をくぐり、中へと入っていく。
洞窟内は冷気が漂っていて、小さな懐中電灯の光を飲み込んでしまいそうなほど暗闇に覆われていた。悠日がでこぼこした石の壁を伝いながら進んでいくと、洞窟の奥で腰を下ろし、両膝を手で抱えながら座っている千景を見つけた。
「千景! お前、こんなところで……!」
悠日は千景を見つけた瞬間に駆け寄った。すぐに座り込んで、千景に視線を合わせながら弟の肩に触れる。千景はのっそりと顔を上げると「にいちゃん」と力なく呟いた。
「ずっと探してたんだぞ! 突然いなくなるなんて、心配するだろ」
「だって、にいちゃんが……」
千景は目を逸らしながら、もごもごと口ごもる。
(やっぱり、俺に言われたことを気にしていたのか)
悠日は後悔の念に襲われ、自らの失言を恥じた。とにかく今は、弟をこの場所から連れださないといけない。
「千景、酷いこと言ってごめん。本当はお前と話したくないだなんて思ってないから。だから、俺と家に帰ろう」
悠日は弟の目をまっすぐに見つめながら言った。しかし千景は、なにか伝えたいことでもあるのか、どもりながら話を続ける。
「……にいちゃんが『勝手なこと言うな』って、言ってたから。だから、もう一度確かめようと思って。――八碑様に、ちゃんと聞くことにしたの……」
千景は悠日から視線を外して、洞窟の奥のほうに視線を向けた。悠日もその視線を追いかけるように奥を見ると、暗がりの中に、石の祠が置かれていた。
悠日は眉を顰めながら立ち上がり、恐る恐る祠に近づいていく。
よくよく目を凝らすと、その石祠には紙垂(しで)が挟み込まれたしめ縄が取りつけられ、中には小さな黒い箱があった。
(こんなものが祀られていたのか)
悠日はなんとなく見てはいけないものを見てしまった気がして、黒い箱から視線を外し、洞窟の壁を見た。
(……ん?)
暗くて気がつかなかったが、洞窟の壁には、刀で彫られたような壁画があった。そこには荒れ果てた海を背景に、瞳だけが肥大化した蛸のような異形の怪物が描かれていた。真っ黒な瞳と目が合って、悠日ははっと目を逸らす。きっとこれが、この地に伝わる「八碑様」を描いたものなのだろう。
異様な雰囲気に、全身が固まったように動けなくなっていた。そんな悠日をよそに、千景は話し続ける。
「やっぱり、お父さんとお母さんは、ばあちゃん以外全員連れて島を出ていこうとしたから、八碑様の怒りを買ったんだ。もしばあちゃんがいなくなったら、次に御子になる人間もいなくなるでしょ」
流れるように話す弟の言葉も、まるで理解ができなかった。いや、理解することを拒んでいるといったほうが正しいかもしれない。
「なあ、千景……。お前はこの神様の声が聞こえるのか?」
「なんでそんなに同じことを聞くの? ずっと話しかけてきてるでしょ。にいちゃんには聞こえない?」
「き、聞こえないって……」
立ち尽くす悠日に、千景が後ろから抱きついてきた。弟は不思議そうに目を瞬かせている。
「そうなんだ……。もしかして、八碑様の声が聞こえるのは僕だけなの?」
「……わからない。少なくとも俺には聞こえないから……」
「そっか……。でも、とにかくね、やっぱり危ないよ。お父さんとお母さんはこの島を出ようとして祟りにあったんだよ? いくら血族の僕がまだ島にいるっていっても、八碑様の気が変わった瞬間に、なにが起こるかわからないよ。にいちゃんはやっぱりこの島にいるべきなんだよ」
弟には八碑様の声が聞こえるのだということも、彼の言っている意味も何一つわからなかった。どこか得体の知れない化け物でも相手にしているかのような感覚に、額から冷や汗が伝った。
これ以上弟の話を聞きたくなくて、悠日は遮るように言った。
「わ、わかったから、千景。とにかく家に帰ろう」
「……! にいちゃん、わかってくれたんだね!」
千景はなにを勘違いしたのか、兄がようやく『島を出るのは危ない』ことを理解したと思ったらしい。悠日はそれを感じ取ったが、なんでもいいからこのおぞましい空間とわけのわからないことを繰り返す弟から離れたかった。
「うん。俺が悪かったよ、ごめんな」
千景がぱっと表情を明るくして、跳ねるように喜んだ。
「よかったあ。それじゃあ、これからもにいちゃんと一緒だね」
悠日はぎこちなく頷いて、弟に言い聞かせる。
「千景。ばあちゃんも島のみんなも、お前を探してるんだ。早く、ここから出よう」
「うん、わかった!」
悠日はこうして、ようやく千景を連れ出すことに成功した。
その日の帰り道、弟がせがむので、ずっと手を繋いでいた。悠日は弟の温かい手の感触が、気持ち悪くて堪らなかった。
「ばあちゃん、ちょっといいかな」
その日の夜、悠日は千景が寝たのを確認してから、祖母の部屋を訪れた。祖母はいつもの穏やかな表情のまま、悠日を部屋に招き入れた。
「もしかして、千景のことか?」
座布団に座ってすぐ、祖母のほうから話を切り出された。悠日の話したいことを、なんとなく察していたのだろう。
「実は今日、千景が八碑様の洞窟にいたんだ」
悠日が話し始めると、祖母は大きく目を見開いた。
「千景が洞窟に入ったのは、俺のせいなんだ。昨日、千景に『父さんと母さんが事故に遭ったのは、八碑様の祟りにあったからだ』って言われて、頭に血が上っちゃって。もうお前と話したくないって、怒鳴っちゃって……」
「それで、八碑様の洞窟に?」
「そうなんだよ。『祟りが本当だったのかを確かめるため』って言ってたけど、たぶん、単純に俺と顔を合わせるのが怖くて、誰も来ない場所にいたんだと思う。……ばあちゃん、色々とごめんな」
祖母は目を伏せて、なにかを考え込むように黙っていた。しばらくして、ようやく重い口を開く。
「悠日が謝ることやないわ。それに千景はあんたに異常にこだわるけん、もう上京の話はせんほうがええだろうね」
「やっぱり、そうだよね」
「私も千景の前であんたの大学の話はせんようにするわ」
「ばあちゃん……ありがとう」
悠日は祖母の言葉に胸を撫でおろした。また千景の前でこの島を出るという話をすれば、今日のようになるとわかっていたからだ。
(ばあちゃんが味方になってくれて、本当に助かった)
悠日は安堵のため息を漏らし、「ごめん、話はそれだけだから」と言って立ち去ろうとした。
しかしその時、祖母がぽつりと呟いた。
「それにしても、千景はなんで『八碑様の祟り』やったなんて言い始めたんか」
祖母は俯きながら、先ほどまでは穏やかだった表情に陰りを見せた。悠日は動揺しながらも、言葉を返す。
「なんか、『八碑様の声が聞こえる』とか言ってたような……。まあでも、あんまり間に受けないほうが――」
「千景には、八碑様の声が聞こえるのか? 私には、もうとっくのとうに聞こえんようなったのに」
「えっ……?」
「たしかに千景は美しい子やけんなあ。そうか、八碑様は美しいものが好きや。老い先短いこんな女、八碑様はもう愛してはくれんのか」
八碑様、八碑様と虚ろ目で呟く祖母の様子に、悠日はぞっと背筋が凍った。
(ばあちゃん、どうしちゃったんだ……?)
それは、いつもの優しい祖母とはまるで別人のようだった。
「ば、ばあちゃん?」
悠日が声をかけると、祖母ははっと我に返ったように肩を震わせた。
「ああ、すまんのぉ悠日。八碑様のことになると、気持ちを落ち着かせるのが難しゅうて。年甲斐もなく嫉妬するだなんて、本当にどうしようもないのお」
祖母は生娘のように頬を赤らめて、うっとりと、甘く蕩けるような口調で言った。その笑みは、やはりいつも見ている祖母とは全く違う姿をしていて……悠日は直視できずに目を逸らした。
弟だけじゃない。やはり祖母も、この島の人間はどこかおかしいのだ。そう思わずにはいられなかった。
悠日はそれから、千景の前では一切上京するという話をしなくなった。幸いにも荷物はまとめていて、東京での事務手続きも済ませてあったので、あとは出発予定日に船に乗り込むだけだった。
そうして出発当日、悠日は一言だけ千景に別れを告げて、急いで波止場へと向かった。しかし船に乗り込む寸前まで、弟は追いかけてきた。
悠日はそんな弟を振り切って――故郷の島から離れたのだった。
二
故伊神嶺 千代子の葬儀はその後も滞りなく執り行われた。
火葬も終わって自宅に戻り、式の最後には、会食の席が設けられていた。伊神嶺家の宴会場のような広々とした和室に、大勢の島民たちが集まっている。室内には夕方から突然降り出した雨の音や、ごうごうと吹き荒れる風の音が響いていた。
しかしその音をかき消すほどに、島民は賑やかに宴を楽しみ、祖母の思い出話に花を咲かせている。祖母は大往生を遂げたためか、島民たちの表情は穏やかだ。そんな中、悠日と千景は参列者の皆に酒を注いで回っていた。
「悠日くん、久しぶりやなあ」
しわがれた声で、とある老女が悠日に声をかけた。黄ばんだ歯を見せながら笑う彼女は、伊神嶺家の近所に住んでいる島民の一人だ。悠日は酒を注ぎ終わると、「そうですね」と曖昧に笑った。
「悠日くんはもう二十歳になったんか? もうあっと言う間でびっくりしてしまうわ」
「カヨさん、なに言いよるんだ。悠日はもう二十四歳! 島出ていったんは六年前や」
「あら! そうやった?」
同じ卓に座っていた男性陣が話に割り込んで、彼女に指摘する。ぽかんとした表情を浮かべた老女の周りで、どっと笑いが沸き起こった。
途端に、島民の視線が悠日に集中する。距離が近く、ぐいぐいと身体を寄せて話しかけてくる彼らに、悠日は口の端をぴくりと震わせた。
早くこの卓から離れたい。そう思っていた悠日をよそに、今度は近くにいた恰幅の良い中年の島民が話しかけてきた。
「悠日は今、大学院生やったっけ?」
「はい。今は修士二年で」
「そうかそうか。勉強も頑張っとったんやな。もし選ばれたら途中で辞めてしまうのは残念や思うけど、勉強したことはいつか人生の中で活きることがあるけん」
「……はい?」
悠日は眉を顰めた。彼の言っていることがまるで理解できなかったからだ。
(もし選ばれたら途中で辞める? なんの話だ……)
悠日が聞き返そうか迷っていると、背後から落ち着いた低い声が聞こえてきた。
「兄さん」
「千景……」
こちらに近づいてきた千景は、悠日にそっと耳打ちをする。
「色々と手伝ってくれてありがとう。外も雨足が強くなってきたし、そろそろお開きにしようかと思うんだけど、どうかな?」
「あ、うん。いいと思う……」
悠日は頷いて、ほっと胸を撫で下ろした。
「千景! お前こなんしっかり喪主務めあげて……立派になったなあ!」
中年の男が千景に話しかけた。千景はゆったりと笑みを浮かべて答える。
「ありがとうございます。みなさんのご協力のおかげですよ。それにしても……天気が悪くなってきましたし、この辺でお開きにしようかと思うんです」
「ああ、もうこなん時間なんや。まあ明日の儀式もあるけん、早めにみんな帰したほうがええね」
(明日の儀式? なにかイベントでもあるのか?)
悠日は彼らの様子に小首を傾げながら、窓の外を見た。空はさらに暗く分厚い雲に覆われ、大粒の雨が飛沫を上げながら地面を叩いていた。
(くそ……。本当は今日の夕便で帰るつもりだったのに。これじゃあ船は出ないな)
悠日はこっそりため息を吐き、あまり気乗りしないながらも、千景に話しかける。
「悪い、千景。本当は今日帰るつもりだったんだけど、たぶんこれじゃあ船も出ないだろうから、うちに泊まってもいいか?」
「――えっ?」
その瞬間、千景が大きく目を見開いた。
なぜかその場がしん、と静まり返り、会話を聞いていた島民たちが、信じられないものを見るかのように、悠日をじっと凝視していた。
(な、なんだこの雰囲気……?)
特段変なことを言ったつもりはない。悠日が内心動揺していると、島民たちが一斉に口を開いた。
「『今日帰るつもり』って……。むしろ明日が本番やないか」
「あんた……もしかして、『御子の儀』を放棄するつもりやった? 千景くん一人置いて?」
怒気を孕んだ島民たちの声に、ますます困惑が広がっていく。
「み、『御子の儀』って、なんのこと――」
「やだなあ、みなさん。兄さんなりの冗談に決まってるじゃないですか。元々今日は、島に泊まるって聞いてましたよ」
悠日の声を遮るように千景が声を上げた。彼の言葉に、島民は一転朗らかな表情に戻る。
「あー、なんやあ! 悠日があまりに真剣に言うもんだから」
「そうよねえ。冗談に決まっとるわよね。おばさんもびっくりしてしもうた、悠日くん、すまんなぁ」
もちろん、悠日には島に泊まる予定なんてなかった。おそらくこれは、千景が庇ってくれたのだろう。
けれど、悠日の心の中にはもやもやとした気持ちが残ってしまった。
千景は微笑んで卓から離れると、前に出て会食の終了を告げた。島民たちは彼の言葉を皮切りに、ぞろぞろと帰っていく。
(なんだったんだ、あれは……)
悠日は伊神嶺家を後にする人々の背を見ながら、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
会食の後片付けも終わった頃には、外はすっかり暗闇に包まれていた。
東京にいた時には人々の話し声や車が行き交う音、ビルの窓から零れる無数の光で溢れていたというのに、この島ではただ黒く音のない空間が広がっていた。
(とりあえず部屋に行こう)
悠日がそう考えて長い廊下に足を踏み入れると、背後から声をかけられた。
「……にいちゃん」
舌っ足らずな呼び方に、びくりと肩が上がった。恐る恐る振り返ろうとした時、後ろからそっと抱き締められた。
「やっと帰ってきてくれたんだね。僕は、ずぅっと待ってたんだよ」
六年前より低くなった弟の声が、耳元で響く。
葬儀中はあれだけ大人びた姿を見せていたというのに、まるで幼い頃に戻ったかのような甘ったるい声色だった。
「千景。い、いきなりどうしたんだよ」
「にいちゃんは変わらないね。久しぶりに会えて、嬉しいよ……」
千景は悠日の腹部に回していた手にぎゅっと力を込めた。そして彼の手は徐々に下に降りていって、悠日のシャツをたくし上げ、腹部を撫でた。
「……ッ!?」
千景の手は、ぞっとするほど冷たかった。這い回るような気持ち悪さ、実の兄とのスキンシップとは思えない行動に、悠日は声を上げた。
「やめてくれ!」
「なんで? 嫌だよ、にいちゃ……」
「千景! やめろって言ってるだろ!」
もう一度強い口調で拒絶し弟の腕を強く掴むと、ようやく千景が身体を離した。
悠日は今度こそ振り向いて、千景と向かい合う。彼はどこか泣きそうな様子で、長い睫毛を微かに震わせ、悠日をじっと見つめていた。
「ひどいよ、にいちゃん。せっかくまた会えたのに。それに『今日帰るつもりだった』なんて言われて、すごく傷ついたんだよ。そんなこと、冗談でも言わないでよ」
千景が言っているのは、先ほどの会食の席でのことだろう。
「冗談じゃないって! 元々は今日帰るつもりだったんだ。天気がよくなったら、明日の便で島を出るから」
「まだ言ってるの? ……明日帰れるわけないじゃん。『御子の儀』があるのに」
「は? 『御子の儀』って、なんだよ」
掠れた声を出した悠日に、千景はきょとんとした表情を見せた。
「あ、にいちゃん。もしかして本当にわかってなかったの? 昔ばあちゃんから言われてたでしょ?」
ぽかんとする兄の表情を見て、千景は呆れたようにため息を吐いた。
「しょうがないなあ。にいちゃんって、本当にこういう話に疎いよね。立ち話もなんだし、お茶でも飲みながら説明しようか?」
本当はこれ以上、千景と話をしたくなかった。しかし弟や島民の不可解な反応といい、自分だけが知らないのもどうにも決まりが悪い。
「……わかった」
悠日はこくりと頷いて、千景と共に近くの和室へ入っていった。
「ばあちゃんが八碑様の『御子』だったのは知ってるよね? そもそも八碑様の力を維持するには、御子がいなくちゃいけないんだ」
千景は正座をして、おもむろに話し始める。
「まあ、知ってるけど……」
「それで、御子であるばあちゃんが亡くなったわけだから、このままじゃ八碑様は本来の力を出すことができない。この島には早急に次の御子が必要なんだ。今、伊神嶺家の血族は、僕とにいちゃんの二人しかいない。だからどちらが御子になるのか、八碑様に選んでもらわなきゃいけないんだ」
「それが『御子の儀』なのか? 選ぶって、どうやって……」
「ほら、八碑様を祀ってる洞窟の近くに、小屋がいくつも建ってるところがあるでしょう。明日の夜、僕たちがそれぞれ別の小屋に入って、夜明けまでに八碑様が部屋に入ってきたほうが御子になるんだ」
八碑様と聞いて、悠日は六年前に見た洞窟の中の壁画――蛸のような姿をして、目だけが肥大化した異形の怪物を思い出した。
「じゃあ俺は、夜中にずっと小屋の中にいなきゃいけないのか? というか、本当に八碑様とやらが来るわけがないし……実際は島民たちで決めることになるんだろ?」
「なに言ってるの? 島民で決めるわけないでしょ。八碑様が選ぶんだから」
千景は不思議そうに小首を傾げた。
(そういえばこいつ、昔から八碑様の声が聞こえるとか、よくわからないことを言ってたな)
「……で、御子に選ばれたらどうなるんだよ」
悠日は眉を顰めながら、千景に問いかける。すると弟は、なぜか妖しげな笑みを浮かべた。
「御子は八碑様と一心同体の存在なんだよ。だから御子になったら、一生この島からは出られない」
「……は?」
「だからもしにいちゃんが選ばれたら、大学もぜーんぶやめて、一生ここで暮らすことになるんだよ」
悠日は大きく目を見開いた。
(「御子」なんて、ただの形式上の話だろ? 一生島から出られないなんて、そんなことあるはずが……)
困惑する悠日に追い打ちをかけるように、千景は続けた。
「にいちゃん。ばあちゃんが、この島を出たのを一度でも見たことはある?」
「な、ないけど……」
「そうでしょう。それは、ばあちゃんが御子だったからだよ」
――なんて馬鹿馬鹿しい話なんだ。
そう一蹴してやりたいのに、悠日は喉元で詰まってしまったかのように言葉が出てこなかった。今までいっそ不自然なほどに島から出なかった祖母の姿を見てきたからだ。
「にいちゃん。どっちが選ばれるか、楽しみだねえ」
千景が真っ黒な目を細めて、にぃ、と口元に弧を描く。
弟の薄気味悪い笑みに、悠日は身体が硬直してしまい、ただただ閉口していた。
「御子に選ばれれば、にいちゃんはこの島から一生出られないからね。大丈夫だよ、僕もこの島を出る気はないから。これからは、ずぅっと一緒にいられるね……?」
それはまるで悠日が御子に選ばれることを確信しているような物言いだった。
(確率は二分の一のはずなのに、なんでコイツはこんなに……。いや、そもそも八碑様なんているわけが……)
悠日は弟の視線に耐え切れずに立ち上がった。
「……話はわかったよ。じゃあ俺はそろそろ寝るから」
「そう? にいちゃんの部屋はそのままにしてあるから、布団も部屋にあるのを使って」
「ああ」
これ以上弟と話をしていると、頭がおかしくなってしまいそうだ。
悠日はそっけなく返事をして、和室の襖に手をかけた。するとその矢先、弟の恍惚とした声が聞こえた。
「にいちゃん。儀式から逃げようとしても、無駄だからね」
額から冷や汗がつう、と伝った。
悠日はあえて聞こえないふりをして、なにも答えずに和室を出た。
床についてからも、悠日は千景から聞いた「御子の儀」のことが頭から離れなかった。
既に布団に入ってから二時間は経っているというのに、疲れた身体とは裏腹に、妙に頭が冴えてしまって眠れない。
(本当に「御子の儀」なんてやるのか? そもそも夜中に小屋に閉じ込めるって……)
考えごとをするたびに、不安が這い上がってくる。
(大体、八碑様ってなんなんだよ。そんなのよくある言い伝えの一つだろ? 千景は八碑様の声が聞こえるとか言ってたけど、あれも俺の気を引くための嘘だろうし)
悠日は自分自身に言い聞かせるようにしながら寝返りを打ち、仰向けになった。
視界には、むき出しの黒い梁と格天井が映る。吊り下げられた四角い照明は、薄ぼんやりとした灯りをともしている。その光は今にも周囲の暗闇に飲み込まれそうなほど心許ないものだった。
黒い天井を見ていると、悠日はふいに、幼い頃に洞窟で見た八碑様の壁画を思い出してしまう。
だんだんと瞼が重くなってきて、虚ろになる意識の中で、肥大化した大きな真っ黒な目――それが格天井の影から現れて、こちらを向いているような錯覚がした。
「……ッ、!?」
気がつけば、悠日の身体は硬直して動かなくなっていた。
(身体が動かない……。まさか、金縛り……!?)
必死に指先に力を入れようとするが、ぴくりともしない。悠日が恐怖で声にならない声を上げた瞬間――足にぬるりとした不快な感覚がした。
(ひッ……!?)
悠日の布団の中で、なにかが蠢くような動きをする。それは悠日の右足から、左足、腹部に巻きついているようだった。
あまりの気持ち悪さと恐怖に、吐き気が込み上げてくる。自らの身体を這いずり回るなにかに、悠日はなすすべもなかった。
悠日がしばらく固まっていると、ついにソレは悠日の首元にまで上ってきた。布団から溢れ出るように、悠日の視界にも映る。悠日はその姿を見た時、大きく目を見開いた。
(なんだ、これは……)
悠日の視界に現れたのは、巨大な蛸の手足のようなものだった。その手足は一本一本が独立し、ミミズのように身をくねらせている。
――それは、悠日が見た「八碑様」の手足にそっくりだった。
悠日が絶句している合間に、ソレは悠日の首に巻きついて、ぎりぎりと締めつけ始めた。
太い縄で締め上げられるような感覚に、悠日は本能的な恐怖を感じた。首を絞められているせいで上手く呼吸ができず、はくはくと口を動かすことしかできない。
(息、が……! 誰か、助けて……!)
苦しさの中、暴れることすら許されない。瞳は虚ろになり、だんだんと瞼が下がっていく。
そして悠日は、化け物の姿を視界に映しながら、完全に意識を手放したのだった。
翌日、悠日は叩きつけるような雨音で目を覚ました。
(昨日は、たしか……)
ぼんやりと天井を見つめる。あれだけ苦しかった感覚も、身体を這い回るような異形の物体も、跡形もなく消えていた。
壁掛け時計を見ると、既に朝になっていた。
「夢、だったのか……?」
心の底から零れてしまうように、安堵のため息を吐いた。六年ぶりにこの島に帰ってきて、よほど疲れていたのだろう。
(金縛りの時には変な夢を見るって言うしなあ)
悠日はふらふらしながら立ち上がり、布団を畳んで自室から出た。
居間に行くと、既に机の上には旅館の朝食のような料理がずらっと並べられていた。香ばしい焼き魚の匂いが鼻孔をくすぐり、ほかほかと湯気の立つ味噌汁がとても美味しそうに見えた。
「にいちゃん、おはよう」
台所のほうからから和服を着た千景が現れて、爽やかな笑顔で悠日に声をかけた。
「これ、お前が作ってくれたのか?」
「うん。にいちゃんが家に帰ってきてくれたから、気合い入れて作っちゃった。さ、食べて食べて」
「あ、ありがとう……」
悠日は促されるまま、椅子に腰かけた。
「いただきます」と手を合わせて、千景と食事を共にする。
「なんだか懐かしいね」
千景は味噌汁をすすりながら、穏やかな口調で言った。
「昔はこうやって、家族で一緒に食べてたじゃん。やっぱりにいちゃんがいなくなって、ばあちゃんもしばらく寂しそうにしてたよ。二人だけじゃ、中々会話も弾まなくてさ」
「千景……」
「今度はばあちゃんがいなくなって、葬式前に一人でご飯食べてたんだけど、やっぱり悲しかったなあ」
千景の切なげな表情に、悠日は胸を鷲づかみにされたように苦しくなった。
こうして落ち着いた様子の弟と話をしていると、少しくらい島に帰ってくればよかったのだろうかと、罪悪感が湧き上がってくる。
「千景、ごめんな。大学が忙しくて、ここにも帰ってこられなくて」
「まあ東京から来るのにも、丸一日移動で終わっちゃうしね……。実はさ、にいちゃんが帰ってきてくれないから、僕が東京に会いにいこうとしたこともあるんだよ」
「そうなのか?」
「うん。でも、ばあちゃんが頑なに、にいちゃんが住んでるところを教えてくれなかったんだ。にいちゃんがここを出ていってから、何度も何度も何度も聞いたのにさあ……」
千景の顔から笑顔が消え、地を這うような声が小さく響いた。
さきほどまでの温かい雰囲気は消え失せて、悠日は食事の手を止めた。
「でもにいちゃんから島に帰ってきてくれたから、安心したよ。それに八碑様も島から出したくないって言ってるしね。儀式の前ににいちゃんに会いにくるなんて、よっぽど気に入ってるんだね」
「会いにくる? 一体、なんの話……」
「にいちゃん、気づいてないの? ――首、太い痕がついてるよ」
その言葉を聞いた瞬間、悠日はガタッ、と勢いよく立ち上がった。
まさか、と嫌な予感が一気に全身に湧き上がる。
悠日は急いで居間を出ると、洗面所の鏡の前に立った。
――鏡に映る悠日の首元には、なにかに締めつけられたような太く赤い線がくっきりと残っていた。
「ひ……ッ!?」
悠日は袖をめくった。すると自らの腕にも同じような赤い痕が何箇所にもついている。
これは、間違いなく昨日の――
「お、ぇ……ッ!!」
悠日はあまりの恐怖に大きくえずいた。
(昨日のが夢じゃないなら、本当に八碑様が――……)
「にいちゃん、大丈夫? 気分悪い?」
その時、背後から弟の声が聞こえた。
洗面所に顔を近づけて吐き気を催す悠日に、千景をそっと近づいて、ぽんぽんと背中を優しくさする。
「いきなり食べ過ぎたのかな? ごめんね、僕いっぱい作り過ぎちゃったかも」
見当違いなことをのたまう弟に、悠日はさらにおぞましさを感じてしまう。
悠日は口を押さえながら何度か肩を上下させたあと、ゆっくりと千景のほうを振り返った。
「千景……お前、なんでそんなに余裕なんだよ……」
「えっ?」
「御子になるのが、嫌じゃないのか……!? いや、お前は八碑様の声が聞こえるんだったよな? もしかして自分が御子にならないっていう確証でもあるのか?」
悠日の問いかけに、千景は瞠目して――なぜか、ゆったりと微笑んだ。
弟の表情を見た瞬間、悠日は叫ぶように言った。
「……ッ、帰る!」
「え? 帰るって言ったって」
「うるさい! 触るな!」
悠日は弟を押しのけて洗面所から出ていった。そのまま玄関に向かい、家を出る。
外は昨日にもまして雨風がひどくなっており、横殴りの雨に、周囲の木々は大きく左右に揺れていた。悠日はびしょ濡れになるのも厭わずに、とある場所まで一目散に走っていく。
(絶対に今日、帰らないと……! 夜に、「御子の儀」が始まる前に……!)
悠日が向かったのは、島の波止場だった。
悠日は辺りを見回して、連絡船を探す。しかしそれらしき船は見つからない。
「くそ……!」
海は大きく荒れていて、水しぶきが高く上がっている。当然、こんな中で連絡船など出せるわけがない。
本当はわかっていた。しかし悠日は、一刻も早くこの島から出たくて仕方がなかったのだ。
自分が御子に――あの得体のしれない化け物の御子になって、この島から一生出られないだなんて、絶対に嫌だ。
それに千景のあの反応と、夜中の出来事……きっと御子に選ばれるのは自分なのだと、思わずにはいられなかった。
(あの家にも帰りたくない……一体どうしたら……)
胸にどうしようもない不安が渦巻いていく。悠日が唇を噛みしめて俯いていると、雨と波の音の合間に、弟の声が響いた。
「にいちゃん。いかないで」
悠日を追いかけてきた千景は、後ろから悠日の口元をハンカチのようなもので塞いだ。
「――儀式まで、眠っててね」
弟の言葉を最後に、悠日の意識はぱったりと途切れた。
三
「そろそろ……起き……」
「うん……すぐだ……思う」
意識を取り戻した時、最初に悠日の耳に届いたのは、雨音と人々の微かな話し声だった。俯いた自身の前髪からは、ぽたぽたと水滴が垂れている。
(ここは……?)
悠日が顔をあげると、正面には白装束に白い面布をつけた人間たちが、ずらっと円を描くように取り巻いていた。
「……ひぃっ!?」
悠日は悲鳴を上げて尻餅をつき、きょろきょろと辺りを見渡すと、そこは先ほどまでいたはずの波止場ではなかった。
すっかり日は沈み、周囲はまるで影絵のような背の高い木々に囲まれていた。おそらく悠日がいるのは、森の奥地だ。
「ああ、よかった。起きたみたいや」
「それじゃ、始めよか」
全身を白に包まれた島民たちは、顔を見合わせて話をしていた。気づけば、悠日自身も白い着物を着せられている。そして悠日の隣には、同じく白装束を着た千景も立っていた。
――あまりの異様な光景に、悠日は完全に言葉を失っていた。
しばらくして、悠日を包囲していた島民たちは、道を空けるように左右に分かれた。
悠日の正面には、まっすぐに伸びる白い砂利道が見えた。道の両端には等間隔に灯籠が置かれて、橙色の光が揺らめいている。道を進んだ先にあるのは、何軒か連なった木造の小屋だ。
悠日はそれを見て、昨日千景から告げられた言葉を思い出した。
『ほら、八碑様を祀ってる洞窟の近くに、小屋がいくつも建ってるところがあるでしょう。明日の夜、僕たちがそれぞれ別の小屋に入って、夜明けまでに八碑様が部屋に入ってきたほうが御子になるんだ』
(それじゃあ、あの小屋で一晩を過ごさなきゃいけないってことか?)
困惑する悠日をよそに、一人の島民が小さな黒い箱を掲げるようにして持ち、先に砂利道を進んでいった。
「八碑様……今晩、御子を……選び…………」
雨音にかき消されてところどころ聞こえなかったが、島民はぶつぶつとなにかを言ったあと、小屋の前にある石の台座に、黒い箱を置いた。
その様子を見ていた別の島民が、悠日と千景に声をかけた。
「さあ、小屋の中へ。悠日は右の小屋、千景は左の小屋や」
「わかりました」
千景は真剣な表情で、迷いもなく小屋へと歩いていった。
一方で悠日は全く動こうとしない。見かねた島民が彼の肩に触れた。
「触るな! 俺はこんな儀式、参加しない!」
「なにを言って……」
「気持ち悪いんだよ、お前ら全員!」
悠日は吐き捨てるように言ってよろよろと立ち上がり、その場から離れようとした。
しかし島民はすぐさま、悠日の前に立ちはだかった。
「悠日を右の小屋に連れていきや」
女性の島民が周りに指示をすると、大きな体の島民が悠日の腕を左右から掴み、ずるずると小屋へと引っ張っていった。
「は、離せ!」
悠日は必死に抵抗をするが、大男二人に囲まれてはなすすべがなかった。
悠日は閂と錆びた和錠がかけられた小屋へと無理矢理入れられて、外から施錠をされた。
「おい!! ふざけるな、ここから出せよ!」
悠日が内側からどんどんと叩くも、扉はびくともせず、外からの声も聞こえなかった。
小屋の中は数本の蝋燭が立てられているだけで、他にはなにもない。ただ薄暗闇が広がっているだけの空間だった。
「嘘だろ……?」
悠日はその場にぺたりと座り込み、両腕を抱えた。
寒さからか、はたまた恐怖からか。身体の震えが収まらなかった。
(閉じ込められてから、どれくらい時間が経ったんだ……?)
悠日は仰向けになり、壁にかけられた蝋燭の揺らめく灯りをぼんやりと見ながら考えていた。
ひんやりと冷たい部屋と雨で濡れた衣服は、徐々に悠日の体温を奪っていった。時計もなく、どれくらいここにいるのかもわからない。
薄暗闇に包まれていると、昨日怪物に襲われた時の記憶が蘇る。蛸のような触手が肌に吸いついた時の感触を思い出すと、全身が総毛立った。
あの怪物とここでまた遭遇するということは、すなわち、自分が「御子」に選ばれたということで――……。
「八碑様」の話になると豹変し、熱に浮かされたような表情を見せていた祖母、「御子に選ばれれば、この島からは出られない」としきりに言っていた弟。様々な光景が脳裏に過って、悠日はぎゅっと腕を抱き身を縮めた。
(早くここから、いや、この島から出たい)
悠日が祈るように瞼を閉じた瞬間――ひた、ひた……と、なにかが床を這うような音が聞こえた。
「……ッ!?」
悠日は声にならない悲鳴を上げた。瞼を開けるのが、ひどく恐ろしい。
(ち、ちがうよな? 外の音だよな?)
なんとか鼓動を落ち着かせようとさらに身体を丸めるが、その音はだんだんはっきりと、鮮明に聞こえるようになってきた。ひた、ひたと、こちらに近づいてくるような気がする。そしてついにぬるりとしたなにかが、悠日の足先を撫でた。
「ひぃッ!!」
悠日はついに大きく叫び声を上げて、足元を見た。そこには巨大な蛸のような触手が、部屋の暗闇の中から這い出るように数本蠢いていた。
「い、いやだ……ご、ごめんなざい……」
悠日は上半身を起こして、じりじりと後ずさりをする。
――俺は、選ばれてしまったんだ。
頭の中が恐怖で支配されて、奥歯がガチガチと音を立て始めた。
「だ、誰か……助けて……」
声は掠れて、涙が溢れる。ついに触手が悠日の頬に触れようとした時。
――ギィ、と扉が開くような音がした。
扉の隙間から、細くまっすぐな光が悠日に向かって差し込んでくる。化け物の手足は光から逃げるように、瞬きの合間に消えていった。
悠日が光の先を視線で追うと、そこには人影が見えた。悠日はその人物が誰かわかった瞬間に、大きく目を見張った。
「千景……」
扉を両手でこじ開けるようにして現れたのは――千景だった。
「にいちゃん、なんでそんなに怯えてるの」
千景は落ち着いた様子で部屋の中に入ってきた。
悠日は安堵して、すっかり力が抜けてしまった身体を引きずりながら、千景の足元に縋りつく。
(もしかして、俺を助けにきてくれたのか……?)
「ちかげ、千景……!」
「あーあ、こんなに泣いちゃって。大丈夫?」
千景は困ったように笑うと、しゃがみ込んで悠日の頬に手を寄せた。
「千景、どうして小屋から出られたんだ? お前も閉じ込められてたんだろ?」
「うん、そうだけど。出るのは簡単だったよ、閂をこじ開ければいいだけだったから」
(こじ開ける……? 中から力づくで閂を壊したのか?)
悠日は疑問に思いつつも、千景を見上げながら、彼の両肩を掴んだ。
「な、なあ千景。早くこの小屋から出よう。島民たちにバレないうちに」
「ん……?」
「あ、あと、明日までどこかで身を隠して、船が出たらすぐにこの島から出よう。やっぱりこの島は異常だ。俺たちはここにいちゃ駄目なんだよ……!」
悠日の必死の説得に、千景は幼い頃のように純粋に笑った。
「にいちゃん。今度は僕も連れていってくれるの?」
「ッ、ああ、約束する! 二人でここを出よう!」
「はは、嬉しいなあ。にいちゃんからそんなこと言ってくれるなんて」
しかし千景はその瞬間、顔からごっそりと表情が抜け落ちた。
「――でも、もう遅いよ」
「えっ?」
「にいちゃん。なにを勘違いしてるのかわからないけど、僕は『御子の儀』をしにきたんだよ? ちゃんと、にいちゃんを僕の『御子』にするために」
くすくすと千景の笑い声が響く。
「な、なに言って――――ぃッ!?」
その矢先、悠日は脚にねっとりとした感触が走り、大きく叫び声を上げた。
悠日は自らの目を疑った。先ほどまで悠日の身体を這っていた、「八碑様」の手足が――弟の背中から、何本も伸びていたからだ。弟は上半身をはだけさせて、獲物を狙うように目を細めて笑った。
「ちかげ……? な、なんで……?」
悠日はただただ呆然と、壊れたおもちゃのように「なんで」を繰り返すことしかできなかった。そんな兄に、千景はにぃ、と口の端を吊り上げた。
「僕は、にいちゃんを誰にも渡したくなかったの。それがたとえ……神様が相手だったとしても」
「は……?」
「だからぁ、ちょうどばあちゃんがいなくなって、弱くなった八碑様を取り込んじゃった! でもこれで、僕がにいちゃんを御子にしてあげられるよ!!」
あはは!!と狂ったように笑う千景の声が、悠日の鼓膜を揺らした。今すぐこの男から離れなければと、本能的な恐怖が駆け上がる。
這いつくばるように部屋の奥へと逃げようとするが、ガクガクと震える脚に巻きついた手足は、悠日を千景のほうへ引っ張っていった。
「や、やめ……!」
悠日は頭を振り乱し、必死に抵抗するが、その合間にも触手は悠日の腕や腰に巻きついて離れない。
「いやだ……っ!」
ついに悠日は弟のもとへと引き戻されて、千景は愛おしそうに悠日の頬に触れた。
「騙しててごめんねぇ。僕がこんな風になったってわかったら、にいちゃんすぐに逃げるでしょ。僕は絶対、この儀式をやり遂げたかったから。……でも、そんなに怯えなくてもいいのに。にいちゃんは僕のこと、今でも気持ち悪いと思ってる?」
「お、思って、ないから……ッ! だから、たずけで……!」
「はは、また泣いちゃったあ。にいちゃんは泣き顔もかわいいねぇ」
千景はずびずびと鼻水を垂らして泣く悠日に顔を寄せると、舌で兄の涙を舐めとった。
「ひ、っ……!」
悠日が顔を引き攣らせて距離を取ろうとするも、千景はがっしりと両手で兄の顔を固定して、無理矢理口づけをしてきた。
「ッ!! んっ……!」
――弟にキスをされている。
悠日はあまりのおぞましさにジタバタと手足を動かした。しかし触手は悠日の手足にがっちりと巻きつき、悠日の動きを抑えつける。
どうすることもできない悠日に気をよくしたのか、千景はさらに口づけを深めて舌を差し入れ、口内を蹂躙した。
(嫌だ……ッ!! 気持ち悪い!!)
悠日は不快感にぎゅっと目を瞑り、ほとんど衝動的に、生暖かい舌先に噛みついた。
「――ッ!!」
千景はさすがに驚いたのか、悠日から唇を離して口元を押さえた。思い切り噛んだからか、千景の手からはだらだらと血がこぼれ落ちている。
「本当に酷いなあ。にいちゃんは、そんなに俺のことが嫌い……?」
「あ……。ちかげ、おれは」
「僕のこと、拒絶しないで……」
千景は虚ろな目でぶつぶつと呟いた。その瞬間、悠日の全身に触手が巻きつき、首元まで絞めつけてきた。
「なっ……!?」
(これって、昨日と同じ……!)
悠日はあまりの恐怖に瞳を濡らしながら、昨晩この化け物に首を絞められたことを思い出した。
千景は口元に当てていた手を離し、美しい笑みを浮かべた。
「そうだ。にいちゃん、昨日はごめんね? 俺、にいちゃんが寝てる間に我慢できなくて……ついつい触っちゃったあ」
彼の舌からは、既に血は出ていなかった。ものの数秒で傷が癒えてしまったのか、彼は軽やかな口ぶりで告げた。
「気づいたらにいちゃんに苦しい思いをさせてたみたいだね。この力を手に入れてから、まだ全然経ってないからさあ。僕も制御の仕方がよくわからないんだよねえ」
千景が話をしている合間にも、怪物の手足は、ぎりぎりと悠日の首を絞めつけていく。悠日は必死に抵抗しようと身を捩り、口をはくはくとさせた。
「だからにいちゃんが抵抗したら、力の加減ができなくなっちゃうかもぉ」
――この男に、命を握られている。
悠日は本能的にそう察してしまった。息も絶え絶えの中、なんとか言葉を発する。
「し、ないッ……抵抗、しない、からぁ」
「よかった。それなら安心だね」
千景は兄の回答に満足したのか、ようやく悠日の首から手足を解いた。
「げほッ!! は、あ……ッ」
肺になだれ込んできた新鮮な空気を処理しきれずに、悠日は大きくせき込んだ。そんな悠日を、千景は真っ黒な目を細めて愛おしそうに見つめている。
(こいつ、やっぱり頭がおかしい……!)
悠日は思わず千景を睨みつけてしまったが、もはや抵抗する気など起きなかった。身体の力を緩めて、なるべくこの男を刺激しないようにするしかなかった。
悠日の身体が弛緩したのをいいことに、触手は悠日の皮膚の上をまさぐるように、白装束をはだけさせた。
悠日の肌をぬるぬるとした触手が這い回り、そっと彼の陰茎に触れた。
「……っ!」
触手は亀頭を撫で、竿を握り込んで、ゆっくりと上下に擦っていく。性的な動きに腰を引こうとするが、ありとあらゆるところに伸びている化け物の手足がそれを許さなかった。
「あ…….んッ、や……っ!」
悠日はなにもできないまま、熱っぽい声を上げた。
触手にある吸盤のようなものからは、ねっとりとした透明な液体が分泌されている。それが自らの陰茎に塗り込まれるうちに、頭がぼうっとして、ぞくぞくとした感覚が湧き上がってきた。
「にいちゃん、気持ちいい?」
「ちか、げ……なんか、おれのからだ、おかしくなって……、あッ……!」
「大丈夫、おかしくないよ。僕の御子になるための準備だから」
触手の動きはさらに早くなって、悠日の陰茎をぐじゅぐじゅと擦り上げた。
「――あ! んッ、は……!!」
「はは、先走りがたくさん出てるよ。そうだ、上もいじってあげる」
千景がそう言うと、悠日のぴんと立った突起に触手が触れた。
細い触手で先端ををこりこりと押しつぶし、きゅっと摘み上げる。上も下も刺激されて、自然と腰が揺れてしまう。
「もう、出ちゃう……ッ! ン、んん……!!」
「いいよ。僕の前で、にいちゃんがイクところ見せて?」
「や、イく、――ッ!!」
悠日はあっけなく精を吐き出した。弟の前で痴態を晒してしまい、羞恥で顔が熱くなる。
「にいちゃん……」
千景はそんな悠日の様子を、情欲を滲ませた視線で見つめていた。
「こっちもちゃんと解さないとね」
「……!? な、なにす……」
まだ息の荒い悠日をよそに、千景は兄の両脚を開かせて、彼の後孔に太い触手を近づける。
「い、嫌だ!! そんなもの入らないって!!」
「あー……もう、抵抗しないって言ったばっかりなのに。大丈夫だよ、ちゃんと入るから」
「そんなわけな――……っ!!」
悠日はいやいやと頭を振るが、そのような抵抗は意味をなさず、秘孔につぷりと生ぬるいものが入っていく。触手は粘着質な液体を垂らし、悠日のナカに液体を塗り込むようにして進んでいく。
……痛くはなかった。けれど後孔からじわじわと熱くなり、身体が火照っていくような感覚に困惑していた。
「なに、これ……ぅ……ッ」
「目がとろんとしてきたね。気持ちいい?」
千景は興奮したように言うと、悠日に覆いかぶさるようにして口づけを落とした。先ほどまであれだけ不快に思っていたのに、悠日は自然と弟を受け入れてしまっていた。
「にいちゃん。もっと奥に入れるね?」
千景は唇を離すと、悠日の耳元で囁いた。
触手は奥へ進んでいくような動きから、秘孔を擦るような動きへと変わっていく。
「ひ、ん……!!」
ぐちゅぐちゅと水音が響いて、後孔から透明な液体が溢れ出してくる。悠日の中にいる化け物は、さらに無遠慮に擦り上げて――ナカのしこりを弾いた。
「――あァッ!!」
その瞬間、バチッと頭が真っ白になって、悠日はびくんと腰が浮いてしまった。陰茎からは、薄くなった精液がだらだらと零れている。
「あれ? 前立腺触っただけでイっちゃったの?」
「…………?」
「はは。なにが起こったのかわからないって顔してる。続けるね?」
千景はうっすら笑うと、再びナカにいる手足が動き出し、側面についた吸盤が前立腺をごりごりと刺激する。触手は悠日の陰茎にも巻きついて、とろとろと零れる精液を掬い取るように亀頭を擦り上げた。
「ち、ちかげえ、おれ、イったばかりで……!! ――やっ、ンん!!」
「すごいねえ、またぁ? にいちゃん、身体もこんなにびくびくして……」
悠日の身体は異様なほどに熱くなり、ついさっき達したばかりだというのに射精を繰り返していた。千景はごくりと唾を飲み込むと、兄の胸の突起を手で摘まみ、片方を舌先で転がした。
「そこ……っ、いじるなって、ア、ゃっ――ああッ!!」
悠日は叫び声を上げ、陰茎から透明な液体をふきだした。弱いところを重点的に虐められて、ついに精液すら出なくなっていた。
「にいちゃん、イキすぎて潮吹いちゃったね」
「……ぁッ……ちかげぇ、ゆるじで……もう……」
「はいはい、わかったよ。……まあ僕も、我慢できなくなってきたし……」
千景がそう言ったのと同時に、触手がナカから引き抜かれた。そして千景は着物を全て脱ぎ、自らの陰茎を露わにして後孔に当てる。
千景の手は驚くほど冷たいのに、彼のものは熱くそそり勃っていた。悠日はちぐはぐな感覚にクラクラとして、引きつったような声を上げた。
「はっ……、ちかげ、だめだって、こんなの……!」
「はあ? 化け物の手足で感じてたくせに、僕のは駄目なの? 今更逃げようとしても無駄だよ。実の弟とセックスするところ、ちゃんと見て!」
千景は逃げようとする悠日の腰をがしりと掴み、一気に貫いた。
「――ぐッ、ア!!」
強烈な快感が脳を突き抜け、足がぴんと張った。びゅっと潮を吹いてしまったが、頭がチカチカとしてなにも考えられなかった。
千景はそんな悠日に追い打ちをかけるように、欲望のままに律動を繰り返す。
「はぁ、にいちゃん、嬉しい……ッ! ずっと、こうしてやりたかったんだ!!」
「や、――あァ!! もう突かないでッ!!」
「やばっ……にいちゃんがイクたびに締まる……ッ」
前立腺を硬いもので抉られ、陰茎を触手で擦られて、悠日は何度も何度も果てた。あまりの刺激に眼球が上を向き、意識が遠のいていく。
しかし千景はそんな悠日の顎を掴み、顔を近づけた。
「にいちゃん、まだ意識飛ばさないで。せっかくまた会えたんだもん、もっと遊ぼうよ、ねっ?」
「ひッ……!!」
「ねえ、僕、この六年間ほんとうに寂しかったんだよ、にいちゃんにこの気持ちがわかる? つらくてつらくて、毎日毎日にいちゃんのこと考えてたんだよ」
千景は幼い頃に戻ったかのように、どこか舌っ足らずな口調で捲し立てる。
「にいちゃん、どうして僕を置いていったの。どうして会いにきてくれなかったの。にいちゃんは、僕のことどうでもいいと思ってた!?」
「ンん――ッ、ちかげ、それは、ちが……」
「ちがう? じゃあ好き? 僕が一番大事? 僕のこと愛してる? 愛してるよね? ほら、言って。言えって! ――愛してるって言えよ!!」
「――んぅッ!!」
千景は叫ぶように言うと、悠日の最奥を突き上げた。そして、秘孔にどくどくと熱いものが注ぎ込まれる。
悠日は身体が痙攣して、もはや何度目かもわからない絶頂を迎えた。快楽の波とともに、身体が作り替えられていくような不思議な感覚がした。
視界が明滅して、絶頂の余韻に身を預ける。
弟と自分はどうなってしまったのか。わけがわからないまま、熱に浮かされたように、悠日はゆっくりと、口を開く。
「ちかげ。あいしてるよ……」
既に弟に対する拒否感はなかった。むしろなぜか、自分の全てを捧げなければいけないような気がした。
悠日は弟の真っ黒な美しい瞳を見つめながら、ついに意識を手放した。
***
――悠日は、夢を見ていた。
目の前には、眩しいほどに輝く空と海の青が広がっている。白く柔らかな砂の感触が足裏から伝わってきて、全身が暖かな陽気に包まれていた。耳を澄ますと、港で網を引く漁師たちのかけ声も聞こえてくる。
あの頃は、両親も、祖母も、優しい島民たちも大好きだった。
波打際には、父と母がいた。白いワンピースを着た母は、足元だけを海の水に濡らしながら、悠日に話しかけた。
『悠日ー。海は入らないの?』
『や、やだ。なんか怖いし……』
『なんや? 島生まれなのに海が怖いって、変わった子やなあ』
悠日の近くにいた父が豪快に笑って、悠日の髪をぐちゃぐちゃにしながら撫でた。あまりの勢いに悠日はぎゅっと目を瞑る。
悠日はむっとしながら、反論しようとした――しかしその瞬間、突風が吹き荒れた。
目を開けたときには、父も母も、誰一人としていなくなっていた。
『お父さん、お母さん……?』
凪いでいたはずの海は荒れ狂い、岩に当たって波が砕け散っていた。
悠日はすっかり暗くなってしまった波打際を、とぼとぼと歩く。怖くて、心細くて、今にも叫びだしてしまいたかった。
『にいちゃんっ』
そんな時、背中に微かな衝撃が走る。ゆっくりと振り向くと、そこには幼い頃の千景の姿があった。
『ねえ、どこ行くの? 僕と一緒にいてよ』
千景は甘えるように悠日の腰に抱き着いて、大きな黒目を向けた。
『ごめん、お父さんとお母さんを探さなきゃいけないから』
悠日はそう言って、千景を引きはがそうと彼の腕を掴む。
しかしその矢先、ぬる、とした異様な感覚が悠日を襲った。
『……!?』
気がつけば、弟の腕は吸盤のある触手へと姿を変えて、悠日を逃がすまいと、全身に巻きついていた。
『今度は逃がさないからね』
化け物から、千景の声がする。
悠日は大きく叫び声を上げて――……ようやく夢から覚めた。
「ゆ、ゆめ……?」
はあ、はあと呼吸をしながら辺りを見回す。
そこは伊神嶺家の一室で、悠日は布団で寝かされていた。自分のものではない黒い着物は、汗でぐっしょりと濡れている。
(俺は……、昨日……)
悠日はずきずきと痛む頭を抱えた。昨日のことは頭の中でぼんやりと霞がかったようになって、どうにも思い出せない。
「にいちゃん、起きた?」
千景が襖を開けて入ってきた。彼は悠日と同じく黒い麻着物を身に纏い、すっと兄の側に正座をした。
「昨日、疲れたでしょう。よく寝られた?」
「う、うん。ありがとう……」
「なんだかぼーっとしてるね。熱でもあるのかな」
千景はそう言って、悠日の額に手を当てた。
まるで死人のように、ぞっとするほど冷たい手だった。けれど悠日は、その手に触れられた瞬間、心がぽかぽかと温まって、目尻が自然と下がっていった。
「熱はなさそうだね、よかった。もうすぐで朝食ができるから、ちょっと待てて」
「……っ、千景。あの……」
離れようとした千景の手を、悠日は咄嗟に掴んだ。
「さっき、夢を見たんだ。な、内容は、よく覚えてないんだけど」
「にいちゃん……?」
「海が、すごく荒れてて、暗くて。俺は、それが本当に怖くて……」
夢の内容は覚えていないのに、ひどく恐ろしかったという感覚だけが残っていた。
悠日は震える手でぎゅっと千景の手を握り、彼を見上げた。
「お、お願い。もうちょっと、ここにいてくれ……」
涙目で訴えかける悠日に、千景はごくりと唾を飲み込み、兄を抱きしめた。
「にいちゃん、大丈夫だよ。それはただの夢だから。……ほら、見て。もうすっかり、いつもの綺麗な海に戻ったよ」
悠日は千景の肩越しに、開け放たれた襖の間からのぞく海を見ていた。連日の嵐はすっかりやんで、きらきらと輝く海が広がっている。
(嵐……そうだ、俺がここに帰ってきた時は、ずっと天気が荒れてたんだよな。だから俺は、中々島を出られなくて……。いや、そもそもなんで、島を出る必要があったんだ……?)
凪いだ海は悠日のぐちゃぐちゃにこんがらがった思考を、正しいものへと直してくれる気がした。
(俺はもう一度千景の側にいるために、この島に戻ってきたのに……。なんでわざわざ、島を出ようとしてたんだろう)
「千景、海……綺麗だな」
「そうでしょう?」
「うん。ずっと、このまま眺めていられたらいいのに」
「これからいつでも見られるよ。……もう、海を荒らす必要はないからね」
千景は耳元で甘く囁く。そしてゆっくりと身体を離すと、悠日の頬に手を添えながら顔を寄せ、口づけを落とした。
悠日はどうしようもないほどの幸福感に包まれながら、ただそれを享受していた。
四
祖母が亡くなった日は、近年稀に見る大嵐だった。
伊神嶺 千景は祖母の納棺の儀を終えてから、真夜中に「八碑様」を祀る洞窟へと向かっていた。
合羽を羽織り、懐中電灯で照らしながら、土砂降りの雨でぬかるんだ道を歩いていく。こんな天候で外へ出るなんて、常軌を逸しているとしか思えない行動だ。
しかし千景は、どうしても行かなければならなかった。
それは『私のもとへ来い』と――地を這うような声が、千景を呼んでいたからだ。
この声は、千景が幼い頃から聞こえていた。当たり前のように頭の中で直接語りかけてくるものだから、八碑様の存在を疑ったことはなく、この声が聞こえることも、島民であれば普通のことだと思っていた。そうではないと知ったのは、六年前、兄に「気持ち悪い」と拒絶された時だったか。
(にいちゃん……きっともうすぐ、にいちゃんに会えるんだ……)
衰弱して寝たきりになり、死の匂いを纏い始めた祖母は、ずっとひた隠しにしていた兄の連絡先をようやく教えてくれた。兄は明日にもこの島へ向かってくれるらしい。大事に育ててくれた祖母が旅立ってしまったのは悲しいが、千景は兄と再会できる喜びのほうが遥かに上回っていた。
(八碑様は、きっと僕を御子にすると言うはずだ。そうじゃなきゃ、僕だけに八碑様の声が聞こえるはずがない)
葬儀が終われば、すぐに「御子の儀」も行われる。千景は幼い頃から、御子に選ばれるのは自分だと悟っていた。
(御子になれば、僕はこの島から出られなくなる。そうなったら、にいちゃんを追いかけることはできない。だからこそ、今なんとかしなければ……)
千景は考えを巡らせながら森の奥へと進み、ようやく洞窟に辿り着いた。
真っ黒な洞窟に踏み入れると、外の寒さとは異なる、ぞっと底冷えするような空気が漂っていた。大嵐のせいで洞窟の中にいても横なぶりの雨に見舞われ、突風が襲いかかってくるというのに、絶え間なく続いていた木々のざわめきは不自然なほど聞こえなくなっていた。
千景は足元を懐中電灯で照らしながら、暗闇の中を歩き、八碑様を祀った祠に一歩、二歩と近づいていく。その時、先ほどよりも鮮明にあの声が聞こえてきた。
『千景、よくぞ来てくれた』
それはまごうことなき海乃祢島の主の声だった。
千景は神の声色に安堵の色が混じっていることを感じ取って、「遅くなって申し訳ありません」と言った。
『さあ、もっと近くに』
千景は神の言う通りに祠のある洞窟の奥へと進んでいく。しかし、どこもかしこも真っ暗でよく見えない。千景は一度立ち止まって、懐中電灯を足元から正面に向けた。
「あ……。祠が……」
千景は思わず目を見張った。光を照らした先は、本来あるべきはずの祠がなく、台座だけがあった。
注意深く見てみると、石の祠は風により倒され、台座から外れてぐちゃぐちゃに壊れていた。
(僕を呼んだ理由はこれか)
――八碑様は片割れである御子がいなければ、力が弱まってしまう。
それは島民であれば当たり前のように知っていることだ。さらにこの大雨で八碑様を大切に祀っていた祠が崩れ、きっと神は相当に弱っているのだろう。
千景はおもむろに祠に近づいていき、壊れてしまった石を一つ一つ拾い上げていく。雨で濡れている上に手元は暗く、中々骨の折れる作業になりそうだ。
神は力が弱まっていることを悟られたくないのか、千景が祠を直し始めたことには触れず、掠れた声で語りかけた。
『千景。御子の儀の準備はできているのか?』
「そうですね。葬儀があるので、明々後日の夜には執り行えるかと」
『そうか。もちろん、あの裏切り者の小僧も帰ってくるのだろう?』
(あの小僧って……。にいちゃんのことか……?)
千景は眉を顰めた。神が悠日を厭っていたのは知っていたが、兄を貶されたようでいい気はしなかった。
千景は気持ちを落ち着かせるようにゆっくりと息を吐くと、再び口を開いた。
「ええ、もちろんです。あの……八碑様」
『なんだ?』
「次の御子には、兄と僕、どちらを選ぶおつもりですか?」
千景にとっては、答えがわかりきった質問だった。
けれど念には念を入れて、事前に聞いておきたかった。もし千景が御子になったら、この島からは出られなくなる。
だから六年ぶりに帰ってくる兄をなんとかこの島に留めておける方法はないかと、祖母が危篤状態になってからずっと考えていたのだ。
『もちろん、私はお前を御子にするつもりだった』
神がおもむろに答えた。しかしその言葉じりに千景の眉がぴくりと動く。
「『だった』……?」
『千景、お前は誠に美しい。だからお前が生まれた時から、お前を私の御子にすると決めていた。しかし――あの小僧が久方ぶりにこの島に来ると聞いて、気が変わったのだ』
「それは……兄を、御子にするということですか」
『ああ。彼奴は親に似て、私に対して敬意の欠片も感じられない。そんな奴をあえて御子にして、ここに縛りつけるほうが愉快だろう?』
神の声色からは、仄暗い喜びが感じられた。信仰心がなく、いつもこの島を出たがっていた悠日への制裁でもあるのだろう。
神様は気まぐれだと聞くが、まさかこんなことが――……。
(今まで考えたこともなかったけど、にいちゃんが御子になれば、ずっとこの島にいてくれるのか? そうすればもう二度と、にいちゃんは僕を置いて出ていったりしない?)
千景は沸き立つような気持ちで口を開いた。
「僕も、そのほうがいいと思います」
『そうだろう? お前ならわかってくれると思っていたよ』
「はい、八碑さ……」
『――ああ、早く彼奴を私の物にして、滅茶苦茶にしてやりたい』
しかしその時、神の恍惚とした声が大きく響いた。
ぴたりと、千景の動きが止まる。
兄を「私の物に」――その言葉を聞いた瞬間、「御子」である祖母の姿が脳裏に蘇った。
普段は穏やかな祖母が、八碑様のことになると豹変して――生娘のように頬を赤らめ、甘く蕩けるような口調で話をしていたこと。あまりにも狂信的なその姿は、千景の目にも異様に映っていた。
……自分が御子になると思っていた時は、全く気にもかけなかったのに。
それなのに、兄が御子として選ばれると思った瞬間に、記憶の中の祖母の姿が、兄の姿に差し変わってしまった。
「……っ!」
想像だけだというのに、脳裏に浮かぶ映像は、千景にとってこの世で一番おぞましいと思う光景だった。壮絶な不快感が全身を駆け巡る。
(そうか。御子になるということは、この神の物になるということなんだ)
千景は沈黙しながら、祠の石を台座に置いていく。そうしてふと、千景は台座の裏側から黒い箱を見つけた。
――たしかこの箱には、「八碑様の一部」が入っていたはずだ。
千景はゆっくりとその箱を手にとり、じっと見つめていた。
『千景?』
突然箱を凝視し始めた千景に、神は困惑したような声色になった。
「八碑様。御子になったら、にいちゃんはあなたの物になってしまうんですよね」
『私の御子なのだから、当然だろう』
「……そうですよね。でも、僕は……」
『……なんだ?』
神はあきらかに苛立ちを孕んだ声を出したが、千景は神の言葉を無視して、黒い箱をおもむろに開けた。
箱の中にあったのは、まるでへその緒のような――小さな黒い塊だった。
(ああ……。僕たちは今まで、このちっぽけな塊を神として崇めていたのか)
千景はこれまでこの塊を神と崇め、下手に出ていた自分が酷く馬鹿馬鹿しくなった。
『お前、なにしてるッ!?』
さすがに箱を開けるとは思っていなかったのか、神の怒号が響いた。しかし千景は愉快な気持ちになって、口の端を持ち上げた。
「八碑様。僕はずっと、どうしたらにいちゃんがこの島に戻ってきてくれるのか、どうしたら一緒にいられるのかと考えていました」
『なにを言って……!』
「だけど今、一番いい方法を思いつきました。――あなたごと取り込んで、にいちゃんを僕の御子にすればいいんだ……!!」
千景は熱に浮かされた様子で箱の小さな塊を手に取り、口元へと運ぶ。
なにかを察したのか『やめろ!!』と、頭が割れんばかりの叫び声が響いたが、御子を失い、力が弱まった神は、千景の頭の中でただ喚くことしかできない。
千景はそのまま、神の一部をごくりと飲み込んだ。
その瞬間、視界は歪み、激しい眩暈がした。猛火に包まれたように全身が熱くなって、内側から作り替えられていくような感覚が迸る。常人であれば耐えられないようなおぞましい感覚に襲われていても、千景は笑っていた。
(これで、にいちゃんを僕のものに……)
そこでついに、千景の意識がぷつりと途絶えた。
どれほど意識を失っていたのだろうか。
千景は洞窟の中で、ゆっくりと上半身を起こした。
外は依然として分厚い灰色の雲がかかり、雨風によって木々が大きく揺れていたが、夜は明けているようだった。
千景は自らの頬に触れたあと、両手のひらをまじまじと見つめた。外見はなにも変わっていなかった。しかし、千景の手はまるで死人のように冷たかった。
もう、神だったものの声は聞こえない。
自分はついに、人間ではなくなったのだ――千景はそう確信した。
「にいちゃんを迎える準備をしないと」
兄がいなくなってから六年間、千景は一日たりとも兄のことを考えない日はなかった。早く、一刻も早く、兄に会いたい――その気持ちが歪な形で肥大化した化け物が、今の自分なのだ。
「にいちゃん。今度こそ逃がさないからね」
千景は祠の中に空っぽの黒い箱を戻して、恍惚とした笑みを浮かべた。
(了)
