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メリバ小説部門 選考通過作品 『手紙』

2025/11/07 16:00

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『手紙』作:猫丸

 

 

あらすじ
戦争体験を取材している新聞記者。
その取材中に出会った一人の老人のもう一つの戦争体験。
太平洋戦争真っ只中の日本。
徴兵を目前に控えた青年が、戦地から戻った兄の部屋で見つけたのは、名もなき戦友Sからの手紙だった。
赦されぬ愛、戦争神経症、愛と裏切り。
偽りと真実を織り交ぜて、弟はある“嘘”をついた。
時代に翻弄された彼らの運命は――。
⚠︎注意⚠︎
本作には、戦時中の同性愛、戦争神経症(PTSD)、精神的な錯乱、近親を示唆する表現を含みます。
また、当時の価値観や制度、差別的な言動が登場することがあります。これらは史実を背景とした表現であり、差別の助長を意図するものではありません。
救いのない描写や、重たい心理描写が含まれます。苦手な方は閲覧をご注意ください。

 ※こちらの作品は性描写がございます※


手紙

 日が落ちたというのに、湿度を含んだ空気は身体にまとわりつき、日中の日差しで温まった地面から熱が湧き上がってくるようなそんな日だった。
 一日の仕事を終え、今日は直帰。
 俺は暑さに耐えきれず、灯りがともったばかりのバーへ入った。
 店内にはマスター以外誰もいなかった。
 ジャズの音楽がかかっていたが、それよりも空調や冷蔵庫のモーター音の方が大きい。
 俺はメニューも見ずにビールを頼んだ。
 目の前に置かれた冷たいビールをカラカラの喉に一気に流し込んで、やっと一息つく。
 おかわりを頼んだところで、カランとバーのドアが開いて別の客が入ってきた。
 白髪の老人。杖をつき、足を引きずっている。
「おや? K新聞の……」
 入ってきた男が俺を見て言った。
 俺は気まずくなって、「どうも」と照れ笑いをした。
「先ほどはどうも。お隣、良いですか?」
 仕事は終わったのだ。悪いことをしているわけではないのだが、仕事上がりにすぐに酒を飲んでいるところを見られるのはなんだか気まずかった。
 俺は欲望に負け、目についた近場の店で手を打ってしまったことを少しだけ後悔した。

 男性は本日の取材対象の一人だった。
 社会部の新聞記者をしている俺は、戦後50年の特集記事のために先程まで戦争体験者の話を聞いていた。
 彼は終戦直前、フィリピン戦線での生き残りだった。
 被災体験は聞けても、実際に戦地に行った人達の口は堅い。そこをなんとか説き伏せて話してもらった相手だった。
 当時の記録を見ると、彼の派遣された島では、日本軍は補給路を断たれた上に、島の物資も使い果たしていて、『自活自戦』『永久抗戦』という命令が下されていた。食料も物資も自ら現地調達し、永久に戦い続けろというもの。
 終戦から何年も経って、やっと当時の軍国主義の異常性が明らかになったが、彼と共に戦地に補充された将兵のうち、生きて帰ることができたのは一割にも満たなかったという。

 現地での壮絶な体験を聞いてしまっただけに、このようなお気楽な姿を見せるのは心苦しい。
「そんな、楽にしてください。良い記事になりそうですか?」
 俺の戸惑いを感じ取ったのか、老人はそういって恐縮した。
「ええ、お陰様で。先程はつらい記憶を語っていただいてありがとうございました」
 俺は(これを飲んだら店を出よう)と思いながら、仕事の顔に戻って返事をした。
 そそくさと目の前に置かれた新しいビールの杯に手を伸ばすと、老人の前には氷の入った琥珀色の液体が置かれた。
「もう一つ、私の話を聞いてもらっても良いですか? 一度話し始めると、色々な記憶が蘇って来てどうも整理がつかなくて……」
 俺は戸惑いながらも、仕事の顔を崩さず頷いた。

 ***

 それは私がまだ十九の時のことです。
 当然ながら、まだ日本は太平洋戦争の真っ只中の時のことでした。
 夕方に降った雨のせいで、叔父の家から我が家へと続く泥の道は滑りやすくなっていました。
 私はぬかるみに足を取られないよう、もらったかぼちゃの煮物を抱きかかえながら帰途を急いでいました。
 雨が降らねばもっと早く帰れたというのに、憎たらしい話だが空に文句を言っても始まらない。
 家には戦争から帰ってきた五歳上の兄が待っていました。
「兄さん、ただいま。今日は叔母さんからかぼちゃの煮物をいただいたよ」
「あぁ……もうそんな時間なのだな……」
 奥の部屋から兄の声が聞こえ、私を出迎えようとしているのがわかりました。
 それよりも早く私は土間からふすまを開け、次座敷(居間)を覗くと案の定、畳に這いつくばっている兄が顔を上げました。

 戦争から戻ってきた兄は松葉杖をついていて、足を引きずっていました。フィリピンでの戦闘中、足に銃弾を負ったのだそうです。
 兄は以前とは様子が変わっていました。
 かつて村一番の美男子で、快活で明るかった私の自慢の兄でしたが、その表情は陰鬱としていて、肌はくすみ、頬はこけ、クマもひどかったです。
 それでも私はたった一人の肉親が帰ってきてくれたことに感謝しました。
 私達の両親は、流行病でそれよりも七年前に亡くなっていたのです。私が十二の時のことでした。
 当時未成年だった私達は、近くで農家をしていた叔父の家で世話になり、畑の手伝いをしながら生きてきました。
 当時の家長ですからね、叔父はそれはそれは厳しい人でしたよ。殴る蹴るは当たり前。機嫌が悪いと食事を与えてもらえないことだってよくありました。

 あぁ、誤解しないでください。恨んでいるわけではありません。当時はそれが当たり前だったのです。
 私が兄を戦地へ見送ったのも、叔父の家からでした。
 兄が帰ってきたので私たちは叔父の家を出て、兄と共にかつて両親と住んでいた家へ戻りました。
 戦争は日々激化していて、市井の生活もとても苦しかったです。
 兄の怪我がお国のために戦った名誉の負傷だったとしても、叔父の家が農家で、少なくとも最低限の日々の食べ物には困らなかったといえども、決して余裕があるわけではありませんでした。
 そして何より、兄は戦争神経症(戦争後遺症、現代でいうPTSD)を患っていたのです。
 叔父の家は本家で、親戚や近所の人の出入りも多い。そのように病んだ人を家に置いておくのは皇軍の士気を下げる、体裁が悪い、と嫌な顔をされたのも一因でした。
 その時、兄は二十四歳。私も十九歳になっていました。
 兄はわずかながら傷痍軍人恩給をもらえたし、私が兄の分まで働けば、生きていくくらいは何とかなるだろうと思いました。
 そうこうしているうちに、きっと兄も回復するはずだ、そう信じていました。
 でも一向に良くなる気配はなかったのです。

 *

 私は風呂敷に包まれた煮物を土間の棚に置いて「汗と泥を流してくるよ。兄さんも準備しておいて」と言って風呂小屋へ向かいました。
 薪なども貴重でしたから、井戸水で一日の汚れを落としました。
 日が落ちても、まだ気温は蒸し暑く、冷たい水が気持ちよい季節でした。
 そして褌一丁の姿で兄を担いで、小屋まで連れて行くと、兄のために少し温めたお湯でその背中を拭きました。
 兄の身体には、銃弾をうけたひきつれの痕だけでなく、あちらこちらに傷痕がありました。私は、さぞかし痛かったであろうという同情の思いと、これから戦地に行く我が身を思い、身が引き締まる思いでした。
 ですがその兄の身体を拭く度に、私には何か言いようのない不思議な感情が湧き上がるのです。当時の私にはそれがどのような感情なのか、表現する言葉が見つかりませんでした。

「兄さん、近いうちにお墓参りに行こうか」
 私はぼんやりと遠くを眺めている兄に話しかけました。
「……あぁ……そうだな……」
「町内の掲示板にさ、食料のお供えは禁止って書いてあったから、花でも摘んで行こうか。この国難だし贅沢は敵!『欲しがりません勝つまでは』だね」
「…………」
 私が来年ここにいられるかはわからない。不安を打ち消すように努めて明るく言いました。
 長く続いている戦争で、私の知人も大勢亡くなっていて、私が生きて帰ってこれるか不安がないと言ったら嘘になります。
『国の為に命を捧げるのは当然』
 そのように教育されてきてもやはり怖いものは怖かったのです。
 私ももう直ぐ二十。二十になればすぐ徴兵検査が控えていました。

 深夜。叫び声がして深い眠りから引き戻されました。
(……まただ)
 声は隣の兄の部屋から聞こえます。
 戦争から帰ってきても兄はまともに眠れていない様子でした。
 聞いても何も話さない。私はただ大勢の兵士が死んだと言うこと知っているだけ。
 兄が戦地に赴くまで、私にとって戦況は野球の試合結果を見ているような感覚でした。
 行ったことのないアジアのどこかの国で、味方が何人、敵兵が何人が死んだ。それを頭では理解していても、どこか他人事のように感じていたのです。
 年齢だけでなく、精神的にもとても幼かったのだと思います。
 兄の出兵で初めて、そこにある一人一人の死というものを身近に感じました。
 そして兄が帰って来た今、私にもその恐怖が迫ってきていました。

 *

 そうこうしている間に月日が経ち私は二十になり、同級生たちと共に徴兵検査を受けました。
 検査に行く日、兄の表情がこわばっているのがわかりましたが何も言われませんでした。
 私は健康体でしたから、間違いなく検査は通過するでしょう。
 その日から私は身の回りの物を整理し始めました。
 といっても、私の手を煩わせるものなど何もありませんでした。
 兄も戦地に行く前、私と同じように考えたのでしょう。何があっても大丈夫なようにすべての書類や手続きは整っていました。
 戦争神経症になってしまったからと言って、生きて帰ってきてしまったからと言って、覚悟が足りなかったなどと責める周りの者達を殴りたい気持ちになりました。
 兄もまた、命を賭して戦地へと向かったのです。
 ですが、それを誰に言うこともできず、戦場とはどんなところなのか、そこで何があったのかを兄に問いただすこともできず、私は沈黙して日々を過ごしました。

 そんなある日、ふと引き出しの奥から、見たことのない封筒の束を見つけました。
 数えてみるとそれは十通ほどあって、すべて兄宛でした。
 日付を見ると、どうやら戦争から戻ってきてから届いたもののようです。
 差出人の名はSとしか書かれていません。
 どうやら兄の戦友らしいと私はピンときました。
 私はいけないと知りつつ、兄があのようになってしまったヒントが隠されているのではないかとその手紙を読みました。
 手紙は古い順に並べられていて、どうやら訓練の時の辛かった回想録や、兄の笛の音に合わせて皆で歌った事――兄は笛が上手で音楽の成績は常に『秀』でした――戦争という地獄の中で見つけたわずかな安らぎ等、他愛もない思い出話が綴られていました。
 私は少しほっとしました。
 その頃の私は、兄を心配する気持ちと、自分自身の出兵への不安。様々なものに押しつぶされそうになっていたのです。
 ですが、その後に続く一文を読んで私は驚きました。
 ――気の狂いそうな毎日の中で、それでもいつも貴方が隣にいた。それだけが私の救いでした。
 私は飛びあがりそうになって机に膝をぶつけてしまいました。大きな音を立ててしまったので、恐る恐る隣の部屋にいる兄の様子を伺ったのですが、どうやら今は眠っているようです。
 兄は夜眠れないので、時折こうして昼間に眠ることもあったのです。
 私はほっとしてそのまま手紙を読み進めました。
(どういう意味だろう?)
 兄に限ってそんなはずはない、と思うのですが、一度取り憑かれた思考は簡単には振り払えませんでした。
 読み進めるにしたがって、私の不安が的中していることを知りました。
 どうやら兄とSは、男同士でありながら肉体関係まであったようなのです。
 ――貴方と初めてつながった日、私はこのまま死んでも悔いはないと思ったくらい幸せでした。
 ――どうせ死ぬなら、貴方の為に死にたい。そう思うほどあなたのことを愛しています。
(お国が一丸となって敵国に立ち向かって行かねばならないこの時になんと破廉恥で浮ついたことを!)
 私は兄とSに対してひどく憤りました。
「私は違う! 私はお国のために立派にご奉公をするのだ。そのためには命など惜しくない」
 私は自分に言い聞かせるように呟きました。
 ですが私の下半身は痛い程に勃ち上がっていました。

 *

 兄とSに対して強い怒りを感じてはいたものの、手紙を読んでしまったことを兄に気づかれるわけにもいかず、私は知らぬふりをしました。
 ですがそれ以来、兄の些細な行動にも色香を感じ、兄の身体を拭く度に股間が反応してしまうのを抑えることはできませんでした。

 その後、Sからの手紙は来ていないようでした。
 でも、私に赤紙が届いたのとちょうど同じ頃、久しぶりにSからの手紙が届きました。
 それは私がかつて読んで、ばれぬよう元通りに束ねたその手紙の上に置かれていました。
 封は開けられていたから、兄は既に読んだのであろうと思い、私はこっそり読みました。

 ――手紙はこれで最後にします。親の勧めで結婚することにしました。貴方が私を愛してくれているのなら、私のことなど忘れて貴方も幸せになってください。

「なんと勝手な!」
 気がつけば私はその手紙を握りつぶしていました。
 あのような精神状態の兄にこのような手紙を送りつけるとは。兄はどのような気持ちでこれを読んだのだろうか?
 夕食の時、兄の様子をうかがいましたが、兄はいつものようにぼんやりとしていて、その表情からは何も読み解けませんでした。

 数日後、叔父の家からの帰り道、家の方からなつかしい笛の音が聞えてきました。
 小走りに駆けて庭の方へと回れば、兄は自分の部屋から続く縁側で珍しく笛を吹いていました。
 先ほども言ったように、兄は笛を吹くのが上手だったのですが、戦争から戻ってきてからは初めてのことでした。
 兄は私に気づくと吹くのをやめ、私に尋ねました。
「私の枕元に置かれていた手紙は誰から来たのだ?」
 久しぶりに聞く兄の正気な声でした。
 私はごくりと唾を飲み込み、平静を装って答えました。
「手紙? あぁ、私の手紙に紛れていたあれか。昨夜気づいたんだ。兄さんが寝ていたから枕元に置いておいたんだよ。私の方が聞きたいよ。一体誰からだったんだ?」
「それが、わからないんだ」
 兄は困ったように弱弱しく笑いました。
(わからないなんてそんなことがあるものか!)
 そう思ったのですが、私のしたことを兄に悟らせるわけにはいきませんでした。
「なんというか……とても不思議な手紙でね……」
 兄は言いました。
「どう不思議なんだ?」
 私は何かミスを冒したのだろうか。不安になりながら尋ねましたが、兄はそれ以上何も言いませんでした。
「もし夜中、私の部屋で何か物音がしても、決して私の部屋を覗かないでくれないか?」
 兄はそういって、壁に寄りかかり足を引きずりながら、自分の部屋へと消えていきました。
 私はその後ろ姿を見ながら、覚悟を決めました。

 *

 自分の家だというのに、夜中、庭から忍び込むというのは、妙にドキドキするものだと思いました。
 いや、きっと自分がこれからしようとしていることに対する罪悪感もあったと思います。
 できる限り音を立てないようにそっと開けたつもりでしたが、どうしても古い木がこすれ、引っかかるとガラス窓ががたがたと音がしました。
 今日は湯を沸かし、ちゃんと風呂に入って丹念に身体を洗い、汗を流したというのに、緊張で再び全身から汗が噴き出てきました。
 身体一つ分が入る程度の隙間から、自分の身体を滑り込ませ、家の中へと進入します。
 ふすまを開けたところで私は動きを止めました。
 布団の上には浴衣を着て、目隠しをした兄が背筋を伸ばして待っていました。
 私の気配に気づいたのか、兄はこちらの方へ顔だけを向け、小さくうなずきました。
 そして浴衣の紐に手を持っていき、合わせを解き、その肌をあらわにしました。
 風呂で何度も見ているはずなのに、隙間から差し込む月光に照らされ、その身体はとてもなまめかしく輝いて見えました。
 私はごくりと唾を飲み込むと、無言で兄に近づき、その身体を抱きしめました。
 褌一枚になった兄が、私の顔に手を寄せ、唇を寄せてきました。
 一瞬バレるのではないかと私は身体をこわばらせましたが、兄の唇が私に触れた瞬間、そんな私のなけなしの理性などどこかに吹き飛んでしまいました。
 むさぼるようにその唇を吸い、その口内へ舌をねじ込む私に、兄も必死に応えてきます。
 私がSではないと気付きもせずに。
 私は褌の上から兄のものに触れました。
 兄のイチモツは布越しにも形がはっきりとわかるくらい反応しているのがわかりました。
「あっ」
 私が握ると兄の身体がびくりと跳ね、甘い吐息が漏れます。
 私は逸る気持ちを押さえ、やさしく兄を寝かせその身体を味わいました。
 温度などすべて失ってしまったかのような兄の身体は驚くほど熱く、私は兄が発熱でもしているのではないかと戸惑ったほどでした。
「やめ、ないで……」
 兄は私の項に手を回し、再び唇を寄せてきました。
 私はそれに応えるように舌を絡めました。
 私は自分がSになった気持ちになりました。まごうことなき血のつながった兄弟であるのに。
 兄は明らかに男を知っている様子で、淫らに私を求めます。
 そうすると不思議と今、兄をと口づけを交わしているのは自分なのに、Sに嫉妬する気持ちも生まれてきました。そして私の腕の中でSを思う兄に対しても憎しみも湧き上がってくるのです。
 兄にしてみればとばっちりも良いところでしょうが、私は愛しさと憎しみの感情がないまぜになって、手荒に兄を抱きました。
 なのに、兄は「もっともっと」と私を……いや、Sを求めました。
 苛立ちが募りましたが、私にはもはや正体を明かすことなどできませんでした。

 *

 兄が受け取った最後の手紙。
 それは私がSのふりをして書いたものでした。
 私は兄が寝ている隙に枕元にその手紙を置いたのでした。

 ――前回の手紙は本心ではありません。結婚などというのは嘘です。私は貴方を心の底から愛しています。
 ですが、私は近いうちに遠い所へ行かねばなりません。果たしていつ帰ってこれるのか、私にもとんと見当がつかないのです。
 貴方への愛。私が貴方を想う気持ちに決して嘘はありませんが、私の愛で貴方を縛り付けることもまた本望ではありません。
 私は貴方に幸せになってもらいたいのです。私達は元々結ばれてはいけない関係です。
 それでも愚かな私は貴方にこの気持ちを伝えられずにはいられなかったのです。
 私は貴方を愛しています。
 これだけは間違いなく言える、私の真実です。
 貴方に恋焦がれたまま、これからの寂しい人生を過ごすしかない私を憐れに思うのなら、最後にもう一度だけ私を受け入れてくれないでしょうか。
 もし受け入れてくださるのなら、今日の夕方、私のために笛を吹いてください。それが合図です。貴方の部屋へつながる縁側の窓の鍵を開けておいてくださったら、私は最後に貴方の姿を目に焼き付けてその場を去りましょう。
 ですがお願いです。貴方と目が合ってしまったら、私の決意は揺らいでしまうでしょう。どうか決して私を見ないでください。
 愚かで無力な私を憐れに思うのなら、私の最後の、全身全霊の真心を貴方に捧げさせてください。  S
 
 思い返してみれば、なんと支離滅裂な手紙だろうと思います。
 ですが、私にはもう自分の気持ちの折り合いのつけ方がわからなかったのです。
 手紙のところどころににじみ出る私という存在。
 この手紙はSの仮面を被った私の本心でもあったのです。死地に向かう前に、私は兄を愛する一人の男として兄の前に立ちたかった。

 Sのふりをして手紙を書いた時、ここまでの行為を期待していたわけではありませんでした。ただ恋人として兄を抱きしめ、その唇に触れられれば良いと、ひどく純粋な気持ちでいたのですよ。
 ですがあのような淫らな姿を見せられたものだから、ひどく混乱してしまったのです。嫉妬と執着の感情を思い切りぶつけてくるものだから、兄だってたまったものじゃなかったと思います。
 その身体に、花びらを散らしたように赤い鬱血痕をつけ、私は兄のすべてを愛しました。
 そして兄もまた、外が明るみ始めるまで、ずっと目隠しをしたまま、私を受け入れてくれました。
 兄の身体が力尽きて、やっと私は正気に戻りました。
 私はぐったりと布団に横渡る兄をそのままにしておくわけにはいかず、井戸から手桶に水を汲んで来ま
した。

 再び縁側から兄の部屋へ入ろうとして、私は思わず手桶を落としてしまいました。
 静かな夜の闇に、がこんと桶の音が響きました。
「に、兄さん……これは、その……」
 先程まで布団で力尽きていた兄が目隠しを取り、こちらを見ていたのです。

 私はそのまま立ち去るべきだったとひどく後悔しました。
 言い訳のしようがありません。
「いいんだ。初めから知っていた。この手紙を書いたのは、お前だろう? 」
 兄は言いました。
「……」
「Sからの手紙を読んだのだろう?」
 Sと聞いて、反射的に私の身体がびくりと揺れ、ますます誤魔化しようがなくなりました。
 幼い頃から私の行動は兄にはすべてお見通しなのです。
 私は混乱していましたが、兄は話を続けました。
 大体はあの手紙に書かれていた通り、戦場で兄とSは密かな恋人同士だったようなのですが、唯一違っていたのはSは既に亡くなっていたのです。
 それも戦闘中に兄の目の前で。
「そんな……ならばあの手紙はいったい誰が……」
「お前が書いた最後のもの以外は私が書いたものなんだよ……私はSを見殺しに……」
 兄の身体は震えていました。
「兄さん、つらいなら言わなくていい。思い出さなくていい……」
 私は兄の傷をえぐるような真似をしてしまったことをひどく後悔しました。
 その時まだ実戦経験のなかった私にだってわかりました。目の前に敵が迫っている中、仲間を助けて自分も助かるだなんてそんな余裕あるはずがないと。
 それでも兄を助けてくれたSという男に心から感謝しました。
「し、死が間近に迫ってきてお前の顔が浮かんだんだ……。お国のために死を覚悟して戦地に来たというのに、どうしてもお前にもう一度会いたいと……。お前に会わずにこんなところで死にたくないと」

 ですが帰って来てからも、仲間の、恋人の命を犠牲にして、自分だけが生き残ってしまった罪悪感に兄は苛まれていました。
 そしてその愛を裏切る実の弟への許されぬ不道徳な感情。兄を取り巻くすべてものに押しつぶされそうになっていたのです。
 そして戦地でのSとの関係を思い出し、少しでも罪悪感を和らげようと、彼と共にフィリピンから帰還し、普通に別れたのだという虚構に取り憑かれたのでした。

 兄のような症状が他にもあったのかどうか、当時の日本軍の資料のほとんどは焼却処分されているらしく私も詳しくはわかりません。ただ、死者との対話というのは戦争神経症ではよくある症状のようです。

「弱い兄貴ですまない。こんな兄貴で……。日本国男児として、お国の為にお前を笑顔で送り出さなきゃいけないとわかっていても、どうしてもできないんだ……」
 兄は泣きながら私を抱きしめました。
「兄さん、俺は帰ってくるよ。必ず、兄さんの元へ……」

 ***

「そう言って私は翌朝、出兵しました。どこからか軍艦マーチの笛の音が聞こえていましたよ」
 老人はそう言って笑った。

「……無事に生還されて本当によかったです……」
 昼間話してくれた壮絶な戦争体験に加え、赤裸々な同性愛の告白に私は言葉に詰まった。
「善悪なんてものは、時代や立場が変わればひっくり返る。信じているもの、見えているものですら誰かの思惑で作られたもので、ある日突然嘘になることだってあるんです。それでも変わらないもの。心から信じられる『救い』があるっていうのは何事にも変え難いものだって思うんですよ。心の支えっていうのかな……」

 老人は手の中のグラスを見つめながらため息をついた。氷はすっかり溶けてなくなっていた。
 俺もひどく喉が渇いて、炭酸が抜け、ぬるくなってしまったビールを飲み干した。
「長々と年寄りの思い出話に付き合ってくれてありがとう。ここは私が……」
「あ、いえ、そんな」
 だが老人は俺の分も支払いを済ませるとさっさと店を出ていってしまった。
 左手に杖。足を引きずっている。
 俺は(おや?)と思った。足を引きずっていたのは兄の方ではなかっただろうか?
「……今の話、記事にはしないよね?」
 マスターが尋ねた。
「はは、さすがにできませんよ。赤裸々すぎて……」
「よかった。……彼の弟さんね、どうやら終戦直前のフィリピン戦線へ派遣されたらしくて、その……戻ってきていないらしいんだ」
「……え?」

 俺の視界がぐらりと歪んだ。
 異様に喉が渇く。
 先程飲んだビールのグラスに泡がへばりついている。
 まるでそれが自分の喉のようだった。
 その泡が膨張し、俺の器官を塞ぐような息苦しさを感じた。
 空調が効いているはずの店内がやけに蒸し暑い。
 冷蔵庫のモーター音が蝉の鳴き声に聞こえてきた。
 これじゃまるで――熱帯の、あの島みたいじゃないか。

(おわり)

 
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