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メリバ小説部門 選考通過作品 『また あの縁側で「おかえり」と言って』

2025/11/07 16:00

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『また あの縁側で「おかえり」と言って』作:一宮よう

 

 

あらすじ
戦争の色が徐々に濃くなりはじめた日本。たった一人の肉親である祖母を亡くし後悔を抱える朝輝(あさき)のもとに、大柄の若い日系のアメリカ人が訪ねてきた。
トミーと名乗るその人物は、祖母の知り合いだという。
どこで知り合ったのか疑問を持ちつつ、トミーのある言葉で一緒に暮らすことに。最初は警戒していた朝輝だが、植物が好きでいつも朗らかなトミーと生活を共にするうちに、少しずつ心を開いていき――

 
 

1941年6月。数日ぶりに晴れた日だった。
でも梅雨のじっとりとした不快な暑さが、仕事を終えた帰宅の足をさらに重くする。
――ばあちゃん、ごめん。
ずっと、ずっと心の中を渦巻く後悔と懺悔。
斜め掛けの鞄のひもを握る手に力がこもる。
今日は、ばあちゃんが死んで初めての出勤だった。
ずっと一人で俺を育ててくれた大切な人。胸が痛いほど締めつけられるけど、葬儀の時から涙は出なかった。当然だ。だって涙を流す資格なんて、俺にはないのだから。
――ごめん、俺と一緒に暮らしてたばっかりに……。
ばあちゃんが死んだのは、俺のせいだ。


暗く淀んだ感情とはうらはらに、帰路は夕方にはまだ早く、近所の子ども達が河原で遊んでいる。
亡くなって49日は、魂はこの世とあの世をさまよっているという。
こんなことを願える立場じゃないのは分かっている。でもばあちゃん会いたい。幽霊でもいい。もし近くにいるのなら、会って、ばあちゃんに謝りたい――。
カサリ。
自宅の前に差し掛かった時、人の気配を感じた。頭一つ分以上高い垣根の向こうにある、ちょうど縁側のあたりに。
「……ばあちゃん?」
縁側に腰かけ、ザルの上で野菜や野草を処理しながら「おかえり、朝輝(あさき)」と出迎えてくれた、やわらかい笑顔が浮かぶ。
さっきの音はもしかして。
否定する冷静さは失っていた。
「ばあちゃんっ」
急いで門を抜け玄関の左側に向かう。数本の竹の支柱を伝いはじめた朝顔のつるが見える。その後ろ、縁側に積まれた、朝にはなかったはずの野草。
そして、
「おかえり」
と。
けれどそこにいた人物に「は?」と声を発したまま、俺の体は固まった。
パーマみたいにくるりと跳ねた濃い茶色の髪。日本人には見えない彫りの深い顔。そして俺を見つめる、緑色の瞳。
誰だ。
見知らぬ男が、持っていた草を脇に置いて立ち上がった。
でかい。
俺が小柄なせいもあるけど、それにしてもでかい。
身長も、肩幅も、手も、何もかも。
――敵国人。
いや、まさか。頭をよぎる不穏な言葉をかき消すような、目じりの垂れた人懐っこい顔でまた口を開いた。
「おかえり、アサキ」
「!」
なんで俺の名前……、しかも呼び捨て!? 混乱する俺をよそに、目の前の不審者が忌中札を貼った玄関の方に視線を向けた。
「ユリエさん、亡くなったの?」
こいつ、ばあちゃんのことも知ってるのか? というかばあちゃんに若い外国人の知り合い? 俺の5、6歳上くらいだろうか。

色々驚きすぎて見落としてたが、不審者は俺と同じ茶褐色の国民服を着ていた。ということは見た目は外国人だけど、日本人……なのか? 言葉もまあ流暢だし。
「おクヤみ申し上げマス」
眉を下げ、悲しそうにそいつが頭を下げた。
いや、そもそも、
「お前誰だよ!」
やっと金縛りから解け、声がでた。
「トミーだよ」
「いや誰だよ」
トミーだよじゃねえ。
食いつく俺に目を細め、人懐っこそうに笑う。
「トーマス・フジサワ・スミスです。みんなからはトミーって呼ばれてるから、アサキもそう呼んでネ」
「いや呼んでねって友達でもねえのに……、ん? トーマス……、トミー、フジサワ……」
どこかで聞いたことが……と思った瞬間、ばあちゃんの声が甦った。
――来週ね、富ちゃんが来てくれるって。おうちお掃除しないとね
――富ちゃん?
――そうよ、藤沢さんちの富ちゃん。久しぶりだから楽しみだねえ
その時はばあちゃんの古い友人だと思って「ふーん」と流した。けど、もしかしてこいつが、
「藤沢さんちの、富ちゃん……?」
緑の瞳がきらきらと輝く。
「That's right!」
ばあちゃん、一体どこで知り合ったんだ?



こいつがばあちゃんの知人らしいということはわかった。が、俺にとっては全く知らない男だ。
「あの、お線香、イイですか?」
こう言われたが簡単に家にあげても大丈夫だろうか。
迷っていたら、隣の家から視線を感じた。男の子が不思議そうに俺たちを見ている。確か5歳くらい。庭先でもめてるのを親に知らされ、憲兵でも来たらやっかいだ。
それに、と思い直した。もしこいつに金品や命を狙われたとしても、どうせ俺は一人だ。ばあちゃんを死に追いやった張本人。奪われて惜しい命じゃない。
あと、こいつがばあちゃんを訪ねてきた理由も、どこで知り合ったのかも気になる。
お線香くらいなら、と玄関に通した。

「というかおまえ、何でズボン草だらけなんだよ」
「Oh、ゴメンナサイ。夢中でコレ採ってたカラ。あと、オマエじゃなくてトミーです」
夢中で……。なんだこのおっとりした大男は。巨体をかがめて野草採りに熱中する姿を想像して頭を抱えた。よくこのご時世に通報されなかったな。
トミーが縁側で処理し、新聞にくるんだ野草を土間に置いた。
外でズボンを払って戻り、線香をあげ終えたトミーに単刀直入に問う。
「えっと、トミー……ってばあちゃんとどういう知り合いなんだ」
外国人の知り合いなんてなく、はじめて呼ぶ名に言葉が詰まったが、トミーと呼ぶと翡翠のような目がぱっと輝いたのがわかった。なんだか調子が狂う。
ちゃぶ台に向かい合って座るトミーが、鞄から封筒を取り出した。
「これ……ばあちゃんの字」
ズキリ、と胸が軋む。手にした封筒が震える。
裏返すと、ばあちゃんの名前とここの住所が記してあった。
表側の宛先に全く心当たりはないけれど、宛名の名字が藤沢ということはトミーの親族だろうか。
「ボクのおばあちゃんと、ずっとブンツウ?してたみたい」
トミーのおじいさんが日本人で、日本に家族で駐在していたアメリカ人女性と結婚した。のちのトミーのおばあさんとなる人だ。
今トミーの両親はアメリカ暮らしだが、自分の子どもには自国だけでなくルーツである日本も知ってもらうため、トミーは小学校に上がるまで両親と一緒に祖父母宅に住んでいたらしい。
だから日本語が話せるのか。
そして数年前、おじいさんの仕事を手伝うため、再び日本で暮らし始めたとのことだ。
「ボクも日本に来てから、おばあちゃんがユリエさんにお返事書くとき、お手紙入れされてもらってて」
何でトミーのおばあさんとうちのばあちゃんが文通するようになったのか、そしてなぜトミーもその文通に加わったのか。その疑問は、トミーが封筒の中から取り出した一枚の写真により引っこんでしまった。
「これ……」
何年前のものだろう。
就職するとき記念に、と写真館で撮ったばあちゃんとの写真だった。短い黒髪で、猫のように丸っこい目をした緊張顔の俺と、よそ行きの着物姿で椅子に座り髪を後ろでひとつに整えたばあちゃんが写っている。
「ユリエさんが『朝輝だよ』って送ってくれて」
だから俺の名前を知っていたのか。
ばあちゃんがまだ生きていた1週間前と変わらない、やさしい笑顔がそこにあった。
喉が詰まり、苦い物が込み上げる。手が、身体が震えた。
ばあちゃん……。
後悔、懺悔、そして恋しさ。
混沌と渦巻く感情にうつむいていた俺は、気づいたらトミーのぶ厚い胸に抱かれていた。
「アサキ……」
しかも幼子にするように、ゆっくりと頭を撫でられながら。
初対面の、しかも相手は大きな男なのに。嫌悪するどころか、泣きだしたいほどの安心感が溢れる。ばあちゃんの客相手に。
このまま身をゆだねてしまいそうになる自分がこわい。
だから、そろそろ暗くなり帰宅が困難になる、もう平気だから、とトミーの胸を押して離れようとした時だった。
「もう大丈夫だよ。これからはボクがいつも一緒に居るよ」
「…………は?」
「実はユリエさんにね、」
俺としっかりと目を合わせたトミーが、満面の笑みで告げた。
「下宿しない? って言われてたカラ」
「!?!?????」

トミーとの同居生活がはじまったのは、日本がアメリカの真珠湾を奇襲し大東亜戦争へと突入する、約半年前のことだった。



トミーに対して、気にくわないことがいくつかある。

その一、完璧すぎる家事。
掃除に洗濯、畑仕事はもちろん、朝晩のご飯だけでなく弁当まで持たせてくれる。しかもなぜか野草に詳しく食べたことのない草が毎日食卓に出てくるが、どれも文句のつけようもなく旨い。ちなみにトミーと初めて会った日の夜は、夢中で摘んだという葛(くず)のつるで天ぷらとおひたしを手早く作ってくれた。客なのに。
そしてトミーの料理は、少しばあちゃんの味に似ている。甘めの味付けだ。手紙を通じて知ったのだろうか。

気にくわないことその二、やたらと距離が近い。
アメリカ人は体への接触が多いと聞いたことがあったけど、ふつう初対面で抱きしめるか? 今思い出しても恥ずかしくて顔から火が出る。しかも初日なんか「おフトン隣に敷いてもイイ?」なんて言ってきた。即ばあちゃんの部屋に行かせた。空き部屋なんてないし、ばあちゃんは俺の部屋にトミーを寝かせるつもりだったのだろうか。 
朝は「今日もガンバッテ」とか「イッテラッシャイ」と隙をついて抱擁してくるし、「ツユクサの葉っぱ、ついてるヨ」と頬に触れてくる。接触に慣れてない生まれも育ちも日本である身としては、心底心臓に悪い。

気にくわないこと三つめ、縁側で出迎えてくれること。
ばあちゃんがしてたみたいに縁側で作業しながら、いつも帰りを待っていてくれる。そして俺が門をくぐるとパッと顔をほころばせ「おかえり、アサキ」と嬉しそうに近寄ってくる。
自分で言って悲しくなるが、俺は優しい人間でも会話が面白いわけでもないつまらない性格だ。なのに、トミーに尻尾が生えてたらブンブン振ってそうなほど喜んでいるのがわかり、こちらが恥ずかしくなる。

そして一番気にくわないのは、毎日温かくておいしいごはんでお腹を満たされ、縁側にトミーの姿を見つけて一瞬でも嬉しく思ってしまう自分が、一番気にくわない。



「アサキ起きて! 咲いたよ!」
「んー……もう朝……、うわあっ!」
重いまぶたを開けると視界いっぱいにトミーの顔が現れた。
「近い! ……うぐっ」
胸を押して体を押しのけようとしたら、逆に思いきり抱きつかれてしまった。無邪気なぶ厚い胸板に圧迫され、ほどこうにも全く身動きがとれない。寝起きの心臓に悪すぎる。
「ボクたちの家のもやっと咲いたよ」
「咲いたって、何が」
隣の家のは1週間前から咲いてたんだけどネ、と浮足立つトミーに手首を掴まれ縁側に連行された。
「アサガオだよ!」
瑞々しい若葉を茂らせるつるに、赤い花が一つだけ、ぽっと控えめに開いていた。
「ねえアサキ、このアサガオって苗を植えてるの?」
「ん? いや、いつも落ちたタネがそのまま育ってるだけだけど」
毎年自然に落ちたタネが発芽し、初夏に間引いて少し肥料をやり、5、6本細長い竹の支柱を掛けてるだけだ。記憶が正しければ、俺が物ごごろついた幼い頃からずっと。
いつもばあちゃんが水をやっていたけれど、今はトミーが世話してくれているのだろう。
「アサキが子どものころからあるの?」
「そうだけど……もしかしてうちの、珍しい品種とかなのか?」
どこにでもある普通のアサガオに見える。
「ううん、そうじゃないけど」
そうつぶやくと細めた翡翠色の目をきらめかせ、壊れ物にでも触るように花に触れた。やさしく、そして愛おしそうに。
初めてみるトミーのそんな顔に、どういうわけかチクリと胸が引っかかった。



庭のアサガオが彩り豊かになった7月の下旬、この世に魂が留まれると言われている期間、ばあちゃんの49日が終わった。
朝早く涼しい時間に2人で家を出た。そして予想通り、やっぱりやられた。夏の天敵、蚊に。
毎年お盆の墓参りもそうだけど、いつも必ず狙われる。そして水を張ったバケツを持って隣を歩くトミーは、ばあちゃん同様なぜか全く刺されていない。くっそう。
掻いたら掻いたで傷になり治りが悪くなる。一番いいのは漢らしくジッと耐えることだけど、痒いものは痒い。紛らわすため刺された手の甲をこっそり引っ張っていると、トミーが草むらに入り何やらちぎって来た。
「オーキュー処置だけど」
「……オオバコ?」
野草博士の手には、よく食卓にものぼる濃い緑の葉が何枚も握られていた。
「本当はね、すりつぶして使うんだけどね」
と持ってきた水でサッと洗うと、葉を擦り合わせ、白っぽく膨れた患部に貼りつけてくれた。虫刺されやすり傷に効くらしい。

一緒に暮らすうちに、少しずつトミーのことを知った。
日本人のおじいさんが漢方医だからトミーも植物や薬草に詳しいこと、でも植物を好きになったのは幼い頃のとあるきっかけであること(でもどんなきっかけか尋ねても、照れ笑いではぐらかされた)。
うちに来てから、土手や原っぱ、時には庭で採取した植物で色々な薬を作っている。ヨモギの整腸薬やシソの咳止め、セリの解熱薬に南天の葉のうがい薬など。そして俺のわずかな体調の変化を目ざとく見抜いては処方してくる。きのうなんか顔を洗って拭いているとヌッと背後から現れ、緑の目を妖しく光らせながら「よくキくよ」と突然おでこにベチャっと何かを塗られた。桜の樹の皮を煮出したおでき用の薬らしいが、トミーの診断通りおできは1日で引っこんでいった。

墓石を磨き、花を供え、線香を束ねるテープをほどき火を点けた。物悲しい独特の香りと煙がゆっくりと立ちのぼる。束を線香皿に寝かせ、手を合わせた。
線香の煙は、故人に墓参りに来たことを知らせるという。
ばあちゃんはもう彼岸に行っただろうか。無事にじいちゃん達に会えただろうか。
ぐ、と胸が締めつけられる。
俺のせいで死なせてしまった。
本当だったらまだこの世にいて、俺とトミーと3人で暮らしていたはずなのに。
ばあちゃんが死んだ日のことが甦る。
あの日仕事から帰ると、ばあちゃんは布団の中で冷たくなっていた。
「俺のせいで……」
「アサキ?」
「え?」
トミーの声ではっと我に返った。
「どうしたの?」と心配そうにのぞき込んでくるトミーに顔をそむけ「なんでもない」と濁すと、それ以上深追いしないでくれた。
「ねえ、ここにはユリエさんと、他には誰がねむっているの?」
墓を見つめながらいつもの穏やかな顔でトミーが訊ねる。
「じいちゃんと……母ちゃんと父ちゃん」
じいちゃんは俺が生まれる前に亡くなった。だから俺が生まれてからは、ばあちゃんと両親の4人暮らしだった。でも父ちゃんは仕事中の事故で死に、その時妊娠していた母ちゃんは体調と精神を崩し、回復することなくこの世を去った。俺が5歳のときだった。
トミーが墓の前にしゃがみ、手を合わせる。
「ありがとうゴザイマス」
「ありがとう?」
「うん。アサキに出逢わせてくれて」
なんで俺なんかと出逢えてありがとうなんだ。訳が分からない。
トミーから与えられるものは多いけれど、間違っても感謝されるようなことは全くしていない。それに……と、ばあちゃんの顔が浮かぶ。
「俺なんか……」
トミーが立ち上がると、俺がいつの間にかきつく握りしめていた拳を大きな手で包んだ。
「アサキはとっても、とっても優しいよ。それに頼もしいし」
「んなわけないっ」
優しくて頼もしい? だったら、
「だったら、ばあちゃんは死ななかった……」
ばあちゃんの眠る墓の前で、悲痛な、かぼそい声がこぼれる。
「俺のせいで死んだんだ。俺が、俺があの日、仕事に行ったから」
梅雨に入るか入らないかという、暑さに身体が慣れていない時季だった。
ばあちゃんが体調を崩した。2日経っても微熱が出ていたが、「これくらいの熱なんか大丈夫よ。朝輝、仕事遅れるからいってらっしゃい」という言葉に甘えて出勤した。
そして、帰宅すると布団で冷たくなっているばあちゃんを見つけた。
「風邪ひいてたのに……、ばあちゃん、最期は独りで……」
苦しかっただろう。心細かっただろう。俺が優しくて頼もしかったら、弱っていたばあちゃんを一人になんかしなかった。そばで看病してたら、せめて出勤前、隣家にひと言でも声を掛けていれば、ばあちゃんは助かったかもしれない。
5歳で両親をいっぺんに失った俺を一人で育ててくれた、大切で、かけがえのない人なのに。
「亡くなったのはアサキのせいじゃないよ」
最初に会った日のように、トミーの腕がやさしく俺の体を抱きしめた。毎朝の突撃する不意打ちの抱擁ではなく、心をゆるしてしまいようになる、そんな温かい抱擁。
「ユリエさんの部屋におクスリの袋があったよ。アサキ、お医者さんに連れて行ってたんでしょ?」
医者に行ったのは風邪をひいたその日だけだ。
「……行った。でも、もう一度病院に行ってたら、無事だったかもしれない」
あの時こうしていれば、ああしていれば。後悔が後から後から湧いてくる。
「俺なんかが……」
俺なんかが孫だったばっかりに。
抱きしめられたまま俯くと、トミーの手がゆっくりと後頭部を撫でた。落ち着かせるように、慈しむように。
「ねえ、もしアサキが逆の立場だったら、ユリエさんのこと恨む?」
恨む理由がない。ばあちゃんは俺を育ててくれた恩人だ。でも、俺は恩を返すどころか仇で返した。取り返しのつかない残酷な仇で。
「ユリエさん、アサキと一緒に暮らせてシアワセだって手紙に書いてあったよ」
「そんなわけ……ないだろ」
女手一つでとても苦労したはずだ。
「息子さんとお嫁さんが亡くなってつらかったけど、アサキがずっとそばに居てくれてシアワセだ、って。小さい時も学校から帰ってきたら遊びにいくより家の手伝いしてくれて、優しくて、頼もしくって、って」
ばあちゃんしか居ないのにそんなこと当然だ。優しさや頼もしさ以前に、生きるために必要なことだった。
「だからボクも『そうですよね、わかります』って返事したんだ」
……は?
「なんで『わかります』になるんだよ」
バッと顔を上げるとトミーの顔があまりにも近くにあって、反射的に体を押しのけてしまった。
「いつ気づいてくれるかなぁって思ってたんだけど」
「……どういうことだ?」
「あのね、小さいころ、アサキがボクを助けてくれたんだよ」


――まだボクとダディとマミーが日本でおじいちゃんと一緒に住んでた時なんだけどね。
漢方の仕事でおじいちゃんがこの町に来たとき、ボクも付いて行ったんだ。小学校に入るタイミングでアメリカに戻るのが決まってたから、旅行も兼ねてね。
おじいちゃんが仕事でどうしても外せなかった時、ボク一人で待ってたんだ。訪問先の門から出ないようにって言われて敷地を探検してたんだけど、門の外に見たことない植物がいっぱい生えてるの見つけて、ほんのちょっとだけ、すぐ戻るから……ってこっそり出ちゃって。図鑑でしか知らなかった植物がずっと道に続いてて、もうちょっとだけ、仕事終わるころには戻ってるから……って夢中になってたら、遠くまで行ってたみたいで。
もうどうすればいいか分からないし、約束やぶったボクをおじいちゃんは置いて帰ってるかもって思ったら、すごく不安で、怖くて。
そんなときアサキが「どうしたんだ」って助けてくれたんだよ。

思い出した。というより、はっきりと覚えている。
両親を亡くしたばかりの頃だった。道端で一人しゃがんで肩を震わせ泣いている小さな子が自分自身にも重なり、見て見ぬふりなどできなかった。
西洋人形のようにふわふわの髪をした、色白で細っこい子。声をかけると、パッと俺を見上げた顔に胸がドキドキと速くなった。長い睫毛に縁取られた大きな目は涙に濡れ、緑の瞳は宝石のようにきらきらと輝いていた。
そう、俺よりも華奢で、儚げで、肌は透き通るような白で、
「ずっと女の子だと思ってた……」
トミーの顔をじっと見る。面影、どこだ?

ずっと聞きそびれていた文通の謎も解けた。
「そうか、それでトミーのおばあさんとうちのばあちゃん」
「そうだよ」
祖母同士の文通が始まったのか。ばあちゃんが成長した俺の写真を入れた理由も、遊びにおいでと誘ったわけも、トミーがばあちゃんに手紙を書いたことも納得した。
俺宛てに書かなかったのは、もし忘れられていたら悲しくなるから、らしい。
「アサキのおかげでボクは救われたんだよ」
迷子だとわかり、とりあえずばあちゃんに相談しないと、と家に連れて帰り、お腹を空かせていたトミーと一緒に昼ご飯を食べた。それと、その子の笑った顔がパッと花が咲いたように、とても、とても可愛らしかったことも覚えている。恥ずかしいから絶対にトミーに教えないけど。
「ボクが外国人だったからかな、泣いてても誰も助けてくれなかった。アサキだけだったんだよ」
でも『だから俺は優しくて頼りになる』なんて、過大評価だ。
「俺なんてって言葉、もう使わないで。ユリエさんだってボクだって、アサキのことが大好きなんだから」
トミーが俺の両手を握る。大きな手に包まれた両手は、心の温度まで変えそうなほど温かい。
「アサキと一緒に暮らせて、とても幸せだって言ってたのわかるよ」
トミーの手に力が入る。
「ユリエさんは絶対に恨んでない。アサキがいて、幸せだったんだから」
不意に視界が歪んだ。かと思うと、頬を滴が伝っていた。
涙だった。
泣く資格なんて無い、と凍てついていた涙が、トミーに温められ、解かされ、とめどなく零れ落ちる。せきを切ったように泣く俺を、トミーは何も言わず、また優しく抱きしめてくれた。


「カッコよかったなー、アサキ」
出逢った時のことをいつまでたっても思い出さなかった俺にやっと明かせたトミーは、墓参りの帰り道でも嬉しそうに話した。
というかトミーが1歳年上という事実に驚きを隠せない。昔は年下の女の子だと思っていたし、今のトミーは5、6歳上だと思っていた。
「迎えが来てもう帰るってなった時のこと、覚えてる?」
確かご飯を終え、庭でケンケンパをした後、縁側に並んで座りスイカを食べている時だった。屋根までのびたアサガオの影が少し汗ばんだトミーの体にも落ち、ずっと前から友達だったような、あしたもあさってもずっと一緒に遊べるような、そんな幻覚を抱いていた。
誰が駐在所に届けたのかその辺りは記憶にないが、まだ日が明るかったのは覚えている。
もっと一緒にいたかった。家族が見つかって良かったけれど、歩いて行けないくらい遠くに住んでるのは知っていたから、別れがすごくさみしかった。
「おじいさん、すぐに駆け寄って抱きしめてたな」
そのあと俺とばあちゃんに何度も何度も頭を下げてお礼を言って。
「それだけ?」
「ん? その後すぐ帰っただろ」
「そうだけど、やっぱり覚えてないかー。アサキ、王子様みたいにカッコよかったんだよ」
「はあ?」
華族で金持ちなわけでもない。世の王子様がどんな振る舞いをするか分からないが、全く心当たりがない。
「アサキとバイバイしたくなくてボクが泣いてたらね、」
おじいさんと手をつないだトミーは、道端で見つけた時のようにまた大粒の涙をこぼしていた。俺は、年下の女の子の前で泣いたらだめだと下唇を噛み、拳を握りしめていた。でもその後なにかあったか?
ふふふ、とトミーが含み笑いをする。
「アサキがね、ボクの髪に花をさしてくれたんだよ」
「なっ、そんなことしたか!?」
「したよー。縁側の赤いアサガオを摘んできてね、「また絶対に来いよ」って耳の上にさしてくれて」
……恥ずかしすぎる。記憶に全くないけれど、嬉しそうに話すトミーの顔をみると事実なのだろう。
「それからアサガオが一番好きな植物になったんだ。だからいま家で咲いてるアサガオもあの時の子孫なんだって知って嬉しくて」
そうか、だからあの朝すごい勢いで起こして縁側に引っ張っていったのか……と思い出し、愛おしそうに花弁に触れていた理由がわかり、ほっと安堵した。いや、ほっとって何だ? そんな自分に戸惑っていると、トミーが不思議そうに顔を覗き込んできた。
「どうしたの、アサキ」
「な、なんでもないっ。というかお前、子どものころと変わりすぎだろ」
勘づかれないよう話を逸らす。でも実際、ウエーブのかかった髪と緑の瞳以外、別人だ。
へへへ、とトミーが照れ笑いする。
「アメリカで山とか原っぱにしょっちゅう入ってたから体力も筋肉もついたしね。植物のこといっぱい勉強してゼッタイ日本に戻る、アサキに会うって毎日思ってたから」
俺に会うためにと言われて嫌な気はしないけれど、もう10年以上も前に会ったきりだ。体格もずいぶん違う。
「今は王子様みたいじゃないけどな。肩透かしだろ」
「そんなことないよ。ボクはずっと、今もアサキが大好きだよ」
俺に言い聞かせるように澄んだ緑がじっと見つめる。
友達としての好きだ。感情を直球で伝える文化の違いだとはわかっている。
「ねえ、アサキは?」
「はあ!? んなこと」
日本人は友達、とくに男同士では、仲が良くても直接的な言葉にしない。
だから初めて「好き」だと言われ、顔が急激に熱くなるのを自覚し、余計恥ずかしさが増した。文化の違いはやっかいだ。
トミーと暮らしはじめた時なら即「好きなわけねえだろ」と言えてたはずなのに、どういうわけか否定の言葉を口にできない。
「んなこと訊くな。知らねーよ」
と濁すことしかできなかった。そんな俺の気も知らないで、手を掴まれる。
「お、おいっ」
「アサキ」
と手をすくい上げたトミーの、真剣な眼差しが俺を射貫く。ばくばくと痛いほど鼓動する心臓。
「ここ、外――」
「刺されてるよ」
「へ?」
持ち上げた手の甲を指さす。オオバコで痒みの引いていたすぐ近くに、新たな膨らみがあった。昔話が衝撃的すぎて、刺されたことに気づかなかった。
手にじわりと汗がにじむ。墓参りの前に握られた感覚とは、全く違う。
「家に着いたら、すぐクスリ塗ろうね」
つながれたままの手は、ジンジンと痺れたように居心地が悪かった。



8月下旬。トミーが大切にしている縁側のアサガオは屋根まで伸び、赤や紫、水色や桃色の花を元気に咲かせ、つるの下の方では種を包んだ黄緑の実ができはじめていた。
一緒に暮らしはじめたころは毎朝の抱擁に抵抗していたが、しつこく襲われるため諦めた結果、今では「おはようのハグ」が日課になっていた。もちろん俺の方から積極的に抱きつくことはないけれど。
そして仕事が終わって帰宅すると、変わらず毎日縁側で作業しながら「おかえり、アサキ」と微笑んでくれた。幼いあの日、2人並んでスイカを食べていたちょうどその場所に座って。

でもトミーとの穏やかな暮らしとは反対に、日本は少しずつ戦争の色が濃くなっていた。
仕事で郵便物を配達しているが、町の至る所に貼られたポスターには「ぜいたくは敵だ」とか「愛國」の文字が目立つ。女性のモンペ姿も多くなった。
そして物資の不足により、去年から配給制度が始まっていた。段階的にその品目も増えている。つまり、店で買えなくなった物が増えたということだ。
生活必需品である木炭やマッチ、主食である米、それから小麦や砂糖に至るまで配給だ。そう、甘い物作りに必要不可欠な砂糖も、だ。
男のくせに、と馬鹿にされそうで、甘味が好きなことを誰にも言ってない。ただでさえあまり背が伸びず、筋肉はあっても目立たず、目も大きくて女子のようだとからかわれたことがあるからだ。
ばあちゃんは昔から俺の甘い物好きを見抜き、「たくさん作ったから」とか「ちょっと食べてみたくなってね」と色々作ってくれていた。甘味が好きだと言ってもトミーはからかわないだろう。そもそも砂糖が貴重品である今、甘い物を口にしたいなんて我儘は言えなくなっていた。

その日は珍しく「できたら山に行ってみたいんだけど」とトミーが言った。山地に生える植物を採取したい、とのことだった。自分の要求をほとんど口にしないトミーの願いを叶えてあげたい。が、当然山なんて持ってない。山を持っている知り合いを訪ねるとしても、一目で日本人ではないとわかるトミーを見て、嫌な態度をとられるかもしれない。トミーを傷つけたくない。
どうしようかと考えた末、山地に住み、配達で何度か訪ねている一人暮らしの初老の方に依頼した。出征しているお孫さんからの手紙を届けるうちに、昔大学で教鞭を執っていたこと、そして外国の人とも交流があったことを知ったからだ。

「今日はありがとうございます」
トミーが深々と頭を下げると、
「漢方学を修めていらっしゃるらしいですね。孫が兵隊に行ってしまってからはあまり手入れが行き届いていませんが、好きなだけ採取してください」
とその人は快く山道の入り口を案内し、敷地の範囲を教えてくれた。依頼したときにトミーのことを伝えていたのもあるけれど、「アメリカ人」という括りではなく「一人の人間」としてトミーを見てくれる人の存在に感謝の気持ちでいっぱいになる。
今の世の中、見た目が日本人ではない、籍が敵国だというだけで敵意を向けられる。トミー自身は何も悪くないのに、堂々と外出すらできない。だから普段食事作りで必要な物は、俺が買いに行っている。
日本が戦争さえしていなければと、決して口にしてはいけない言葉が澱(おり)のようにずっと胸でわだかまっていた。

そんな俺の気も知らないトミーは、一緒に暮らしはじめてから初めての山に、遠足に行く子どものように嬉しそうに軍手をはめている。そして「一応ね」と長い木の棒を渡してきた。
「べつにこのくらいの山で杖なんか要らねえよ」
配達で毎日何十キロ自転車を漕いでると思ってるんだ。体は小さめでも、足腰には自信がある。
「杖じゃないよ。まあアサキには必要ないかもしれないけど、念のためにね」
どういうことだ? と思ったが、トミーの予言はすぐに当たった。
野草博士と一緒に腰をかがめ、大きな葉の陰に隠れた山菜を宝物探しみたいに探していたときだった。
「え?」
ヒュッと体の横を風が切った。トミーの棒だった。
そしてその先には、褐色の細長いものがいた。
「うわあっ」
思わずのけ反る。
体には暗い斑紋。張り出したあごで、大きな三角の頭をした毒ヘビ。
「マムシ……」
背中を冷たい汗が伝う。
棒の先で釣り上げると、トミーは力いっぱい遠くに放り投げた。
「あり、がと」
全く気づかなかった。
「ふふ、どういたしまして」
「でもよく気づいたな」
地に紛れ、音もなく這うヘビは、意識していてもなかなか見つけられない。
「うーん、なんていうか、カン?」
「勘?」
「うん。小さいころから自然の中かけまわっていたからかな、なんかこう『あぶない!』っていうかイヤ~な感じするのがわかるようになって」
野生の勘だろうか。いつも野草まみれだし、体型が熊みたいだからか、何故かすんなり納得してしまう。
「アサキにも棒渡したけど、ボクが先に退治するから必要ないかもね」
危険なものを動物的な嗅覚で察知するトミー。
そうか、だから家の外で野草を採ってくる時も、うちに初めて来た日、ズボンを草まみれにして葛を夢中で採っていたと言った時も、憲兵に出くわさなかったのはトミーのそんな勘が働いていたのかもしれないな、とふと思った。

トミーについて山道をゆく。手入れが行き届いてないと言っていたが荒れてる感じはなく、緑豊かで、近所では見かけない花や木が生息していた。目当ての植物を探しているのか、左右に視線を散らしながら前を歩くトミーの背を見つめる。
墓参りの帰り、「ボクはずっと、今もアサキが大好きだよ」と言われたことがふとした瞬間甦ってくる。そして甦っては体が熱くなり、いたたまれなくなり、一人恥ずかしくなる。友達としての「好き」だから素直にありがとうと受け止めればいいだけなのに、なぜか鼓動が速くなり、甘い感情が滲み出しそうになる。 
友達としての、親友としての好意だ。
澄んだ山の空気でめいっぱい深呼吸して、身体に溜まった熱を入れ替えた。

「あ、あった! アサキ、この植物何か知ってる?」
道の斜面にきれいな紫の花がたくさん咲いていた。草丈はひざくらいで、葉はヨモギのように切れ込みがあり、花は小さな袋を逆さに何個も被せたような独特の形をしている。
「いや、知らない」と首を横に振ると「トリカブトっていうんだ」と返ってきた。
とりかぶと、とりかぶと……鳥、兜。なるほど、花が鶏のトサカに似てる気がする。葉はおひたしとかにできそうだ。
「これも食べるのか?」
「しぬよ」
「え?」
トミーがじっと俺を見つめる。険しい顔で。
「これ、食べたら、死んじゃうよ」
さあっと駆け抜けた風に、ぶるりと体が震えた。
「葉っぱも花も根っこも、せーんぶ毒。お腹すいてても食べちゃだめだよ。日本で一番毒が強い植物だからね」
恐ろしい。姿かたちを脳にしっかりと焼きつけた。
「では、今からこれを採取しまーす」
「おい!」
笑顔のトミーに思わず声をあげた。
「ふふふ、採取はするけど、漢方薬としてね」
「薬になるのか?」
「うん。しかも、毒が一番強い根っこの部分がね」
トミーが小さい頃おじいさんと出張で訪れた漢方医へ、おじいさんから仕事を引き継ぎ植物を卸しているらしい。今日みたいに植物を採ったり、家の畑でも栽培して。
トミーが出歩きにくい時勢にも配慮してくれ、受け取りには使用人が家まで来てくれているという。
「きちんと毒抜きしたら鎮痛剤になるんだけど、トリカブトは体に入った毒を消す……えーと、解毒剤! 解毒剤がないから、ほんとうに気をつけてね」
万が一口にしたら治すことができない。
きれいだと思っていた紫の小さな花が、毒々しい死の色に見えた。

トリカブトを根ごと掘り起し、休憩を挟みながら野草や山菜摘みにいそしんだ。軍手に細かい木の葉や枯草、土がこびりつき、さらに夏の暑さで手が不快になる。外して手をぶらぶら振って乾かしていると、近くにアサガオみたいな花を見つけた。
家のアサガオとは違い、花は真っ白で一回り大きく、ふちが少し尖っている。
「山にもアサガオ咲いてるんだな」
手を伸ばして近づこうとした瞬間、「だめ!」と引き戻された。反動で尻もちをつく。後ろからトミーに抱きかかえられたままで。
バクバクと胸が早鐘をうつ。またマムシでもいたのだろうか。
「あぶなかったー」
トミーが大きく息をはいた。
「やっぱりチョウセンアサガオだ」
「チョウセンアサガオ?」
慌てて引き留めたということは、
「もしかしてこれも……毒?」
トミーが後ろで頷く気配があった。
「触っただけでも危なくてね、葉っぱや茎の汁が目に入ったら失明することもあるから」
トリカブト同様根から花の先まで全てが毒で、誤って食べたら幻覚を見たり意識がなくなったり、最悪の場合死ぬらしい。
失明……。
くたりと体から力が抜けた。
「……ありがとう」
助けてくれて。
「ここに生えてるなんて思わなくて。ごめんね」
トミーが謝ることじゃない。勝手に休憩してふらっと花を見ようとした自分にも非はある。
それよりも。
「……暑いんだけど」
トミーのひざの間で、後ろから抱きしめられたままだ。
「安心したら、離れがたくなっちゃって」
トミーの声が耳をかすめ、ぞくりと体が震えそうになる。なんだこれ。
「アサキのこと、好きだから」
「……ありがとう」
火照りはじめた体を、友達として、友達として、と心の中で繰り返してなだめる。
「あ、あんまりそういうこと言うなよ。日本じゃ友達に好きとか言わねえから。……いつか、勘違いされるぞ」
戦争がおさまりトミーにもたくさん友達ができた時、好きだ好きだと周りに言っていたら本気にする人が出てくるかもしれない。
「友達じゃないよ」
「え?」
「友達じゃなくて、」
後ろから回された腕に力がこもり、俺の髪にひたいをうずめた。
「恋人になってほしいっていう意味の、好きだから」

その後、俺は何を言って何をしたのかよく覚えていない。
「あ、一番みつけたかった葉っぱだ!」
と俺の体を解放したトミーが、アジサイみたいな葉をたくさん摘んでいたことだけは、おぼろげに記憶している。



「さっきは急にごめんね」と帰り道で謝られた。
「いますぐ返事がほしいわけじゃなくて、その……つい気持ちが抑えられなくなっちゃって」とも。
どうしよう。
一緒に暮らしているのに、これからトミーとどう接すればいいんだろう。それに「おはようのハグ」はどうしよう。受け入れて大丈夫なのか? いますぐ返事がほしいわけじゃない、ということはいつか返事をしないと、ってことだけど、一般的に期限はどのくらいだろうか。 返事をするってことは、「俺も好きだ」とか「ごめんなさい」とか自分の気持ちを決めるということだし。
……どうしよう。

山からの帰り道、一人悶々と考えずっとこんがらがっていた「どうしよう」は、玄関前で突然きびすを返して走り出したトミーによって消え去った。
「おい! どこに」
「倒れてる!」
と隣の庭に駆け込んだ。
男の子が庭の端でお腹をかかえて伏せている。5歳くらいの、この家の長男だ。
「大丈夫!?」
しゃがんだトミーが抱きかかえて大きな声をかけると「う……うぅ……」と、か細い声が返ってきた。幼い顔は歪み、地面には吐いた跡があった。
玄関がガラリと開く。
「どうし……勲(いさむ)!」
モンペ姿の若い女性が慌てて駆けてきた。血の気が引き、気が動転している。
「勲……なにが……」
「お母さんですか」
トミーが物腰やわらかに尋ねる。
「は、はい」
母親はトミーとぐったりした男の子を見比べ、口を震わせている。
「大丈夫。家に運ぶから、お布団敷いてください。アサキは飲み水と手ぬぐい持ってきて」
言われたものを持ち隣家に戻ると、動揺している母親の代わりにトミーがぐずる赤ちゃんを抱っこしていた。座布団に赤ちゃんを寝転ばせると、濡らした手ぬぐいで勲の顔を拭く。
「お、お医者さんに……あ、でも時間が……」
今から診療所に駆け込んでも閉まっているかもしれない。
「ねえイサムくん」
とトミーが話かけると「ん……」とうっすら目を開けた。
「もしかして、アサガオのタネ、食べちゃった?」
「ええっ!?」
俺と母親が同時に声を出す。まさかタネだなんて。そう思ったが、布団の中の小さな頭が頷いた。
「やっぱり」
「何でわかったんだ」
アサガオの、しかもタネを食べたなんて。
「服にタネを包んでる薄茶色の皮がついてたんだ。それにアサガオの花や葉っぱには毒がないんだけど、タネにはあってね」
「まさか」
昼間の白い花が頭に浮かんだ。猛毒の。
「あ、チョウセンアサガオほどじゃないよ。吐いたり下痢したりくらい。でもたくさん食べたら幻覚が見えたり意識がなくなるから、すぐお医者さん呼ばないといけないけどね」
「あ、あの……お薬、何を飲ませたら」
母親が心配そうに尋ねる。
水を飲んで目をつむり、規則正しい呼吸をしている勲の頭をトミーが撫でた。
「安定してるし、吐いて、体が毒を外に出そうとしてるから大丈夫だよ。吐き気止めを使うより、全部出しちゃう方がいいから」
わかりました、と答えた母親の体がふっと緩むのがわかった。
夫は出征し、家事と赤ん坊の世話にかかりきりになり、ある程度自分のことができる勲になかなか注意を向けられなかったらしい。
米や砂糖は決まった量しか手に入らず、アサガオのタネが美味しそうに見えたのかもしれない。
「トミーがいて良かった」
俺だけだったら、勲の母親同様慌てていただろう。
「漢方だとアサガオのタネは下剤に使われるからね。便秘薬だよ」
いつものほんわりと柔らかい雰囲気だけれど、本当に頼もしい限りだ。


トミーに友達ができた。
仕事から帰ると縁側で「おかえり」と、友達である勲と出迎えてくれることもある。タネを飲んでぐったりしていた姿がうそのように朗らかで、互いに「イサム」「トミー」と呼び合い、一緒に遊んだり、トミーの畑仕事や野草の処理を手伝っているらしい。友達でもあり、小さな弟子のようでもあり、微笑ましい。
勲の家に野菜や薬草のおすそ分けをしたり、お返しに季節の果物をもらったりと、近所づきあいも始まった。

9月の最初の休みに、四方に伸びて枯れはじめたアサガオのつるを、トミーと勲と俺の3人で切って収穫した。まだ元気なつるは傷つけないで、でもなるべく長くなるようにね、とのトミーの指示に従い、3人で長さを競いながらハサミを入れる。
この頃になると、アサガオの下の方にはもう蕾はなく、タネばかりになっていた。
「ねえねえトミー、このつるで何するの?」
優勝した勲の茶色いつるを筆頭に、1本1本軒下に吊るしていると、勲が首をかしげた。
「これも薬になるのか?」
乾燥させて細かく切ってすり鉢で粉にして。でも予想に反して首を振った。
「ううん。これはね、編むんだよ」
「あむってなに?」
まだ吊るしてないつるを井の字に組み、隙間にもう1本つるを足して差し込み、時計回りに編み込みながら「こうやって、カゴとか作るんだよ」と見せてくれた。
サツマイモのつるでできたカゴは見たことがあるけど、今では大切な食料の一つだ。細かく切って汁に入れたり炒め物になる。
サツマイモと比べるとかなり細いけれど、目の細かい、しっかり編めばそれなりの大きさや強度のカゴになるのかもしれない。
「しっかり乾燥させてから作るんだけどね」と途中まで編み進めたトミーの作品に、目を疑った。
「かご……」
見本としてざっと作ったにしてもひどすぎる。目が大きくてまばらで、野草も長さのあるものじゃないとボロボロこぼれ落ちるだろう。
料理も上手で薬草の処理も手早くて丁寧で、だから何に対しても器用だと思っていた。
肩を震わせ笑いを堪えていたら、「これから修行する予定だから」と珍しく頬を赤くしていた。


ある日仕事から帰ると、縁側で2人が「おかえり!」と元気よく出迎えてくれた。が、顔を見合わせくすくすと笑っている。
何か隠しているのがまるわかりだが知らないふりをしていると、「はい、お茶」と勲が湯呑みを持ってきた。笑いを我慢しきれず手が震えお茶が波打っている。正体はこれか?
持ち上げると、色は麦茶よりも薄い茶色で、匂いはすっきりとした蒸した葉の匂いがする。おかしなところはない。他のことで笑っているのだろうか、と考えながら口に含むと――
「!! あまっ!」
思いがけない甘さに舌が混乱した。砂糖水ならぬ砂糖茶だ。しかもかなり甘い。
砂糖が貴重品となってからは、こんなに甘い物は風邪をひいたとか有時でないと家では飲めないだろう。
「砂糖、どうやって手に入れたんだ」
この質問を待っていたかのように、満面の笑みのトミーと勲が「これだよ」と後ろに隠していた麻袋を渡してきた。両手の大きさほどの袋を開けると、乾燥して縮れた焦げ茶色の葉が詰まっていた。茶葉だ。
「アマチャっていうんだよ」
と勲が得意げに言った。
「アマチャ……甘茶、甘いお茶、か?」
さっきは衝撃のあまり味わえなかったから、もう一口飲んだ。べたつかない、けれどはっきりとした濃い甘さが広がる。外では変な意地が先立ち甘味を買ったことがないから、こんなに甘い物は久しぶりだった。

「前、一緒に山で摘んだ葉っぱだよ」
「え、こんな黒い葉採ったか?」
全く覚えがない。
「もともとはうすい黄緑なんだけどね、水をかけて発酵させたら黒くなるんだよ。最後の方に採ったアジサイみたいな植物あったでしょ。あれがアマチャ」
アジサイみたいな葉、という説明で思い出した。俺も採ったかどうかは覚えてない。直前にトミーに後ろから抱きしめられ、告白され、頭の中がいっぱいいっぱいになっていたから。
「あれ、アサキくんかぜ? 顔あかいよ?」
「いや、なんでもない」
誤魔化さないと、と思っていたら、勲が俺とトミーを見ながら頬をふくらませた。
「ねえ、2人で山いったの? ぼくも一緒にいきたい!」
トミーに懐き最近はずっと一緒にいるから仲間外れにされた気分なんだろう。でも山にはマムシや猛毒の植物がある。蜂や猪だって出るかもしれない。トミーがいればすぐ危険を察知して逃れられるだろうけど、ふらっと俺がチョウセンアサガオに近づいたように、万が一勲に何かあったら大変だ。
「山には毒の強い花がまぎれているからね。イサムがもっと植物のこと知って大きくなったら、アサキとボクと一緒に行こう」
なだめるトミーに不服そうな顔をしていた勲は、「じゃああたらしい図鑑かして!」とトミーから本を受け取ると、「そろそろ帰るね」と下駄をはいた。いつか3人で山へ行ったら目を輝かせる2人に置いてきぼりにされるかもしれないな、と玄関を出る小さな背中を見送りながら頬がゆるんだ。

「アサキに喜んでもらえてよかった。茶葉はまだたくさんあるし、じつは挿し木でいくつか庭に植えてるんだ」
とトミーが夕食の食器を洗いながら言った。
「来年もお茶作ろうね。砂糖がたくさん手に入るようになったら、クッキーとかパンケーキとか作りたいな。あ、おまんじゅうは難しいのかな。アサキも一緒に作ろうね」
と土間から続く台所で食器を一緒に片づけながらトミーが誘ってきた。
そしてやっぱり、と確信した。
「もしかして、その……俺が甘いもの好きって気づいてたか?」
驚いて一瞬目を大きくしたトミーが、瞳を細めて微笑む。
「もちろん知ってたよ」
やっぱりか。おかずの味付けがばあちゃんみたいに甘めだしな。
ばあちゃんからの手紙で知ったのだろう、と思っていたら、意外なことを言った。
「アサキと一緒にいれば、すぐにわかるよ」
「え?」
甘味が食べたいとか、甘い物が好きだとか、一度も言ったことがないのに。
「だってはじめて野草の葉のおひたし作った時にね、眉の間にちょっとシワがあったから。でも次に砂糖多めにしたら美味しそうに食べてくれてたんだよ」
知らなかった。顔に出てたのか。
しかもはじめて葉のおひたし作った時って、うちに来て2日目くらいだろ。そんなに前から気づかれていたとは。
「いま砂糖は充分手に入らないから、甘い物はとりあえずアマチャで代用だけど」とトミーが首をすくめた。隠してた甘い物好きを当てられたのと、自分でも気づかなかった自分を見られていて恥ずかしく思っていると、
「ねえアサキ。こういうの食べたいとか、こうしたいとか、ボクには隠さないで」
と手ぬぐいで手を拭いたトミーが両手を握ってきた。途端に体が熱くなる。
「……いや、でも、男なのに甘い物が好きとか、なよなよしてて恰好悪いだろ」
「そう? ボクはあまーいお菓子大好きだよ。和菓子も洋菓子も」
と自信満々に言った。
「そりゃあお前は体も大きくて男らしいけど」
小柄で目が大きく男らしくない見た目の俺が甘い物が好きだなんて、いよいよ女みたいだとからかわれる。
「性別も見た目も関係ないよ。でもそうだよね、日本だと男はこうあるべき、っていう考えがあるもんね」
泣くな、弱音をはくな、お国の為に強くなれ。男らしさは学校教育でも常に求められてきた。早くに父親を亡くしていたから経験はないけれど、父親や祖父、おじのいる同級生の家では、日常生活の中でもそう言われるといっていた。
「でもね、ボクの前では、頑張らないそのままのアサキでいてほしいな。外で頑張ってるぶん、ボクといるときはリラックスしてほしいし、アサキのしたいことや好きなことを教えてほしい」
手を握られてる時点でリラックスからは程遠いけれど。
「ボクは、アサキにとってやすらげる場所になりたいから」
そう微笑むトミーに、胸の奥がじわりと温かくなった。
肩ひじ張らないでやすらげる場所。
俺もトミーにとって、そういう場所になれているだろうか。
「……今度、帰りに和菓子買って帰る」
精一杯そう呟いた俺の言葉に、「本当!? ありがとう、アサキ」と宝石のような瞳を輝かせて喜んだトミーの顔を、俺は一生忘れなかった。
結局、その約束を果たせなかったからだ。



今日は目当てにしていた和菓子屋が定休日だった。明日は仕事が休みだから、あさっての帰りにまた寄って帰ろうか。砂糖は配給制になったけど、和菓子屋はまだ営業を続けていた。

家が見えはじめた時、垣根の前に10歳くらいの男の子たちがいた。数人が簡素な木の台に乗って家を覗いている。
胸がざわめいた。
まさか……と駆けだそうとした時、一斉に腕を振り上げ何かを投げた。
石だ。
「スパイめー!」
口々に「スパイ!」と大声で叫び、腕を振り上げる。
「おいっ!!」
声を荒げると「わーー」と慌てて走り去っていった。
「トミー!」
いやだ。
心臓が痛いほど打ちつけ、うまく息ができない。
何でトミーが……!
トミーはアサガオの前にしゃがんでいた。
「トミー……石……」
声が震える。トミーの肩に置いた手がガクガクと震えた。
「おかえり、アサキ。大丈夫だよ、ちょっと切れてるだけだから」
心配しないで、と微笑む。けれども、右の頬を押さえた手の間からは、血が滴っていた。

町では、アメリカに対して耳を塞ぎたくなる言葉を聞くようになった。『スパイから皇土を護れ!』という強烈なポスターも貼ってある。
一方で勲や勲の母親のように、トミーを国籍ではなく一人の人間として接し、好感を持ってくれる人がいる。近所の人も、穏やかで博識で慈愛に満ちたトミーという人物に触れれば偏見がなくなるはずだ。たとえ籍は敵国であっても。
そう思っていたのに。

トミーの頬を洗い、トミーの薬箱から「キズ ヌリグスリ」と書かれた薬を塗っていると涙が滲んできた。
悔しい。
トミーのことを何も知らないで傷つけるやつらも、トミーのやすらげる場所になりたいと願ったのに、やすらぐどころか痛い思いをさせてしまった自分自身にも、悔しくて、腹が立って、どうしようもなかった。
「軽いケガだから心配しないで」
とトミーが、固く握りしめた俺の拳をやわらかく包む。
「……なんでよけなかったんだよ」
危険を察知できるはずなのに。子どもからの敵意にも気づいていたはずだ。
「アサガオを守るためか?」
しゃがんでいたトミーの後ろにはアサガオがあった。
「トミーがアサガオを大切に思ってるのは知っている。でも俺は、お前が傷つけられる方がいやなんだよ」
「……ごめんね、心配かけて」
目に涙をいっぱい浮かべる俺を、トミーが抱きしめた。
あたたかい。
トミーの体温に、こらえきれなかった涙が頬を伝った。
トミーは、ただ植物が大好きな、普通の人間なのに。
戦争なんか早く終わってほしい。
俺はただ、トミーと2人で、穏やかな日常を送りたいだけなのに――。

「好きだ……」

ずっと一緒にいたい。トミーの料理が食べたい。隣で笑っていてほしい。
そして仕事から帰ると、「おかえり」と縁側で出迎えてほしい。
「トミー、好きだ」
腕の中で呟くと、トミーの体が強張るのを感じた。
「アサキ……」
トミーの声が震える。
「アサキ……それは、どういう意味の……」
家族愛でも、親友としての愛情でもない。
心の奥で芽生えていたものが何なのか、今、やっとわかった。
山で告げてくれたトミーの言葉を借りるなら、
「恋人になってほしいっていう意味の……だ」

「アサキ……アサキ……」
トミーの顔を見ると、ぼろぼろと涙を流していた。
「お、おい」
「だって……うれしくて……」
涙に濡れた瞳は、幼い頃迷子になり、そして別れ際の瞳と同じ色をしていた。
でも今はそこに寂しさではなく、あたたかい色が混じっている。
「アサキ……ありがとう、アサキ」
俺のひたいにおでこを合わせて「ボク、すっごく幸せだ……」とささやいた。
トミーの大きな手が、俺の頬を包む。
その距離の近さに、手をあてなくても自分の顔が赤いのがわかった。
近すぎないか? いや、でも毎日抱きしめられてて、手も何回もつながれてて……まてよ、そうなったら次は、と思い至り飛びのいた。
「ちょ、待っ、今! 今気持ちに気づいたばっかりだから!」
接吻はまだだめだ! というかいつかするのか? そりゃそうだよな、こ、恋人になったんだから。
山で告白された時みたいに、頭の中がぐるぐるこんがらがって発熱しそうだ。
「そっか、そうだよね」
とすんなり離れてくれた。が、とんでもないことを言われた。
「ボクはいつでもキスしたいから、アサキの心が大丈夫になったおしえてね」
と。
どういうことだ?
「来週接吻しよう」とか「よし、口づけしたい気分になった」とか伝えるのか?
いや難題すぎるだろ。
心の中で悶えていると、おもむろに手をすくいとられた。
そして「アサキ、大好きだよ」と甲に口づけを落とされた。



朝が来た。
トミーと恋人になってまだ十時間ほどしかたっていない。そして今日は仕事が休みである。しかも頼みの綱である勲は、母親と下の子と一緒に母親の実家に帰省している。
というわけで、今日は一日中トミーと2人きりだ。
どうしよう、どんな会話すればいいんだよ……と枕に顔をうずめる。はあ、と漏れるため息が熱い。それに会話もだけど、日課の「おはようのハグ」がある。ハグ、するんだよな?

とりあえず寝たふりするか、と布団にくるまっていると、味噌汁と焼き魚の香ばしい匂いがただよってきた。
なかなか起きてこないと「アサキおはよう。もうご飯食べるよ」とトミーがやってくる。
こうなったら潔く自ら居間に行くべきか。でも真顔で「おはよう」と言える自信はない。ごちゃごちゃ考えているうちに、トミーの足音が聞こえてきそうだ。
どうしよう……。

布団をかぶっていたが、全くトミーの来る気配がなかった。掛け布団から顔をのぞかせると、玄関の方でなにやら話し声がする。トミーと、知らない男の人の声。しかも英語だ。
どく、と心臓がいやな音を立てた。
内容はわからないが、ただならぬ雰囲気を感じる。
すぐに玄関へ行くと、30代ぐらいと思われる眼鏡をかけた背の高い男の人がいた。なでつけた髪は金色で、瞳は青い。
「トミー?」
「アサキ……」
振り向いたトミーの顔は険しく、いつものように「おはよう」とは微笑んでくれなかった。
手のひらにじわりと汗がにじむ。
トミーと向かい合っている人が、「スミスさんと同居している人ですか?」と流ちょうな日本語で話しかけてきた。スミスさんと言われ一瞬戸惑ったが、そういえばトーマス・藤沢・スミスだったと思い出した。
頷くと、「あなたからも説得してもらえませんか」と鋭い口調が返ってきた。
「何の、ことですか」
トミーに何があるのか、何があったのか、全くわからない。トミーに視線を向けると、苦しそうに顔を俯けた。
「アメリカへの引き揚げ勧告の書面を何度か送ったのですが、いつもNOと言っているんです」
ぐわんと頭が揺さぶられた。
初耳だった。
ここは俺が担当する郵便配達の地域じゃない。だから、そんな手紙が届いていたなんて気づかなかった。いや、アメリカ関係の書類なら、もしかして日中に直接届けられていたのかもしれない。
「引き揚げって……アメリカに戻るってこと、ですよね」
茫然とする俺の肩をトミーが強く掴んだ。
「ボクは戻らない! ずっとここで暮らしたい。アサキと一緒に!」
トミーと離ればなれになるなんて想像すらできなかった。たったの3カ月しか生活を共にしてないけれど、この家にトミーがいないなんて考えられない。
俺もトミーと居たいです、と答えようとして、その人が指さした。
「頬の傷は、どうしたんですか」
「……これは」
きのう「スパイめ!」と見知らぬ子ども達に石を投げられた傷だった。何も答えられない俺たちに、何かを察したその人が続ける。
「最近は日本に住む一般のアメリカ人に対する攻撃がいくつも報告されています。これから戦争が本格化したら、もっと残酷なめに遭うかもしれません」
それから、と続けた。
「あなただけじゃない、一緒に住むあなたの大切な人も傷つけられる可能性があります」
その言葉にトミーが顔を上げた。
トミーと一緒に居たい。でも今の日本は、トミーにとってどんどん危険な場所になっている。それでも。
「アメリカに引き揚げる以外に、一緒に、安全に暮らす方法はないですか」
すがるように訊ねた。どこか人の少ない田舎に引っ越したっていい。小さな島でもいい。
しかし、その人は首を横にふった。
「ありません。いま日本ではどこでも愛國精神を謳い、敵国人に対して敵意を持つ人ばかりです。突然襲われるかもしれない。家に火をつけられるかもしれない。一番安全なのは、アメリカに戻ることです。それから、」
眼鏡の奥の瞳が、いっそう鋭くなった。
「一般人の引き揚げは、今回で最後になるかもしれません」
続きは言われなくてもわかった。今後引き揚げ船が出ないということは、引き揚げられないほど、日本とアメリカとの戦争が激しくなるということだ。
最後に、
「でも、戦争が終わったら行き来が自由になるかもしれませんよ」
と将来への希望を口にしてくれた。

「わかりました」
と答えたのは俺だった。トミーも何も言わなかった。
お互い、考えていることはわかっている。俺が、トミーが、戦争が激しくなる日本でいわれもない偏見により、悪質な攻撃をされないために。互いの安全を守るために、離れる。
「今日船が出ます。これから他の人を迎えに行くので、1時間後にまた来ます。準備をしておいてください」
そう言い残して車で去って行った。


鞄に荷物を詰め終わった。
お互いの身を守るため、と納得しているけれど、あまりにも突然の別れに心が追いついていない。いつまで会えなくなるのだろう。戦争が終わればすぐ、日本とアメリカを行き来できるようになるのだろうか。
ここでずっと、ずっと2人で暮らしていたかった。
どちらからともなく抱きしめ合った。トミーの腕が震えている。
嫌だ、離れたくない、どこにも行くな。口をつきそうになる言葉の数々が涙となって溢れ、トミーの茶褐色の服の肩口にしみこんでいく。
強く抱きしめてくれる温かさが、あとわずかで去ってしまう現実を信じられなかった。
「トミー……」
顔を上げると、トミーが見つめ返してくれた。その顔は、俺と同じように涙でぬれている。
「トミーがいない間も、アサガオの手入れちゃんとするから」
声が震え、涙で口の中がしょっぱくなる。
「俺はずっと、ずっとここで待ってるから」
うん、うん、と大粒の涙をこぼしながらトミーが頷く。
「戦争が終わったら、一緒に買い物に行こう。和菓子屋さんにも行こう。勲と3人で山にも行こう。だから……」
トミーの顔を焼き付けておきたいのに、とめどなく溢れる涙で視界が歪む。
「絶対に、絶対にここに戻ってきて――」

トミーの頬を両手で包む。
そして唇を合わせた。

やわらかくて、温かかった。
でも初めてのキスは涙で塩辛く、苦しくて、つらくて、悲しみの味がした。


ちゃぶ台にはトミーが用意してくれたまま、2人分の朝食が残っていた。
ちゃんと揃えられた箸。伏せられた茶碗。焼いたイワシに、小皿にのった漬物。
いつも通りの食卓だ。
でもいつもと違って、味噌汁からは湯気がたっていなかった。
いつもと違って、トミーがいなかった。
置かれていた湯呑みのお茶を飲む。想像通りとても甘かった。「朝甘い物のんだら元気になるでしょ」ときのうの朝もアマチャを出してくれていた。いつものやさしい笑顔で。
あの時はトミーと食べる最後の朝食になるなんて、想像すらしていなかった。

家にはトミーが暮らした痕跡が至る所に残っていた。
縁側の軒下で風にそよめくアサガオのつる。来年もお茶を作るためトミーが庭に植えたアマチャの木。畑で育てていた薬草。年季が入っているのにいつも磨かれ、整頓されている台所。
トミーが使っていたばあちゃんの部屋に入った。
部屋の隅には布団がきれいに畳まれ重ねられている。
一番上の掛け布団を抱きしめると、トミーの匂いがした。
トミーに抱きしめられている気がした。
「トミー……」
涙がしみこんでしまうのもかまわず顔をうずめた。

布団から顔を上げると、本が数冊積まれているのに気がついた。トミーのものだった。一番上に何か挟まっている。
ゆっくり開くと、小さな紙が2枚、はらりと畳に落ちた。
そこには走り書きがあった。『本ヲ イサムニ アゲテ クダサイ』と。荷物をまとめた時に急いで書いたのだろう。
もう1枚を拾い上げる。
そこに書かれていた言葉に、あんなに流したはずの涙が、また頬を流れ落ちた。

『アサキ、一人ジャナイヨ。離レテイテモ ボクハ イツモ 君ヲ 想ツテ イルカラ』

トミーからの短い恋文だった。
やっぱり離れたくない。船に乗るな。戻ってこい――
恋しさが胸の中で渦巻く。
戦争さえなければ、今だってトミーはここに居たはずだ。
言葉にならない嗚咽が漏れた。
息が苦しくて、服の胸元を掴んで、必死に呼吸をした。


勲はトミーがいなくなって大声で泣いた。でも絶対に帰ってくると信じ、一緒に山へ行けるようにと、トミーから受け継いだ漢字だらけの本を俺が休みの時に「読んで!」とねだり、必死で勉強している。
3人で収穫し、乾燥させていたアサガオのつるは、乾いたあと痛まないよう紙袋に入れておいた。トミーが帰ってきたら3人でカゴ編み競争をしよう、と勲に言われている。多分優勝はぼくかアサキくんのどっちかだろうけど、とも。
勲と一緒に、トミーが植えていた植物の手入れをした。戦争が終わって、この家に帰ってきたトミーを喜ばせるために。

戦争が終わるということは日本かアメリカが負けるということだ。そうなった時、この国は、アメリカは、どうなってしまうのか分からない。すぐに行き来はできないかもしれない。
でも戦争をしている間はトミーがこの家に戻れない。決して会えない、ということだけは確実だ。
だから、早く戦争が終わってほしいと胸の中で願う。
しかしそんな願いとはうらはらに戦争はますます激しさを増していった。
トミーがこの家を去って3カ月も経たない12月8日。
日本がアメリカの真珠湾を奇襲し、アメリカなどを中心とする連合国との戦争が激化した。


そしてついに俺のもとにも、召集令状、通称「赤紙」が届いた。

 

背の高い緑豊かな木々が生い茂り、隙間からのぞく空はペンキをべったりと塗ったような紺碧をしている。
昼間は日差しを浴びると焼け焦げそうなほど暑く、夜も気温はあまり下がらない。外は風が吹くと涼しいけれど、連合国軍からの空襲から身を守るため洞窟を寝床としているから、かなり寝苦しかった。
日本のように四季はなく、故郷は今どんな花が咲いているのか、まだ涼しいのかもう暑いのか、それすらも常夏の島に居ては思い浮かべられなかった。
俺は南方の島に配属されていた。
トミーと離れてから、数年が経っていた。

誰も口にはしないが戦況は明らかに日本軍側が悪い。
連合国軍による戦闘機から放たれる機銃や海上からの艦砲射撃の轟音が、昼夜問わず島のどこからか聞こえてくる。
そして内地からの物資の補給路もほぼ断たれている。食料も兵器もわずかになり、サツマイモなどの農作物を育てたり見たこともない果物を採って食べたりと、協力して食料を調達していた。
敵の攻撃で死んだり、赤痢や、蚊を媒介とするマラリアに罹り病死する者も多くいる。
けれどお国のため、内地にいる家族を守るため、南で必ず敵を食い止める、その思いで皆疲労の限界をはるかに超えた体を奮い立たせていた。
俺は、「ずっとここで待っている」とトミーと交わした約束を果たすため、必ず生きて内地に帰還する、と胸に強く抱いていた。内ポケットに入れた手帳には、何度も手にしては読み返し端が擦り切れた恋文と、もう一つお守りを挟んでいた。


月明りの照らす闇夜に奇怪な鳥の鳴き声が響く。
俺の属する分隊は他の分隊と共に、真っ暗なジャングルを進んでいた。
新たに上陸してきた連合国軍の整備場攻撃の命を受けたからだ。建設中の整備場が完成してしまうと、壊れた兵器や戦闘機を修理でき、削いだ敵の兵力を回復させてしまうからだ。だがそんな攻撃も、物資の潤沢な相手にとっては焼け石に水だとわかってる。それでも上からの命令には従わなければならなかった。
じっとりと粘つくような汗がまとわりつくなか、全長1メートルほどの銃を担ぎ、草を掻き分け何時間も歩いた。

しんと静まる暗闇の中に、工事が進められている整備場が見えた。
物資も人員も極端に不足している日本軍とは雲泥の差だ。
隊長の合図で全員が手りゅう弾を手にした。ピンを抜き、次々と投げ入れる。そしてすぐさま背を向け駆けだした。
爆発音を背に受け、湿った草で滑りそうになる足をなんとか踏ん張って走っていると、パン、パン、と乾いた音が響いた。
近くで見張りをしていたのだろう、駆けつけた連合国軍の兵士数人が発砲していた。

前を走っていた仲間が倒れた。
位置が少しずれていたら撃たれたのは自分だったかもしれない。
振り返ると銃口がこちらを向いていた。狙いを定めている。コマ送りのように相手の動きがゆっくりと映った。ここで死ぬわけにいかない。とっさに銃を構えた。
そして、バン、と。
相手の胸に一発、そして近くの木に一発跳ねるのが見えた。

「おい、走れ!」
目の前がぐわんと歪み、力が抜けてへたり込んでいた。
隣で俺と同じように銃を構えていた仲間に急かされ、無我夢中で走った。
呼吸がままならず、喉が焼けるように熱い。崩れそうになる足を叱咤しながら、鬱蒼と茂る森の中を仲間のあとに必死で続いた。
銃弾は、一つは胸に、一つは木に当たった。
命中したのは俺が撃ったものか、前を行く仲間が発したものか。
どちらにしても、さっき俺はためらうことなく引き金を引いた。
自分が生きる残るために、人を殺した。
血しぶきをあげながら敵が倒れるその時、相手の顔を見た。月明りに照らされた、アメリカ兵の顔を、はっきりと。

トミーのように彫りが深く、同じ年ごろのように見えた。
彼の最期の姿が頭にこびりついて離れない。
彼にも大切な人がいたかもしれない。彼が家に戻ってくることを信じて、ずっと待ち続けている恋人がいたかもしれない。
撃たなければ俺が殺されていたと、頭では理解している。それでも、と処理しきれない感情が心を侵食していた。
夜が明けるころ、自分たちの拠点に辿り着いた。
仲間は数人、戻ってこなかった。


一心不乱に駆けていたせいで腕に傷を負っていたことに気づかなかった。鋭い枝でも跳ねたのか、左の上腕をわりと深く切り、茶褐色の服の布地を赤黒く染めていた。
しかし医薬品不足で簡単な処置しかできない。チンキで消毒し、包帯をきつく巻いてもらった。
治りが悪いと傷が膿み、ウジが湧いたり感染症に罹ってしまう。それに片手が不自由だと銃すら撃てず足手まといになる。しばらくは水や食料の調達に従事するよう命じられた。

夕方の、日没にはまだ早い時間帯に所属部隊が動いた。夜襲のためだ。隊員が出はらった後、俺はひとり食料を探しに洞窟を出た。
何十キロと離れた向こうの海辺あたりからは、敵の艦砲射撃が地を破壊する爆音が聞こえてきた。


腕の傷が開かないよう注意しながら、食べられそうなものがないか上下左右をくまなく探す。周囲の雰囲気は全く違うけれど、こうしているとトミーと山へ入って山菜採りをしたことが甦ってくる。

今頃トミーはどこで何をしているのだろう。薬草の知識を生かした仕事に就いているのだろうか。広大なアメリカのどこかで、夢中になって植物を採取しているのだろうか。ズボンや服を草だらけにして。
会いたい、今までは強くそう思っていたはずなのに、会いたくない、と思う自分がいた。会うべきではない、と。
生き残るためとはいえトミーの同胞を殺してしまった。大切な人がいたであろうあの人は、もうその大切な人と、二度と会えない。

その時、近くでガサリと物音がした。十メートルほど先だろうか。動物だったら貴重なたんぱく源になる。ナイフならあるが、片腕と足で仕留められる相手だろうか。
右手にナイフを持ち、なるべく音を立てないようじりじりと近づく。
すると物音が大きくなった。物音というより足音だ。しかも近づいてくる。
そして。

「――――アサキ?」



幻覚かと思った。
食糧難になってからは色々な植物を食べていたから、幻覚作用のあるものを口にしていてもおかしくない。
何も言葉を発せずただただ突っ立っていると、はっと目を開いたトミーに「こっち!」と手首を掴まれた。ナイフが手からすべり落ち、引かれるがまま走る。そして俺たちは小さな洞窟に入った。
押し倒され、頭を抱えられる。
それと同時にドオンと地が揺れ、ばらばらと入り口の天井が崩れた。艦砲射撃だ。
「トミー……なのか?」
信じられなかった。
幻かと思ったのに、落石から俺を守るように抱きしめる体は本物で、一緒に暮らしていた時のようにたくましく、そして温かい。トミーだ。でも心が湧き立った瞬間、昨夜の兵士が脳裏に甦った。
「アサキ、アサキ……会いたかった」
落石がやんでもトミーは離れなかった。
俺はもう、トミーに「会いたい」と思ってもらえるような人間じゃない。
「トミー……、ごめん、トミー。俺……」
「アサキ?」
悲痛な声を出す俺にトミーが顔を上げた。
「俺、お前の仲間を…………殺したんだ」
自分が生き残るために。トミーに会いたい一心で、人を殺めた。
「もう、お前が思ってるような、優しくて頼りになる人間じゃない。自分勝手で、どうしようもなくて……」
喉が詰まった。右腕で目を覆う。
呆れているだろう。失望しているだろう。仲間の仇として殺されてもかまわない。
覆いかぶさっていたトミーが体を起こした。
洞窟を出て行くだろうか。あんなにまた2人で暮らそうと強く約束していたのに、こんな別れになってしまった。こんな別れにさせてしまった。
すると、右手がやさしく包まれた。
安心感と甘い感情を与えてくれた、懐かしいトミーの大きな手。
「……なんでこんなことになったんだろうね」
ぽつり、とトミーがこぼした。
「戦争さえなかったら、2人で幸せに暮らせてたのに。なんでこんなことになったんだろう」
涙が横に流れ、耳の窪みに溜まった。
右手とつながったトミーの手も震えていた。
「ボクも、殺したんだ」
顔を向けると、苦しそうに顔を歪めるトミーがいた。
「仲間を殺した」
と。
トミーは医者としてこの島に配属されたらしい。アメリカ軍の方が優勢だと言っても、負傷したり病気に罹る兵士は何人もいる。特に厄介なのは致死率の高いマラリアだ。発熱や嘔吐、下痢だけでなく、脳や内臓への合併症の危険もあり、衰弱し何日も地獄のように苦しみながら死ぬ。
「でも医者は患者を殺せない。だから求められたら薬を渡しているんだ……安らかに死ねる薬を。その薬を、ボクも作っている」
トミーの手を強く握り返した。
死の狭間で苦しむ兵士のためだとしても、安らかに眠らせてあげられてよかった、なんて気持ちにはならないだろう。
戦争なんてなければ、人が負傷したり感染症に罹ることもなかった。そしてトミーが安楽死に関わることもなかった。
「本当に、なんでボクたちはここで、こんなことをしてるんだろうね……」
力なくトミーがつぶやいた。

手をつないだまま、トミーの隣に座った。
遠くで砲撃が轟いた。地面がかすかに揺れ、その衝動でまたぱらぱらと天井が崩れた。ここに居たら入り口が完全に塞がりトミーが帰れなくなる。万が一俺の部隊が石を除けて助けに来てくれても、敵国人であるトミーは間違いなく殺されるだろう。
「トミー……、もう戻った方がいい」
入り口は、這って石の上を行けばまだなんとか通れそうだ。
それなのにトミーは動かなかった。
そして視線をこちらに向けた。
「日本は負ける。毎日たくさんの兵士が飢えや病気で死んでいる」
「……わかってる」
敵の攻撃よりも、食料や医薬品の極端な不足による死者が深刻だった。毎日、毎時、毎分、この島で日本兵が死んでいる。それほどまでに日本軍は追いつめられていた。
「せっかく会えたのに、アサキと離れたくない」
声を震わせるトミーは予感しているのだろう。
この島で俺が生き延びる可能性が、ゼロに等しいことを。
「だから、ボクもここにいさせて」
「駄目だ。お前は助かる可能性があるだろ」
なんでこんな所に居たのかわからないけれど、医者として配属されたなら日本兵と出くわすこともほとんどない。圧倒的優勢な連合国軍だ。生き延びる確率の方がはるかに高い。
「じゃあ、もし逆の立ち場だったら、アサキはボクをここに置いていく?」
「置いていく。もしトミーが生きてって言ったら置いていく。それがお前の願いなら、受け止めて叶える」
嘘だ。でもその嘘を悟られないようきっぱりと答えた。
「アサキはやっぱり優しいね。でもごめんね、ボクはアサキじゃないから、だからここに居る」
「なんでだよ! お前だけでも生きろよ……」
「ねえ、ボクがいつからアサキのこと好きだと思ってるの? 6歳のころからだよ? もうね、離ればなれになるのはいやなんだ」
なつかしい、やさしい笑顔のトミーがそこにいた。
「だから、アサキのそばにいさせて」


洞窟の入り口からわずかに漏れる陽の光を頼りに、怪我をした左腕の手当てをし直してくれた。丁寧に消毒し、薬を塗り、白くて柔らかい包帯を巻いてくれる。洗っては使い回し、赤茶けて弾力のなくなった日本軍の包帯とは大違いだ。
「応急処置しかできないけど」
「オオバコの葉もあればよかったのにな」
ばあちゃんの墓参りで、蚊に刺された手をオオバコで応急処置してくれた夏が懐かしい。すり傷にも効くと言っていた。それよりも傷は深いけれど、トミーが貼ってくれれば効きそうな気がする。
「アサキは蚊に狙われてたもんね」
隣に座ったトミーが再び手をつないでくれた。
もう戦わなくてもいい。
隣にトミーがいる。
それだけでずっと張っていた気が緩み、心が凪いだ。
「そういえば何でこんなとこに居たんだ?」
拠点はかなり遠いはずだ。いくら危険を察知できるからといっても、あまりにも遠出すぎる。
「一応医者っていう肩書なんだけどね、植物学の専門家でもあるから調査してたんだ」
触れたり食べたりすると危険な植物があるのかどうか、あればどんな植物なのか。全体で共有し注意するため、調査を依頼されたらしい。
「でもすごい確率だな。同じ島に配属されて、基地は遠く離れてるのに森の中で出会って……」
感心していると、へへへ、とトミーが照れ笑いした。
「珍しい植物がいっぱいで……その、夢中になっちゃって」
思わずふきだした。全く変わっていなかった。子どものころ迷子になったトミーも、大人になり日本で野草を摘んでいたトミーも、軍医として派遣されたトミーも。
「太陽の位置や磁石から方角はわかるんだけどね。でも迷子になってたら、なんか遠くの方からあたたかくて、恋しい気配を感じたんだ」
それが俺だったという。
「野生の勘、すさまじいな……」
感動したというか呆れたというか、勘を頼りに無防備に近づいてきたトミーの緊張感のなさに力が抜けた。


「あー……あのね、ボク、アサキに謝らないといけないことがあるんだ」とトミーが言いにくそうに口を開いた。
「謝る?」
こくりと小さく頷くと、「ユリエさんのことなんだけど」と想像もしなかった名前が出てきた。
「ばあちゃん?」
なんのことか検討もつかない。
「実はね……アサキの家を訪ねた日にね、ユリエさんに『下宿しない?って言われてた』って言ったんだけど、あれ嘘だったんだ」
「はあ?」
確かその言葉が決め手となり同居が始まったはずだ。ばあちゃんの遺言だとも思って。
ばあちゃんからは『来週、藤沢さんちの富ちゃんが遊びに来る』としか聞いてなかったけど、ばあちゃんからの手紙で下宿の誘いを受けていたのだと信じていた。
「そういえば俺、ばあちゃんがトミーに書いた手紙って見せてもらってなかった……」
封筒は見たけど人の手紙を見るのは無作法だと思い、下宿うんぬんの確認まではしなかった。
手紙には「遊びにおいで」とだけ書かれていたらしい。玄関の忌中札でばあちゃんの訃報を知り、仕事から帰ってきた俺があまりにも酷い顔をしていたから、一人にはしておけないと一芝居うったということだ。そういえば縁側のあたりで音がしたとき、ばあちゃんの魂が帰ってきたと思って「ばあちゃん!」と呼んでもいた。
というか。
「今さらすぎるだろ」
呆れて笑うしかない俺に、「騙してたの、ずっと申し訳なく思ってて」と眉を下げた。
でもトミーが居てくれなかったらばあちゃんのことでずっと自分を責めていただろう。それに、恋をする感情も知らないままだったかもしれない。
「ありがとう。あの時トミーが居てくれてすごく救われたから」
トミーの肩に頭をもたせかけると、トミーもコツンと頭を合わせてくれた。


日が傾き、もうほとんど光が届かなくなっていた。
水はトミーと俺の2人分あるし携帯食もトミーがわりと持っていた。
それでも数日のうちには尽きる。トミーも当然気づいているだろう。その先にある餓死する苦しみも。
だから俺が「薬って持ってる?」と尋ねると「何の?」とは訊き返さず、「うん」と鞄から取り出して見せてくれた。
ケースは2つあった。1つには丸薬が、もう片方には小豆より細長く白と赤の半々に色分けされた粒が入っていた。カプセルというものらしい。
まずカプセルを飲み、それから丸薬の順で服用する。初めてだとカプセルは飲みにくいから顔を仰向けるといい、と助言された。
「何で薬の種類が違うんだ?」
粉薬と丸薬しか飲んだことがないから、色鮮やかで硬そうなカプセルが目を惹いた。
「カプセルにも色んな種類があるんだけど、このカプセルはね、溶けるのが遅いから時間をおいて中の薬を体に吸収させたいときに使うんだ」
手にとると、確かに頑丈そうだった。
最初に強い催眠作用のある丸薬で意識を失ったあとカプセルが溶け、包まれていた劇薬が効く、という仕組みらしい。
「カプセルの中はね、メインは粉にしたトリカブトの根なんだ」
「……あの時の」
山で教えてもらった、紫の鶏の兜のような花をつけた猛毒。
あの時は「食べたら死ぬよ」と言われ背筋が凍ったのに、今は頼もしささえ感じる。
「で、こっちはチョウセンアサガオも混ぜてるんだ」
と丸薬を指した。
花はアサガオよりひとまわり大きく、花から根まで全てが毒で、確か食べると幻覚を見たり意識が混濁すると教えてくれた植物だ。葉や茎の汁が目に入ると失明するなんて知らずに触れようとして、とっさにトミーに後ろから抱きしめられ尻もちをつき、そのまま告白された思い出深い花だった。
「なんか、懐かしい植物ばっかりだな」
ふっと笑った俺に、トミーも微笑み返してくれた。
「それ飲んだらすぐ意識がなくなる?」
丸薬のケースに視線を向けた。
「そうだね、個人差もあるけど30分から1時間くらいかな。チョウセンアサガオ以外にも色々配合して作ってるから」
早くて30分か。意識を失うということは、もっと早い時間に力が抜けたり怠くなったりするかもしれない。だったら飲む前に渡しておきたい。


「トミー、実はお守りでこれ持ってきてたんだ」
内ポケットに入れた手帳を取り出した。開くとトミーからもらった短い恋文が挟まっている。それともう一つ。
茶色く細長いそれを手に取ってトミーに見せると、植物博士はすぐに正体に気づいた。
「これ……もしかしてあの時の?」
頷くと、薄暗闇のなかで緑の瞳に薄く水膜が張るのがわかった。
俺とトミーと勲の3人で乾燥させてたアサガオのつるだ。トミーが帰ってきたらカゴ編み大会をしよう、と紙袋に入れる際ちぎれてしまったものをお守りとして持ってきた。戦地でこれを見るたび、必ず内地に戻り縁側に座って3人で編もうと心に誓い、また、見本として披露してくれたトミーの独特すぎるカゴを思い出し束の間の癒しにもなっていた。
トミーが一番好きな植物だと言っていたアサガオ。ずっと命をつないで毎年縁側で育っていると知り、とても喜んでくれたアサガオ。
俺は覚えてないけれど、幼い時みたいに髪に挿すのとも違うと思う。なにより花じゃなくて乾燥した茶色のつるだし。
だから「手、かして」と左手を取った。
そして薬指に引っかけると、蝶結びで結った。
解けないように、ぎゅっと固く。
「アサキ……。ありがとう、アサキ」
トミーの頬を涙が一筋伝った。ぐすっと鼻をすする音が狭い洞窟に響く。
「なんか結婚指輪みたいだね」
「けっ……! そんなつもり」
これしか渡せるものがなくてそういうつもりはなかった。けれど、もう最期だ。
「結婚指輪でもいいか。かなり質素すぎて申し訳ないけど」
次から次へと涙を溢れさせながら左手の指輪を嬉しそうに触っている。
「じゃあ今日が結婚記念日だね」
トミーの頬に手を添え、涙を親指でぬぐった。トミーも俺の頬を両手で包む。
そしてキスをした。
角度を変え、何度も、何度も。
そのあたたかさに、俺も涙が出てきた。

おでこを合わせると2人で笑い合った。
言いたいことは同じなのだろう。
「俺、甘い物が好きなんだけど」
「ごめんね。でもアサキもしょっぱいよ」
トミーとのキスは、いつもお互い泣いてるから毎回しょっぱい。
泣いてなかったらどんな味がするのだろう。
「じゃあ天国かどこかで再会したら、とびっきり甘いキスをしようね」
そう提案されたが、それはそれで、再会できた喜びでまた泣いてそうだ。

「そうだ。実はね、ボクもお守り持ってきてるんだ」
そう言ってトミーが鞄から小さな封筒を取り出した。
手、出して、と言われ手のひらを向けると、封筒の中からぽろぽろと黒い粒がでてきた。
アサガオのタネだった。
同居してたとき、次の年に万が一自然に発芽しなかった場合に備え収穫しておいたものらしい。アメリカに引き揚げるとき、それをお守りとして持ち帰ったという。
「何年か経ったら、ここがアサガオ畑になるかもな。あ、でもこんな南国でも育つのか?」
「アサガオは温帯から熱帯で育つから大丈夫だと思うけど、この種類がここで育つかどうかは観察したことがないからね」
と言葉を濁した。
「でもここだと日光が届かないから……そうだ」
1粒、念のため2粒、とトミーがタネを摘まむと、かろうじて上の方に隙間のある入口へと行った。そしてタネを外に放った。
「発芽して、ここがアサガオ畑になったらいいね」
夏を彩り、仕事から帰るとアサガオの縁側から出迎えてくれたトミー。
トミーの一番大好きな花。
墓なんていらない。お供えの花だっていらない。
トミーと俺が眠るそばに、ただこの花が咲いてくれていたら、それだけで十分だ。

また地面が揺れ、天井が崩れた。
このままでは薬を飲む間もなく生き埋めになってしまう。
だから、トミーと共にカプセルを流し込んだ。
飲み込みにくかったけれど、何度か水を流し込むと無事喉をくだった。大豆を飲みこんでしまったような異物感だった。
そして最後の薬、丸薬を口に含む。
「え?」
想像すらしてなかった。
薬に触れた舌に、じわっと甘さが広がる。それもべったりとした甘さではなく、すっきりとした、しかしとても濃い甘さ。
「アマチャ……」
配給でしか砂糖が手に入らないから、トミーが内緒で作り、勲と驚かせてくれたとても甘いお茶だ。
召集される前まで毎日飲んでいた、でもすでに懐かしい味。トミーが植えた挿し木は順調に育ち、葉を茂らせ、書物で調べて勲と茶葉にもした。
悶絶しながら衰弱する兵士に渡す安楽死の薬。だから最期に口にするものは、甘くてすこしでも安らげるものを、と丸薬を甘くしたという。アマチャを飲んだアサキがとても喜んでくれていたから、とも。
それにしても不思議だった。
物資の豊富なアメリカだ。砂糖はもちろん、他にも薬を甘くするものはあるはずだ。
トリカブトにチョウセンアサガオ、そしてアマチャ。もちろん薬にはそれ以外も色々含まれているだろうけど、俺との思い出のある植物ばかりだった。
そして思い至った。
植物を愛し、「スパイ!」と石を投げられても決して怒りを表さなかった心優しいトミーが、命じられたとはいえ人を死に追いやる薬を開発しなければならなかった。どれほどつらく、苦しかっただろう。
だから、トミーの中で幸せだった瞬間に関わった植物を使う、つまり自ら幸せな思い出を傷つけることで、この罪を少しでも背負おうとしたのではないか、と。



日が暮れ、洞窟の中は真っ暗になった。遠くからは南国特有の鳥の声が聞こえてくる。
俺とトミーは手をつなぎ指を絡め、地面に仰向けになっていた。
「家のアサガオ、育ってる?」
「うん、去年もちゃんときれいに花咲かせてた。勲も水やり手伝ってくれてるし。あ、勲な、トミーにもらった本でちゃんと勉強してるぞ」
本を読むため学校の先生から漢字の本や辞書を借りて猛勉強し、まだ幼いながらも、トミーから受け継いだ本を少しずつ一人でも読めるようになっていた。
「ボクの弟子は優秀だね」
「勲に家の鍵預けてるから、アサガオも畑の手入れもしてくれてると思う」
アマチャをはじめ、トミーが畑で栽培していた薬草も、2人で育て方を調べてなんとか枯らさず残っている。
心残りなのは、俺とトミーの帰りをいつまでも待っている勲だ。ここは入り口の塞がれた小さな洞窟で俺たちの死が伝わらない可能性が高い。生死がわからず、つらい思いをさせてしまうだろう。
それと、行方不明者として何年も何十年も戻ってこなかったら、諦めて家を使ってくれるだろうか。万が一の時は勲が了承すれば家を譲りたい、と勲の母親には家に関する書類も預けている。


そろそろ体が重くなってきた。瞼も重い。
でも、まだかろうじて意識はある。
絡めた指に、トミーに結んだつるのかさついた感触が伝わった。
「家のアサガオ、どのくらい育ってるかな」
トミーがつぶやいた。そして「また一緒に見てみたかったな」と。
「なあ、49日って覚えてる?」
意識が虚ろになり、ちゃんと声が出せているか心配だったけれど、「覚えてるよ。ユリエさんの49日の時、一緒にお墓参り行ったよね」と返事があった。
「死んでから49日間は、魂がこの世とあの世をさまよってるんだ」
舌に力が入らず、しゃべりがゆっくりになる。
「だから、このあと、家で会おう。アサガオ、見よう」
「うん。一緒に帰ろう」
トミーの声の輪郭もゆるくなりはじめた。
「ずっと、アサキのいるあの家に、戻りたかったんだ。……嬉しい」
「トミーの方が、先に着くと思う」
「どうして?」
「日本兵は、死んだら、まず靖國に魂が飛ぶらしい」
靖國神社には戦争で亡くなった人の霊が祀られていて、戦死したらまず靖國に魂が集まるという。
「そうなんだ。じゃあ、いつもみたいに、縁側に座って、アサキを待ってるね」
ありがとう、と答えた声が音になっていたかはわからない。


つむったまぶたの裏には、あの夏の光景が映っていた。

仕事から帰ると、いつもトミーが縁側に座っていた。
野草の処理をしていた手を止めて、こちらを向く。
そして、やわらかい笑顔でいつも出迎えてこう言ってくれた。

「おかえり、アサキ」

 
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