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第3回 BL小説アワード「怪談」

この世で一番恐ろしい

エロなし

浩一は知らない。こんなに怖がりなのに、この世で一番恐ろしいものが何なのか、浩一はまるで理解していない。俺は昔から思っていた。いつかそれを、浩一に教えてやらなくてはと。

ことほぎ
グッジョブ

 俺の幼馴染である浩一は、ホラー系の話が大の苦手だった。元々はあんまり好きじゃないという程度だったものの、現在は「部屋が暗いと幽霊が出てきそうな気がする」とか言って電気を消して寝ることさえ出来なくなっていた。入浴もカラスの行水という表現に相当する短さで終わらせているようだが、性格が雑なのではなく水場に一人で長居するのが怖いから、らしい。
 浩一の怖がりが悪化したのには理由がある。というか俺のせいだ。浩一の両親は仕事の都合で家を空けがちだったゆえ、小さいうちは隣家である我が家に預けられることが多かった。そんなある日の夜、何気なく入れたテレビ番組で怪談や心霊現象の特集をしていた。それを見て震えたり叫んだりする浩一は大層うるさかったが、一方で俺はその過剰な反応を面白く思った。ちょっとした悪戯心に駆られた俺は、後日図書館で怖い話ばかり載った本を数冊借りて浩一の前で丁寧に音読してやった。数日かけて図書館の所蔵する怪談本ほぼ全てを借り終わった頃、浩一はそれまで以上に幽霊を恐れるようになっていた。
 要するに俺は幼さに任せて、浅く済むはずだった浩一の傷を抉り上げるような真似をしてしまった。そんなことをされたら、俺を蛇蝎のごとく嫌うのが普通だろう。けれど浩一は違った。一連の出来事の後も、うっかり怖い番組を見たりそういう本や写真を見かけてしまったりした時、浩一は毎回半泣きで俺の所に来た。どうやら浩一には、俺以外の奴に怖がりだと知られたくない、という謎のプライドがあったようで、どんなに薄気味悪い話を耳にしても別の奴に助けを求めようとはしなかった。むしろ他の人間の前では「お化けなんて俺らに触ることさえ出来ないんだから、怖がる必要はどこにも無い」という趣旨の台詞を頻繁に吐いていた。何故その理論を普段の思想に活かせないのだろうか。俺はそう思いながら、皆の前で虚勢を張る浩一を無言で眺めていた。
 浩一はそうやって第三者に強がりつつ密かに怯え続けていたが、幽霊や妖怪的な何かが見える訳ではないと言っていた。もちろん俺だって見えざるモノが見える人間ではないし、霊能力的なパワーも一切持っていない。しかし浩一は俺に何らかの力があると勝手に信じている節があった。その理由について詳しく聞いた試しは無いが、俺の母方のじいさんが神主だというのが関係しているのではないかと思う。随分前にじいさんのことを何かのついでに話した記憶があるから、恐らくその血筋にあやかりたいのだろう。
 自分を重度の怖がりにしたのが俺だったのを覚えていないのか、覚えてはいるが他に頼れる相手もいないのか。どちらなのかは判然としないものの、浩一は中学に上がる年齢になってからも、怖い話を聞くたび俺の家に泊まりに来ては、俺にしがみ付いて寝ていた。お互い成人していないとはいえ、体格の近い奴二人で寝転がるシングルベッドは少々手狭だ。おまけに巻き付いてくる腕に触れられる場所が熱くて、とても眠れたものではなかった。安心しきって眠り込む浩一とは対照的に、俺は一睡も出来ぬまま朝を迎える日が多かった。
 まあ今はそんな調子だけど、もう少し年を重ねれば浩一だって多少は変わるだろう。いや、変わるはずだ。「期待」という言葉を選ぶとかなり語弊があるものの、俺は常々そう思っていた。しかし俺はのちにその考えを改めた。
 あれは俺達が高校受験を意識する学年になった頃のことだ。怪異から逃れること以外に関しては怠惰で勉強が苦手だった浩一は、以前俺の兄貴が通っていたごくごく平均的な偏差値の高校を目指そうとしていた。だが「兄貴が在学していた時、無人のはずの音楽室でピアノが鳴るのを聞いたことがあるらしい」と俺が話しただけで浩一は希望校を変え、猛勉強の末に俺と同じまあまあの進学校に合格した。世界広しといえど、学校の怪談に惑わされて進学先を変更した奴はそういまい。


 高校に進学してからもその性分は相変わらずで、「学校の行き道にある踏切付近に、自殺した女子高生の霊が出る」という噂話を教えると、結構な遠回りになるにも関わらず浩一は通学ルートを変更した。ここ一週間は行きも帰りも俺が教えた別の道だけを利用している。
 そして踏切の話をした時点で予想はついていたが、案の定俺は浩一の登下校に付き合わされることになった。暑苦しい光が燦々と降り注ぐ今現在も、俺は浩一の隣をだらだらと歩いて下校のお供をしてやっていた。
「あーもう、あっついなー……。和臣さぁ、なんであの踏切の話なんてしたんだよ。せっかくの近道なのに恐ろしくて通れたもんじゃないわ」
「じゃあ逆に聞くけどさ、通学に散々あの踏切使って一年くらい経った後に『実はあそこ、女の子の霊が出るらしいぜ』みたいな話聞かされたら、お前どう思う?」
「どうしてもっと早く教えてくれなかったのよ、和臣くんの意地悪! 馬鹿馬鹿!! って思う」
「ご希望通り早く教えてやっただけだ、感謝しろ。あとオカマ口調やめろ」
「腑に落ちねえ……そう言われると教えてくれたのは確かに有り難いけどさ……」
 浩一は足元に転がっていた石を蹴り飛ばして溜息をついた。心霊スポットは避けたい反面、知らなければ心穏やかに過ごせたのにという思いもあるのだろう。その考え自体には共感できないこともない。世の中、知らない方が幸せなこともある。しかしそういう事象に限って、遅かれ早かれ知らなくてはならないことも多い。浩一がそれを理解しているかどうかは怪しいものだが。
「しっかしこの道、平日とはいえ誰も通らねえな。可愛い子どころかうちの生徒すらいねえじゃん。よくこんな道知ってたな、和臣」
「近くに墓場も廃墟も無い、人も車も通らないから死人も出ない。つまり幽霊もいない。お化けが怖くてルート変えたお前の姿を誰かに目撃されることもない。お子ちゃまなお前にもご満足いただける素敵な通学路だろ」
 お子ちゃまで悪かったな、と不満げに言いつつ、浩一は鞄から下敷きを取り出して顔を扇ぎ始めた。浩一の額に貼り付いた前髪が微かに揺れ、浩一の肌をのろのろと伝っていた汗がぽたりと落ちる。
「けどなー、なかなか遠回りなのがちょっとな。夏場にあんま長距離歩きたくないし、何も無さ過ぎて日陰もロクに無いし」
「お前に付き合って一緒に帰ってやってる俺の身にもなれ」
「だってお前いねえと怖いし、何かあったとき対処できないだろ。俺が頼れるの、和臣だけなんだよ」
「……どういうつもりで頼ってるのか知らんが、俺がいて何の対処が出来ると思ってるんだ。あとマジで頼ってんなら、飲み物の一つや二つおごってくれてもいいんじゃないか」
「そう言われてもなー。俺もノド渇いてるけど、コンビニも自販機も見当たらないじゃん。ここら辺」
 きょろきょろと周りを見ながら歩く浩一と二人、通り慣れ始めたT字路に差し掛かる。いつもならここで左に曲がるのだが、俺は無言で足を止めた。
「? 何してんだ和臣、さっさと帰るぞ」
「なあ浩一。右の道、行ってみないか」
「そっちになんか店でもあるのか?」
「いや、何も無い。……何も無い方が、お前も安心だろ?」
 俺の言葉を聞いて、浩一はその面持ちを若干不安そうなものに変えた。
 浩一は知らない。こんなに怖がりなのに、この世で一番恐ろしいものが何なのか、浩一はまるで理解していない。俺は昔から思っていた。いつかそれを、浩一に教えてやらなくてはと。けれど俺はずっと躊躇していた。だってそれは浩一にとって「知らない方が幸せなこと」であると同時に、「遅かれ早かれ知らなくてはならないこと」だと分かっていたから。
「何その意味深な感じ……こえーからやめてくれよ」
「冗談だよ。曲がった先に自販機とベンチがあったと思う。木陰もあるはずだからそう暑くないだろうし、ちょっと休憩していかないか。ついでに何かおごれ」
「うーん……一回くらいお礼しとかないとうるさそうだな、お前。分かったよ。和臣殿の仰せの通り、ちょいと寄り道いたしますか」
 了承の言葉を聞いて、俺の口角が勝手に上がる。それを見た浩一は俺の機嫌が良くなったと思ったのか、楽しげな笑みを返してくれた。

「和臣ー、お前何飲みたい?」
 冷たい飲み物が目前にあるのが嬉しいらしく、自販機の前で浩一はうきうきした様子を隠さずに尋ねてくる。自販機に隣接するベンチに座っている俺には何を売ってるのか目視できないが、確かここには大したものが無かった気がする。
「水がいい。大きいペットボトルのやつな」
「小さいのもあるし、そっちのが安いんだけど。てかジュースじゃなくていいのか?」
「喉渇いてるから水の方がいい。値段が一桁違うとかじゃないんだし大きい方にしろ」
「へいへいっと。人の金だと思ってさー」
 ゴトン、ガコンと種類の違う音が自販機から響く。一つ目の音は俺の分の水だろう。浩一が自分用に何を買ったのかは見なくても分かる。
「どうせまた炭酸買ったんだろ。たまには麦茶とかにしないと太るぞ」
「夏だし積極的に糖分摂取しても許されるって、多分。お前もせめてスポーツドリンク的なのにした方が良かったんじゃね?」
 浩一は俺にペットボトルを渡して、俺の隣に腰掛けた。ベンチの下で乾いて固まっていた土が浩一のスニーカーに散らされて、ざりっと短く悲鳴を上げた。
 俺がペットボトルを開けて飲みだしたのを見て、浩一も早速缶を開けて口をつけようとした。けれどその直後、浩一は一瞬だけ眩しそうに目を瞑った。座った位置が悪かったらしく、木陰にも関わらず丁度浩一の顔に日光が当たってしまっている。カテゴリだけなら木漏れ日に属するのだろうが、真夏の日差しは残念ながらそんな情緒ある表現に収まるものではない。
「……暑いだろ、そこ。場所代わってやろうか」
「別にいーよ。行き帰り俺に付き合わせてるだけでも、正直申し訳ねえしな」
「ほう……成長したもんだな。父さん嬉しいぞ」
「育ててもらった覚えはねーよ。……迷惑かけた覚えは、まあそれなりにあるが」
 後半に行くにつれ段々と小声になってはいたけれど、車すら通らないこの場所ではきちんと耳に届いた。浩一は少し苦笑しながら、手の中の缶に視線を落とした。
「……ごめんな和臣。怖いの、なかなか克服できなくて」
「なんだ、気にしてたのか。謝ることないって。誰にでも苦手なものの一つや二つある。それに、お前のそれが重症化したの……俺のせい、だろ。今更だけど、すまなかった」
「あー、お前こそ気にしてたのか、あれ。確かに一因ではあるけどさ、あれが無くてもいずれ今と同じ感じになってたんじゃねーかな。素質がありゃいつか花開くってものよ」
「才能みたいな言い方だな」
「負の方向に働いちゃいるが、ある意味才能みたいなもんだろ。けど和臣は昔っから怖い話も心霊番組も全然平気だったよな。純粋にすげーと思うし羨ましいわ。お前みたいになれたら良かったんだけどな」
 からからと笑う浩一の顔が強い光に照らし出される。その眩しさが何となく直視できなくて、俺は浩一に返事をせずに目を閉じた。
 静かだ。ここは、俺と浩一以外誰もいないから。聞こえるのは生ぬるい風が木々を僅かに揺らす音と、浩一がジュースを飲み下す時に鳴る喉の音と、自分の心音だけだった。己のこめかみを汗が這う。熱い。暑い。木陰に来たというのに、俺の体温は下がるどころか上昇するばかりだった。干上がってしまいそうなほどの渇きを感じ、俺は浩一が買ってくれた水を荒く飲み干した。
「お、いい飲みっぷり。お前よっぽどノド渇いてたのな」
「……まあな。それなりに」
「なんつーか和臣って、昔から何思ってるかあんま顔に出さないタイプだからなぁ。ポーカーフェイスもいいけど、具合悪い時とかはちゃんと言えよ。和臣のそういうとこ、お母さん心配なんだから」
 浩一は缶を持ち替えて空けた手で、俺の肩を軽く叩いた。冷たいジュースで浩一の手は冷えているはずなのに、触れられた所が熱く感じた。
「……母親ヅラすんな」
「お前もさっき父親ヅラしてたじゃねえか。ま、そんだけお前を気に掛けてるってことよ。あぁ……菩薩にも負けない慈愛と慈悲を持ち合わせる俺……己のことながら涙が出るわ」
「とりあえず菩薩に謝れ。別に俺を気に掛けてるんじゃなくて、お前がビビリって知ってる唯一の奴に何かあったら誰も頼れなくて困る、ってだけだろ。大袈裟だ」
 浩一はそんな薄情な奴じゃない。多分俺が思っているより、俺を大事にしてくれている。そうに決まっている。自分が発した言葉に心の中で反論した。けれど同時に別のことも思った。俺なんか大事にしてくれなくていい。早いうちに……いや、今すぐ切り捨てた方がいい。だって、だって俺は――――
「――――……み…………臣……和臣、和臣ってば!!」
 強めに名を呼ばれてハッとする。声のした方に視線を向けると、浩一が身体ごと俺に向き直って顔を覗き込んでいた。
「な、なんかぼんやりしてたぞ。目の焦点合ってなかったし、大丈夫か? 体調良くないんじゃないのか?」
「……悪い、平気だ。ちょっと眩暈がしただけで」
「まだノド渇いてるなら俺の残りやろうか? なんなら、もう一本なんか買うけど」
「………………い、いらない。どっちも、いらない。本当になんでもないから気にするな」
「そうか……? どこも悪くないんなら、別にいいけど……」
 真剣に気遣ってくれるのが心苦しくてそそくさと目を逸らしたとき、無残に潰れたペットボトルが自分の手の中にあることに気が付いた。どうやら無意識のうちに握り潰していたらしい。そうだ、俺にはしなくてはならないことが――――話さなくてはならないことがある。浩一に、浩一だけに、浩一だから、教えなくてはならないことが、俺にはある。
「浩一。……お前は、この世で一番恐ろしいものって何だと思う?」
「急になんだよ。怪談の前振りなら答えねえからな」
「違うよ。世間話みたいなもんだ、小難しく考えなくていい。で、どうなんだ」
「んー…………まあ色々怖いけど、やっぱ一番は幽霊だろうなぁ。あーやだやだ」
 自分の中の幽霊像でも頭に浮かべたのか、浩一は些か顔色を悪くしながら缶を呷った。飲み込み切れなかったらしいジュースが浩一の口端から僅かに零れ、一筋の道を作りながら浩一の喉を濡らしていく。口元を手の甲で乱暴に拭う浩一はもう俺の方なんて全く見ていなくて、本当に無防備で無知だと思った。
「まあ、今のお前にとってはそうだろうな」
「なんだよ、その含みのある言い方」
「大したことじゃない。ただ、本当に恐ろしいのはお前が思ってるようなものじゃない、って教えてやろうと思ってさ」
「か、怪談は聞かないっつってんだろ!」
「怪談じゃないって言っただろ。もっとごく一般的で、この上なく普遍的で、なおかつ身近な話だ」
 俺はベンチから立ち上がり、へこんだ空のペットボトルをゴミ箱に捨てた。真夏の自販機そばに設置されているのに、ゴミ箱の中にはほぼ何も入っていない。事前に調べた通り、やはりこの一帯には滅多に人が来ないようだ。
 怪談ではないという俺の主張が今一つ信じ切れないのか、浩一は俺が何を言い出すか戦々恐々といった表情で次の言葉を待っていた。怖がりになった経緯が経緯なだけに、こういう点に関して信用されていないのは仕方がない。
 俺は念のため周囲に誰もいないことを確認してから浩一の両肩にそっと掌を乗せ、その背をベンチに沿わせるように押し倒した。浩一は不思議そうに俺を見上げていたが、俺がベンチに片膝を乗せても、互いの鼻先が触れてしまいそうなほど顔を近付けても、この状況から逃げ出そうとはしなかった。俺のこの行動は予想していなかっただろうに、それでも中身を零さずに缶を持ち続けている浩一の器用さがおかしくて、俺は吐息だけで笑った。
「――――本当に恐ろしいのは、幽霊なんかじゃない。生身の人間だ」
 そう囁いて、俺は浩一に口付けた。浩一の手から缶が音を立てて零れ落ち、足元の土を甘く湿らせていった。

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