>
>
>

第3回 BL小説アワード「怪談」

川男

エロなし

ざあざあと降り注ぐ雨は、そんな真崎の思いをすべて見透かしているように強くなり、真崎の身体を冷たく濡らしていく。

浦和 澪
グッジョブ

 岐阜は美濃地方のとある山奥。月明かりが綺麗な夜半過ぎ、酔狂にも川釣りを楽しむふたりの男の姿があった。
 ひとりは釣竿を手に姿勢よくたたずむ男。もうひとりは川岸に長い手足を投げ出し、座りこむ男。彼らの釣果はいまひとつで、ふたりはかれこれ二回りほどの時を過ごしていた。
「釣れんなあ」
 早々に釣りを諦め、座りこんでいる男が言う。
 もうひとりの男がそれに答える。
「釣れませんねえ」
 彼はまだ釣竿を立てたままだが、いい加減に諦めようかとの気持ちが強くなっていた。この男、柔和な容姿とは裏腹に短気な一面も備えもつ。
 苛々とした雰囲気が伝わってきたのか、もうひとりの男が妙な話を切り出した。
「どうです。ひとつ怪談話でもしましょうか」
「怪談、ですか」
「ええ、そうです。多少の暇つぶしにはなるでしょう。いかがです?」
「そうですねえ。このまま釣り糸を垂らしていても、意味はなさそうだ。わかりました。乗りましょう」
「そうこなくっては。では、まずはあなたからお話しなさい」
「ええっ。私からですか?」
「ええ、そうです。こういうものはね、先に話したほうが後々楽なものですよ」
 座りこんだ男は明るい口調で話す。その顔は暗闇のためはっきりとはわからないが、きっと子供のように笑っているのだろう。
 怪談話を持ちかけられた男は、ううんと唸り、どのような話をしようか記憶を頼りに思い出す。ありきたりな怪談ではつまらない。
 ああそうだ。ここは川辺だ。川にちなんだ怪談にしよう。
「私は今年二十六になるのですがね、十年位前に川で溺れたことがあるのですよ」
「なんと。いまからきみが話す怪談話は体験談なのですか」
「まあ、聞いてくださいよ」
 男はどんよりと湿っぽい空気を醸し出す。怪談話は雰囲気作りが重要なのであると、誰かが言っていたような気がする。
 男も川辺に腰を下ろし、言いだしっぺの男に向かって語り出した。
「川姫、という妖怪をご存じで?」
「川姫。はて、聞いたことがあるような、ないような。それはどういう妖怪なのです?」
「私も詳しくは知りませんが、姿かたちは美しい顔をした若い娘だそうです。でも手のひらには水かきがあって、皮膚も鱗で覆われているらしいのです」
「まるで河童のようですね」
「河童の中のお姫様かもしれません」
「そりゃあ上手い例えだ。それで、そのお姫様は人間に何をするのです?」
「なんでも若い男が水車小屋に近づくと、いつの間にか現れるそうです。その美しい姿に心惹かれたが最後、川姫は若い男の精気を吸い取ってしまうそうです」
「若い男といやあ、ぼくやきみくらいの歳の男だろうか」
「ええ、私たちと同世代だと思います」
「でもきみの話では件の川姫がらみの事故に遭ったときはまだ子供だったのでしょう? 若い男を狙うといったって、いくらなんでも幼すぎる」
「溺れたのは私ひとりではなかったのです」
「すると、誰か他にも?」
「私の歳の離れた兄です」
「……兄」
 聞き役の男の顔に影がよぎる。男は過去に思いをはせ、話を続ける。
「ええ。あのとき、兄も一緒だったのです。私は幼い時分、福岡のほうに住んでいましてね、そのときの出来事なのです」
「きみはどうして川で釣りを? 十年前とはいえ、川が怖いんじゃあありません?」
「怖いです。恐ろしいです。でもそれ以上に、私は三度の飯よりも釣りが好きなのです」
「なるほど。こりゃあ面白い人が現れたものだ」
「私の話はこれでおしまい。つまらない怪談話でしょう?」
「いいや面白かった。きみには噺家の才能がある。実に面白かった」
「ありがとうございます」
「じゃあ次はぼくの番だね」
 聞き役だった男は、早く話したくってうずうずしていたのか、先程まで話し手だった男とは対照的に、軽快な語り口で切り出した。
「ぼくもきみにちなんで川姫の話をしよう。何、きみと同じ話をしてもつまらないからねえ。きみが知らない川姫の話だ。どうだ。興味をそそられるかい?」
「ええ、とっても。私は川姫の恐ろしい面しか知りませんから。あなたがどういう話をするのかとても楽しみです」
「恋の話だよ」
「コイ? 川魚の鯉ですか?」
「違うよ。きみは面白いねえ。魚の鯉じゃなくて、恋愛の恋だ」
「はあ」
「ぼくが話すのは、川姫に恋してしまった馬鹿な男の話だ」
 男は夜空を見上げ、そこにはないひときわ輝く星を見るかのように、きらきらした瞳で語り始める。
「その男は名を大河内といって、村で有名な二枚目だったんだ」
「はあ」
「大河内はある晩、酒に酔って川沿いを歩き、うっかり足を滑らせて川へ落ちてしまう。大河内もきみやきみの兄上と同じように川で溺れたんだ」
「私たちと、同じ……」
「だが大河内は泳げなかった。それにかなり酒も入っていたしね、彼はここまでかと覚悟を決めたそうだ。だが、諦めかけたそのとき――」
 男がぐっと声を潜める。
「――川姫が現れた」
「川、姫……」
「大河内は天に召されたのかと思ったそうだ。こんなにも美しい女子を見たことがなかったのだ。川姫は大河内を川岸へ運び、呼吸が弱まっていた彼のために、自ら人工呼吸を施した。川姫の唇はこの世のものとは思えないほど冷たかったそうだ。まあ、実際に彼女は川の妖怪だったのだから、冷たいのは当たり前なのだが。
 大河内が目を覚ましたとき、川姫の姿はとうになかった。大河内は夢かと思ったそうだ。だが川姫から受けた口づけの感触は確かに残っている。大河内が村に戻ったとき、村人たちは口々に『奇跡だ』と言った。大河内が溺れた川は流れが非常に早く、また深さもあるため、その川に落ちた者はたいてい死体となって下流に流されるという。大河内のように無傷で戻ってきた人間はこれまでにいないそうだ。ある村人がこうも言った、川姫の気まぐれだと」
「気まぐれ?」
「大河内の村でも川姫の怪談は広まっていた。狭い村だからね、川姫の存在を信じる者は多かったんだ。その村人が言うには、きみがさっき話した通り、川姫は若い男を狙ってその精気を吸うという。大河内もいまのぼくやきみと同じくらいの年齢だったそうだ。しかし大河内は村一番の二枚目であり、さすがの川姫もその男っぷりに見惚れて、情が湧いたのではないか、とのことだ」
「はあ。何だか安いメロドラマのような話ですねえ」
「そんなにつまらなそうな顔をするなよ。ひょっとしてこの手の話は嫌いだったかい?」
「いいえ、そんなことはありません。それで、大河内はその後どうしたのですか? 川姫は再び現れたのでしょうか?」
「まあ、聞きたまえ。夜になり、大河内は再び川姫が現れた川へ向かった。そこで一晩中川姫を待ち続けたんだ。しかし、彼女は現れなかった」
「そうなのですか」
「だが、大河内は諦めなかった。来る日も来る日も川へ赴き、川姫が現れる日を待った。他のことは何も手につかず、起きているときも寝ているときも川姫のことを想い続けた。大河内の態度に村娘たちは愛想をつかした。川姫に憑りつかれたのでは、と訝しむ者もいた。事実その通りなのだろう。大河内は川姫に憑りつかれたのだ」
「なんと恐ろしい」
「だがね、きみ。話はまだ続くのだ」
「ええっ」
「大河内が川姫と出会ってから一年が過ぎた。大河内は毎日のように川を訪れ、川姫との再会のときを待つ。だが、いくら待っても川姫は姿を見せない。大河内はしだいに狂人になっていった。村人が気づいたときには、すべてが遅すぎたのだ」
「狂人……」
「大河内はある夜、ついに川へと身を投げた」
「そんな……」
「身投げをすれば今度も川姫が助けてくれると、大河内は信じていたのであろう。短絡的な考えに大河内は馬鹿だと蔑む声もあった。翌朝、村人が川を捜索するが、ついに大河内の死体は上がらなかったのである。そして大河内は川男という妖怪になった」
「川男……そんな、人間が妖怪になるだなんて信じられません」
「怪談話とはそういうものだろう。でもねきみ、火のないところに煙は立たないのだ。大河内という男が生きていたのは確かだし、彼の死体が上がらなかったのもまた事実。世の中には不思議が溢れているのだよ。ああ。そういえば、きみ。名は何という?」
「私は真崎といいます」
「じゃあね真崎くん。残酷なことを訊くが、きみの兄上の遺体は上がったのかい?」
「ええ。私がこの目で確かめました」
「仮にその遺体が兄上のものじゃなかったとしたら、どうする?」
「おっしゃっている意味が……」
「ぼくが話すのは仮の話だよ。仮にね、君の兄上が川で溺れ死んでいなかったとしたら、真崎くん、きみはどうする?」
「もちろん、兄に会いに行きます」
「兄上に会いたいかい?」
「ええ、もちろん」
「真崎くん、きみのその兄上に会いたいという気持ちが具現化したもの――それが妖怪なのではないかとぼくは考えるよ」
「私の、兄に会いたいという気持ち……?」
「きみが兄上に会いたいという気持ちを持ち続けていたら、いつか妖怪となってひょっこりと帰ってくるかもしれないねえ」
「私は……私は……兄の死を受け入れてこの十年間生きてきました。兄はあの日、川で溺れ死んだ……もしかしたら川姫に攫われたのかもしれませんが。でも、本当は――」
 真崎は長年胸に秘めていた想いを言葉に乗せる。この男だけはすべてを話しても、受け入れてくれるような気がした。
「――本当はずっと兄に会いたかったのです。たとえ妖怪としてこの世によみがえったのだとしても、私は兄に会いたいのです……」
「兄上は醜悪な妖怪になっているのかもしれないよ?」
「構いません。私は兄をお慕い申しておりました」
「……真崎くん、きみは兄上を愛していたのだね」
「はい……」
「辛いことを思い出させてすまない。でも、きみにそこまで愛されているのなら、兄上は幸せだったのだろうなあ。きっと成仏できたのだろう」
「……はい……っ」
 積年の想いがよみがえり、真崎ははらりと涙を流した。
 男はそんな真崎の様子を見て、気まずそうに頬を掻いたが、何も見なかった体を装って、語りに戻ることにする。
「話を戻そう。ええと、何の話だったかな」
「大河内という男が川男という妖怪になった、という話です」
「ああ、そうだった。さて、妖怪になってしまった大河内がその後どうしたのかというとだね――」
「話の腰を折るようですが、川男とはどのような妖怪なのでしょう?」
「川男は美濃の国に伝わる妖怪だ。ちょうどこの辺りだねえ」
「川姫と似たようなものなのでしょうか」
「いいや、川男は川姫のように凶暴な妖怪ではない。じつに大人しいものだよ。背が高くて色が黒い、精悍な顔立ちをした妖怪だ」
「川男は何をする妖怪なのですか」
「何もしないよ」
「そうなのですか。私はてっきり、妖怪といえば決まって人間を襲う化け物だと思っておりました」
「真崎くん、きみの認識も間違っちゃあいないが、川男は本当に何もしないのだ。ただやつは少しばかり寂しがり屋で、人間を見かけたらたわいもない会話をしたがるのだ」
「会話?」
「ぼくが知る川男は、暗い川沿いの道で人間が通りかかるのをじっと待っているのだ。相手は男でも女でもいい。子供でも老人でもいい。誰彼となく通りかかる人間に声をかけて、その相手とたわいもない世間話をする。ただそれだけ」
「それだけ、なのですか」
「そう。それだけで川男は満足なのだ。川男は川で溺れた人間が成仏できずにいた結果生まれた妖怪だという。まあ、諸説あるが。その男の無念が形となった妖怪なのだから、おおかた川男にも何かしら思うところがあるのだろう」
「川で溺れ死んだ……」
「ああ、真崎くん。釣り糸が引いているよ。何かかかったんじゃあないかな?」
「え。ああ、本当だ」
 真崎は慌てて竿を引く。だが、ぐいぐいと引っかかっていた感触はすうっと消え去り、再び静寂のときが訪れた。
「流木か何かが引っかかっただけのようです」
「そうらしいね」
「はあ。どうにも今夜は調子が悪いらしい」
 真崎が釣竿を引き上げ、帰り支度をすると、男は残念そうな顔を見せた。
「おや、もう帰ってしまうのかい?」
「今夜は釣れません。このままじゃあ雨も降りそうだし、夜釣りには向いていない場所だったのかもしれませんね」
「たしかに。ぼくはここで魚なんか一度も釣ったためしはないよ」
「何ですって?」
「ぼくはただ、きみと話がしたかったのだ」
 男はすっくと立ちあがり、真崎の正面に向き合う。
 その口から語られたのは衝撃の事実だった。
「ぼくの名を教えていなかったね、真崎くん。ぼくは大河内。もうどれくらい経ったのだろう。少なくとも半世紀は経っているだろうなあ。ぼくが川姫に恋をして、挙句の果てに身投げして死んだ、馬鹿な男だよ」
「あなたが、大河内――いや、川男」
「驚いたかい?」
 月明かりで大河内の顔がはっきりと見える。その顔は話に聞いた通りの二枚目で、上背も高かった。
 真崎は目の前の男と、男が話した川男という妖怪とが同一だなんて信じられなかったが、仮に男が川男だったとしても、不思議と恐怖心はわいてこない。
 真崎はこれまで通りの口調で川男――大河内に答える。
「ええ、たいそう男前な人だ」
「ありがとう真崎くん。きみも可愛らしい顔立ちをしているね。あのときと同じだ」
「あのとき?」
「きみは覚えていないだろうが、ぼくはきみと会ったことがあるのだ」
「私が、大河内さんと?」
「そのときのことで、ぼくはきみに謝らないといけないことがある。だから九州からここ岐阜の地まで、きみを追いかけてきたのだ」
「私を?」
「きみの大事な兄上の命を奪ったのは、このぼくだ」
 真崎はハッと息を飲む。大河内は、いま何と言った。兄の命を奪ったのだと、そう言ったのか。目の前の男が。優男然とした、この男が。
 混乱のふちに立つ真崎に、大河内は淡々と語り始める。
「十年前、まだ子供だったきみと兄上がぼくのいた川に遊びにきた。その川こそ、この大河内が川姫を想って身投げした川なのだ。あの日は数日前から雨が降っていた。夜遅くだったから足元も見えづらかったのだろう。いまだから言うが、当時、ぼくはこんな夜更けに子供のきみを連れ出す兄上を非常識な男だと思っていた。きみと兄上が何をしようとしていたのかは、ぼくの口からは言えない。でも、そういうことだったのだろう?」
「正直、私は当時のことをあまりよく覚えてはおりません。嫌な記憶は、すべて封じてしまったのです」
「それでいいさ。話を続ける。あの日、先に川へ落ちたのは真崎くん、きみだったと記憶している。兄上はきみを助けようと、自ら暗い川へ飛びこんだ」
「……はい」
「ぼくはそのとき、ちょうど川上にいたのだ」
「あなたが?」
「ぼくはすぐさま川に飛びこんだ。きみを助けたかったのだ。だが不幸なことに、きみの兄上もぼくと同じく、川へ飛びこんだ」
「ああ……なんということだ……そんな、まさか……」
「大河内が溺れた川は流れが非常に早く、また深さもあるため、その川に落ちた者はたいてい死体となって下流に流されるという。大河内のように無傷で戻ってきた人間はこれまでにいないそうだ――ぼくはそう言ったね。あの日は雨で川が増水していて、いつもよりもいっそう、川の流れは速かったのだ。ぼくはきみの身体を抱えるのでいっぱいだった。兄上のことは――見殺しにするしかなかった」
「そんな……そんな……」
「本当に、すまなかった。きみの兄上を助けられなくて、本当にすまなかった」
「どうして……私を助けたのですか……どうして兄を助けてくれなかったのですか……」
「すまない……本当にすまない……」
「どうして……どうして……っ」
 優しかった兄の思い出が真崎の脳裏を駆け巡る。格好良く、端正だったその顔はしだいにぶくぶくと膨れ上がり、無惨な水死体となって真崎の前へ現れた。
「ああ、兄さま……兄さま……」
 真崎は頭を抱えて川辺にうずくまった。湿り気を帯びた雑草が表皮に当たり、真崎の身体をじわじわと冷やしていく。その冷たさが昂っていた気持ちを抑えていき、しばしの時を要して、真崎は冷静さを取り戻した。
 真崎が正気を取り戻すまで大河内は何も言わず、ただ遠くの川岸を見つめていた。
「……大河内さん」
「何だね、真崎くん」
「あなたは川姫を想って身投げした……そう言いましたよね」
「真崎くん」
「では私も兄を想って身投げすれば、あなたと同じ川男になれるのですか? いつか兄と再会できるのですか?」
「きみが身投げすることを兄上は喜ばないだろう」
「私はそれでも兄に会いたいのです」
「やめておきなさい。もしもきみが川男になったとして、きみは一生川沿いをさまようつもりかい?」
「私は兄を探しに行きます」
「きみの兄上は、あの日死んだ。きみの兄上に会いたいという願いは一生叶わない。そうしたら、どうなると思う? きみは一生成仏できないのだ」
「一生……?」
「あの世で兄上と会うことはできないのだよ」
「大河内さん……私は、いったいどうすればいいのです? どうしたらいいのです?」
「きみはそのまま生きなさい。それが兄上の何よりの願いだ」
「兄の……?」
「兄上が身を挺して守ろうとした命を、そう簡単に捨ててしまってはいけないよ。わかるね?」
「っ……でも、私は……私は……」
「兄上だけじゃない。ぼくもきみを助けたかった。きみは生きるべき人間なのだよ、真崎くん」
「私にはそのような価値はありません」
「兄上やぼくの想いを無下にするつもりかい?」
「違います」
「ならよかった。ぼくたちの分まで、君は生きるのだ。それがぼくたちの願いなのだから」
「大河内さん……」
「きみは笑ったほうが何倍も可愛いよ、真崎くん。さあて、そろそろ時間だ。近くまで送ろう」
「……大河内さん」
「どうしたのかな、真崎くん」
「私と共に暮らしませんか?」
 それは自然とこぼれた言葉だった。突然の真崎の誘いに、大河内は目を丸くして驚いたが、やがてふふっと笑い、真崎の問いに答えた。
「それはできない。ぼくは人間が恐れる妖怪なんだぜ」
「あなたは大河内さんだ」
「嬉しいことを言ってくれるね。きみとは生きているころに出会いたかったなあ」
「私は……私は……」
「おっと、それ以上言っちゃいけないよ。別れがつらくなる」
「え……」
「ぼくの願いは叶った。ぼくはこの世に未練はない。このまま逝くよ」
「どうして?」
「どうしても何も、ぼくは妖怪だからねえ」
「そんな……っ」
「おや、雨が降ってきたね。いいかい真崎くん。この雨が本降りになる前に、きみは帰りなさい」
「嫌です。私は、まだあなたと話したい」
「このまま川に残ると恐ろしい川姫に精気を吸い取られるかもしれないぜ。なんたって君は川姫好みの美男子だからなあ」
「私を怖がらせようとしたってそうはいきません」
「参ったなあ。どうしたらきみは納得してくれるのか」
「大河内さん……っ」
「じゃあこうしよう。真崎くん、こちらへおいで」
 大河内が目一杯両腕を広げる。
「おいで、真崎くん」
 真崎は何かに引き寄せられるように大河内へと近づき、やがて彼の眼前にまで足を進める。その瞬間、背中に力強い腕が伸び、真崎の小柄な身体は大河内の腕の中にすっぽりと収まった。
「そうら、捕まえた」
「お、大河内さん……」
「どうだい? ぼくの身体は冷たいだろう。ぼくは川男。れっきとした妖怪なのだ」
「大河内さん……大河内さん……」
「だから、きみは近づいちゃあならない。きみとぼくが接するのは――これが最初で最後」
 真崎が何事かと問う前に、その声は大河内の唇によって塞がれる。
 川男の唇は冷たかった。
「さあ、いきたまえ真崎くん」
「最後に教えてください。あなたはまだ川姫を愛しているのですか?」
「愚問だね。ぼくが愛しているのはきみだけだよ」
「……っ」
「ずっと、ずっと前から愛していたといったら気味悪がられるかな。でも、だからあの日ぼくはきみを助けた。ぼくが成仏できなかった本当の理由は、きみに未練があったからなのだ」
「でも……あなたは川姫を愛していたのでは……」
「あれは遠い昔の話。いまはきみがぼくのすべてだ」
「じゃあ……っ」
「だからこそ、きみを不幸にしたくない。きみには幸せになってほしい」
「大河内さん」
「おや、雨足が強くなってきた。早くいきなさい真崎くん」
「……っ、兄に……あなたは兄に直接会っていない……あなたはまだ成仏なんてできない……」
 苦し紛れに放った言葉だったが、大河内にとっては図星だったらしい。大河内は参ったなあという顔をして、真崎に語り出す。
「聡いねえ、きみは。たしかにその通りだ。兄上にはあとで挨拶に行くよ。だから、きみが心配することは何もない」
「約束……ですよ。きっと、兄に会って……きちんと詫びてください」
「ああ、約束する。さあ行った行った。早くしないとこの辺りまで増水するよ。この川も流れが早いんだ。もう溺れたくはないだろう」
「あなたはひどい人だ」
「ぼくは人間じゃあない。ただの妖怪だ」
「――兄のところで待っています」
 真崎はそう言い残して、釣り道具を手に川辺を駆ける。何度も振り返ろうとしたものの、大河内への未練を断ち切るために、甘い思いに囚われそうになる自分を叱咤し、ひたすらに足を進める。
 ざあざあと降り注ぐ雨は、そんな真崎の思いをすべて見透かしているように強くなり、真崎の身体を冷たく濡らしていく。
 やっとのことで山を抜け、開けた道に出る。
 真崎が振り返った先には――やはり誰もいなかった。


     *


 からりと晴れたある日の午後。真崎は兄の墓参りに行った。いつものように墓石を磨こうと身を屈めたとき、墓の周りの異常に気がついた。
「こ、これは――」
 墓石の周りにひとすじの足跡が残っていたのである。しかも、そのどれもが水気を帯びていて、墓石の周辺だけついさっきまで雨に降られていたかのように。
「――来て……くれたのですね、大河内さん」
 真崎はぐしゃりと身を崩し、とうとうと涙を流した。



 了

浦和 澪
グッジョブ
コメントを書く

コメントを書き込むにはログインが必要です。