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第1回 BL小説アワード

そのなまえは知らない

エロなし

和希さまは静かにため息をついて、「ガキのときにしたあの約束、覚えてるか?」と呟いた。「約束、ですか?」はたしてどの約束だろう、と私は首をひねった。私はすべて覚えている。幼い頃の和希さまとは、いくつも約束をした。

ななし
4
グッジョブ

「ユキ」
 買い物中にふいになまえを呼ばれて、私はゆっくりと振り返った。
「よう、おつかれさん。奇遇だな。晩飯の買い出しか?」
 スーパーのざわめきのなかで、彼の低い声だけがやけにおおきく聞こえた。まるでそこだけ切り取ったように、私の耳の奥に響く。
 知り合いの声音をインプットしているからだろうと、私は思った。
「ええ、和希さま。いまお帰りですか? 早いですね」
 彼の名は高梨和希。私の仕える高梨家の一人息子だ。学生服に指定カバンを提げ、私の顔を見るとへらりと笑った。
「ああ、テスト前だから部活休みでさ、暇だし菓子でも買おうと思ってたとこ」
 そう言って和希さまは手にしているスナック菓子の袋を掲げてみせた。あまり健康にはよくないそういったジャンクフードを彼は好んでよく食べる。
「テスト前なのに暇とは、また随分余裕がおありですね?」
「うるせ、腹減ってんだよ」
「帰ったらすぐに夕食を作りますので、間食はほどほどにしてください」
「はいはい、わかってるって。なあ、きょうの晩飯ってなに?」
「カレーライスです」
 おお、いいじゃん、と和希さまが声を上げた。
 カレーライスは昔から彼の好物だ。
「それなら腹空かせといたほうがいいか、おまえのカレーうまいし」
 まったく現金なものである。
 カレーとなるといつもそうだ。普段以上によく食べる。私が高梨家に家庭用アンドロイドとして仕えてから十数年の間、まったく変わっていない。彼の嬉しそうな顔を見ながら、私は必要な食材の量をもう一度検討しなおすことにした。
 最近和希さまはよく食べる。
 成長期と呼ぶらしい。いくら食べても腹が減るという。私が計算して多めに準備しても、それを軽く平らげ、おかわりをしてまだ足りないのだから、人間の身体は恐ろしい。そしてそのエネルギーの多くは、彼の身体の成長に使われているらしかった。今じゃ私よりも背が高い。十年前は私の膝丈ほどのちいさな少年だったのに。しかもどうやらまだ伸び続けているのだった。
「カレーライス、多めに作っておきますよ」
「まじで? じゃあこのポテチは夜食にするかあ」
 買うのをやめるわけではないらしい。
 テスト前に勉強すると腹減るしな、と和希さまはひとり頷いている。
 夜に脂分の多いものを食べるのは身体によくないという話を思い出して、私は脳内のデータベースから、胃にやさしい夜食のレシピの検索をかけた。


「んじゃ、俺こっち持つから」
 買ったものをふたつの袋に詰めていると、和希さまはそのうちのひとつを掴んだ。
「いえ、私の仕事ですので。私が持てる範囲のものしか買っていませんし」
「でもおかしいだろ、二袋あるのに俺だけ手ぶらなんて。パッと身は俺のほうがでかいんだしさ」
「手ぶらと言っても、あなたは学生鞄を持っているじゃないですか」
 テスト前だからだろう、鞄の隙間から教科書がぎっしり詰まっているのが見えた。見るからに重そうだ。私はアンドロイドなのだから、むしろ学生鞄と買い物袋を全部持つべきだとさえ思う。前に学生鞄を持つと聞いたらとても嫌な顔をされたので、さすがにそこまでは言わないけれど。
「つうか、部活ないと身体鈍るんだよ。テスト前だとあんま運動してる暇ねーし、せめてもの運動がてら」
「なるほど、つまり、日々のメンテナンスの代わり、ようなものでしょうか」
「あー、うん、まあ、そんなとこ?」
 私は一応納得して、和希さまに袋をひとつ頼んだ。
「そちらのほうがすこし重いですがよろしいですか」
「マジで? どっちも同じくらいに見えるけど」
「およそ21.5g差ですね」
「なんだ、ほぼ誤差じゃん」
 和希さまが笑って袋を提げた。
 私ももうひとつの袋を提げて、ふたりで帰り道を歩いた。
 いつも両手を塞いでいる買い物袋の片方が彼の手にあることが落ち着かなかった。あまった私の左手は、やり場なく垂れ下がったままになっている。
 そっと隣を覗き見ると、和希さまは学生鞄を肩にかけ、買い物袋を前後に揺らしながら悠々と歩いていた。彼の両手が塞がって、私の両手が塞がっていないのは、なんだか奇妙で、ちぐはぐに思えた。
「にしても、おまえいつもこんなに買ってるのか?」
「いいえ、きょうは特別多いです。……重いようでしたら、私が持ちましょうか」
「余裕余裕。でもなんできょうはこんな多いんだ?」
「明日のあなたの誕生日祝いの料理の仕込み分もありますので」
 明日は和希さまの十八歳の誕生日だ。食事は豪勢に、あとはケーキと蝋燭を、と海外出張中のご両親から指示がある。私も和希さまの好きな料理と栄養バランスを考えたメニューを考案して、準備を進めているところだった。
「あー……なるほど」
 和希さまは気恥ずかしそうに頭をかいた。
「この歳になって誕生日祝われるってのもなんかなあ」
「そう仰らずに。あなたがつつがなく節目の日を迎えられること……私もうれしく思います」
「……おまえが?」
 和希さまは訝しげに眉を寄せた。
 アンドロイドである私の「うれしい」を疑っているのだろうけれど、十数年見守ってきた彼が成長したことに対するこの感情が「嬉しさ」であることくらい、私だって知っている。
「もちろんです。ついでに不健康な間食を控えていただけると、もっとうれしいのですけどね」
「どうかな、ポテチは別腹だからなあ」
 和希さまは笑って肩をすくめた。
「でも――、」
 とふと、和希さまは立ち止まった。私もいっしょに立ち止まる。
「おまえにそう言ってもらえると、俺も『うれしい』、ユキ」
 嬉しいということばの割に、和希さまの顔はあまり笑っているように見えなかった。どこか怒りにさえ似ていた。ただじっと、私を睨むように見つめて、しずかに、私のことばを待つように、和希さまはその場に立っていた。
「俺、明日十八歳になるよな?」
「……ええ。お誕生日おめでとうございます」
 私はどう答えたものか迷って、結局お祝いのことばを言うにとどめた。
 彼はそのまま黙ってしまった。
「和希さま?」
 おそるおそる私がそう呼びかけると、和希さまは静かにため息をついて、
「ガキのときにしたあの約束、覚えてるか?」
 と呟いた。
「約束、ですか?」
 はたしてどの約束だろう、と私は首をひねった。
 私はすべて覚えている。幼い頃の和希さまとは、いくつも約束をした。
 もう二度とピーマンを残さないこと、ロケット花火を私に向けないこと、私の靴を隠さないこと。ああ、違う、それは私が怒った約束だ。和希さまはなにか怒っているようだから、彼が怒るような約束なのだ。あるいは約束をしたまままだ達成していないか――。
「……ひょっとして、今度一緒にカブトムシを取りに行こうと約束したこと、でしょうか」
「はっ? え、カ、カブトムシ?」
 和希さまは素っ頓狂な声をあげて、目をしばたたかせた。
「あなたが六歳の頃した約束です。果たせないままその夏が終わり、結局まだ果たせていないでしょう」
「いや、まったく覚えてないし……。つか、なんだよカブトムシって、」
 じっと私を見ていた和希さまが、堪えきれないとばかりに吹き出した。
「くっ……ははは、なんでよりによってカブトムシなんだよ、いま秋だぞ。もっとあるだろ、せめて」
「ではロケット花火、」
「全然違う! おまえ本当、記憶力いいくせにどうしてそんなトンチンカンなんだよ」
 和希さまはけらけらと楽しげに笑っている。
 私は彼がどうやら怒っていないらしいことに安堵して、釣られて笑った。どうやら私が言ったことで彼を笑わせることができたようで、私はうれしかった。
「ほんと、おまえのそういうところが俺は、」
 和希さまはひとしきり笑ったあと、ちいさくそう言った。
「和希さま。どういった約束でしょうか」
 私はできることなら彼の言うその約束を果たしたかった。
 子どもの頃、彼とした約束のなかには、私がどう足掻いても果たせないものも、いくつかあったけれど――。
「私にできることでしたら、」
「できない。ぜんぶ覚えてるんだろ。そのなかで、おまえができないことだよ」
「できない、こと――、」
 私が記憶を検索しかけたそのとき、急に彼のおおきな手が、私の肩を掴んだ。
「和希さま、」
 そのまま彼の顔が近づいて、彼の唇が、私の唇に触れる。
「えっ、」
 そのやわらかな感触が、唇に残った。
「ガキの俺がおまえに好きだ結婚してって言ったとき、おまえ言ったよな。十八歳になったら――、俺が大人で、結婚できるような年令になったら、もう一度言ってくれって」
 私はその約束を、確かに覚えていた。
 でも人間は過去を忘れる生き物だ。彼は、和希さまは忘れたものとばかり思っていた。
 あれ以来一度もそんなそぶりは見せなかったし、私は男型アンドロイドで、彼は人間の男性だ。子どもじみた他愛もない、冗談みたいな話だった。彼とした約束のなかでも一番それは果たされないだろうと、私は思っていた。
 こんな状況でどうすればよいのか、私は知らない。
 調べればわかるだろうか?
 彼の目はただただ真剣で、私は目をそらすことができなかった。
 変だ。身体がいうことを聞かなかった。じわじわと熱くなってゆくのに、それを止めることができない。エラー障害でもウイルス感染があるわけでもないのに、唇が震え、何度もまばたきをして、手が震えた。
 これはいったいなんだろう。
 脳内のデータベースに答えはない。
 ただ和希さまの顔を見て、もう一度あの唇が触れてくれないだろうかと思った。そうすればなにかわかるような気がした。この感情のなまえが。けれどそれを言おうにも唇がうまく動かない。やはりなにかのエラーなのだろうか。

 ――ああ、早くこの異常の原因を突き止めなければ。

 夕焼けが彼の顔を照らして、それがとてもまぶしく見えた。


End.

ななし
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