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第2回 BL小説アワード

森の中のスケープゴート

攻め視点/外国人

 この美しい瞳を思い命を賭けた。 どうすれば泣き止んでもらえるか、レフには全く分からなかった。

スピカ
グッジョブ


 木立の間から聞こえてくる小鳥たちの賑やかなさえずりでレフは目覚めた。
 ……ここは一体どこだろう。
 あちこちにうろのある古ぼけた木の天井にはまるで見覚えはなく、薄い夜明けの光が木造の壁の隙間から差し込んでいる。
 小屋の中にはいびつな造りの傾いたテーブル、カビの付着した古いダンボールほどの大きさの食料貯蔵庫、そして片隅には薄汚い布が洗濯物のように積まれている。
 誰がかけてくれたのか、体には薄い毛布がかけられている。
 体を起こすとベッドは大きな音をたててきしんだ。あざだらけの体は全身に痛みを感じる。冷たいすきま風にさらに痛みがひどくなりそうだった。
 最低限のものしか置かれていない小屋には、人の住んでいる気配はなく、白い息だけが揺らめいては消えた。
 ……昨夜おれは町から逃げ出してきた。
 逃げる途中で何度か殴られて、今、足首に力が入らないのは、銃声と煙を逃れて走っている時にくじいたのかもしれない。
 レフたち家族の暮らしていた国境の町は、常に隣国に侵されており、とうとう数日前に大規模な攻撃が始まってしまい、家族とはぐれたレフは一人で森に逃げてきた。
 くしゅん、と大きなクシャミの音に飛び上がった。
 汚らしいボロ布だと思っていたものが、ガサガサと動きだしている。
「だっ、誰だ!」
「……ごめんなさい。驚かすつもりはなかった」
 少年のような声の主は足まで届くほどの長いボロ布ですっぽりと体を覆っている。
 まだらに汚れきった顔は、少年とも少女とも判別がつかず、髪には泥が固くこびりつき、藻のようにごわごわとしている。
 長く伸びた前髪のすき間から、ブルーグリーンの瞳だけがハッキリと見えた。
 敵ではないだろう。レフに毛布をかけてくれた主だ。
 目許の幼さと声から、青年に達しかけた自分より年下だろうと、肩の力を抜いた。
「あのっ、ごめんなさい……あなたがっ、倒れてて、ちょううど通りかかって、それで――――」
 ボロ布の塊はレフを森の奥深くで見つけたといい、放っておけば獣たちにやられてしまいそうだったと、言葉を詰まらせながら懸命に説明をする。
 レフの反応が気になるのか、人の顔を見ては時々落ちつきなく部屋をうろつき、室内のあちこちにけつまずいている。
「そうか……礼をいうよ。ありがとう」
 レフの言葉にコリンと名乗る少年の目は輝いた。
 何がうれしいのか、腹が減らないかとか、喉は渇かないかとか、しきりに世話を甲斐甲斐しくやいてくる。
 スラム育ちのレフはで人を見る目には自信を持っており、コリンは悪人ではないと本能的に感じていた。
 汚れのない澄んだ瞳、懸命に話を伝えようとする真摯な態度。
 行きずりの人間に慈悲を与える、心優しい少年にも森の中で一人暮らしする理由くらいあってもおかしくない。
 そもそもこの小さな恩人に助けてもらえなければ、疲れと痛みで気を失ったまま、陰気な森を徘徊するオオカミたちに引き裂かれていただろう。
 外で聞こえるのは鳥の声だけの鬱蒼とした森にいると、町の混乱は別世界のように思えてくる。
――――この少年もそう思っているのだろうか。
 町で起きている出来事を話して聞かせても無反応で、戦争の可能性の話をしても恐れも驚きもみせず、別世界の話のように、相づちをうつだけだった。
 コリンは古い貯蔵庫からみすぼらしい小屋に不似合いなちょっとしたサンドウィッチを取り出し、レフの目の前に置いた。
 皿ごと食べるような勢いで貪るレフを、コリンは満足したように眺めていた。
 昼の間はまだ傷のうずくレフのそばを片時も離れずに過ごし、夜になると一つしかないベッドをレフに譲り、自分は冷たい床の上で丸まった。
 これほど見ず知らずの他人に親切にされるのはいつ以来だろうか。
 覚えていないくらい昔に思える。
 とても不安なはずなのに、その夜は何もかも忘れてぐっすり眠ることができた。


**


「森の中に魔法使いがいるってじいちゃんに聞かされたことがあった。でもこの目でみるまでは信じてなかったよ。本当にそんな種族がいるなんて」
「種族っていってもこの森には僕しかいない。僕の他は全員キチンとした一人前の魔法使いになって別の世界にいっちゃったよ」
 コリンは諦めたような笑いを一瞬だけ見せたが、またすぐに早足で歩き始める。
 彼のまめまめしい看病のおかげで二、三日もするとレフはすっかり元気になった。おかげでこうして薪にする枝を探しに来れるほどの回復した。
「おいっ、ちょっと待てって……迷っちまう。魔法使いってみんなこんなに歩くの速いのか?」
 コリンは慣れた様子で獣道を迷いなく進むけれども、レフの方は何度も歩いたに関わらず、深い森の中では、方向を見失いそうだ。
「さあ? でも僕はここに何十年かいるけど迷ったことはないよ」
「何十年?」
「そう」
 コリンが魔法使いと気づいたのは偶然だ。
 部屋に置かれた貯蔵庫の食材が絶えないのを不思議に思い訊ねてみると、「魔法がかってるからだよ」とアッサリと告げられた。
 コリンの使う魔法はほんのわずかで、火をつけたり、バケツに水を溢れさせたりする程度だったせいでなかなか気づかなかった。
「そういえば森が豊かなのは魔法使いのおかげだって聞いたことある。魔法使いたちが植物や動物を癒やしているって。魔法使いの邪魔をするなと聞いたことあるな」
「癒やしは僕たち種族の一番大切な仕事だ。僕以外はみんな癒やしの魔法をマスターしてここから出て行ったよ。残ったのは僕だけ」
「コリンが一番年下なんだろ。仕方ないさ」
「見かけだけさ」
 コリンは薄く笑った。
「僕は未熟だから成長しないだけで、実際は何十年も生きている。一人前にならないと大人になれないんだ。なぜか僕の魔法はすぐに変な方向にいくらしくて、感情に振り回されるなってよく注意された」
 コリンは自身を戒めるように、ゆっくりとしたテンポで話した。
 それでもレフの目には彼が今の生活で満足しているように見えるのは、彼のもつ穏やかな雰囲気のせいだろうか。
 コリンは自分のことを修行中の半端者と呼んでいた。
 同じ年の魔法使いたちはとっくに一人前となり、それぞれ努めを果たしてい
るらしい。そして長い間森にいるが、こんな風に人間と話すのは初めてだと話した。
「魔法使いって誰でもなれるのか? その……例えばおれでも? なれればいいなあ……そうすれば町に入ってきた奴等を簡単に追いだせる」
 レフは下品な手のサインをして見せたが、コリンにはまるで通じてないようだった。
「うーん……僕たちは生まれつきの感覚で近くにケガ人や動物がいれば分かる。でももちろん万能じゃなくて、失敗して死なせちゃうこともある。大きな動物ほど癒やすのは難しいんだ。植物は簡単なんだけど」
 コリンがそういうと、足もとの枯れた草に向かって何かを呟いた。コリンが見つめている枯れ草はみるみると春のような濃い草に変わった。
「でも何もせずに放っておけば死ぬだろう。死よりはましさ」
「レフ、自分の命ならまだしも他の命を左右するのは勇気がいる。僕みたいな半端者ならなおさらで、僕はいつも躊躇しちゃうんだ」
 ひと休みしよっかと、コリンは日の当たる開けた野原で立ち止まり、薪でいっぱいになったカゴを脇に置いた。
 レフが隣に腰を下ろしたとき、岩影に隠れていた子ウサギが人の気配に飛び出した。
「かわいいなあ。子ウサギって毛がフワフワだな。初めて見たよ」
「そうだね。でも、僕はきつねの子どもの方が好きだ。ウサギは生態系でも弱い部類だから傷を負ってる個体が多いんだ。あのウサギもすぐにケガしちゃうと思うとカワイイよりもかわいそうだと思っちゃうよ」
「ケガをした生き物にいちいち同情なんかしてたら一人前になれないんじゃないか?」
 軽い気持ちで口にしたが、しまったと思った。
 そうだよね、と答えるコリンの諦めたような笑いは、どこか悲しげだった。
「ごめん……おれ、何も知らないのに。コリンは何年もここに一人でいるのに。本当にごめん」
「いいよ、レフのいうとおりなんだ。でも……でも、ね。確かにおれはケガをした動物に同情しちゃうようなダメな魔法使いだけど、一つだけできることがある。僕以外は多分誰にもできない魔法だよ」
「へえ、すごいじゃんか。どんなこと?」
「ちょうど近くに感じる。ちょっと来てみて」
 立ち上がったコリンの後につづくと、背の低いトウヒの木の前で立ち止まり、軽々とした身のこなしで木を登った。そして何かを手にしてすぐに降りてきた。
 手の中には産毛だらけの小さなヒナが見え、懸命にコリンの手から逃れようとしているけれども、足の動きがどこか不自然に見えた。
 コリンは目を閉じて何か呟やいた。
 おそらく彼は魔法を使ったのだろう。
 コリンを取り巻く空気が一瞬尖り、そして柔らかく変わった。幾重にも重なった空気が瞬時に入れ替わったように思えた。
 わずかな時間の後、ヒナは急にコリンの手の中で忙しく動き始め、コリンはうれしそうにヒナを見つめた。
 ヒナを巣に戻して戻ってきたコリンは、片足を引きずっている。
「僕だけができる魔法さ。癒やすことは出来なくても相手の傷を引き受けてやることはできる」
「コリン……いつもそんなことしてるのか?」
 ブルーグリーンの瞳はレフの賞賛を待つように生き生きとしていたが、レフは何もいわなかった。
「あのヒナは足をどこかに引っかけたみたいで足を痛めてた。誰に習ったわけじゃないのに僕はこの魔法が使える」
 得意げに両手を広げてみせるコリンの右手を見て、小指がかけているのに気づいた。
「お前……もしかしてその指も?」
「前に骨折したキツネを癒やそうとしたら、失敗しちゃって、足から出血させちゃったんだ。しばらく家に連れて帰って様子を見てたんだけど、そのうち自分の足を舐めすぎて指が腐ったみたいだったから……」
「キツネのケガを自分に?」
「うん。僕の指は十本あるし」
「コリンッ!」
 怯えたような目を向けられ、汚れた布ごしに肩を掴んでいた力をすぐにゆるめた。息をのむコリンの目を真っ直ぐに見据える。
「そんなことすべきじゃないっ……絶対に止めておけ」
「レフは僕の姉と同じこというね。大丈夫だよ。ぼくだって死にたくない。じゃなきゃ今、ここにいない」
 ふと、思った。
もしかすると町に興味を持たないのは、ケガ人だらけの町に自分が行けばどうなるかを、何となく感じているんじゃないだろうか。
「この先に流れの緩い川がある。そこで体を洗える」
 レフが案内されたのは、穏やかな水の流れる場所だった。
 頭上を遮る木がないので、青く澄んだ空が近い。雲が切れ切れに流れていき、川の水も冷たさを感じない。
 レフは血や泥に汚れたシャツとジーンズを脱ぎ捨て体を洗ったが、コリンは水際でちょこちょこと足を洗うだけだった。
「入らないのか?」
「僕はいいんだ。気にならないから」
「おれが気になる。体と一緒にその汚いマントも洗え」
 出会った時からコリンの恰好が気になっていたので、マントごと川に引き込んだ。水を吸って重くなったマントをはぎ取ると、マントの下は全裸だったので驚いた。
「汚いなんてひどいなあ。これでも魔法使いのシンボルマントなんだ。この世界にいる僕たちの種族はみんなこれを着るんだよ」
 明るい太陽の下に晒された白い肢体に、言葉が出てこなかった。
成長途中の若木のようなしなやかな体の上を、光を含んだしずくが流れ落ちている。
「レフ、どうかした? ああ……そうか」
 光をまとった美しい体から目を離すことができない。
 身動きできずに見入っていると、コリンが近寄ってきてレフの腕を持ち上げた。
「な……に?」
「体、痛くて洗えないでしょ。僕が洗ってあげる」
 薄い体に細い腰。目の前でみると滑らかな白い肌は、輝くようだ。
 同性相手におかしな気分になりそうだったので、伸びてきた細い手を慌てて拒否し、代わりにコリンの髪をきれいに洗ってやった。
 固くこびりついた泥を丁寧に落としてやると、現れたのは蜂蜜色の髪だった。肩まで届く濡れそぼった髪が白いうなじにぴったりとはりつくさまに、下半身が急に熱くなった。
「レフ?」
 思わず後ずさった。
 神々にも愛されそうな無邪気な瞳は太陽を宿し、ブルーにもグリーンにも見える。
 コリンが動くと、彼をとりまく光も揺らめき、空から降りてきた光りの化身のようだ。
「きれいだ……お前人間か?」
 はじめぽかんとしていたコリンは、やがてクスクスと笑った。和らいだ表情は小さな花が咲いたようだ。
「そんなこというのはレフだけだよ。森で出会った人間はおれの姿を見るとたいてい悲鳴をあげて逃げちゃうのに」
「……おれだって初めは逃げようと思ったさ。でも今のお前は、人を惑わす魔法使いみたいだ」
 濡れた頬に指先でこわごわ頬にふれてみたけれども、コリンは嫌がらなかった。じっと目を閉じたままで、レフにされるがままだ。
「おれのこと……少しは好きか?」
「少しどころかすごく好き。だってレフはとっても優しい。初めて会った時も逃げ出さないし、僕に石を投げつけたりもしない。僕を怖がらないし、一緒にご飯を食べたり、星を見たりしてくれる。だから大好き!」
 裸のまま勢いよく抱きつかれ、互いの肌が合わさりくらくらした。
 コリンの好きはきっと子どもっぽい感情なのだ。
 レフ自身も恋愛経験は乏しく、この感情が欲望かどうかも分からない。
 それでもコリンの無防備さに体の芯が熱くなり、自分を抑えられなかった。
「キスしてもいい?」
 無意識に手が伸びて返事を聞かずに唇を重ねてしまった。
 逃げられることもなく、嫌がる素振りも見られないけれども、コリンの目は大きく開かれたままだ。
「嫌じゃないなら、目を閉じて……頼む……口を開けてくれ」
 コリンは睫毛を震わせながらゆっくりと目を閉じた。
 再び唇を重ねて、唇をやわらかく食み、舌を滑り込ませる。
「んっ……んん」
「こわいことしないから……おれに応えて」
 背中をさするとコリンの肩から力が抜けていく。
 控えめに応える舌をさらに深く追いかけて、小さな口の中を味わった。
 裸体のまま、互いの腰が密着するともう止まらなかった。
「コリン、もっと……いいか?」
 しっとりと潤んだ瞳が不思議そうに見上げてくる。
 華奢な肩のラインにそってそっと唇を這わせるとコリンは体を少し強張らせた。かがんで胸の飾りのような突起を唇で吸うと、「ああっ」と、背を丸める。
「痛い……? じゃあ舐めてあげる」
 頭も体もどこもかしこも熱くなっていた。唇を白い体に這わすうちにコリンは甘い吐息をもらしはじめた。
 無我夢中でコリンの細い体に口づけ、白い性器をさすった。


**


 深い森に守られるようにしてコリンと暮らしはじめて数週間が過ぎていた。初雪がちらつきはじめたころに、レフは気になっていた家族の安否を確かめに行きたいと、コリンに打ち明けた。
「一度町に戻ろうと思う」
「すぐに帰ってくる? 絶対に? 約束してくれる?」
 細い腕でレフの体を捕らえ不安そうに見上げてくるコリンに微笑んだ。
 あれから拒まれないのをいいことに、毎晩のように愛し合っている。
コリンの感情がたとえ情でもかまいやしないと、思えるほどに、愛しい存在になり始めていた。
「もちろんすぐに戻るよ」
 額にキスをして、前髪を指ですくと、コリンは安心したようにレフの胸に頭を預けた。すぐにまたこの瞳を見られると考えていたけれども――――。
 町に戻ると紛争は大分収まったようで、町は落ち着きを取りもどしはじめていた。廃墟の中で家族の安否を無事を確かめた後、すぐに森へと引き返した。
 小屋が見えてホッとしてのはつかの間で、妙な胸騒ぎを覚えた。
 三日前までは周囲の下草はいつもコリンが癒やしているので、季節に関係なく青々と茂っていた。それが今は全て枯れてしまっている。
「コリンッ!」
 小屋へ飛び込むと鼻を突く嫌な臭いがした。
 床は吐しゃ物でひどく汚れており、部屋の中は冷気で満ちていて、暖炉に火も灯っていない。
 青白い顔でベッドに横たわるコリンを見つけ駆け寄った。
「どうしたっ……? 何があった?」
「……良かった。もう会えないかと思ってた」
 毛布をめくると体のあちこちに動物のかみ傷があった。乾いたどす黒い血が固まっている。
「一体……? どうして?」
 布を水に浸し、膿が垂れている傷口を必死できれいにした。
 水を飲ませてやると、コリンはかすかに微笑んだ。
「呼ばれるような声がして外に出たんだ。そうしたら子鹿がうずくまってて……足をくじいたのかと思ってた。ちょっとしたケガだなって……勘違いしちゃったんだ」
 コリンはかなりしんどいらしい。目を閉じたままだった。
「……魔法を使ったんだな」
「うん。何かの病気だった。引き受けの魔法を使った途端に体が急に重くなって……気を失うみたいに森で倒れたんだ」
「いい。分かった」
 息づかいが荒くなったので背中をさすると、コリンは苦しそうに息を吐いた。
「日が落ちた後、動けないところを野犬に襲われた。メチャクチャにいろんな呪文を唱えて、ここまで戻るのが精一杯だったんだ」
「……何もいうな。その代わりおれのいうことを聞いてくれ。コリン、お前のケガはおれが引き受ける」
「え……?」
「おれはお前よりも体も大きくて体力もある。今回離れてつくづく感じたよ。……本当にお前が好きなんだ」
「なっ、何を言い出すんだ……できるわけがない」
「いいからいうことを聞け。おれは死なない。だってお前と一緒に暮らすためにここに戻ったんだ」
「絶対にやらない、やるわけない。僕が負うべきことだよ」
 頑なに首を振り、いくらレフが説得してもコリンは頷かなかった。
 そのままずるずると幾日もたってしまい、山犬の傷は癒えても、瞳はすっかり輝きをなくしていた。
 レフの焦りをよそに、とうとうコリンはベッドから起き上がれなくなった。
 久しぶりに雨の降った温かいある朝、コリンは珍しくレフよりも先に起きていた。
 まるで雨を待ちかねていたように、目覚めたレフに壁に飾ってある手の平ほどの四角い鏡を、雨で濡らしてほしいと頼んできた。
 濡れた鏡を手渡すと、コリンは何か鏡に向かって呟いた。
 すると小屋の外で何かが草を踏むような気配がしたあと、突然長身の老女が
現れた。
レフには見向きもせずに、コリンの枕元にしゃがみ込み、何かを話している。
「僕の姉だ。僕らは死ぬ前に命と引き換えに最後の願いすることができる。僕は長い間この森で過ごしてきた。だから森の一部にしてもらってずっとあなたを見守っていこうと思う」
「……最後の願い? 聞き違いだよな?」
「姉は優秀な魔法使いなんだ。僕の願いを叶えてもらうために呼んだ」
「そんなっ……! 優秀な魔法使いなら魔法が使えるんだろう! つまり何でも出来るじゃないか!」
「魔法で歪められた傷は、誰にも癒やせない」
 老女は年配の魔法使いらしく、全く取り乱さずに淡々とこたえる。
 低く物静かな声は、反論を許さない雰囲気があった。
「じゃあコリンの傷をおれにうつせ。家族ならコリンに助かってもらいたいだろうが!」
「傷をうつす魔法は私たちの間でも神秘です。コリン、お前の最後の望みは私が責任もってしっかり叶えよう」
 老女の手が額にあてられると、コリンは「お別れだ」と微笑んだ。
「止めろぉぉっ!」
 全身が総毛立つような思いで叫んだ。



**


「コリン……頼むから顔をあげてくれ。そんなに泣いてばかりじゃ脱水症状でも起こしちまう。いいか……おれはお前の姉さんにたくさん金をもらった。だからお前が気にすることないんだ」
 内臓が引きつるような痛みを感じる病気だったけれども、絶対に死ぬまいと固く決意していたおかげか、あれから一ヶ月ほどたった今でも運良く生きていた。
 コリンの懸命な看護もあってか、最近はやっとベッドから体を起こせるほどに回復しつつある。
「気にしないわけない……僕はあの時の自分に会えるなら殴ってやりたい。いくら痛みで朦朧としていたからって姉さんの言うとおり他の人にケガをうつすなんて……」
「何度も説明しただろう? おれは偶然この小屋の前を通りかかった。ちょうどお前は痛みで苦しんでいた。金ほしさに無理矢理姉さんに頼んだのさ」
 コリンの姉はレフの望みをきちんと聞いてくれた。
 コリンの中にあるレフとの記憶を消すこと。それと傷を肩代わりするという魔法をコリンが二度と使えないようにする忘却術。
 二つ目の願いは難色を示していたが、覚えていたらおれの傷をまた背負うと脅すと、決意してくれた。
 そして記憶を消されたコリンが混乱している間に、うまいことコリンを丸め込み、おれに背負わせた。
「本当に自分のしたことが信じられない。子鹿を癒やしたら体が動かなくなったところは覚えてるんだ。その後、頭がぼんやりして気づいたら姉さんがいて、目の前であなたが苦しんでいた」
「痛みで前後不覚になってれば差し出された手を掴むのは当然だ」
「僕はまるで覚えていない。それになぜかたった一つの魔法まで失っている」
「金のためっていったろう」
 レフに関する記憶を消して欲しいと頼んだのは、コリンの罪悪感を軽くしてやりたいとの思いからで、自分が死んでも、重荷を背負わせたくなかったからだ。
 それでもコリンは小さな肩を震わせ、ブルーグリーンの瞳がとけるんじゃないかと思うほど、悲しみに浸っている。
 この美しい瞳を思い命を賭けた。
 どうすれば泣き止んでもらえるか、レフには全く分からなかった。
「もう泣くなよ。なあ……考えて見ろよ。これでコリンはもう指を失うこともないだろ? 本当の意味の癒やしをマスターすればいいんだ」
「……どうして?」
「ん?」
「あなたは僕と出会ってからずっとベッドにいて、僕はあなたにそんな話しをした覚えはない」
「ああ……お前の姉さんに聞いたんだ」
「姉が? 姉は人とそんな風な世間話をするような人間じゃない……」
 コリンは泣くのをやめてレフを見つめた。長い沈黙が訪れた。
「あの……僕、あなたと前にどこかで会ってませんか? その……あなたがケガをする前とかに、森で」
 不意打ちの言葉に鼓動が急に早くなった。
 覚えているはずはない。それでもわずかな期待が胸をよぎった。
「なぜ? なぜそんなことを?」
 緑の瞳は不安げに睫毛をゆらし、やがて軽く息をついた。
 黙り込んだまま視線を宙に彷徨わせ、何か口に出すのを躊躇っているようだ。
「実は……夢を見るんです。それも毎晩。夢の中であなたと一緒に川で泳いだり、森を一緒に歩いている。ハッキリと言えないけど、あなたのことを深い部分で知っている気がするんだ」
一旦言いにくそうに視線を落としてから、真っすぐに瞳を向けてきた。決心したように口を開く。
「初めは苦しそうなあなたを見て、取り返しのつかないことをして混乱しているんだと思ってた。でも夜だけじゃなくて、昼間でも目を閉じると必ず夢にあなたが出てくる。夢の中のあなたと僕は……」
 言葉を途切らせコリンは俯いた。頬が赤く染まっている。
「……愛し合っている?」
 レフの言葉に緑の瞳がなぜと、大きく開かれた。
「コリン、おれは君を知っているんだ。少しの間だけど確かに一緒に過ごした。覚えてなくてもおれは忘れていない。朝露で湿る草むらを歩いてあまりの足の冷たさに二人で笑ったことや寒い夜にドアの隙間から星空を見たこと。いつも生きているだけのおれにとって最高の日だった。だから……おれは未練がましくここにいるんだ」
「……僕が生きているのはレフのおかげなんだね? でも僕はレフと一緒にいていいんだろうか?」
「コリンが決められないなら、おれが決めてやるよ。……そばにいてくれ」
 泣き止んで欲しいのに、コリンは再び涙をポタポタとこぼしはじめた。
「あっ……えーと、ごめん。勝手に決めて悪かった。おれは本当に大丈夫だから、頼むから泣かないでくれ」
 弱り切った顔をしていると、コリンは涙を拭ってグシャグシャな顔で笑った。
「レフ。すごく抱きつきたい。いい?」
「……自惚れちまうぞ」
「たくさん自惚れていいよ。レフが大好きだ」
 コリンは恥ずかしそうに宣言してから、レフの胸に顔をうずめた。

スピカ
グッジョブ
1
YUKINOYU 16/02/25 19:34

コリンが可愛いです!
途中のシーンでは、レフの気持ちが分かります(^ω^*)
悲しい話なのかと思ったら……………よかったです。
読ませて頂きありがとうございました!

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