>
>
>

第2回 BL小説アワード

満ちる月夜に現すものは

エロあり/がっつりファンタジー/男の娘

「女」になりきれず、「男」も捨てられない自分が嫌で嫌でしかたない。いっそこのまま魔物に喰われてしまいたい。この秘密をあのひとに知られてしまうその前に。せめてひと思いに。

藤井流星
グッジョブ

 忘れもしない、あれは美しい満月の夜の出来事だった。
「いいこと、ミルテ。心穏やかにしっかりとお聞き。一度しか言いませんからね」
「はい、おかあさま」
「ミルテ。あなたは本当は……男の子なのですよ」
 母のあまりの突拍子もない言葉に口が開いたままなにも言えず、終いには泣き出すことしかできなかった十の自分。あれから五年経ったいまでは、当時にはいっそ想定できなかったはずの抗えない現実がある。
 好きな男を想い、ひとり自分を慰めることを覚えた。女性を好きにならなかったのは必然かもしれない。ただ、欲に溺れる自分はひどく空しく汚らわしいものだと感じるようになった。
「女」になりきれず、「男」も捨てられない自分が嫌で嫌でしかたない。いっそこのまま魔物に喰われてしまいたい。この秘密をあのひとに知られてしまうその前に。せめてひと思いに。


   ☆


「姫様。やはりじいもご一緒に」
「いやよポルカ。あなた、演技ヘタだし」
「まあ姫様ったら」
 ポルカの隣でカラカラと笑うルビィは、年頃になってますます美しくなった。栗色の髪を顎の横で揃え、薄く化粧をした頬はほんわりと膨らんでいる。年々増してゆくこの下女への嫉妬心。自分より背が低く丸みのあるルビィに成り代わりたいと願ったのは、一度や二度のことではない。
 ミルテの背は軽く頭ひとつぶんルビィを追い越してしまった。体毛が極端に薄く、顔も母親に瓜二つと謳われるほどに女性として違和感はないはずの自分。声だって変声期を終えてもそう変わらなかった。ただひとつうまく制御されてくれないのが、この身長。それが逆に往生際悪くミルテを美に執着させる。
「ポルカ殿。わたしにお任せ下さい。必ずや姫様をお護りいたします」
「頼みましたぞ、アル殿」
 ミルテの隣に立つ長身の男が、恭しくうなずく。その低く艶やかな声を耳にするだけで、心には小さなさざなみが巻き起こる。
「いってらっしゃいませ。お気をつけて」
 元気のいいルビィの声に送り出され、ミルテはアルと共に城壁を背に橋を渡り始めた。これで三度目の、城下へ降りる日。前回、前々回と、演技力のないポルカがやたらとやらかすのでまったく楽しめなかった。よって、今日のお供は王室魔法使いのアルただひとりだけ。これまでも毎回同行してもらっていたが、ふたりきりというシチュエーションは初めてだ。
 城下へ降りる道は全部で四つ。一番小さな橋がここだ。王族専用の隠れ橋。向こう岸にたどり着けば、いつの間にか城下の一角に佇んでいる。なんでも強力な魔法で護られているらしい。よって、この橋から城下へ降りるには魔法使いの同行が不可欠。
「ミルテ様。今日は口数が少なくていらっしゃるのですね」
「そ、そんなこと、ないけど」
 しどろもどろになってしまった。ひとりで焦るミルテを見下ろしながら、アルはくしゃっと表情を緩ませる。
「おかわいらしいこと」
「えっ」
「簡素な身なりでも気品は誤魔化せませんね。悟られないようお気をつけくださいませ」
「……あ、なに、この服装のこと……」
 肩透かしを食らったようで、思わず口のなかだけで呟いてしまう。アルは小さく笑っただけだった。
 町へ降りる際には、くすんだ色の羽織者とズボン姿に腰エプロンを着け、下働きの子どもに変装している。アルのほうは、逆にミルテの雇い主に見えるように商人風の変装を。マントをつけた正装姿も好きだが、ミルテはこの魔法も使えない凡人のような姿をしたアルも好きだ。いい男はなにを着ても似合う。アルの深い群青の髪が揺らめくのを見て、ミルテは知らず胸に手を当てていた。


 ミルテが男であるという事実は、城でもごく近しい一部の人間しか知らない。上に王子がふたり。王が女児を切望していた当時、落胆させないようにとついた嘘。縁談が舞い込みそうになれば、母は難癖をつけて全力で阻止してきた。娘を目に入れても痛くないほどに溺愛していた父王は、まるでじわじわと洗脳されるようにして、ミルテを他国へ嫁がせる思想を捨てていった。結果編み出された王女の未来は、国民の志願者を募ってのお見合い合戦。ミルテが十六歳になる年に開催される予定のその嫁入りイベントは、もう翌年に控えている。いよいよという際に彼女が困ることのないよう、城下の現状を知っておくためのお忍び町探検と、家事一切の花嫁修業は必須。そう言いだして実行に移させたのも、やはり母だった。
「嫁入りなんてできるわけないのに」
 口の中だけでもごもごと呟いて、ミルテは街並みを改めてぐるりと見回した。建物の色は白く浮き立って、頭上にはオーロラのような布地の波。光を浴びてさまざまに輝く簡素な雨避けの下、普段の生活ではまず見ることのない食材や雑貨などが所狭しと並べられた店がずらっと続いている。折り重なるようにして作られた布の屋根のおかげで、空が見える範囲が極端に少ない。
「ノア」
 唐突に、アルの厳しく抑えた声音が耳元に注がれた。思わずビクッと身体ごと震える。ノアというのは、町に出るときのミルテの偽名だ。振り返ろうとするより一瞬先に、アルの大きな手のひらがグッと両肩に置かれた。今度は心臓だけが脳天を突き破るほど飛び跳ねる。
「不穏な匂いがします。とりあえずここを離れましょう」
「ええ」
 魔法使いには特別な臭覚が備わっているという。素質がなければ修行すらできない厳しい世界。そこへ踏み入るために最も重要なのが、この臭覚の有無なのだ。無論、ただ姫を演じているだけのミルテには持ち合わせがない。
 アルの背中に護られるようにして、ミルテはただ前を見て色の洪水の下を歩く。かかとを着くたびに鳴る靴音が、ふたりぶんだけやけに響いて聴こえた。それだけ神経が研ぎ澄まされているのだ。恐らく、アルとは違う方面に。
 アルの手がずっと肩に置かれっぱなしだ。それだけ、たったそれだけのことがいとも簡単にミルテの動悸を激しくさせる。
「走りますよ」
 緊迫した声に続いて、サッと離れた手が今度はミルテの白いてのひらに触れる。あっという間もなくそれを握られ、強く引っ張られた。全速力に慣れていない足がもつれそうになる。転ばないように必死で足を動かした。
「くそっ、追ってくる……!」
 前を走るアルが苦々しげにそう吐き出す。振り返った視線の先、のどかな風景に自分たちの跡を残すように風塵が起こっていた。突然砂をかけられて目を覆う者、足を掬われて倒れる者。赤い屋根のひとつがガタッと音を立てて唐突に傾いた。どよめきが起こる。見えない敵を追って、風塵を頼りに数人の男たちが棒切れや鍬を持ち駆け出してくる。まるで自分が人間にまで追われているようで、ミルテはゾッとした。
「アル……!」
「開けた場所まで逃げきるしかありません。ここでは闘えない!」
 アルの言うとおりだ。狭いこの場所では町の人々に被害が及んでしまうかもしれない。走るしかない。姿を現さないアヤカシの狙いは、恐らくミルテ自身。王族の濃い血の匂いはアヤカシをおびき寄せるのだ。だから城には強力な結界が張られている。しかし町には否だ。
 このままおとなしくアヤカシの餌食になって食われてしまったほうが幸せなのだろうか。アヤカシは新鮮な死人の肉が好物だと聞く。
「ノア! 走って!」
 思わず弱まった足取りに、すかさず引っ張られた。朦朧と手放しかけた意識がハッと一瞬にして戻ってくる。あれ、いま一瞬なにを考えていた?
 隙を突くように、砂埃がぶわっとミルテの足元に迫ってきた。距離が近い。思ったそばから、足首に見えない指のようなものが触れた。
「ひっ」
「ノア……!」
 瞬間、ふわっと身体が浮いた。かと思うとアルの胸のなかにいた。立ち止まったアルが、空いた右手をスッと滑らかに突き出す。風に乗らない呪文を唱える。その身体に尋常でない熱が宿り、次の瞬間にはミルテの足元にまで来ていたらしい魔物の姿が露わになった。骨ばった身体に土気色をした肌、口は尖った耳の付け根まで裂けている。ぎょろりと大きな双眸は濁り、キョロキョロと絶え間なく動いていた。
「うわああああっ!」
 いきなり姿を現したアヤカシの生々しい姿に悲鳴を上げ、武器を持った男たちがバタバタとその場に尻餅を着く。
「こい、オレが相手をしてやる……!」
 ミルテを胸に強く抱きしめたままで宣言するアルの凛とした声がすぐそばで聴こえ、ドクドクと血流が乱れるのを感じた。こんなときなのに、アヤカシに襲われるより怖いことがミルテにはある。早く離れたい。離れたい。鼓動で耳が聴こえなくなりそうだ。
「アル、お願い、放し」
「じっとして、ノア」
 有無を言わさずアルが囁き、続けて指笛を吹いた。訓練をする姿をいつも上から眺めていたので知っている。相棒を呼んだのだ。
「グウアアアアアア……!」
 どちらへ向かうか逡巡していたアヤカシが、濁った眼をこちらへ定めバッと掴みかかってくる。それをアルはまた伸ばした手の一撃で阻止した。
「ソフィ!」
 アルの叫びが空へ向けられたと同時に、大きな影が頭上を埋めた。アヤカシが巻き起こしたものとは別の小さな竜巻のようなものが、空へいくつか立ち上がる。見上げると、アルの相棒であるドラゴンのソフィが上空で緩やかな羽音を響かせていた。目が血のように赤く、焔のような鱗を纏ったドラゴンだ。
「ソフィ、ノアを頼む!」
「グアアアアアアアアアア……!」
 叫び声を掻き消すような咆哮とともに、アヤカシが高速でミルテの目の前に迫ってきた。悲鳴を上げるより先に、しかしミルテの身体はふわりと宙に浮いていた。そのまま見えない糸に手繰り寄せられるようにして、遥か上空にいたはずのソフィの背中にスポッと収まる。しっかりつかまれとでも言うように、ソフィが微かに喉を鳴らした。
「アル……! いやっ、アルっ……!」
 ふさふさした紅蓮の羽毛につかまりながら、夢中で名を呼ぶ。急速に遠ざかる視界の端に、魔法使いとアヤカシの繰り出す閃光の渦だけが揺らめいて、洪水とともに壊れて消えた。


   ☆


 ソフィが降り立ったのは、隠れ橋に程近い草原だった。
 町の賑わいから離れ、とても闘いの経過を推し量ることなどできない。静かだ。見渡す限りの緑の床。心地よさそうに風に揺られている。明らかにこの間近に町があるとは思えない光景に、ミルテはここに存在しない男の魔法の力が働いているのを確信した。
 幼い頃は、魔法使いという人種が心底羨ましかった。なぜ自分にはなんの力も備わっていないのだろう。もしもなにがしかの力が備わっていたならば、これまでの生のどこかで本来の姿に戻ることを許されていただろうか。アルとだってもっと別の関わりができていたはずだ。潜在能力さえ備わっていれば、たとえ王族であっても正規の教育を受けることができる。彼の部下になる自分を想像したことだって、一度や二度じゃない。
「アル……」
 草原に腰を落ち着けたドラゴンの背中から降りることができない。ソフィのぬくもりが胸に沁みる。
 アル、無事でいて。心を占めるのは祈るようなその想いだけだ。自分の恐怖は、彼を失う恐怖。もう手遅れだ。この気持ちを覆すことは不可能だろう。
 クウン、とふいにソフィが甘えたような声を発した。ハッとして顔を上げると、ちょうど目の前に小さな竜巻が発生するところだった。
「アル……!」
 姿を見せる前にそれとわかった。すぐに風の滞留は緑の大地に吸い込まれ、青白い顔の魔法使いが姿を現す。見たところ怪我はなさそうだ。
「アル、よかった……!」
 いままで羽毛にしがみついて震えていた手も足も急速に熱を取り戻し、ミルテの全身に血を通わせて動き出すことを許す。気を利かせて首を下げてくれたソフィの背中から飛び降りると、ミルテは無我夢中でアルのもとへと駆け寄った。
「ノア……!」
 ミルテがなにかを発するより先に、突然身体に痛いほどの重力がかかる。その一瞬あと、ようやくアルに抱きしめられていることに気づいた。カッと顔に熱が集中する。と同時に、本能的な危険を感じた。
「ご無事でよかった。ミルテ様」
 耳元で囁かれてゾワゾワした。嫌な感覚とは真逆で、思わず腰が砕けそうになる。必死で自分を律し、ミルテは精一杯アルの胸を押し返そうとした。けれどうまく力が入らない。足がガクガク震える。突如くず折れそうになった姫を支えようと抱きしめ直され、ふたりの身体はより密着してしまった。
「ご安心なされたのですね」
 違う。違うし、近すぎる。
 頭が沸騰しそうだ。きっと真っ赤になっているけれど、心配は最早そこではない。今日は普段のようなドレスを着ていない。ドレスのふくらみは、ミルテにとってはそのままバリケードだ。護りの少ない自分の身体が他人に触れることは許されないのに。
「落ち着いて。もう危険は……」
 宥めるようなアルの台詞が不自然に止まる。続きは出てこない。ギクッとして顔を上げると、アルが目を見開いてこちらを凝視していた。
「……っ!」
 相手の力が弱まったその瞬間に、大きな身体を精いっぱい突き放す。先ほどまでびくともしなかったアルの身体は、あっけなくフラフラとミルテから離れていった。
「は、はやく帰りたい」
「……仰せのままに」
 視線の噛み合わなくなったふたりを、ソフィの大きな双眸だけが不思議そうに見つめていた。


   ☆


 城下町の一件から三日が過ぎた。
 隠れ橋の城側でミルテをポルカに引き渡して以来、アルはパッタリと姿を現さなくなった。これまでは毎日のようになにかにつけてミルテへの挨拶を欠かさなかったアルなのに。
 昨日ルビィに尋ねてみたところ、仕事は普段どおりこなしているし、廊下ですれ違えば世間話をするくらい変わりがない、とのことだった。
 そうなるともう理由は歴然。ミルテを避けている。女の子ではない姫になど会いたくもないのだ。気持ち悪いのだ。自分は嫌悪された。
 ……もう死にたい。
 嘘でもなくそう思った。事実、自分の立場を省みなければそうしていた。それくらいの喪失をした。一番知られたくない相手に秘密を知られた以上、自分の生きている価値はなくなったも同然だった。
 ただそれは、あくまでもミルテ個人の話だ。現実には、正統派で生きていたならば一国の王子であった身だ。たとえ王女として生きているとしても、王族としての誇りは兄たちと等しくあるし、責任だってある。自分が安易に命を絶ったとして、迷惑を被るのは身内だけでは済まされない。なにより、悲しむ人間だって大勢いる。それが偽りの姫としての自分を対象としていても、相手側にはそんなもの関係ない。
 口止めをしなくてはならない。
 自分はもうどうでもいい。けれど母の嘘を貫き通すのが自分の務めだ。世間に向けた生きる価値だ。だから護らなければならない。魔法も使えない自分。男のくせに剣も使えない自分。護る方法など大してありはしない。けれど、とにかく秘密が漏れてしまうことだけは避けなければならない。まだなんの異変も耳に届かないいまのうちに、口止めを。
 今朝、ルビィに内緒の言伝をお願いした。ほかの誰にも悟られてはならぬ。ポルカにも、母にも、父にも、誰にも。
 窓辺で黄色く浮かぶ満月を見上げて、ミルテは先ほどから大きく深呼吸を繰り返している。今宵は月が明るいお陰で、普段は見ることのできない深海のような藍色が美しく家々に折り重なるように滲んでいる。その海の上を、鮮やかなランプの明かりが点々と泳いでいた。その感嘆するほどの美しさが、ミルテの胸に冷たい水を湛えてゆく。満月は嫌いだ。
 ノックの音がした。
 小さな音色にビクッと心臓が跳ね上がる。
「ミルテ様」
 控えめに控えめに発せられた声は、愛しい魔法使いのものに相違なかった。低くて艶のある、しっとりと耳に響く声。
「どうぞ」
 できるだけ厳しい声音で促すと、少し間を置いてから扉が小さく開かれた。影を滑り込ませるように、長身の男の姿が部屋のなかに入ってくる。音もなく扉は閉められた。
 魔法使いの正装に身を包んだ凛々しい彼の姿も、顔も、ミルテはまともに見ることができなかった。部屋のなかは月明かりで照らされている。けれど、ミルテの心に光が射すことはない。
「こんな時間にごめんなさい。どうしてもふたりきりで話がしたかったから」
 アルは頭を垂れるだけでなにも言わない。
「……私の秘密を誰にも口外しないでほしいの。お願いします、アル。私にできることならなんでもします。だから秘密を守ってほしいのです。お父様のために。あのお方は私を娘だと信じているの。……お願い……」
 一気に言い切ったけれど、声は案の定震えた。すべて絞りきった頭は真っ白になる。アルの足元を見つめた。震える両手でガウンのドレープを握りしめる。
「ミルテ様は誰がなんと言おうとお美しい姫君でいらっしゃいますよ」
 低音が唐突に空気を揺るがす。ビクッと全身で震えてしまう。アルの足がゆっくりと歩を進め、窓際にいるミルテのすぐ目の前までやってきて止まった。
「口外など考えにも及びませんでした。ご心配なされませぬよう」
 その言葉に思わずパッと目を上げると、思いのほか近くに顔があったので鼓動まで跳ね上がった。柔らかく細められた目と、久方ぶりに視線が絡む。
「けれど……私にできることならなんでも、と、おっしゃいましたね?」
 瞳の奥が妖しく揺らめいた気がして、ミルテはギクッと背筋を伸ばした。
「ええ。確かに言いました。なにか所望のものでも?」
 できるだけ気丈に見えるように胸を張って尋ねると、アルはすぐには答えなかった。僅かに逡巡するようなそぶりで視線を外し、それからまたミルテを正面から見据えてくる。そして、こう言った。
「でしたら、わたしはあなたご自身を頂きたい」
「……え?」
 思ってもみなかった展開に困惑する。瞬時に理解できない。
「ア、アル。私は」
「構いません。あなたが何者であっても」
 硬直しきったミルテの頬に、魔法使いの大きな手が触れる。切ないほど揺れる瞳に目を奪われているすきに、無駄のない動きで唇をそっと封じられた。重ねられた熱さに、なにも考えられなくなる。
 あてがわれた指に顎を下げられ、ミルテの口腔は易々とアルの手中に堕ちた。縦横無尽に探り尽くされ、堪え切れなかった吐息が溢れるように零れる。
「このまま頂いても?」
 触れ合った唇の隙間を縫うように囁かれ、ゾクゾクと全身が痺れるような痛みを訴えた。
 ミルテが夢うつつの間に、アルの逞しい両腕がその細い身体を易々と抱きかかえ、大きなベッドに横たえる。無駄のない洗練された所作で、アルが上に乗ってきた。頭がぼうっとして、ミルテはそれをひとつ壁隔てた隙間から覗いているような、現実味のない気持ちで見上げる。
「ミルテ様。なにもおっしゃらないのは肯定と取らせていただいてよろしいのでございましょうか」
 顔を寄せて耳もとで囁かれ、ビクッと肩が情けなく震えた。口の端から再び無意識の吐息が漏れ出す。問われたものの返事を考えることができないほどに頭が沸騰している。肯定? なにを? このままアルに抱かれることを? 口止め料として自分の身体を提供することを……?
 途端、現実が一気にミルテの全身を締め上げた。ハッと我に返る。口止め料。そうだ、自分の身体なんて所詮は口止め料にしか過ぎないのだ。アルにとっては、それだけの価値でしかないのだ。目頭がじわじわと熱くなり、みるみるうちに堤防が決壊する。
「ミルテ様……」
 突如涙を零し始めたのに尻込みしたのか、アルはか細い声を落とし、スッと身を引いた。覆い被さるようにしていた身体は横たわるミルテの傍らに寄り添い、こわごわと伸ばされた指は決してミルテの頬に触れなかった。
「出すぎた真似を致しました。どうかお泣きにならないで」
 違う、そうじゃなくて、と言いたいのに、出てくるのは嗚咽だけだ。
「言葉が足りませんでした。気持ちばかり急いてしまって、怖がらせてしまいましたね」
 違う違う、とかぶりを振る。顔を覆った。泣き顔なんてさぞ醜いことだろう。これ以上アルに見られたくない。
「わたしは……あなたが姫君でいらっしゃるのが怖いのです。けれどいまはそれが幸いだとも思っている。あなたがその身の示されるまま王子でいらっしゃったなら、わたしは黙って引き下がるより術がなかった。けれど姫として生きてこられたお陰で、他国へ嫁いでいかれる心配もない。この国のなかでならわたしにも勝ち目はある。あなたに求婚する男のうちで、本当のあなたを知るのはわたしただひとりきりになるのですよね?」
 涙の向こう側で聴いていた、独白のように穏やかに流れるアルの囁き。そのなかにふと聞き逃せない単語が混じっていたのに気づく。
「アル……?」
 手から力が抜け、露わになった視界にはすぐにアルの群青色の瞳が飛び込んできた。髪色よりもやや薄いその瞳は宝石のように潤んで、キラキラと月夜にふたつ浮かんでいる。
「ずっとお慕い申しておりました、ミルテ様。時が満ちたら、このわたしめを選んでいただけませんか」
 衝撃になにも言えない。驚きすぎて、あれだけ壊れたように溢れ出てきていた涙がぴたりと止まってしまった。
「あなたの性別などはさしたる問題ではありません。もちろん驚きはしましたけれど、おかげでこの積年の想いの報われる可能性が高まったのだと思えば、むしろ願ったり叶ったりと申すよりほかありません」
「本気?」
「わたしがあなたに嘘をついたことなど?」
 護ると言ったら本当に護ってくれる男だ。
「……ない」
「でしたら、信じていただけますね?」
 再び夢のなかに降りていくようなフワフワした感覚に陥りながら、ミルテは必死にうなずいて返す。
「けれどもう無理強いは致しません。お返事をお聞かせ願えますか?」
「……あなたのものに、して」
「ミルテ様」
 ギュッときつく抱きすくめられて、心臓が跳ね馬のように暴れ出すのを感じた。ビリビリと全身を甘い痺れが駆け巡ってゆく。密着した身体を意識しただけで、下半身に否応なく熱が集まるのを感じた。けれどもう恥じることはない。アルがそのままでいいと言ってくれたから。ただそれだけで、世界は易々と変わってしまう。
「ミルテ様」
「ノアと呼んで。アル。いつものように」
 夢中で両手を伸ばし、アルの背中に回した。身体じゅうが燃えるように熱い。
「男である私に母が授けたもうひとつの名。あなたの前では本当の私でいたい」
「ノア……ノア。ノア」
 どこから出るのかと思うほど甘ったるく響く声音で、アルは何度も名を呼んでくれた。そのたびにゾワゾワと耳の後ろ辺りに痺れが回る。両頬を包まれ、深い口づけを交わした。喰い尽くされそうな恐怖も快感に変わる。下肢に痛いほど当たる感触が熱くて、もうお互いに止められないことはわかっていた。止まる必要のないことも。
「アル。好き」
 口づけが身体じゅうに降り注がれる。そのたびにノアは声にならない悲鳴のような喘ぎを漏らした。お互いの乱れた呼吸の音と、名を呼び合う声だけが空間を揺るがす。そこに衣擦れが混じり、口づけを交わす音が大きくなる。アルがノアの肌を吸い尽くし、固く反応した熱をいとおしげに吸い上げ、閉ざされていたはずの蕾を優しく緩やかに解してゆく頃には、ちゅくちゅくという卑猥な音が幾重にも折り重なり、天蓋のなかを埋め尽くしていた。
「あ、もう、……アル、おかしくなるっ、から……っ」
「ノア」
 絶頂の近くなったノアが堪え切れずに懇願すると、アルは最後まで相手の身体を気遣いながら、自らの楔を蕾の奥へゆっくりと挿入していく。
「あっ、だめぇっ……ん、ン……っ!」
 それが最奥まで届いた瞬間、ノアはあっけなく達してしまった。ビクビクとはしたなく身体が踊るのを止められない。
「あぁ、ノア。かわいいひと。そんなふうに煽らないで。うんと、優しく、したい、のに……っ」
 野性的な微笑みを浮かべたアルが急くように腰を打ちつけ始めたので、ノアは甘く蕩けきった悲鳴をあげ続けるよりほかになす術もない。時に痛く、時に痺れるほどの快楽の波に溺れてゆく。決して叶わないと諦めていた、夢にまでみた交わりに身も心も満たされてゆく。
 奇しくも、美しい満月の夜の出来事である。


                                     了

藤井流星
グッジョブ
2
ひかこ 16/02/15 18:04

とにかく、ミルテの健気さ!そして苦しみが伝わってきて・・。
特に中盤の大事件~ベッドシーン直前のミルテは、可哀想だし切ないし・・・。
そんなミルテが、終盤で『名前』を呼ばれるシーンがもう・・・素晴らしいです。
どこか御伽噺のような素敵なファンタジーに、心が洗われました。

センチミリ 16/02/16 22:21

BLで男の娘に目覚めるとは思ってもみませんでした。
王道展開の安心感と緻密な心理描写のおかげで、
普段あまり読まない設定の話なのにどんどん入り込めました。

コメントを書く

コメントを書き込むにはログインが必要です。