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第3回 BL小説アワード「怪談」

いない いない ばあ

バッドエンド/エロなし

「くすくすくす」後ろから笑い声が聞こえる。背中のすぐ後ろ。心臓が止まりそうになる。

みい
グッジョブ

耳の中に、今も残る。
あの日の笑い声。
もう聞くことはない、声。
なのに、徐々に近づいてくる。
背後で、そばで、隣で―――耳元で。

梅雨真っ盛りの6月中旬のこと。
俺、吉田拓と斉藤達也は、母校の小学校を訪れていた。
「おー・・・あんまり変わってないな」
「そうか?あの頃より傷みが激しい気がするけど」
どんよりとした雲で覆われているせいか、なお一層その古めかしさを増しているように見えた。
朝は快晴だったというのに、昼を過ぎて急に曇りだしてきたのだ。
あの頃と大きさは変わらないはずの校舎が小さくなったように見えるのは、気のせいなのか、はたまた感傷ゆえなのだろうか。
「直人、目が悪くなったんじゃないのか?ほらあれ、老眼」
「ふざけるな。同じ32歳だろ」
「いや、誕生日早いし。おじさんおじさん」
「たった一か月で?っざけるなよこの」
そう言って、達也は笑いながら俺の肩を殴ってくる。
会話という名の時間つぶしを校門前で繰り広げていると、見知った顔、いや、記憶よりしわの増えた顔が門の向こうから近づいてくる。
それは、俺たちが6年生の時の担任の先生。
「おー吉田、斉藤、おまえら大きくなったなあ」
「お久しぶりです、大野先生」
「こんにちわ。先生は・・・でこが広くなった気が」
「斉藤、お前いい度胸してるな、こら」
「いたたたた、やめて下さ、ギブ、ギブ!」
相変わらずの達也のお調子者具合に思わず笑いそうになるが、思い直して表情を引き締め直した。
今日ここに足を運んだのは、旧交をあたためる為ではないのだ。
「すまんが、まだクラスの生徒が残っててな。先に二人で行っといてくれるか」
そう言いながら、大野先生はほい、と鍵をこちらに差し出す。
頷いた達也がそれを受け取り、俺たちは懐かしい校舎に足を向けて歩き出す。
目指すは、学校で一番高い場所。
今では低くなった階段を最上階まで言葉少なに登り切り、達也が預かった鍵で開ける。
ぎいいいい、と古びた音を立てて、屋上への扉は開いた。
「・・・懐かしいな」
「うん」
ゆっくりと歩き、高いフェンスの前で立ち止まる。
まだあまり錆びてもいないし塗装も剥げていない、そこそこ綺麗なエメラルドグリーンのあいだから校庭と住宅地を見下ろす。
これが立ったのはあの20年前の事故すぐ後だったから、それもそのはずだろう。
俺はかばんから小さな花束を、達也は近所の駄菓子屋で買ったお菓子の詰め合わせを取り出して、コンクリートの地面に並べてそっと置き、静かに手を合わせた。

俺と達也は、幼稚園からの幼馴染だ。
そしてもう一人、望月優という、幼馴染がいる。
いや、いた、のだ。

俺は5歳の時にこの町に引っ越してきた。
そして幼稚園に入り、達也と優に出会った。
優を後ろに引っ付けた達也が、俺に話しかけてきたのが切っ掛けだった。
それ以来お互い家が町内にあったこともあり、俺たちは三人でよく遊ぶようになった。
優は引っ込み思案であまり喋る方ではなく、いつも達也の後ろにくっついていた。
なんでも優の母親がシングルマザーであまり家にいないため、よく達也の家で一緒にごはんを食べたりしていて、従兄弟みたいなもんなんだ、と当時の達也は言っていた。
俺や他の子が話しかけるとうつむきがちに、ゆっくりと小さい声で返していた優だが、達也と喋るときはハキハキと、表情豊かに喋っていた。
かなり人見知りの激しい、内弁慶なタイプの子だったんだと思う。
そのせいか、優が単独行動している姿を見たことは、ほとんど言っていいほどなかった。
そうして大きくなり、小学校6年生になっても三人で遊ぶことが多いままだったが、相変わらず優は達也にくっついていたままだった。
一度優に「なんで達也にそんなくっついてんの?達也の友達じゃなくて、他の奴とも遊びたくなんないの?」と聞いたら、「だって、僕と達也君は特別、だから」とめずらしくはっきりとした声で言ったのを覚えている。
その顔が、満面の笑みを浮かべていたことも。
俺はよく分からなくて、ふうん、とだけ返した。
それからしばらくした、ちょうど20年前の昨日だった。
優の母親が、自宅で首を吊って自殺したのは。

「悪い悪い、遅くなったな」
俺と達也が長い、本当に長い沈黙と合掌の後、静かに校庭を眺めていると、先生が息を切って現れた。
その手には、某有名店のチョコレート菓子が握られている。
先生はそれを花とお菓子の横にそっと置いてしゃがむと、静かに手を合わせる。
その横顔に、深い、深い眉間のしわ。
俺もと達也もそれを見ながら、黙ってその場に立ち尽くしていた。
しかしふと、視界のはしになにかが入る。
先生を横目に、それに近づく。
屋上の隅のほう、コンクリートの上にポツンと置かれたキーホルダー。
四角い透明なプラスチックの中に、俺たちが子供の頃に流行っていた戦隊ヒーローの写真が入っている。
あまり変色もしていない、綺麗なものだった。
懐かしい、と思いながら拾って眺めていると、後ろから達也が覗き込んできた。
「何、なんか見つけたの?」
その肩越しに、先生もこちらに向かっているのが見えた。
「ああこれ、落ちてたから。気になって」
そう言って達也の目の前にかざすと、まじまじと見つめてくる。
その顔が、徐々に怪訝な表情に変化する。
「・・・これ・・・」
その後ろから、先生が驚いた声を上げた。
「吉田、どこで買ってきたんだそれ。望月が持ってたのにそっくりじゃないか」
俺は、優が持っていたことを知らなかった。
先生は、優が落としたのを拾ったことがあったため、覚えていたんだと言う。
驚いて聞き返す。
「優の?いや、いまここに落ちてて、拾っただけなんです」
「そうなのか?望月が好きだったの知ってて、持ってきたのかと思ったんだが」
首を傾げる先生の横で、達也が「そうか、そっくり・・・そうか・・・」とキーホルダーに目が釘付けになっている。
「達也もこれのこと知ってたのか?」
そう聞くと、我に返ったようにああ、とこちらを見た。
「確かに、優が持ってたのと一緒だと思う。優のは棺桶に一緒に入れちゃったけど」
だからここに同じ物があって驚いた、と笑う。
「あの時代、屋上に忍び込む子供は多かったからなあ。鍵が開いてることもあったし、誰かが落としたままだったんだろう」
先生が、少し苦い顔でそう言った。
当時かなり流行っていたものだし、きっとそういうことなんだろう。
「さ、雨も降りそうだし、下りるか。お前ら、この後時間あるか?」
さっきまでの暗い空気を打ち消すように、明るい声で先生が尋ねてくる。
「時間はありますけど」
俺が戸惑いながらそう答えると、
「よし、じゃあ少し待ってろ。一杯先生に付き合いなさい」
先生はそのまま小走りで屋上を出て、階段を下りて行った。
「・・・まだ行くとも言ってないんだけど・・・」
「はは、まあいいじゃないか」
そう言いながら、俺たちも屋上を後にする。
キーホルダーをどうしようかと迷ったが、また同窓会にでも持って行って聞いてみようと思い、ポケットに滑りこませた。

優の母親の第一発見者は、優だった。
優は、母親が亡くなったその日、普通に学校から家に帰り、家の鴨居にぶら下がる母親を見た。
そして、達也に電話してきたと言う。
ぽつりと一言、
「お母さんが死んでる」
と。
その声は静かな、けれど、いつもと変わらないような声だったと。

「あ、先生鍵忘れてたな」
二人で屋上を出て、鍵を閉めよう、とポケットから取り出して気付いた。
「先生昔からうっかりしてるとこあるからな」
達也はからからと笑う。
「どんだけ飲みに行きたかったんだって話だよ・・・。職員室に寄らなきゃな」
職員室は一階を下りてすぐ右側にある。
玄関はその反対、左側だ。
「あ、悪い、俺トイレ行きたいから先行っといて」
と、踊り場の横にあるお手洗いの方を指差す。
了解、と右手をあげて階段を一人で下りる。
何気なく腕時計を見る。
現在時刻は16時11分。
遠くの教室からのきゃあきゃあと子供たちが騒ぐ声と、雨が降り始めたのか小さくサー、という音が混じって聞こえる。
それ以外は静かなものだ。
外来者用のスリッパのぱこ、ぱこという音がやけに大きく響く。
ぱこ、ぱこ、ぱこ。
ぱこ、ぱこ、ぱこ、ぱこ。
ぱこ、ぱこ、ぱこ、ぱこ、きゅ。
(・・・ん?)
小さく、床にゴムのこすれるような音が混じった。
遠くも近くもない、微かな音。
ぱこ、きゅ、ぱこ、ぱこ。
ぱこ、ぱこ、ぱこ、きゅ。
ちょうど、上履きで歩くような音。
振り返ってみる。
誰もいない。
もう一度歩き出す。
ぱこ、きゅ、ぱこ、きゅ、ぱこ。
やっぱり聞こえる。
振り返ってみる。
誰も、いない、いない。
さすがに、少し薄気味悪くなってきた。
達也と合流してから行こうかな、と下りてきた階段を再び上る。
ぱこ、きゅ、きゅ、ぱこ。
足音が、すこし大きく、間隔が短くなる。
音を耳に入れないように、気のせいだと思うようにする。
早く、この場を離れたい。
踊り場まで来た。
先ほどまでより高く足を上げる。
あと12段、あと10段、8段、6段、4段、2段、1段
(あれ?)
思っていたより一段多い。
と、思った瞬間。
後ろに、引っ張られるような感覚。
あ、と思う間もなく、ぐるん、と視界がまわる。
その後ろには、
何の姿もなかった。

あの日、公園で遊んでいた俺は、パトカーがやたらとうるさいことが気になった。
音を辿ると、着いたのは優の住むアパート。
集まった近所の大人たちが、立ち入り禁止のテープの前に集まってひそひそと言葉を交わしている。
その間を潜り抜けて一番前まで行くと、警察官に囲まれた優と達也と、達也のお母さんの姿が見えた。
涙声で話す達也のお母さんと、緊張しているような達也。
その後ろに立つ優の表情は、なぜかうっすらと微笑んでいた。
その表情の意味と、パトカーの原因が分からなかった俺は、明日聞けばいいか、と思って家に帰った。
次の日行った小学校で、また同じ光景を見るとも知らずに。
ただそこに優の姿はなく、その後小さな棺に入った彼と最後のお別れをするとも分からずに。

目を、開けた。
天井と、蛍光灯と、コンクリートの壁が目に入る。
起き上がると、見覚えのある、小学校校舎の玄関前だった。
(あれ?)
さっき階段から落ちたはずでは?
そう思ったものの、身体のどこにも異常はない。
しかし、ここに来た記憶もない。
立ち上がって周りを見渡してみる。
誰もいない。
ただ整然と靴箱が並んでいる。
玄関のガラス戸から外を見ると、雨は止んでいるようだった。
しかし、まるで夕立の前のように異様に空の色が赤い。
夕暮れとはまた違った、禍々しさを感じる赤だ。
腕時計を見る。
まだ時間は16時13分。
いまは6月、夕暮れ時にはまだ早い。
そして気づく。
音が、しない。
子供の声も、近くにあるはずの職員室からも。
とりあえず職員室へ向かう。
どの部屋も、電気もついていないし、人の気配がしない。
職員室の扉の前に立ち、引き戸を引いた。
がちゃ、と動かないまま。
(・・・あれ?)
失礼を承知でどんどんと叩いてみる。
応答はない。
(あれ?)
駆け出す。
階段を2段とばしで上る。
「達也!!」
さっき達也が入っていったトイレに飛び込む。
でも、いない。
(あれ?)
そうだ!と思いカバンからスマホを取り出して電源を入れる。
時刻、16時20分を表示。
しかし、その左上に一緒に表示された圏外という文字。
(あれ、あれ?)
さっきまで、ちゃんと入っていたはずなのに。
訳も分からず、走り出す。
足が、もつれる。
当てもなく走る。
誰も、何も、いない。
窓から見える校庭にも、誰一人いない。
(なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで)
開かない教室を一つ一つ小窓から中を覗いていく。
なんでもいい、なにかにすがりたい気分だった。
けれど、なにも、誰もいないことしか分からない。
玄関前にたどり着く。
玄関の扉を思い切り動かす。
動かない。
視界に、重そうな金属製の傘立てが入った。
持ち上げる。
重い、ふらつく。
その勢いのまま、玄関のガラス扉にぶん投げた。
傘立てが派手な音をたてる
なのに。
「うそだろ、おい・・・」
思わず呟く。
傘立てが、跳ね返されたのだ。
跳ね返すという表現はおかしいけれど、でも、たしかに跳ね返されたのだ。
ガラスには、ヒビ一つない。
さすがに、気づいてしまう。
自覚して、しまう。
俺は、このおかしな世界に閉じ込められてしまったようだと。
夢だと思いたい。
そうであればいいのだが、それにしては思考がはっきりとしすぎている。
(っ落ち着け・・・!)
とりあえずはここから脱出しなければならない。
夢であっても、こんな気味の悪い状況でじっとはしていられなかった。
(そもそもなんで俺はここにいるんだ?)
姿の見えない足音が聞こえて、階段から落ちた後の記憶がない。
同時に、誰かに引っ張られたような感触を思い出す。
(・・・・そういえば)
学校の七不思議で階段にまつわるものがあったはず。
たしか、普段は12段の階段なのに13段に増えている時があり、それを踏んでしまうと異界に連れて行かれるというものだった。
(異界・・・)
なんでもない時だったら、そんな馬鹿なと一蹴できたのに。
この状況がそれを許さない。
怪談で異界やあの世に連れて行かれる、という話はよく聞いたことがあるが、そこからの帰り方なんて聞いたことがない。
ほとんどが帰れない、二度と戻れないというものだ。
この世界でずっと一人きり。
想像してしまい、背中に嫌な汗が伝う。
(だめだ、考えろ)
頭を振って妄想を追い払う。
恐怖は思考を鈍らせる。
(学校からの脱出は不可能に近い、そもそも外に出たところで何とかなる気もしない)
外は風が全く吹いていないようで、木も、鳥も、動くものが何一つない。
不気味な赤い空に覆われたまま、沈黙をたもっている。
窓ガラスも一応全部見たが、鍵が開いている箇所はなかった。
無理に破壊して脱出しようとしても、玄関の二の舞になるだけだろう。
(・・・いっそ死んでみるとか)
ここが仮にあの世なら、逆に生き返って帰れたりしないだろうか。
(いや、元の世界に死体で帰ることになっても意味がない)
生き返れる保証もないのに、自殺することにはかなりの恐怖がある。
絶対にやりたくない。
(ん、逆?)
階段からここに連れてこられた。
ということは、また13段に増えている階段を探せば、元の世界に戻れるのではないか?
少し、心が高揚する。
階段に向かって駆け出した。
全部の階段を、さっきと同じように一段飛ばしで駆け上がる。
2、4、6、8、12、あれ?ちがう。
2、4、6、8,12、またちがう。
2、4、6、8、12、またちがう。
2、4、6、8、12、ああまたちがう。
二階、三階と登っていくにつれ、高揚した心が冷えていく。
屋上まで登り切っても、何も変化はない。
絶望感がじりじりと這い寄ってくる。
大きく肩で息をする。
・・・しんどい。
はあ、と階段を降りようと振り返る。
階段のちょうど真ん中あたりに、なにかが落ちているのが目に入った。
(・・・・え、なんだこれ、さっきまでなかったのに)
ぞわ、と鳥肌が立つ。
しかし、階段を下りるためにはその横を通らなければならない。
恐る恐る、近寄ってみる。
見て、思わず手に取ってしまった。
それは、日記帳だった。
しかも見覚えのある。
20年前に俺たちのクラスで使われていた、全員統一の日記帳。
それだけではない。
懐かしい字で、6年2組 望月優 と、そこには書いてあった。
心臓が、バクバクと音を立てる。
なぜだか、それを読まなければいけない、という思いに憑りつかれる。
震える手で、ページをめくった。
綴られているのは、何気ない日常。
何を食べたとか、ここに行ったとか。
そしてそれに対する大野先生のコメントが丁寧に書かれていた。
それが、途切れる。
優の亡くなった日の一週間前からだ。
どうやら優は、提出せずに毎日書いていたらしい。
その頃から、内容の様相が少し変わっていく。

6月○日
達也くんと、今日も一緒に遊んだ。
今度とまりに行ってもいいって聞いたら、いいよって。
うれしいな。
こんなこと誰にも言えないから、ここに書こう。
先生にだって見せない。
ぼくだけの知ってる達也くん。
6月△日
とまりに行く日のことを考えていると、達也くんがなんで笑ってるの、って聞いてきた。
ぼくのこと、すごく気にしてるみたい。
ぼくも同じだから、うれしくなった。
でも、それを出すのはかっこ悪いから、なんでもない、って言っちゃった。
6月□日
達也くん、昨日うそついたからおこってるのかな。
お昼休み、ぼくをおいて外に行っちゃった。
だからぼくは、屋上にいって達也くんのことを見てる。
でも、達也くん気づいてくれない。
悲しい。
6月▲日
達也くん、今日もぼくのことおいてっちゃった。
なんであんなみた馬鹿いなやつらと仲良くするの。
何も考えてない、頭空っぽな馬鹿ばっかり。
絶対、ぼくといたほうが楽しいのに。
すねてるのかなあ。
明日謝ろうかな。
6月●日
謝ったのに、達也くんが怒った。
いままでぼくに怒ったことなかったのに。
友達のこと馬鹿にすんなって。
あんなの友達じゃないのに。
思ったこと言っただけなのに。
なんで話聞いてくれないの。
こっち見てくれない。
さみしいな。
ぼくは達也くんと親友だけど、家族じゃないからなのかな。
おばさんは達也くんにひどいこといっぱい言うけど、達也くんと怒らないもん。
だからだめなのかな。
達也くと家族になりたいなあ。
6月■日
今日も達也くんがしゃべってくれない。
どうやったらこっち見てくれるのかな。
向いてほしいなあ。
それで、笑ってほしいなあ。
図書室の本で読んだりんねてんせい?
できないかなあ。
家族になれば、いっぱい笑ってくれそうだね。
 月 日

さよなら
達也くん
またね

日記は、そこで終わっていた。
呆然とした。
優は、まさか。
自殺の原因は、母親の自殺だったと当時皆が言っていた。
けれど、本当は。
「くすくすくす」
後ろから笑い声が聞こえる。
背中のすぐ後ろ。
心臓が止まりそうになる。
反射で階段を駆け下りた。
くすくすくす
くすくすくすくすくすくす
くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくす
足音は聞こえない
聞こえないのに声が近づいてくる。
俺は、この声を知っている。
小さい声で、大げさに笑わないやつだった。
いつも、後ろに隠れていたあの。
(あ)
足が、なにかに引っかかった。
身体が宙に浮く。
くすくす
耳元で聞こえる声。
落ちながら必死に振り向く。
そこには。
やっぱり、誰もいなかった。
暗転。

「―――――ぉぃ、おい!拓!!おい!!」
重い瞼を、無理やり開く。
視界に入る白い天井とついていない蛍光灯、そして心配そうな、青ざめた顔で覗き込む達也と大野先生の顔だった。
「良かった、どこか痛いところないか!?」
「吉田、ここはどこだか分かるか」
「・・・小学校。大丈夫です、多分」
帰って、来られたのだろうか。
それとも、夢だったのか。
耳をすますと、サーっと雨の音。
なにより、人がいる。
そのことに、すごく安心して泣きたくなった。
「本当に大丈夫か、病院行くか?」
痛そうな表情だと勘違いされたらしい、先生が焦ったように聞いてくる。
恐る恐る起き上がり、頭を軽く振ったり手足を動かしてみるが、痛い所はどこもない。
「いえ、本当に大丈夫です。痛いところもありませんし」
それを聞いて、二人はやっと安心したように笑う。
「その様子だと階段から落ちたんじゃないようだな。貧血か?しっかりご飯は食べられてるか?」
「トイレ行って下りてきたらお前が踊り場で倒れてるから何事かと・・・ああ、気が抜けた」
ちゃんと食べてますよ、ご心配おかけしました、達也もごめんなありがとう、と立ち上がる。
達也と先生は歩き出しながら、どこに飲みに行くか相談をはじめた。
その後ろをついて行きながら今何時だろうか、と思い腕時計に目をやる。
しかし、時間は分からなかった。
表面のガラスが割れ、その針は動きを止めていたのだ。
指している時間は、4時44分。
ぞわ、と寒気が襲ってくる。
あれは、夢ではなかったのだろうか。
気を取りなおして、カバンからスマホを取り出そうとした。
そして、唖然とした。
そこには、階段で拾ったあの、日記帳が入っていた。

ほろ酔いで、帰途につく。
夜遅いからか無人の駅のホームに立つ。
アルコールのせいか多少思考が浮ついているものの、いい気分とは言い難い。
店で先生と別れた後、達也を呼び止めてあの日記帳を渡した。
最初はなんだそれ、と笑っていたが、表紙を見て凍り付いていた。
そしてパラ、パラとゆっくりとめくっていく。
そして、やがてその動きが止まる。
達也は、静かに泣いていた。
ぱたぱたと落ちた雫は日記帳と伝ってゆく。
これを見せるかどうかは内心かなり葛藤した。
達也はきっとこれを見たら、後悔の念に襲われれて苦しむだろう、と。
だが、見せた方がいい、と結論付けた。
優の思いが、誰も、何も知らない間に消えてしまうのが、とても寂しいことだと感じたから。
きっと優は、ただずっと寂しかったんだろうと思ったから。
達也は、しばらく固まったままだったが、やがて日記帳を閉じると、これ持って帰る、とボソボソと呟いてふらふらと停まっていたタクシーに乗っていった。
大丈夫か、と思ったが、その後しばらくして「来週、優の納骨堂行くの付き合ってくれ」とLINEが送られてきたので、大丈夫だと思うことにした。
苦しくても、達也が受け止めるべき感情だと思う。
しかし、一人でぼーっと待っていると、電車が来るのが遅いような錯覚に陥る。
利用する人の少ない駅に来てしまったからか、次の電車は通過で、その次の電車は20分後だ。
暇だからか、ふわふわする頭がぐるぐると思考の渦に巻き込まれる。
今日のあの出来事は本当に起こったことなんだろうか。
時計や日記がそれを証明しているとはいえ、いまだに信じがたい気持ちだ。
日記、そういえば、達也のことばっかりだったな。
お母さんと仲良くなかったんだろうか。
それにしても不自然だけど。
つか、あいつどんだけ達也のこと好きだったんだよ。
昔はそんな風に思わなかったけど。
やっぱり、あの世界に連れて行ったのって優なんだろうなあ。
日記もあったし。
じゃああの世界に連れてくのだって達也で良かったんじゃないのか。
ただ単に俺が条件を満たしたからなのか。
ああもうよく分からない。
なんとなくイライラして点字ブロックを軽く蹴る。
ポケットでちゃり、と微かな金属音。
そう言えば、と屋上で拾ったキーホルダーを取り出して顔の前に掲げる。
じーっと眺めてみると、ふたを外すための小さなへこみを見つけた。
爪を引っかけて開けてみる。
ぱかりと軽い音を立てて、ヒーロー戦隊の小さな写真二枚。
そして、小さな紙切れが出てきた。
指先でつまみ上げるとそこには、米粒ほどの小さな文字でなにか書かれていた。
目を眇めてそれを読む。
読み進めるうちに、顔から血の気が引いていくのが、自分でも分かった。

せっかくあのばばあが死んだのに。
あんな知らない男とやりまくってる女なんて母親でもなんでもない。
これで達也くんの家の子になれると思ったのに。
遠いしんせきの家なんてくそくらえだ。
達也くんと離れるなんて。
でも達也くんもおばさんも行けっていじわる言うから、
このじゃまな体を捨てることにした。
そしたら、達也くんとずーっといっしょにいれるし、生まれかわったら達也くんと家族になれる。
達也くんに近づくやつは、ぼくが消してあげよう。
達也くんも喜ぶし、僕も嬉しい。
達也くん達也くん達也くん達也くん達也くん達也くん達也くん達也くん達也くん達也くん達也くん達也くん達也くん達也くん。
あー早く会いたいなあ。
待っててね。じゃまなやつは、ぼくが●して守ってあげるから。

衝動的に、紙切れを放り投げた。
あの日記と同じ字で、やけに綺麗に書かれていた。
優は、ただ達也に家族同様の親愛を求めていたのだと思っていた。
いや、そう思い込んでいた。
でも、これは。
そんな綺麗なものではない狂気にまみれている。
これは、なんだ、本当に優の、いやその確信はない、いやでも―――
ホームに流れた、「○番線を列車が通過します。危険ですので、黄色い線まで―」アナウンスが構内にむなしく響く。
心臓がうるさい。
冷や汗がぶわっ、と全身から溢れ出す。
これはあの日、棺桶に入れて荼毘に付されたはずのもの。
であれば、優が俺に見せたい理由があるということか?
いや、日記帳は達也に見せる目的で俺に渡したのか。
ならこれを俺に渡す理由は。
優は、俺を
その時。
とん、と、後ろから押された。
二歩、三歩とよろめき、身体がホームから投げ出される。
すぐそばで、笑い声が聞こえる。
くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくす
かんかんかんかんと、踏切の音。
視界の端に、電車の明かり。
頭だけ振り返った、後ろには、

「邪魔ダカラ、キエテネ。タククン」

あの頃の姿のまま、にいいいいいぃと嗤う優が、立っていた。

みい
グッジョブ
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