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第4回 BL小説アワード「再会」

週末のはなし

切ない/ハッピーエンド/不思議系

ふわ、と背後で空気が動いた。「みゆきちゃん」と名前を呼ばれ、ほとんど反射的に振り返る。そこには、高校生のユキトが立っていた。

刀川えいり
グッジョブ

『みゆきちゃん、どーしよう!』
久しぶりに聞いたユキトの声は、なぜかとても幼く感じた。
『もしもし? 聞こえてる? ……えっと、おれだよ、おれ!! 』
「……はあ」
『えっ!? もしかしておれのこと忘れちゃった?』
「覚えてる。覚えてるけど。つか、俺は『みゆき』じゃなくて、『美しい雪』で『よしゆき』だって何度言えばわかるんだ。あほユキト」
『びっくりしたー。その年でボケちゃったのかと思った』
「いや、驚いたのはこっちだろ」
『なんで?』
「あのさ、ユキト。俺たち別れたよな?」
『うん』
「……なんでふつーに電話かけてきてんの……」
『ごめん……。でも、みゆきちゃんしか頼れる人がいないというか、気づいたらみゆきちゃんに繋がっていたというか、とにかく緊急事態で』
「は? 悪い。話が見えない」
『みゆきちゃんどうしよう。おれ死んだかもしれない!』
「……はい?」

高校3年生のとき、初めてユキトと同じクラスになった。
赤根ユキト。
井野上美雪。
五十音順で、席が前と後ろだった。クラス替え当日、ユキトは先に着席していて、俺が席に着いた途端、ぐるりと振り向いてこう言ったのだ。
『みゆきちゃん! 好きです、つきあってください!!』
『……いろいろツッコミどころはあるんだけどまず声がデカい。小声で話せ。つかおまえ誰。みゆきちゃんってなんだ。俺の名前は『よしゆき』だから。『美しい雪』で『よしゆき』だから!』
『そんないっぺんに言われてもわかんないよ~。えっと、おれは赤根ユキト。色の『赤』に、木の根っこの『根』に、片仮名で『ユキト』』
『あ、そ』
『それでね、みゆきちゃん』
『待て。1番肝心な部分が直ってない』
『え?』
『みゆきじゃなくて、よしゆき』
『おれは『みゆき』のほうが可愛いと思うな~』
『おまえの好みは聞いてねーんだよ。名前のせいでよく女と勘違いされたりするけど、これは厳然たる事実』
『げん……? みゆきちゃん、むずかしい言葉しってんね』
『おまえがバカなだけ。つーか何さっきの? まさかおまえも俺のこと女だと思ってるわけじゃねーよな』
『みゆきちゃんはどこからどうみてもカッコイイ男の子だよ?』
『……あ、そ。おまえは男のくせに、……女みたいな顔してんな。まつげ長いし、目ぇでっかいし。色白だし』
『あはは、よく言われる。可愛いでしょ』
『……ヘンな奴』
『でね。おれ、君にひとめ惚れしちゃった。おれは、みゆきちゃんのタイプじゃないかな?』

正直、ユキトは直球ド真ん中でタイプの顔だった。
俺は自分がバイセクシャルだということをひた隠しにしていたはずなのに、ユキトはいとも簡単にそれを暴き、あげく自分はゲイなのだとあっさりカミングアウトした。
「……初対面で告白するか、フツー」
「あはは。結局みゆきちゃんを落とすのに2か月かかったけどね。まあ、フラれたときは、友達になれたらいいかなって」
「バカか。誰が自分のケツを狙ってるやつと友達になるかよ。周囲にホモだってバラされて、おまえの高校生活は終わりだっつの」
「みゆきちゃんはそんなことしない」
「んだよ、それ。わかったような口利くんじゃねーぞ」
「わかるよ。みゆきちゃん、言葉は乱暴だけどやさしいもん。4組の松川さんが女子にからまれてた時、助けたでしょ」
「おまっ、見てたのかよ!? つか、たまたま通りかかっただけだし……」
「困ってるコはほっとけないんだね。おれ、みゆきちゃんのそういうところに惚れたんだ。大好きだよ。たとえ死んでも、生まれ変わってもみゆきちゃんを愛してるよ」
「……重っ」
「ひどっ! ホントなのに!」
「ハイハイ」

……ユキトは、ばかなのだ。
すがすがしいほどにばか正直で、純粋で、かわいい。
天真爛漫なユキトに、俺はあっという間に溺れていった。
だが、いつの頃からかユキトは浮気をするようになり、俺にバレると決まってこう言った。
大丈夫! おれが愛してるのはみゆきちゃんだけだから。
ふざけんな。なにが大丈夫だ。俺のことが好きなら、二股なんてかけるんじゃねえよ。これで何回目だよ。大体、愛ってなんなんだよ。愛してるとか、簡単に言うな!
別れ話をもちかけた時、ユキトの反応はこうだった。てっきり泣いて縋ってくるかと思ったのに。
『そっか。……大丈夫だよ』
……だから、なにが大丈夫なんだよ。
ユキトの番号も、メルアドも消せずにいた。
……ぜんぜん、大丈夫じゃねえよ。俺が。
4年ぶりにかかってきた電話に、コール2回で出てしまうくらいには。


「なるほど、わかりました」
『みゆきちゃんのバカ!』
「バ……? わかったって言ったろ!」
『みゆきちゃんが急に敬語で話すのは、たいてい話をまじめに聞いてないとき!」
「そ、そんなこと、ありません……けど」
ユキトは俺の癖をみつけるのが得意だったっけ。嘘をつくときは斜め左に視線をずらすとか、セックスのとき、興奮すると首にかみつくとか。「プール授業がある前の日は、えっちしちゃだめだね」と困ったように笑っていた。
「…………。」
ああ、やめやめ。いらんことを思い出した。頭を軽く振り、ユキトにばれないよう、深く息を吐く。
今さら、何の用だ。まだ俺に未練があるとでも言うのか? それとも単なる気まぐれか? 自分が死んだなんて突拍子もない嘘までついてさ。どうせまた男に捨てられて、人肌が恋しくなったんだろう。
『みゆきちゃん? どうしたの?』
「……あ」
ユキトの声で、はっと我に返る。
「いいか、ユキト。今の話を、はいそうですかって信じるほうがおかしいだろ。ふざけてるなら切るぞ。じゃあな」
『ああっ! 待って切らないで。おれだって自分が死んじゃったなんて信じたくないよ。でもそうとしか考えられないんだもん。誰に話しかけても無視されるし、触ろうとしてもすり抜けちゃうんだよ。こんなのありえないよ』
「なるほど、確かにありえないな」
『でしょ!?』
「だから証拠もなしに信じられない。ユキトが死んでるってことを俺に証明してみせろよ。今すぐ」
『え~? でもこんな、電話で……どうすればいいの』
「そうだな。今から3秒以内に、こっち来い。おまえ幽霊なんだろ。瞬間移動くらいできるんじゃねーの?」
『…………』
ユキトが、息を呑むのがわかった。ぜったいに不可能だ。ユキトは俺の家を知らない。半年前、隣町に引っ越したのだから。そもそも3秒以内にだなんて、超能力者とか、それこそ幽霊でもなければ……。
『わかった。やってみる。3秒、数えてて!』
「え? え……ユキ?」
ぷつりと通話が切れ、スマートフォンが沈黙した。
――3。
……嘘だろ。
――2。
……まさかな。
――1。
ふわ、と背後で空気が動いた。
「みゆきちゃん」と名前を呼ばれ、ほとんど反射的に振り返る。
そこには、高校生のユキトが立っていた。


「みゆきちゃん引っ越したんだ~。国道沿いの24時間営業スーパーいいよね。おれのアパートの向かいにもコンビニはあるんだけど、あそこ夜の11時までなんだよ」
「そうだな」
「あっ、コンビニといえばさあ、エイコーマートのカツ丼とフライドチキン激ウマだよ。ホットママシリーズのやつ。今度食べてみてよ」
「……そうだな」
「おれ的にはホタテバーガーも捨てがたいんだけどね~」
「…………そうだな」
「みゆきちゃん」
「なに」
「ちょっといい?」
ユキトが、眉間にしわを寄せながら手を伸ばしてきた。指先が俺の額に触れたとき、ユキトの手は一瞬かたちを失い、ぷるぷるしたゼリーみたいに崩れ、すぐ元に戻った。思わず「ひっ」と声が漏れる。触れられた皮膚が、じんと痺れて痛い。非現実的な状況に脳が悲鳴をあげているのか、一瞬、軽いめまいに襲われたが、足に力を入れてなんとか耐えた。ユキトは「やっぱり、さわれないんだね」と、あっけらかんと言った。
「なんか顔色悪いから、熱でもあるのかと思って」
「幽霊に心配されたくねえよ……」
「あはは。ホントだね! あっ、こたつだー! 入ってもいい?」
俺が返事をする前に、ユキトはこたつのなかへ音もなく滑り込んだ。
「ん~。あったかーい、……のかな? 今のおれ、温度とかよくわかんないみたい。……ねー、みゆきちゃん。のど乾いた」
「幽霊って飲み食いできるのか」
「どうだろう」
「…………」
俺は渋々キッチンへ向かった。電気ケトルのスイッチを入れたとたん、現実感が戻ってきた。
……ユキトだ。ユキトが、俺の部屋にいる。あいついきなり現れたよな。玄関のドアにも窓にも、鍵はかかってた。俺、夢みてんのか? そうだ、そうに違いない。頬をつねってみよう。痛ければ現実。夢なら痛くない。

「あれ、みゆきちゃん。ほっぺた赤いよ? どうしたの」
「……べべ、別になんでもねー! か、蚊に刺された!」
「うそ!? もう11月だよ」
「るせーな、それより……ほら、ココア」
「わ、ありがと」
ユキトはホットココアを前に目を輝かせていた。俺はユキトと向かい合うように座り、頭をがりがりと掻く。
「……おまえ、なんで死んだの」
単刀直入な俺の質問に、ユキトはどこか他人事のように答えた。
「わかんない」
「おい、真面目に答えろよ。いつ死んだとか、心当たりないのか」
「あるといえば、ゆうべかなあ。えーと、昨日は友達と飲んでて……おれは早朝バイトがあるから先に1人で帰ったんだよ。で、駅に向かう途中に歩道橋を渡って……。それからの記憶がないんだよね」
「階段から落ちたんじゃねーの?」
「やっぱりそうかなあ」
「事件性がなきゃ、酔っ払いが階段から落ちたぐらいじゃニュースにはならないのかもな。いっそ、その歩道橋に行ってみるか。どこだ? 覚えてるだろ」
「え……。いいよ別に」
ユキトは俺を一瞥すると、拗ねた子どものように口をとがらせ、ふう、とココアの湯気を吹いた。甘い香りがただよう。
「良いわけあるか。死んだんだぞ、おまえ。今行けば、警察がいるかも……」
「だからヤなの。万が一、死体があったら困るもん」
「は?」
「みゆきちゃんには、かっこわるいおれの姿、見せたくない」
 
んなこと言ってる場合じゃねえだろ! と、今すぐ首根っこを掴んで現場に連れていきたい衝動に駆られたけれど――。一度NOと決めたらテコでも動かないユキトの性格を思い出し、俺は口をつぐんだ。それに、本人が嫌だと言ってるんだ。逡巡していると、ユキトがふふっと笑った。
「どうした?」
「変わってないなあと思って。みゆきちゃんは、……やさしい」
「……ユキト?」
「なんでもない。あ、おれ背が伸びたよ! たぶんみゆきちゃんよりちょっと高い。やっと声変わりして、顔もシュッと引き締まって、胸板もたくましくなって、男のフェロモンだだ漏れ~って感じ!」
「はあ」
「なにその疑いのまなざし!!」
「いや、だって」
頬を膨らませているユキトをまじまじと見つめた。その姿は4年前と何ら変わっていなかった。こぶしひとつ分あった俺との身長差は縮まっていないし、顔は幼いままだし、すこし鼻にかかった高めの声も、華奢な体形もそのままだ。……あれ? そういえば。
「つかおまえ、なんでそれ着てんの?」
冷めたコーヒーをすすりながら、俺は今さらながらユキトの格好について指摘する。グレーのブレザーに紺パープルチェックのネクタイ。どうみても母校の制服だ。ユキトは自分の姿を確認しながら、うーんと首をひねった。
「たぶん、みゆきちゃんのせい……かな」
「俺の?」
「みゆきちゃんが、18歳までの赤根ユキトしか知らないから。だからおれは、この姿でみゆきちゃんの前に現れたんだと思う。さっきまで普通のカッコしてたんだけどなあ。あれ、スマホもどっかいっちゃったし。……少なくとも、おれの意思じゃどうにもならないっぽい」
「ふーん……」
「信じてくれるの!?」
「幽霊が目の前にいるんだ。今ならどんなことだって信じるぞ」
「ほんと~?」
「マジだって」
「……おれ、今でもみゆきちゃんのことが好きだよ」
「え……」
「って言ったら、どうする?」

ちらりと白い八重歯がのぞいた。笑い方も、しぐさも、声も。どうしようもなく、ユキトだった。懐かしくて胸が詰まる。返す言葉が見つからない。喉の奥が、じわりと痛んだ。
ユキトは眉を下げ「ごめんね、みゆきちゃん」と言った。いったい何に対しての謝罪なのか。
「おれ、行くね」
ユキトの身体はするりとこたつから抜け出て、音もなく玄関へ向かった。
あわてて俺も立ち上がる。机に肘がぶつかり、口のつけられなかったココアがわずかに零れた。
「待てって、ユキト。どこに行くんだよ」
「ん~。あの世?」
「その前に成仏だろ」
「あ、そっか。どうしよう。お経唱えたらいいのかな? ヤプー知恵袋で質問してみたらどうかな」
「……真面目に答える奴がいると思ってんのか?」
「そっかあ」
肩をおとしてうなだれるユキトの落胆っぷりに、思わず笑いがこみ上げた。
「泊まっていけば? ……とりあえず、週末だけでも」
俺の言葉に、ユキトが勢いよく顔を上げる。
「えっ?」
「考えなしにふらふらしたって、どうしようもねーだろ。俺、土日はバイト入れてないから暇だし」
「いいの? 迷惑じゃない?」
「なんで。よくうちに泊まりにきてたじゃん」
「そうだけど、そうじゃなくて……。おれ、幽霊だし」
「何が」
「……えと、その、怖くないのかなって」
「はは、おまえみたいな気の抜けた幽霊、誰が怖がるかよ」
「えー!? なんか悔しい。おれ、バカにされてる?」
「へえ、自覚あったんだな」
「ひどい!」
俺は地団太を踏む頭に手を近づけて、壊れないようにそっと撫でた。
「……えへへ、くすぐったい」
「わかんの?」
「なんとなく。みゆきちゃん、あったかいよ」
触れることのできない猫っ毛が、ふわふわ揺れていた。
 
その日の夜。
晩メシを作っていると、こたつの中でテレビを見ていたユキトが文字通り飛んできた。
「懐かしい匂い! ねえねえ、もしかして、もしかしなくてもアレ?」
「うどん」
「やっぱり! バター醤油で焼いたお餅がのってるんだよね! おいしいー!」
「まだ食べてねーだろ」
「食べてなくてもわかるもん。みゆきちゃんのうどんは三国一だよ!」
「日本一か世界一だろ、そこは」
背後でぴょんぴょん跳ねるユキトに苦笑しながら、俺は菜箸で「あっち行ってろ」のジェスチャーをした。
「はあーい」
ユキトは素直に踵を返し、こたつの中に滑り込んだ。
「ユキト。うずらは?」
「ふたつ!」
「了解」

完成したうどんの上に、バター醤油をからませた餅をのせてうずらの卵を落とし入れる。白身がうっすらかたまって、ぷるんと跳ねた。この『プチ月見ちからうどん』はユキトの大好物だ。テーブルごしに向かい合い、両手を合わせる。焼きたての餅にかぶりつくと、熱で歯がじんと染みた。麺をすすりながら顔をあげると、ユキトは頬杖をついてにこにこしながら俺を見ていた。咀嚼しながら「ごめん」と謝ると、ユキトは目を丸くした。
「なにが?」
「……さすがに無神経だったよな。なんつーか、俺一人で食べるのも……と思って。結局俺だけ食べてるんだけどさ」
当たり前かもしれないが、幽霊は飲食ができないらしい。ユキトも例外ではなかった。試しに水を飲もうとしていたけれど、まずコップにさわることができない。口元まで持っていってやったが、結局床に小さな水たまりができただけだった。
「謝んないでよ。みゆきちゃんのその気持ちが嬉しい。あ、ほら! お供えだと思えばぜーんぜん問題ないよ!」
それよりさあ、とユキトはテーブルに身を乗り出してきた。
「みゆきちゃんって、食べるとき目を閉じるんだね。おもしろーい。つきあってたときは気づかなかったよ」
「……おい。あんまじっと見んな。なんか恥ずかしいだろ」
「あはは、みゆきちゃんでも照れたりするんだ! かわいーね」
ユキトが18歳の表情で無邪気に笑う。
「はあ? おま……」
おまえのほうが可愛いだろ。という言葉を、すんでのところでうどんと一緒に飲み込む。頬がじわじわと熱くなってゆくのを感じた。
「あれ、みゆきちゃん顔赤いよ? どーしたの? 七味かけすぎちゃった?」
俺の心中を知ってか知らずか、ユキトは俺の顔を覗き込みながらニヤニヤしていた。
「だから、こっち見るなって」
「いーじゃん。俺とみゆきちゃんの仲でしょ」
「お、俺とおまえの仲ってなんだよ。ユキトはもう、俺のカレシでもなんでもないだろ」
口調が、すこし強めになった。そうだ、こいつとはもう別れた。おまけに今のユキトは幽霊だ。あまりに普通に接してくるから、勘違いしそうになる。黙々とうどんを食べる俺を眺めながら、ユキトは声のトーンを落として言う。
「……じゃあ、なに? ただの友達?」
「まあ、そんなところじゃね」
「いっそ、セフレになっちゃう?」
「はい!?」
「だめ?」
「つかおまえ、幽霊だろ」
「うん」
「……どうやってヤんの」
「あ、そっか。……ん? ってことは、みゆきちゃんはセフレとしてならおれとつきあってもいいってこと?」
「いやいや、どうしてそうなる」
「会話の流れ的に?」
「そ……、」
それはない、と即答するはずの声は、なぜか喉の奥にはりついて出てこなかった。どうした。これじゃ肯定しているようなもんだ。ユキトは黙りこむ俺を不思議そうに見つめている。やがて沈黙をやぶったのは、ユキトのおどけた声だった。
「あーあ、せめて触れたらいいのになあ。そしたら、みゆきちゃんの寝癖も直してあげられる」
俺は咄嗟に髪の毛を確認した。「さ、触れる幽霊ってすげえな」どこも跳ねてはいない。
とりあえずこの話題から遠ざかろうと、俺は無言で伸びかけたうどんを消化することに専念する。ユキトは「セフレでもいいのになあ」と呟いた。
「このままずっとみゆきちゃんと一緒にいられるなら、なんでも」

明け方、俺はかすかな声で目を覚ました。まだうす暗い。手探りでスマホを捜し、画面を確認する。アラームが鳴る2時間も前だった。
「……ユキト?」
ユキトは俺に背をむけ、丸くなり眠っていた。上着を脱いでシャツ1枚になった背中が、小刻みに震えている。
飛び起きてその小さな肩を掴もうとしたが、俺の手はユキトの身体を通り抜け、シーツのうえに落ちた。ユキトの上に覆いかぶさるような体勢で、うんうん唸っている青白い顔を覗きこむと、俺の気配を察したのか、閉ざされていた瞼がゆっくりと持ちあがった。
「……、ゆき……ちゃん?」
ユキトはとろんとした表情で瞬きを繰り返した。
「ユキト、どうした? 寒い? だから布団ぐらいかけろって……」
幽霊の体調を気遣うのもおかしな気がしたが、横たわるユキトはどうみても具合が悪そうだった。
「平気……」とつぶやく声が、掠れている。
ごろんと仰向けになったユキトの上に、そっと毛布をかぶせる。毛布は宙に浮いて止まった。ユキトの身体は、軽い質量になら耐えられるようだ。
「ねえ……みず……。水、ほしい……」
「水? さっきも喉が渇いたって言ってたな。でもおまえ、飲めな……」
「みゆきちゃん……」
乾いた唇が、俺を呼ぶ。――幽霊だからなんだ。ユキトが、俺に助けを求めているじゃないか。
「……わかった」
俺は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、自分の口に含んだ。怪訝そうに見上げるユキトに近づき、その唇に自分のものを重ねた。俺の口腔内からこぼれた水が、布団に染みをつくる。
「……っ! み……」
「やっぱ、口移しでも駄目か。……一応、もう1回だけ」
ペットボトルの中身を、今度は多めに含む。ユキトは慌てて起き上がり、後ずさりした。
「い、いい! 布団汚しちゃうよ! やっぱこのくらい、我慢できるから平気」
両手をぶんぶんと振り回すユキトは、肩で息をしている。俺はユキトを壁に追い詰め、その手を――、つかまえた。
……あれ?
ふたりで顔を見合わせる。俺の手は、ユキトの手首をがっちりと掴んでいた。ゼリーみたいな感触は変わらずだったが、崩れる気配はない。驚いて一歩前によろめくと、ふわふわした髪の毛が鼻先をかすめて――、なつかしいユキトのにおいが、胸を満たした。
「……なんで……? みゆきちゃん、俺にさわっ……、んっ……!」
俺はユキトの顎をつかむと、むりやり上を向かせて唇を塞いだ。俺の体温が溶け込んだ水を、そっと注ぎ込む。ユキトは喉を鳴らしながら一生懸命飲みこもうとしていたが、受け止め切れなかったものが、ユキトのシャツを濡らした。
「んくっ……、ごほっ!」
ユキトがむせていることに気づき、俺はあわてて身を引いた。
「ごめん。多かったか」
そっと背中をさする。……あたたかい。
「へーき。それよりも! ねえみゆきちゃん! どうしておれに触ってるの!?」
「知るか。こっちが聞きてーよ」
「……みゆきちゃん!!」
ユキトが、しがみつくように抱きついてきた。
「夢かなあ」とユキトは俺の胸の中でくぐもった声を出した。
「夢でもいいや」喜びにあふれていた声が、しだいに涙声になる。
気がつくと、俺もユキトの背中に手を回していた。ユキトは一瞬肩を震わせたが、すぐに力を抜き、俺の胸に顔をすりよせた。
「みゆきちゃん。好き。大好き」
……ああ、だから、もう。
「愛してるよ」
ユキトは、ばかだ。
ばか正直で、純粋で、かわいい。
……本当に。いとおしくてたまらない。
「みゆきちゃん、好……、」
ユキトが前触れなく顔を上げたせいで、後頭部が俺の顎に直撃した。ゴムボールのような衝撃だったが、完全に油断していた俺は、いきおいで舌を噛んでしまう。
「うぐっ」
「ご、ごめん!」
「おまえなあ、いきなり顔上げんらよ……。痛っ……」
「切った?」
「ちょっと」
「じ、じゃあ、舐めたげる!」
「は? ……っ!」
ユキトが俺の両頬を包み込むように掴み、唇を押しつけてきた。半開きになった俺の口の中に、濡れたものがすべりこんでくる。なめらかであたたかい刺激に、背中が震えた。ユキトは俺のなかを慎重にさぐり、傷口を丁寧にくすぐった。やさしいけれど、どこか強引な愛撫。あふれそうになった唾液も、なにもかも、ユキトにからめとられ、奪われてゆく気がした。
「ふっ……ぁ、んっ……はぁっ」
静かな部屋に、俺の息遣いと水音だけが響いた。俺の息がすっかりあがった頃、お互いの唇が離れた。至近距離のユキトの顔がぼんやりしている。
「治った?」
「……舐めてすぐに治るなら絆創膏はいらねえよ」
「口の中にばんそーこーは貼れないよ?」
「うるせー」
「鉄のあじがした」
ユキトはぺろりと舌を出し、笑っている。俯き加減の顔は耳まで真っ赤だ。
「どうしておまえが照れるんだよ」
「だって、おれからキスするのって初めてだもん。ふふふ。おれってこんな大胆なことできちゃうんだ。人間、死ぬ気になれば何でもできるってホントかも!」
いや、おまえ死んでるだろ。


『みゆきちゃんっておれのことどう思ってるの?』
ある日、ユキトは突然そんなことを言い出した。
『何だよ、急に』
『好き?』
『……嫌いだったら、一緒にいねーだろ』
『じゃあ、好きだって言ってよ』
『はあ? なんでわざわざ……』
『松川さんに告られたって聞いたけど。いいの? 彼女、学年で1番もてるんだよ』
『だから?』
『「井野上は彼女いないのにあんな可愛いコを振るなんて、ホモじゃないか」って噂、知ってるよね』
『まあ、その通りだし』
『違うでしょ。みゆきちゃんはおれと違って、ちゃんと女の子も好きになれるんだよ。なのに……。おれなんか選んじゃって、いいのかなって』
『なに、おまえ俺と別れたいの?』
『そんなわけないよ! おれはみゆきちゃんが大好きだもん!!』
『ば、ばかユキト。声がでけーよ』
『時々すごく不安になるんだよ。みゆきちゃん、やさしいし、キスもえっちも、してくれるけど。みゆきちゃんの口からおれのこと好きだって、1度も聞いてない』

正直、驚いた。同時に、面倒くせえな、とも思った。
言葉にしなくたって、態度でじゅうぶん伝わっていると思っていたから。おまえこそ、なんなんだよ。顔を見れば、好きだの愛してるだの言うくせに、どうして他の男のにおいを隠さずに、俺の腕に抱かれていられるんだ。
……でも、今ならわかる。ユキトの浮気は、俺が原因だってこと。俺に、好きだと言わせたくて。嫉妬をさせたくて、試していたんだということに。
ほんと、面倒な男。すぐ泣くし、わがままだけど。俺はそんなおまえのことが好きなんだ。……ごめんな。いつかまた会えたら、今度こそちゃんと言葉にして伝えよう。
ユキト。好きだ。ずっと俺のそばにいろよ。


「みゆきちゃん」
「……ん」
「みーゆーきーちゃーあーん。起きて~~」
「あと5分……」
「30分前も同じこと言ってたよ~? お昼寝は15分くらいがちょうどいいんだってさ。早くしないと夜になっちゃうよ。ねえ、買い物に行くんでしょ。ねえってば」
「んー」
ユキトが俺の肩をつかんで揺すっている。そうだ、冷蔵庫の中がからっぽだから、スーパーに行かないと。でも……怠くて動けない。頭は起きているのに、身体が言うことを聞いてくれない。
「……みゆきちゃん?」
さすがにおかしいと思ったのか、ユキトは俺を起こすことをやめて様子を窺っているようだ。途端に、身体がふっと軽くなった。その隙にゆっくりと身を起こす。若干ふらつくが、さっきまでの倦怠感は消えていた。
「あの……、大丈夫?」
「……へ」
「なんか、具合悪そう。顔色めちゃくちゃ悪いし」
ユキトの眉が、だんだんハの字に変形する。あ、泣きそうな顔だ。俺はユキトを安心させようと笑顔で取り繕った。
「昨日からちょっと怠くて……。風邪でもひいたかな……、って、あー!!」
「わ!? なななに、大声出して」
「雨! 洗濯物! 今日は1日中晴れじゃねーのかよ!」
窓の外は横殴りの雨だった。あわててベランダに飛び込むも、干していた洗濯物が忽然と姿を消していた。まさか。
「下着泥棒!?」
「え~……。みゆきちゃん、寝ぼけてる? ほら、見て見て」
ソファの上には、きちんと畳まれたパンツやシャツが重なっていた。きょとんとしている俺にむかって
「おれ、短時間なら物に触れるようになったぽいんだ。洗濯物とりこんで畳んだよ。どう? おれ、いい奥さんになれるでしょ」
ユキトはふふんと鼻を鳴らして得意げに言った。
「……奥さんは置いといて、助かった。サンキュ」
「えへへ、偉い?」
「あー、エライエライ」
「もー!! 感情がこもってなー……、わぷっ!」
俺は頬を膨らませるユキトの肩を引き寄せた。触れるとはいえ、抱き心地は心もとない。どうしようか迷っていると、ユキトが俺の背中に腕を回してきた、俺もそっとユキトを包み込む。ほのかな温もりに、胸が暖かくなった。顔をあげた上目遣いのユキトと、目が合う。俺たちは、自然と唇を重ねていた。

Tシャツを脱ぎすて、布団の上にユキトを押し倒す。息継ぎもそこそこに、俺たちは唇を貪りあった。ユキトの口の中は果実のように甘かった。もしかして、フルーツゼリーにでもなったのか。
「ふふっ」
「み……、な、に……笑っ……、んん」
キスの合間に漏らすユキトの言葉を、舌で深く押さえ込む。ちゅ、という濡れた音が響く。何度も、何度も。ユキトは俺に応えようと小さな舌を必死に動かし、背中にしがみついてきた。小さな爪が皮膚に食い込む。痛みさえも、今は気絶しそうなくらいの快楽に変わってゆく。満足するまでユキトを味わい、最後にこめかみに口づけた。俺から解放されたユキトは、頬を上気させて吐息した。
「きもち、よかったあ……」
うっすら涙を浮かべてはにかむユキトは、たまらなく可愛かった。身体の真ん中が、じわりと疼く。
「……っ、おまえな……。勘弁しろって……」
「どしたの?」
「もっと、気持ちよくしてやろうか」

ユキトの唇に音を立ててキスしたあと、白い首筋に舌を這わせ、甘噛みする。なめらかな舌触りを求め、夢中で愛撫した。ユキトはぐっと息をつめ、必死になにかを我慢しているようだった。それに気づいた俺は、ふわふわの猫っ毛を撫でた。
「ユキ。声、だして」
「や、やら……! はずかし、いっ。こ、え、隣に、聞こえ……」
「おまえの声は、俺にしか、聞こえてない」
「あ、そっか。……じゃ、なくっ、ぁっ! ……んぐぐっ」
「おい、息止めるな。死ぬぞ」
「もう死んでるもん!!」
ユキトの瞳に、快楽のではない涙がたまってゆく。みるみるうちに溢れ、頬を濡らした。
「ユ……」
「おれ、これからもみゆきちゃんと一緒に笑って、ごはん食べたり、手をつないだり、キスしたりしたいよ。本当は別れたくなかった。嫌われたくなくて、物分かりのいいフリした。大丈夫って、自分に言い聞かせてた。みゆきちゃんと生きて、一緒におじいちゃんになりたかった。……し、死にたくなかった。死にたくない、死にたくないよお!!」
ユキトはしゃくりあげて、大声で泣いた。ぼろぼろと止まらない涙と鼻水で、顔はぐしゃぐしゃだ。俺は泣きわめくユキトの身体を力いっぱい抱きしめた。
「ユキトは、生きてる」
「……ひっ……く、ううっ」
「ユキトはここにいる。ちゃんと生きてるよ。俺が保証する」
「でも……、おれ、こんなぶにぶにした身体なのに」
「俺しか触らないんだから、問題ない」
「おれだけずっと若いまんまだよ」
「恋人が高校生って、最高じゃね?」
「……洗濯物とりこむくらいしかできないのに」
「上等。天気予報を気にしなくて済む」
「ちゃんとえっちできるか、わかんないよ」
「気にすんな」
「みゆきちゃん。好き」
「知ってる」
「みゆきちゃんからも言って」
「……やだ」
「もー! そこは流されるところでしょ!?」
「流れでいいのかよ……」
すっかり涙の止まったユキトが、笑いながら俺の顔に手を伸ばそうとした。だが、俺がユキトの体温を感じることはなかった。ブツリ、と。突然コンセントを抜いたテレビみたいに。俺の意識は途切れた。


「……みゆきちゃん」
眠る俺の頭を、ユキトが撫でている。あれ、俺、いつの間に寝てたんだ……。重いまぶたをこじあけ、怠い身体をなんとか起こした。視界がぼんやりする。めまいがして、気持ち悪い。風邪、悪化したかな。
「ねえ、買い物行こ。雨、あがったよ」
ユキトが窓の外を指差す。空には三日月が浮かんでいた。ああ、そうだった。24時間営業のスーパーに、晩飯の材料を買いにいかないとな。
今晩は冷えるから、鍋にしようか。おまえ、キムチ鍋好きだろ。
「そうだね~。でも、肉団子も捨てがたいな。最後に雑炊つくって食べるの、おいしいよね。うずらの卵も入れてね」
俺とユキトは、手をつないで外に出た。具合の悪さはひどくなるばかりだが、冷たい夜風にあたれば気もまぎれるだろう。強い風に身震いして、思わず背中を丸める。隣のユキトは制服の上着しか羽織っていないが、平気そうな顔をしていた。俺は空いているほうの手でマフラーをはずし、ユキトの首に巻いた。ユキトは目を丸くして「いいよ、おれ寒くないから」と遠慮したが、掌でやんわりとそれを制した。
俺が、良くないんだよ。
ユキトは困った表情をしていたものの、照れくさそうに「ありがと」と微笑んだ。

そうして、どのぐらい歩いただろう。3分も歩けば到着するはずのスーパーが、一向に見えてこない。
ユキト、戻ろう。こっちじゃない。こっちは――。
「みゆきちゃん、着いたよ」
気が付くと、俺たちは歩道橋の上にいた。ここは駅の近くで、車も人も多く通る。今日は日曜日だ。いつもより流れの速い人々を、俺はぼんやりと見下ろしていた。ふいに、ユキトがつないでいた手を離した。ぬくもりが、遠ざかる。
「ユキト? どうした」
「ここで、お別れしよ? みゆきちゃん」
その瞬間、俺はすべてを理解した。
「おまえ、またここから落ちるつもりか」
「……もっかい、同じことしたら、今度こそ死ねるかなって。そ、そうだ。次は飛び降りてみようかなあ! そしたら、確実……」
ユキトは、笑おうとして失敗した。頬がひきつっている。慌てて両手で隠したが、もう遅い。
「なに……言ってんだ。だって、おまえ……俺と」
「いられないよ!」
叫び声が、歩道橋に響いた。周囲の人々は振り返らない。ただひとり、俺だけが、涙を流すユキトを見つめていた。
「ごめん。みゆきちゃんが具合悪いのって、多分おれのせい。みゆきちゃんに触ったり、キスしたりすると、おれ、どんどん元気になっていくんだ。よくわかんないけど、みゆきちゃんの命を、幽霊のおれが奪ってるんだと思う。このままじゃ、みゆきちゃん死んじゃうよ。そんなの、やだよ……」
ユキトは後ずさりをして、階段のヘリのぎりぎりに立った。あと一歩でも後ろに下がったら、落ちてしまう。
やっぱりユキトは、大馬鹿だ。
「死なねーよ。つーか勝手に殺すな」
「え……」
「俺、まだ22だぞ? やりたいこといっぱいあんだよ。海外旅行にも行きたいし、回らない寿司も食いたい。それにフリーターのまま人生終了なんてカッコわりーじゃん。俺、ちゃんと就職するからさ……。金ためて、庭つきの家を建てて北海道に住むのが夢なんだよ。行こうぜユキト。一緒に。そんでおまえは、洗濯物とりこんで、俺の帰りを待ってろよ」
「みゆきちゃ……」
「キスもセックスもできなくたって、いい。ユキトと一緒にいられたら」
呆然と立ち尽くすユキトに近づき、そっと手を引いた。立ちくらみを堪え、小さな身体を抱きしめる。
「好きだ、ユキト」
耳元で囁くと、ユキトの身体がじんわりと熱を持った。耳がタコみたいに真っ赤だ。……面白い。
「ユキト。……好き。好きだよ。……好き、かも?」
「なっ、なにそのクエンチョン!!」
がばり、と顔をあげたユキトは泣き笑いしていた。
「クエスチョンな」
「どうでもいいよ! ていうか、好きの安売りしちゃだめ! もっと聞きたいけど! うう、ありがたみがなくなっちゃう!!」
「じゃあ、おまえは年中バーゲンセールやってんのか」
「おれはいいの!!」
「なんだ、それ」
怒りながらも嬉しそうなユキトの笑顔にほっとする。大丈夫。きっとうまくやってゆける。ほっと気を緩めたその時。
突風に背中を押され、身体がよろめいた。普段なら踏ん張れるはずなのに。体力の落ちていた俺は、階段を踏み外して一気に転がり落ちた。冷たいコンクリートに身体が何度も叩きつけられる。痛みはあまり感じなかった。……あれ。やばい。目の前、暗く……。
「みゆきちゃん!!」
朦朧とする意識の中で、ユキトの泣き声を聞いていた。ばーか、おまえと違って、これくらいじゃ俺は死なねーよ……。
わずかな温もりを感じながら、俺の意識は眠るように落ちていった。


「入院費……たっけー。バイト増やさねーとまずいな。今日は金曜だから、情報ガイドの更新……明日か」
ぶつぶつと文句を言いながら、俺は約1週間ぶりの帰路に就いていた。歩道橋から転げ落ちた俺は、軽い脳震盪と左腕の骨折という怪我を負った。それだけで済んだのは幸運だと言われながら、主治医は「偶然って続くんだねえ」と首をかしげた。なんでも『先日もあの歩道橋から酔っ払いが転げ落ちて、3日間意識不明だった』そうだ。現在、その酔っ払いは無事意識を取り戻し、退院したという。
アパートの階段を上ると、家の扉の前にスーツ姿の男が座っていた。目が合うと、男はゆっくり立ち上がり、はにかむように笑った。
身長は、俺よりも少しだけ高い。
顔はシャープで、引き締まっている。
胸板は、まあ、平均的。
声は……。
「みゆきちゃーん!」
「いや、声変わってなさすぎだろ!!」

22歳の赤根ユキトが、長い腕で俺の身体を抱きしめた。俺の存在を確かめるように、きつく。きつく。
「ユキ! いっ……痛え。俺、骨折してんだけど!」
「わっ、ギプスだ。ごめん!!」
そう言いつつ、ユキトは俺を抱いたままだ。今度はそっと宝物みたいに包みこまれ、照れくささに顔が熱くなる。
「いつまでくっついてんだ……」
「うう、ごめん。でも、嬉しくて」
「おまえ人騒がせにも程があるだろ。まさか3日間熟睡してたっつーオチなんてな」
「落ちた衝撃で気を失ったんだよ。そのあとは、オールで遊び歩いてたツケがまわったというか……。俺、幽体離脱してたってこと? わー、すっごい体験したねえ」
「笑いごとじゃねー! おまえのせいでこっちは散々な目に遭ったっつーの。なんで俺は骨折で、ユキトは軽い打撲なんだよ」
「俺、合気道やってるから。自然と受け身をとってたんじゃないかな。みゆきちゃんも身体鍛えたほうがいいよ」
軽く睨みつけると、ユキトは眉をハの字に下げて笑った。今度は俺がユキトを見上げる番か。
「ね、ご飯食べた? エイコーマートのカツ丼買ってきたんだよ」
ユキトは横目で扉をチラチラ見ながら、部屋に入りたそうにしている。
「あとね~、北海道の旅行ガイドも。やっぱり旅行がてら下見に行かないと。どこに行く? おれ函館の夜景みたーい! 富良野のラベンダーも!」
「こんなところで袋の中身を出すな!! とりあえず中に入れ。ほら、鍵! 開けろ!」
「やったー! ねえねえみゆきちゃん。今日は何時までいてもいい?」
俺はユキトの背中に額をくっつけ、苦笑する。今夜は積もる話もたくさんあるだろう。
「泊まっていけば? ……とりあえず、週末だけでもさ」

刀川えいり
グッジョブ
3
野良のシロクマ 16/12/08 15:21

「境界」を色々上手く使ってるのが素敵です。ラスト、ジンときました……。

ひなたろう 16/12/12 10:29

ユキトが可愛くて切なくて・・・ほっこりしました。
ラストとても良かったです。

ひかこ 16/12/21 18:16

最後のセリフが、すごく素敵でした!

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