>
>
>

第4回 BL小説アワード「再会」

ぼくは、きみを食べるライオン

攻め目線/性描写あり/立場逆転

あの時君が、自らの命を、最期の優しさを、僕にくれたから。

弓永侑生
グッジョブ


  1


 僕の指定席は、第一食堂の西側の一番奥、窓際にある4人用のテーブル席だ。ここに、僕はいつも一人で座る。
 その日も僕は、慌ただしく入れ替わる学生たちを横目に、のそのそと野菜炒め定食を食べていた。
 昼時の大学の食堂といえば、そこはさながら戦場である。誰もが皆、必死で空席を探し求め、互いに奪い合う――にも関わらず、僕のいるこの席はいつもきっちり3つ空いたままになっている。
 別に僕は一人でいるのが好きというわけではない。けれど、誰も僕に近づこうとしないのだから仕方がない。相席を拒むどころか、隣のテーブルに着く事すらためらう人が大半といった有り様なのだ。
 まあ、昔から僕はこんな感じだ。今さら気にもしていない。
 次第に食堂内から人気が減り、13時のチャイムが鳴る頃には、僕と同じく空きコマの時間潰しをするために残った学生が点々としている程度になった。
 僕は食べ終わった食器を片付け、再びいつもの席に戻った。何もする事がないので、頬杖をつき、ぼんやりと窓の外を眺める。ガラスの向こう側では、色褪せ始めた木の葉が頼りなさげに風に揺られていた。
 今は10月。もう秋だ。
 県外の大学へ通うため地元を離れ、一人暮らしを始めてから半年が経った。新しい景色の中で送る、新しい生活。けれど、僕はあいかわらず一人だ。どこへ行こうと、何も変わらない。昔と同じ、僕は一人──

 ガシャンッ

 突然の物音に驚き、僕は振り返った。テーブルの上に、鳥天定食の大盛が置かれている。視線を上げると、一人の男子学生が立っているのが目に入った──女の子のようにサラサラな黒髪。赤みを帯びた茶色の瞳。いつも首にかけている、鮮やかな紫色のベッドフォン。
 その顔に、僕は見覚えがあった。学内で数回見かけた程度だが、強く印象に残っている。綺麗という表現がしっくりくる中性的な容姿もさる事ながら、彼の纏う雰囲気には独特なものがあったからだ。何と言えば良いだろうか、まるで青空を悠々と行く雲のような、するりと真横を通り抜ける風のような、何ものにも囚われない自由さを、僕は彼に感じていた。
「ここ、座っていい?」
 彼は出し抜けに言った。
「あ、どうぞ」
 呆気に取られていた僕は、思わずそう答えていた。
 彼はにっこりと笑って、僕の向かいの席に着いた。
「んじゃ、いただきまーす」
 座るやいなや彼は、パンッ、と手を合わせ、それからごく自然に遅めの昼食を取り始める。
 僕は、あまりの事に状況を飲み込めずにいた。食堂の中はガラガラだ。それなのに、彼はわざわざ僕の前に座る事を選んだ。すべての学生、正確には職員までもが恐れて近づこうともしない、この僕の真正面に。
「オレ、市川琉嘉。1年。よろしく」
 彼はまたしても唐突に、自己紹介を始めた──次から次へとご飯や鳥天を口の中へ放り込みながら。
「好きなモノは、肉とロック。兄弟は男3人で、こう見えてもオレが長男。一応な。父親は会社員、母親はピアノ講師で──」
「あ、あのっ」
 徐々に頭が回り始めた僕は、一方的に話を進める彼を制止しようと、慌てて口を開いた。
「ん?」
 どうやら僕の気持ちは通じたらしい、彼はピタリと口を閉じた。しかし、食べるのをやめる気はないようで、もぐもぐと頬を揺らしながら僕を見ている。
「な、何で、君はここにいるんですか……?」
 僕は、おずおずと尋ねた。
「いたいから」
 彼はさも当然のように答えた。
 僕は面食らった。至ってシンプル、単純明快な回答だ。しかし、なぜ彼が僕の目の前にいたがるのか、僕には意味がわからない。
「……あの、君は怖くないんですか?」
「何が?」
「何がって……、僕の事が、ですけど……」
「何で?」
「いや、何でって……」
 質問の意図が理解できないと言わんばかりに、彼は不思議そうな顔で僕を凝視している。その間も、ご飯を口に運んだり味噌汁をすすったりする事は忘れない。
 僕はますます混乱した。彼は僕の事を今日初めて知ったのだろうか。もしそうだとしても、一目瞭然のこの僕だ、彼は相当目が悪いとしか言いようがない。
 すっかり頭を抱えた僕を尻目に、彼はすでに最後の一つとなった鳥天を丸ごと口に突っ込み、さらに白飯を掻き込んだ。そしてまた、大きく膨らんだ頬をもぐもぐと動かしながら、僕の目を真っ直ぐ見つめてこう言った。
「じゃあ、あのウワサは本当なの? アンタは猟奇殺人鬼の息子で、アンタも人を殺した事があるって話」
 僕はもう、絶句するしかなかった。学内でそんな風に言われている事は、僕自身も知っている。けれど、それを正面切って臆する事なく質問してくる人間がいるなんて、思いもよらなかった。
「で? 本当なの?」
 口に含んだ物をすっかり飲み込んでしまってから、彼は先ほどの質問を繰り返した。恐れもなければ、からかいも嘲りも感じられない、純粋な問いだった。
 僕はそれをどう受け止めていいのかわからず、ただ必死で首を横に振った。
 すると彼は一瞬目を丸くし、やがて、わずかに眉尻を下げたような表情で笑いながら「やっぱり」と呟いた。
「じゃ、ソレは? どうしてついたの?」
 続けて、彼は僕の左の頬を指差して言った。
 こめかみから頬の中心まで弧を描くように走る、大きな傷痕。これこそ、僕が周囲から恐れられてしまう最大の原因である。
 この傷痕のせいで、昔からいわれのない偏見を受けてきた。もともと気が弱く人見知りだった僕は、子供の頃から常にオドオドしていた。けれど、普通ならいじめの対象にもなりかねないそんな態度も、顔に大きな傷を持つ僕の場合「目つきの危ない不気味な奴」にしか見えなかったらしい。日々の積み重ねほどマイナスに働くと厄介なものはなく、誤解されればされるほど僕の振る舞いはますます不自然になっていき、周囲との距離は開く一方となった。おまけに、身長が192cmまで伸びてさらに迫力が増してしまった今となっては、犯罪者扱いされるのが日常茶飯事といった有り様である。
「この傷痕は、僕が赤ん坊の頃についたものだよ」
 僕は、震える手をぎゅっと握り締めて答えた。
「僕自身はその時の事を覚えてはいないけど。母親がちょっと目を離した隙に、2階のベランダから落ちたらしい。だから、みんなが言うように、人を襲った時にできた傷じゃないよ」
 僕は自分の事を正直に話した。たったこれだけの事を口にするだけで、僕の喉はカラカラになった。
「そっか。うん、アンタ、犯罪どころかちょっとした口ゲンカもできなさそうだもんな」
 彼はあっけらかんとした調子でそう言うと、続けざまに質問を飛ばす。
「アンタの父親は何してる人?」
 僕は、彼の反応に驚いている暇もなく答える。
「えっと、臨床心理士ってわかるかな? カウンセリングとかする人なんだけど」
「ああ、わかるよ。オレ、教育学部だからね。じゃあ、お袋さんは? 仕事してる人?」
「ううん。もう亡くなった」
「え。あー、悪かったな。辛い事聞いちまって」
 先ほどまでと打って変わって、彼は申し訳なさそうな顔をした。
「気にしないで。僕が一人っ子だった分、父さんは呆れるくらいの愛情を注いでくれたから。それほど寂しい思いもしてこなかったんだ」
「……そっか。なら、よかった」
 彼はほっとしたように溜め息を吐き、目を細めた。
「なあ、アンタにもっと質問していいか? オレ、アンタの事がもっと知りたい」
「え、何で?」
 今度は僕が聞き返す番だった。
「アンタの事が好きだから。一目惚れってヤツだ」
 途端に、僕の頭が真っ白になる。
 ────は?
「アンタ、恋人はいる?」
 僕はブンブンと首を横に振った。
「じゃあ、好きな奴は?」
 続けて、ブンブン。
「男に抵抗はある?」
 そう聞かれて、僕は動きをはたと止めた。
「正直に言ってくれていいよ。絶対ムリって言われれば、オレも諦めがつくし」
 正直に、と言われ、しばらく考えた後、僕が口にしたのはこうだった。
「わからない。そもそも僕、誰かを好きになった事がない」
「へ? マジで? 一度も?」
 彼は心底驚いたようだった。けれど、すぐに顔をほころばせ、
「そっかー。ん、よし。これで決まりだな」
 と頷きながら立ち上がった。
 ──え、何が?
 僕に聞き返す間も与えず、彼は一気に告げた。
「とりあえず3ヶ月。アンタはオレと試しに付き合ってみる。で、オレの事が気に入れば恋人になる。もしダメなら、オレはすっぱりアンタを諦める。な、決まり」
 どうやら僕に拒否権はないらしい。あっという間に、正式にではないにしろ彼とお付き合いする事にされてしまった。
「じゃあ、オレそろそろ行くわ。──あ、そうだ」
 去り際、彼は振り向きながら僕に尋ねた。
「アンタの名前、舘野大輝であってる?」
「うん」
「ん。またな、大輝。大輝もこれからオレの事、琉嘉って呼べよ」


 その日の夜、僕は一人ベッドに横たわり、母親の事を思い出していた。
 母親は、僕が三歳の時に亡くなった。進行性の胃癌だったそうだ。
 当時僕はまだ幼かった事もあり、母親がどんな人だったのかまるで覚えていない。けれど、母親がよく口にしていた言葉だけは不思議と脳裏に焼き付いている。
 ──出会いとは、互いが望んだからこそ起こるもの
 あの頃の僕にはまったく意味がわからなかったし、今も理解しているとは言い難い。ただ、なぜだか忘れてはいけない事のような気がして、幼いながらもこの言葉を大切にしなければと思ったのだ。
 ──大輝
 ふと、彼の声が耳元で甦る。身内以外に名前を呼ばれたのは何年振りだろう。
「……琉嘉」
 僕は窓の外を見上げた。月のない夜だった。
 名前を呼んでくれる誰かがいるから、人は、確かに自分が今ここに存在するのだと実感できるのかもしれない。
 そんな事を思いながら、僕は眠りについた。


  2


 数日後、僕は琉嘉に誘われ、夕食の買い出しにスーパーへとやってきた。
 琉嘉は、国産ブランド牛で焼き肉パーティーをするのだと張り切っている。バイト代が入ったから、今夜は贅沢をするのだそうだ。肉の他に野菜や飲み物など色々カゴに詰め込んで、琉嘉はそそくさとレジへ向かう。僕がポケットから財布を取り出そうとすると、「今日はオレのおごり」と断られてしまった。一方的にしてもらうのも気が引けるので、荷物は全部僕が持つと申し出た。琉嘉は、パンパンに膨らんだ二つのレジ袋をしぶしぶ僕に差し出した。
 夕暮れの中、二人並んで琉嘉のアパートへと歩いている時だった。
──ゴオオオオオッ
 突然耳の奥で鳴り出す不快な音に、僕は顔をしかめた。
「どうした?」
 異変に気づいた琉嘉が、僕の顔を心配そうに覗き込む。
「大丈夫。ただの耳鳴り。昔から時々あるんだ」
 僕は答えながら頭を抑えた。
「ふらついてるじゃねえか。ほら、荷物よこせ。あっちに公園があるから少し休んでいこう」
「……うん」
 琉嘉に支えられながら、僕は何とかベンチまでたどり着き、腰を下ろした。
 思いのほか、酷い耳鳴りだった。子供の頃から慣れているはずなのに、不快でたまらない。僕は目を瞑り、嵐のような轟音が過ぎ去るのをひたすら待った。その間、琉嘉は隣に座って僕の頭を撫でていた。
 ふいに彼は立ち上がり、僕の正面にしゃがみ込むと、僕の頬を両手で包んだ。
 何だろう、と僕が目を開けた瞬間
 ──チュッ
 琉嘉と僕の唇が重なった。
「ちょ、ちょっと、何して……っ」
 僕は思わず大声を上げた。僕のファーストキスがあっさり奪われたこともショックだったが、何よりここは外だ。
 一方の琉嘉はと言えば、そんな事はまったく気にならない様子で、
「いや、治るかなって思って」
とのたまった。
「はあっ? そんなわけあるか……も?」
 信じられない事に、僕の耳鳴りはピタリと止んでいた。
「嘘だろ……? あんなに酷かったのに」
「愛の力だな。さすが、オレ」
 困惑する僕をよそに、琉嘉は自分の顎に手を当てながら得意気な顔で頷いている。僕は、苦笑いするしかなかった。
「まあ、一応お礼は言っておくよ。おかげで楽になった」
「じゃあ、アンタがまた耳鳴りに襲われたら、オレがキスしてやるよ。道端でも、電車の中でも、授業中でもな」
 琉嘉はそう言って、もう一度僕の唇をついばむ。
「こ、こら! そんなの、いらない! 絶対ダメだからな!」
「ヤダね。絶対する。だってオレ、大輝の辛そうな顔を見るの耐えられねえもん」
 琉嘉は、その美しい顔に優しい微笑みを浮かべ、僕の頭をぽんぽんと撫でた。それから再び立ち上がり、レジ袋を両手に取ってスタスタと歩き出す。
「早く来ないと置いてくぞ」
 僕は頬が熱くなっていくのを感じながら、彼の背中を追いかけた。


 アパートに戻った僕達は、さっそく下準備を済ませると、勉強机兼食卓用ローテーブルに向かい合って座った。テーブルの上には、一人暮らしの男子学生には不釣り合いなほど大きいホットプレートが乗っている。
「にっく、肉~♪ うん、うまいっ」 
 プレートの上に次々と並べられた肉が、表面にわずかな焼き色がついた瞬間、すぐさま琉嘉の口の中へと運ばれていく。最初に言葉を交わした日にも思ったが、彼は本当によく食べる。僕は呆気に取られていた。
「オレはアンタが野菜ばっか食ってる事の方が驚きだけどね」
 丼のような茶碗におかわりの白飯をよそいながら、琉嘉は言った。
「そんなんでよくそのデカい体が維持できてるよな。肉、嫌いなのか?」
 ほぼ肉にしか箸をつけない琉嘉とは対称的に、僕は野菜をメインとした食生活を送っていた。特に肉が苦手というわけではないけれど、昔から何となく、肉をたくさん食べてはいけないような気がしているのだ。
「何で?」
 あいかわらずストレートな琉嘉の質問に、僕は首を捻った。
 そういえば何故だろう。何か理由があったように記憶しているのだけれど──
「あ、思い出した。『草しか食べないライオン』だ」
「草しか食べない……ライオン?」
「子供の頃、大好きだった話なんだ。たぶん絵本だったと思う。そのライオンは、他の動物を殺して食べるのはかわいそうだからと言って、草しか食べないんだよ」
 心理学専攻を希望しているせいか、琉嘉は僕の回答に随分興味をそそられたようだった。口を動かすのも忘れて、僕の話に耳を傾けている。
 絵本の事を口にするうちに、僕は徐々に昔の自分を思い出していった。
 草しか食べないライオンは、同じライオン達からは「お前はライオンなんかじゃない」と除け者にされ、他の動物達からは「ライオンだ」と恐れられていた。見た目は恐いのに中身は弱い、誰とも分かり合えないその姿は、まるで自分を見ているようだった。だから、ライオンが大泣きするシーンでは僕も一緒になって泣いた。悲しくて悲しくて、仕方がなくて泣いたのだ。
「ふーん。何でそのライオンは泣いたんだ?」
 琉嘉に聞かれ、僕は説明しようと口を開く。
「──わからない」
「何だ、そりゃ」
「あれ、おかしいな。何度も読み返した絵本のはずなのに」
 話の続きがまったく浮かんで来ない。僕は必死に思い出そうとする。
 そのうち、琉嘉は待ちくたびれてしまったようで、
「ふん、つまんねえの」
 と不満そうに呟き、焼き肉パーティーを再開した。
「ああっ、肉が焦げてやがる! ほら、アンタも早く食べろっ」
「あ、うん……」
 彼に促されるまま、僕は肉を口に運んだ。けれど、もはや味は感じられなかった。知っているはずなのに、思い出せない。それが酷く気持ち悪かった。
 結局その日、僕の気持ちが回復する事はなかった。気分を変えようと気を遣ってくれた琉嘉には申し訳なかったけれど、僕の心はすっかりあのライオンに囚われていた。
 それは、母親の言葉を思い返す時と同じ感覚だった。理由はわからないけれど、自分にとって大切な何かがある気がする、あの感覚と──。


  3


 それから2ヶ月が経過したが、僕は絵本の内容を一向に思い出せずにいた。
「何で何も浮かんでこないんだよー……」
 僕は、琉嘉の部屋にあるローテーブルに両肘をつき、頭を掻きむしった。
「おーい、大丈夫かー?」
 キッチンから戻ってきた琉嘉は、コーヒーの入ったマグカップをテーブルの上に置きながら僕の顔を覗き込む。
「うわ、目つき悪っ」
 彼は僕の頭をぽんぽんと撫で、それから僕の背中にしがみつくような格好で座った。琉嘉のお気に入りのポジションだ。
「いくら何でも思い詰め過ぎ」
「自分でもわかっているんだけど……。ごめん、琉嘉の部屋にお邪魔しておいて」
「別にいいよ。オレはただ大輝が心配なだけ」
「ごめん」
「だから謝んなって」
 そう言ったきり、琉嘉は僕の背中に頭を預けて静かにしていた。
 こう見えても長男だと言うだけあって、琉嘉は本当に面倒見が良かった。時々僕がこうして絵本の事に気を取られてしまっても、彼は何も言わず僕の側にいてくれた。
「なあ」
 ふいに琉嘉が口を開く。
「ネットで検索はしてみたのか?」
 僕は顔を上げた。
「してない」
「よし」
 琉嘉は立ち上がり、通学用のバッグの中からノートパソコンを取り出した。てきぱきと僕の前にパソコンをセットし、それからまた元の位置に戻る。
「ありがと」
「ん」
 琉嘉の体温を背中に感じながら、僕はあの絵本について調べ始めた。けれど、1時間ほどパソコンに噛り付いてみたものの成果はまったく得られなかった。
 もしかしたら絵本じゃないのかもしれないと思った僕は、童話や児童文学、神話、民話など思いつく限りのワードを入力してみた。日本ではあまり有名な話ではない可能性もあると考え、海外のサイトもあたってみた。しかし、結果はどれも同じだった。
「あー、もーッ! 何で何も出てこないんだよッ!」
 苛立ちがピークに達した僕は、思わず声を荒げた。その間も、琉嘉は僕の後ろでただじっとしていた。
 異様な焦燥感が僕を支配していた。思い出せない事も歯痒かったが、何より思い出さなければならないという衝動が、尚更僕をあのライオンへと執着させた。
 ──ゴオオオオオオオオッ
 突然、頭の中でジェットエンジンのような音が鳴り響く。僕は頭を抑えた。
「また耳鳴りか?」
 心配そうな琉嘉の声が遠くから聞こえる。
「だから言ったのに。ストレスを溜め込み過ぎだ。ほら、ベッドに横になれ。な?」
 琉嘉に言われるまま、僕はふらつきながら彼のベッドまで行き、仰向けに寝転んだ。 すると、彼が上に跨り、僕の顔にキスの雨を降らせ始める。
 ──額。瞼。頬。唇。
 それから、彼は僕のシャツのボタンを一つ一つ外していく。彼の唇が次第に僕の体を下へ下へと移動する感覚を追いながら、僕は徐々に耳鳴りが小さくなっていくのを感じていた。


 彼と体を重ねるようになるまで、時間はさほどかからなかった。彼はいつも自分の心に従って行動する。それは性に関しても同じだった。加えて今では、徐々に酷くなっていく僕の耳鳴りを治す、唯一の薬でもある。キスをされただけで戸惑っていた頃の自分が嘘のように、彼とのセックスはもはや必要不可欠なものになっていた。
 僕の体中に口づけを落とした彼は、続けて僕の性器を咥えた。同時に、彼自身も僕を受け入れる準備を始める。
 初めての時も、彼にされるがままにセックスをした。何の経験もなかった僕は、彼がする事をただ眺めていた。以前、彼は僕に「男に抵抗はあるか」と聞いたが、それはいらぬ心配だった。僕はちゃんと興奮していたからだ──自分でも驚くほどに。他人に性器を触られる気持ち良さを初めて知ったという事もある。けれど、それ以上に僕の性欲を目覚めさせたのは、彼自身だった。僕の性器に丹念に舌を這わせつつ、自らの秘部を指で掻き回す──腰を揺らしながら、切なげな吐息を漏らしながら。その姿に、僕は自分がオスであるという事を自覚させられた。そして限界まで張り詰めた時、僕は、彼のほんのり赤く染まった首筋にかぶりつきたいという衝動にかられている自分に気づいたのだった。
「もう、いいよな」
 彼はいったん体を離すと、自分の腰を持ち上げた。それから、そそり立った僕の先端に、濡れて柔らかくなった彼を押し当てる。
「待って。僕がする。もう平気だから」
 自ら挿入しようとする彼を制止して、僕は体を起こした。
「下に手をついて。腰、高く上げて」
 僕が指示をすると、彼はそれに従った。下の口が物欲しそうにヒクついているのがよく見える。僕はその中をゆっくり犯していった。
「ん……っ、あ、あああ」
 彼がすがるようにシーツを掴む。
 僕はまるで獣のように腰を振った。
「あ、あッ、んうッ、あッ、ああッ」
 腰を激しく打ちつけるほど、彼は背中を反らし、僕のものが奥まで届くよう自ら尻を突き出してくる。
「い、いよ、琉嘉……っ。すごく、きもち、い……っ」
 僕は彼に覆い被さるように片手をつき、反対の手で彼の顎を掴んだ。それから親指で口を開かせ、人差し指と中指を突っ込む。
「んんッ! ふ……ッ、は、んう……ッ」
 途端に、彼の息が荒くなる。わずかに窺える横顔は真っ赤に染まり、目には涙が滲んでいる。どうすれば彼がより感じるのか、僕にはわかり始めていた。そして僕はさらに興奮していく。
 同時に、僕はそんな自分に、いっそ死んでしまいたくなるほど幻滅するのだった。
 こんなの、愛じゃない。ただの性欲だ。耳鳴りから逃れるための、ただの手段だ。
 初めて僕の事を好きだと言ってくれた琉嘉。彼との行為が気持ち良くなるほど、僕は、琉嘉の想いを踏みにじっている気がしてならなかった。
 いずれ僕は琉嘉の事を傷つけてしまうのではないか。そう思うと恐くてたまらなくなった。


「週末、実家へ行って来るよ」
 ベッドの上でまどろみながら、僕は琉嘉に言った。時刻はすでに深夜を回っていた。
「実家にライオンの本が残っているかもしれないし、そうじゃなくても父さんに聞けば何かわかるだろうから」
 口には出さなかったが、僕は父親に耳鳴りの事も相談するつもりでいた。自分で対処できるようになれば、もう琉嘉とのセックスは必要なくなる。それは今の僕にとって、彼の提示した3ヶ月を待たずに関係を終わらせる事ができる、という意味でもあった。
 そんな僕の考えを知ってか知らずか、琉嘉は隣に横たわったまま静かにしていた。時折聞こえる衣擦れの音が、妙に響いた。
 やがて琉嘉が口を開く。
「そのライオンってさ、ウサギと出会わなかったか?」
 僕は目を見開いた。そうだ。ライオンが草原を歩いていると、一匹のウサギに出会うんだ。それから──、と喜んだのも束の間、やはりその先は思い出せなかった。
 僕ははたと気づく。
「琉嘉、この話を知ってるのか?」
 彼は僕に背を向けたまま返す。
「ライオンとウサギがどうなったか、親父さんに聞いてみてくれないか? オレの事は内緒にして」
「どうして?」
「いいから言う通りにしてくれ」
 会話はそこで途切れた。
 琉嘉の真意が掴めないまま、僕は週末を迎えた。


  4


 電車が鼓動のようなリズムを刻んでいる。その音が僕の心臓にまとわりつき、胸のざわつきをさらに煽っていく。
 実家で過ごした二日間は充実したものとなった──酷くネガティブな意味で。
 僕はすっかり混乱していた。父親の話と僕の記憶、そして琉嘉のあの発言。考えれば考えるほど、わけがわからなくなっていく。唯一はっきりした事は、あり得ない事が起きているという事だけだ。
 自分のアパートに荷物を置いたらすぐに琉嘉の所へ行こう、と僕は思った。確かめなければ、彼が何者なのかを。


  5


「おかえり。目つき悪いよ」
 琉嘉は僕を一瞥しただけで、食器洗いを続けた。シンクを叩く水音がやけに耳に障る。
「絵本の事、わかったよ」
 僕は彼の背中に告げた。
「そう」
「君は誰なの?」
「どういう意味?」
「僕に近づいた目的は何?」
 彼は答えない。
「何であの話の続きを知ってたの?」
「オレが知ってたら、おかしいのか?」
「……あり得ない」
 僕は声を絞り出すように呟いた。
「僕と父さん以外に、あの話を知っている人間がいるはずがない。世界中のどこを探しても」
 琉嘉は蛇口を捻って水を止め、ゆっくりとこちらに振り向いた。
「何で?」
 僕は、意を決して答える。
「あれは、絵本なんかじゃないからだ──僕が子供の頃に作った、ただの妄想話だ」
 父親は言った。あのライオンは、僕がまだ幼い頃、母親を失ったショックと周囲からの偏見によるストレスで、自らを慰めるために生み出した妄想だ、と。僕の顔の傷は、心の傷と等しい。だから幼い僕は、よく夜中に「僕はライオンなんだ。ライオンだから、ウサギとは友達になれないんだ」と大泣きしたらしい。一人ぼっちのライオンというキャラクターを作り出すことで、自分の気持ちを、胸の痛みを、必死で父親に訴えたのだ。
 ただ、幼児期の子供が空想の世界に浸る事は、ストレスの有無に関わらずさほど珍しい話ではないらしい。例えば、天使がいると言ってみたり、目に見えない友達と遊んだり──けれど、それらのほとんどが、小学校に上がる頃までに本人の顕在意識から追いやられていく。僕自身がそうだったように。
「父さんは臨床心理士だ。プライドを持って仕事をしている。たとえ自分の息子だろうと、本人の許可も無しに心に関する情報を第三者に漏らすなんて事はあり得ない。だから君があの話を知っているはずがないんだ」
「そう。じゃあ、何でオレは知っているんだろうな。まさか特殊な能力や機械を使ってアンタの脳を覗き見したとか?」
「その可能性は充分あると思ってる」
「冗談だろ? SF映画じゃあるまいし」
「それなら君はどうやって知ったっていうんだよッ!」
 僕は、震えが止まらない手を必死に握り締めながら叫んだ。
「君と過ごすようになってから、僕はどんどんおかしくなっていく。耳鳴りは酷くなる一方、だけど君とセックスをするとあっという間に治る。こんなの絶対おかしいだろ。君が何かしたとしか思えない。一体、君は何者なんだよッ」
 一気にまくし立て肩で息をする僕を、彼は無言で見つめていた。僕はただ、僕自身でさえ知らない、僕の事を知っている彼が恐しくてたまらなかった。
 やがて彼は大きく息を吐き、静かに口を開く。
「本当はアンタが思い出してくれるのを待つつもりでいたんだけど。いいよ。話の続きを教えよう。ただし、オレが記憶しているのはウサギの方だけどね」
 僕はたじろいだ。──彼は何を言っているんだ?
「ある時、ウサギは酷くやせ細ったライオンと出会った。そのライオンは、ウサギに向かって笑顔でこう言った。『僕はライオンだけど草しか食べないんだ』」
 ふいに、僕は奇妙な感覚に見まわれる。僕の横を風が通り過ぎ、何種類かの草の香りとわずかな血の匂いが鼻を掠めたのだ。
「ライオンはこうも言った。『僕が草を取ってきてあげるよ。おなかいっぱい食べれば、きっとそのケガも治るよ』。そう、ウサギはケガを負っていた。そしてウサギにはわかっていた。自分はもう手遅れだという事が」
 ドクン、と僕の心臓が跳ねた。同時に、凄まじい耳鳴りに襲われる。
「それで、ウサギは何て答えたと思う?」
「……もう、いい」
 僕は両手で頭を抱えた。嘘だ。こんな事、あり得ない。
「アンタ、本当に思い出せない?」
「もうやめろって言ってるんだ……っ」
 知っている──嘘だ──悲しい結末を──あれはただの妄想だ──僕は知っている。
「ウサギがアンタに言った言葉なのに?」
「違う……ッ」
 僕は狂ったように頭を掻きむしった。違う。あれは僕じゃない。違う違う違うッ!
「じゃあ、オレがもう一度言ってやるよ。あの時と同じ言葉で──『ありがとう、親切なライオンさん』」
「い、嫌だ……っ」
 僕は思わず後ずさりをする。
「『でも私はもうすぐ死ぬんです。だから私は、私の命を意味のある事に使いたいと思うんです』」
 ──痛い。胸が押し潰されそうなほど。心臓が捻り潰されそうなほど。心が、痛い。
 僕は懸命に首を横に振った。
「だめ……っ、だめだよ……っ」
「『さあ、痩せっぽっちのライオンさん』」
「お願いだから……っ」
「『どうか私を』」
「そんな事……、言わないで……っ」
「『食べて下さい』」
 途端に、僕の口いっぱいに血の味が広がった。僕は、ぎゅっと目を瞑る。

 そして、静寂が訪れた。


  6


 僕は気づく――なぜ君といると耳鳴りが酷くなるのか、なぜ君と触れ合うと耳鳴りが治るのか。
 あれは、耳鳴りなんかじゃなかった。
 あの音は、死ぬ寸前まで飢えていた僕の、ライオンだった頃の僕の、お腹の音だったんだ。
 だから、君だけが、この音を止めることができた。

 あの時君が、自らの命を、最期の優しさを、僕にくれたから。


  7


 僕はその場にへたり込み、ただ呆然としていた。たった今体験した事を否定しようにも、細胞の一つ一つが、これが真実である事を伝えていた。僕自身がはっきりと「記憶」しているのだ。
 僕は彼の方をぼんやりと見上げた。
「じゃあ、君が、あの時のウサギ……?」
「オレも初めは妄想だと思ってた。でも、大輝がライオンの話をした日に、確信に変わった」
 彼の声は明るかった。
「よかった。大輝が思い出してくれて。オレ、すっげえ嬉しいよ」
 僕の脳が一瞬だけ、彼の表情を認識する。いつもの、彼らしい優しい微笑みだった。
 ──ああ、苦しい。君が僕を想ってくれるほど、僕は苦しくなる。
「……ごめん、帰る。君にはもう二度と関わらない」
 僕はふらふらと立ち上がった。彼が慌てて僕の腕を掴む。
「待てよ。何で?」
「……離してくれ」
「凄い事だとは思わないのか? 奇跡だよ、また出会えるなんてさ。しかも今は二人とも人間だ。これからはずっと一緒にいられる。な?」
「そんな事、僕は望んでない……ッ!」
 僕は彼の手を思い切り振り払った。
「……頼むから、もう僕に構わないでくれ」
「何で? オレ、本当に嬉しかったんだよ。大輝とまた出会えて──」
「君はこの話の結末を知らないから、そんな事が言えるんだッ!」
 僕はあらん限りの声で叫んだ。
 もはや彼に顔を向ける事はできなかった。大きく息を吐き、僕は覚悟を決めた。
「あの時、君は言った。最期に自分の命を意味のある事に使いたい、と。そして空腹で死にかけていた僕に君の命をくれた。だけど僕は……」
 僕はあの時、泣いた。一人ぼっちの草原で。悲しくて悲しくて、仕方がなかった。だって、君が美味しかったから。おなかが満たされたから。それで、やっぱり僕はライオンでしかないんだと思い知らされて、僕は結局──
「あの後、何も食べずに死んだ。自ら死を選んだんだ」
 いつも、君の優しさを踏みにじっている気がしていた。後ろめたかった。それは僕が、あの時君を裏切ったからだ。今でも君を裏切り続けているからだ。昔と同じ、僕は何一つ変わっていない。このままでいいと何もかも諦めて、生きる事を放棄して、ただ君の優しさを食い潰しているだけなんだ。
「これでわかっただろ」
 僕はそのまま部屋を出て行こうとする。けれど、彼は再び僕の手を掴んで言った。
「オレ、知ってたよ」
 一瞬にして、僕の全身が硬直する。
「大輝が死んでいくところを、オレは空から見てた。オレも泣いたよ。悲しくて、悔しくて。だから、もう一度大輝と出会わせてほしいって神様に頼んだんだ。今度は一緒に生きられるようにって。そうしたら、神様がオレ達を人間に生まれ変わらせてくれた」
 琉嘉は、両手で包み込むように僕の手を握った。
「言っただろ? オレ、大輝の辛そうな姿をもう見たくねえんだよ」
 僕の指先が、ドクドクと脈打ち始める。
「でも、僕は……君の命を……っ」
「大輝が悲しいとオレも悲しい、大輝が幸せならオレも幸せ。心がそう感じたんだから、それがすべてだろ?」
 彼はゆっくりと僕を振り向かせ、僕の左頬に右手を伸ばす。それから、僕の傷痕を確かめるようになぞっていく。
「それにさ、神様がオレに教えてくれたんだ。人間に生まれ変わっても二人が出会える保証はない──ただし、お互いが望んでいるのなら必ずまた会える。出会いとは、そういうものなんだって」
 ふいに、琉嘉の瞳に映る僕が見えた。
「だからオレ、大輝を見つけた時、そういう事なんだって思ったんだけど。違った?」
 にっこりと笑いながら僕を見上げる琉嘉の姿に、僕はやっと理解する。ああ、何て馬鹿だったんだろう。初めから、僕はちゃんと答えを知っていたというのに。
 僕は、琉嘉の右手に自らの左手を添えた。彼の温もりが、傷痕を伝って僕の中を満たしていく。
「よし、決まり。大輝とオレは、これからずっと一緒に生きていく。な、決まり」
 琉嘉の嬉しそうな声が、すぐ側で聞こえた。


 そして僕はまた泣いた。けれど今度は一人ぼっちじゃなかった。
 だから僕は泣いたんだ。嬉しくて嬉しくて、仕方がなくて泣いたんだ。


  8


「だから悪かったって! あと5分で支度するから! いいな、お前ら、絶対オレ達を置いてくなよ!」
「……ん」
 琉嘉の大きな声で、僕は目を覚ました。うっすらと瞼を開けると、琉嘉がスマホに向かって何やら叫んでいるのが見える。
 彼は電話を切るなり慌てた様子で、まだぼんやりしている僕の体を揺すった。
「おい、大輝。寝てる場合じゃねえぞ。集合時間はとっくに過ぎてんだ。早くしねえと、アイツらマジで車を出すつもりだぞ!」
「んー……、それならそれで、仕方ない……」
「こら! せっかくできたダチをあっさり手放すな! それだけは許さねえからな」
 再び眠りに落ちかけた僕を、琉嘉は無理やり起こす。
「ふぇーい……」
 琉嘉に促され、僕はのそのそとベッドから這い降りた。
 顔を洗って頭をスッキリさせると、琉嘉が僕の洋服を投げてよこした。まもなく着替えを済ませた彼は、僕と入れ替わりに洗面台の前に立ち、髪をセットし始める。僕は、焦らなくてはと思いつつ、のんびりとシャツの袖に腕を通した。
「だるい……」
「昨日の大輝は激しかったからなー。おかげでオレ、超元気♪」
 鏡越しに僕と目が合った琉嘉がニヤリと笑う。
「文脈おかしいだろ。ったく、どういう体してるんだか」
 僕は呆れて溜め息を吐いた。
 着替えを完了した僕は、琉嘉と並んで鏡を覗く。寝癖を直している時間はないので琉嘉のニット帽を借りて被った。
「なあ、大輝。花見から帰ってきたらさ、今晩もまたしようぜ」
「はあっ? やだよ」
「何で? いいじゃん。オレ、春になると性欲増すんだよなーウサギだからかなー」
「血が滲むまでするのは勘弁してほしいものだね」
「お、生物学部らしい切り返し。でも痛いのは嫌いよ、オレ」
「はいはい。準備ができたなら、もう出るよ」
 無駄口の止まらない琉嘉の背中をぐいぐいと押しながら、僕は玄関へと向かう。
「愛のあるセックスは格別に気持ち良いもんなんだから、何回もしたくなっちゃうのは仕方ないだろ?」
「いいから、早く靴履きなよ」
「何だよ、今のオレは食べ放題だってのに。ふん、いいよーだ。もう一口もやんねえからなっ」
 子供のようにふてくされた琉嘉は、そう言って僕の手を払いのけた。
 その瞬間、僕の中で何かが弾ける。
 僕は琉嘉の背中を玄関の壁に押しつけ、顎を掴んで無理やり顔を上に向けさせた。
「ちょっ……、何、急に」
「気が変わった」
 そう言って、僕は琉嘉の首筋に甘く噛みつく。
「明日で春休みも終わってしまう事だしね、せっかくだから隅々まで味わわせてもらおうかな。僕が満足するまで、じっくりと」
 続けて、耳に。
「だからさ──」
 最後は、舌に。
「今夜は、覚悟しておけよ」
 僕は、彼の瞳を覗き込む。頬を真っ赤に染めて立ち尽くす恋人の姿に、満足げに微笑んだ。
「さあ、もう行かなきゃね」
 そして、僕は琉嘉の手を取り、桜と友人が待つ向こう側へと扉を開けた。

弓永侑生
グッジョブ
コメントを書く

コメントを書き込むにはログインが必要です。