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第4回 BL小説アワード「再会」

リバーエンゲージ

エロあり

さしあたり何の曲か聞こうとして、俺は息をのんだ。静かに涙を流すその横顔に見惚れた。

わはは
グッジョブ

横へ伸びる影がいつもより少し長い。からすの声も幾らか遠くきこえる。
今日は帰りが遅くなった。
学校指定の傷だらけなスクールバッグを深く背負い直すと、ずしりと重たい教科書がかばんの中で上下した。
頭はからっぽでも、勝手に足が家からそれた道をゆく。
次の角を曲がった先だってことは、たとえ目を瞑っていても確信できる。
水のせせらぎが近くなるからだ。
足元がコンクリートから芝生に変わって、緑のにおいが鼻梁をくすぐった。
ふとした時にこの川へ来ることがある。よく水遊びをしたとか、走り込みをしたとかいう思い入れがあるわけでもないというのに。それでもある日突然まるごと姿を消したら寂しくなるのだろうか……
「……ふーっ」
つめたさの混じった風をうけて、水の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。心が少し凪いだ。
何度もはいたり吸ったりしているうちに、肺がつめたくなって咳き込みそうになったので、やめにする。
なんとなく視線を奥へやると、沈みかけた太陽の手前に川の中で一人佇む男がいた。
すらりとした細身で長身の男だった。日が短くなってきたというのに、膝まで水に浸かっている。
相手はこちらと反対側を向いている上に、随分と離れたところに立っている。俺はそれをいいことに、鼻くそをほじったりしながら目を離さずにその男を観察していた。まさにテレビの向こうにいる人をお茶の間から眺めている感覚だ。絶対に会い入れることのない間柄というものに感じる一方的な安心感なのかもしれない。
しばらく無心に眺めていると、後ろ姿でもどんな表情をしているか、なんとなくわかるような気がしてくる。それにしても、虚空を見つめたまま動かないのはなぜだろうか……
すると静かだった川が、男の足元の水面で波打った。男がゆっくりと前へ足をふみだしたからだ。
男は、のそり、のそりと一歩、また一歩と川の真ん中を目指している。
ある四文字の悪い予感が頭をかすめた。けれどそんなわけあるか、と瞬時に掻き消した。大正期、数々の大衆向け小説を残した神田蒼甫の最期の場所。いきすぎた憧れが高じて、なんてことも少なくないのかもしれない……ひと昔前なら。
考えてから、ははっと乾いた笑いが出た。
俺はそんな物好きなことをする奴の顔が見てみたくなった。気がつくと男のもとへ走っていた。

「おっさん!!……おっさーん!おい、聞こえてんのか?」
「ん。きこえてるよ」
なめらかな通る声でさらりと返された。
無言を貫くかと思ったが、会話をするつもりはあるようだ。
「そんなとこでなにしてんだよ。ってか聞こえてんなら返事しろよな」
俺は語気を強くして言った。相手は得体の知れないおっさんだ。
「はは。ごめんね」
男はやっと少し振り返って横目にこちらを見た。
なかなかの男前なのに、こんな奇特なことをしてしまう性分とは、神も隅に置けないな、と皮肉に思った。
「入水自殺の真似事ならやめとけよ。この川、水位めちゃくちゃ減ってるからな。神田蒼甫のときと違って」
「へぇ。詳しいんだね」
「あぁ。小説家かぶれがここ来んだよ」
お前もそうなんだろ、と心の中だけで言う。
「はははっ!そっか。大丈夫。曲聴いてるだけだから」
見ると、耳にコードレスの小型イヤホンをさしている。
笑い方こそ陽気だったが、表情との間にどこか違和感を覚えた。
「だからって危ないだろ。人間、膝くらいの深さでも、溺れることあるんだぞ」
「そうなのか」
俺の言葉なんて全く意に介さない様子で、目の前の彼は先へ先へと歩を進める。水しぶきが頬を濡らしてもおかまいなしだ。
まるで何かの頂きを目指すみたいに。
一方俺が気が気じゃないのは、たくし上げておいた学ランの裾が徐々にずり落ちてきていることだ。あともう少しで濡れてしまう。
突然彼の足がぴたりと止まったので、俺はやっと顔をあげた。彼もこちらを振り向く。
「そういう君もなんだかんだいって、ここまで来てるよね」
俺は咄嗟にしまったと思った。この男の巧みな術中に嵌った気がした。
彼はいたずらっぽい笑みを浮かべ、耳にはめていたイヤホンの片側をこちらへ差し出した。
目元が紅く、泣きぼくろが眼下のふくらみで押し出されている。
数刻まばたきができなかった。
はっとして、「いいのか?」と問うと「どうぞ」とにっこり微笑まれた。
見たことないイヤホンだから、きっと高いのだろう。

静かな曲だと思った。
ピアノだけが鳴っている空間に立たされたみたいだった。聴覚を支配されたのが分かった。普段全くと言っていいほど聴かないクラッシックだからなおさらだ。
ぞっとするような冷ややかさのある旋律と、安らかな終止感が相互に依存するような関係にあった。
この曲の向こうには誰かしら演奏者がいるはずなのに、人間を感じさせない。
夜でもないのにまるで水面に月がゆらゆらとうかんできそうだ。
堪らなくなって、すぐにでも横を振り仰ぎたかった。助けを求めたかったのだ。

さしあたり何の曲か聞こうとして、俺は息をのんだ。
静かに涙を流すその横顔に見惚れた。
感情の全てをはき出すような嗚咽が一度だけきこえた。
大人でもこうやって泣くことあるんだなあとかどうでもいいことを考えていた。自分の反応と思考とのギャップにもついていけない。
最後の音がいつまでも鼓膜にひびいていた。
曲が終わったみたいだ。今までの光景がうそだったみたいに我に返った。
俺はぼうっとした頭で彼にイヤホンを返し、
「……こんなストレス発散法もあるんだな。水をさすような無粋な真似して悪かった」
と言った。彼の圧倒的存在感の前に、降参したような気持ちだった。それなのに彼はなぜかあっけにとられたような顔をして俺を見つめていた。
感心してそのままの意味で口にでただけだったから、他に言うこともない。
「それじゃ俺先行くわ」
「まって」
そう言って彼は俺の腕をいきなりつかんだ。咄嗟に口をついて出た言葉みたいだった。
俺は当然体制を崩して前につんのめった。思いがけず彼の薄い胸板に手をつくと、彼も後ろにバランスを崩す。
水面を打つ派手な音が迸って、一緒に川へつかった。
「あ。ごめん」
すかさず彼がひとこと謝った。
一瞬なにがおきたか全然わからなかった。
恋人同士みたいな至近距離で視線がぶつかり合う、おっさんと俺……
「……ふっふふ……あは、あははっ……!!」
弾けるような笑い声が腹から出た。無性に可笑しくて、笑いを堪える暇もなかった。
彼は尚もキョトンととした目で俺を見つめている。
「っはは!こんな派手なコケ方一緒にして、第一声あ、ごめんって……!んははっ!どんだけ反応薄いんだ!」
すると彼もはっとしたのち、顔を赤くして笑った。
陰のある笑みでもいたずらっぽい笑みでもない、純粋な笑いだった。
ひとしきり笑った後、俺が先に立ち上がって
「今日、まさか大のおっさんと水辺でランデブーするとは思わなかったわ……」
としみじみとした調子でつぶやくと、また彼がさらに笑いだして止まらなくなった。
2人で笑うと笑いの沸点が低くなるのは、合金の融点が元の金属より極端に低いことと似ていると思った。
彼が「30年分くらい笑った気がする」と言うので、「大げさすぎるよ」と突っ込む。
彼を引っ張って立たせると、二人とも服の裾が絞れるほどビシャビシャに濡れていた。笑いすぎてふらふらになった。
俺は、今日おっさんの喜怒哀楽のうちの3つ見たな、となぜか得意げになった。
突然、少しだけ真面目な表情をした彼が、俺の頰に触れてきた。
手が氷のように冷たくて、思わず目をつむる。
「また……来てくれる?ここで待ってるからきっと」
と彼は会ったときと同じ陰のある微笑で言った。
「おう。まあ、この辺住んでるからすぐ来れるし」
「そっか……」
「うん。じゃあ今度こそあがろうぜ。パンツまで濡れちゃったし」
「……そうだね。でも僕はもう一度ここでこの曲を聴いていくよ」
「あぁ。でもおっさん、俺より体温下がってる」
「ん?へいきへいき。すぐあがるから」
ほんとかよ、と思ったけど、絶対に譲らなそうなので説得はあきらめる。
「そうか?じゃあ先行くな」
岸まで帰っていく途中、進んで来たときは感じなかった水のつめたさが足の内側にじんわりとしみた。
俺はもうとにかく寒かったし、着替えたかったしで、家まで全速力で駆けた。結局、一度も振り返らなかった。
母親には、中学生にもなってどうしたのよ、いじめでもあってるんじゃないの、と若干心配された。
温かいシャワーを全身に浴びながら思った。
彼は何者だったんだろう。どこに住んでるんだろう。渦巻きだした疑問はなかなか消えてくれない。
もしかしたら彼はまだあそこで曲を聴き続けているかもしれない、あの適当な返事からすると、素直にすぐ上がるとは思えない、そんな考えが脳裏をよぎった。
直感だけなのに、行かなくてはと思った。
お風呂に10秒だけつかって浴室から上がる。
体を拭くのも簡単に済ませて、ふわふわのタオル、カイロ、彼の着替えになりそうな大きめの服を紙袋に急いで突っ込んだ。
サンダルをつっかけて川までの500メートルの道のりを再び全力疾走する。
今までこんなに急いで川へ向かったことがあっただろうか。
半乾きの髪が夜風に冷たかった。こんなの湯冷めをしにいくようなものだ、と思ってふふっと笑いがこぼれる。
コンクリートと芝生の境界を超えて、息を切らしながら土手を滑り降りる。
けれど、彼はいなかった。
ただ静かに闇の中へつつまれた川が俺の目の前に横たわっている。
川のどこを見回しても、あの後ろ姿を発見することはできなかった。
拍子抜けだった。
彼はもうとっくに帰ったのだろう。もう辺りはこんなに暗くなっているのだ。
思えば俺が勝手にそう思っただけだったんだ、とひとりごちる。
彼が帰路についたことが分かってほっとするはずのに、どこか奇妙な心地がして落ち着かない。
俺は街灯に照らされた道を歩いて帰った。
布団に着いてから、今日の川でのことを思い返していた。学校帰りのほんの数十分の出来事とは、とても思えなかった。
反応も、表情も、風景もすべてがあざやかに瞼の裏に焼きついて離れない。このまま寝たら絶対にあの川での夢を見るだろうなと思った。
いつのまにか深い眠りについていた。

翌日、俺は学校から家に帰りつくやいなや、2階の自室へ駆け上がってドアの側にある紙袋をつかんだ。向かう先は当然決まっている。あの川だ。
まだ学校に向かう前から、帰ったあとのことを考えていた。普段寝ている授業でも頭が冴えてまったく眠れなかったので、先生に執拗に当てられた。
国語の時間では、周りがつまらない小論文の読解をしている最中、俺は教科書の後ろの方に載っている神田蒼甫の『魔の間』をこっそり読んでいた。おっさんも神田蒼甫の作品は間違いなく知っているだろうから、読んで話をしたいと思った。
あらかじめ紙袋を持っていくことにしたのは、彼が川からあがってすぐに暖かくさせるためだ。初めて会った日、彼の細い体躯では手がとてもつめたくなっていて心配になったのだ。
昨日と同じ時間に彼がいるとしたら、まだそこまで急ぐ必要はないけれど、自然と足が早くなる。
川に到着すると紙袋を側におろして、足を芝生になげて座った。雲ひとつない澄みきった青空がすがすがしい。走って来て早くなった鼓動が収まっていくと次第に眠気がおそってきて、いつのまにか寝ていた。
しかし結局日が暮れてもおっさんは来なかったようだ。少し残念に思いつつ、彼はきっと仕事で忙しい年齢だろうから仕方ないと思った。次いつ会えるか約束していなかったのが惜しまれる。
それに彼は少し天然で気まぐれなところがありそうだ。いつか会える日まで気長に待とうと思った。幸い俺は帰宅部の暇人だった。

俺は高校一年の秋になった今も、紙袋を持って放課後に川へ急ぐという毎日を送っていた。けれども、もうそんな日々も終わりを告げようとしていた。俺は父親が転勤する関係で、この街を離れることになったのだ。
とうとうおっさんは、俺がこの街を経つ日になっても、姿を現さなかった。たった一度も彼は川へ来なかったのだ。
結局会えず仕舞いではないか。自分からまた会いたいと言ったくせに、どういうことだ。
彼の思いなど到底計り知れないが、俺自身の思いも本当のところよく分からない。
側から見れば、紙袋を持って毎日通い詰めるなど、正気の沙汰ではないのかもしれない。あるいは主君をまつ忠犬のような健気さかもしれない。
俺があえて今までの日課の意味を言葉で表すとしたら、「使命感」だろう。
彼には絶対に必要だった、彼の体をあたためるものが。
あの時、彼の冷え切った手をそのままにして帰った俺を、どうしても許せなかった。
彼が川に浸ることがあるならば、その時は必ず俺が一番にあたためてあげなければならない。
俺の頭の中に彼の存在が占領し続けているのは、きっとそんなことをずっと考えているせいだ。
彼は俺のことをとっくに忘れてしまっただろうか。もしそうだとしたら俺は、どうしたらよいのか。
俺はこれが完全なエゴであることに気づいた。
俺は、今のこれと似た感情を抱いている人間をいつか見たのだった。それは『魔の間』に登場する主人公の恋敵、渡邊だった。もちろん渡邊は恋に敗れる側だ。負かされた後その娘を忘れて他に目を向ける、などということはできない頑固な男だった。加えてその娘が自分と共にいた方が幸せになれると信じてやまなかった。その時の彼は、手に入らない娘の存在が頭の中をぐるぐると回って、だれにも止められなかったに違いない、と俺は思う。
でも俺の中には渡邊ほどの「渇望」があるのかという点で、謎だった。自分では説明ができなかった。ないような気もしたし、あるような気もした。
喉が渇いてひりつくような心地がして、川の水を無我夢中で口に含んだ。けれど渇きは潤わなかった。

「チャンチャンチャタラタラダダーン……あああー!!違う違う!!絶対こんな曲じゃなかった!えーと、チャンチャン?チャチャーン……?」
一度気になりだしたら収集がつかなくなるのは、一向に昔と変わらない。「ピアノ」、「静か」、「クラッシック」、「月」などと検索してはあーでもない、こーでもない、というのを永遠と繰り返している。一人ぶつぶつと唸っていたら、隣に座っている人にあからさまな咳払いをされたので押し黙る。大学に併設されたカフェの一角にインターネットで調べものができるスペースあって、在学生は自由に利用できる。現在そこでパソコンとにらめっこしながら早2時間だ。
「あー。やっぱりあの時に曲名聞いとくんだったなー」
思わず独り言が口をついて出て、隣にすぐさますみませんと謝る。
就職活動で出版系を希望した俺は、中学時代までを過ごしたあの街へ再び戻ることになった。やはりあの川での出来事が思い出された。初めておっさんに会ってから今や8年目を迎えようとしている。まさかこんなに彼に会えないまま時がすぎてしまうとは思ってもいなかった。
当時俺は生意気な中学生だったが、彼はもういくつだろうか。彼のことをずっとおっさん、おっさんと呼んでいたが、振り返ってみると当時彼はおっさんと言われるような年齢ではなかったように思う。でも今はちょうど「おっさん」くらいになっているんだろうと考えると、少しおかしかった。いっそうまた彼に会いたくなってしまった。
けれども向こうのおっさんは絶対に俺のことなんて覚えていないのだ。そのことはもう高校生のときに気づいていて、諦めたはずだ。今もまだこんなことを考えているなんて自分はどこまで諦めが悪いのか……

訪れてみたら街は案外変わっていなかった。石野工務店や、キャンドルマートが並ぶ商店街、通っていた中学校も何一つ変わらずそこにあった。今は違う住人が住んでいるけれど、昔住んでいた家も残っている。
そしてこの角を曲がったら川が見える。いつもここに差し掛かると勝手に足が速くなった。鼓動も足と同じ加速度で速くなる。土手を駆け下りて走っていく、まっすぐな中学生の自分と重なった。
顔を上げると広く寒々しい川があった。
その中におよそ目を疑うような光景を見た。
あの人がいる。夕日を受けて、寸分狂わぬ位置にいる。
そこだけ時間を置いてきたのか、ちょっと時代遅れな着物と羽織だってあの時のままだ。
そこから出る白い腕は「おっさん」と言うに相応しくない。
俺は確信した。そして納得した。
今までの不自然が自然に思えた。あぁそういうことか、と。
まだ息を整える前に、彼は俺のことを見つけた。そして、俺の一番見たかった笑顔でこう言った。
「また会えた」
涙が視界を歪めた。目はあてにならなくて、俺はいち早く彼の実体を感じたいと思った。川の中へバシャバシャと入り水を掻き分けて彼のもとへ進んだ。
「はあ、はあ、はあ」
息が弾んでしゃべれない。彼はやさしい眼差しで俺を待つ。俺はその眼差しを見据えて言った。
「おっさん……遅い!」
へぇ!?っと一瞬、鳩が豆鉄砲くらったような間抜け顔がおかしかった。してやったぜ、と心の中で思った。
「ふっふふ……君はあの時と全然変わらないね」
彼は嬉しそうに言って、目を細めた。見た目よりもずっと大人びた表情をしているのが、癪だった。今となっては俺とほぼ歳だってそう変わらないのに。
「へー。おっさん今の俺見てもそういえんの?背も俺の方が高いのに?」
俺は彼に、少し意地悪を言った。すると彼は
「うん。そういう自分の考えをはっきりとした物言いで口にするところとかね」
と言ってくる。
「わかったよ。……でもこれから昔の俺と決定的に違うところをいやでも感じると思う」
俺は彼の頰に手を伸ばして、輪郭をなぞりながら少し低めのトーンでそう言った。
彼は暫し呆然と俺を見つめていた。そして我に返ってからもたくさん瞬きをしていた。
「……ふふ、わかった。でも君の根っこが変わってないなって思ったのは本当なんだ。……君と別れてからずっと君が口にした言葉全部を繰り返してたから、わかるよ」
そう言って彼は俺の頰をひんやりとした手で包んだ。なんとも言えない感覚が蘇ってきて、今度は俺の方が面食らった。
彼は俺のことを全く忘れていなかった、そのことが中学生の自分を重ねたとき、何よりも重要で嬉しいことのように思えた。
俺は彼の澄んだ瞳を見つめていた。
「おっさん、寒くない?」
「うーん……少し寒いかな」
彼はいたずらっぽい笑みを浮かべ、俺の意図を心得た様子で答えた。
「ん。だろうな」
俺は彼の頰の触れていた部分にやさしく口づけをおとしたあと、彼の唇の形を確かめようなキスをした。相変わらずどこもかしこもつめたかった。
「ん……っふ……」
彼の顔はみるみる赤く染まった。今まで見たことのない彼の恥じらう表情が、堪らなかった。濡れたように彼の瞳の色が変化して俺は満足した。
唇と唇が離れた後も、ずっと俺は彼の頰に触れていた。そうしていないと、いられなかったからだ。
これから言おうとしていることの重みがそれだけ俺にのしかかっていた。でもこの可能性は今まで全く考えていなかったと言えば嘘になる。自分があまりその方向を信じたくなかった。
けれども、目を背けたくなるような事実から、本当に目を背けてしまったら、他の楽しかった思い出までにも蓋をするようなことになるだろうと思った。
俺は少し息を吐いた。
「おっさん、神田蒼甫でしょ?」
ふと彼の笑顔が少しだけ哀しげな色に変わった。俺はこれが見たくなかった。彼は言葉に詰まった。彼の抱えている痛みが伝わってきて、俺は思わず彼を強引に引き寄せて、きつく抱きしめた。
「ほら。この方が話しやすいだろ」
彼に対してはどうも俺は甘いみたいだ。
彼は俺の耳もとで小さくありがとう、と答えた。
「……君の指摘通りだよ。僕がこの川で自ら命を絶った神田蒼甫だ」
彼のこの静かな言葉の間、俺は唇をきつく噛んでいた。
やはりその事実を突きつけられると、目の奥でショートしたように変な光がちらついた。
「……なんでだよ、なんで」
今日彼が川にいたのがそもそもおかしいのだ。彼がこの川にいなければよかったのに。彼が仕事帰りで、俺は就活中。街中を歩いている時に偶然再会する。ふた回りも大きくなった俺と、いい歳になった彼とがすれ違いざまに互いを直感する。そうであればよかった。
「どんな人混みの中ででも必ずおっさんを見つけられるのに、どうしてこんな何もない川にいる?なんで!?」
俺は答えられない問いを彼に浴びせた。そんなつもりはなかったのに、やるせない思いが抑えきれなくなってしまった。
やっぱり彼の方が何倍も大人だった。
「僕は重さに耐えきれなくなったからもう沈もうって、ね」
彼はさらりとそんなことを言った。
「小説を書けなくなった僕になんか誰も見向きしなかった。そもそも僕は肉親にとっても編集にとってもただの使い捨ての駒だった。迫られてもそれ以上何も書けやしないのは当たり前な話だよ」
俺は「神田蒼甫」という男を教科書の向こうで知っていた。
神田蒼甫は、貧しい家の生まれだった。ある時文才が認められ、著作を急ピッチで刊行する作家にまでのぼりつめることとなる。しかし筆が次第にのらなくなっていくと、編集にはそうそうに見限られ、今迄に稼いだ財産は実の母親に持っていかれたのだった。神田蒼甫が21歳のことだった。
俺は黙って彼の言葉を聞いていた。すると彼はつかれたと言って、こてんと俺の肩に頭を預けた。それからまた話を続けた。
「死んでからはずっとこの川にいるんだ。神はここへいさせ続ける罰の代わりに、僕がほしいと望んだものだけをあたえてくれる。ここは僕が勝手に死んだ場所のくせに、僕にとって都合のいい世界なんだ。皮肉だろう」
「それじゃあ、あの曲はもしかして……」
素直に驚きが言葉にのった。
「そう。生きてた時に一度だけ聴いて、忘れられなかったベートーベンの月光の曲。あれを聴きたいと願った。そうしたらこの小石みたいな粒が曲を奏でてくれたんだ」
そう言って彼はあの時のイヤホンを袖から出して見せた。
「月光の曲……」
もう曲名を聞いてしまうと、それ以外に考えられなかった。それだけしっくりくる名前だったのだ。
俺は彼の言葉の続きを待った。
「君がずっと来てくれていたことは知っていたけれど、顔なんて合わせられるはずもない……なぜって」
彼はひゅっとつめたい空気を嚥んだ。
「僕は……僕は、後悔した。君までもほしいと心のどこかで願ってしまった、と後悔した。……今日は君に感謝と謝罪をするためだけのつもりだったんだよ、本当は」
彼が少し決まり悪そうに苦笑いをしたのが、気配で分かった。それからこう言った。
「死んでもなお強欲とは、救いようがないわけだ」
彼はそれを自嘲するように付け足して言った。
けれども手は俺の上着の背中を握りしめていて、それだけで十分彼の心情は推し量れた。
俺は彼の首筋と唇へやさしいキスを浴びせた。彼の息をからめとるように、何度も何度も角度を変えて……
彼に俺の中身をさらけ出すためだった。
「俺はおっさんの死ぬ前のことはよく知らない。だけど、俺がここへ来ておっさんを口説いてるのは神に導かれたからとかじゃない。俺が俺の意思でここまで来たんだ」
俺は自分にも言い聞かせるようにそう断言した。彼の潤んだ瞳は小刻みに揺れて彷徨った。
「……もう何が本当で何がうそかわからない……都合のいい夢を見てると言われても何も言い返せない……けど、信じたい方を信じてもいいのかな……僕は君の言う方を信じたい……」
彼のかすれて涙の混じった声にはどこか扇情的な響きがあって、胸が高鳴った。
「あぁ。当たり前だ。俺が正しい」
俺はそんな動揺はおくびにも出さず、彼の目を覗きこんで微笑む。
彼は少し驚いた顔をしていた。それから涙で濡れたところをこすったので、目元が紅くなっていた。
「……ありがとう……ふふ、ははは。そこまできっぱり言ってくれるとは思わなかった。ふふふ……君って絶対女性にモテるでしょう?」
彼は俺を茶化して言った。ころころ変わる表情と変わり身の早さが見ていて楽しくなった。それに彼は天然で気まぐれなだけでなく、ツボもおかしいようだ。
「正直俺はあんまり運動ができないからモテないな」
記憶の中を探ってみても、モテると言えるほどモテたことはなかったので正直にそう言うと、
「ふふふ。そうかー、みんな見る目ないな」
彼は口元をにやにやさせて言った。何か嬉しそうだ。
「そういうおっさんは?」
「……ぐ、愚問だね。もう何人にそれとなく言い寄られたかわからないよ」
若干の沈黙があったのと、目が明後日の方向を向いていたのが全てを物語っていた。俺はじとっとした目つきで彼を見たあと、こう言った。
「へー。まあおっさんかわいいからな、そういうこともあるか」
「……え?いや、違うよ。絶対とんでもない誤解してるね、君!誤解だよ!言い寄られたの男ではないからね!」
彼の必死に訂正する様がおかしかった。これは一本取ったなと思った。
「はいはい、わかったわかった」
面倒くさくなったので、彼の唇をふさいだ。不意打ちに彼はびっくりしたようだ。
理性の歯止めがきかなくなりつつあった。のどの奥が熱くひりつくみたいだった。
「僕のこと、蒼大って呼んでよ」
唐突に彼はそんなことを言った。
「あぁ。蒼甫ってペンネームだったんだな」
「うん、そう。本当の名前は蒼大なんだ。君は?」
「彰良」
「君らしいいい名前だね、彰良。まさに名は体を表す」
自分の名前が新鮮な響きをもって鼓膜に響いた。名前を呼ばれることがこんなに嬉しいことだったとは知らなかった。
「ありがとう、蒼大」
彼も嬉しそうに笑った。
二人の間で視線が絡み合って、俺たちはどちらからともなく、口づけを交わした。

彼を水の中にやさしく横たえると、大きな泡が周りにいくつか立った。彼の呼吸の上下がありありとわかって、心臓が脈打った。
「蒼大、好きだ」
抵抗となるものは何一つなかった。
「うん。ありがとう」
彼が「僕も」と言えない理由はわかっていた。かわりに笑みをくれた。どうしよもなく彼が愛おしかった。
ゆっくりとした動作で彼の上にかぶさり、膝を水底につけた。不思議と水はつめたくなかった。
たとえ水の中でも彼の表情はわかったし、体温さえも感じられた。
口づけで、互いの少ない息を分け合った。今までよりも熱く、舌と舌とが絡み合った。目がまわりそうになった。
ゆらゆらと揺れ動く髪のえり足にも口づけを落としたあと、彼の着物のあわせをゆるくして、手をいれた。彼の体温はさっきよりも高かった。
彼の「あっ」と言う声が水中を振動させた。俺の手のひらが彼の鋭敏な部分をかすめたからだった。
彼の青白く透き通った肌をなでた。心の何かが爆ぜた気がした。
「蒼大、蒼大、蒼大……」
水を幾ばか飲んだ。息が激しくなった。
「ふふ」と一瞬彼は笑った。
俺は彼の竿のふくらみに手を置いた。一番かもしれないほど熱くなっていた。彼が少しみじろぎしたのが分かった。
そして、着物の帯をそおっとほどいた。手が少し震えていたのが自分でもわかった。帯はどこかへ流されていった。
彼はこちらを眩しそうに見て、それからゆっくりと瞼を降ろした。
彼の青白い躰はこの世のものとは思えない程美しくて、めまいがした。
まるで「水死体」のようだった。
俺は自分の陽物を彼のそこへもっていった。先を少し入れただけで、彼の体は大きく波打った。艶やかな啼き声とともに、口からゴボッと水泡が昇った。
「背中、平気?」
川底が彼の体を削ってしまうのではないかと不安になって、そう尋ねた。
「平気だよ」
彼はそうのんきに答えた。
どこが平気なんだ、と思った。俺は彼の奇麗な躰に傷ひとつつけたくなかったので、彼の返答を度外視した。
俺は川底すれすれにあった彼の背中に腕を回して、ぐいっと抱きかかえた。
おのずと俺の陽物が彼の奥へ這入っていった。
「うわっ」みたいな声を漏らして彼は体を大きく仰け反らせた。俺の腕は彼を離さないようにしっかりと抱え込んでいた。
彼の頰は紅潮していて、涙が水中へ伝っていくようにも見えた。
ふいに彼はにっこりと口角をあげた。
「ふふ。びっくりした……けど気持ちいい」
心臓がもたなかった。拍動が急激に速くなっていくと、腰が勝手に動いた。
「あっ……ふっ……うっ……ああっ」
彼の中はますます熱くなった。
二人とも息づかいが荒くなって、互いの唇を激しく喰んだ。
互いにもつれ合い、水中に搔き消えることのない声で体を震わせた。

俺たちはやっと水面から顔を出した。顔を突き合わせて、しばらく互いの体温を離さないようにしていた。
初めて会ったときの比じゃないくらいビシャビシャに濡れて、服が重かった。しかし体の中には何かあたたかいものが流れていて、寒くはなかった。
彼が、おもむろに口を開いた。
「……こういうことを言うのは生きてた時の僕に申し訳ないけど、ここで死んでなかったら彰良とは絶対巡り会えなかっただろうね」
「なんだそれは。まったく、頭の中お花畑な考えだな」
俺がそう答えると、彼は少しムッとしたような顔で
「ここにあまりにも永く居すぎたんだ」
と呟くように言った。
彼の澄んだ瞳のわけがわかった。
彼はここでの時間が長すぎたのだ。生きていた時間よりも圧倒的に。
スっと俺は息を吐いて、彼の眼を見据えた。
「でもやっぱり俺は生きてる蒼大に会いたい。だから……もし生まれ変わったら必ずまたここで会おう。はは。月並みな約束だな」
「彰良こそ頭の中お花畑だよ」
彼はやれやれといった調子でそう指摘した。俺たちは似た者同士だなと思った。
だけど本当に叶いそうな気がした。彼曰く「この川は僕にとって都合のいい世界」らしいのだから。
月明かりが俺たちを照らしていた。

わはは
グッジョブ
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